子弟 - みる会図書館


検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
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1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

「農業ノ技師」の養成を目的にしていた初期の農学校とは違って、中小の地主や上層の自作農の子弟 にはばの広い教養と、農業者としての自覚を与えることを目的とする学校へと、大きく変化したの である。「当初一般的に専門科目と普通科目の割合が七対三くらいであったものが、一九〇〇年代 には逆転して二・五対七・五くらいの比率で、普通科目が圧倒的に多くな「た」 ( 8 ) ことは、そうし た性格の変化を端的に示すものといえるだろう。 同じような変化は、工業学校の場合にも指摘されている。のちに東京府立織染学校になる八王子 織染学校は、もともと八王子の織物仲買商の組合によって、織物染色講習所として設立されたもの だが、明治二八年に徒弟学校となり、三四年に組織がえした。その際の説明書には、こう書かれて この学校の目的は「当業者の子弟を学校に収容し、徳義の養成と共に、各自業務に直接関係する 学理技術を修養せし」めることにあり、明治二〇年以来、この目的にそって「生徒の教育に勉め」 てきた。しかし、何分にも「短期低度にして全般社会の進運に伴ふべき智能に富まず、況んや多数 の職工を使役する一戸の実業者としては欠くる所」が多い。ところが「当地工業も漸次家族的より 工場的に移り、手工を省き機械力を藉るの必要を認むるもの多く、其子弟を学校に入るるも、卑近 なる徒弟教育を以て甘せざるもの」がだんだん増えてきた。「故に中産以上の実業者は、自家業務の みだり 如何に係はらず、資カ余裕の程度を察せず、誤りて妄に其子弟を中学校に入学せしめ、不知不識の 間に不生産者流に陥り、後ち悔ゆる」ものが少なくない。そこで「今回校則を改正し、可成是等実 業家子弟を収容し、普通中等教育を補」ない、「実業家の主人たるに適すべき教育をなす」ことにし たのだ、と ( 9 ) 。 明治二〇年代にはまだ、実業学校は技術者・専門家の育成のための純然たる職業教育の場であり、 なるべく 166

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

人格教育への要求 ここには、「学歴」を与えあるいは手に入れることとは、したが「て立身出世とも、ま「たくかか わりのない教育の世界があ「たことがわかる。福沢の慶応義塾は維新前後に、東京に多数つくられ た「洋学塾」のなかで、唯一近代学校 ~ と発展をとげ、ついには大学にまでな「た私塾である。私 塾は基本的にひとりの師と、かれを慕「て集ま「てくる弟子から組織される。教師のも「ているカ リスマが大きいほど、弟子も多くなるが、その師弟関係の基礎にあるのは、師の人格による人間的 な陶冶である。福沢はまさに、そうしたカリスマをも「た教師であった。 その慶応義塾も、明治五年にはまだ士族が在学者の八八 % をしめるという「士族学校」であ「た。 しかも半数近くは「旧藩時代から引き続いた府県の公費生であ「た」 ( 四 ) という。このため、廃藩置 県や秩禄処分の影響をまともにうけて、明治一〇年前後には生徒数が激減し、義塾の経営は危機に 瀕することにな「た。明治一一年には福沢は、士族の貧書生救済を理由に、政府に対して「義塾維 持の資本金」の借入まで申し入れている⑩。これは結局実現せず、自力で苦境をのり切「ていくこ とになるのだが、それを可能にしたのは、富裕な平民層の教育要求の高まりであ「た。「本年入学生 の様子を見るに、何れも地方の富豪多し。此様子にて今後を察するに、例 ~ ば昔堅気の鴻の池善右 衛門の流まで子弟の教育に意を用る事に可相成哉に存候」と、明治一四年、福沢はある門下生に書 き送「ている ( 引 ) 。地方名望家層の教育 ~ の要求は、明治一〇年代の半ばにな「て、ようやく、この 学歴賦与よりも「人格教育」を重視する学校に向けられはじめたのである。 この時期の慶応義塾は、現代風にいえば「各種学校」であ「た。文部省の定める教育法規のどこ よい意味での「塾風」を十二分に残した、自由な学校である。福沢のいう「実学」 にも入らない、 とうや

