268 歴史ブームの底にあるもの 日本のロマンティシズム復興 日本のロマンティシズム復興幕末、明治維新期の事件や人物を題材にした文学がこのごろと くに多くなってきたようだ。そういえば文学だけでない、ノンフィクションの世界でも明治時代 をつくった人物伝などがしきりにとり上けられている。維新百年記念日が近いというだけのこと ではあるまい。明治維新は日本が減亡して植民地になるか否かの、戦慄すべき危機だった。それ を切りぬけて光栄ある明治期をつくり上げた私たちの父祖に対する追慕の念が高まったことの反 映である。明治維新だけでなく、戦国時代への、さらには日本の歴史そのものへの関心は、中央 公論の『日本の歴史』の驚異的な売れ行きが示すように、この数年来とくに高まったように思わ けい′力し れる。それも、読売新聞社の『日本の歴史』が先鞭をつけたことなのだが、歴史の形骸のような 社会構成史や経済史でなく、歴史をつくり、歴史に生きた人間の姿が追求されている。歴史とと もに歴史小説がひろく要求されるのもそのためであろう。 私はこのような思想の動きは広義の「日本のロマンティシズム復興」としてとらえられると思 う。それは民族の伝統と文化の再認識の動きであり、民族の理想と誇りを、過去を追体験するこ とによってかち得ようとする望みの現われたと考えるからた。 せんべん
のが少しも伝えられていないことだ。報道統制ということもあろうが、それだけでもないらしい。 英人宣教師クリスチーの『奉天三〇年』にも、日清戦争のときの日本軍は称賛に値するほど立派 であったが、日露戦争ではおごりたかぶったところがあって、かなり質が落ちていたことを述べ ている。市民社会化するにつれ、道徳は落ちていったこと、もっとも、明治時代は、よほど人間 がましで、大正、昭和と急速に道徳が落ちていったということになる。 事実、捕虜の取り扱いでもそうで、松山市などに捕虜収容所が置かれたのだが、捕虜たちはみ な相当な待遇を与えられ、外出もできた。市民たちもあたたかくこれを迎えた。松山市を第二の 故郷としたいと書き残した男もいる。明治政府は日本が文明国という評判をとるため、国際法を 学び、国民にもそれを教えるなど、昭和の軍人のように傲慢ではなかった。しかし、それにして も、ヨーロッパでは捕虜は名誉ある勇士として待遇されるものだという認識が、自然な感情と見 えるまでに、市民の間に浸透していたのだろうか。 吉川幸次郎氏などの意見によれば、明治の将軍たちが立派であったのは、それが下級であった にせよ、武士出身者で武士道を身につけていたからだ。小農民出身者などがかたよった軍人学校 の教育を受け、武士道を貫いていたストイシズムを失ったのが昭和の将校たちだということにな る。こういう考え方によれば、明治では兵士たちにも、この上官の武士道精神による感化が及ん でいたということになるのであろう。 つまり封建道徳が残っている間の日本は、立派で、市民社会が進展するとともに堕落したとい
210 活を豊かに、快適にすることに関しては、ほとんど言うに足りなかったといえよう。伝えられる 商人の贅沢さだってしれたものである。日本人は物質に対する執着心がなかったのではない。物 欲に乏しく、恬淡だったのではない。そういう心をかきたてるほどの物質がなかったのだ。もっ とはっきりいうと、そういうものへのあこがれをかきおこす見本が自分たちのまわりに容易に見 つからなかっただけのことなのである。 幕末、明治初めのころの日本は、いわば総貧乏だった。ちょうど大戦末期のようなもの。空襲 を受けて焼けだされても、だれもそう惜しいとは思わなかった。戦意旺盛で気持が高ぶっていた とはいえない。自棄だったことはたしかだが、それだけでもない。よい着物をもっていても着ら れなかった。そんなものを喜べる時代が間もなくやってくるなど想像もできない時代だった。維 新前後は同じ意味で豊かな物質文化の見本が未だ存在していなかった時だった。ということのほ うが大きい理由であろう。 だからこそ、物質生活が豊かになり、豊かで快適な生活の見本が、ちかくにいくらでも展開さ れるようになると、欲望もせきをきったようにあふれだし、執着度もおそろしく強くなることと なったのである。明治末からはそういう時代だ。もっとも、執着が強く、災害に弱くなったこと が目立ちはじめるのは、とくにこの敗戦後の話である。明治大正期は物欲も名誉心も強く、立身 出世主義がしきりに叫ばれたが、また災難に会っても精神の打撃は少なく、自力的な回復力は旺 盛だった。泣き叫び、同情と援助に依存するのはもちろん、それを強制するようになったのはご
