ド型の、一つの にもかかわらず、日本の社会は、やはり現在でも、天皇を頂点とする。ヒラミッ 統一的な秩序体系のもとにあるといえる。この体系があるからこそ、異質な上下関係の団体が、 混乱をおこさず、うまく一つの大秩序に組み込まれるのだ。だが、この体系は顕在したものでは ない。具体的な社会関係として表現されるものでもない。なるほど親会社と子会社というはっき りした関係も部分的にあるにはある。政党の村町・県・中央というような体系もある。だが、ヨ 1 ロッパと日本ではかなり違った形になる。アメリカなどで典型的に見られるように、そういう 宗教、政治、経済、学界などにいくつかの頂点があるのが「あちら」のあり方だ。そのおのおの の頂点だけが、今度は一つの交ーー社交ではないーー社会をつくって溶けあい、真の支配層を 日本もそうだといえるだろうか。いや、日本は、 つくっている。下の方はまじりあっていない。 そうではない。下部の三角構成のなかですでにまじりあいがある。 一方、上層のあり方が違う。浄土真宗 ( 東西本願寺 ) では法主が猊下と称され、天皇的雰囲気を 身につけ、天皇と外戚ということで、その地位を確保している。宗教でさえそうである。大会社 化の社長は、これほど露骨ではないけれど、やはりたいへん徴妙な形で、天皇制の反映であり、そ 文 の権成を借りているところがある。 文 こういう日本の三角構造の、そのからみあいは、驚くべき複雑さである。だが、問題は、それを 表 貫く裏面の秩序はきわめて簡単だということだ。その表面ではなく、裏面を見るがよい。そこを 貫くものは、職業や技術とは無関係の、いわば抽象的な観念的な体系である。つまり、道という げいか
日本人の意識を誤解していることにもなるのだが 日本的社会のタテ構造かって中根千枝氏は、日本の社会構造の特質としてタテの結びつきが 強いということを指摘した ( 「日本的社会構造の発見」『中央公論』昭和三十九年五月号 ) 。タテの結合 とは親子、上役下役などという同列におきがたい両者が、その異質性ゆえに結合する関係であり、 同質者が同質性ゆえに結合するヨコの関係と対立するものである。日本の社会関係を図示すれば、 底辺のない三角形の無限な積み重ねのようなものだ。このようなタテの関係の強い集団は、当然 他に対し閉鎖的になる。その集団の成員は、現在の自分の地位や職務に、満足感や使命感をもた ず、その限界を突破して上位の異質の地位に上昇しようという欲望をもつ。日本社会の長所も短 所もそこに見られる。家庭、会社、学校、労働組合、日本のあらゆる組織集団、組織集団相互の 間にこのタテの関係の強さが見られるというのが中根千枝氏の主張であった。この指摘は鋭く日 本社会の特徴をついたものであった。組合でさえも産業別組合にならず、企業別組合になる。い わゆる日本の社会の二重構造もこれで説明できるからである。だがここで私は、中根氏の意見を 認めつつ、ただこのタテの関係そのものに見られる日本的特徴をさらに問題にしたいと思う。 日本においてタテの関係というのは、たとえば会社の中での課長と社員の関係だが、決して組 織における機能関係にとどまるものではない。たしかに課長は他部局の課長相互よりも、自分の 部下の係長・平社員とより親密な関係はもつ。だがそれは課長と係長という職務関係だけによっ て親しくなるものではない。むしろそういうものを離れた人間関係によるのだ。私はよく青年社
社会にはこれがかえって適合的になる場合が多い。伝説の「村正」のような人間が実在したとし たら、そんな男は、日本では指導者として働きにくいからである。全人的に上位とは、道徳的に 上位ということになりやすいが、これは極端にいえば、どのようなごまかしでも通用するという ことでもある。現在の道徳的基準ほど混乱し、主観的になっているものはない。どのような反社 会的行動に対しても、その罪は当人になくて、社会全体にあるという議論が成立することにもな る。資本主義社会の道義と社会主義社会の道義とは根本的に対立するとの強弁も可能である。性 を売り物にする人間以外の何ものでもない映画の製作者が、芸術論で煙にまき、大先生になって もいる。