く最近のことだ。民主主義教育というより、意志の鍛練や肉体の訓練を封建的として極力排除し てきた戦後教育の「効果」が現われてきたといえよう。 欲しい固有文化の伝承だが、そのことよりも、私は、日本人の物質に対する欲望、豊かな生 活を求める心に、 いま一つ根本的に足りないところがあるのを、より強く感ぜざるを得ない。物 欲は決して排撃すべきものではない。みんなが欲望のない聖人君主にな「てしま 0 たら、社会の 発展は停頓するどころか、社会そのものが崩壊してしまう。禁欲主義を説く坊主や説教者は、そ ういう欲求は決してなくならないものだからこそ、安心して物欲を捨てろと説くことができるの である。つまり、より豊かに生きようと働く人びとの社会を地盤にしてこそ、自分は働かないで 欲望を排するという演説をや 0 て生計をかせぐことができるのだ。欲求は当然のことだ。ただそ れを正しい といっても道義的に正しいというのではなくーー・・社会的に健康な方向へたえず舵 をと「てゆく必要がある。日本人の物欲には、その「正しさ」で欠ける点がある。それは物資の 造蓄積、財の伝承ということに対する観念の稀薄さである。日本人の古文化財を守るという気持の 。なさは、よく指摘されるところだ。公共財産に対する尊重心もおそろしくうすい。 的 人 だが、人があまり気づかぬ根本的な欠陥は、物資を蓄積し、それを子孫に伝えてゆくという観 本 念がないことである。「子孫のため美田を買わず」は今日でも美談である。それも一つの立場だ。 1 だが美田のような、直接の生産財ではなく、とい「て現金でもなく、父祖の愛した家、家具、道 具、美術品、そういうものを大切にもちつづけている日本人のなんと少ないことか。第一、伝え
単なる余技として、単なる暇つぶしに、今日の芸術水準から見たら、まったく低くて話にならぬ 「芸術作品」をつくっているのでは、真の芸術生活からはほど遠い。お茶とかお花はもちろんの こと、いろいろの手芸、さらには作陶や趣味に絵筆をとるということなど、やらないよりましな ことは確かだが、美の創造と関連するかどうかは疑わしい。私自身も、その疑問から絵筆を捨て てしまった経験をもっている。それは素人の将棋や碁やマージャンなどとあまり変わらない暇つ ぶしの娯楽にすぎないようである。美にかかわるためには、もっと真剣な態度、専門の芸術では ないにしろ、少なくとも何らかの意味で、そこに自分の生活を賭けたものでないとだめなはずで ある。 だが今日、美の創造とかそれに生活を賭けるというのはどういうことなのか。大会社や大組織 による各種の分業がどしどし進行している今日、毎日の社会的労働で私たちが美をつくることに かかわることは絶無に近い。工芸に直接関係ある製造業でも、個々人の実際の労働は、そのまっ 造たくの断片的過程でふれるだけである。よほど特殊な人びとでない限り、生活の糧を得るための 構 の仕事で美の創造にかかわることは、現在ではもはや不可能であろう。 では私生活ー・ーほとんどの人は家庭生活ーーの中で私たちははじめて美にかかわることになる 昿はずだが、その場合、それがまったくの受身になるか、あるいは、ほとんど美的創造とは関係の ない瑕つぶしに終わるかという結果なのはいま述べたとおりである。その上、もう一つ重要なの は、ただ鑑賞とか使用という立場においても、絵たとか彫刻作品などが私たちの日常生活に占め