220 能力ある人間が、自分の属する身分や社会層の中で上位を占めるようになるのは、それほど困 難ではない。運もあるが、まあ努力次第だといえる。だが、この身分階層をつきぬけること、と くに大きい断絶のある階層をつきぬけることは異常な困難である。明治時代は、帝国大学という 便利なパイ。フがつくられた。若干の資カーーーそれも奨学金その他の利便があったーーと、いわゆ る頭さえよければ大学へ入学できた。そこを卒業したものは、とくに東大を出たものは、氏素性 の一切にかかわらず、位人臣を極めるという高位高官になれたのである。これは人材試験を社会 がながい年月をかけてやる、つまり社会の自由競争による自然淘汰をやるというのでなく、それ を学校にやらせるということで、追いつけ、追いこせの明治の日本には便利でうまく適合した制 度だった。だが、なにしろ試験成積だけが社会的実力の鑑定基準になるわけだ。大正、昭和には どうにもならぬ欠陥を暴露してきていた。敗戦とともにその絶対の価値というものが大いに疑わ れるようになったのは当然である。まだまだ、その頃の夢があるから、入試地獄という現象が残 っているのだが、それももう間もなく消滅してしまうだろう。いや、消減させねばならないもの だ。明治のような模倣時代とはちがう。試験にたくみという才能ではどうにもならぬ時がやって きているからである。 やはり昔の心構えにもどらねばならぬ。というのは、社会が弁証法的に発展しないから、個々 人が弁証法的に変化するということである。下の社会層の上部にいたものが、より上位の社会層 に入ったとする。新兵からやり直さねばならない。秀吉は百姓として上層にあった。苦もなく大
古い封建制を守っていた。会津藩には多くの支城に、家臣が領主としてとどまり、小さな城下町 が散在した。これは一つの「東日本」的典型であろう。ここには強力な町人層は出現する余地は ない。商人は行商人の段階で停滞してしまっている。武士にもまた自己充足の本能が支配的たっ た。徳川末期にもなおここには懐古的な気分以外に何物もなかった。米沢が例外的な商工業都市 がもううじさと としての性格をもち得たのは、近江の出身の蒲生氏郷が、その大きい才能と努力によって西国的 城下町を建設したことによっている。だが、それも細々とした伝統でしかなかった。「東日本」 の各藩が維新の風潮にまったく無縁だったのは当然であろう。幕末の危機に際して西国雄藩のと 竝ったような民兵組織はとうてい考え及ぶところではなかった。会津落城の際、城下の町人は全部 の 城に背を向けた。そもそも会津藩では、藩士たちが農民を疎外して武士だけの農地をつくろうと 本 かげかっ し、農民の反撃によって失敗した歴史さえも「ているのだ。かれらの夢は、上杉景勝時代の、そ との当時でも時代おくれの耕作をする封建家臣団というとんでもないものたったのである。 本 明治には「西日本」の精神が生きかえった明治維新は西国雄藩と大阪商人の合作によって遂行 東 の された。ふたたび「西方」の勝利の時代である。もっとも近代的な統一国家を形成しようとする な日本が、藩閥政治そのままですごし得たわけではない。西日本のためという利己主義をそのまま 歴実践しようとは指導者も考えていなかった。ただ「西日本」を歴史的に支配していた理念が主導 性をもったことはたしかであろう。明治時代はまた「開かれた世界」になるのである。 ここではただ、そのときもなお新しく出現した「西日本 , 的なものと、「東日本」的なものと
武力による武士との対決も一応できた。 しかし順調にそれを伸ばすことはできなかった。ヨーロッパでは市民の力も文化も、力強く伸 びていって市民革命になるのだが、日本では明治維新の際も、市民は自力では徳川政権を倒すこ とはできなかったのである。いわば町人は日陰の存在として武士に対抗し、根を張りつづけただ けである。文化を発揚する場所も日陰でしかなかった。文化の性格も日陰、つまり裏文化となっ た。ョ 1 ロッパの絶対主義政権のもとでは考えられない私たちの歴史の特異性であろう。町人は、 表だって財力で武士を圧倒できない。かれらが、財力が真の実力であることを公然と誇示できる 場所は社会の恥部、ラチ外の場、すなわち遊廓でしかなかったのである。文化もはなはだしく遊 廓の文化の性格を帯びた。芝居小屋もラチ外の場所ーー四条河原などにつくられざるを得なかっ たのである。 ほんとうの時代の推進力となった町人の文化は、こうして非権力、非体制、非正統な裏文化と ならざるを得なかった。かれらを守る警察力はここではラチ外者、つまり「やくざ」という形式 をとらざるを得なかった。現在の日本人のやくざに対する過度の美化や過度の憧憬の根源もそこ にあるといえよう。ほんとうは時代の担い手であるはずの町人の文化が裏文化にとどまっている。 その場合こそ、裏文化が真の文化であり、裏文化に生きることが真の生き方だという考え方がこ こに当然生まれてくることになるだろう。 明治以後もこの条件はつづく。第一に、何百年も維持されてきたこの裏文化の伝統がある。第
