福沢諭吉の教育観 福沢諭吉は「実学」の重要性を説いてやまなかった人である。福沢によれば、その実学は、産業 社会の担い手である「実業人」のための基礎教養とでもいうべきものであった。 明治四年に書かれた『学問のす、め』初編のなかで福沢は、実学の内容として「いろは四十七文 てんびん 字、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱等」の他、地理学、究理学、歴史、経済学 をあげている。これまで学問といえば漢学や国学であった。ところが、「古来漢学者にて世帯持の 上手なる者少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀」である。「これがため心ある町人百姓 は、其子の学問に出精するを見て、やがて身代を持崩すならんとて、親心に心配する者」が多い。 「無理からぬこと」である。しかし自分のいう実学はそれとは違う。それは「人間普通日用に近き」 学問である ( 1 ) 。 いまや日本は「生れながら其身に附たる位などと申すは先づなき姿にて、唯其人の才徳と其居処 とに由て位もある」という社会になった。「身に才徳を備んとするには物事の理を知」らなければな 「学問の急務なる訳」はこの占 らないし、「物事の理を知らんとするには字を学」ばねばならない。 にある ( 2 ) この「学問のすすめ」を、福沢は、すでに教育の価値を知って、かれの塾に集まって 6 教育も銭なり
学歴を手に入れるには、カネがなによりも重要な条件になったのである。 福沢は、森よりもさらに直截に、そのことをいってのけた。「教育も銭なり衣裳も銭なり、貧子女 に綺羅を着用せしむるの難きを知らば、之に授くるに高き教育を以てするも亦無理ならずや」 ( 。 「貧家の子弟をして高尚なる学識を得せしむるは : : : 其教育の成りたる上にて本人の心を苦しめ、 又随って天下の禍源を醸する掛念なきに非ず。凡そ人間社会の不都合は人の智力と其財産と相互に 平均を失ふより甚だしきはな」い。そこで「教育の段階は正しく貧富の差等を違へず、幸ひに学 問の熱を催したる富人をして其欲する所に任し、銭を投じて高尚なる教育を買はしむるは策の得た るものなる可し」 ( リとまで、福沢は言っている。 このように、「階級的」教育観にたって、高等教育の機会を社会の「富裕層」に限定的に与えよう とした点で、森と福沢は共通している。しかし在野の、しかも私学経営者でもある福沢と、文教政 策の最高責任者として「国家ノ須要ニ応」ずる公教育システムの建設をめざした森との間には、と くに高等教育機関において、なにを教育内容として教授すべきかについて、決定的な考え方の違い があったことを見落としてはならない。 このこととかかわって、福沢が試みている学問の三つのタイプ分けが興味深い。福沢によれば、 学には三つの道がある。第一は、「学問を学び得て之を生涯の本職と為」す道で、この道をとるも のを「学者」という。第二は「専門の一科学を学び得て直に之れを人事に施し、以て自他を利する 者」で、これを「学術の事業家」とよぶ。この二種類の人たちは「学問を其まま利用して身を立て 家を興すもの」だから、つまりは「無き財産を作るの方便として学問を学び学問を用ひる者」であ 育る ( ) 。 教 これに対して、すでに一定の資産をもち、それを「維持し又随て貨殖する」ことを必要としてい しゅよう
ようと考へて留学費を積んで居て呉れ」朝たほどだという。「読書が好きで文字通り万巻の書を読 破し」ていたが、福沢諭吉の『西洋事情』を読んですっかり福沢ファンになり、ついには、息子を 慶応義塾に入学させてしまうのである。 武藤の自伝によれば、父が自由民権派の活動家だったかれの家では、しばしば東京から有志家が やってきて「政談演説会」が開かれた。 「私も子供ながら此演説を聞き、何となく演説が上手になって見たいと言ふ気になり、父に此事を 話しますと、福沢先生の塾には演説館があり、演説の稽古も出来るとの話を聞き、東京に行きたく 父に請うて遂に福沢先生の塾へ入学することになりました」 ) 明治一三年、一四歳の時である。