表 9 の数字はさらに、中学校卒業者の比率が、いかに小さかったかを教えている。明治三三年の 壮丁で〇・四 % 、明治四三年で二・三 % という数字は、現在の四〇 % 近い大学卒業者の比率とはく らべものにならず、強いていえば、現在の大学院卒に近い数字ということになるだろう。もちろん、 中等学校は中学校だけだったわけではない。実業学校もあれば、師範学校もあった。「中学校卒業 と同等の学力をもつ者」として分類されたもののなかに、それら中学校以外の学校の卒業者がふく まれているとして、この両者を加えても、その比率は明治三三年一・三 % 、明治四三年四・六 % に すぎない。中等教育と初等教育の間には、 連続的な関係はなく、高等小学校と中等学校の間には、 容易にとびこえることのできない、大きな断層が存在したといってよいだろう。 その中学校は、高等小学校と制度上、 ワ 3 ワ」 11 ワ」 8 -8 ワ 3 っ 0 -0 成第二学年の終りで接続することになっ -0 ・ -0- -0- -0- ワ 3 ワ 3 -0- 1 亠 1 亠一 4 -0 一・ー 月っ 0 日 -4 ・ 成 ていた。明治一九年、森有礼文相によ 1 、 1 亠 1 亠 -0- 1 亠・ 4 ・ -0 一「 / 0 -0 ト小 購冶年 -0- -0- 1 亠ワ 3 -4 ・ -8 -0- 一 8 -4- -0- -0 ) 別月 -8 1 1 0 付「て、新しい中学校制度が発足した時 歴 の ・ 4 LO LO 戸 0 尸 0 -8 0 ・ 学 には、その接続関係は、「年齢満十二歳 ムロ -0 一 -0 -4 0- LO 1 亠 -0- 、王 月 ワ」ワ〕 -0 ) 日っ 0 以上」という形で示されていたが、明 歳 卒カ卒カ卒カ卒カ卒カカし 整治二七年にはこれにさらに「高等小学 満 能な 学校学 学 学 校第二年ノ課程ヲ卒リタル者若クハ之 丁 况 等等校等等等書 概ニ均シキ学力ヲ有スル者」という規定 路子 学同同同小同小同み育 *- 査 士冗医、 岐男 が加えられた。しかしこうした規定に の と学と 育 等常 歴 教 もかかわらず、高等小学校二年修了時 学 上校上上上上干み 表 大同高同中同高同尋同若読 壮に、中学校に入学することは著しく困 ひと 155
・ : 漸く父の許しを得た」。 こうして教職につきながら、彼は現状に満足できず、兵役についていたときに知りあった軍医が、 苦学力行の人であったのに刺激され、大阪の小学校に転勤して資金をたくわえ、明治四二年、二七 歳で上京して、私立日本医学校に入学した。この学校は各種学校であり卒業してもすぐには医師に なれない。生活費をかせぐことをふくめて「普通人の何倍にも当る苦労と努力を払」って、大正二 年、三一歳のときに、ついに国家試験に合格して医師免許を手に入れた ( 6 ) 。 教師の試験病 井口乗海がたどった教員の資格取得の道は、教員資格が何段階にも分かれており、試験に合格す れば、次々に、より高い資格を手に入れる可能性が開かれていたことを教えている。その資格制度 は明治の初めからたびたび変わったが、明治三〇年代の半ば頃には、教員資格は小学校本科正教 員・同准教員・同専科教員、尋常小学校本科正教員・同准教員・同専科教員の六つに分かれており、 他に無資格の雇教員ないし代用教員がいるという、 複雑な仕組みになっていた。 師範学校卒業の学歴をもっていれば、最高の資格である「小学校本科正教員」、師範学校講習科だ と「尋常小学校本科正教員」が自動的に与えられる。その違いは、前者なら高等小学校でも教えら れるが、後者だと尋常小学校だけというところにある。また中学校や高等女学校卒業の学歴をもっ ものも、検定をうければ、正教員の資格を手に入れることができた。 これらの教員資格は、中等学校卒業の学歴をもっていなくても、所定の試験に合格すれば、誰で も取ることができる。井口のように、初めは雇教員でも、試験を受けて准教員になり、正教員にな る。それも尋常科だけでなく高等科も教えられる「小学校本科正教員」になる。あるいは音楽、図 176