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

いた士族の子弟よりも「平民」の子弟にむけて説いたとみてよい。「農工商の三民は其身分以前に百 倍し、やがて士族と肩を並るの勢に至」「たのだから、大いに新しい学問にはげむべきだと、福沢 は強調している ( 3 ) 。 だが平民の教育要求は、すぐには高まらなか「た。先にみたように、明治一〇年代になるまで、 慶応義塾の在学者の圧倒的に多くは士族であり、「一般に農商の人口に比例するときは、高尚の学に 就く者甚だ家々」というのが実態であ「た。福沢は、平民の子弟に「学問のすすめ」を説く一方で、 「祖先遺伝の能力」において「大に他の三民に異なる」士族に「一般子弟教育の扶助」を与え、実学 を学ばせることによ「て、新しい時代の実業人養成をはかろうとしたのである ( 4 ) 。 ところがそれから五年ほどた「た明治二〇年、福沢は、ま 0 たく異なる主張をするようになる。 「維新後十数年の間は教育の区域を士族に限り、他の平民は兎角学問を好まずして不慣れなる洋学 あた などに至りては殆んど之を嫌忌する程の事情にて、恰かも士族の子弟をして高尚の教育を専らにせ しむるの勢ひ」であ「たが、「時勢の変遷進歩に随ひ近来は大に平民の眼を開き、農工商の社会に て苟も資産ある者は其子弟の教育に心を用ひざるはな」いという状況にな。た。かっては「何れの 学校生徒にしても士族の中僅に平民の子を交 ~ たるものが、今は之に反して平民中に士族を交るの 割合」にな「ている。こうして「教育の区域既に平民に達」したいまでは「学費の出処も甚だ容易 にして復た心配するに足」りない ( 5 ) 。福沢はそう指摘して、「元来学問教育も一種の商売品にして、 其品格に上下の等差ある可きは誠に当然」のことである、「家産豊にして父母の志篤き者が子の為め に等の教育を買ひ、資カ少しく足らざる者は中等を買ひ、中等より下等」というように、資力に 育よ「て受ける教育の水準に違いを生ずるのは、やむをえないことだと、主張したのである ( 6 ) 。 福沢のこうした主張は、明治二〇年前後、森有礼が文相としてと「た政策の根底にあ「た考え方

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

なまじ学問をしたために、家業に身を入れず、さらには家産を傾ける例は、少なくなかったからで ある。考古学者として知られる鳥居竜蔵は、そうしたケ 1 スのひとりである。 鳥居は明治三年、徳島の「旦那衆」とよばれた煙草の大問屋の長男に生まれた。生まれた頃、家 は傾きかけていたというが、「何不自由なく思うまま気ままにくらしていた」 ( 。明冶九年に小学 校に入学するが、学校ぎらいで、入学当初は逃げ帰ってばかりいて、親を手こずらせたという。面 白いのはかれの教育観である。 「私の通っていた寺町小学校は平民の子弟のみで、殊に町人の子弟であるから、大概家は裕福であ った。士族の子弟は、その家の多くは家禄を失い困難していて、学校を卒業するや師範学校、士官 学校、海軍兵学校を志願するか、或は官庁に奉職するのが目的であった。私は町家に生れ、生活は 余り困難でなく、学校を卒業して以上の如き方向を取る必要もなく、学校は単に立身生活の保証の ための所と考えたから、学校が一層いやになったのである。或る教師は私に学校卒業証を所持しな いものは、生活は出来ないといわれたから、私はこれに反対し、むしろ家庭にあって静かに勉強し て自己を研磨して学問をする方が勝っていると自個説を主張した。 ( 私は学問のために学問し、生 活のために学問せず的意見である。 ) それから独習することに決した」ⅱ ) ここにみられるのは、見事なばかりに「反学歴主義」的な教育観である。教師はこれからの世の 中「学校卒業証」っまり学歴がなくては、生活できないぞ、と教えたが、鳥居は、学歴は没落士族 の子弟には必要でも、家産に恵まれた自分には必要ないと考えた。立身出世の必要はないのだから、 学問は学問のためにする。中村正直の『西国立志編』を「孔孟の書よりも一層愛読した」が、そこ から学んだのは「、ゝ し力に英国人が自ら助け、成功をなしたか、アングロサクソンのいかに偉大であ るか」であって、学歴を取得して立身出世をする道ではなかった。

