若者たち - みる会図書館


検索対象: 学歴主義の発展構造
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1. 学歴主義の発展構造

しておくこととしよう。 マーチン・トロウ CMartin A. Trow) は高等教育機会にたいする「プル (pull) 」と「ブッシュ Cpu- (h) 」の二つの圧力の存在についてつぎのようにのべている。 〈だがもちろん、高学歴を「要求」する仕事がふえなければ、親や子の高等教育をうけたいという願 望はカべにぶつかってしまうだろう。そしてこの点については現在、大学卒の過剰生産や高学歴者の 市場の縮小がうんぬんされている。しかし私のみるところでは、すくなくとも今後三、四〇年間は大 学卒が過剰になると考えるべき証拠はない。 というのは、一般大衆からの「ブッシュ」とでもよぶべ き高等教育機会にたいする需要の増大と不可分の形で、第三次産業ないしはサービス産業の持続的成 長を中心とした、経済の「プルーが存在するからである》 ( ・トロウ〔 3 〕一〇一 5 一〇二頁 ) さて、・トロウ自身は、この「プルーと「ブッシューとを分析のための概念として駆使している わけではない。しかし、この二つの概念 ( ないし・トロウの考え方とちかいものとして著者が使用する二 点つの概念 ) は、著者の見解においては、より重要な位置をあたえられている。それはます、さきにふ のれた学歴主義の二面性と明確に照応している。また、 ・トロウの場合、この「プル」と「ブッシ 社 = 」との関係が不可分の形で ( すくなくとも今後三、四〇年間は ) あらわれるととらえているのにたいして、 学著者は、この二つの作用はつねにあいともなって、同じ大きさのカであらわれるとはかぎらないと考 章えている。すなわち、時代や国によって、前者がはげしい形であらわれ、後者に大きく先行する場合 や、逆に後者がしだいにつよくなってゆき、前者を大きく追い越す場合もあると考えている。のみな

2. 学歴主義の発展構造

いずれも有名大学卒の比率は沈下している。裏返せば、それだけ新任重役の出身校は多様化してお り、少数の有名校への集中度は年々下がってきているということだ〉 このような有名大学卒の地盤沈下を指摘したうえで、同調査は「なにも有名大学へ入るために大き な苦労を積まなくても、企業社会に入ってから十分に努力し、実力を発揮すれば、重役への道は開か れるということだーとむすんでいる。 学歴主義問題の重点は、第二章において検討したように、社会的上昇の問題から、しだいに「能力 アイデンティティーの問題などにみられるような、誇りと自信の問題へと移行しつつあるように思わ れる。こんにち、学歴主義の最大の問題は、入試に失敗した若者たちの劣等感と意欲の喪失にあると みるのはゆきすぎであろうか。いずれにしても、学歴主義の問題を、処遇の面からのみとらえるのは 片手落ちではないかと思われる。 ー 94

3. 学歴主義の発展構造

一学歴主義の二面性とバラドックス こんにちの学歴社会論には、以上検討したようなある種の混乱が認められる。そして、このような 混乱をうみだす主な原因としては、学歴主義にみられる二面性とパラドックスについての理解が十分 でないこと、その結果、論者によってその一面だけをとらえた議論がおこなわれ、これらの論者がた 力いに相対立しているという事実をあげることができる。 ここで、学歴主義のもっ二面性というのは、教育にたいする社会の側の要求と教育をうける個人の 側の要求との二面性に照応するもので、社会の側が学歴を重視することから生ずる問題の側面と、多 くの若者たちが学歴をもとめて狂奔することからくる問題の側面との二面性である。 オしカつねに表裏あいともなって 重要な点は、これら二つの側面が、けっして相互に無関係ではよ、・ゝ、 第一章学歴社会論の盲点 9

