故国へ直結した水「路」を見いだした喜び以外の意味はふくまれていない。 日本人の海への郷愁 は「路」としてより、無限な海の幸をめぐむ「母なる海」への回帰の願いであり、こんな場合の 喜びは、その「母」との再会の喜びのはすである。 ヨーロツ。、ー」 一仰の古代社会の代表であるギリシアは、同じ地中海でも、とくべっ不毛な地帯に成 立したため、それ自体では繁栄する基盤をもち得なかった。古典ギリシアは、古代東方帝国、と くに。ヘルシア帝国の富に吸着し、そこから栄養をとることによってのみ保たれた。ベルシア帝国 が生み、集散する物質は、地中海へも大きい交換の波動をもたらす。ギリシアの数多い都市国家 の住民たちは、商人として黒海と地中海での交換に従事し、ほとんどそれを独占することによっ て、さらには海賊として各地の富を略奪し、征服者として各地の生産を収奪することによって、 繁栄したのである。もちろん、ギリシアの文化を商人文化としてのみ理解することは行きすぎで あろう。だからといって農民文化であるというのではさらさらない。それは盗賊戦士の文化であ り、征服者の文化である。つまりそれらの混合文化である。農民、商人、戦士、この三つの方向 での。ヘルシア帝国への吸着がなかったらギリシア都市国家は渺たる辺境の小都市として終わった 文 裏たろう。東洋人である私たちには、当時のギリシア人や、その代弁者たるヨーロッパの主張をま 文にうけて、ギリシア社会ーー、・文化ではない の独立性を懸命に説く義務はないはずである。ア テネの奴隷十万、市民家族十五万前後、計二十五万人以上の人びとの食糧の大部分は、小アジア やアフリカ北岸からの輸人に期待していたのである。だが、その輸人に匹敵するほどの対価をア びよう
世界について 一つの世界としての日本私たち西洋史研究者が、日本歴史を見るとき、全員がというわけに はゆかないが、かなり多数のものが一致して気がつくことがある。第一は中国やインドとちがっ て、日本の歴史は、ドイツやフランス、イギリスなどの歴史と驚くほど似通った発展をしている ということである。日本の古代をヨーロッパのギリシアやローマの、いわゆる古典古代と比較す ると少し調子があわなくなってくる。しかしベルシアやエジプトやローマを中国大陸になそらえ、 朝鮮などをギリシアみたいなものと想定し、日本の古代をドイツなどの直接の古代、つまりいわ ゆる「ゲルマン古代」というふうに考えるとしよう。ドイツ・フランスと日本の両者は、ほとん ど時代さえ平行しながらきわめて類似した発展をたどったことが明瞭になる。 単に表面的な歴史現象が類似するだけではない。社会経済的基底からして類似した発展をたど るのだ。研究が深く細かくなるほど、相違点も明確になるけれど、さまざまな部分、さまざまな 角度から見て驚くべき類似も、明瞭に浮かびあがってくるのである。あるいは私たちが感じたこ の意外さは、日本を後進国、ヨーロツ。 ( 諸国を先進国と見る一般的な先入観が、私たちの頭にこ びりつき支配しているということによるかもしれない。さらにまた歴史学の目的は一般法則を追
っこ 0 「オリンピックを主催する光栄は、国家ではなく都市に与えられる」というのがクーベルタン 以来の伝統である。古代オリン。ヒックはギリシアの都市国家ポリスの主催するものだったからだ。 ヨーロッパの都市は多かれ少なかれ、ギリシアのポリスの伝統をついでいる。つまり市民を主人 とする都市国家的である。クーベルタンは、もちろんそんな意識で都市を考えたわけだが、日本 の東京には、そのような伝統はない。名実共に国家の大行事になってしまったのは当然だろう。 オリンビックはこの行事を主催する亭主側と、招かれて競技をするお客さんーーその中には、 もちろん競技をする主人側の代表も入っている , ーーとの二者の協同の上に成立する。だが映画 「東京オリンビック」には、この主催者がほとんど描かれていないといってよい。