学歴 - みる会図書館


検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
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1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

月仏国ニ遊学シ在留二年六月ニシテ帰朝、総テ学ブコト十年」 ( 1 ) と書かれている。学歴はまさに 「学問、教育ニ就キテノ履歴」 ( 『言海』 ) に他ならなかったのである。 明治になり、欧米諸国にならって近代的な学校の組織がつくられると、はじめて「卒業」と「卒 業証書」という考え方が出てくる。東京大学の前身のひとつ、大学南校の明治三年の規則をみると 「普通科専門科卒業之者ニハ左ノ証書ヲ可与事」として、卒業証書の書式が示されているし、明治五 年に施行された「学制」でも、翌年、わざわざ追加して「大中小学等ノ学科卒業試験状左ノ如シ」 と、書式が明示されている。しかし卒業者に、一定の称号を与えようという考え方は、すぐには出 てこなかった。 明治八年、大学南校は東京開成学校になっていたが、その規則は「第五章学士称号及卒業証書」 セルチヒケート として、こう定めているーー「第一条予科卒業ノ者ハ学校長之ニ其証書ヲ附与スペシ。第二条 本科卒業ノ者アリ其由ヲ文部卿ニ開申セバ文部卿試験官ヲ派遣シ之ヲ試験セシメ其学力ニ応ジ相当 ジプロマ ノ学位称号ヲ載スル印票ヲ与フ」 ( 2 ) 。学士の称号の初出である。しかもそれはあらためて学力を試 験した上で、文部卿つまり文部大臣から与えられる「学位」であった。しかしこの規則によって学 士号を授けられたものはいない。東京開成学校が明治一〇年、東京大学になってしまうからである。 そしてその東京大学の学則は、「学位」の項を設け「一学科を卒業シタル者ニハ法学部ニ於テハ法学 士 : : : ノ学位ヲ授与ス」と定め、明治一二年に最初の学位授与式が行われた。 東京大学の学則によると、学生は卒業すれば自動的に学士の学位を与えられることになっていた。 しかしこれ には、つよい異論があった。「優等で卒業した者と、辛うじて卒業した者との間に何等区 別がっかないことになり、学位の名誉を尊重することの実が上がらないではないか」というのであ る ( 3 ) 。同じ年第一回の卒業生を出したエ部大学校 ( のちに東京大学に統合 ) では、「卒業証書 ( 三種 196

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

16 学歴戦争 いちだん低い価値しかも「ていなか「た。国家の財政的な支援もなく、学生の支払う授業料だけで やっていかなければならなか「た、発足間もない当時の貧弱な私学の教育の実状からすれば、それ は、やむをえないことであ「たとみるべきかも知れない。実際、帝国大学の方は中学校の卒業者を 入れてさらに三年間、高等学校で外国語を中心に「高等普通教育」を与えたあと学生を入学させ、 整備された教育条件のもとで専任の教授たちが、体系的な専門教育をしていた。これに対して、私 立法律学校はといえば、正規の中学校の卒業証書をもっ入学者はほとんどなく、したが「て普通教 、ートタイムの講師た 1 トタイムの学生に、これも。 育の水準の高いとはいえない、しかも多くは。ハ ちが、受験準備的な教育をしているにすぎなかったのである。 しかしそれにしても、帝国大学出の「学士」たちだけが、平等に専門科目の知識や学力を競いあ うことなく、無試験で任用されるというのでは公平とはいえない。しかも受験資格を手に入れるた めには、「帝国大学ノ監督」に服し、中学校の卒業証書をもっているか、あるいはそれと同等の学力 試験に合格したものだけを入学させるコ 1 スを、特別につくらなければならない。たとえば東京専 門学校 ( 早稲田大学 ) のように「学の独立」をうたう私学のなかには、文部省Ⅱ帝国大学の監督下に 入ることを潔しとせず、任用試験にかかわる特権を全面的に拒否しようという動きすらあ「た。だ が結局は、早稲田をふくめて主要私学が、特権にあずかる方向を選んだのは、それなしには、「。 ( ン のための学問」を重視する若者たちをひきつけ、経営の基盤を安定させることができなか「たから である。 こうして否応なしに私学もまた、官公立学校中心につくりあげられた学歴主義的な秩序のなかに、 組み込まれていった。 201

