た。前期はともかく、後期の臨床試験に合格するには、 七年はかかるのが普通とされていたという から、運もあ「たにせよ、飛切りの秀才だ「たわけである。 医学にくらべれば、法学の方がまだ独学に向いている。先の案内書も「法律の学問程、独学で理 法を覚え易きものはない。例ひ実地の経験を積まなくても、書物の勉強丈で一通の事は実地に其智 識を応用する事が出来る。故に独学者に取りては、敢て学校に入るを必要とせざる丈に、極めて便 利な学問であらうと信ずる」 ( 5 ) とのべている。 私立法律学校の講義録が流行「たのもそのためであろう。しかしそれにしても弁護士試験となれ ば、やはり系統的に法学を学んだものには、ゝ 力なわない。出身校別のわかっている、明治三〇年の 二九名の合格者についても、二つ以上の法律学校に籍をおいたものが五人もいるのに対して、どこ にも籍をおかなか「た「無学歴者」は一人もいない ( 6 ) 。これまでみてきた事例からもわかるよう に、ともかく上京して、法律学校に籍をおいて「苦学」するというのが、正規の学校系統をふむだ けの経済的余裕のない若者たちの、行政官、司法官、さらには弁護士の国家試験をめざす、「正統的」 な道であった。 たとえば明治初年生まれと思われる『苦学成功宮城時雨郎』 ( 7 ) の主人公は、家は仙台近郊の貧農。 小学校卒業後、代用教員を ~ て地方裁判所の下級職員になるが、国家試験をめざして上京し、昼間 は裁判所で働き、夜は東京法学院 ( 現・中央大学 ) に通うという苦学生活を始めた。しかし生活は苦 しく、三年間の在学中、授業料はなんとか払「たものの「本学年に到り唯の一回たりとも通学せし 事なきのみならず : : : 入学以来三年間講義録を購読せし事なく、友人の購読せしを閑を盗み借覧す るのみ」であった。 落第を覚悟して受験したところ、思いがけず卒業試験に合格したのが明治二六年。その後は陸軍 272
ための専門教育であった。それは私立専門学校の学生数の八割近くをしめた法律系の私学も同じで ある。これらの学校の多くは弁護士 ( 当初は代言人とよばれていた ) の養成を目的に設立された。こ れにやがて司法官や行政官の任用試験の準備教育が加わる。効率的に法律学を勉強して、首尾よく 国家試験に。ハスすればよい。そのために今日は明治法律学校、明日は東京法学院と、二つも三つも の法律学校に籍をおくものも少なくなかった。 永井道雄は、これらの私学を「適応派」とよび、「私学でありながら、官立以上に官立的であるこ とによって、学校としての存在理由をも」ちえたと、特徴づけている ( リ。たしかに、専門教育偏重 と国家試験準備の「予備校」的な側面だけをみるならば、その通りだろう。これら私学は官学に対 、こ。しかし同時にこれらの私学、とく 抗的であるよりも、それを補完し代替する役割をはたしてし / に法律系の私学については、それが予備校的であるとか、適応派であるとかいうだけでは片付かな い別の側面をもっていたことを見落としてはならない。 遊学生たち たとえば明治二一年に明治法律学校に入学した豊田多三郎は、次のように回顧しているーー当時 は「自由民権運動が勃興した時代で、郷党の青年などは皆東京に出て来」た。「学校を卒業したら判 事にならう、弁護士にならうと云ふ考へを持つものもありましたが、中には必ずしもさうではない。 正式の中学校の学科は履まなかったが、兎に角この際法律を学んで置かなければと云ふことで、東 京に出掛けて法律学校に入って、卒業すれば郷党でも重きをなして、政党に入って相当の待遇を受 けられると云ふやうな時代でした」 ( リ。それは、早稲田も同様で、「法律を学んで判検事、弁護士に なる目的で勉強する人は少なく、他は卒業の暁は地方に帰り家業に就き、又は郷土の政治経済方面
