16 学歴戦争 いちだん低い価値しかも「ていなか「た。国家の財政的な支援もなく、学生の支払う授業料だけで やっていかなければならなか「た、発足間もない当時の貧弱な私学の教育の実状からすれば、それ は、やむをえないことであ「たとみるべきかも知れない。実際、帝国大学の方は中学校の卒業者を 入れてさらに三年間、高等学校で外国語を中心に「高等普通教育」を与えたあと学生を入学させ、 整備された教育条件のもとで専任の教授たちが、体系的な専門教育をしていた。これに対して、私 立法律学校はといえば、正規の中学校の卒業証書をもっ入学者はほとんどなく、したが「て普通教 、ートタイムの講師た 1 トタイムの学生に、これも。 育の水準の高いとはいえない、しかも多くは。ハ ちが、受験準備的な教育をしているにすぎなかったのである。 しかしそれにしても、帝国大学出の「学士」たちだけが、平等に専門科目の知識や学力を競いあ うことなく、無試験で任用されるというのでは公平とはいえない。しかも受験資格を手に入れるた めには、「帝国大学ノ監督」に服し、中学校の卒業証書をもっているか、あるいはそれと同等の学力 試験に合格したものだけを入学させるコ 1 スを、特別につくらなければならない。たとえば東京専 門学校 ( 早稲田大学 ) のように「学の独立」をうたう私学のなかには、文部省Ⅱ帝国大学の監督下に 入ることを潔しとせず、任用試験にかかわる特権を全面的に拒否しようという動きすらあ「た。だ が結局は、早稲田をふくめて主要私学が、特権にあずかる方向を選んだのは、それなしには、「。 ( ン のための学問」を重視する若者たちをひきつけ、経営の基盤を安定させることができなか「たから である。 こうして否応なしに私学もまた、官公立学校中心につくりあげられた学歴主義的な秩序のなかに、 組み込まれていった。 201
表 9 の数字はさらに、中学校卒業者の比率が、いかに小さかったかを教えている。明治三三年の 壮丁で〇・四 % 、明治四三年で二・三 % という数字は、現在の四〇 % 近い大学卒業者の比率とはく らべものにならず、強いていえば、現在の大学院卒に近い数字ということになるだろう。もちろん、 中等学校は中学校だけだったわけではない。実業学校もあれば、師範学校もあった。「中学校卒業 と同等の学力をもつ者」として分類されたもののなかに、それら中学校以外の学校の卒業者がふく まれているとして、この両者を加えても、その比率は明治三三年一・三 % 、明治四三年四・六 % に すぎない。中等教育と初等教育の間には、 連続的な関係はなく、高等小学校と中等学校の間には、 容易にとびこえることのできない、大きな断層が存在したといってよいだろう。 その中学校は、高等小学校と制度上、 ワ 3 ワ」 11 ワ」 8 -8 ワ 3 っ 0 -0 成第二学年の終りで接続することになっ -0 ・ -0- -0- -0- ワ 3 ワ 3 -0- 1 亠 1 亠一 4 -0 一・ー 月っ 0 日 -4 ・ 成 ていた。明治一九年、森有礼文相によ 1 、 1 亠 1 亠 -0- 1 亠・ 4 ・ -0 一「 / 0 -0 ト小 購冶年 -0- -0- 1 亠ワ 3 -4 ・ -8 -0- 一 8 -4- -0- -0 ) 別月 -8 1 1 0 付「て、新しい中学校制度が発足した時 歴 の ・ 4 LO LO 戸 0 尸 0 -8 0 ・ 学 には、その接続関係は、「年齢満十二歳 ムロ -0 一 -0 -4 0- LO 1 亠 -0- 、王 月 ワ」ワ〕 -0 ) 日っ 0 以上」という形で示されていたが、明 歳 卒カ卒カ卒カ卒カ卒カカし 整治二七年にはこれにさらに「高等小学 満 能な 学校学 学 学 校第二年ノ課程ヲ卒リタル者若クハ之 丁 况 等等校等等等書 概ニ均シキ学力ヲ有スル者」という規定 路子 学同同同小同小同み育 *- 査 士冗医、 岐男 が加えられた。しかしこうした規定に の と学と 育 等常 歴 教 もかかわらず、高等小学校二年修了時 学 上校上上上上干み 表 大同高同中同高同尋同若読 壮に、中学校に入学することは著しく困 ひと 155