武藤は、はじめ「本塾に入学するには未だ年少なる生徒のため に設立され」た幼稚舎に入り、のちに本塾に移るのだが「当時の慶応義塾は晩学の生徒が多く、女 房子を連れて東京へ留学し、一家を構へて通学してゐるものもありました。かやうな次第で、寄宿 舎は童子寮 ( 少年寮 ) と大人寮と二つに分かれてゐましたが、童子寮と言っても決して童子ばかりで なく相当の年齢のものも交ってゐました」 ( と回顧している。 武藤の回顧で重要なのは、かれが当時の義塾の教育のねらいが「人格教育」にあったということ をくり返し強調している点である。 「頃日になって考へますと福沢先生が幼稚舎を御創設になったのは、英国で人格の高い先生が限ら れたる生徒を預って家庭的に世話をし、人格を練る小さな塾舎のやうなものをお開きになって、特 に人格の高い穏厚なる和田先生に其仕事を托されたのではなからうかとも想像されます」 ( 召。「本 塾の教育は英国流の人格教育で学課も色々あって、英語や支那語や簿記のやうな世の中へ出て実地 に間に合ふものもありましたが、それよりも政治経済文学の英書の訳読が主でありました」 )
人格教育への要求 ここには、「学歴」を与えあるいは手に入れることとは、したが「て立身出世とも、ま「たくかか わりのない教育の世界があ「たことがわかる。福沢の慶応義塾は維新前後に、東京に多数つくられ た「洋学塾」のなかで、唯一近代学校 ~ と発展をとげ、ついには大学にまでな「た私塾である。私 塾は基本的にひとりの師と、かれを慕「て集ま「てくる弟子から組織される。教師のも「ているカ リスマが大きいほど、弟子も多くなるが、その師弟関係の基礎にあるのは、師の人格による人間的 な陶冶である。福沢はまさに、そうしたカリスマをも「た教師であった。 その慶応義塾も、明治五年にはまだ士族が在学者の八八 % をしめるという「士族学校」であ「た。 しかも半数近くは「旧藩時代から引き続いた府県の公費生であ「た」 ( 四 ) という。このため、廃藩置 県や秩禄処分の影響をまともにうけて、明治一〇年前後には生徒数が激減し、義塾の経営は危機に 瀕することにな「た。明治一一年には福沢は、士族の貧書生救済を理由に、政府に対して「義塾維 持の資本金」の借入まで申し入れている⑩。これは結局実現せず、自力で苦境をのり切「ていくこ とになるのだが、それを可能にしたのは、富裕な平民層の教育要求の高まりであ「た。「本年入学生 の様子を見るに、何れも地方の富豪多し。此様子にて今後を察するに、例 ~ ば昔堅気の鴻の池善右 衛門の流まで子弟の教育に意を用る事に可相成哉に存候」と、明治一四年、福沢はある門下生に書 き送「ている ( 引 ) 。地方名望家層の教育 ~ の要求は、明治一〇年代の半ばにな「て、ようやく、この 学歴賦与よりも「人格教育」を重視する学校に向けられはじめたのである。 この時期の慶応義塾は、現代風にいえば「各種学校」であ「た。文部省の定める教育法規のどこ よい意味での「塾風」を十二分に残した、自由な学校である。福沢のいう「実学」 にも入らない、 とうや
6 教育も銭なり 前掲『福沢諭吉選集』第一巻、三五四頁。 / ⑥同、三五五頁。 / ⑦同、三五二 ~ 四頁。 ⑧木村カ雄『異文化遍歴者森有礼』 ( 福村出版、昭和六一年 ) 一一一六 ~ 七頁。 ⑨『森有礼全集』第一巻 ( 宣文堂書店、昭和四七年 ) 五三七頁。 ⑩前掲『福沢諭吉選集』第一巻、三五五頁。 / 圓同、三五八頁。 / 貶同、三五九頁。 前掲『福沢諭吉全集』第一二巻、一〇〇頁。 / 同、一〇一頁。 鬮『明治文化資料叢書第八巻、教育篇』 ( 風間書房、昭和三六年 ) 一〇一頁。 冊前掲『森有礼全集』第一巻、五三七頁。 聞伊藤博文編『秘書類簒・官制関係資料』 ( 昭和一〇年 ) 一五四 ~ 五頁。 冊天野郁夫『試験の社会史』 ( 東京大学出版会、昭和五八年 ) 一六九 ~ 一七三頁。 『教育時論』明治三三年一二月一五日号、四三頁。 前掲『福沢諭吉選集』第一巻、三五二頁。 『明治二五年東京遊学案内』 ( 博文館、明治一一五年 ) 和辻哲郎『自叙伝の試み』 ( 中央公論社、昭和三六年 ) 一一一二頁。 『明治大学五十年史』 ( 同大学、昭和六年 ) 五頁。 『福翁自伝』 ( 中央公論社「日本の名著・芻福沢諭吉」所収、昭和四四年 ) 三四〇頁。 『廿五年記念早稲田大学創業録』 ( 同大学、明治四〇年 ) 一四八 ~ 一五二頁。
