15 官尊民卑 「学歴の効用」の有無にあ「たのである。そして同様の理由が、受験生の「官尊民卑」的な学校選択 の背後にもはたらいていたことは、あらためていうまでもないだろう。 資格か教養か 明治三〇年代の末に高等学校を受験した和辻哲郎は、こう書いている 「わたくしが一高を受験した頃には、確かに世間で官立の大学や専門学校を尊重していた。新聞な どでは、官尊民卑の風潮をしきりに攻撃したが、しかしわたくしたち中学校卒業生が志望校を選ぶ となると、やはり高等学校か、高商か、高工かであった。だからそれらの学校の入学試験はいずれ も競争率が高か。た。それらを初めから眼中に置かず、直ちに早稲田大学や慶応義塾に入学しよう とする人は、わたくしたちの知「ている範囲では、非常に少か「た。それはわたくしたちの知「て いる範囲に慶応や早稲田の出身者の子弟が少く、従「てこれらの大学に対する特別の愛着を抱いた 人がいなか「たせいでもあるが、もう一つの理由は、もし早稲田か慶応への入学を希望するならば、 官立の学校の入学試験に失敗した後にでも、自由に入学することが出来たという便利な事情であ「 たと思う」 ( 7 ) 官学 ~ の進学をめざした若者たちを、すべて学歴亡者よばわりするのは、間違「ていよう。中学 校を卒業した若者たちにと「て、明治三〇年代という時代にはまだ、私学は進学の対象として、し 「かり視界のなかに位置づいてはいなか「たのだから。はじめから私学をめざすというのは、和辻 がいうように、福沢や大隈、慶応義塾や早稲田に「特別の愛着を抱いた人」たちであ「た。 明治一七年生まれの経済学者・高橋誠一郎は、そうした人を父親にも「たひとりである。 「父は早くから、私を慶応義塾幼稚舎に入れようとしていた。父は慶応義塾の出身ではないが、時 191
敗者復活の場 中等教育の機会は、中学校と実業学校のほかに、もうひとつあ「た。それは師範学校である。師 範学校は授業料が無償であるかわりに、卒業後は教師になること、つまり奉職を義務づけられた学 校である。その師範学校の入学者には、はじめは士族出身の者が多か「たが、やがて平民、それも 農民出身者が増えはじめ、明治三〇年代に入ると圧倒的に多数をしめるようにな「た ( 1 ) 。中学校 にも実業学校にも行けない、あるいは行かない若者たちの学歴の世界ーーそれが師範学校であり、 教師の世界であった。 明治三年生まれの佐藤善治郎は、そうした若者のひとりである。千葉県の鹿野山麓の自作農の家 に生まれた佐藤は、明治一八年に小学校を卒業したが、「将来に対して別段の考 ~ もしなか「た。私 の様な家庭の境遇では、農業に従事するより外に何の考 ~ も起らなか「た : : よく立身伝に『幼に して大志あり』などと書いてあるが、禾 ムにはさういふ持合せは絶対になか「た。唯勤勉力行して往 けば、良農になれる位の事しか考 ~ て居なか。た」。それが教師の道に入「たのは、卒業時に「学校 が手少なで困るから、補助員に」と、校長から声をかけられたからである。「深くも考 ~ ずに承諾」 して、二年ほど教えているうちに、「教育者になりたいといふ意識が次第に明瞭にな「て来たが、家 教員社会 172
22 苦学・楽学 うわべへつらひ陰には長を 罵れる人々の語聞くに悲しき 「小人小情」という表題のこの一連の短歌 ( の作者が、どのような境遇の人であ「たのかは知らな い。ただ作者の矢ロ弌が、企業か官庁の下級職員であ。たことはわかる。そして短歌の載「た『新 国民』という雑誌が、大日本国民中学会の機関誌であることから、作者が苦学生のひとりであ「た こし」、も。 明治三五年に創立された大日本国民中学会は、戦前期のわが国最大の通信教育機関であり、その 発行する「中学講義録」は、全国の苦学生たちによ「て購読されていた。昭和一五年に出された同 会の四十年史 ( が記している、卒業者総数一九五万人というのは誇大にすぎるとしても、義務教育 を終えただけの多数の若者たちが、より高い教育資格や職業資格を求めて、この講義録を読んだこ とは疑いない。矢ロ弌も、そうしたささやかな野心をも「た苦学生の群のなかにいたのである。 短歌の載「た『新国民』は大正一三年の一一月号。明治三〇年代末から数えれば、二〇年近くあ とということになる。それは官庁はもちろん、企業においても学歴主義的な秩序の支配が、すでに 確立していた時代であった。 学歴を持たねば頭あがらざる ここにゐてわれ学歴をもたず をさ 279
