偽善性への正しい反撃を ( 九 0 ) 歴史のなかの「東日本」と「西日本」の対立 世界について 一つの世界としての日本 ( 九六 ) 世界史とは何か ( 九 0 「東日本」と「西日本」 『平家物語』の提起するもの (101) 東と西との抗争が日本の歴史をつくっている (IOII) 「東日本」と「西日本」の区分 ( 一 0 五 ) 「東」と「西」とのちがい 「西日本」的風土というもの ( 一一 0 ) 衣食住における「東日本」と「西日本」 (lll) 「東」と「西」の家族制度 ( 二じ 「西日本」をつくるもの 「西」の四季とあわたたしさ ( 一一七 )
現在の日本でもますます健在である。これは「東日本ーだけではなく、日本全体に当てはまるこ とでもある。だが、「西日本」では商人になってゆくという道があった。「東日本」ではそれがふ さがっていただけ、下士官化への傾向はとくに濃厚だったし、現在もあるといえよう。
158 う東歌の範囲にはいる。伊賀・甲賀には忍法が発達する。忍法は国境地帯に発達するものである。 中京地方は日本の中心それでは濃尾地方は東日本だろうか。いやほんとうの東日本は、三河 地方からであろう。三河と尾張の相違感は、私がうんぬんするより、現地の方々が現在でも身を もって感じられているはずである。文化史的に見れば、西日本の風俗習慣は、中京地方までを、 長い年月をかけておかしてしまうことに成功したのだが、三河までは及ばなかったのである。 こうなってみると、中京地方は西から見ても東から見ても、異端であり辺境である。東日本が 勢力をもった鎌倉・江戸時代では、むしろ東日本の中心である関東に首都を置くのが便利である。 西日本なら京大阪が中心として西も東も把握しやすい。 こういうわけで中京地方は、地理上、日本の中心であり、中心であるにふさわしい経済力をも ちながら、偉大なるいなかとしての地位しか、保持してこられなかったといえよう。 偏狭性からの脱皮明治にはいってからも中部地方は、とくに名古屋付近は、東からも西から も、ある程度辺境扱いを受けてきた。関東と関西という二大中心のなかで影のうすい存在であっ た。その地位に大きい変化が生まれてきたのは、とくに戦後からである。戦後の名古屋のすばら しい復興というより戦前をはるかに上回る躍進は、計画がよかったということのほかに客観情勢 の大きい変化がある。戦後の経済には圧倒的に政治の比重が増した。東京に近いほど有利になっ た。九州、近畿、中部の順に不利になった。それにいままで西日本の繁栄をささえる大きい原動 カたった大陸、朝鮮が切断され、東日本をささえたアメリカ貿易が重きをなしてきた。名古屋は 物ずまうた
産業は、日本の中国進出に便乗してすさまじい発達をとげるが、政府の直接的な指導によらなか ったことは、やはり「西日本」の特質である。原料を輸入、製品を輸出という加工産業が「西日 本」の代表であったことも、仲介商業であった「西日本の特徴」を受けついだものといえるかも しれない。まったく独立的私企業としての鉄道が盛んだったのもやはり西日本である。 案外知られていないのは、いわゆる新興宗教における両者の特質である。天理教は奈良、大本 教は京都、金光、黒住教は岡山というふうに、維新後大きな発展をとげた新興宗教は「西日本」 とくに近畿から生まれている。その特徴は一地域一国家の限界をこえ、コスモポリタン的性格を いわば空想的ュ ート。ヒア的な現世改革理論をもっていることである。大本教 立もち、世直しという 」が不敬罪というわくで粉砕されたように、国家主義の風潮からはみたしているのだ。民間信仰に 根ざしながらそれから抜け出ているという特質をもつ。 西 「東日本」はそれに対し、なお深い民間信仰のなかに沈んでいた。富士山麓に本拠を置いて激 本 しい動きを見せ、明治十七年政府の弾圧によって壊減し去った丸山教はその代表である。信者た 東 ちは、「東日本」的な地域集団として団結をたもち、個人主義的傾向を峻拒した。かれらの救済 の 目的は、大名にとりたてられるというおよそ時代離れしたものだった。「東日本」宗教の偏狭な 史 歴閉鎖独善性は、ウルトラ国家主義・民族主義へと直接につらなる傾向をもつ。権力に迎合しやす 。あとで述べるように、戦後は「東日本」的性格が指導的となった時代である。はじめて「東 日本」の新興宗教が勢力を得たときである。