月仏国ニ遊学シ在留二年六月ニシテ帰朝、総テ学ブコト十年」 ( 1 ) と書かれている。学歴はまさに 「学問、教育ニ就キテノ履歴」 ( 『言海』 ) に他ならなかったのである。 明治になり、欧米諸国にならって近代的な学校の組織がつくられると、はじめて「卒業」と「卒 業証書」という考え方が出てくる。東京大学の前身のひとつ、大学南校の明治三年の規則をみると 「普通科専門科卒業之者ニハ左ノ証書ヲ可与事」として、卒業証書の書式が示されているし、明治五 年に施行された「学制」でも、翌年、わざわざ追加して「大中小学等ノ学科卒業試験状左ノ如シ」 と、書式が明示されている。しかし卒業者に、一定の称号を与えようという考え方は、すぐには出 てこなかった。 明治八年、大学南校は東京開成学校になっていたが、その規則は「第五章学士称号及卒業証書」 セルチヒケート として、こう定めているーー「第一条予科卒業ノ者ハ学校長之ニ其証書ヲ附与スペシ。第二条 本科卒業ノ者アリ其由ヲ文部卿ニ開申セバ文部卿試験官ヲ派遣シ之ヲ試験セシメ其学力ニ応ジ相当 ジプロマ ノ学位称号ヲ載スル印票ヲ与フ」 ( 2 ) 。学士の称号の初出である。しかもそれはあらためて学力を試 験した上で、文部卿つまり文部大臣から与えられる「学位」であった。しかしこの規則によって学 士号を授けられたものはいない。東京開成学校が明治一〇年、東京大学になってしまうからである。 そしてその東京大学の学則は、「学位」の項を設け「一学科を卒業シタル者ニハ法学部ニ於テハ法学 士 : : : ノ学位ヲ授与ス」と定め、明治一二年に最初の学位授与式が行われた。 東京大学の学則によると、学生は卒業すれば自動的に学士の学位を与えられることになっていた。 しかしこれ には、つよい異論があった。「優等で卒業した者と、辛うじて卒業した者との間に何等区 別がっかないことになり、学位の名誉を尊重することの実が上がらないではないか」というのであ る ( 3 ) 。同じ年第一回の卒業生を出したエ部大学校 ( のちに東京大学に統合 ) では、「卒業証書 ( 三種 196
の慶応義塾の授業料は年額三〇円、早稲田大学の前身の東京専門学校が一九円、明治大学の前身で ある明治法律学校では一〇円であった ( 。 帝国大学よりも高い授業料を徴収することのできた慶応義塾は、私学のなかでも一頭地を抜く存 在だったといってよいだろう。 官学か私学か 官学と私学の間だけでなく、私学間にもみられたこうした授業料の格差は、高等教育の諸機関と、 それを利用した社会層との間に複雑な関係があ「たことを示唆している。つまり、官学が貧乏士族 だけの学校ではなか「た ( なくな「てしま「た ) ように、私学もまた社会の富裕層の子弟のためだけ の学校ではなか「たのである。成立期のわが国の学歴社会の基本的な構造を理解するために、それ はあらためて確認しておくべき点だろう。 明治の四〇年代に入るまで、わが国の義務教育の年限は尋常小学校の四年までであ「た。そこか ら最高学府である帝国大学までたどりつくには、まず四年制の高等小学校に進まねばならなか「た。 尋常中学校には、その高等小学校二年修了のところで接続していたが、実際には学力面での格差か ら、四年修了してようやく中学校 ~ の入学試験に。 ( スするというのが普通だ「た。中学校は五年で、 三年制の高等学校に接続する。しかしこの場合にも、高等学校の要求する学力の水準が高く、さら に限られた入学定員をめぐ「てはげしい受験競争があり、一 ~ 二年の浪人は例外ではなか「た。義 務教育修了後、帝国大学に入学するまでには、最低でも一〇年、長ければ一四、五年かかる計算に なる。中学校入学後の選抜がきびしく、落第・中退により、五年で卒業にこぎつけるものは半数に もみたなかったことも、つけ加えておく必要があるだろう。