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

らいが、できるだけ早く、学校での教育と職業資格を結びつけることにあ「たことに、変わりはなⅡ 試験による資格認定の場合にも、受験生は「修学履歴書並教師ノ証書」を提出することを要求 されたし、学校が整備されるにつれて、明治一二年には「日本官立大学校並ニ欧米諸国ノ大学校 = 於テ医学卒業証書ヲ得タル者」、さらに明治一五年には「文部卿ノ認可ヲ得」て、一定の「条件ヲ具 へタル医学校ノ卒業生」というように、卒業証書、つまり「学歴」だけで医師資格を与えられるも のの範囲が広げられていった ( 7 ) 。 教師については、明治五年の「学制」によ「て資格制度が定められ、小学校では「師範学校卒業 免状或 ( 中学免状」、中学校は「大学免状」、大学校では「学士ノ称」をも「ていなければ、教師と して「其任ニ当ルコトヲ許サ」 ( 8 ) れないことにな「た。ただ、医師の場合と同様、教員養成のため の学校自体が整備されていないのだから、これは理想をのべただけで空文にひとしい。 ここでも、 それまでの寺子屋の師匠や、没落士族をふくめて、若干でも学問をしたことのある人たちが、全国 につくられた小学校の教師になり、また漢学や洋学の素養のあるものは中学校の教師にな「てい「 た。明治一二年の「教育令」でも「公立小学校教員 ( 師範学校ノ卒業証書ヲ得タルモノ」でなけれ ばならないとしながらもまだ、「但師範学校ノ卒業証書ヲ得ズト雖モ教員ニ相応セル学力ヲ有スル モノハ教員タルモ妨ゲナシ」 ( 9 ) とせざるをえなかった。 このように、医師と教師という二つの職業はともに、公的な資格を要求される「専門的職業」に な「たが、その資格を手に入れる方法ーー学問が「身を立るの財本」となるなり方には、二つの形 があったことになる。第一は試験である。この場合、学問はどこでどのような形でしてきてもよい その職業につくのに必要な能力をそなえていることを証明してみせれば、資格が与えられる。第二 は学歴である。学問を特定の ( 政府が公認した ) 学校で修め、その卒業証書を手に入れれば、試験な

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

被仰出書のこころ これまでみてきたのは、どちらかといえば、教育をうけ学歴を手に入れることの価値を知「てい た人たちの話である。しかし明治三〇年代に入るまで、かれらは少数派であり、「学歴社会の先駆 者」とでもいうべき存在にすぎなか「た。大方の人たちはまだ、教育や学歴の価値を知りもしなけ れば、信じてもいなかったからである。 明治五年、「学制」を発布したさい、政府は「被仰出書」とよばれる、教育宣言とでもいうべき文 書を一緒に発表した。この文書には「学問は身を立るの財本ともいふべきもの」であり、「人たるも の誰か学ばずして可ならんや」という一節がある ( 1 ) 。「学問」とは、この場合、新しくつくられる学 校で系統的に西洋近代の知識や技術を学び、教育をうける、というほどの意味である。その学問を することが一人前の人間になり、さらには立身出世する道だと言われて、ごく普通の人たちが、す ぐさまその気にな「たわけではなか「た。それどころか、子どもを学校にやりたがらない人たちカ 大多数をしめていた。なかには学校の打ちこわしを試みる者すらあ「た。政府は懸命にな「て、就 学を奨励したり督促したりしたが、小学校の実質的な就学率は、明治一〇年代の末にな「ても、よ うやく三〇 % をこえたにすぎなかった ( 2 ) 。 身を立るの財本 110

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

は、すでにおさえがたいものになりつつあった。政府は明治四〇年、東北帝国大学を創設し、札幌 農学校をその農科大学とするという形で、問題の一部の解決をはかったが、東京高商については大 学令の公布ののち、大正九年になってようやく昇格を認めている。 学校間の序列 こうした官立専門諸学校と帝国大学との徴妙な関係については、先の『改訂就学案内』 ( 明治三七 年 ) に興味深い記述がある。 「高等商業学校は諸種の専門学校の地位に在るものだが、これ以上のものがない為めに社会に出で ては大学出身者と競争して居る位に、実業社会に持て囃さるるのである。況んや先年同校に卒業生 を収容する専攻部なるものを設けたる以来、其年限に於ても大学と同じく、其経済などに就いての 学力に於ても、敢へて劣る所なきまでにな「たのだから、将来実業に身を立てんとする者は、法科 大学に入って法学士となるよりは、高等商業学校に入学する方がよいかも知れぬ。馬鹿気た話であ るが、世には学士といふ肩書を欲しがる人もある。学士といふ肩書をくれなければ、そんな学校へ 這入らないなどと云ふ者もあるが、そんな人の為めには、高等商業で専攻部卒業生に、商業学士の 肩書をも呉れる様にしてある」 ここにもあるように、明治三〇年代の帝国大学には商業教育の課程はなく、東京高商はいわばこ の領域の最高学府であった。しかも官庁と違って、学歴が直接ものをいうことの少ない実業の世界 が卒業生の主たる活躍の場である。高商の関係者が学士の称号に、札幌農学校 ( その卒業生の大半は 官僚にな「ていた ) ほどには、こたわりを示さなかったのは当然かも知れない。しかし世間の見る目 はそうではなかったことを、この文章は物語っている。「学士という肩書」っまり学歴を、人々を評 228

