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検索対象: 学歴の社会史 : 教育と日本の近代
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1. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

の意味で「専門学校令」は私学を、学歴という「ビザの発給所」として、権威づける役割をはたし たことになる。だが、 その私学の卒業証書の「ビザ」としての価値は、官公立のそれにくらべて複 雑な性格を免れなか「た。なぜなら、有力私立専門学校の多くは大学部、専門部本科、専門部別科 とし、つ 入学Ⅱ卒業資格をことにする三つの教育課程を置いており、そのどれを卒業したかによ「 て、卒業証書の価値は著しくことなっていたからである。 入学資格を問わない別科の卒業証書は、なんの特典も約束しない。本科の卒業証書は特典と結び ついているものの、卒業者に称号は与えられない。大学部の卒業証書だけが「大学学士」の称号と、 特典とを約束する。だがそれとても帝国大学卒業の「学士」たちに与えられる特典にも、また社会 的威信にも、はるかに及ばない。。、 ヒサの発給所として権威づけられたとはいえ、私立専門学校の卒 業証書Ⅱ学歴の価値は、官公立学校のそれにくらべて、一段低い位置づけを免れることができなか ったのである。 低い私立学校の評価 私立学校に対するこうした社会的な評価は、たとえば当時よく読まれたと思われる、博文館の 『日用百科全書第三十七編就学案内』の記述に端的に示されている。「学校の撰択」の項で、それ はこうのべている。 「学校に官立私立の別あることは、諸君の既に知れる所にして、官立学校は、国費を以て支弁する ものなるが故に、書籍器具等の完備せるは言ふまでもなく、教授の方法、生徒の監督の如きも、精 緻厳密にして、殊更に注意するの要なきも、私立学校に至りては、其財源主として生徒の束脩月謝 等にあるを以て、資カ裕かならず、随て書籍器具等不整頓勝ちにして、学課規律の如きも官立学校 ゆた 222

2. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

に比すれば、概して幾等の遜色あるを見る : : : 甚しきに至りては、羊頭狗肉的の猾策を以て、学問 の切売を為すものなきにあらず。されば学資の供給充分にして、修業年限に差支なき諸君は、階級 を経て帝国大学、其の他の官立学校に入学するを宜しとす。されど多くの年月と学資とを得ずして、 私立学校に遊ばんとする諸君は、大に学校の撰択を慎まざる可らず」 ( 4 ) これが専門学校令公布前の明治三三年の『就学案内』の記述である。しかし、公布後の明治三七 年の『改訂就学案内』をみても、大した違いはない。それどころか、学校間の格差はさらにはっき りと書かれている 「諸君が地方に在りて、学校を選択するに際し、警戒を要すべき所なり。官立諸学校に在りては、 何等疑念を挿むを要せざること論を待たず。家に余財ありて、又修業年限にも制限を要せざる身分 の人は、順序を踏みて帝国大学に進むを第一とし、然らざるも其他の諸官立学校の中に就て我目的 の学科に適する学校を選まば可なり。若し或事情より私立学校に入らんとせば、創業日久しくして 基礎固く、已に天下の信用を恃せる私立学校の中に就て選まんこと最肝要なり。猥りに入学の容易 なると修業の速成なるとに惑はされて、如何はしき私立学校に入らば、失敗を招くの因となるべし」 そして、「本篇に載する所の各私立学校は大概相応に信用あるもの」だとして、具体的な学校名を あげている ( 5 ) 。 学校名は、、 しくつかのカテゴー 丿 1 に分けられているのだが、それによると「中にも慶応義塾、早 きょはく あま 稲田大学の如きは私立学校の巨擘として名声夙に世に洽ねく、官立の諸学校に比して毫も遜色」が 法 . 択よ、 0 また明治、中央、日本、法政、専修は「従来五大法律学校として知られしものにして創立日 選 きようこ 学久しく、基礎鞏固」であるとしたあとで、哲学館、明治学院など七校の校名をあげ、「皆是専門学校 令に基き文部省の認可を得たる専門学校にして、基礎固きものに属す」とのべ、さらに「程度のよ すで っと

3. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

官僚の任用試験制度が定められたのは、明治二〇年のことである。それ以前には、なにを条件に たれを採用するかについて、はっきりした規定はなく、藩閥による情実人事が横行していた。伊藤 博文を総理大臣とする最初の内閣は、それを改めるべく、試験と学歴による高級・中級官僚の任用 制度をつくったのである。官僚の任用はあくまでも実力本位に、公平無私のやり方で行われなけれ ばならない。そのために試験制度を導入し、その試験の受験資格を教育制度と、つまり学歴と結び つける。それが伊藤の考えた、新しい公平無私な官僚任用制度だった ( 四。 この考え方は、伊藤が国家体制のお手本と仰いでいたドイツ・プロイセンの官僚任用制によって いる。ただ伊藤は、特定の学歴、しかも学校歴としての学歴をもったものに試験免除の特権を与え るという、プロイセンにはない条件を重要な修正として加えた。日本の社会の学歴社会化のタネは、 この時にまかれたといってよ、 明治二〇年の「文官試験試補及見習規則」によると、その特権はこうなる。まず「法科大学文科 大学及旧東京大学法学部文学部ノ卒業生ハ高等試験ヲ要セズ〔高等文官の見習である〕試補」になる ことができる。また「官立府県立中学校又ハ之ト同等ナル官立府県立学校及帝国大学ノ監督ヲ受ク ル私立法律学校及旧司法省法学校ノ卒業証書ヲ有スル者」も、「試験ヲ要セズ〔中級官僚である〕判任 官見習」に任用される。つまり、帝国大学とその前身校卒業の「学士」たちは高級官僚に、それ以 外の官公立の中等学校以上の学校の卒業生は中級官僚に、いずれも無試験でなれるというのである。 これに対して、私立学校の場合には「帝国大学ノ監督ヲ受クル私立法律学校」の卒業生だけが、し かも中級官僚についてのみ、無試験任用の特権にあずかることができた。高級官僚について、かれ らが認められていたのは受験資格だけであった。 官公立学校の卒業証書の優位は明らかである。官僚の任用制度に関する限り、私学の卒業証書は 200

4. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

明治三六年成立 ) の検討を始めたとき、ある教育雑誌は「当路の策が多年私立学校撲滅の傾向を有せ しゃ疑を容れず、少くとも、之れを無視するの方針を執りしこと明白」である。ところが「当路者 今や、多年の傾向に背馳して、従来嫌悪したる私立学校を顧み、大に之れを利用するを得策とする に至りたるもの」のようだと皮肉を交えて書いている朝。明治前半期の私学は、無視された存在だ ったのである。 しかし、福沢にと「て問題は国家から無視されることにあ「たのではない。かれには特権と引き かえに、慶応義塾を「国家ノ須要」に応じ、国家に直接奉仕する学校にするつもりはなか「た。問 題は「授業料の最も低くして課程の最も高き官立学校なるもの」が存在するという事実にあ「た。 「抑も今の私立学校に課程の低きは其校費足らざるが為めなり。其校費の足らざるは学生に高き授 業料を課す可からざればなり。其これを課す可からざるは何ぞや」。それは官立学校があるからで ある。「故に今官立学校の制を廃して天下 ~ 私学を放ちたらば、私立学校は必ず其授業料を増して 校費を集め、随「て其学業の課程を高尚にして、高尚なる学者を作ること決して難」くはない ) 。 福沢は、そう考えていた。 すでにみたように、森の構想した官立学校の授業料の大はばな値上げは、実現されなか「た。と はいうものの、明治二五年で二五円という帝国大学の授業料の年額は、決して安い額ではなか「た。 これに東京で下宿生活をする費用を加えれば、教育費は年間一二〇円前後に昇り、これだけの額を 負担できる層は、社会的に限られていた。その反面で福沢もいうように、 二五円という授業料は、 銭私学にと「て、官学なみの質の教育を提供しながらなおかっ経営を成り立たせるには、」 到底足りな 育い額であ「た。とい「て授業料を官学よりも高い水準に設定したのでは、十分な数の学生を集める ことはできない。福沢はそうした私学経営のディレンマを痛感していたのである。因みに、同じ年

5. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

16 学歴戦争 ようなものである」。とすれば、「入国管理局」である学校が発給する卒業証書Ⅱ学歴は「橋頭堡地 区へのビザ」ということになる ( 9 ) 。 わが国の特徴は、この「ビザ」としての卒業証書の有効性ないし効力が「発給元」である学校の 違いにより、著しく異な「ていた点にある。そしてそれによ「て、わが国の学歴は「学問、教育ニ 就キテノ履歴」から「学校に関する履歴」 ( 『広辞苑』旧版 ) へと、急速に意味内容を変えていったの である。 教育の内容や水準による卒業証書の、ビザとしての効力に違いがあるのは当然のことである。た とえば法学を学んだ卒業者に、医師の免許が与えられることはありえないし、また官僚の任用にあ た「て、中等学校出と帝国大学出で扱いが違っていても、不思議はない。問題は、わが国の場合、 そうした学校の段階や教育の内容・水準の違いではなく、学校の種別、とくに官公立と私立の別に よって、ビザの効力に大きな格差が制度化されていた点にある。つまり、ビザである卒業証書の発 給所には、公けに認められたもの ( 官公立学校 ) と私的なもの ( 私立学校 ) との別があり、後者の 発行するビザの効力は著しく限られていたのである。 明治三〇年前後の時期は、そうした学歴の社会的効用の制度的な格差をとりのぞき、官公立学校 いってみれば「学歴戦 と対等平等の地位を獲得しようとする私立学校側の努力と闘争の時代 争」の時代である。そしてその学歴戦争の最大の激戦地とな「たのは、官僚の任用試験制度に他な らなかった。 学歴主義的な秩序 すでにみたことだが、以下の話のために、簡単にくり返しておこう。 199

6. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

経営することは不可能である。「大学、高等専門学校の如きは、必ずしも官府の事業」としなくても 「専門学校令」の公布のあと、こうした論調は大きく変わる。これまでは「私立学校の設立は頗自 由にして法令に準拠するとせざるとは、設立者の随意に任じ」てきた。ところが専門学校令は、こ うした従来の私学政策を一変させ、「高等ノ学術技芸ヲ教授スル学校」はすべて、この法律によるべ きものとし、それ以外の学校は「専門学校ト称スル「トヲ得ズ」と規定している。つまり「専門学 校」の名称を失う私学が出る一方で、「私立大学」はこの法律によらざるをえなくなる。「本令によ らざれば、私立の学校は高等の学術技芸を教授する」ことができないというのでは、「甚狭隘に失 、ゝ 0 ( 1 ) とくに、専門学校令だけで「私立大学の し、社会文運の発展普及を阻害するもの」ではな℃カ あてはめらるべき学校令」がないというのは、「当局者が、私立大学といふものの存在を、公認」し たくないからではないのか行。 この問題は、専門学校令の制定の過程で、私学関係者によ「てきびしく指摘されたところでもあ 。た。審議の過程で、当時最大の医学専門学校・済生学舎の校長だ「た長谷川泰は、こう追及して 「此専門学校令ノ中 = 私立ノ大学 ( 皆網羅サレルト云フノデアルガ、左様致シ「スルト、 ヾ、私立ノ大学ヲ撲滅スルト云フ「ト ( 穏当デ ( ナイカモ知レヌガ、即チ私立ノ大学ヲ設 別一一 = ロスレ 立スルノ必要ナシ」ということになる。「早稲田ノ専門学校デ専門学校ナル所ノ名目ヲ廃シテ今予 科ヲ置イテ : : : 早稲田大学トナリ「シタガ、サウシ「スト専門学校令発布ノ為メ = 、一番下ノモノ 争 = ナル、言葉ヲ換 ~ テ申スト大学ナルモノ ( 国立ノ帝国大学ノ外 ( 一切相成ラヌト云フ新法令ヲ御 私 発布 = ナ ' タモ同一ノ結果 = ナル」 ( リ。そして実際に、それが「専門学校令」制定の、かくされた 官 ねらいでもあったのである。 すこぶる 217

7. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

服等ノ費用ヲ自弁スル者 ( 願ニ因リ一箇年間陸軍現役ニ服セシ」めることにな「ていた ( 8 ) 。満二 〇歳にな「て壮丁検査をうけ、合格して徴兵されれば三年間、現役に服さなければならないのにく らべて、それは大きな特権であった。 その特権の前提とされたのは、中等以上の官公立学校の学歴と同時に、服役中の費用を負担しう る経済力である。学歴を手に入れるためには教育費の負担能力が必要だから、これは社会の富裕層 にと「て、きわめて有利な制度であ「たことになる。こうした富裕層の子弟の優遇策としては、そ れまでは「代人料支払」、つまり一定の免役料金 ( 二七〇円とも、四〇〇円ともされる ) を支払えば、 尸接的に経済 、こ ( 9 ) 。これが廃止された代わりに、司 一生兵役を免除するという特典が定められてしオ 力を条件とする、学歴による特典が設けられたのである。 その特権が官公立学校の卒業者だけに限られていたことに対しては、当然のことながら私学関係 者の強い批判があり、とくに福沢はこれを私立学校の存廃にかかわる問題として、はげしく攻撃し た。その後、大正期まで続く明治二二年改正の徴兵令は、こうした批判にこたえると同時に、兵役 と学歴との関係をい「そう明確にするものであり、専門的職業の資格制度や官僚任用制における学 歴重視に対応した動きであったとみてよい 改正された徴兵令には、次のような規定がある。すなわち「満十七歳以上満二十六歳以下ニシテ 官立学校 : : : 府県立師範学校中学校若ク ( 文部大臣ニ於テ中学校ノ学科程度ト同等以上ト認メタル 学校若ク ( 文部大臣ノ認可ヲ経タル学則ニ依リ法律学政治学理財学ヲ教授スル私立学校ノ卒業証書 効ヲ所持シ若ク ( 陸軍試験委員ノ試験ニ及第シ服役中食料被服装具等ノ費用ヲ自弁スル者 ( 志願ニ由 歴 丿一箇年間陸軍現役ニ服スルコト」ができ、また上記の諸「学校ニ在校ノ者 ( 本人ノ願ニ由リ満二 学 十六歳迄徴兵ヲ猶予」される朝。それは高学歴者、ひいては高い学歴を手に入れるのに必要な経済 そうてい 127

8. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

明治二二年、学問とそれを学んだものを三つのタイプに分けたとき、福沢は、そうした帝国大学 をはじめとする官立学校での教育の性格や、はたしている役割を、十分に意識していたのに違いな い。私学としての慶応義塾のとるべき道は、官学とは違ったところにある。それは、かれのいう 「普通学者」の教育の道である。官立学校は「学者」や「学術の事業家」の養成の場ではあっても、 「普通学者」の教育の場ではない。慶応義塾は、もちろん、他の二つの道をめざす人たちの教育の場 ともなりうる。しかし私学としての慶応義塾のめざすべき道は、なによりも第三の学問の道である 帝国大学の成立をみながら、福沢は、そう思い定めていたのではないだろうか。 私学と授業料 高等教育政策において官学中心主義をうち出した森は、私学の存在を否定したわけではない。帝 国大学と高等中学校の制度が発足したのちも、私立の高等教育機関をつくることは、まったく自由 であった。それだけでなく森は明治一九年には「特別監督条規」、さらに明治二一年にはそれに代わ るものとして「特別認可学校規則」を定めて、この時期すでに東京を中心に設立され、多数の学生 を集めていた私立法律学校のうち、一定の条件をみたすものについて、行政官や司法官の養成の面 で帝国大学を補完する役割を期待している ( 。 ただ、森は私学を育成することに、けっして積極的ではなかった。のちにみるように、私学のな かでも、人材養成面で「国家ノ須要ニ応」ずるものには、官学に準ずる各種の特権を認める。しか し、それ以外の私学の存在は、事実上無視する。それが森が私学に対してとった、ひいては国家カ その後もとり続けた政策であった。私立の高等教育機関については、長い間それを直接の対象とす る法律すらなかった。ようやく明治三三年になって、文部省が私学を対象とする法律 ( 専門学校令、

9. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

国家試験の予備校 人材の「簡易速成」を目的にかかげるこれらの私立専門学校に、「上京遊学」してくる若者たちが 求めたのは、第一に、各種の国家試験のための準備教育であった。実際に、ひとつひとつの私立専 門学校の成立の経緯や、教育のねらいをみていくと、それが医師や弁護士、中等学校教員などの専 門的職業人、それに官僚の国家試験の制度化と、深いかかわりをもっていたことがわかる。 近代化の推進に、戦略的な重要性の高いこれら人材の養成にあたって、政府のとったのがまずは 官立学校の設置であったことは、すでにみた通りである。官立学校の卒業者には自動的にこれらの 職業につく資格や免許状を与える。しかしそれだけでは、一時に大量にあらわれた人材の需要をみ たすことはできない。そこで政府がとったのが、国家試験による資格認定の制度であった。専門的 職業につくのにも官僚になるのにも、必要なのは一定の専門的な知識である。独学でもいいし、然 一定水準以上の専門的知識を身につけていることを試 るべく学校で学んだのでもいも 験によって証明してみせたものに、資格なり免許状なりを与える。それが政府のとったもうひとっ の人材養成・確保政策であ「た。私立専門学校の多くはこうした職業資格試験の準備の場として、 いわば国家試験の「予備校」として登場してきたのである。 子どもたちにもっとも人気のある「偉人」とされる野口英世が学んだ済生学舎はその典型的なも のであった。「それはいわば医師開業試験の予備校のようなもの」で、「官学系の医学士がアル。ハイ 学ト講師」としてや「てくる。講義は「早朝とか夕刻」で、「学生は必要に応じて月謝を払「て聴講 京し、開業試験に合格すれば、すぐやめていく」。学生たちの期待したのは立派な校舎でも、専任 の教授陣でも、緊密な人間関係やキャン。ハスライフでもなく、ただただ医師の国家試験に合格する

10. 学歴の社会史 : 教育と日本の近代

り低き実業学校、其他各種学校」についても、校名をあげてそれらが「私立学校中殊に盛大なもの」 であると書いている ( 6 ) 。つまり、ここには、帝国大学ー官立専門学校ー早慶ー五大私学ーその他専 門学校ー実業学校・各種学校という序列の存在が、明確に意識され、記述されているのである。 札幌農学校と学士号 私立学校の社会的な評価は、以上のようなものであ「たが、それでは帝国大学以外の官立諸学校 についてはどうだろうか。 すでにみたように、高等学校を専門学校化しようとする構想が早々と挫折し、明治三〇年、京都 に第二の帝国大学が設置されると、第三高等学校の法学部と工学部は廃止になり、また第一から第 五まで、五校の高等学校に附設されていた医学部も、明治三四年に医学専門学校として独立した。 残るは熊本の第五高等学校附設の工学部だけになったが、これも明治三九年に分離されて高等工業 学校となった。これで高等学校は純然たる「大学予科」に変わったことになる。 帝国大学以外の官立の専門教育機関は、この他にもあ「た。まず、特殊な専門教育機関として、 東京に美術、音楽、外国語の三校があり、専門学校令が公布されるとこの三校に医学の五校をあわ せた八校が、専門学校とな「た。しかし官立学校として、これらの学校以上に社会的な重要性をも 「ていたのは、専門学校令と実業学校令 ( 明治三二年 ) の二つの法律に準拠する、官立の実業専門学 校群である。その数は専門学校令施行時の明治三六年で農業二校、工業三校、商業二校にのばり、 その後も着実に校数を増していった。 中学校卒業者を入学させ、三 ~ 四年間の専門教育を与えるこれら官立の専門学校、実業専門学校 が、帝国大学よりもいちだん低く格づけられていたことは、、 しうまでもない。しかし実業専門学校 224