社会学者・外山正一 外山正一という社会学者がいた ( 東京帝国大学の初代の社会学講座担当教授であり、文科大学学長、帝国大学総長などを ~ て、つ いには文部大臣にまでなった。死去したのは明治三三 ( 一九〇〇 ) 年、四八歳の若さであった。まず は典型的な明治人といってよく、逸話も多い。「抜刀隊の歌」など新体詩の作者であり、漢字廃止・ ロ ーマ字論者として知られ、また万歳三唱の創始者とされている。帝国大学の名誉教授とな「たの もかれが最初であった。 学歴についての話を外山正一から始めるのは、かれが学歴によ。てその地位を獲得した最初の人 物だからというのではない。それどころか外山には学歴らしい学歴はなか「た。つまりかれは、ど この学校も卒業していないのである。 嘉永元 ( 一八四八 ) 年、貧乏旗本の子に生まれた外山は一四歳のとき、父の勧めで洋書調所 ( 開成 め す所 ) に入り英学を学ぶことにな「た。易者にみてもらったら「満足に育つ見込みがない、八分通 歴捨てたと思いなさい」というみたてで、捨八という幼名をもら「た外山だが、ここから運がっき始 学 めた。語学の才能があったのか、英語のわかる人が少なか「たためか、二年後には開成所の教授に 学歴のすすめ
笈を負うて東都へ もうしばらく私学の話を続けよう。 明治二〇年代初めのある調査によると、当時「東京府下ニ設置セル私立専門学校並ニ各種学校中 多少校名ノ聞アルモノ」は九〇校、約三万人の学生が学んでいたという ( 1 ) 。 この頃、他に有力私学 といえば、関西に同志社など数校があっただけである。また官立学校は全体あわせても二四校、在 学者は八〇〇〇人強にすぎなかった ( 2 ) 。 いかに私学が、しかも東京所在の私学が、大きな比重をし めていたかがわかる。これら私学には、全国から学生が集まっていた。同じ調査によると、私学在 学者の出身地別で東京は一九 % にすぎず、残りは全国各地からやってきた「上京遊学」の学生たち であった。 東京ー神戸間の鉄道が開通したのは、明治二二年になってからである。 いまのように全国的な交 通や情報のネットワークがあったわけではない。そんな時代に『東京遊学案内』 ( 3 ) などのわずかな 青報を手がかりに、 新しい学問を学ぶために単身上京する。それは野心に燃えた若者たちにとって も、大冒険であったに違いない。社会主義者の堺利彦は、明治一九年、福岡から上京するのだが、 「その頃、東京に『遊学』するのは、今日、ヨーロ ツ。ハに『留学』するのとほとんど同じくらいの珍 上京遊学
22 苦学・楽学 謀である。少くとも苦学し独立するには専門の程度でなければならぬし、身心の発達も相応の程度 に達して抵抗力に富んで居らねばならぬ」ⅱ ) 「中学位の夜学に通「て苦学するのも苦学だし、人力車を引いて帝国大学に通ふのも均しく苦学で、 学校を卒業して十円の簿記係となるのも年俸何千円の高等官になるのも、共に成功であるが、僕が 茲で苦学と云ひ成功と云ふのは、凡て後者をさして居ることを予め承知しておいて貰ひたい」。「第 一高等学校の試験位は眠って通り、帝国大学の卒業試験位は居眠りで通す位の余裕ある天分でなけ れば、到底苦学の目的を達することは出来ぬ」 ( 貶 ) 明治も三〇年代に入る頃までは、野心を抱いた若者たちの前には楽学と苦学、学歴と試験、教育 資格と職業資格の二元的な世界が開けていた。だが、三〇年代の後半に向けてこの二つの世界は次 第に重なりあい、ひとつの世界の光と陰の部分をつくる方向に変質しはじめる。