中等学校 - みる会図書館


検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
265件見つかりました。

1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

画、体操、英語など、特殊な科目を担当する専科教員になる。教員の世界は教育資格としての学歴 だけでなく、職業資格の世界でもあった。 その試験でためされるのは、基本的には国語、数学、歴史、博物といった「普通」教科の学力であ る。つまり、正規の学校に行かなくても、たとえば小学校で無資格の教員として、子どもたちを教え ながら、参考書などで勉強していれば、比較的たやすく身につけることができる学力である。学歴の ない教員たちにとって、学校はいってみれば、給料をもらいながら受験準備のできる場所であった。 無資格の代用教員はいうまでもなく、准教員の場合にも給料は安い。しかし安い給料と低い資格 に甘んじることなく、頑張って正教員の資格をとれば、師範学校出と少なくとも資格の上で、同じ になれる。正規の中等学校に行くことのできない若者たちにとって、教員の資格制度は、ささやか ではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希望を与え、夢をみさせてくれるものだったのである。 夢は、さらに大きく拡げることもできた。ひとつは、中等学校教員への夢である。この時期は、 小学校だけでなく中等学校の教員もつねに不足していた。中等学校教員の正規の供給源は、高等師 範学校や帝国大学、それに官立専門学校だが、その卒業生だけではとても足りない。野間清治が入 学した臨時教員養成所は、そうした不足を補うために設置されたものだが、それでも足りない教員 数を補っていたのは、小学校と同様に、ひとつは資格試験であり、もうひとつは無資格教員の任用 であった。 表は、明治三八年当時の中学校と高等女学校教員の資格別の構成である。これをみると無資格 会教員が中学校で三七 % 、高女では四一 % をしめ、また有資格でも、試験検定によるものが、それぞ 員 、高女で三九 二一 % となっており、「学歴」をもった教員は、わずかに、中学校で三三 % 教 % にすぎなかったことがわかる。逆にいえばそれだけ、学歴をもたなくても中等教員になる道が大 177

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

表 9 の数字はさらに、中学校卒業者の比率が、いかに小さかったかを教えている。明治三三年の 壮丁で〇・四 % 、明治四三年で二・三 % という数字は、現在の四〇 % 近い大学卒業者の比率とはく らべものにならず、強いていえば、現在の大学院卒に近い数字ということになるだろう。もちろん、 中等学校は中学校だけだったわけではない。実業学校もあれば、師範学校もあった。「中学校卒業 と同等の学力をもつ者」として分類されたもののなかに、それら中学校以外の学校の卒業者がふく まれているとして、この両者を加えても、その比率は明治三三年一・三 % 、明治四三年四・六 % に すぎない。中等教育と初等教育の間には、 連続的な関係はなく、高等小学校と中等学校の間には、 容易にとびこえることのできない、大きな断層が存在したといってよいだろう。 その中学校は、高等小学校と制度上、 ワ 3 ワ」 11 ワ」 8 -8 ワ 3 っ 0 -0 成第二学年の終りで接続することになっ -0 ・ -0- -0- -0- ワ 3 ワ 3 -0- 1 亠 1 亠一 4 -0 一・ー 月っ 0 日 -4 ・ 成 ていた。明治一九年、森有礼文相によ 1 、 1 亠 1 亠 -0- 1 亠・ 4 ・ -0 一「 / 0 -0 ト小 購冶年 -0- -0- 1 亠ワ 3 -4 ・ -8 -0- 一 8 -4- -0- -0 ) 別月 -8 1 1 0 付「て、新しい中学校制度が発足した時 歴 の ・ 4 LO LO 戸 0 尸 0 -8 0 ・ 学 には、その接続関係は、「年齢満十二歳 ムロ -0 一 -0 -4 0- LO 1 亠 -0- 、王 月 ワ」ワ〕 -0 ) 日っ 0 以上」という形で示されていたが、明 歳 卒カ卒カ卒カ卒カ卒カカし 整治二七年にはこれにさらに「高等小学 満 能な 学校学 学 学 校第二年ノ課程ヲ卒リタル者若クハ之 丁 况 等等校等等等書 概ニ均シキ学力ヲ有スル者」という規定 路子 学同同同小同小同み育 *- 査 士冗医、 岐男 が加えられた。しかしこうした規定に の と学と 育 等常 歴 教 もかかわらず、高等小学校二年修了時 学 上校上上上上干み 表 大同高同中同高同尋同若読 壮に、中学校に入学することは著しく困 ひと 155