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

的な地位の高さの象徴になりうるとは考えていなかったのである。それは軍人社会における地位に 軍隊もまた、没落階級である士族の子弟が「身を ついても同様である。学校がそうであるように、 立る」ために利用するところであり、予備役将校という身分を、わが身の社会的地位をあらわすも のとして、重視するには至っていなかった。上等社会Ⅱ学識層Ⅱ予備役将校という対応の図式は、 わが国には成立していなかったし、またさまざまな努力にもかかわらず、ついに成立することなし に終わったといってよいだろう。 わが国でもっとも鮮明に、階級的自覚にたって設立された学校といえば、それは学習院である。 学習院はいうまでもなく華族の子弟のための学校である。明治一〇年の開校にあたって、岩倉具視 は「華族タルハ抑何ニ因ルャ。世人ノ華族ヲ評スル果シテ如何ゾャ。富且貴シテ智徳ナキ者、能 ク永ク安全ナルヲ得ベキヤ」と問いかけ、男子なら六歳から二〇歳まで、女子では一四歳までの全 員の就学の必要を説いている。そこでの教育の目的はなによりも「華族ノ子弟ヲ勧奨シ、海陸軍 士官タルノ予備ヲ為サシメ」ることにあり、「兵事ニ志望ナキ、或ハ身体虚弱武事ニ堪へザル生徒」 については、「他日廟堂ニ立テ政治ヲ執」る必要にそなえて、「政治・法律・行政・理財・弁舌ノ学 ヲ授」ける「高等科ニ進入」させるものとされていた ( 2 ここには、高度の教育が貴族としての身分の象徴であること、また貴族たるものが負うべき社会 。ゝ、はっきりうたわれている。しかし、 ジ = ) が、政治と軍事にあることカ 的義務 ( ノブレス・オブリ ロ こうした教育の目的をあらためてうたわなければならなかったことは、それがそれだけ、ヨ 用 ト社会からの借り物であったことを物語っている。学習院が、その目的にそった役割を ハのエリー の 歴はたしえなかっただけではない。すでにみたように、対象となる社会層をさらに拡げて、「上等社 会」の子弟に。 ( ンとかかわりのない学問を与える学校は、わが国の社会にはついに根をおろしえな そもそも

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

別として、他の官立学校の官費生たちは、卒業後一定の期間、それぞれの官庁に勤務するという「奉 職義務」をおわされていた。高級な「企業内訓練施設」といえば、近いイメージになるだろうか。 官立学校が、士族のための教育授産の機関として機能したのは、それがもっていたこうした性格の ためである。 たとえば、明治一一年当時の東京大学 ( 法理文三学部 ) では、在学者一五七人の九割までが「給費 いえど 生」であり、しかも在学者の四分の三が士族の子弟でしめられていた。「平民ト雖モ猶大半ハ素ト士 族ョリ転族セシ者」だったという。同大学の『年報』によれば、それは「富豪ナル平民ノ子弟ノ未 ダ専門学科ヲ攻究セントスル志気充分ナラザル」ためであった。生徒の大多数が「富裕ナラザル士 族ノ子弟」なのだから、当分「給費ノ制」をやめることはできない。給費制度は「今日ニ在テハ実 ニ高等教育ヲ進ムルノ一要具タルヲ知」るべきであると、『年報』はのべている ( 1 ) 。 近代化の担い手となる、西欧の新知識を身につけた専門官僚を早急に養成するには、新しくつく られた近代学校制度を、小学校から順を踏んで通りぬけたものが現れるのを待っているわけにはい ( カ十 / も ともかく能力のあるものを選び出して、拙速であれ教育を始める他はない。その教育の対 象はどこに求めたらいいのか。漢学ではあるが、系統的な教育をうけ、学問をすることをごく自然 のことと受けとめている士族の子弟が、その供給源とされたのは、当然のことといってよいだろう。 新政府は明治三年、官立学校の中心的な存在であった東京大学の前身、大学南校に、英才を選んで 「貢進」することを各藩に命じ、近代化のための人材養成にのり出した。教育はもちろん官費であ る。しかし一年後の廃藩置県は、この「貢進生」制度を一変させた。貢進生の一人で、のちに教育 こま、こ、つ圭冖かれている。 家として知られることになる杉浦重剛の伝記 「明治四年、廃藩置県と共に、貢進生の制度も止まって、〔杉浦〔先生の学資が絶えた。先生は :