特別認可学校制度に代表される政府の私学に対する管理・統制策には、そうした私学の教育の質 学生の質 を強制的に向上させようという意図も含まれていた。そこで政府がとくに重視したのは、 、、。ゝこ、。しかし非常勤とはいえ、講師のほとんどは帝 である。たしかに施設設備の貧弱さはおおもカオも 国大学やその前身校の出身者であり、専門教育の水準自体はけ「して低くはない。政府は、中学校 卒業者、あるいは試験によ「てこれと同等の学力をも「たものだけを入学させる課程の卒業者に限 って、国家試験や徴兵制上の特典を認めるという形で、学生の、ひいては専門教育機関としての質 の引き上げをはかった。 そうした私学のなかで、質の充実・向上という点で先頭を走っていたのは、慶応義塾と早稲田 ( 東京専門学校 ) の二校の私学である。この二校は早くから、東京大学・帝国大学に強い対抗意識を もち、「大学」の設置を計画し、同等の地位を獲得しようと努力をはじめた点でも、私学のなかでき わ立った存在であった。 まず「大学」の設立をめざしたのは慶応義塾である。創設者の福沢諭吉は、明治二〇年の頃から、 それまで中等レベルの普通教育機関であ「た慶応義塾を「金さへあれば、ユニヴ ( シチに致度」と 考えていたようだが、明治二二年になると実現をめざして、募金活動を開始した。趣意書によれば 「義塾の地位は一個の私立普通中学校として視る者なく、世人の意中これを大学校視する者」が少な くない。そこで「今般外国より有名の教師両三名を聘し、文学、法学、商学の三科を設けて大学校 の地位を定め」ることにしたのだという ( 7 ) 。慶応義塾の「大学部」はこうして、明治二三年、正規 の学校系統でいえば尋常中学校と高等中学校にあたる、同校「普通部」の卒業生を入学させて専門 教育を開始した。この「大学部」について重要なのは、それが卒業生に「慶応義塾学士」の称号を 与えた点である。 212
画、体操、英語など、特殊な科目を担当する専科教員になる。教員の世界は教育資格としての学歴 だけでなく、職業資格の世界でもあった。 その試験でためされるのは、基本的には国語、数学、歴史、博物といった「普通」教科の学力であ る。つまり、正規の学校に行かなくても、たとえば小学校で無資格の教員として、子どもたちを教え ながら、参考書などで勉強していれば、比較的たやすく身につけることができる学力である。学歴の ない教員たちにとって、学校はいってみれば、給料をもらいながら受験準備のできる場所であった。 無資格の代用教員はいうまでもなく、准教員の場合にも給料は安い。しかし安い給料と低い資格 に甘んじることなく、頑張って正教員の資格をとれば、師範学校出と少なくとも資格の上で、同じ になれる。正規の中等学校に行くことのできない若者たちにとって、教員の資格制度は、ささやか ではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希望を与え、夢をみさせてくれるものだったのである。 夢は、さらに大きく拡げることもできた。ひとつは、中等学校教員への夢である。この時期は、 小学校だけでなく中等学校の教員もつねに不足していた。中等学校教員の正規の供給源は、高等師 範学校や帝国大学、それに官立専門学校だが、その卒業生だけではとても足りない。野間清治が入 学した臨時教員養成所は、そうした不足を補うために設置されたものだが、それでも足りない教員 数を補っていたのは、小学校と同様に、ひとつは資格試験であり、もうひとつは無資格教員の任用 であった。 表は、明治三八年当時の中学校と高等女学校教員の資格別の構成である。これをみると無資格 会教員が中学校で三七 % 、高女では四一 % をしめ、また有資格でも、試験検定によるものが、それぞ 員 、高女で三九 二一 % となっており、「学歴」をもった教員は、わずかに、中学校で三三 % 教 % にすぎなかったことがわかる。逆にいえばそれだけ、学歴をもたなくても中等教員になる道が大 177