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

一アリトリー 複雑で階層的といえば、中等教員の世界もそうだった。 中等教員の中核的な養成機関は、高等師範学校である。帝国大学の、とくに文・理の二分科大学 もかなりの数の卒業者を中等教育界に送っている。しかしこれだけでは中学校、高等女学校、師範 学校、それに実業学校まで、多数の中等学校の教員需要をみたすことは不可能である。医師の場合 と同様、ここでも資格試験制度を重要な供給源として活用せざるをえなかった。試験制度に依存す れば、そのための準備教育機関として、私立学校が出現し発展をとげる。医学教育と違って、施設 設備にあまり金がかからないから、やがてそのなかから正規の高等教育機関と認めるに足る水準の ものも出てくる。文部省がこうした水準の高い私学を選んで、卒業者に無試験で教員免許を与えは じめたことは、すでにみた通りである。 こうして、中等学校の教員も、その出身や資格の点で、医師の場合と同様にきわめて複雑な構成 をもつよ、つになった。 表四は、それを中学校についてみたものである ( 明治三八年現在 ) 。表のなかで 「無試験検定」とあるのは、卒業証書 ( 学歴 ) をもっていれば、あらためて資格試験なしで教員免許が認 められる、文部省の指定 ( 官立 ) ないし認定 ( 公私立 ) の学校の卒業者である。「試験検定」はそれ以 0 学閥の形成 244

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

はいえ、そこ ~ の道を保証するものではなか「た。農家にくらべて、より高度の読み書き能力が必 要とされたはずの商家ですら、大多数の親が、教育は高等小学校までで十分だと、考えていた。戦 前期の東京商科大学 ( 現・一橋大学 ) を代表する教授の一人であ「た三浦新七は、山形の富裕な商家 の息子であ「たが、「よその家の飯を食わなければ、一人前のあきうどにはなれない」という当時の 山形の商家のしきたりに従「て、尋常小学校卒業と同時に、取引先である日本橋の呉服問屋に丁稚 奉公に出された。たまたまその問屋の妻女がお茶の水女学校の卒業生で、三浦の「秀抜な頭脳に気 、と、三浦の父を説得してくれ づき、商人として一生を終えるより、学問の道に進」ませた方がいし たおかげで、山形に戻り、高等小学校から中学校 ~ と、進学することができたのであ「た ( 8 ) 。 商人の世界でも、また職人の世界でも、中等学校を卒業して一七、八歳になれば「中年者」とよ ばれ、徒弟としても丁稚としてもとうが立ち、一人前には育たないと考えられていた時代である。 高等小 家業を継ぎ、あるいは商人や職人になろうというのなら、修業は早くから始めた方がいし 学校卒業というのは、そのぎりぎりの上限とでもいうべき年齢だ「たのである。 しかし同時に、先の卒業生の動向調査は、「庶業」以外の人たちの間にも次第に、家業を継がせる 子どもにも、さらに一段上級の学校教育の機会を与えてやろうという気漣が生まれはじめていたこ とを、教えている。中学校とほぼ肩をならべるほどの商業学校 ~ の進学者数や、「各種学校」 ~ の多 この数字は、先にみたように明治二四年という、中等以 数の進学者は、そのあらわれとみてよい 上の学校が未発達であ「た時期のものであり、それに当時の兵庫県にはまだ、農業学校や工業学校 路 岐 がなか。た。中等学校 ~ の進学者数は、このあと急速に増加していくのだが、その増加の主力とな の 歴「たのは、もはや「庶業」ではなく、農業や商業の上層をしめる、富裕な階層の人たちであ「た。 153

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

の尋常中学校の役割とされたことは、その後のわが国の中・高等教育の発展に、大きな影響を及ば すことになる。第一 こうしてできた尋常中学校は、中産階級の子弟のための完結的な「教養」 教育の機関とするには、年限の点でも内容の点でも中途半端であり、改革論議がくり返される大き な原因となった。第二に この尋常中学校の問題は、高等中学校についても無縁ではなかった。な ぜなら、理想の中等学校のモデルが、リセやギムナジウムにある以上、両者を総合してその理想に 近い中等学校をつくろうという動きが、くり返し出てくるのは、さけがたいことだったからである。 第三に こうした中途半端な中等教育のあり方は、私学の発展を促す役割をはたした。尋常中学校 の教育にあきたらない若者たちは、「上京遊学」して私立の専門学校に学ぶ道を選んオ わが国の中等教育にとって、さらに不幸だったのは、近代化をおくれて開始した日本には、ヨー ロツ。ハ諸国のように中産階級が、目に見える社会的な実体として存在しておらず、したがって、中 等教育は、中産階級の存在を前提とするのでなく、逆に、存在しない中産階級を創出する役割をは たさなければならなかったことである。このことに早くから気がついていた福沢論吉は、「ミツ。 ルカラッス」の形成を、教育の、より具体的には慶応義塾の教育の、最重要な課題としたが ( 3 ) 、官 側の教育関係者の間には、そうした視点が欠落していた。 中産階級の子どもたちは、一定年限の中等レベルの教育をうけたことで中産階級の一員になるの ではない。かれらが階級として、社会的に他と区別される、目に見える実体をもっためには、かれ らをたがいに結びつける、共通の文化、共通の教養がなければならない。中等教育の改革論議には、 そうした教育の内容にかかわる論議が、不思議なほど欠けおちていた。 100