学校教育が整備さ れ、拡大し、社会のよりゆたかな階層の人々を引きつけ、教育と職業の結びつきが強くなるにつれ て、楽学・学歴・教育資格の世界は着実に、苦学・試験・職業資格の世界の上位にたち、それを従 上京して苦学するにも、まずは中学校卒業 属させ、支配し、さらには陰の部分に組み込んでいく。 の学歴が必要になり、また職業資格そのものよりも、職業資格につながる学歴Ⅱ教育資格を手に入 れることの方が、職業資格試験よりも入学資格試験に合格することの方が、苦学の主要な目標にな る。『苦学奮闘録』の著者の言葉を、苦学志望の若い読者たちは、どのような思いで読んだのだろう ゝ 0 。カ 学歴を持たねば頭あがらざる 明治三〇年代の末、若者たちの前に大きく開けようとしていたのは、官僚でも専門的職業でもな
しさを感じたので、昂奮、緊張、歓喜、勇躍、一七歳の少年は洋々たる前途の希望に燃えた」 ( 4 ) と書 いている。そのかれらは、私学になにを求めたのだろうか。 希望に燃えて上京してくる若者たちが第一にめざしたのは、堺もそうであったように、私学では なく、官学であった。明治一九年に高等中学校の制度がつくられて、地方にも官立学校がおかれる ようになった。しかし、依然として、帝国大学をはじめとする官立学校のほとんどは東京に集中し ている。東京は、官立学校をめざす若者たちにとっての「聖地」であ「た。しかしそれだけではな 。上京遊学者のためのガイドブックとして、広く読まれた『東京遊学案内』をみると、東京所在 の私学のなかで「中等受験科学校」とよばれる学校が、大きな比重をしめていたことがわかる。官 学をめざして上京してくる若者たちの多くがまず入学したのは、これらの「予備校」であ「た。 この頃、各地に中等教育の機関がなかったわけではない。ただ、そこでの教育の水準は必ずしも 高くなかった。官立学校の入学試験の科目として、も「とも重視されたのは、英語と数学である。 この二科目の学力をつけるには、地方にいたのではだめだ、なんとしても上京して「中等受験科学 校」に入学しなくては、というのが向学心に燃えた若者たちの考えであった。それがけっしてかれ らの思い込みだけではなかったことは、明治二一年の『文部省年報』の高等中学校と地方の中学校 との関係についての記述からもわかる。 「現今ノ〔中学校〔卒業生 ( 其ノ学力未ダ足ラズシテ直ニ〔高等中学校の〕本科ニ入ル能 ( ザルノミ ナラズ其ノ予科ニテモ猶ホ入ルニ椹へザルモノ」が多い。「現ニ地方ノ卒業生ニ就キテ之ヲ観レ。 ( 学其ノ予科ニ入ルヲ得ルモノハ十ノ一二ニ過ギ」ない。その他は「東京府下ノ私立学校ニ入ルモノ多 京 上 向学心が強ければ強いほど、若者たちにとって「地方中学などでぐづぐづして居るのは余り褒め
医師と教師 士農工商の身分制度が存在した時代に、学問がメシのたねになりうることを、一般庶民に実感さ せる職業があったとすれば、それは医師と教師・学者だろう。医者や寺子屋の師匠は、大ていの町 や村にいた。どちらにも漢学にせよ洋学にせよ、たんなる読み書き能力以上の学問的素養が必要と された。それを「財本」にして開業し、患者をみたり弟子をとって生計をたてる。うまく行けば藩 に召し抱えられたり、士分に取立てられることもある。ただそれは、現在のように就くのに一定の 資格が必要とされる、公的に認められた職業でもなければ、養成のための教育制度の確立された職 業でもなかった。それは身分制の固い枠からはみ出した者が多く就く、偶然性の大きい、不安定で 丿スクをともなう職業であった。医師といい教師や学者といってもビンからキリまであり、キリと もなればろくな専門的知識や技術もなく、生計をたてるのがやっとというものも多かった。職業と しての社会的な評価は、決して高くはなかったのである。 維新後、真先に「学問は身を立るの財本」であることを、具体的に示してみせたのは、実はこの 二つの職業である。