4. 学歴主義の発展構造

五日本的競争の性格 以上のような能力観の差は、それぞれの社会における競争の性格にも顕著な差をもたらす。たとえ ば、「実力」を重視するアメリカ社会においては、それによって競争にいくつかの特性がもたらされ る。 まず第一に、このような「実力ーを重視する社会においては、競争における個々の勝敗は、人生に このような勝敗は、敗者が勝者にた おける長い一連のたたかいの、わずかひとつの局面にすぎない。 いして決定的に劣っていることをしめすものではない。なせなら、「実力ーすなわち能力の到達水準 はつねに変化しつつあるからである。人はこんにちの競争におくれをとったとしても、明日の勝敗に は栄光をかちとりうるかも知れないのである。このような条件のもとでは競争の形態も、当然、執拗 構な、ねばりづよいものとなる。たとえば、ある学生がなんらかの理由で田舎の二流大学に入学するこ 主とを余儀なくされたとしても、四年間の意欲と努力によって、彼は超一流の大学院に入学することが カ また、地方大学の大学院に入学したとし 能できるし、またそのような努力を継続する者も稀ではない。 日ても、すぐれた研究成果をおさめることができれば、やがて超一流大学で教鞭をとることもできる。 章現にアメリカの社会では、このような現象は日常茶飯事としておこっているのである。これをわが国 の事情と対比してみると、たいへん興味のあるところである。

5. 学歴主義の発展構造

五能力アイデンティティの確立 ところで、この問題について、著者自身はつぎのように考えている。すなわち、これらの傾向には、 著者が「能力アイデンティティ」の確立とよぶ、青年期のある重要な問題がからんでいるということ である。 社会的役割分担が複雑に分化した現代の社会では、若者たちは将来自分がひきうける役割を選択す るまえに、自分がどのような能力をもちどのような仕事を遂行しうる人物であるかを、自分自身に確 認させようとする。第五章で詳しく検討するように、実力を重視するアメリカの社会とちがって、潜 在能力を重視する日本の社会では、この「能力アイデンティティ」の確立がことのほか重要な意味を もっている。そして、こんにち日本の社会では、大学入試がその確立にきわめて大きな役割を果たし のていると考えられるのである。さきに指摘した傾向、すなわち二、三流大学の場合、優秀な学生に一 主流企業への挑戦をすすめても、学生のほうがこれをいやがり、〃分相応〃の企業をみすからもとめる 傾向は、この能力アイデンティティの重要性を裏づけているように思われる。 日さらに、この「能力アイデンティティーの確立がことに重要な意味をもち、大学入試がこの「能力 章アイデンティティ」の確立において重要な機能を果たしている社会にあっては、大学の格付けは、ま さに教員の質によってではなく、受験生の質によっておこなわれなければならないし、受験生の能力

6. 学歴主義の発展構造

があとをたたない。「大学のレジャーランド化ーは、ひとつの顕著な傾向としてたしかに存在する。 しかし反面、それなりにきびしい〃掟〃、先輩からひきついだ ″掟〃のもとで、きびしい訓練にはげ み、後輩を教育し、先輩から学ぶという傾向も、レジャーランド化に劣らず健在である。なかには頭 の下がるような活動をしているクラブもあり、また驚くほど巧妙な躾のための制度も存在する。この 点では″世界に冠たる〃 ( ) 日本企業よりも、はるかに成功しているクラブもすくなくないように 思われる。このようなクラブ活動をひろい意味での教育の一環としてながめると、それは往年の″子 ども組〃や″若者組〃などときわめて近似していることに気づく。それは、日本人が無意識にもとめ ている教育のひとつの形態であるといえるかもしれない。 このように、日本企業における″和〃の尊重は、採用における協調性その他の″人柄〃の重視をつ うじて、大学の教育にも、無視しえない影響をあたえている。また、この傾向は、一般的情報レヴェ ルの向上、大学における教育水準の相対的低下とあいまって、専門教育の軽視の一因となっている。 学生のあいだにみられる専門教育への熱意の不足は、これら多様な要因にもとづくものであって、こ れのみをもって「大学教育の荒廃」と考えることには、なお疑問なしとしない。 これを大学教育の機 能変化によってもたらされた「新教養主義」とみなすことも可能だからである。

