13 中等教育 なく、そこで職業経歴を始めれば、再び故郷に帰ってくることはまずなかった。中学校は、人びと を「中央」へ、「学歴の世界」へと送り出す。ハイプの役割をはたしていたわけである。 中学校卒業後、地元に残って職業についた一五人も、その多くが「月給取り」になった。官公吏 が七人、学校教員二人、地元企業一人というのが、その「月給取り」の内訳である。残りの五人が 家業を継いだ人たちだが、商業が二人、それに地方政治家になったものが二人いる。後者は、家業 といっても地主の家を継いだということであろう。そしてこれらの人びとにとって、中学校卒業の 学歴は、けっして必要不可欠のものではなかったのである。 不振の実業教育 「庶業」に分類された医師・弁護士などの専門職、それに「月給取り」の場合には、子どもを学校 にやり、教育上・職業上の資格をとらせなければ、親のあとを継がせることはできない。 しかし自営の農業や商業、工業の場合は違う。家業を継がせる上でその必要のない中学校にやる ことは、「学歴の世界」へのビザをとらせるようなものである。自営業主層の親たちが子ども、とく に長男を学校にやることに、ためらいを感じたのは当然だろう。たしかに、新しい文明開化の時代 を生きていくのに、社会の「中流」として、中等程度の教育は必要かも知れない。しかし、その教 育は、中学校がしているような、進学準備のための教育ではない方がいい。職業に少しでもかかわ 。家業に関連のある職業的な教育を、地元で与えてくれる学校がほしい りのある教育の方がいも そこに中等レベルの実業学校が出てくる社会的な基盤があった。 中等程度の実業教育機関が最初の設立。フームをむかえるのは、明治一〇年代の中頃である。「殖 産興業」政策の一環として、産業技術の近代化を目的に中央、地方にいくつもの実業教育機関がっ 163
11 庶民の世界 、高等科四 % その三つの課程別の就学者の構成をみると、全体では簡易科三八 % 、尋常科五八 となっているが、尋常科のしめる比率に、職業による差がほとんどないのに対して、高等科、簡易 科については、きわ立った違いがあることがわかる。すなわち高等科のしめる比率では、庶業の二 これに対して簡易科のそ 一 % 、商業の一二 % に対して、農業は二 % 、労力では一 % にもみたない。 れは労力で五〇 % をこえ、農業でも四二 % に及んでいる。こうした数字の背後に、経済的な問題が かくされていることはあらためていうまでもないだろう。わずかとはいえ、授業科を支払って、子 どもを学校にやることは、現金収入の乏しい職業に従事する人たちにとって、大きな負担であった しかしそれ以上に重要だったのは、教育をうけ学歴を手に入れることの意味である。学校に何年 も行き、読み書き以上のことを習っても、それが必要とされるような職業につく人たちは、明治三 〇年代になってもまだ、ごく限られていた。農業はいうまでもなく、工業でも、学歴・教育不問と いう場合がほとんどだった。商業になれば、読み書き能力以上のものが必要とされる度合いが強ま それでも、尋常小学校、せいぜいのところ高等小学校を出ていれば十 っていたことはたしかだが、 分であった。つまり、高等小学校はおろか、尋常小学校卒業の資格であっても、それをもっている ことの意味は、一般的な職業の世界では、ほとんどなかったのである。学歴がものをいう世界は そうした一般庶民の世界とは、まったく別のところにあった。 企業のなかの学歴 ことのついでに、職業と学歴の関係について、もう少しみておこう。 明治三七年に、文部省が出した『教育ノ効果ニ関スル取調』という、面白い調査報告がある。「未 141
「社会重要の職業」として、その官僚をふくめて、政府・公的部門の諸職業、それに民間・私的部門 の専門的諸職業があげられるなかに、「銀行会社員」の加えられていることが、目をひく。そして、 その「銀行会社員」の項をみると、それが急速に「学校出」の世界、すなわち学歴のものをいう世 界になり始めたことが、強調されているのを知ることができる。 「同じ銀行会社にも大きいものもあれば小さいのもある。確実なるもあれば不確実なのもある。素 より一様には言 ~ ぬが、先づ中以上の分を話せば、今日では総ての使用人ーー、算盤方より帳付けに 至るまで、相当な学校出でなくては使用せぬ。今より十年前位には簿記を教 ~ る所も少なか。たの で、少し簿記の学校でも卒業すれば、多少の給料に有りつく事を得たものである。