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検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
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1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

7 上京遊学 ⑩『東京物理学校五十年小史』 ( 同校、昭和五年 ) 一六頁。 圓『佐藤慶太郎』 ( 大日本生活協会、昭和一七年 ) 八三頁。 2 中山茂『野口英世』 ( 朝日新聞社、昭和五三年 ) 五九頁。 永井道雄『近代化と教育』 ( 東京大学出版会、昭和四四年 ) 一三一頁。 『成立期明治大学関係者略伝』 ( 同大学、昭和四九年 ) 九八頁。 鬮前掲『早稲田大学百年史』第一巻、八九五頁。 長谷川如是閑「ある心の自叙伝」 ( 『日本人の自伝四』所収、平凡社、昭和五七年 ) 三二七頁。 聞『明治大学五十年史』 ( 同大学、昭和六年 ) 一〇頁。 前掲『資料明治大学教育制度発達史稿 1 』一〇五頁。 ⑩前掲『早稲田大学百年史』第一巻、四七四頁。 ⑩『同志社百年史』通史編 1 ( 同大学、昭和五四年 ) 二三七頁。 囲深井英五『回顧七十年』 ( 岩波書店、昭和一六年 ) 一四 ~ 五頁。 の『立教学院百年史』 ( 同大学、昭和四九年 ) 一八七頁。

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

るところは、本校生徒中には、多くは普通の智識を有せざるが故に、〔同一水準の専門教育をうけて も〕其れ丈けの効果も顕はれざる次第」なのだ朝というのが、関係者の認識だったのである。 中学校卒業者を入学させ、予科をおいて「普通の智識」を教えれば、教育の水準でも年数でも、 帝国大学に劣るところはなくなる。としたらなぜ「大学」を称してはいけないのか。慶応義塾の 「大学部」も、早稲田の「英語専門科」も、応募する学生が少なく、明治二〇年代を通じて不振を続 けたが、明治三〇年代に入るとあらためて正式に大学としての地位と名称を獲得すべく、積極的な 努力が展開されることになる。 私学の「大学」化 ~ の突破口を開いたのは、早稲田であ「た。当時まだ東京専門学校を称してい た同校が、「大学」設立の具体的な構想を発表したのは明治三三年のことである。教育課程を大学部 と専門部の二つに分け、大学部の方には一年半の予科をおいて、高等学校と同様の高等普通教育を 与え、その上で専門教育をする。また校名も早稲田大学に改める、というのがその骨子であ「た。 官立の高等学校は三年制で二外国語を教えているが、早稲田の大学予科は一外国語だけを教えるか ら、教育の年限は半分だが水準・内容において高等学校に劣るところはない。それが「大学」 ~ の 名称変更を求める早稲田側の言い分であった ( Ⅱ ) 。 法律の不備と盲点をついた、この「大学」化構想について、政府部内でどのような議論がなされ たのかはわからないが、明治三四年一月に設置願が出されてから一年二カ月後に、文部省の許可が おり、明治三五年九月、早稲田大学は無事、「大学」として発足をとげることにな「た。そして多く の私立学校がこれに続いた。明治三七年にはすでに、大学名称をもっ私学が一九校を数えた。 しかしそれで私立大学が帝国大学と、対等平等の地位を獲得したわけではない。当時の『教育時 論』はこう書いている ) ーー・「今や府下の五大法律学校は、悉皆大学組織となり、俄に私立大学の 214