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

沢門下の新聞人が、大阪の大商人たちを説いて大阪商法講習所の設立にこぎつける。現在の大阪市 立大学の前身である。しかしこの学校も明治一〇年代を通じて不振を続けた。入学者が少ないだけ でなく、入学してもすぐに中退してしまうのである。同校の沿革史には、次のように書かれている。 「入学するものの数に比して成業するものが殆どなか「た。これはこの頃の社会の一般風潮にも一 半の責はある。商売人に学問などは必要でない、読書き算盤が出来、簿記帳をつけることが出来れ ば結構、それにはこの学校の三級までも行けば充分で、それ以上は却「て理屈ばかり覚えて生意気 になり、実際の役に立たぬなどといふ偏見から、少しく学校に学んで当座の仕事に差仕へなくなれ ば直に学業を廃するといふ風の心得違ひに基くこともあるが、それよりも当時この学校に身を置い た当地の良家の子弟中に学問を修業する心掛けが出来てゐぬものが多か「た。実際この頃大阪の上 流階級の子弟が随分本校に籍を置いたのであ「たが、それ等の人が殆ど成業をしなか「たのであ る」 ( 5 ) 大阪以外のところからや「てきた、おそらくは商人ではない家庭出身の学生たちが、そうした大 阪商人の子弟を批判的な目でみていたことは、明治二〇年代初めの卒業生の回顧談からもわかる。 「〔明治一八年に〕入学してみると、大阪の地の人は前垂かけて出てゐる。前垂れもかけず着流しで たま ゐるものもある。我々のやうな兵児帯の者は除外される。何となればさういふ生徒は少い。偶にそ の仲間に入ると、その中にはゆふべ何処かで酒を飲んでどうかした、女がどうのかうのといってゐ る人もある。それから食事の如きも弁当屋から取り寄せる。我々は本当に学問して行かうと思った のですが、その人々は家で遊んでゐても何だから来たのでせう。どうもさういふ金持の息子さんは 長持ちせぬと見えて中途退学が多かったです」 ( 6 ) 明治八年、東京につくられた商法講習所の方も、同じようなものだ「たらしい。明治一〇年代に

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

学歴を手に入れるには、カネがなによりも重要な条件になったのである。 福沢は、森よりもさらに直截に、そのことをいってのけた。「教育も銭なり衣裳も銭なり、貧子女 に綺羅を着用せしむるの難きを知らば、之に授くるに高き教育を以てするも亦無理ならずや」 ( 。 「貧家の子弟をして高尚なる学識を得せしむるは : : : 其教育の成りたる上にて本人の心を苦しめ、 又随って天下の禍源を醸する掛念なきに非ず。凡そ人間社会の不都合は人の智力と其財産と相互に 平均を失ふより甚だしきはな」い。そこで「教育の段階は正しく貧富の差等を違へず、幸ひに学 問の熱を催したる富人をして其欲する所に任し、銭を投じて高尚なる教育を買はしむるは策の得た るものなる可し」 ( リとまで、福沢は言っている。 このように、「階級的」教育観にたって、高等教育の機会を社会の「富裕層」に限定的に与えよう とした点で、森と福沢は共通している。しかし在野の、しかも私学経営者でもある福沢と、文教政 策の最高責任者として「国家ノ須要ニ応」ずる公教育システムの建設をめざした森との間には、と くに高等教育機関において、なにを教育内容として教授すべきかについて、決定的な考え方の違い があったことを見落としてはならない。 このこととかかわって、福沢が試みている学問の三つのタイプ分けが興味深い。福沢によれば、 学には三つの道がある。第一は、「学問を学び得て之を生涯の本職と為」す道で、この道をとるも のを「学者」という。第二は「専門の一科学を学び得て直に之れを人事に施し、以て自他を利する 者」で、これを「学術の事業家」とよぶ。この二種類の人たちは「学問を其まま利用して身を立て 家を興すもの」だから、つまりは「無き財産を作るの方便として学問を学び学問を用ひる者」であ 育る ( ) 。 教 これに対して、すでに一定の資産をもち、それを「維持し又随て貨殖する」ことを必要としてい しゅよう