けれども今日で は簿記を習「た者も多く、単に簿記を学んだのみの人などは、相当の会社では使用せざるに至「 では、どのような学校の卒業者が「相当の学校出」なのか。 「実業社会で一番需要の多いのは高等商業学校の卒業生で、同校の卒業生は一寸英文などの手紙を 書く、簿記算盤等をやる上、外国語も二国語位は話す。期う云ふ風であるから受けが善い。帝国大 学の卒業生も近来は卒業後高等官と為るに更に試験を受けねばならぬ等の事と為「たので、大分 ・ : 慶 に実業界に入り来るやうに為「た。けれども実業界での評判は到底高等商業出身に及ばない : 応義塾は元来実業家を出す学校として知られて居るのであるが、近来は明治大学にも商科が出来、 早稲田大学にも附属の商科大学が出来た。時代の風潮は大に実業界の人を造らんとするものがあ 法 待 用 東京高商の卒業者は、学校の所在地から「一ッ橋出」とよばれていた。そのかれらの実業界での 採 評価が、慶応義塾、つまり三田出や赤門出と微妙に違い、その違いゆえに高か「たことが、この記 257
もの ト」であったかが知られる。 の注 % 3 4 三重県については、その「エリ ト」たちの出身階 会 学職者範。 8 一 -0- 11 -0 一 L.O 機層もわかっている。それによると高等小学校卒業者の の無学 教 うち、「知識階級」である「庶業」が三六 % 、農業が三 等 冶進学 % は 中報九 % 、商業が二三 % とな「ている。庶業の比率が相対 る年 中 6 2 川け事的に高いのは、この時期の特徴だが、中等学校への進 学 お学 4 ・ 4 ワ】 -0- に県学者の比率でも、庶業の場合、中学校・師範学校あわ 等 本重 高 川日三せて四割をこえている。農業・商業の進学率は二割に 県 重 簡 6 囲 1 2 近はみたない。中等学校、とくに中学校は、知識階級であ 人 1 ー亠 11 司原る庶業の人たちの社会的な再生産の場となっていたの 業業業業カ 表 言池りである。因みにこの時期、「庶業」と分類された職業と 庶農工商労 菊よ 大きく重なりあっていた士族出身者の、中学校在学者 にしめる比率は、ようやく二分の一を割ったところであった。 しかし同時にこの頃には、中学校への進学者の増加とともに、士族の比率が急速な低下の局面に 入っていたことを、指摘しておくべきだろう。明治三一年には、それはすでに三分の一を下まわっ ていた。裏返せば平民、すなわち農業や商業出身者のしめる比率の上昇の過程でもあった。それを あらわす適切な数字はないが、たとえば、「文部省年報」にのった明治三七年の中学校入学者の親の 職業についてみると、農業三八 、商業一九 % 、工業三 % となっており、その他の職業 ( ほぼ庶業 にあたる ) は三九 % であった。この時期にはさらに中等教育機関として中学校だけでなく農・商・ 工の実業学校がめざましい発展をとげつつあったことをつけ加えておかねばならない。中等教育全 公い 160
とんど残されていない。 いささかならず違った職業 その意味で中等学校に限らず学校教員の世界は、官僚とも医師とも、 と組織の世界であった。『人物評論朝野の五大閥』のなかで、そのひとつに学閥をあげ、おそらく は初めて学閥の実態を具体的に分析した鵜崎鷺城が、もつばら官立諸学校の校長人事を例にとりあ げているのは、きわめて示唆的といわねばならない ( 2 ) 。 ところで帝国大学も前身校をたどればそうだが、官立の高等教育機関はほとんどが、一定の職業 的 ( 地域的 ) なテリトリ 1 を想定して設立された、専門教育機関である。医学専門学校、高等商業学 校、高等工業学校、音楽学校、美術学校、外国語学校、高等師範学校、そして帝国大学の法・医・ エ・文・理・農の各分科大学とあげていけば、そのことがよくわかる。そこには学問の領域、職業 の種別、学校の段階、それに地域による一種の棲み分けの構図が想定されていたのである。 しかしこの意図的、計画的に構想され、つくりあげられた官立学校の世界も、学校の数がふえ、 亠」。がもの一アリ , リ・ . 、ーこ 冫重なる部分が広がれば、競争関係が生まれ、きびしさを増していくのは中 等教員についてみた通りである。 さらにこれに私学が加わり、多様な学校の卒業者が同じ職業、同じ組織の世界で競いあうように なり、しかもたがいの実力が接近し伯仲するような状況が生まれれば、棲み分けの構図はくずれ、 再編成を迫られる。明治三〇年代の後半は、まさにそうした棲み分けの構図がくずれ、はげしいテ 争いが始まろうとしていた時代でもあった。そしてその主戦場となったのは、官立学校が 成 形圧倒的に優位をしめる政府・公的部門ではなく、急速な成長期をむかえた企業を中心とする民間・ 学私的部門に他ならなか「た。 それはすでにみた卒業証書や学士の称号に象徴される、学校の世界での官私の同格化をめぐる