画、体操、英語など、特殊な科目を担当する専科教員になる。教員の世界は教育資格としての学歴 だけでなく、職業資格の世界でもあった。 その試験でためされるのは、基本的には国語、数学、歴史、博物といった「普通」教科の学力であ る。つまり、正規の学校に行かなくても、たとえば小学校で無資格の教員として、子どもたちを教え ながら、参考書などで勉強していれば、比較的たやすく身につけることができる学力である。学歴の ない教員たちにとって、学校はいってみれば、給料をもらいながら受験準備のできる場所であった。 無資格の代用教員はいうまでもなく、准教員の場合にも給料は安い。しかし安い給料と低い資格 に甘んじることなく、頑張って正教員の資格をとれば、師範学校出と少なくとも資格の上で、同じ になれる。正規の中等学校に行くことのできない若者たちにとって、教員の資格制度は、ささやか ではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希望を与え、夢をみさせてくれるものだったのである。 夢は、さらに大きく拡げることもできた。ひとつは、中等学校教員への夢である。この時期は、 小学校だけでなく中等学校の教員もつねに不足していた。中等学校教員の正規の供給源は、高等師 範学校や帝国大学、それに官立専門学校だが、その卒業生だけではとても足りない。野間清治が入 学した臨時教員養成所は、そうした不足を補うために設置されたものだが、それでも足りない教員 数を補っていたのは、小学校と同様に、ひとつは資格試験であり、もうひとつは無資格教員の任用 であった。 表は、明治三八年当時の中学校と高等女学校教員の資格別の構成である。これをみると無資格 会教員が中学校で三七 % 、高女では四一 % をしめ、また有資格でも、試験検定によるものが、それぞ 員 、高女で三九 二一 % となっており、「学歴」をもった教員は、わずかに、中学校で三三 % 教 % にすぎなかったことがわかる。逆にいえばそれだけ、学歴をもたなくても中等教員になる道が大 177
たくしとお寺の諦念さんとだけが後に中学に進んだのであるが、後にさういふ区別の生じてくる子 供は、尋常小学の時にもすでに幾分か相違を持ってゐた筈である。例へば教科書以外に読物をあて がはれてゐるとか、機会のある毎に何かと話を聞かされるとか、といふやうな点では、多分ほかの : さういふ風にもともとから幾分か存在してゐた区別が、わたく 子供たちと違ってゐたであらう : しの高等小学校へ入った年から、だんだん現実的に明白になって行った」 ( と書いている。かれら には、中学校への進学に、経済的にもまた心理的にも、なんら断層は存在しなかったのである。 だが、その中学校に、希望しても進学することのできない子供たちが沢山いた。その数は義務教 育の就学率が上昇し、高等小学校が普及するにつれて、着実に増加しつつあった。岡山県の貧農の 家に生まれ、明治三三年、「村に二三人しか行くものがいない」高等小学校を、「通学可能の範囲で あれば、麦飯に漬物を副えて通学することが出来るのと、父親が自分の文盲を恥じ、子供だけは無 理をしても学問をさせようとした」おかげで卒業することができた苦瓜恵三郎も、その一人であ る ( リ。かれにとって「これだけは確かであった。貧農の家に生まれた自分が、寄宿舎に入ってまで 中学校に進学するということは出来ない身分であったことだ」 ( リ。その苦瓜は、数年後に、新設の 「組合立農林学校」に入学し、卒業後、代用教員として、教師生活の一歩をふみ出すことになる。 そしてまた、社会主義者の猪俣浩三が歩き始めたのも教師への道であった。「私は柏崎高等小学 校卒業後、師範学校へ進もうと考えた。本当は中学校へゆきたかったのだが、家にはその資力がな 。師範学校ならば、学費を含めたすべての費用が、県費で賄われることを聞いていたからだ」信 ) 。 岐中学校へ進学するか、別の中等学校への道を歩むのか。「学歴の世界」の展望は、そのいずれかによ 歴「て、大きく異なるものにな「ていた。 157