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

12 4 学歴の岐路 学校教育の階梯和辻哲郎と山川均進学か就職か中等 学校への道出身階層の違い 中等教育 明治一一五年前後中学校ブ 1 ム不振の実業教育家業の ための教育苦悩する農業学校 教員社会 敗者復活の場立身出世の階梯教師の試験病本道と間 道教員社会からの脱出 4 8 官尊民卑 石橋湛山の回想浪人・落第・中退高等学校をめざして 資格か教養か学士さまたち 146

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

しさを感じたので、昂奮、緊張、歓喜、勇躍、一七歳の少年は洋々たる前途の希望に燃えた」 ( 4 ) と書 いている。そのかれらは、私学になにを求めたのだろうか。 希望に燃えて上京してくる若者たちが第一にめざしたのは、堺もそうであったように、私学では なく、官学であった。明治一九年に高等中学校の制度がつくられて、地方にも官立学校がおかれる ようになった。しかし、依然として、帝国大学をはじめとする官立学校のほとんどは東京に集中し ている。東京は、官立学校をめざす若者たちにとっての「聖地」であ「た。しかしそれだけではな 。上京遊学者のためのガイドブックとして、広く読まれた『東京遊学案内』をみると、東京所在 の私学のなかで「中等受験科学校」とよばれる学校が、大きな比重をしめていたことがわかる。官 学をめざして上京してくる若者たちの多くがまず入学したのは、これらの「予備校」であ「た。 この頃、各地に中等教育の機関がなかったわけではない。ただ、そこでの教育の水準は必ずしも 高くなかった。官立学校の入学試験の科目として、も「とも重視されたのは、英語と数学である。 この二科目の学力をつけるには、地方にいたのではだめだ、なんとしても上京して「中等受験科学 校」に入学しなくては、というのが向学心に燃えた若者たちの考えであった。それがけっしてかれ らの思い込みだけではなかったことは、明治二一年の『文部省年報』の高等中学校と地方の中学校 との関係についての記述からもわかる。 「現今ノ〔中学校〔卒業生 ( 其ノ学力未ダ足ラズシテ直ニ〔高等中学校の〕本科ニ入ル能 ( ザルノミ ナラズ其ノ予科ニテモ猶ホ入ルニ椹へザルモノ」が多い。「現ニ地方ノ卒業生ニ就キテ之ヲ観レ。 ( 学其ノ予科ニ入ルヲ得ルモノハ十ノ一二ニ過ギ」ない。その他は「東京府下ノ私立学校ニ入ルモノ多 京 上 向学心が強ければ強いほど、若者たちにとって「地方中学などでぐづぐづして居るのは余り褒め

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

部に位置づけられていた。そのモデルはドイツのギムナジウムや、フランスのリセにあったとみて この時期のヨーロツ。ハ諸国では、中等教育はまさに社会の中等階級・中産階級のためのもの であり、リセやギムナジウムのような中等学校は、中産階級の子弟に共通の教養、共通の文化を与 もオこれら中等学校の卒業資格は、大学への進 える場であった。ヾカロレアやア、ビトウーアと、つこ、 学資格を意味したが、それ以前に、なによりも中産階級の一員であることの「教養」証明だったの である ( 1 ) 。 そのヨーロツ。ハ諸国の中等学校と、わが国の中等学校との違いは、わが国の中等学校である中学 校が、高等中学校と尋常中学校の二つに区分され、しかもそれぞれに別個の役割を期待されて出発 したところにある。森によって定められた「中学校令」には、「中学校ハ実業ニ就カント欲シ又ハ高 等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育ヲ為ス所トス」とあるだけである。しかしすでにみ たように、森によれば尋常中学校が「社会ノ上流ニ至ラズトモ下流ニ立ッモノニ非」ざる、つまり 中産階級の教育の場であるのに対して、高等中学校は「上流ノ人ニシテ官吏ナレ。 ( 高等官、商業者 ナレバ理事者、学者ナレ。 ( 学術専攻者ノ如キ、社会多数ノ思想ヲ左右スルニ足ルベキモノヲ養成ス ル所」でなければならなかった ( 2 ) 。 その高等中学校は、官立に限られ、全国に五校が設立されたが、実質的にはこの学校は帝国大学 になる以前の東京大学に附設されていた大学予備門をひきつぐものであった。つまり高等中学校は、 制度上はともかく、実態としては、中等教育よりは高等教育の一部として発足したのである。その 教ことは、高等中学校のカリキラムをみるとよくわかる。生徒がどの教科を履習するのかは、すべ ッて、予定された帝国大学での専攻領域にあわせて決められていた。 こうして、中産階級のための教育の場であるはずの中等教育が、実質的に年限五年、一七歳まで