19 学問・学校・職業 業者の四四 % が民間企業の技術者になっている。しかしこの場合にも、財閥系企業の工場・鉱山の 多くが、もともとは官営工場・鉱山として発足し、明治一〇年代半ば以降の「払下げ」の過程で民 間企業の手に移ったものであり、工学士たちの民間移動もそれに伴なって起こったものであること を忘れてはなるまい。工業化の担い手たちも、初めから民間部門をめざしていたわけではなかった 1- 亠 - 、ー亠 1 ・亠つん 1 亠 -44 ワ」 1 亠 1 ー亠 1 亠ワ 3 1 亠っ 0 表 16 帝国大学卒業者就業状況 ( 明治 25 年現在 ) 法医工文理農計 政府・公的部門 行政官 104 司法官 114 技術官 10 129 官庁医員 124 学校教員 8 116 35 22 68 68 / 、計 226 251 165 47 133 173 民間・私的部門 銀行会社員 8 会社技術員 病院医員 学校教員 2 弁護士 14 開業医 自営業 1 25 10 53 1 55 52 1 10 107 6 4 2 2 4 113 4 6 19 24 119 128 合計 250 370 293 51 151 182 1 , 297 公的部門比 ( % ) 90 68 56 92 88 95 「教育時論』 N0265 明治 25 年 8 月 25 日号より作成。 一三卩 9 4 18 235
験的ニ熟達ノ効ヲ積ミ、却テ卒業当時ョリ ( 見聞ノ知識ヲ進メ学問ノ応用力アルモノ」が増えるかⅧ らである。 これに対して、農業の場合には「終日山野ニ出稼シテ更ニ筆算ヲ手ニスルコト」がないから、「歳 月ノ経過ト共ニ遺忘シテ、殆ンド凡テノ教授ヲ湮滅ニ帰」させてしまう。それは工業に従事する者 の場合も同じで、「直接筆算ノ応用」が少ないから、「遺忘シテ殆ンド無教育者ニ近」くなる。要は 「必要ヲ感」ずるかどうかであって、「曾テ教育ヲ受ケタルコトナシト云フ者」で「相当読書算ノ出 来得ル者ハ重ニ商業ニ従事スル者」に多い ( 8 ) 。 このことは、明治三〇年代までの職業の世界での、教育や学歴の地位を端的に物語っている。っ まり、義務教育卒業程度の学歴や学力にせよ、それを必要とするような職業は、ごく限られていた のである。ましてや、職業とほとんどかかわりのない女子の場合には、教育はいらない。簡単な読 み書きさえできれば、それでいし それが大方の人たちの教育や学歴についての考え方であった。 明治二一年度の『文部省年報』には、三重県が行った、親の職業別の就学実態調査の結果がのつ ている。表 5 は、それを整理したものだが、就学率はやはり庶業が七二 % でもっとも高く、商業が / てこれに次ぎ、農業は五八 % 、最も低い労力では四〇 % になっている。この職業別の就学率 の差は、思ったよりも小さい。政府のきびしい「就学督促」がそれなりの効果をあげはじめていた ことがわかる。 しかし、重要なのは就学の中身である。明治一九年、文部大臣であった森有礼は、就学率を高め るための方策として、小学校に年限三年、授業料無償、カリキュラムも、就学の方法も著しく簡易 にした、「簡易科」の設立を認めることにした。子どもたちは、簡易科か、正規の課程である「尋常 科」 ( 四年制 ) で義務教育を終え、さらに希望するものが、高等科に進学したのである。
っていった人たちであったとみていいだろう。 第二に就業状況のわかっているものについては、東京帝大の法科大学と同じで、官庁就職者が多 数 ( 五六 % ) をしめている。違っているのは、私学出には司法官が多く、行政官のうちでは「その他」 のカテゴリ 1 に入る中級官僚が多数をしめている点である。また「開業」専門職である弁護士も多 く、司法官を上まわっている。法律系についてみる限り、私学が官学の補完的な役割をはたしてい たことを、端的に示す数字といえるだろう。 第三に民間企業への就職者の数の、きわめて少ないことが注目される。三百余名という数は卒業 者全体のわずかに六 % 、就学状況のわかっている二千余名のなかでも一五 % をしめるにすぎない。 