明治ニ五年前後 。ゝこなりはじめた時 明治二五年前後というのは、どうやら小学校や高等小学校卒業者の進路カ題ー しくつもの調査の結果が残されている ( 1 ) 。 期であったらしい。、 たとえば鳥取県の場合には、明治二五年の高等小学校卒業者二三〇人のうち、中学校に進学した ものが三六人、師範学校・農学校が各四人、それに私立学校に三五人とな「ている。これをあわせ ると、卒業者のうち三四 % が進学したことになる。同年の山形県では、四〇一人の高等小学校卒業 者のうち、進学者は中学校一一二人、師範学校六人、その他の学校二七人で、この場合にも進学者 は三分の一強の三六 % である。もうひとつ、明治二四年の三重県の場合には ( 表間 ) 、高等小学校卒 業者は四六二人、うち中学校に一〇七人、師範学校に一五人が進学している。これで全体の二七 % になるが、その他の学校を加えれば、やはり三分の一近くの進学率ということになるだろう。 この時期は、義務教育である尋常小学校すら満足に就学し、卒業しない者が多数をしめていた時 育期である。また高等小学校に進学しても、中途で退学するものが多か「た ( 先の鳥取の数字では、中 等 退者は卒業者の二倍をこえている ) から、高等小学校の卒業者は、それだけですでに、「選ばれた」子 中 ども達であ「た。そのなかのさらに三分の一である。中等学校に進学するものが、いかに選ばれた 中等教育 159
はいえ、そこ ~ の道を保証するものではなか「た。農家にくらべて、より高度の読み書き能力が必 要とされたはずの商家ですら、大多数の親が、教育は高等小学校までで十分だと、考えていた。戦 前期の東京商科大学 ( 現・一橋大学 ) を代表する教授の一人であ「た三浦新七は、山形の富裕な商家 の息子であ「たが、「よその家の飯を食わなければ、一人前のあきうどにはなれない」という当時の 山形の商家のしきたりに従「て、尋常小学校卒業と同時に、取引先である日本橋の呉服問屋に丁稚 奉公に出された。たまたまその問屋の妻女がお茶の水女学校の卒業生で、三浦の「秀抜な頭脳に気 、と、三浦の父を説得してくれ づき、商人として一生を終えるより、学問の道に進」ませた方がいし たおかげで、山形に戻り、高等小学校から中学校 ~ と、進学することができたのであ「た ( 8 ) 。 商人の世界でも、また職人の世界でも、中等学校を卒業して一七、八歳になれば「中年者」とよ ばれ、徒弟としても丁稚としてもとうが立ち、一人前には育たないと考えられていた時代である。 高等小 家業を継ぎ、あるいは商人や職人になろうというのなら、修業は早くから始めた方がいし 学校卒業というのは、そのぎりぎりの上限とでもいうべき年齢だ「たのである。 しかし同時に、先の卒業生の動向調査は、「庶業」以外の人たちの間にも次第に、家業を継がせる 子どもにも、さらに一段上級の学校教育の機会を与えてやろうという気漣が生まれはじめていたこ とを、教えている。中学校とほぼ肩をならべるほどの商業学校 ~ の進学者数や、「各種学校」 ~ の多 この数字は、先にみたように明治二四年という、中等以 数の進学者は、そのあらわれとみてよい 上の学校が未発達であ「た時期のものであり、それに当時の兵庫県にはまだ、農業学校や工業学校 路 岐 がなか。た。中等学校 ~ の進学者数は、このあと急速に増加していくのだが、その増加の主力とな の 歴「たのは、もはや「庶業」ではなく、農業や商業の上層をしめる、富裕な階層の人たちであ「た。 153
