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検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
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1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

五年八月に至「て、それも止ま「たので、〔旧藩主〕本多家の家扶・ : 頼んで県費生になられたが、 から金を借りて、学問を続けられた。幸にも学校で給費制を設けたので、先生は貧窮願を出して、 給費生となられた」。「貧窮生は、先生の外にも多か「た」が、杉浦は「『無産三幅対』に入られたほ どの貧書生」で、「着物は唯一枚、夏は単衣にし、冬は綿入にして着られた。洋服は学校から支給さ るることにな「て居たが、金が無いので、破れても修繕することが出来ず、破れたままにして置か れたから、チッキの横が摩切れて仕舞ひ、上衣を着たまま、チ = ッキを引抜くことが出来た。杉 浦のチ = ッキと云「て、当時学生間に有名であ「た」 ( 2 ) 。 士族から官僚へ 給費制度がつくられたのは明治六年だが、この頃には、大学南校は開成学校に変わ。ていた。三 宅雪嶺が入学したのは、その開成学校である。かれは前述のように加賀藩の藩医の息子だ「たが、 「自分の家は家禄を失「て立行かぬといふのと違ふけれど、もとより裕福でなく」、それにすでに兄 も開成学校在学中だ「たので、仕送りに困「たという。雪嶺によると「自分等の入学した頃は官費 が廃せられた」ため、困「た学生のなかには、エ部大学校が官費であることから「同校に入学した のが幾人もあ」「た。開成学校が給費制にな。たのはすでにみた通りだが、「金が無いのは勿論、有 るのも給費を願ひ出る」ので、同校綜理補の浜尾新は「給費の願ひに貧窮に就きとあるが、貧窮と は貧窮るといふことで恥入らねばならぬのに、それを平気で貧窮といふのは怪しからぬ次第ではな 校いか」と学生一同を戒めたという。「それでも給費願ひが普通であり、悉く聞届けられたらしい」と 族雪嶺は書いている ( 3 ) 。士族出身の学生たちは、教育は官費、つまりタダであたりまえと考えていた のである。

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

家として名ある文学者少しとせず、然れども其需要は甚だ広からず」とあり、学校としては、帝国 大学文科、慶応義塾、国学院、哲学館などがあげられている。簡にして要を得た説明であり、学問 の世界がどのように分かれ、それを学ぶことが将来の人生にどう関係しているのか、まだ人々が十 分な「常識」をもつに至「ていなか「た明治二〇年代の、社会的な状況を伝えている。 それが明治三三年の『就学案内』になると、ほぼ純然たる学校案内書になる。学問の内容につい ての説明は、ま「たくなくなり、ただ学問の選択にあた。ては時勢、才能、嗜好、職業、境遇の五つ を十分に考慮すべきであることがのべられ、たとえば、として次のような例があげられている 「余は商売程天下に面白きものなしと思ふ ( 嗜好 ) 。余は性来商人根性ありと称せられたりき ( 才 能 ) 。商売も将来外国貿易に見込ありと思はる ( 時勢 ) 。然し余に一文の資本もなく又た経験なし ( 境遇 ) 。已むを得じ暫らく外国商館に奉公すべし ( 職業 ) 。就ては先づ外国語算筆簿記等を学ぶべ し ( 学問 ) 」 ( 3 ) 明治三七年の『改訂就学案内』では、「諸学校入学成功法」について、詳しく記されているのが目 をひく。学校案内が大部分をしめている点では変わりないが、その学校にどうしたら入れるか、ま たどの学校に入っこゝ。 オカて将来がどう決まるのかが、重要視されはじめたのである。「甲の学校乙の 学校の規則は分。た処で、其学校には如何なる特色があるか、入学試験の難易より、卒業後の身の 振り方に至るまで比較することが出来ないから、入学せんとするに際して何れを選択すべきかと云 ふ問題が来ると、迷ひに迷うて遂に一生の方針を誤ることがないでもない。それが茲に各学校の比 較研究をなし、学生諸君の学校選択上の問題を解決するの便りにしようと思ふ」 ( 4 ) そこでまずは受験競争の激化が説かれ、次いで卒業後の就職ロの重要性が強調される。「学問を 修むる目的は、必ずしも之を修めて後職業に有りついて生計を立てようと云ふことばかりでないは 232