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

: だから、たとえば れてやろうという試験でなくして、極力これを振い落すための試験である。 英語なら、普通には使う用もないような、いわゆる難語難句を暗記していないと、入学試験は受か らない。元来なまけ者の私に、そんな試験勉強のできようわけがない。試験はうけたが、むろん落 第した。それで私は、また山梨に帰った」 「山梨県に帰った私は、まだ全く高等学校を、あきらめてはいなかった〔が、勧められて「山梨普通 学校」という、中学レベルの私立各種学校の代用教員になった〕 : : : だが、こんなことをしていて、高等 学校の入学試験が受かるはずがない。私自身も、また、しいて高等学校にはいる気はなくなった。 あるいは、このまま山梨普通学校にとどまり、中等教員の試験を受けようかなどという 、気楽な考 : それでも、とにかく高等学校の受験には行ったが、もちろん入学はできなかっ : かくて私は中学で二回、高等学校の入学試験で二回、都合四回落第したのである」 「 : : : 明治三十六年の高等学校の入学試験の終った後、〔東京で中学の教師をしていた先輩が〕わざわ ざ甲府にやって来て、私にぜひ早稲田の入学試験を受けろと、勧めてくれた。これは、まことにあ りがたい勧めであった。もしこの時、なお山梨普通学校にぐずぐずしていたら、翌年は日露戦争で、 私も召集され、あるいは旅順ロあたりで戦死していなかったとも限らない。しかるに幸いに早稲田 大学に入学したため : : : 徴兵の延期を受けることができ、戦争に行かずにすんだ」 「早稲田大学の入学試験は、高等予科の二学期に編入する試験なのだが、これは高等学校のそれの ごとく、ひねくれたものでなく、常識的の試験であったので、楽に通った」 ( 1 ) 浪人・落第・中退 長い引用になってしまったが、すぐれたジャーナリストであった石橋の回想は、明治三〇年代に 186

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

14 教員社会 ⑩⑨⑧ 前掲『私の半生』一三〇頁。 前掲『日本教員史研究』二四一頁。 天野郁夫「日本の近代化過程にみる非学歴主義的選抜」 ( 『学歴主義にかわる社会的選抜システムの探索』所収、昭和六 三年度科学研究費研究成果報告書、平成元年 ) 圓『早稲田大学出版部一〇〇年小史』 ( 同部、昭和六一年 ) 三一一頁。 2 『日本大学七十年略史』 ( 同大学、昭和三四年 ) 九三頁。 前掲『苦学立志秘伝井口乗海』一一八頁。 圓前掲『日本教員史研究』二四七頁。 海原徹『明治教員史の研究』 ( ミネルヴァ書房、昭和四八年 ) 二四一頁。 183

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

の慶応義塾の授業料は年額三〇円、早稲田大学の前身の東京専門学校が一九円、明治大学の前身で ある明治法律学校では一〇円であった ( 。 帝国大学よりも高い授業料を徴収することのできた慶応義塾は、私学のなかでも一頭地を抜く存 在だったといってよいだろう。 官学か私学か 官学と私学の間だけでなく、私学間にもみられたこうした授業料の格差は、高等教育の諸機関と、 それを利用した社会層との間に複雑な関係があ「たことを示唆している。つまり、官学が貧乏士族 だけの学校ではなか「た ( なくな「てしま「た ) ように、私学もまた社会の富裕層の子弟のためだけ の学校ではなか「たのである。成立期のわが国の学歴社会の基本的な構造を理解するために、それ はあらためて確認しておくべき点だろう。 明治の四〇年代に入るまで、わが国の義務教育の年限は尋常小学校の四年までであ「た。そこか ら最高学府である帝国大学までたどりつくには、まず四年制の高等小学校に進まねばならなか「た。 尋常中学校には、その高等小学校二年修了のところで接続していたが、実際には学力面での格差か ら、四年修了してようやく中学校 ~ の入学試験に。 ( スするというのが普通だ「た。中学校は五年で、 三年制の高等学校に接続する。しかしこの場合にも、高等学校の要求する学力の水準が高く、さら に限られた入学定員をめぐ「てはげしい受験競争があり、一 ~ 二年の浪人は例外ではなか「た。義 務教育修了後、帝国大学に入学するまでには、最低でも一〇年、長ければ一四、五年かかる計算に なる。中学校入学後の選抜がきびしく、落第・中退により、五年で卒業にこぎつけるものは半数に もみたなかったことも、つけ加えておく必要があるだろう。