上は「学歴戦争」がすでに、帝国大学とそれ以外の官立学校の間で、また官立学校と私立学校の間 で始まっていたことを十分に認識していなかったのである ( 3 ) 。 なによりも帝国大学は、その人材養成における特権を手ばなそうとはしなか「た。官僚をはじめ トの養成機関として、つまり最高の学歴の発給所としての地位をしめていればこそ、帝国大 学の社会的威信も高い。研究者の養成所にな「てしま「たのではおしまいである。「帝大派」の抵 抗は強か「た。高等学校法学部の卒業生には、行政・法律関係の国家試験において、ついに帝国大 学法科大学の卒業生と同一の特権は認められなか「た。また第三高等学校を例外として、他の高等 学校の大学予科は廃止されず、専門学部の数もふえなか「た。逆に政府は京都に第二の帝国大学を 開設し、また高等学校の専門学部は順次分離して独立の専門学校に変えざるをえなくな「た。明治 三〇年代の半ばまでには、帝国大学の地位は、ゆるぎないものになっていた。 法学教育という戦場 私立学校との間の「学歴戦争」は、さらに複雑であった。 官・私の学歴戦争の最大の戦場とされたのが、法学教育の領域であったことは前章でもみた通り である。この有力私学の集まる「戦場」では、戦闘は明治一六年、東京大学が法学部に「別課法学 科」を開設した時から始ま「ていた。この別課の新設は、簡易速成の法学教育を行い、正規の課程 をおえた法学士だけではみたしえない、法曹への増大する需要を充足することが目的とされた。し かし同時に、別課設立の趣意書はきわめて率直に、それが私学対策をねらったものでもあることを 抗 私認めていた 「今東京府下ニ東京専門学校アリ専修学校アリ明治法律学校アリ其他法律講授ノ私学甚ダ多」、 209
井上毅の構想 明治三一年七月一七日付の『毎日新聞』は、東京の主要私立学校が「卒業生に対し特典附与の件を 新文部大臣に建議請願する」ために、集ま「て運動を開始したことを伝えている ( 1 ) 。その「諸校連 合運動の目的」は、記事によれば「政治経済に在りては卒業生は直ちに普通文官たる資格を得る事、 文学及理学卒業者に在りては尋常師範尋常中学高等女学校の教員たるを得る事、医科に在りては実 地試験丈けに及第せる者に開業免状を附与する事」などにあ「た。つまり学歴Ⅱ卒業証書の約束す る特権について、官公立と私立の差別を撤廃し、同等の扱いをするよう要求しようというのである。 この運動に加わった学校の名前もあげられているが、それによると法学では東京法学院 ( 現・中 央大学、以下同じ ) 、明治法律学校 ( 明治大学 ) 、和仏法律学校 ( 法政大学 ) 、日本法律学校 ( 日本大 学 ) 、東京専門学校 ( 早稲田大学 ) 、文学では哲学館 ( 東洋大学 ) 、国学院 ( 同大学 ) 、東京専門学校、政 治経済では専修学校 ( 専修大学 ) 、東京専門学校、医科では済生学舎、芝医学校、高山歯科医院 ( 東京 静歯科大学 ) 、理化学が東京物理学校 ( 東京理科大学 ) などであ「た。 丿ーに分類されていたが、奇妙な これらの学校は文部省統計のなかでは、専門学校というカテゴー いってみれば自然 ことに準拠すべき法律をもっていなかった。つまりよるべき正式の基準なしに、 官私抗争 207