重点はまった く選手が個人として団体として競技に挑戦する姿の描写におかれる。亭主側不在の映画であり、 「東京」っまり「日本」オリン。ヒックにならないわけである。 やまさに芸 もっとも私は、だから、この映画が芸術ではないなどといっているのではない。い 術だからこそ「東京オリン。ヒック」にならないということを指摘しているのだ。なぜなら、たし 文 とかに芸術に相違ないが、まさにそれは日本的芸術であり、日本的芸術というものは芸術になれば 刻なるほど私的個人的性格を強くし、公的性格を消失してしまう性格をもっと考えるからである。 あそこで表現されようとしたものは、競技者が全力をつくして競技と対決する姿である。アベ べが四〇キロ余の疾走という、常識的に考えても人間の体力の限界を超えるとはっきりわかるほ ホスト
可能な利潤を生み出すか否かという判定は、なかなか簡単には下すことができないのである。 私は、現在の農業問題に立ち入るつもりはない。ただこのような地味な論争によっても、浮か び出ざるを得ないような、ヨーロツ。 ( と日本との、ひいてはアジア・モンスーン地帯Ⅱ米作農業 地域全般との農業の基本的性格の差異について注意を喚起したいだけである。この差異は今に始 まったことではないのだ。おおげさにいえば、有史以来、農業が始まって以来その性格を決定し つづけてきた条件だと考えられるのである。土地生産性の極端な相違、これを問題にしないで、 ヨーロッパと日本の文化や社会を比較するのは無意味に近い。近代工業の成立するまで農業は唯 一的な産業であり、そのあり方は、社会や政治や文化のあり方を根本的に性格づけてきた。その 地域での人びとのものの考え方、さらには思想でも、農業のあり方を考えねばじゅうぶん理解で きない。現在でもそうである。なぜなら、思想はいったん形成されると一つの伝統として、なが く後の思想や文化を規定しつづけるからである。 ヨーロッハ的ということ現在のヨーロッパでも、ヨーロッパ的なもののほんとうの基礎にな 化ったのは、紀元後から、十五、六世紀までの封建社会である。私たちがヨーロッパ的と考えてい 文 る心情の一切はここに成立している。後代、市民革命をおこし、産業を革命し、近代社会をつく 刻りあげたものの原型は、およそこの期間につくられている。古代ギリシア、ロ】マ、キリスト教 の伝統はこの地盤の上に、うけつがれ、新しく変型再生産されたものであり、古代のものとはた いへん性格を異にしているのだ。
この古代古典文化をヨーロ , パ文化として再生産した地域は現在の北中イタリア、フランス、 ドイツ、イギリス、それに北中欧の諸国が中心である。これらの地域は、いわゆる温帯森林地域 であって、古代のギリシア・ロ ーマの文化が栄えていたときには、またまったくの野蛮の中にね む「ていた。地中海沿岸に開かれた農業が、この森林地帯を開発できる程度に技術を進歩させ、 その先進技術が輸入されて、や「とこの地域は農業世界へ進展することができたといえよう。 早くから開けた地中海沿岸は温和であるが、温帯では砂漠地帯の次に位する乾燥地帯である。 アテネは東京の約四分の一の雨量しかない。その荒涼たる国土は、簡単に農業化ができることを 特徴とするが、とうてい多くの人口を養うことができない。大河をもっ地帯や = ジプトなどとは たい〈んな違いである。和辻哲郎氏の『風土』の中の印象的な例を想起していただきたい。氏は ナポリ湾で海中にあ「た格好のよい石を拾いあげ、机上に置いたが、その石は乾くにしたが 0 て、 地上にある石と変わらなくな「てしま「た。氏はそこに、藻や貝類がほとんど見つからない地中 海が、日本の海に比べて、「死の海」であることを見いだしたのである。事実、地中海は大河の 河口など魚類生息地を除けばほとんど航行路としての意味しかもたない。オデ = , セイは巨人の 手からのがれる途中、海が見えたとき「海よ、海よ」という歓声をあげる。クセノフォンが敗走 中黒海〈たどりついたときも同様である。それはたしかに海洋民族が、や「と見いだした「自分 たちのもの」〈の喜びの声であろう。だが、この叫びは、同じような場合に「海洋国」日本人の 発するであろう歓声とは内容が違うはすである。クセノフォンの「海よ」という叫び声の中には、