超俗的精神は俗物には理解できぬという論理だ。要するに、日本のこの特性は、社会が 自然と正しい方向に進むときは、自然に整序されるが、混乱したときは、混乱の極地に達するし、 一度反動的に傾けば怒濤のような勢いですべてがそちらに傾き流れるということである。戦前の 狂信状態と現在の混乱状態とは、この否定的側面の最も顕著な出現だといえるかもしれない。そ れを正すには、どうしたらよいか。 日本の歴史的個性を捨て、ヨーロッパ化せよということにはなるまい。日本人はこういう自己 否定的反省が好きである。アメリカの能率主義にむやみにとびつき、それを転用して、動きがと れなくて泣いている会社が多いのも一種の喜劇である。歴史的個性はそう簡単に転身できるもの ではない。その長所を生かすよう努力すべきだろう。この場合、指導者の資格である全人的優越 性をできるかぎり具体化することを要求すべきだと信じる。それができないあいまいな人を、指
265 ローマの文化の伝統は教会や修道院の中にのみ残されていたといわれている。 というのは僧侶たちだけがラテン語を解し、古代の教養を身につけていたというだけのことで はない。信仰のおかげで古代の文化を象徴するいろいろな寺宝も、掠奪も受けず戦禍にも荒らさ れす残されていたということでもある。だが、八世紀を過ぎるころから、この教会や修道院が寺 領や寺宝を売りに出すことが目立ちはじめる。 なぜそうなったかというと、坊さんが贅沢になっていままでどおりの収入でやってゆけなくな ったからだと考えるのがふつうである。文化財保護法という法律などなかったから大っぴらにや れそうなものだが、現在よりはるかにきびしい信者の目がある。うまく、こっそり売るのにはや つばりいろいろ苦労したらしい。 だが、それがあまり盛んになって教会や修道院の売りだした数々の宝物は町の市場や領主の邸 や商人の住居に満ちあふれるようになってしまった。「この寺院財産の売却が商取引を刺激し、 交換経済の社会をつくりだし、資本主義社会の発生の一原因となった」という著名な経済史学者 像もいるほどである。それは大げさすぎるとして、ともかく宝物の売りとばしなど、何もいまさら の でもないことは、これでおわかりいただけるだろう。 文 本 宗教人も普通人洋の東西を問わず社寺は古美術品の宝庫である。とくに日本では寺がそうで ある。一方、美術作品の愛好者には、はじめに述べた教授の例で見るとおり、学者であろうと 実業家であろうと異常な執着を示す人が多い。だから、その保管者である僧侶はいつもこういう
が、イギリス人の大工で、軍隊にまぎれこんでフラフラとイタリアにやって来、傭兵隊長となり、 小さな領主となったのが珍しい程度のものだ。氏素性もない男が毎日のように王者に成り上がる といって、イタリアの坊主や文人たちは嘆いているのだが、それは甚だしい誇張である。氏素性 のなさは日本のほうがはるかに徹底しているのだ。上昇の度合いもはるかに広い。 毛並みの問題ヨーロッパは日本人が想像するのとは、はるかに社会層が固定し、流動化し にくい世界である。現在ですらそうだ。社会的発言力とか出世のためには、親の職業や地位が決 定的な影響力をもつ。ハイソサイティに入るためには先祖つまり毛並みがよくなければならない。 それも日本のような家柄とかいう簡単なものではない。両親の両親のそのまた両親というふうに、 と , もか ~ 、ヨーロッ 数えてゆけば無限大になる先祖の人びとがみな立派な人でなければならない。 。ハ人は、近代科学の成立以前に家畜の改良増産に成功した世界でも唯一の民族である。遺伝学が 生まれるずっと前から、すでに経験的にはっきり「血統ーというものの作用にじゅうぶん目を開 造かざるを得なかったのだ。米づくりだけしかやらない日本人の考えているようなあいまいな血筋、 の実は家筋という観念などとはまったくちがう理由がそこにある。それが昻じて変な固定観念が生 れまれた。学者や芸能人は例外的な、開かれた世界である。「学者には、髪の毛の黒い変なのを先 祖にもつのがいたりするから、姫の縁談に気をつけなくては」。これはアメリカのある実業家の 奥さんの言葉だった。一流会社の社長になるためには、生まれ , ーーほんとうの意味での家族関係 がはるかに決定的な作用をする。その意味では、日本とはくらべものにならぬ固着した社会