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

に活躍してゐる人が主で、職業を得る目的の為に学問を為すといふ風ではなくて、人間を造る為に 学問をする風」信 ) であったという。 もちろんすべての学生、すべての学校がそうだったというわけではあるまい。明治二二年に東京 法学院に入学した長谷川如是閑は、学生が「いずれも法律そのものを、世に出た後の自分の足場に しようとする覚悟をも「て」おり、「政治家、裁判官、弁護士、実業家、官吏、新聞記者といったよ うな、は「きりした目標」をめざしているようにみえた ) と書いている。ただ、全体としてみれ ば、法律系私学の学生の多数をしめていたのは、必ずしも国家試験をめざすのではなく、法律学を いわば「教養」として学ばうとする学生たちであったとみてよい 明治の前半期といえば、まだすべてが流動的だ「た時代である。なにをしたらよいのかは「きり しないままに、「文明開化」にあこがれ、西洋の新しい学問にひかれ、あるいは鬱勃たる野心を抱い て、「上京遊学」してくる若者たちも多か「た。法律系の私学は、その志望のあいまいな若者たちに と。て恰好の「宿り場」であ「た。明治二一年、明治法律学校は「特別生規則」をつくるが、その 経緯を、『明治大学五十年史』はこう書いている。 「当時の学生は猶ほ維新後の志士豪傑の風を遺し、動もすれば天下国家を論ずると共に酒色の巷に 出没し、遂に学業成績を完うせざる者が尠くなか「た。これが為に父兄等も子弟を遠く帝都に遊ば しめることを喜ばざる者が多か「た」。そこで「特別生」の制度を設け、「三箇年の学費二百円を前 納したる者は、本校が責任を以て監督し完全に業を終 ~ しめて、郷国に錦衣を飾らしむることを謀 学 った」行 ) 。 京特別生になると「必ズ本校部長室又 ( 其隣室ニ置キ部長ヲシテ親シク平常ノ品行及学業勤惰ヲ監 視セシ」め、逐一親許に報告するというのである。この制度のおかげで、同校の学生数は急増 すくな やや

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

『藩閥之将来』で外山が主題にしたのは、藩閥の問題である。当時の日本の政治が薩長の藩閥の支 配下にあ「たことはよく知られている通りだが、閥が権力を握。ていくには「腕カ若ク ( 智力、優 と外山はいう。維新直後はともかく、時がたつにつれて、 秀」な人物を沢山もたなくてはならない、 このうちますます重要性を高めていくのは、「腕力」よりも「智力」の方である。そしてその智力に 教育はまさ おける「優勢ヲ維持継続」しようとするのなら、教育に力をそそがなければならない。 に「生存資格、競争資格ノ継続若ク ( 発達ニ関スル計画」に他ならない。それは特定の閥だけでな め いやしく す 一国の場合にも同じである。「古来苟モ優勢ヲ極メタル社会 = 在テ ( 、必ズ意志的 = 故意的 = 歴其社会其国民、教育計画ヲ成シタ」 ( 3 ) と、外山は指摘する。こうしてかれは、欧米諸国がいかに、教 学 育に惜しみなく投資をしているかをのべるのだが、ただかれの分析の焦点は、あくまでも藩閥と教 とされている。その意味では初代社会学教授にふさわしい人物だ「たといえるのかも知れない。 それはともかく、社会学担当教授としての外山は留学中に学んだスペンサーの社会学理論を祖述 するだけであ「たらしく、「学生中には之に満足せず、先生が、普く諸家の説を咀嚼して一新機軸を 出されんことを希望する者もあり、或は先生を以てスペンサー輪読の番人視するが如き者もあ「て、 直接に先生に向「て、講義の註文をする者の如きさ ~ あ「た」 ( 2 ) という。 しかしアメリカで、しかも主に化学を勉強した外山には、それなりに日本社会の実証的研究 ~ の 志向があ「たようである。とくに社会学の領域ではあまり顧みられないが、明治三二年刊行の『藩 閥之将来』という本は、統計デ 1 タを使 0 て教育と社会の関わりを分析したものとして、いまでも 読むに値する内容をふくんでいる。外山をとりあげるのも、この本とのかかわりからである。 『藩閥之将来』 あまね そしやく