東西の対立抗争としての日本史 徳川時代までに「東」と「西」はニ度すっ覇権をとった 日本の歴史は、この二つの世界が、経 済的にも政治的にも文化的にも影響しあい、干渉しあい、混合しあいながら、互いに主導権を争 、政権交代となって争う世界である。 竝繩文式土器時代の原始日本は「東日本」の全土制圧期ー、・ - ーといっても統一はなかったがーー・で の ある。つづいて建国ごろから平安朝までは西の一人舞台だった。西日本は、中国や朝鮮から、圧 本 倒的にすぐれた文化や技術を導入し、自分自身を改良するとともに、それを全日本の支配の基盤 ととした。奈良朝期は、排水と灌漑技術、織物、陶器、道路、建築、すべて日本の生活が奔流のよ 日うに変えられていった世界である。宗教への偏重が苛酷な民衆への賦課となって現われはした。 しかし、大和朝から奈良朝の大きな歴史の脈動を、農民に対する搾取の増大としてだけしか意味 の づけようとしない「進歩的」史観には私は反対である。『万葉集』をただ支配者たけに許された 歴自由な心情の表現と解釈することも不賛成である。すでにまぎれもない関東の農家の乙女でさえ も見事な恋歌をうたい得るまで、日本人の感情が進展しているのである。 だが、平安朝期には貴族の支配実力の空洞化は救いがたいものとなる。武力をもち、直接農民 じようもんしき
づいておられるだろうか。関西ではそのまま焼くが、東京風ではいったん蒸してから焼くのであ る。私の経験では、この焼き方の相違は現在は関東風が進出していて、岐阜がその境界である。 しかし、まじり合ってしまってもいて逆だと思っている人も多い。食風習の相違を最も明確に示 すのは正月の雑煮である。内容は地方によって異なるが、関東は澄まし、関西は味噌汁である。 すしの相違、西の甘ロ、東の辛口という味つけの相違はもう読者のだれもがごそんじであろう。 西日本を象徴する味覚として、どうしてもあげておきたいものは松茸である。和辻哲郎博士は 竹をあげられたが、視覚としてはそのとおりかもしれない ( 和辻哲郎『風土』 ) 。味覚としては松茸 立である。「西日本」でも、これを産しないのは南九州や四国南半など「西日本」の辺境地帯であ の る。北陸は金沢付近どまりである。名古屋付近からはもうだめだ。まったく奇妙なほど西日本的 本 世界と松茸産地は一致するのだ。「きのこ」という言葉はこの世界では現在も使用されない。あ 西 れは東日本の言葉である。 本 衣食住における「東日本」と「西日本」ちょっと前にふれたが、人種的に見ると「東日本ーと 東 「西日本」という区別はむずかしいようである。むしろ山陰・北陸・東北型と表日本型という区 の な別をしたほうがよさそうだ。関西はそのなかでもとくに北支・南鮮型らしい。だから私のいう 歴「東日本」と「西日本」というのは、とくに文化的、気質的な意味でである。 基本的なのは言葉である。一一 = ロ語の力関係は、政治的支配関係、経済的勢力関係の投影でもある。 詳しいことは言語地理学方面でいろいろ研究があるからごらんいただきたい。言葉の相違といっ
142 の対照を、一、二例示するだけにとどめたい。 まず経済的な一例から。明治政府は輸出振興のため、茶や生糸など日本の特産品生産を奨励し た。桑畠を多量に必要とする生糸は水田の多い「西日本 . より、畑の多い東日本に適する。中部 山岳地帯がその中心とな 0 た。諏訪湖の片倉製糸は、この風雲に乗 0 た代表会社である。茶も静 岡を中心に大規模な生産が行なわれた。それらの輸出港として設置された横浜は、日本第二の国 際港として栄えることになる。ここで注意しておきたいことは、これら「東日本」の花形産業が、 政府の強力な指導と援助のもとに進められたこと、その製品が日本の特産品で、奢侈品で、先進 国の、主としてアメリカの上流階級に向けられるものだ「たことである。閉鎖的、特権的商品取 引だったといえよう。 「西日本」の花形産業は綿、毛織物とくに前者である。渋沢栄一が、蜂須賀、毛利、徳川らの この人が関東人だったことは私の論 旧大名と結んで創立した大阪紡績はその代表であろう。 理にあわないが、大阪を本拠地としたことで、少しインチキだが西側にくり人れることにした 。徳川時代から、東の生糸、西の木綿とい 0 たふうに、畿内とくに河内地方の綿織物は日本 の代表的なマニ = ファクチ = アであった。 綿織物は、生糸とまさに反対の生活必需品である。開放的商業の商品なのだ。日本の綿織物は、 しかもその下級品であり、需要先は中国を中心とする後進地帯である。輸出港は神戸である。政 府が「西日本 , の中心港にしようとした長崎はその役目を果たし得なか「た。この西日本の代表