ニ大切ナル事デアル、殊ニ帝国大学ノ学士ヲ作ルコト ハ非常ニ大切デアル。此ノ如キ教育資格ヲ有 スルコトハ本人ニ取ッテ幸福デアルノミナラズ、其府県ノ休戚 ( よいこと・悪いこと ) ニモ大関係ヲ 有スルノデアル」 ( 8 ) それでは具体的にはどうしたらよいのか。それを知りたければ山口県人がいかに教育に力を注い でいるかをみればよい。山口県人の教育への熱意を象徴しているのは育英団体としての「防長教育 会」の存在であり、また「山口高等学校」の存在である。「藩閥若クハ県閥ヲ永ク将来ニ継続セシム ルコトヲ欲セザルニテハ、速ニ学資金ヲ作ラムケレ。ハナラヌ、高等学校ヲ設置セムケレバナラヌ 我輩ハ各府県人ニ忠告スルノデアル」 ( 9 ) 防長教育会のことはひとまずおくとして、ここで山口高等学校についてふれておかねばなるまい 旧制高等学校として知られる帝国大学進学者のための予備教育の制度は、明治一九年、森有礼文相 が帝国大学と同時に、全国に五校の高等中学校を創設したことに始まる。第一から第五までの五つ の高等中学校がそれである。この五校はいずれも国家によって設立・維持される純然たる官立高等 中学校であったが、他に二校の特異な高等中学校があった。そのひとつが山口高等中学校であり、 もうひとつが鹿児島高等中学造士館である。どちらも薩長の藩閥に関係していることに注意したい。 外山はその点にこだわったのである。 両校はともに藩校の系譜をひく学校であり、旧藩主である島津家、毛利家の発意と寄附金にもと づいて創設された。その意味では私立学校だが、明治一九年に出された「諸学校通則」という法律 によって、官立と同等の扱いを受けていた。設置維持に必要な資金を提供するが、管理の方は文部 大臣に委ねるというのがその条件である。あるいはこの法律自体が、薩長の藩閥のためにつくられ ずれにせよこの法律によって鹿児島と山口には、官立と同等の たものであったのかも知れない。い
一アリトリー 複雑で階層的といえば、中等教員の世界もそうだった。 中等教員の中核的な養成機関は、高等師範学校である。帝国大学の、とくに文・理の二分科大学 もかなりの数の卒業者を中等教育界に送っている。しかしこれだけでは中学校、高等女学校、師範 学校、それに実業学校まで、多数の中等学校の教員需要をみたすことは不可能である。医師の場合 と同様、ここでも資格試験制度を重要な供給源として活用せざるをえなかった。試験制度に依存す れば、そのための準備教育機関として、私立学校が出現し発展をとげる。医学教育と違って、施設 設備にあまり金がかからないから、やがてそのなかから正規の高等教育機関と認めるに足る水準の ものも出てくる。文部省がこうした水準の高い私学を選んで、卒業者に無試験で教員免許を与えは じめたことは、すでにみた通りである。 こうして、中等学校の教員も、その出身や資格の点で、医師の場合と同様にきわめて複雑な構成 をもつよ、つになった。 表四は、それを中学校についてみたものである ( 明治三八年現在 ) 。表のなかで 「無試験検定」とあるのは、卒業証書 ( 学歴 ) をもっていれば、あらためて資格試験なしで教員免許が認 められる、文部省の指定 ( 官立 ) ないし認定 ( 公私立 ) の学校の卒業者である。「試験検定」はそれ以 0 学閥の形成 244