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

するものは、私のほかにもないではなか「た。しかし、これらの人は落第すると、多くは東京あた りの他の学校に転校した。きまりが悪いというわけであろう。だが私は今省みても、大して、きま : それと、もう一つ理由が りが悪いという感をいだいた覚えがない。鈍感であ「たのであろう。 あ「た。おれは、ちょ「と、なまけたから落第したのであ「て、頭が悪いわけではないという、う ぬぼれであった」 「明治三十五年三月、中学を卒業すると、東京に出た。六月か、七月かにある第一高等学校の入学 : ここで私 ・〔東京に出て〕神田錦町の正則英語学校に通った。 試験を受けるためであった。 ・ : 大きな教室 は、入学試験の準備をすることにした。しかし私は、この学校に来てみて驚いた。 生徒はげたばきのままで雑然と入り込み、出席簿をつけるでもない。人気のある先生の時間に は、あふれて、立「ている生徒もある。かと思えば、ある先生の時間には、数えるほどしか出席者 。いなか者の私は、 がない。しかも講義の途中でさ「さと持ち物をかたづけて帰 0 て行く生徒もある ・ : 入学試験準備のための、そのころの学校は、回想してみ これでも学校かとあきれたのである。 ても愉快なものではなかった」 「しかし当時の日本の学制では、中学は毎年三月に終り、高等学校の入試は、六月か、七月であ「 たから、その間、高等学校の入学志望者は、皆こういう学校で試験準備の勉強をした。のみならず、 一年、二年と試験準備に費すものが多かったか 一度の試験で入学ができるものは、むしろ少なく、 ら、試験準備学校は、なかなか繁盛したものである。 卑「かように私は折角入学試験の準備にかか「たが、その実、試験勉強は、あまり、しなか「た。今 でも入学試験は、上級学校に進む学生の悩みとするところだが、明治、大正の高等学校、あるいは 官 ・ : 入学試験は、志望者を入 官立専門学校の入学試験は、おそろしく、ひねくれたものであ「た。 185

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

明治二〇年、高等文官試験制度が発足するとこの「条規」は廃止され、かわって「特別認可学校 規則」がつくられる。新しい「規則」は私立法律学校を帝国大学の監督下から、直接文部大臣の統 制下におこうとするもので、「特別認可」を受けた私立学校の正規の課程の卒業生には、行政官僚の 任用試験だけでなく、司法官の任用試験についても、また徴兵令の上でも、各種の特権が認められ ていた。特権と引きかえに、教育内容にまで政府の介入権限を認めることになるこうした法律に対 しては、反対の動きがなかったわけではない。しかし、学生集めのためにどうしても「特典」の欲 しい有力私学は、こぞって特別認可学校になる道を選んだ。関西大学の学校史によると、「特別認 可」のえられなかった同校の場合、「学生の中には失望の余り東京の特別認可学校に移るものが相 次」ぎ、存亡の危機に立たされたという ( 6 ) 。「特典」にあずかれるかどうかは、経営基盤の弱い私学 にとって、死命を制する問題だったのである。 「大学」への願望 学歴戦争を展開する上で、私学側の最大の弱点は、教育条件の劣悪さ、高等教育機関としての質 の不十分さにあった。わが国の私学の大部分は当時 ( 今もそうだが、 ) 学生の支払う授業料を事実上 唯一の収入源にしていた。しかも学生集めのことを考えれば、官公立学校よりも高い授業料をとる のはむずかしい。非常勤の講師を雇い、中学校の卒業証書の有無を問わず学生を入学させ、貧弱な 施設で。ハ ートタイムの専門教育を行うという、国家試験の予備校まがいのところがほとんどだった。 争高等文官試験に合格者を出しているとはいっても、教育機関としての質は帝国大学をはじめとする 私 官公立学校のそれに、どうみても及ばなかったのである。そしてそのことは誰よりも、私学関係者 官 自身の十分に認識しているところであった。 211

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

縁故と学閥と こうした企業側の動きは、学校側にも影響を及ぼさずにはおかなかった。東京高等商業学校で明 治二六年、それまで一八年間にわたって校長の職にあった矢野二郎が、学生たちのはげしい排斥運 動の末、退職を余儀なくされたのは、その象徴的なあらわれである。 同校の校史『一橋五十年史』は、これについて「矢野校長の方針は飽くまで前垂式商業の技術的 方面に熟練した学生、人に使はれる人間を養成することであり、商業は尊重したが之に従事する人 間を向上せしめ様とはしなかった」。これに対して学生たちの間には、一橋は「産業統率者の養成所 であるとの意識が次第に明瞭となり、智識探究の欲求が熾烈を加へるに従って、現行制度に対する 云ひ知れぬ不満と焦燥と」が蓄積され、爆発するに至ったのだとのべている。校長交替後の東京 高商が、専攻部の設置、商業学士号の授与、商科大学の設置運動と、帝国大学との同格化運動を強 めていくことは、すでにみた通りである。企業の高級職員たちが、官庁の高級官僚と肩をならべる ためには、給料だけでなく、学歴でも、同じ水準を達成する必要を学生たち自身が感じはじめたの である。 だが企業と官庁の間には、重要な違いがあった。それは縁故、いわゆるコネの問題である。縁故 による採用は、官庁の場合にもなかったわけではないが、それは高等文官試験に合格してからあと のことだった。ところが企業は、無試験である代りに縁故がなければ、採用されるのがむずかしい。 学校出の採用に、もっとも積極的だ。た三井物産でも、帝大、高商、慶応出身者の採用は「名望信 用ある者より紹介ある時、欠員の都合によ「て採用する」としている。社員採用に公募方式をとる 企業はほとんどなかった。 264