発生的に生まれ、発展してきた学校だ「たのである。すでにみたように明治一九年、当時の森有礼 文相は小学校令、中学校令、帝国大学令、師範学校令という四つの法律を定めて、戦前期の日本教 育の基本的な骨組みをつくりあげた。しかしそれ以外の実業学校、高等女学校、それに専門学校に ついては長い 1 、 それを対象とする法律は存在しなかった。 井上毅文相時代の明治二七年、それまで中学校の一種とされてきた、帝国大学進学者のための予 備教育機関である、高等中学校を独立させ、専門教育中心の学校とすることをねらいとする「高等 学校令」が制定された。高等中学校にはもともと大学予科の他に医学部、法学部、工学部が附設さ れており、こちらの方を教育の主体とする構想がたてられたわけたが、それが実現されれば、高等 学校は専門学校と変わるところがなくなってしまう。当時の『教育時論』は、高等中学校は「高等 教育の部にも属せず、中等教育の部にも数へ難き、奇怪の学校」である。それを「専門学校と為さ んとするは、大によし」とすべきだろう。しかしながら「是と階級を同くする私立の専門学校には、 慶応義塾大学部あり、早稲田専門学校あり、西京の同志社あり、其他尚少」なくない。大いに「其 ふんどし 褌を固くして着手」しないと、「官立の学校、却て私立の専門学校の後に瞠若たるに至る」ことに なろう。「御用心あるべし」と、皮肉を交えて書いている ( 2 ) 。 すでにみたように井上が高等中学校の専門学校化を考えたのは、なによりも帝国大学が、人材の 養成機関として、あまりに高価すぎたからである。中学校から専門学校をへて帝国大学まで、金だ けでなく時間もかかる。とても近代化に必要な人材の大量養成はできない。それならいっそのこと、 帝国大学は研究中心の大学院にまつりあげ、かわりに高等中学校を専門的人材の養成機関に改組し たらどうか。その専門教育機関としての「高等学校」を、時期をみて「大学」にしていく。それが 井上の描いた構想であった。だが、この構想は一〇年もたたぬうちに完全に挫折してしまった。井
と、おどろくほど一致している。明治五年に「学制」が公布され、四民平等の教育が「国民皆学」 を目標に出発してから一五年余り。その新しい教育を受けた世代がようやく、高等教育の入口へと たどりつき始めていた。学生の給源を士族層にばかり求める必要はもはやない。貧窮士族よりも富 裕な平民層の方が、学生の供給源としてもっているポテンシャルな力は、はるかに大きい。そうし た認識をもつようになったとき、森は官費制の廃止と授業料の大はば引上げを主張し、福沢は官立 学校を廃止して、高等教育を私学の手に委ねる必要を説いたのだ、とみてよいたろう。 「今官立学校の制を廃して天下の子弟を私学に放ちたらば、私立学校は必ず其授業料を増して校費 を集め、随って其学業の課程を高尚にして、高尚なる学者を作ること決して難きにあらず : : : 先づ 学生一名に付き一年五十円乃至百円の授業料を収入したらば、私立学校の学科を高尚にして十分な る業を授くるに足る可し : : : 日本国人貧なりと雖も、中等以上の良家にして愛子の教育に百円以上 百五十円内外の金を費す可き者は無数なりと云ふも可なり」 ( 7 ) と福沢は考えたのである。 学間の三つの道 森有礼は「三段階的整理」が好きな、また得意な人であったらしい ( 8 ) 。たとえば社会の構成員を 上流・中流・下流の三層に分け、学校教育についても大学・中学・小学の三段階を区分し、しかも 両者を対応させた。森によれば中学校が「社会ノ上流ニ至ラズトモ下流ニ立ッモノニ非」ざる人々 の教育の場であるのに対して、帝国大学 ( と高等中学校 ) は「上流ノ人物多数ヲ養成スルノ場所」で ある ( 9 ) 。そして親たちは、教育費の負担能力に応じて、子どもをそれぞれの段階の学校にやればよ 小学校より中学校、中学校より大学と、授業料が高くなっていくのは、森からすれば当然のこ とであった。明治二〇年代に入り、教育における士族の時代が、国家レベルで終りを告げたとき、