に活躍してゐる人が主で、職業を得る目的の為に学問を為すといふ風ではなくて、人間を造る為に 学問をする風」信 ) であったという。 もちろんすべての学生、すべての学校がそうだったというわけではあるまい。明治二二年に東京 法学院に入学した長谷川如是閑は、学生が「いずれも法律そのものを、世に出た後の自分の足場に しようとする覚悟をも「て」おり、「政治家、裁判官、弁護士、実業家、官吏、新聞記者といったよ うな、は「きりした目標」をめざしているようにみえた ) と書いている。ただ、全体としてみれ ば、法律系私学の学生の多数をしめていたのは、必ずしも国家試験をめざすのではなく、法律学を いわば「教養」として学ばうとする学生たちであったとみてよい 明治の前半期といえば、まだすべてが流動的だ「た時代である。なにをしたらよいのかは「きり しないままに、「文明開化」にあこがれ、西洋の新しい学問にひかれ、あるいは鬱勃たる野心を抱い て、「上京遊学」してくる若者たちも多か「た。法律系の私学は、その志望のあいまいな若者たちに と。て恰好の「宿り場」であ「た。明治二一年、明治法律学校は「特別生規則」をつくるが、その 経緯を、『明治大学五十年史』はこう書いている。 「当時の学生は猶ほ維新後の志士豪傑の風を遺し、動もすれば天下国家を論ずると共に酒色の巷に 出没し、遂に学業成績を完うせざる者が尠くなか「た。これが為に父兄等も子弟を遠く帝都に遊ば しめることを喜ばざる者が多か「た」。そこで「特別生」の制度を設け、「三箇年の学費二百円を前 納したる者は、本校が責任を以て監督し完全に業を終 ~ しめて、郷国に錦衣を飾らしむることを謀 学 った」行 ) 。 京特別生になると「必ズ本校部長室又 ( 其隣室ニ置キ部長ヲシテ親シク平常ノ品行及学業勤惰ヲ監 視セシ」め、逐一親許に報告するというのである。この制度のおかげで、同校の学生数は急増 すくな やや
この「簡易速成」の教育については、それが同時に、それぞれの専門学の普及、啓蒙を目的に、 採算を度外視して始められたものであることを、指摘しておく必要がある。 たとえば明治法律学校 ( 現・明治大学 ) は、司法省法学校の卒業生たちが、「聊カ御国恩ニ報ヒンガ 為メ無月謝ヲ以テ各公務ノ余暇授業」する学校として、設立されたものである ( 8 ) 。英吉利法律学校 ( 東京法学院をへて中央大学 ) はその名のとおり、東京大学法学部の英米法専攻の卒業生たちが集まっ て設立した学校であり、ここでも英米法の普及を目的に「講師は皆無報酬を以て講義を担当」 ( 9 ) し ていた。また東京物理学校 ( 現・東京理科大学 ) は、東京大学の物理学科の卒業生が「公益ノ為」に せんこう 「物理ノ学ヲ闡弘スル目的」で創設したものだが、「維持同盟者」が出しあう資金で、辛うじて維持 されていた ) 。 国家の援助もなく 、強力な資金面での支持組織もなく、いわば有志の情熱だけを基盤に発足した これらの私学が、「親方日の丸」の官立学校と違って施設設備の面でも、教授陣においても、著しく 貧弱であったことはいうまでもない。一例をあげれば、明治二一年「当時の明治法律学校は名だけ は堂々たるものであるが、教場は講堂一つきりといふ小さなものであり、講師も司法省の役人や裁 専任の教授陣を 判官などが出勤前と退庁後に講義するため、授業は早朝と夜であった」 ( リという。 もっ私学は、ほとんどなかったのである。 しかし、これら私学の長所は、そこに行けば、中学校を出ていなくても英語ができなくても、き びしい試験もなしに入学でき、専門教育がうけられることにあった。講師には官立学校の教授も多 そして、あとでみるように国家試験に合格すれば、官立学校の卒業者と同じ資格を手に入れる ことができる。しかも授業料は安く、授業も夜間や早朝だから「苦学」しながら学ぶこともできる。 それはいってみれば、専門教育と人材養成の「バイ。ハス」的な役割をはたしていたのである。 いささ