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

16 学歴戦争 いちだん低い価値しかも「ていなか「た。国家の財政的な支援もなく、学生の支払う授業料だけで やっていかなければならなか「た、発足間もない当時の貧弱な私学の教育の実状からすれば、それ は、やむをえないことであ「たとみるべきかも知れない。実際、帝国大学の方は中学校の卒業者を 入れてさらに三年間、高等学校で外国語を中心に「高等普通教育」を与えたあと学生を入学させ、 整備された教育条件のもとで専任の教授たちが、体系的な専門教育をしていた。これに対して、私 立法律学校はといえば、正規の中学校の卒業証書をもっ入学者はほとんどなく、したが「て普通教 、ートタイムの講師た 1 トタイムの学生に、これも。 育の水準の高いとはいえない、しかも多くは。ハ ちが、受験準備的な教育をしているにすぎなかったのである。 しかしそれにしても、帝国大学出の「学士」たちだけが、平等に専門科目の知識や学力を競いあ うことなく、無試験で任用されるというのでは公平とはいえない。しかも受験資格を手に入れるた めには、「帝国大学ノ監督」に服し、中学校の卒業証書をもっているか、あるいはそれと同等の学力 試験に合格したものだけを入学させるコ 1 スを、特別につくらなければならない。たとえば東京専 門学校 ( 早稲田大学 ) のように「学の独立」をうたう私学のなかには、文部省Ⅱ帝国大学の監督下に 入ることを潔しとせず、任用試験にかかわる特権を全面的に拒否しようという動きすらあ「た。だ が結局は、早稲田をふくめて主要私学が、特権にあずかる方向を選んだのは、それなしには、「。 ( ン のための学問」を重視する若者たちをひきつけ、経営の基盤を安定させることができなか「たから である。 こうして否応なしに私学もまた、官公立学校中心につくりあげられた学歴主義的な秩序のなかに、 組み込まれていった。 201

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

井上毅の構想 明治三一年七月一七日付の『毎日新聞』は、東京の主要私立学校が「卒業生に対し特典附与の件を 新文部大臣に建議請願する」ために、集ま「て運動を開始したことを伝えている ( 1 ) 。その「諸校連 合運動の目的」は、記事によれば「政治経済に在りては卒業生は直ちに普通文官たる資格を得る事、 文学及理学卒業者に在りては尋常師範尋常中学高等女学校の教員たるを得る事、医科に在りては実 地試験丈けに及第せる者に開業免状を附与する事」などにあ「た。つまり学歴Ⅱ卒業証書の約束す る特権について、官公立と私立の差別を撤廃し、同等の扱いをするよう要求しようというのである。 この運動に加わった学校の名前もあげられているが、それによると法学では東京法学院 ( 現・中 央大学、以下同じ ) 、明治法律学校 ( 明治大学 ) 、和仏法律学校 ( 法政大学 ) 、日本法律学校 ( 日本大 学 ) 、東京専門学校 ( 早稲田大学 ) 、文学では哲学館 ( 東洋大学 ) 、国学院 ( 同大学 ) 、東京専門学校、政 治経済では専修学校 ( 専修大学 ) 、東京専門学校、医科では済生学舎、芝医学校、高山歯科医院 ( 東京 静歯科大学 ) 、理化学が東京物理学校 ( 東京理科大学 ) などであ「た。 丿ーに分類されていたが、奇妙な これらの学校は文部省統計のなかでは、専門学校というカテゴー いってみれば自然 ことに準拠すべき法律をもっていなかった。つまりよるべき正式の基準なしに、 官私抗争 207

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

によ「て設立された当時の明治法律学校 ( 現・明治大学 ) では、学生からわずか三〇銭の月謝しかと別 らず、「創立者は何等の報酬を受けざるのみならず、自ら負債して学校の費用に充て、他の講師も、 一二の人を除いては全く無報酬で教鞭を執「てゐた」 ( というのが実状であ「た。 東京専門学校 ( 現・早稲田大学 ) では、もともと安い「月謝の滞納者が非常に多くて、其の = 一分の 一も取り立てられない。此の月謝滞納者のために学校では非常に困難して、之がために大隈伯の救 助を仰いだことが幾度だか知れない程」であ「た。そこで明治一九年にな「て、一円の授業料を一 円八〇銭に引きあげ「非常の英断を以て月謝徴収を励行」し、「滞納者はドンドン停学を命ずるこ と」にしこ。ゝ、 オカそれでも三分の一は支払わない。そこで「凡そ二百名の滞納者に向「て停学処分を 励行」したところ、「非常に激昂して幹事を叩き殺すなどといふやうな騒ぎにな」「たという ( 。 いまでは考えられない話だが、それほど授業料、しかも高額の授業料を徴収することは、むずかし かったのである。 新しい学問を学びたいと考える若者たちは沢山いた。しかしかれらのなかには、 社会的な失業者 とでもいうべき士族の子弟をふくめて、貧しいものが少なくなか「た。そしてそれ以上に、学問を 学ぶのに、とくに私学でそれを学ぶのに、高い授業料を支払うのが当然だとは考えないものが沢山 いた。慶応義塾のような学校は例外として、大方の私学が対象としなければならなか「たのは、そ うした学生たちであった。 、圧 ①『福沢論吉選集』第一巻 ( 岩波書店、昭和一一六年 ) ~ 九頁。 / 盟同、九一 ~ 二頁。 / ③同、九二頁。 ④『福沢諭吉全集』第一二巻 ( 岩波書店、昭和三五年 ) 六二頁。 ノ、