民間企業の発達がまだ緒についたばかりという時代状況もあるが、明治三〇年代のはじめにはまだ、 若者たちの目は、実業の世界、企業の世界にむけられていなかったのである。明治と早稲田が、法 律系私学の先頭を切って商学部を開設したのは、明治三七年のことである。 早稲田・稲門閥 その早稲田だが、表には法学部の卒業者の数字だけがのっている。「専門学校」という名称が示 唆しているよ、つに、 この時期の高等教育機関のほとんどが、専門一科の職業教育機関であり、総合 的な教育機関といえば、六つの分科大学をもっ東京帝大は別格として、政・法・文の三学部をもっ 早稲田、それに理財・法・文の三学部をもっ慶応義塾が例外的な存在であった。しかも看板学部は 早稲田が政治学、慶応義塾が理財学 ( 経済学 ) で、いずれも高度の「教養」教育に主眼があったこと は、すでにみた通りである。しこ。、 / カって、その活躍する領域も、帝大出はもちろん、他の法律系私 学とも著しく異なっていた。 250
この行政官と司法官の例にみるように、帝国大学に代表される官立学校の卒業者たち、「正規」の 学歴の所有者たちがめざしたのは、なによりも、大きな権力や高い威信、経済的報酬を約束してく れる職業であり、組織である。具体的にいえば組織では官公庁、官公立の病院や学校、職業では資 格職業、専門的職業であった。それら職業や組織のなかの「確立された」、官僚制化の進んだ部分が 同時に、学歴がそこに入るためのビザとして、最大限に効力を発揮する部分でもあったことは、あ らためていうまでもあるま、 効力の限られた、あるいは効力を欠いたビザしかもたない私立学校の卒業者たちは、同じ組織や 職業のなかで、官立学校卒業者たちの数の不足を補うか、あるいは補助的な地位に甘んじる他はな かった。さもなければ、かれらは官立学校出身者と直接競合することの少ない、学歴がビザとして あまりものをいうことのない組織や職業に、自分たちの居場所を求めなければならなかった。そし て明治期にはまだ、官立学校の卒業者が大量に進出しようとしない、職業や組織の世界が、民間 私的部門を中心に、大きく広がっていたのである。それは組織でいえば民間企業・私企業の世界で あり、職業でいえばそこに働く職員 ( ホワイトカラ↓、さらには医師、弁護士などの「開業」専門職 の世界であった。 開業専門職の世界 業 職 企業とそこでの職員層の世界は、あとまわしにして、ここでは「開業」専門職である弁護士と医 校 学師の世界での学歴の意味について、みておこう。 この時期、法律を学んだ人たちの職業への道としては、行政官、司法官、それに在野法曹として 学 の弁護士の三つがあ「た。いずれも国家試験による資格職業であるが、資格試験はそれぞれが別々
11 庶民の世界 学校卒業以上が七七 % 、高小卒も二四 % いる。も「とも数の多い ( 全体の三七 % ) 農業の場合、高小 卒は一一 % 、未卒業者が三七 % にも及んでいる。工業になると学歴はさらに低くなり、未卒業者が 四八 % と半数近くになり、高小卒はわずか六 % となっている。 このように、従事している職業により、教育程度に著しい違いがあっただけでなく、学力の違い も大きか「た。せ「かく義務教育を終えても、「四ケ年間ノ教授ヲ殆ンド無効ニ帰セシメ」る者が、 とくに農業や工業の従事者で多数にのぼ「ていたのである。その理由を、明治三三年度の調査結果 の報告書は、次のように説明している。まず商業の従事者で学歴も学力も高いものが多いのはなぜ か。それは「日常文字ニ親シムモノ多ク、且文化ノ中枢タル市街ニ生活スルヲ以テ、社交上ョリ経 一 8 ) -8 -8 44 -0- 合計 11 1 ー亠 全体 -0 -0 11 0- ムロ -0 ) レ玉 -0- 0 大労力 2 3 2 労力 4 5 4 1 頁 一 8 -4 -4 ワ〕 -0- ワ 3 11 一 4 -0 ) 月・・イー 11 11 -0- ~ 庶業 県商業 4 -8 9 、つ 0 0- -4 っ 0 1 亠 書 LO ワ 3 、 6 凹漁業 工業 11 1 ー亠 一 8 ワ」ワ 3 0- -0 ) っ朝、取 - 【圷 -0- ムロ 状農業 5 45 1 、つ 0 ワ 0 ワ 0 -0- 1 亠程 -. 0 商業 LO ワ 3 - ー、 1- 亠、 1 -0- っ / 就庶業肥 162 川報 1 、つ朝 4 ・ 1 、 11 -0 概 学農業 斗ー葺ー計 者者者年者者 易常等計十 率簡尋高 尢叫卒 7 了卒計教 亠足 就就学者の構成 ( % ) 気 不尋尋高修高 139