「此等ノ私学ハ概ネ皆ナ資本乏シク規模少ニシテ到底天下ノ望ヲ充タスニ足ラ」ない。だがその私 学がますます多くの卒業生を送り出し、法律家の養成に大きな役割をはたしつつある。「今ニシテ 之ヲ措テ顧ミ」ないならば、東京大学の法学部は「日ヲ追テ萎靡衰頽ニ至ランヤ必セリ」。別課法学 科を設立しようとするのは、そうした危機感に立ってのことに他ならない。 この計画を聞いて、あ るいは「官彼ノ私学ト競争シテ彼ノ盛大ニ赴クヲ妨碍シ以テ彼ヲ倒圧セント企ツルモノ」と考える 向きもあるかも知れない。しかしいまここで国家「永遠ノ利益ヲ顧ミザルトキハ却テ余弊ヲ千載ニ 残ス」だろう。別課法学科の設立構想を立て、趣意書を書いたのは、危機感にかられた東京大学法 学部の教授たちであった ( 4 ) 。 その別課法学科は構想通り開設されるが、明治一九年、帝国大学法科大学が発足すると同時に廃 止されてしまう。最高学府に、低度の教育課程はふさわしくないというのである。しかしそれで公 私の戦争が終わったわけではない。政府はいまは無視しえない存在にまで成長した私学を直接に管 理統制する方向で、政策転換をはかったのであり、同年「私立法律学校特別監督条規」を定め、「東 京府下ニ於テ適当ナリト認ムル法律学校ヲ撰ビ特ニ帝国大学総長ヲシテ之ヲ監督セシムルコト」と この「条規」は、監督対象となる私立法律学校に対して、入学者の資格をきびしくし、教育課程 を整備することを求める一方、卒業生のうち「帝国大学総長ニ於テ優等ナリト認メタル者ハ法科大 学ニ於テ司法官吏立合ノ上更ニ試問」をし、「試験及等ノ者ニハ及第証書ヲ交付」するという、アメ とムチをたくみに組みあわせて、私学を政府の統制下におき人材養成システムのなかに、完全に組 み込もうとするものであった。なお上記の「及第証書」をもっ優等卒業生については、帝国大学卒 業生と同様、無試験で判事に登用することが約束されていた ( 5 ) 。 210
に高等の学問を修了するだけの資金を有せざるものは、速かに実地の職業について学問に代ゅべき間 経験と熟練をつんで、事業の運転に必要なる一員となるやうにせなければならぬ。又高等の学術を 研究すべき才能及資力を有するものは、疾くに其の職業を予選し、社会に於ける一定の地位を目的 として学問を修さめなければならぬ」 ( 1 ) 明治維新は政治的な革命であ「ただけでなく、社会革命であり、文化革命でもあ「た。その革命 の一環としてつくられた教育と学歴の制度は、少なくとも発足の当初には、若者たちの夢と希望を ふくらませ、社会的な上昇移動の機会を開き、提供してくれるものであ「た。学校は財産とも家柄 とも関係のない、自分の能力だけがものをいう、「立身出世」のも「とも重要な手段だ「たのであ る。しかし、「革命」から三〇年たち、四〇年たつうちに、教育と学歴は上昇移動の機会を開放する よりも、統制する役割を強めはじめた。「実業家朝吹氏の談」は、そうした明治という時代の変質 を、みごとにとらえたものといってよ、 これまでみてきたように、学歴の支配は官僚の世界から始ま「た。法科大学卒業者 ~ の無試験特 権が廃止され、高級行政官僚の任用が全て試験にもとづいて行われるようにな「てからも、官私を 問わず、法学教育機関で系統的な教育をうける機会のなか「たものが、合格する可能性はきわめて 低か「た。明治二七年から四〇年までの高等文官試験合格者六七一名についてみると、高等小学校 卒一名、師範学校卒三名、中学校卒三名、これに学歴不明の一八名を加えても、わずか二五名、四 % 弱が中等学校以下の学歴しかもたない人たちであり、他はすべて法科大学ないし私立法律学校で 法学や政治学を学んだ高学歴者であ「た ( 2 ) 。司法官僚の場合にも、法科大学卒業者の無試験任用 制が残「ていたし、国家試験の受験資格自体、司法大臣の指定する私立法律学校の卒業者だけに限 られていた。