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

しみて感じている教育の値打ちを、情熱的に語「たことだろう。 幕末から明治前期に生まれ育「た「名士」たちをサンプルに「明治時代の上京遊学」を分析した 吉田昇は、「士族出身の教師たちは、広い社会のことを、農民や商家の子弟にも繰り返して説いた。 農民や商家の子弟が上京遊学するようにな「た背後には、これら士族出身の教員の力も大きか「 た」 ( と書いている。たしかに土に縛りつけられた農民にくらべて、参勤交代の時代や幕末の変動 期を経験してきた士族は、意識においてはるかに「スモポリタンだ「たのである。 「縁」の社会 むら それにしても、明治維新を ~ て「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期」 ( 「学制」 の被仰出書 ) して、村々に小学校がつくられたことは、農民の教育 ~ の意識を変える上で大きな役割 をはたした。それは社会にと「ては人材発見の、親にと「てはわが子の、子にと「ては自分自身の 能力発見のためのメカ = ズムであ「た。小学校・中学校・高等 ( 中 ) 学校、大学とつなが「ていく 学校は、ひとつの階層的な構造物である。さらにそれぞれの学校のなかは学年や等級という階層に 分かれている。そのなかで、子どもは試験によ「て学力 ( 能力 ) をはかられ、その高さに応じて、下 学校を出たあとに何が待「ているのかはよくわからないが、学校というも から上へと昇っていく。 のが、努力や勤勉に裏づけられた能力によ「て、どこまでも、上にむけて開かれた仕組みをも「て いることはわかる。 ち 学校のなかには、ムラのそれとはちが「た人間の格づけの仕組みがある。そこではくり返し試験 民が行われ、成績の順位がはり出されたり、席順が決ま「たりする。優等生になれば、ごほうびがも らえるし、他の子どもよりも一足先に上の級や学年に進むこともできる。明治初期の小学校は、と

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

よ 商人は基本的に都市の居住者である。商売をしていく上で、読み書き計算の能力を必要とする度 合いは、農民にくらべてはるかに大きかった。「手習・算盤」は、一人前の商人となるのに欠かせな い技術であり、大きな商家ともなれば丁稚・手代に至るまで、独自に教育するためのプログラムを もっていた。寺子屋には「商売往来」など、商人の子弟むけのテキストも用意されていた ( 3 ) 。新し い学校制度になってからも、商人の子弟の教育程度が、農民にくらべて一段と高か「たことは、た とえば前章でふれた明治二二年の京都府の「壮丁教育程度調査」で、通常の読み書き能力をもつも のが、郡部 ( 農村部 ) では、五 ~ 六 % というところも少なくないのに対して、商家の集まる上・下京 区では二〇 % 前後に達していることからも知られる ( 4 ) 。 しかしその商人たちは、読み書き計算以上の「学問」が必要だとは考えなか「た。裕福な商人の なかには、たんなる商売上の技術としての読み書き計算の能力にとどまらず、「修養」や「教養」と しての教育や学問に価値を見出すものがあ「たことはたしかである。京・大阪の商人たちに支持さ れ発展した、石田梅巌の心学はそのひとつのあらわれだろう。しかしそれはあくまでも、限られた 数の人たちであ「たにすぎない。大方の商人たちは、明治維新のあとも、すぐにはわが子に高い教 育を与えようとも、また教育をうけたものを雇い入れようとも考えなかったのである。 商法講習所 育福沢諭吉はそうした商人たちに、教育の重要性を説き続けた人である。『学問のす、、め』は、商人 人たちに意識の変革を求めた本として読むこともできる。その福沢は明治六年、商人の都・大阪に慶 応義塾の分校をおいたが、不振のためわずか二年で閉校せざるをえなかった。明治一二年には、福