112 ても、関西弁が女性的で、関東弁が男性的という区別はまったく無意味である。アクセントの問 題であるにすぎない。京都式アクセントと関東式アクセントは、中部の濃尾平野を混在地域とし てじつに見事に 北陸は能登半島以北が「東日本」であるーーー私が最初に述べた地理区分を示 やはぎ している。鈴鹿山脈と知多半島に流れる矢矧川が二重の国境である。同じ愛知県でも三河はまっ たく質を異にした東国世界である。鈴鹿山脈以東も戦国時代まではずいぶんちがった世界だった。 あすまうた 『万葉集』の中に「東歌」がことに区別され、九州の歌が区別されないのはどれほど東国語が異 様にひびいたかを示すものといえよう。国境地帯に間諜が養成されるのは歴史の法則である。こ の決定的な境界地方である伊賀・甲賀の地から日本では群を抜いた忍者の輩出したことは当然だ ろう。 以下衣食住について、西と東が、私の地理区分にうまく適合して説明できる例を順序不同とし てあげてゆくことにする。だいたいが徳川時代まで、ないしは明治時代まで、つまり強力な統一 政権によってほんとうに日本が渾然とした一体になるまでに、とくに見られた風習の相違たが、 ある程度まで現在にも生きている対立でもある。 東は「たつつけ」または「モンべ」を常用する。これは当然「袴」と「ももひき」にまで進展 する。それに対し西は「腰巻き」と「ふんどし」である。西のこれは南方の風俗が入ったものだ ろう。「ふんどし」は明治になってから軍隊によってやっと東北まで普及した。腰巻きも徳川時 代に入って「ゆもじ」として江戸に普及した。この古い区分は海女によって残されている。現在 あま
秀吉の豪奢ぶりも、フィレンツェの商人君主メディチ家のロレンツオにくらべると、その内容が 乏しい。支配した領土と人数は何十倍も秀吉のほうが大きい。もっともメディチ邸とくらべると 大阪城は途方もなく巨大である。大友宗鱗の『大坂見聞記』はその豪華さに驚きの声を放ちなが ら本丸の備品を数えあげている。だが、超贅沢だった秀吉もこの程度ということになれば、日本 の特徴は豊かだったのは人手で、物資ではないということを証明するように思われる。人工物資 の豊かさということになればメディチ家のほうが明らかに上なのだ。木材建築それに木材、陶器 工芸品だけという決定的条件があって、物資の蓄積がともなわない。一代に蒐集できる富という ものはしれたものだということでもあろう。米と海産物以外の食糧も乏しい。とくに種類が少な 。家畜をもたぬ日本農業は酪農品、肉産品、繊維製品の種類の貧しさが決定的になる。明治時 代においてさえも、モースは、日本の食品売り場で魚の種類の豊富さに驚くと同じ程度に、野菜 の種類の乏しさに驚きあきれている ( モース『日本その日その日』 ) 。明治天皇の侍医だったベルツ 博士は、家具・調度・衣類の乏しさと、日本人のそういう物への執着のなさに感心し、「これで 近代文明に耐えられるだろうか」という根本的な疑問を提出しているのである。「贅沢をし尽く した」といわれる日本人の贅沢でも、近世以後のどの時代、どの人をとってみても、同じ時代の 世界的水準から見るなら、貧寒としたものだったことはたしかであろう。ッタンカーメンの墓の 黄金と宝石ずくめの出土品と、日本の古墳の貧しさとの比較のようなものである。 日本は天産はきわめて豊かな、いわゆる海の幸、山の幸にめぐまれた国だった。南洋の島国以
雑色混色の世界 ( 一一 0 瀬戸内海と商業 ( 一一九 ) 海と取引のもたらすもの = 商人精神 ( 三 0 ) 「東日本」をつくるもの 純粋農業社会のもたらすもの ( 一き 閉鎖的社会 ( 三 0 貧しき農民たち ( 一三 0 ) 下士官的精神世界 (llllll) 東西の対立抗争としての日本史 徳川時代までに「東」と「西」は二度ずつ覇権をとった ( 一三五 ) 江戸幕府ーー鎖閉自立とマゾヒズム ( 一三 0 明治には「西日本」の精神が生きかえった ( 一巴 ) 戦後日本の「東日本性」 一億総農民化時代 ( 臨 ) 歴史のなかの「裏日本」 古い日本を継承 ( 一四七 ) 農業の合理化問題 ( 一哭 )
物質文化と精神主義 物に対する執着心明治九年十一月二十九日夜、京橋数寄屋町から発した火事は、強い北風に あおられ、一瞬のうちに当時の日本橋区から築地にいたるまでを焦土と化した。入舟町の外人居 留地をはじめ、二万戸以上が灰燼に帰したのである。その焼け跡を視察した有名なドイツ人の医 学者ベルツ博士は、信ずべからざるような光景に出会って肝をつぶした。かれはそのことを「日 記」のなかに書き残している。博士は何に驚いたのか。 の最高権威への近接の度合いによって一列にならべ、優劣をきめるということをやっているから である。こういう隠徴な競争が、オー。フンな競技の成立を阻害した。現在も、そのような心情か ら脱却しているとは決していえないだろう。 設計競技であれ、スポーツであれ、私たちは、まだ本質的にその精神を自分のものとはしてい ない。「完全理想的な交換市場における価値ーというものを考え、これを最も普遍的な価値決定 とするという気分をもち得ない。どうしても「自分自身の真底からの満足」が最高のものだとす る気分からぬけ得ない。私たち日本人の今後の最大の問題は、このような主観の絶対の主張から の脱却にあるのではないだろうか。 かいじん