福沢諭吉「実業論」 ( 『福沢論吉選集』第八巻、岩波書店、昭和一一六年 ) 一一六六頁。 『日用百科全書第三七編改訂就学案内』 ( 博文館、明治三七年 ) 五七 ~ 八頁。 『中学卒業就学顧問』 ( 実業之日本社、大正三年 ) 二五 ~ 六頁。 268
いた士族の子弟よりも「平民」の子弟にむけて説いたとみてよい。「農工商の三民は其身分以前に百 倍し、やがて士族と肩を並るの勢に至」「たのだから、大いに新しい学問にはげむべきだと、福沢 は強調している ( 3 ) 。 だが平民の教育要求は、すぐには高まらなか「た。先にみたように、明治一〇年代になるまで、 慶応義塾の在学者の圧倒的に多くは士族であり、「一般に農商の人口に比例するときは、高尚の学に 就く者甚だ家々」というのが実態であ「た。福沢は、平民の子弟に「学問のすすめ」を説く一方で、 「祖先遺伝の能力」において「大に他の三民に異なる」士族に「一般子弟教育の扶助」を与え、実学 を学ばせることによ「て、新しい時代の実業人養成をはかろうとしたのである ( 4 ) 。 ところがそれから五年ほどた「た明治二〇年、福沢は、ま 0 たく異なる主張をするようになる。 「維新後十数年の間は教育の区域を士族に限り、他の平民は兎角学問を好まずして不慣れなる洋学 あた などに至りては殆んど之を嫌忌する程の事情にて、恰かも士族の子弟をして高尚の教育を専らにせ しむるの勢ひ」であ「たが、「時勢の変遷進歩に随ひ近来は大に平民の眼を開き、農工商の社会に て苟も資産ある者は其子弟の教育に心を用ひざるはな」いという状況にな。た。かっては「何れの 学校生徒にしても士族の中僅に平民の子を交 ~ たるものが、今は之に反して平民中に士族を交るの 割合」にな「ている。こうして「教育の区域既に平民に達」したいまでは「学費の出処も甚だ容易 にして復た心配するに足」りない ( 5 ) 。福沢はそう指摘して、「元来学問教育も一種の商売品にして、 其品格に上下の等差ある可きは誠に当然」のことである、「家産豊にして父母の志篤き者が子の為め に等の教育を買ひ、資カ少しく足らざる者は中等を買ひ、中等より下等」というように、資力に 育よ「て受ける教育の水準に違いを生ずるのは、やむをえないことだと、主張したのである ( 6 ) 。 福沢のこうした主張は、明治二〇年前後、森有礼が文相としてと「た政策の根底にあ「た考え方
明治三六年成立 ) の検討を始めたとき、ある教育雑誌は「当路の策が多年私立学校撲滅の傾向を有せ しゃ疑を容れず、少くとも、之れを無視するの方針を執りしこと明白」である。ところが「当路者 今や、多年の傾向に背馳して、従来嫌悪したる私立学校を顧み、大に之れを利用するを得策とする に至りたるもの」のようだと皮肉を交えて書いている朝。明治前半期の私学は、無視された存在だ ったのである。 しかし、福沢にと「て問題は国家から無視されることにあ「たのではない。かれには特権と引き かえに、慶応義塾を「国家ノ須要」に応じ、国家に直接奉仕する学校にするつもりはなか「た。問 題は「授業料の最も低くして課程の最も高き官立学校なるもの」が存在するという事実にあ「た。 「抑も今の私立学校に課程の低きは其校費足らざるが為めなり。其校費の足らざるは学生に高き授 業料を課す可からざればなり。其これを課す可からざるは何ぞや」。それは官立学校があるからで ある。「故に今官立学校の制を廃して天下 ~ 私学を放ちたらば、私立学校は必ず其授業料を増して 校費を集め、随「て其学業の課程を高尚にして、高尚なる学者を作ること決して難」くはない ) 。 福沢は、そう考えていた。 すでにみたように、森の構想した官立学校の授業料の大はばな値上げは、実現されなか「た。と はいうものの、明治二五年で二五円という帝国大学の授業料の年額は、決して安い額ではなか「た。 これに東京で下宿生活をする費用を加えれば、教育費は年間一二〇円前後に昇り、これだけの額を 負担できる層は、社会的に限られていた。その反面で福沢もいうように、 二五円という授業料は、 銭私学にと「て、官学なみの質の教育を提供しながらなおかっ経営を成り立たせるには、」 到底足りな 育い額であ「た。とい「て授業料を官学よりも高い水準に設定したのでは、十分な数の学生を集める ことはできない。福沢はそうした私学経営のディレンマを痛感していたのである。因みに、同じ年