叢出を見るに至」「た。「大学の名を冠する以上は、各大学たるもの、之に対して恥ちざるの実力と これからは各大学 品格とを保」たねばならない。「其の責任の大なる、決して従前の比」ではない、 とも「入学試験を厳重に行ひ、各学科の講師を選択し、学生の取締を厳にすると同時に、高尚なる 品格を保つことと基本金の蓄積とを謀」るべきである。「従来の法律学校は徒に商売主義に傾き、校 風の涵養等には、一向に意を用ひ」てこなか。たが、「既に大学の名を冠し、官立大学と相対して、 国家に貢献せんとする以上は、宜しく善良なる校風を涵養し、其処より輩出する人物の品格を高尚 にするの覚悟」がなくてはならない、 大学の「名称」はもら「たものの、実態は帝国大学にははるかに及ばないという思いは、当の私 学関係者の間にもあ。た。法政大学 ( 和仏法律学校 ) の梅謙次郎学長は、大学の開校式で「私共ノ希 望 ( 今日ノ大学ト称スル ( 実 ( マダ早イ、マダ大学ト称スル = ( 足ラヌト思フ」のだが、「唯併シナ あまた ガラ世間ニ矢張リ同一程度ノ大学ナルモノガ許多」あるので、やむをえず「本校ノ程度ヲ大ニ高メ すべから ルト云フ目的ヲ以テ須ク法政大学ノ名称ヲ用ヒ」るのだと、率直にのべているし ( リ、明治大学 ( 明 やや 治法律学校 ) の機関誌『明治法学』も「名は実の賓なり、然れども名と実との動もすれは相伴はざる は、今の世の通弊なり、大学の名と其実とに於ても、吾人は其の或ものに付て、多少此憾なしとせ ざるも、是れ総ての事物に通して、其の初期に於ける免れ難き常態」だと弁明している @。 実際に、一年半程度の予科をおいて「大学部」を開設したとはい「ても、教育の条件も水準も、 到底帝国大学に及ぶものではなか「た。私立大学は「大学として」出発したわけではなく、「大学を 争めざして」出発したにすぎなか「た。だがそれにしても「大学」の名称、「大学学士」の称号を認め 私られたことが、対等平等化 ~ の重要な前進であ「たことは間違いない。大正七年の「大学令」によ る正規の大学化 ~ 、私学は大きく一歩を踏み出したのである。 しか 215
の私学をめざしたのは、当然といえるだろう。 しかもかれらの多くは、明治維新以前には、地方の政治や行政にかかわってきた士族や豪農層の ハンスの高い学問だったとみてよい。法律 子弟である。その点でも、法律学はかれらにとってレリ 学は、いってみれば、漢学にかわる新しい「教養」としての意味あいをもっていたのである。法律 系の私学が、おそらくはたくまざる形で、多数の若者を地方から集めることに成功した一半の理由 は、そこにあった。 法律学についてはまた、それが、政治学や経済学以上に、。ハンと結びついた学問であった点が重 要である。行政官、司法官、弁護士と、国家試験についても「とも「応用」範囲の広いのは法律学 であ「た。国家試験をうけなくても、法律学の知識が役に立っ職業や生活の領域は多い。それはま さにも「とも「つぶしの利く」学問であ「た。法律学の教育は専門教育であると同時に、それをこ えた一種の「教養」教育としての性格をも持っという両面性を色濃くそなえていた。 この両面性の問題は、わが国の教育における「教養」の問題を考える場合、きわめて重要である。 上層中産階級の創出を、は「きり教育の目的にかかげた慶応義塾の場合にも、そこでの教育の中身 は、経済学を主体とする「実学」であった。福沢にとって、学問は「無き財産を作る方便」として 学ぶべきものではないが、同時に実用に役立つものでなければならなかった。なぜなら、かれの考 しまある財産からの収入で労せずに生活をする有産・有閑階級では えた「ミッズルカラッス」は、、 なく、資産を「維持し又随て貨殖」すべく努力する、実業人でなければならなかったからである。 「学問ヲ道楽ニスルト云フャウナ者」は、わが国でもっとも富裕な社会層の子弟を教育の対象として いたと思われる、慶応義塾の場合にも、はじめから無縁な存在だったのである。 106