。指導と随行、支配と服従というような上下関係である。もちろ ものがその異質ゆえに結びつく この横と縦の結合の性格は、時代や地理的諸条件に ん、必ずしも支配関係を示すものではない。 よって違いが生ずる。だから、その社会の特質を、この関係のあり方によって示すことができる。 その一方、この横の結びつきと縦の結びつきの強弱によっても、種々な相違がある。日本の社会 の構造は、この縦の結びつきがとくに強いという特質をもっているとされる ( 中根千枝「日本的社 会構造の発見」『中央公論』昭和三十九年五月号 ) 。 私流の言い方をすればこうなる。日本は、何人かを東ねる上級者があり、そのくらいの上級者 を東ねる上級者、さらにその上級者というふうに、三角形の何層かの構造があり、おのおの三角 形は独立性を保ちつつ、終局的にはそれが天皇という唯一な頂点にいたるという関係で結合され ているといえよう。 だが、ここに指摘されることは、この多くの三角形には底辺がないということだ。ないといっ ては、いいすぎかもしれない。同質者どうしの結合が弱くて、ないといえるぐらいのものなので ある。 もっとも、この日本という大きい三角形は単純な。ヒラミッドではない。個人はいくつもの三角 形に属している。一つの三角形自体は、たとえば会社のように、ある程度独立している。上位の 三角形と下位の三角形とは、同質のものではない場合も多い。直接的な上位下位の関係にはなっ ていないのもある。
222 自国の悪口をいいたい衝動にかられてしまう仕組みになっていたのである。もっともその反動か ら、逆に虚勢を張り、むやみに強がり、相手を軽蔑しようと努める風潮もあった。戦争直前の一 時期はとくにこの傾向が強くなったときである。これもやはり原因は同じ劣等感である。その裏 返しにすぎないのだ。私たちと同人種のアジアの人びとに対する変な優越感にしても同じ原因か ら説明することができるだろう。 戦後は、このむやみな卑屈さも虚勢もなくなって、ごくふつうに欧米人と接するようになった といわれる。たしかにそういう変化はある。外人と接触する機会もうんとふえ、かれらだって別 に神様でも、化け物でもない同じような人間だという理解が行きとどいたせいであろう。 だが、劣等意識がなくなったわけでは決してない。それがまた戦前とはちがったふうにゆがめ られて発現しているにすぎないのだと私は思う。それに、戦前のように一様でなく、その人の年 齢とか性格とか、社会的地位とか、思想なりに、いろいろの姿をとって現われているので、あま り気がっかないというだけのことなのだ。 戦後の思想と教育戦後の進歩的傾向というのは、こういうわけである。戦後の学校や社会、 すべての思想と教育は「日本は悪かった」一色になった。戦前思想のように、日本は後進国とだ けきめつけはしなくなった。それに加えてゆがんだ国、悪い国にもなった。外に対しては先進国 のような顔をして「帝国主義」的悪行を行なう、内に対しては後進国的「搾取」に努める、最悪 の国だということになった。戦後の約十年間は、日本の知識階級がマルキシズムの呪文にとり
故国へ直結した水「路」を見いだした喜び以外の意味はふくまれていない。 日本人の海への郷愁 は「路」としてより、無限な海の幸をめぐむ「母なる海」への回帰の願いであり、こんな場合の 喜びは、その「母」との再会の喜びのはすである。 ヨーロツ。、ー」 一仰の古代社会の代表であるギリシアは、同じ地中海でも、とくべっ不毛な地帯に成 立したため、それ自体では繁栄する基盤をもち得なかった。古典ギリシアは、古代東方帝国、と くに。ヘルシア帝国の富に吸着し、そこから栄養をとることによってのみ保たれた。ベルシア帝国 が生み、集散する物質は、地中海へも大きい交換の波動をもたらす。ギリシアの数多い都市国家 の住民たちは、商人として黒海と地中海での交換に従事し、ほとんどそれを独占することによっ て、さらには海賊として各地の富を略奪し、征服者として各地の生産を収奪することによって、 繁栄したのである。