ほど山ほどその経文が出てきた。私の知り合いの骨董屋がその噂をしていった。「先生、ちょっ と欲を出しすぎはったな。あんまり仰山もって帰るさかい、坊主、どないもぐあい悪うな 0 たん や」。この言葉を注釈するとこうなる。その経巻は「長持、に何杯というほどたくさんあった。 先生はそれを調査したいと申し入れた。お布施がはずんであるから、一つや二つもって帰 0 ても 坊さんは大目に見てくれる。しかし収集家の収集欲というものは、仕方のないものだ。 先生は行くたんびに、ご 0 そりとその経文を腹にまいたりして持ちだした。そのうちに長持が 軽くなるほど経巻が減「てしまった。坊さんは、これではバレてしまうと不安になり、かっ、先 生かてあんまりやと、おこ 0 てしまって、とうとう訴えたのにちがいない、というのである。 公然と売りとばすというのもたくさんある。最近で一番有名なのは京都の仁和寺が双ケ岡を二 億数千万円で売却し、世間が騒いだ事件だろう。双ケ岡は別に美術品でもないけれど、名所古蹟 として貴重なものだ。美術品の売りとばしと同然である。市民も新聞も買 0 たほうだけを問題に 司、国有財産になっていたのを売却などはしないと一札を入れて還 する。しかしあの土地は長いド 付してもら「たものだ。それを平気で売りとばす寺のほうこそ問題にさるべきではないか。とも かく現代は宗教時代だそうで、法律も世人も宗教人に対して甘すぎるようである。 いや、いまにはじまったことではないと私がいったのは、こん 歴史から見た寺院財産の売却 な身辺のことではなく、もっともっと昔の時代、も「と遠い異境にでも同じような現象が見られ ることを思い出したからである。ヨーロッパの中世紀は、いわゆる暗黒時代で、古代ギリシアや
平和がまったく例外的な他の地域の歴史と、それが生んだ文化をほんとうに理解することはたい へんむずかしいはずだ。だが、まさにヨーロッパ地域は代表的な戦乱の歴史の世界なのである。 ここヨーロッパは、東方から強力な民族の侵入を受けやすいということを根本的前提とした世 界である。各地にそれぞれ独立を保ち得るだけの領域が分立している。しかも、その各地域の自 然の障壁は物資の流通にはある程度妨げになるが、軍事的にはたいした防壁にならす、その上、 ーこよって連絡されているのである。皮肉にいえば、激しい竸争と抗争の 内海と水運に便利な河月冫 ためには、最もめぐまれた形で多くの地域の分散配置が完備していると結論してよい。ちょうど ギリシアの盆地が小さな独立国家ポリスの競争と争いに、最も都合よい地形であったように。ョ ーロッパは、より進んだ経済段階での、より大きくなった地域社会の競合、つまり近代国家程度 この上なくめぐまれた世界なのである。 の規模の集団の競合に、 , へ移った中世は戦乱の時代であった。最初にふれたように、 とくに、舞台が本来のヨーロツ。、 ヨーロッパの土地の生産性は低い。ゲルマン人が古く、紀元前二千年くらい前から農耕の歴史を もっていたことは、現在の学説の唱えるところだが、こういう意見には自分たちの先祖をできる だけ上等にしたいという希望が入っていることがふつうである。カ = サルの時代のゲルマン人は、 たしかにまだ農耕よりも牧畜に重点が置かれていた。本格的な農耕時代は移動後に開始される。 だが、そのときでも、森林や現在の耕地の大部分を占める沼沢地は、まだ開墾が不可能だった。 ゲルマン人の耕地は丘陵部分だけに限られたのである。遊牧民的、戦士的精神はどこまでも残っ