ヨーロノ ハで「専門的職業」とよばれる、それに就くのに公的な資格と、その 裏づけとなる知識や技術、つまり学問が必要とされる職業になったのは、この二つが最初であった。 まず医師だが、明治七年に出された「医制」によって、医師になるためには「医学卒業ノ証書」 本 と「専門ノ科目二箇年以上実験ノ証書」を提出して検定をうけ、開業免状の交付をうけることが必 財 の 要になった。もちろん、まだ医学校もろくにつくられていないのに、規則通りにすれば、正規の医 を師はゼロに近くなってしまう。当分の間、これまで開業してきた医師にはそのまま資格を認め、ま 9 た医学校を卒業しなくても、資格試験に合格すれば免状を与えることとされた ( 6 ) 。。こ。、 オカ本来のね プロフェッション 113
の尋常中学校の役割とされたことは、その後のわが国の中・高等教育の発展に、大きな影響を及ば すことになる。第一 こうしてできた尋常中学校は、中産階級の子弟のための完結的な「教養」 教育の機関とするには、年限の点でも内容の点でも中途半端であり、改革論議がくり返される大き な原因となった。第二に この尋常中学校の問題は、高等中学校についても無縁ではなかった。な ぜなら、理想の中等学校のモデルが、リセやギムナジウムにある以上、両者を総合してその理想に 近い中等学校をつくろうという動きが、くり返し出てくるのは、さけがたいことだったからである。 第三に こうした中途半端な中等教育のあり方は、私学の発展を促す役割をはたした。尋常中学校 の教育にあきたらない若者たちは、「上京遊学」して私立の専門学校に学ぶ道を選んオ わが国の中等教育にとって、さらに不幸だったのは、近代化をおくれて開始した日本には、ヨー ロツ。ハ諸国のように中産階級が、目に見える社会的な実体として存在しておらず、したがって、中 等教育は、中産階級の存在を前提とするのでなく、逆に、存在しない中産階級を創出する役割をは たさなければならなかったことである。このことに早くから気がついていた福沢論吉は、「ミツ。 ルカラッス」の形成を、教育の、より具体的には慶応義塾の教育の、最重要な課題としたが ( 3 ) 、官 側の教育関係者の間には、そうした視点が欠落していた。 中産階級の子どもたちは、一定年限の中等レベルの教育をうけたことで中産階級の一員になるの ではない。かれらが階級として、社会的に他と区別される、目に見える実体をもっためには、かれ らをたがいに結びつける、共通の文化、共通の教養がなければならない。中等教育の改革論議には、 そうした教育の内容にかかわる論議が、不思議なほど欠けおちていた。 100
銀行会社員の出現 「今や生存競争は殆ど其絶頂に達せり。貴と無く賤と無く、富と無く貧と無く『麺包々々』と云へ る叫声は社会の各方面に起る。人は麺包のみにて生くる者にあらずと雖ども、又麺包なしには生存 する能はざるなり。然らば麺包は如何にして得べきぞと云へば、各人皆職業を撰択して其職に就き、 職に就きたる以上、猛然として其職に吶喊するの外なきなり。請ふ空論の横議を止めよ。人間のあ る処、麺包の必要あらざるなく、麺包のある処、就職案内の必要あらざるなし。此附録発刊の意志 全く之に存す」 ( 1 ) 「此附録」とあるのは、『成功新年附録現代就職案内』 ( 明治三八年 ) のことである。『成功』は当 時、立身出世をめざす若者たちによく読まれた雑誌だが、その新年号の附録に「就職案内」がつけ られたところに、産業化の波の急激な高まりが感じられる。 「述べんとせる項目は航海業者、法律家、医者、文学者、画家、銀行会社員、奏判官を始め、陸海 軍人、外交官、中等教員、新聞記者、工業家、水産業者、鉄道局員、税関吏に至るまで、社会重要 これが二〇世紀に入ったばかりのわが国の、人々の目に の職業概ね之を述べ尽さんを期せり」 映っていた近代的職業の世界である。奏判官とは奏任官と判任官、つまり一般の官僚をさしている。 採用待遇法 とっかん 256