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

学歴戦争 学士と学位卒業証書の価値学歴主義的な秩序私学の 反発特権廃止を求めて 官私抗争 井上毅の構想法学教育という戦場「大学」への願望 早稲田の「大学」化私立大学の撲減策か 学校選択法 専門学校令の公布低い私立学校の評価札幌農学校と学 士号東京高商の苦闘学校間の序列 学間・学校・職業 『就学案内』の読み方官吏の養成所組織のなかの学歴 開業専門職の世界 220 231

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

の苦虫顔を見るよりは、女義大夫の美形を拝見する方が余程増した。親仁が死ねば嫌でも財産は自 分に転り込むと、途方も無い了見で忽ち勉強は廃止となる : ・ : 非常な決心と非常な克己心を持って 勉強する学生は例外だ。一般に云ふと学資金が多ひだけ堕落の速度が甚だしい。言葉を換へて云へ ば、学資の充分ある学生には成業が至難である」 ( 9 ) 。「最後の勝利は自活苦学生なり」、というので ある。 狭まる苦学の道 だが現実は、最後に勝利するのは苦学生だとは、どうみても言いがたい方向に動いていた。苦学 の主要な対象である、国家試験による職業資格の取得の道はまだ開かれていた。しかしその「試験 の道」に対して、正規の学校教育をうけて教育資格を取得すれば、それがそのまま職業資格にもっ ながる「学歴の道」は、ますます広がり確立されたものになりつつあった。明治三六年、「専門学校 令」が施行され、有力私学が次々に各種学校から専門学校になり、 学歴主義的な秩序のなかに組み 込まれていくと、変化の方向はいっそうはっきりし始めた。野口英世も通い、医師開業試験をめざ す若者たちのメッカとなってきた医学予備校の済生学舎が、正規の専門学校に移行しえず、廃校の うきめをみるに至ったことは、そうした時代の変化を象徴する出来事であった。法律系の私学も専 門学校として認可をえる過程で、教育の中心を中学校卒業者対象の昼間フルタイムの課程に移して く小学校を出ただけで、昼間働きながらこれらの学校の「別科」や受験準備の各種学校で学び、 国家試験に挑戦する「苦学の道」「試験の道」はますます狭く、苦難にみちたものになろうとしてい 当時、小学校の上級学年や高等小学校の生徒によく読まれていた雑誌『少年世界』の編集者、木

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

なまじ学問をしたために、家業に身を入れず、さらには家産を傾ける例は、少なくなかったからで ある。考古学者として知られる鳥居竜蔵は、そうしたケ 1 スのひとりである。 鳥居は明治三年、徳島の「旦那衆」とよばれた煙草の大問屋の長男に生まれた。生まれた頃、家 は傾きかけていたというが、「何不自由なく思うまま気ままにくらしていた」 ( 。明冶九年に小学 校に入学するが、学校ぎらいで、入学当初は逃げ帰ってばかりいて、親を手こずらせたという。面 白いのはかれの教育観である。 「私の通っていた寺町小学校は平民の子弟のみで、殊に町人の子弟であるから、大概家は裕福であ った。士族の子弟は、その家の多くは家禄を失い困難していて、学校を卒業するや師範学校、士官 学校、海軍兵学校を志願するか、或は官庁に奉職するのが目的であった。私は町家に生れ、生活は 余り困難でなく、学校を卒業して以上の如き方向を取る必要もなく、学校は単に立身生活の保証の ための所と考えたから、学校が一層いやになったのである。或る教師は私に学校卒業証を所持しな いものは、生活は出来ないといわれたから、私はこれに反対し、むしろ家庭にあって静かに勉強し て自己を研磨して学問をする方が勝っていると自個説を主張した。 ( 私は学問のために学問し、生 活のために学問せず的意見である。 ) それから独習することに決した」ⅱ ) ここにみられるのは、見事なばかりに「反学歴主義」的な教育観である。教師はこれからの世の 中「学校卒業証」っまり学歴がなくては、生活できないぞ、と教えたが、鳥居は、学歴は没落士族 の子弟には必要でも、家産に恵まれた自分には必要ないと考えた。立身出世の必要はないのだから、 学問は学問のためにする。中村正直の『西国立志編』を「孔孟の書よりも一層愛読した」が、そこ から学んだのは「、ゝ し力に英国人が自ら助け、成功をなしたか、アングロサクソンのいかに偉大であ るか」であって、学歴を取得して立身出世をする道ではなかった。