官僚王国だということと、どこで関連するのか。 この官僚の中心は東大法学部である。大蔵省の役人で課長以上の九〇パーセントは東大出身で あり、多くが法学部出である。それは明治以来、日本が極度の中央集権国家であり、しかも、も つばら政府によって、上からの指導によって近代化を進めてきたためだという説明は、すでにま ったくの常識だろう。 この意見をもう少し進めればこうなる。近代的な法治国家でありながら、法律を知ることはエ リートだけの特権である。もっともこのエ リートは制度的にも実質的にも世襲ではない。「頭さ え」よければ、身分を問わず、さほどの資産はなくても、大学法学部を経ることによって支配者 階級に上昇できるという点で、明らかにそれは近代的な側面をもつ。この点、学閥の世界だなど というけれど、出身身分や父親の職業が終身決定的な規制力をもつイギリスより、はるかに合理 的な社会である。しかし、高等官僚への道が官立大学出身者、とくに東大出というきわめて少数 に限られていたことと、こういう官僚たちが、法意識を一般化することに反抗しつづけ、立法と 解釈の技術を、家元的な秘伝のように守りつづけたというところに日本の特殊性がある。一般日 本人の法意識の低調さは、ここに一半の原因がある。 もちろん、日本は三権分立制がある程度確立しているから、国会議員と、内閣閣僚などの行政 の最高部への到達の道は、法律官僚だけでなく、いわゆる素人にも開かれている。地方政治も同 様である。立法権はもちろん議会のものだし、行政も議会によって支配できる。立身出世にはこ
雑色混色の世界 ( 一一 0 瀬戸内海と商業 ( 一一九 ) 海と取引のもたらすもの = 商人精神 ( 三 0 ) 「東日本」をつくるもの 純粋農業社会のもたらすもの ( 一き 閉鎖的社会 ( 三 0 貧しき農民たち ( 一三 0 ) 下士官的精神世界 (llllll) 東西の対立抗争としての日本史 徳川時代までに「東」と「西」は二度ずつ覇権をとった ( 一三五 ) 江戸幕府ーー鎖閉自立とマゾヒズム ( 一三 0 明治には「西日本」の精神が生きかえった ( 一巴 ) 戦後日本の「東日本性」 一億総農民化時代 ( 臨 ) 歴史のなかの「裏日本」 古い日本を継承 ( 一四七 ) 農業の合理化問題 ( 一哭 )
はついに封殺され、茶は時代からかけ離れ、私的個人の会合と心の修養という道をたどるのだ。 私は和敬清寂の精神で客を圧倒しさる人間的な力が主人に必要だといった。芸の力とはいわなか ったことを注意されたい。 ここまで簡素化された茶道には当然、技術的要素はきわめて少なくな る。全力をつくして数か月も努力すれば技術的には完成してしまうだろう。不合理な家元制度に よる免許匍をとらねば区別がっかなくなる理由である。 茶は技術よりむしろ人間の教養がものをいう世界である。いわば絵画における文人画と同じこ となのだ。ここにも芸術が支配者側によって、その使命を果たすべく正統芸術として採用されな がら、その公的役割を果たすことなく、隠遁者的な、休養として、私的、個人的文化に傾いてし まった事例を見いだすことができる。 ヨーロッパ衣装の中身現在の私たちの社会は資本制社会である。だから当然そこでは市民文 化が主体になるはずである。だがほんとうにそうなっているだろうか。 もちろん日本の明治維新以来の近代はまったくヨーロッパの市民社会の衣装におおわれている ので、その実体はつかみにくし尸。 、。題よ私たちはこの衣装を着こなすようになり得たかどうかで 文 ある。カール・レーヴィトは、かって指摘した。日本人が身につけようとしたヨーロッパの近代 刻主義という衣装は、当時すでにヨーロッパ人がその欠陥と矛盾に気づき慄然としていたものであ る。それを日本人は無邪気にまとってしまったのだが、この衣装は、それを着た肉体をも変化さ せてしまう魔の衣装だったと ( 『ヨーロッパのニヒリズム』 ) 。しかし、かれはまたそれと矛盾したこ