し、経営が安定したという。 個性派の私学 このように上京遊学してくる若者たちは、すべてが「一科専門」の学問を学び、それを手段に、 官僚や専門的職業人になることをめざしたのではなか「た。同様に、私立専門学校についても、そ のすべてが予備校的な専門的知識の切り売りの場であ「たわけではない。私学のなかには、福沢の 慶応義塾、大隈の早稲田 ( 東京専門学校 ) 、新島の同志社、それにいくつかのミッシ = ン系の私学のよ うに、官学とも他の私学とも著しく異なる教育の理念や内容をも「た、個性の強い学校が、少数だ が存在していたからである。 これまでも度々ふれてきた福沢の慶応義塾は、幕末期の洋学塾のうち近代学校 ~ と成長をとげた、 ほとんど唯一の例である。それは欧米諸国の教育の実状をよく知る福沢が、慶応義塾の教育内容を、 たんなる英語の教授から、アメリカ的な高度の普通教育へと、いちはやく切りかえたことによる。 ( イスク 1 ルになら「たとされるその中等レベルの普通教育をかれはさらに経済学 ( 当時は理財学 とよばれていた ) を主体とする高等レベルの教育ーーーかれのいう「実学」へと発展させ、それによ「 て法律系の私学とは異なるタイプの若者たちをひきつけることに成功した。先にとりあげた武藤山 治や松永安左ヱ門のような、これら富裕な商工業者層の子弟を、法律系私学に集ま。た「法律青年」 に対して、「実業青年」とよぶことにすれば、理財学主体の教育は、まさに「実業青年」ーー将来の 実業人のための教育であったといってよい これに対して「大隈〔重信〕の政治学校」といわれた早稲田は、政治学 ( より正確には政治経済学 ) 中心の教育を特色とする学校であ「た。この学校には法律科もおかれていた。しかし明治一五年の いかに「遊」学生が多かったかがわかる。
る「富家」は、別に「高尚の学者たるを要せず、又専門の芸術家たるにも及ばず、唯その知識見聞爲 を博くして物理学人事学の概略を知ること」こそが大切である。福沢はこの第三の道をとるものを 「普通学者」とよんだ ( 。 この、福沢のいう「学問」の三つのタイプのうち、かれが慶応義塾でめざそうとしたのが第三の 道であることは、あらためていうまでもないだろう。 明治一〇年代に福沢は、くり返し官立学校を政府の管理から独立させ、私学化する必要を説いた。 政府のなかにも、義務教育以後の教育は、私学の自由な発展に委ねるべきだという考え方をもつ人 達が少なくなかった。実際に明治一二年、「学制」にかわる「教育令」の制定をめぐる元老院の会議 で、政府側の委員が「高等ノ教育ハ固ョリ人民ノ自為ニ任シ政府ハ之ニ干渉セズシテ只保護誘導ス ルニ止マルハ素ョリ然ルベキノ主義」だ信 ) とまでいい切って、はげしい議論をひき起こしている。 もし、高等教育政策がこの方向を選択していたとしたら、わが国の学歴社会は、かなりことなる構 造をもっことになったに違いない。 森有礼の教育観 しかし、明治一八年に文部大臣に就任した森有礼は、この方向を選択しなかった。森はそれとは 逆に、各官省に分散した官立学校を再編し、これに集中的な人的・物的投資をして強力な官立大学 この大学は、なによ 帝国大学を創設する方向を選んだ。「帝国大学令」の第一条にあるように、 りも「国家ノ須要ニ応」ずるものでなければならない。そして帝国大学進学者の予備教育機関とし ての高等学校以下の諸学校は、この「最高学府」を頂点とする、公教育システムのなかに整然と位 置づけられ、組みこまれねばならなかった。 もと もと