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

笈を負うて東都へ もうしばらく私学の話を続けよう。 明治二〇年代初めのある調査によると、当時「東京府下ニ設置セル私立専門学校並ニ各種学校中 多少校名ノ聞アルモノ」は九〇校、約三万人の学生が学んでいたという ( 1 ) 。 この頃、他に有力私学 といえば、関西に同志社など数校があっただけである。また官立学校は全体あわせても二四校、在 学者は八〇〇〇人強にすぎなかった ( 2 ) 。 いかに私学が、しかも東京所在の私学が、大きな比重をし めていたかがわかる。これら私学には、全国から学生が集まっていた。同じ調査によると、私学在 学者の出身地別で東京は一九 % にすぎず、残りは全国各地からやってきた「上京遊学」の学生たち であった。 東京ー神戸間の鉄道が開通したのは、明治二二年になってからである。 いまのように全国的な交 通や情報のネットワークがあったわけではない。そんな時代に『東京遊学案内』 ( 3 ) などのわずかな 青報を手がかりに、 新しい学問を学ぶために単身上京する。それは野心に燃えた若者たちにとって も、大冒険であったに違いない。社会主義者の堺利彦は、明治一九年、福岡から上京するのだが、 「その頃、東京に『遊学』するのは、今日、ヨーロ ツ。ハに『留学』するのとほとんど同じくらいの珍 上京遊学

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

専門学校令の公布 東洋大学の学校史は、哲学館時代の明治三二年、中等学校教員の国家試験について同校が無試験 検定の特典にあずか「たことについて、「我国の文科系統学校中この種の特典を得たのは哲学館を 以て嚆矢たるの光栄を担うた」と誇らしげに記している ( 1 ) 。明治一九年に中等学校教員の資格試 験制度が発足して以来、くり返し「弊館卒業証書ヲ有スル者ニ教員認定ノ特典ヲ与 ~ ラレンコトヲ 請願」してきたのだから ( 2 ) 、その喜びはひとしおであ「たのだろう。「専門学校令」が公布される と、こうした特典を認められる私立専門学校の数は着実に増えていった。 政府がそれまで、官公立学校に認められた国家試験制や徴兵制の上での特典を、私学に認めるの を拒む最大の根拠としてきたのは、専門教育機関としての水準の低さにあ「た。私学の卒業生のな ハラッキが大きく全体的に質が低い かには、たしかに優秀な人材がいる。だがそれは例外的で、 特典にあずかるためには、まず教育の質を、具体的には入学してくる学生、卒業する学生の質を高 、。いってみれば学生の「品質管理」の強化である。それが政府の基本的な考え方であ。た。 めて欲しし 国家試験の受験資格を与え、あるいは試験免除の特典を認める際に、政府が私学に対してなにを 要求したかをみれば、そのことがよくわかる。行政官僚の任用試験にしても、また判事検事の登用 8 学校選択法 220

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

16 学歴戦争 いちだん低い価値しかも「ていなか「た。国家の財政的な支援もなく、学生の支払う授業料だけで やっていかなければならなか「た、発足間もない当時の貧弱な私学の教育の実状からすれば、それ は、やむをえないことであ「たとみるべきかも知れない。実際、帝国大学の方は中学校の卒業者を 入れてさらに三年間、高等学校で外国語を中心に「高等普通教育」を与えたあと学生を入学させ、 整備された教育条件のもとで専任の教授たちが、体系的な専門教育をしていた。これに対して、私 立法律学校はといえば、正規の中学校の卒業証書をもっ入学者はほとんどなく、したが「て普通教 、ートタイムの講師た 1 トタイムの学生に、これも。 育の水準の高いとはいえない、しかも多くは。ハ ちが、受験準備的な教育をしているにすぎなかったのである。 しかしそれにしても、帝国大学出の「学士」たちだけが、平等に専門科目の知識や学力を競いあ うことなく、無試験で任用されるというのでは公平とはいえない。しかも受験資格を手に入れるた めには、「帝国大学ノ監督」に服し、中学校の卒業証書をもっているか、あるいはそれと同等の学力 試験に合格したものだけを入学させるコ 1 スを、特別につくらなければならない。たとえば東京専 門学校 ( 早稲田大学 ) のように「学の独立」をうたう私学のなかには、文部省Ⅱ帝国大学の監督下に 入ることを潔しとせず、任用試験にかかわる特権を全面的に拒否しようという動きすらあ「た。だ が結局は、早稲田をふくめて主要私学が、特権にあずかる方向を選んだのは、それなしには、「。 ( ン のための学問」を重視する若者たちをひきつけ、経営の基盤を安定させることができなか「たから である。 こうして否応なしに私学もまた、官公立学校中心につくりあげられた学歴主義的な秩序のなかに、 組み込まれていった。 201