の慶応義塾の授業料は年額三〇円、早稲田大学の前身の東京専門学校が一九円、明治大学の前身で ある明治法律学校では一〇円であった ( 。 帝国大学よりも高い授業料を徴収することのできた慶応義塾は、私学のなかでも一頭地を抜く存 在だったといってよいだろう。 官学か私学か 官学と私学の間だけでなく、私学間にもみられたこうした授業料の格差は、高等教育の諸機関と、 それを利用した社会層との間に複雑な関係があ「たことを示唆している。つまり、官学が貧乏士族 だけの学校ではなか「た ( なくな「てしま「た ) ように、私学もまた社会の富裕層の子弟のためだけ の学校ではなか「たのである。成立期のわが国の学歴社会の基本的な構造を理解するために、それ はあらためて確認しておくべき点だろう。 明治の四〇年代に入るまで、わが国の義務教育の年限は尋常小学校の四年までであ「た。そこか ら最高学府である帝国大学までたどりつくには、まず四年制の高等小学校に進まねばならなか「た。 尋常中学校には、その高等小学校二年修了のところで接続していたが、実際には学力面での格差か ら、四年修了してようやく中学校 ~ の入学試験に。 ( スするというのが普通だ「た。中学校は五年で、 三年制の高等学校に接続する。しかしこの場合にも、高等学校の要求する学力の水準が高く、さら に限られた入学定員をめぐ「てはげしい受験競争があり、一 ~ 二年の浪人は例外ではなか「た。義 務教育修了後、帝国大学に入学するまでには、最低でも一〇年、長ければ一四、五年かかる計算に なる。中学校入学後の選抜がきびしく、落第・中退により、五年で卒業にこぎつけるものは半数に もみたなかったことも、つけ加えておく必要があるだろう。
を許された。 卒業と同時に、母校の小学校の訓導になり、一年後にはすぐに「首席訓導」にな「ている。佐藤 善治郎と違「て、「立身出世」欲求の強か「た野間は、小学校教師で終わるつもりはなく、明治三五 年、帝国大学文科大学内に臨時教員養成所ができると聞くと、直ちに出願して試験に合格、二年の 教育をへて卒業すると給料のもっとも高いところというので、沖縄県立中学校を赴任先としてえら んだ。赴任前に郷里に帰ると、「友人や近所の人々は申すに及ばず『中学の先生になるのださうだ』 といふので、方々で喜んでくれるし、他日偉い出世をするだらうと大評判であ「た」 ( 3 ) 。 立身出世の階梯 師範学校は変わ「た学校であ「た。授業料が無償とか、推薦入学制があるとか、卒業後に奉職義 務がついているとか、普通の学校と違「た点はいくつもある。しかしとくに変わ「ていたのは、入 学者の年齢規定である。明治一二年頃は、それは一六歳から一八歳まで、県によりまちまちだ「た が、明治一九年に一七歳と決められ、明治三一年にはさらに一六歳に引下げられた ( 男子の場合 ) 。 いわば正規 つまり、師範学校は尋常小学校はいうまでもなく、高等小学校ともつながっていない、 の学校体系からはなれた学校だったのである。 中学校は、高等小学校の第二学年修了の一二歳でつなが「ている。実業学校もほば、この年齢か、 あるいは高等小学校卒業の一四歳で接続している。ところが師範学校には、高等小学校を卒業した あと、さらに何年か待たないと入学資格ができない。その結果、師範学校はともすれば、「正規」の 学校体系に「乗り遅れた者たちの″敗者復活〃の場」にな「てしまう ( 4 ) 。そこに師範学校の強みも 弱さもあった。 174