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

事新報を通じての福沢先生崇拝だったばかりでなく、この学校が体育の奨励に熱心なことを聞いて、 : ・私が慶応義塾普通科に入学したのは 病弱な一人ッ子の教育をここに托そうと決心したのである : 明治三十一年五月一日、十三歳の春だった。慶応入学については、まず、受け持ちの先生が反対し た。別段、慶応義塾を悪い学校とは言わなかったが、私立よりも官公立の学校を選べというのが、 この学校の欠点を 反対の理由だった。次は倉石の叔父だった。叔父は慶応義塾に学んだ人だけに、 よく知りつくしていた : : : あえて官公立を選べとは言わなかったが、後年、自分の数多い秀才児を 一人も母校に入学させず、長男は蔵前高工、あとの五人はいずれも、東大を卒業させたことを思い 合わせると、たった一人の甥にも官公立を選ばせたかったのであろう。当の私は、今から思うと不 思議なくらい学校の選択などには無関心だった : : : 父がはいれと言うから慶応にはいろう : : : 高等 科三学年の修業証書に『学術優等、品行方正、平素勤勉』という三拍子そろった賞状を添えて出す と、すぐ入学させてくれた」 ( 8 ) 「学歴」 高橋の父が新潟の商家出身で、実業家であったことをつけ加えておくべきかも知れない。 よりは「学風」を、「資格」よりは「教養」を重視する人たちが、ここにもいたのである。官学と私 学のちがいは、そこにあった。しかしその私学も、やがて否応なしに、官学中心につくりあげられ た学歴主義的な秩序のなかに組み込まれていくのを、あとでみることになろう。 学士さまたち それはともかくとして、学歴の世界の頂点に座をしめる帝国大学を卒業するまでの道のりは、気 が遠くなるほど遠いものだった。高等学校が三年、ここでも落第はあるし、二年続けて落第すれば、 いくつにな 退学である。そして帝国大学が、学部によって違いがあるが三年から四年。いったい、 192

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

でもなく、「試験及第」の医師三一一 % にも、はるかに及ばなかった。 学卒の医師のうち少数派の帝国大学卒業者は医学士である。官立医専 ( 旧高校医学部 ) の卒業者は 医学得業士の称号を認められていた。府県立医学校の場合には、卒業者になんの称号もない。 して、医師として同じ資格をもちながら、どのようなルー トを通って資格をえたかによって、医師 集団の内部には、医学士・医学得業士・公立医学校卒・試験合格者・従来開業という、 大きく分け て五つの集団が生まれ、それがこの順で、社会的な威信という点で階層的な構造をつくっていたの である。 ああ 明治四二年刊の煙雨楼主人 ( 長尾折一一 l) 『噫医弊』は、当時の医の世界を、きびしく批判的に描い た本だが、 そのなかで医師を上流、中流、下流の三層に分け、「博士及び学士を上流医」、「専門学校 程度の者は中流医」、「医術開業試験に上るものは下流医」、「従来開業、奉職履歴 : : : の如きは順を 追うて下々の下流にや位すらむ」とし、また府県立医学校の出身者を「中、下の間」に位置づけた あとで、「社会が医家の等位に由り待遇の差異あるは寧ろ当然にして其力量、学殖等に由り自ら通り 相場なるものあり、是亦た吾人の首肯する所なりと雖も、其上流医と下流医に対する待遇の懸隔が なかんずく 如何にも甚しく、就中病院等に於て最も顕著にして為めに直接間接に患者に及ぼす弊害や云ふ可か らず」となげいている ( 貶 ) 。 帝国大学卒業の医学士たちが、開業医よりも、官庁・病院の医師を志向したことはすでにみた通 りだが、それは、そこで医学士の称号が、圧倒的に有利な地位と報酬を約束したからであった。明 治三七年、一二一の官公立病院の院長のポストのうち、六割までが帝国大学出の医学士でしめられ ていた。資格職業でありながら、医師という職業の世界もまた学歴や学位がものをいう、その意 味で行政官僚と変わらぬ、学歴主義の支配する世界だったのである。 242