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

特別認可学校制度に代表される政府の私学に対する管理・統制策には、そうした私学の教育の質 学生の質 を強制的に向上させようという意図も含まれていた。そこで政府がとくに重視したのは、 、、。ゝこ、。しかし非常勤とはいえ、講師のほとんどは帝 である。たしかに施設設備の貧弱さはおおもカオも 国大学やその前身校の出身者であり、専門教育の水準自体はけ「して低くはない。政府は、中学校 卒業者、あるいは試験によ「てこれと同等の学力をも「たものだけを入学させる課程の卒業者に限 って、国家試験や徴兵制上の特典を認めるという形で、学生の、ひいては専門教育機関としての質 の引き上げをはかった。 そうした私学のなかで、質の充実・向上という点で先頭を走っていたのは、慶応義塾と早稲田 ( 東京専門学校 ) の二校の私学である。この二校は早くから、東京大学・帝国大学に強い対抗意識を もち、「大学」の設置を計画し、同等の地位を獲得しようと努力をはじめた点でも、私学のなかでき わ立った存在であった。 まず「大学」の設立をめざしたのは慶応義塾である。創設者の福沢諭吉は、明治二〇年の頃から、 それまで中等レベルの普通教育機関であ「た慶応義塾を「金さへあれば、ユニヴ ( シチに致度」と 考えていたようだが、明治二二年になると実現をめざして、募金活動を開始した。趣意書によれば 「義塾の地位は一個の私立普通中学校として視る者なく、世人の意中これを大学校視する者」が少な くない。そこで「今般外国より有名の教師両三名を聘し、文学、法学、商学の三科を設けて大学校 の地位を定め」ることにしたのだという ( 7 ) 。慶応義塾の「大学部」はこうして、明治二三年、正規 の学校系統でいえば尋常中学校と高等中学校にあたる、同校「普通部」の卒業生を入学させて専門 教育を開始した。この「大学部」について重要なのは、それが卒業生に「慶応義塾学士」の称号を 与えた点である。 212

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

月仏国ニ遊学シ在留二年六月ニシテ帰朝、総テ学ブコト十年」 ( 1 ) と書かれている。学歴はまさに 「学問、教育ニ就キテノ履歴」 ( 『言海』 ) に他ならなかったのである。 明治になり、欧米諸国にならって近代的な学校の組織がつくられると、はじめて「卒業」と「卒 業証書」という考え方が出てくる。東京大学の前身のひとつ、大学南校の明治三年の規則をみると 「普通科専門科卒業之者ニハ左ノ証書ヲ可与事」として、卒業証書の書式が示されているし、明治五 年に施行された「学制」でも、翌年、わざわざ追加して「大中小学等ノ学科卒業試験状左ノ如シ」 と、書式が明示されている。しかし卒業者に、一定の称号を与えようという考え方は、すぐには出 てこなかった。 明治八年、大学南校は東京開成学校になっていたが、その規則は「第五章学士称号及卒業証書」 セルチヒケート として、こう定めているーー「第一条予科卒業ノ者ハ学校長之ニ其証書ヲ附与スペシ。第二条 本科卒業ノ者アリ其由ヲ文部卿ニ開申セバ文部卿試験官ヲ派遣シ之ヲ試験セシメ其学力ニ応ジ相当 ジプロマ ノ学位称号ヲ載スル印票ヲ与フ」 ( 2 ) 。学士の称号の初出である。しかもそれはあらためて学力を試 験した上で、文部卿つまり文部大臣から与えられる「学位」であった。しかしこの規則によって学 士号を授けられたものはいない。東京開成学校が明治一〇年、東京大学になってしまうからである。 そしてその東京大学の学則は、「学位」の項を設け「一学科を卒業シタル者ニハ法学部ニ於テハ法学 士 : : : ノ学位ヲ授与ス」と定め、明治一二年に最初の学位授与式が行われた。 東京大学の学則によると、学生は卒業すれば自動的に学士の学位を与えられることになっていた。 しかしこれ には、つよい異論があった。「優等で卒業した者と、辛うじて卒業した者との間に何等区 別がっかないことになり、学位の名誉を尊重することの実が上がらないではないか」というのであ る ( 3 ) 。同じ年第一回の卒業生を出したエ部大学校 ( のちに東京大学に統合 ) では、「卒業証書 ( 三種 196