もちろん、ギリシアの文化を商人文化としてのみ理解することは行きすぎで あろう。だからといって農民文化であるというのではさらさらない。それは盗賊戦士の文化であ り、征服者の文化である。つまりそれらの混合文化である。農民、商人、戦士、この三つの方向 での。ヘルシア帝国への吸着がなかったらギリシア都市国家は渺たる辺境の小都市として終わった 文 裏たろう。東洋人である私たちには、当時のギリシア人や、その代弁者たるヨーロッパの主張をま 文にうけて、ギリシア社会ーー、・文化ではない の独立性を懸命に説く義務はないはずである。ア テネの奴隷十万、市民家族十五万前後、計二十五万人以上の人びとの食糧の大部分は、小アジア やアフリカ北岸からの輸人に期待していたのである。だが、その輸人に匹敵するほどの対価をア びよう
絽 3 反発であろう。 戦争中、政治や思想で指導的役割を果たした人間や、積極的に協力したものが現在でも同じ地 ペリフェラル 位にいる。その当時反抗した人ーーそんな人は数えるほどしかいなかったーー、や、末端的な地位 しか占められず、参加も反感も批判も現実的効果をもち得なかった人も、戦争経験主義には反発 するであろう。戦争経験のない青年たちが反対するのも当然だ。戦争経験は、未経験者にはとう てい伝達不可能な事がらだからである。だが、極限状況を思考することは、何も戦争体験にかぎ るのではない。平和の社会だっていろいろな極限状況が現出する。安保体験を生かそうというよ うなことがしきりに叫ばれたが、あの運動も一つの極限状況である。国会への突入、警官の襲撃、 あの両方の狂乱に近い興奮ぶりは前線以上のものだ。 そういうことだけではない。たいせつなことは極限状況における思想と行動の考察を無視する ことは、人間の脳の働きを無視することだという点である。私たちの脳には、新皮質と旧皮質が 造あって、すべての感情・思考・行動は、この両方の複雑な相関活動によって規定される。私たち の感情の深層には、たえず動物的衝動がある。それを、新皮質を中心とする複雑な脳の働きが抑 制し、規制するのだが、その場合この衝動的な感情そのものが消失するわけでは決してない。明 確な思考や行動に意識下の感情がそのまま現われるわけではないが、その思考や行動に強い影響 を及。ほすのだ。たとえば、他人に対し、社会に対し、論理整然とした批判を下す人も、その批判 コンプレックス の原動力として何かの劣等意識をもっている。どす黒いまでの嫉妬心をもっているのが、はっき
220 能力ある人間が、自分の属する身分や社会層の中で上位を占めるようになるのは、それほど困 難ではない。運もあるが、まあ努力次第だといえる。だが、この身分階層をつきぬけること、と くに大きい断絶のある階層をつきぬけることは異常な困難である。明治時代は、帝国大学という 便利なパイ。フがつくられた。若干の資カーーーそれも奨学金その他の利便があったーーと、いわゆ る頭さえよければ大学へ入学できた。そこを卒業したものは、とくに東大を出たものは、氏素性 の一切にかかわらず、位人臣を極めるという高位高官になれたのである。これは人材試験を社会 がながい年月をかけてやる、つまり社会の自由競争による自然淘汰をやるというのでなく、それ を学校にやらせるということで、追いつけ、追いこせの明治の日本には便利でうまく適合した制 度だった。だが、なにしろ試験成積だけが社会的実力の鑑定基準になるわけだ。大正、昭和には どうにもならぬ欠陥を暴露してきていた。敗戦とともにその絶対の価値というものが大いに疑わ れるようになったのは当然である。まだまだ、その頃の夢があるから、入試地獄という現象が残 っているのだが、それももう間もなく消滅してしまうだろう。いや、消減させねばならないもの だ。明治のような模倣時代とはちがう。試験にたくみという才能ではどうにもならぬ時がやって きているからである。 やはり昔の心構えにもどらねばならぬ。というのは、社会が弁証法的に発展しないから、個々 人が弁証法的に変化するということである。下の社会層の上部にいたものが、より上位の社会層 に入ったとする。新兵からやり直さねばならない。秀吉は百姓として上層にあった。苦もなく大