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

6 教育も銭なり 前掲『福沢諭吉選集』第一巻、三五四頁。 / ⑥同、三五五頁。 / ⑦同、三五二 ~ 四頁。 ⑧木村カ雄『異文化遍歴者森有礼』 ( 福村出版、昭和六一年 ) 一一一六 ~ 七頁。 ⑨『森有礼全集』第一巻 ( 宣文堂書店、昭和四七年 ) 五三七頁。 ⑩前掲『福沢諭吉選集』第一巻、三五五頁。 / 圓同、三五八頁。 / 貶同、三五九頁。 前掲『福沢諭吉全集』第一二巻、一〇〇頁。 / 同、一〇一頁。 鬮『明治文化資料叢書第八巻、教育篇』 ( 風間書房、昭和三六年 ) 一〇一頁。 冊前掲『森有礼全集』第一巻、五三七頁。 聞伊藤博文編『秘書類簒・官制関係資料』 ( 昭和一〇年 ) 一五四 ~ 五頁。 冊天野郁夫『試験の社会史』 ( 東京大学出版会、昭和五八年 ) 一六九 ~ 一七三頁。 『教育時論』明治三三年一二月一五日号、四三頁。 前掲『福沢諭吉選集』第一巻、三五二頁。 『明治二五年東京遊学案内』 ( 博文館、明治一一五年 ) 和辻哲郎『自叙伝の試み』 ( 中央公論社、昭和三六年 ) 一一一二頁。 『明治大学五十年史』 ( 同大学、昭和六年 ) 五頁。 『福翁自伝』 ( 中央公論社「日本の名著・芻福沢諭吉」所収、昭和四四年 ) 三四〇頁。 『廿五年記念早稲田大学創業録』 ( 同大学、明治四〇年 ) 一四八 ~ 一五二頁。

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

官立学校に期待された 効率的に、すぐに役立つ人材を育成するための専門教育のシステム のは、そうした役割であった。 この「国家ノ須要」に応ずる専門教育は、しかし、ひとつの大きな問題をかかえていた。早急に、 大量の人材を養成するには、あまりに時間と金が、かかりすぎるのである。帝国大学に入学するに は、小学校から始めて中学校、高等学校と、組織的な教育を系統的にたどっていかなければならな 教育をする側にとっても、受ける側にとっても、それはきわめて高価な教育であった。 官立学校が、そのように長期間の教育を必要としたのは、なによりも外国語のためである。欧米 の最新の学問を学ぶ場としての帝国大学では、テキストは外国書、教師にも外国人が少なくなかっ た。日本人教師の授業でも、外国語という場合が稀ではなかった。したがって学生には入学前冫 なんとしてでも、最低二つの外国語をマスターしてきてもらわなければならない。高等学校は、そ の外国語教育のためにつくられた学校だといってよい。外国語を重視するその高等学校では、必然 的に、入学試験の科目として外国語 ( 具体的には英語、ないしドイツ語 ) が最も重視された。東京の 「中等受験科学校」が繁昌したのは、そのためであった。 このことは、裏返せば、日本語だけで専門教育を行うことができれば、時間と金の大幅な削減が 可能になることを意味している。私立専門学校が成立してくる現実的基盤は、ここにあった。たと えば、明治一五年に設立された東京専門学校の「開校広告」は、真先に「本校ハ修業ノ速成ヲ旨」 とするとうたっている。それは、のちに早稲田大学へと発展するこの学校が、帝国大学と違って 学「邦語ヲ以テ我ガ子弟ヲ教授」 ( 7 ) する方針をとったからである。外国語のテキストを使わず、日本 京人の教師が日本語で授業をすれば、短い期間と安いコストで人材の「簡易速成」ができる。それが、 専門教育の内容を校名にかかげた大多数の私立専門学校がめざした、共通の目標であった。