雑色混色の世界 ( 一一 0 瀬戸内海と商業 ( 一一九 ) 海と取引のもたらすもの = 商人精神 ( 三 0 ) 「東日本」をつくるもの 純粋農業社会のもたらすもの ( 一き 閉鎖的社会 ( 三 0 貧しき農民たち ( 一三 0 ) 下士官的精神世界 (llllll) 東西の対立抗争としての日本史 徳川時代までに「東」と「西」は二度ずつ覇権をとった ( 一三五 ) 江戸幕府ーー鎖閉自立とマゾヒズム ( 一三 0 明治には「西日本」の精神が生きかえった ( 一巴 ) 戦後日本の「東日本性」 一億総農民化時代 ( 臨 ) 歴史のなかの「裏日本」 古い日本を継承 ( 一四七 ) 農業の合理化問題 ( 一哭 )
しかし、私たちはこの考え方をさらに進めることができるだろう。 武士は、京都の荘園所有の貴族たちとちがって、その武力で農民を直接的に把握し、支配して いた。だからその武力の性格は、その地の農民のあり方と直接的な関係をもつにちがいない。っ まり、その武力の性格は、その地域の社会の構造と密接な関係をもつはずである。武力の性格に 東型と西型があるのは、当時の日本の社会に西型と東型があることを示すものでなければならな いであろう。 このような考察をさらに深めてゆくと、日本の全歴史時代を東と西の交渉、戦い、覇権の交代 竝の歴史として見ることができよう。それが私の意図である。 の あとで、やや詳しく問題にするが、ここで簡単に私の日本史の構造について述べておこう。 本 じようもんしき 繩文式土器の時代は、東日本が人口、生産力ともに西日本を圧していた時代であり、「東日本 時代」である。そこへ西方からの新しい政治と文化の勢力が侵入してくる。その一つが近畿に根 日をおろし、やがて大和朝廷となって、ほぼ日本全土を支配するにいたる。奈良平安朝はその続き としての西日本時代である。 の 鎌倉時代は、ようやく開発された東国に根をおろした武士団が、京都の支配に反撃を成功させ の 歴た時代である。統一された世界としての日本最初の東方的なものの支配の時代である。同じよう な武家の支配である平家の支配は、まったく西日本的であった。根拠地も瀬戸内海沿岸であった。 南北朝は、この東方支配に対する西の反撃時代である。室町幕府への移行は、西側どうしの争い
108 端的な立場しか占めることができなかった。それに対し大阪は、紀州や岡山などの瀬戸内海沿岸 や徳島、高松など四国の対岸からの移住民を主体とし、遠く北と東九州と直結している。京都は、 西日本における北陸・山陰の出店である。逆にいえば、一部の江州商人は別として、北陸や山陰 人は瀬戸内海人に圧倒されて京都より西部へ進出できなかったのである。気候的にも京都はむし ろ北陸的である。神戸へ通っていた私は、秋に京都を雨支度で出かけ、からりと晴れた神戸でよ く恥をかいた思い出をもっている。 京都と大阪をつなぐものは、風土的条件ではなく、まったく淀川という大動脈にほかならない。 ここで京都を「西日本」の特殊地域としてとりあげたことを、記憶しておいていただきたい。 「東日本」にも「西日本」にもこういう特殊地域があり、それが大きい役割を果たすことはあと でとりあげる。 「東日本」は、この瀬戸内海のような、東を一帯化し、関東へ求心する自然的要素をもたない。 私は「東日本」が一体になったのは、攻撃的な「西日本」に対する受身としての共通性であると 考える。しかも、その受身は、小さな日本本土の東・北という、まとまりやすいというより、ど うしてもまとまらねばならぬ一体をなしている。こういう条件下では、ある程度の政治力ができ れば、それが大きい求心的作用を果たす。鎌倉時代では湘南から伊豆が、江戸時代では江戸とい うまったくの人為的集団地域が「東日本」を統一する中心になり得たのである。統一の中心への 自然の交通路は存在しない。それはむしろあとから人為的に構成された。物資の交換の必要のな