難であった。なぜなら、高等小学校第二学年までに形成・獲得される学力と、中学校の側が入学者 に要求する学力との間には、ゝ 力なりの開きがあったからである。 哲学者の安倍能成は、明治一六年、松山の医師の家に生まれ、明治二九年に高等小学校二年修了 で中学校に入学しているが、当時の様子を次のように記している。「明治二八年の私の高等小学校 二年のあたりから、中学の入学試験を受けられるやうになったらしく、私も明治二九年三月に入学 試験を受け、多分二番で中学一年に入学した : : : 高等四年を卒業したり、卒業後年を経たりして、 入学した者が多かったから、私は入学者中では年少の方で、ちゃうど十二歳と三ヶ月であった。私 の小学校の同級生で一緒に中学にはいったのは : : : 三人と記憶してゐる」 同様の話は、東京の下町育ちの仲田定之助 ( 明治二一年生まれ ) の自伝にもある。「そのころ中学 に進学するのは、高等小学校二年を修業すれば一応資格を得るのであるが、大抵は高等四年を卒業 してから進学するのだった。特にわたしのいた下町の小学校では、商家の子弟が多かったから、そ の三割くらいが中学や商業学校に進み、残りの七割くらいは家に止まって商売を見習うものや、大 商店に住込みの小僧となるものが圧倒的だった。上級学校に進むにしても、府立中学は入学試験も むずかしく、その入学率は少なかった」 ( Ⅱ ) 出身階層の違い その入学の困難な中学校に安倍能成も、また和辻哲郎も、苦労なく入学している。自伝のどこに も、中学進学をめぐって親との意見の喰い違いがあったとか、反対にあったという話は書かれてい ない。かれらは学力も高かったのだろうが、経済的にも、また教育的にも、子どもを上級学校に送 ることを当然視する階層の出身者であったのである。和辻は「わたくしたちの仲間のうちでは、わ 156
しさを感じたので、昂奮、緊張、歓喜、勇躍、一七歳の少年は洋々たる前途の希望に燃えた」 ( 4 ) と書 いている。そのかれらは、私学になにを求めたのだろうか。 希望に燃えて上京してくる若者たちが第一にめざしたのは、堺もそうであったように、私学では なく、官学であった。明治一九年に高等中学校の制度がつくられて、地方にも官立学校がおかれる ようになった。しかし、依然として、帝国大学をはじめとする官立学校のほとんどは東京に集中し ている。東京は、官立学校をめざす若者たちにとっての「聖地」であ「た。しかしそれだけではな 。上京遊学者のためのガイドブックとして、広く読まれた『東京遊学案内』をみると、東京所在 の私学のなかで「中等受験科学校」とよばれる学校が、大きな比重をしめていたことがわかる。官 学をめざして上京してくる若者たちの多くがまず入学したのは、これらの「予備校」であ「た。 この頃、各地に中等教育の機関がなかったわけではない。ただ、そこでの教育の水準は必ずしも 高くなかった。官立学校の入学試験の科目として、も「とも重視されたのは、英語と数学である。 この二科目の学力をつけるには、地方にいたのではだめだ、なんとしても上京して「中等受験科学 校」に入学しなくては、というのが向学心に燃えた若者たちの考えであった。それがけっしてかれ らの思い込みだけではなかったことは、明治二一年の『文部省年報』の高等中学校と地方の中学校 との関係についての記述からもわかる。 「現今ノ〔中学校〔卒業生 ( 其ノ学力未ダ足ラズシテ直ニ〔高等中学校の〕本科ニ入ル能 ( ザルノミ ナラズ其ノ予科ニテモ猶ホ入ルニ椹へザルモノ」が多い。「現ニ地方ノ卒業生ニ就キテ之ヲ観レ。 ( 学其ノ予科ニ入ルヲ得ルモノハ十ノ一二ニ過ギ」ない。その他は「東京府下ノ私立学校ニ入ルモノ多 京 上 向学心が強ければ強いほど、若者たちにとって「地方中学などでぐづぐづして居るのは余り褒め