概念である。みんな、この道一筋につながっており、その頂点に天皇が存在し、下部にはそのヒ ナ型の指導者群が連なることになる。もちろん、天皇の崇拝は過去のように強度なものではない。 だが、この目に見えぬ気持のつながりがなくなったと思うのは、一部の知識人や、評論界や、学 生などの錯覚である。なるほど、大都市の最も底辺の大衆は、戦前とちがって、天皇に対し、無 ぎえ 条件的な帰依の念を失っている。しかし、若い人でも、少し体制下に組み込まれた人の心には、 この社会的には顕在しないが、究極的には天皇へ到達する体系が見えてくる。もっとも、まだそ の上部は雲の上にあって見定めがたい。自分たちには、自分より一つ二つ上層の関係しか、はっ きり把握しがたい。しかし、そのはっきり把握している上下関係は、そのままの相似形で、関係 が上へ上へと登って行き、究極は天皇へ到達するものなのだ。そういうことを、きわめて漠然と ではあっても意識のなかに存在させるようになるのだ。 指導者の条件この縦の関係を、社会学者は、その異質性ゆえに結合すると規定する。この場 合、それは社会的機能の差である。課長と係長と平社員は異質である。だが、この日本の異質性 を、それだけと見るなら、大切な何ものかを見落としているだろう。それは、人格的な何ものか である。この昇格の決定に当たる人事関係の重役などは、能力と協調性とか指導性とか、アメリ カ風の考課表による査定を述べるのがふつうだ。しかし、現実は重要な人事になればなるほど、 そのような点数的な、量的なものに還元される能力ではなく、はっきり定めがたい「人物」とい う考慮が働くのである。
181 ています、と顔に書いて歩く感じの女性に反感をもっていた。 「先生は戦争を肯定し、子供を殺せとおっしやるのですか」 どこでどう違ったのか、彼女の第一声は、この途方もない詰問から始まった。あっけにとられ た私やその婦人やほかの人びとをしり目に、この女性は熱烈に説きだした。 人間の愛情を無視し、国家へ夫を、子供を捧げることを最高の道徳として教育した旧日本がい けないこと。それが戦争準備のための教育であったこと。この経験を生かして平和を打ち立てね ばならぬこと。それには戦争をだれが起こしたかをはっきり見定めること。社会主義社会ではこ の奥さんのような不幸は起こらぬこと。何十回となく聞かされた紋切り型そのままだった。しか も、現代では戦争そのものが、敵味方あらゆる社会制度の区別をのりこえ、すべてそれに従事す る人びとの人間性を破壊するという認識さえも、この女史は拒否したのである。それでも私は努 力した。奥さんの行為は、彼女自身に罪があるだけでない。むしろ被害者のほうだ。罪は戦争に 造ある。今夜この奥さんが平和を築く努力によって、自分自身も救われるという道が見いだされる 構 こういうことで、この若い女性と私の意見が一致するようにと。 考かもしれない。 思 的 だが、それだけでは解決にならないのだ。もしこの奥さんがその気になって平和運動に身を入 人 本 れたとする。こういう運動には、政治がはいっているから、奥さんは、いろいろやりきれない事 件や問題に衝突し、結局絶望して退いてしまうだろう。それでは何にもならない。戦争未亡人で も自分たちはちっとも悪くなかったのに戦争が夫を殺したという考えの人には、一般論でよい。
197 い主がないようなときは、失格を覚悟して兎を救ってやることは立派なことだ。だが救護班がち ゃんといるようなときは、選手は自分の勝負を捨てるべきではない。救助作業はそういう人にま かせておいて、自分は竸走に専念すべきである」と。それから、競技の場合のルールと、そのル ールは何のためにあるか。正しい競走をするためには、このルールは厳格に守られねばならぬこ とを説得する。この最後の説得に最重点を置くべきなのだ。 私は、一、二度このような意見を小学校の先生方の前で発表したことがある。だが、先生方の よ、こま、 かなり、それに不満をもらす人が多かった。子供がマラソン競走として理解するのは わかる。だが、原話は、営々たる努力は、きまぐれの才能にまさるという寓話だろう。その広く 深い意味をもっ教訓話をどうして、単なる競技の話に限定して説明するのか。そういう不満であ る。 競争を回避する心原話が人生訓だというのはわかる。だが、私は、こういう先生方の意見の 造なかにもっと根本的な、日本人的性癖というものを見いだしたいのである。子供たちがマラソン 競走と考えることは、現在の社会の発展が生んだ、最も自然な感覚である。寓話を取り扱う場合、 原意に忠実になることは必要だが、それは学間的な意味でだ。教訓としては、現実の社会に合致 日させて取り扱うべきなのである。現代の子供は、近代社会の競争の世界に生きている。そういう 人間に人生訓を与えるのに、封建道徳を説くのはおかしい。先生方が封建道徳に忠実だとは思え ない。だがこのように、子供たちの自然な発想に反対するのは、先生方が、自分が竸争。・ーーその
199 日本のように自主的に近代を発展させ得なかった国には、このような「優劣を客観的に竸う」と いう精神が乏しい。乏しいどころか拒否しようという空気が強い。あるいはその逆にむちゃくち ゃな反抗だけを正義と思いこんでしまう。それではほんとうの近代は根づかない。近代は竸争だ から不正だ。連帯の社会主義社会で行こうという人もあろう。しかし、こういう逃避からは近代 以前への逆もどりを生むことはあっても前進をもたらすことはおこり得ない。そんな人たちが望 んでいるような正しい社会主義がその上にうまくうち立てられる可能性などもないのである。 公開競争の理念町の公共建築物や教会堂、そこに飾る芸術作品などを、広く公募し、審査し て最高のものを採用するという方法はヨーロッパには古くから見られたようである。古代や中世 といっても、ヨーロツ。 ( では日本よりはるかに開かれた世界といえよう。世界的な流通経済の潮 流はたえす流れている。人口は少なく、土地は広く、人種は複雑で、日本のように平和で他国か らは侵されにくいが、その反面、限られた、孤立的な島国で、移動も自由でなく、善意悪意のあ 造らゆる人間関係にしばられて、人々が肩をよせ合うように世間をせまく暮らしている国とはちが 9 う。人間相互のドライな接触はごくあたりまえのことだった。このような公開競争の理念が早く から発達していたのは当然たろう。 人 本 しかし、その有名なのは、やはり近代初頭ルネサンスから現われる。十五世紀初頭、ルネサン スの中心都市たったイタリアのフィレンツ = 市では、町の名誉のため洗礼堂を建て、その門扉を 見事な青銅の浮き彫りで飾ろうという計画をたてた。この計画の遂行と資金担当に当たったのは、
140 反抗心をもったところで、それを表現する場所は遊廓のような社会の恥部でしかなかった。江戸 の町人文化は社会や政治に対する積極的な発言をまったく欠いている。いわば裏文化的性格が強 、。東京 ( 江戸 ) 落語に見られる「八さん」「熊さん」は完全に江戸的身分制を肯定したあきら めからくる洒脱さである。洒脱に逃げきれない武士や町人の好んだものはグロテスクとマゾヒズ ムであった。南条範夫氏が発見し、日本の武士の一貫性ありと認めた被虐を喜ぶ精神は、戦国時 代のどこにもありはしない。江戸時代の、もはや武を捨てた武士の世界での話であるにすぎない ( 『被虐の系譜』 ) 。 大阪は商人の町である。反権威、反政治の舞台である。かれらは政治をあやつり、利用したが、 迎合も崇拝もしなかった。西鶴は堂々と町人社会を肯定し、主張している。「江戸のうりざね、 もろのぶ 京の丸顔」といわれたように、師宣の描く美人は、武士の妻を理想とした細やかな美人である。 町人風なのは、それにいきが加わっているにすぎない。以後、浮世絵も同様である。西鶴が定義 すけのぶ し、京の西川祐信の描く美女は、体軅堂々、丸顔、桜色の健康美を示しているのだ。 こういう比較は、別に江戸対京大阪の比較にとどまらない。集権的な西国大名は、家老までを のぶせ 城下に住まわせ、大きい町をつくっていた。西の海賊、東の野伏り ( 山賊 ) という区分はまだ生 きている。海賊の収入は大きい。西国大名は戦国時代から富と教養で東国大名を圧していたのだ。 武士は商工業者的才能をもち、商品の生産と販売を指導した。必然的に「西日本」の城下町には 活動的な商人が出現し、大きい交換の場となったといえよう。しかし「東日本ーの大名は、なお