7. 学歴主義の発展構造

貢献する道が一つだけではないことを教え、自分以外に自分とは違う価値襯や利益を持っ無数の人間 がいることを教え、自分の家庭だけが家庭ではなく、それを支えている職業だけが職業ではないこと を教え、また、それらを自覚させなければ、いつまでたっても理解されないのである〉 ( 川上〔〕九 五頁 ) 月上氏のこの 川上氏のこの指摘にたいしては、著者もまったく同意見であることを付記しておく。ー 見解は、さきに日本人の能力観の特徴として著者のあげたいくつかの点ともよく符合している。 おそらく、こういった問題の真の解決方法としては、①日本人の能力観・人間評価のあり方を徹底 的に究明し、その問題点をあきらかにすること、②能力というものの多様性を認識し、これを共通認 識として徹底させること、そして③教育のなかに多様な評価基準にもとづく評価の仕組みをくみこむ こと、④さらに日本の社会に、若者たちがその多様な能力を証明し、またこれを自分自身に納得させ うるような多様な機会を制度化すること、⑤能力評価と人間評価とが直結しがちな傾向をチェックす ること、などが要求されよう。川上氏によるさきの提案は、著者自身の検討に照らしても、正しいと 考えられる。 つぎに、以上検討した日本人の能力襯や日本的人間評価のあり方のもとであらわれる、日本的競争 の性格について、若干検討しておくこととする。 ー 36

8. 学歴主義の発展構造

しかし考えてみると、むしろ、このような当然すぎることがときどき強調されるという事実のほうに こそより興味ぶかい問題が隠されているように思われる。つまり、ひとたび「能力」を証明したもの は、それに磨きをかけることによって、さまざまの領域で力を発揮しうるのだという、日本社会にふ かく浸透しているひとつの信仰が、それとはあいいれない現実の姿と衝突して生する一種の驚きない し違和感が根拠となって、以上のような発言となったものと思われる。つまり、このような発言は、 その根底に以上のような信仰が存在しなければ、本来あらわれないものなのである。 六日本的競争と大学入試 さて、能力評価基準一元化の傾向や日本的競争における「能力ー証明の重要性は、大学入試による 能力評価にその典型をみいだすことができる。すなわち、まだ人生のさまざまな領域で活動し、成功 や失敗の経験をしたことのない若者たちにとって、大学入試における成功、すなわち高い知的能力の 証明 ( と世間ではみなされている ) は、彼の潜在的可能性を証明するーーー他人にたいして、そしてまた、 それ以上に自分にたいしてーー・・ための恰好の機会を提供する。もちろん、高校や中学の入試もある程 度その役割を果たしてはいるが、この場合には競争が局地的になること、そのあとに全国的な規模で 競う大学入試がひかえていて、雪辱の機会があること、大学入試がけつきよく「能力」証明の決定的 な段階となっていることなどのために、それらはいわば前哨戦でしかない。このため、共通のルール ー 42

9. 学歴主義の発展構造

のもとに全国的規模でくりひろげられる大学入試は、若者たちが「能力」を証明するもっとも重要な 機会となっている。 たしかに、このようにいいきってしまうことには、問題がないわけではない。たとえば、女子学生 の場合、これとは若干事情が異なっているように思われるからである。 かって、著者のゼミナールで、「人間の能力」をテーマに議論したことがある。このとき「美人で あることは能力か」という問題が女子学生のグループから提起され、珍論・奇論が続出して、愉快な ゼミナールとなったことがある。このときには、けつきよく美人であるかどうかはべっとして、人を ひきつける魅力はひとつの能力だということになったと記憶している。 さて、容姿が能力の一形態であるか否かはべっとして、わが国の伝統的な女性観にあっては、ここ でいう潜在的な可能性としての「能力」が、男性の場合ほどには、その人物の評価にむすびつくこと 造はなかったように思われるのである。 レ の ・カラーにつ このほか、受験校の選択にあっては、もちろん、入試の難易度だけでなく、スクー 主いての好みや知人のすすめ、地理上の便宜や授業料の高低などが考慮されている。 しかし、このような事情にもかかわらす、一般に大学入試が「能力」を自他ともに証明するという このために、大学の受験においては、入試の難易度がまず 日重要な機能を担っていることは否めない。 章 5 問題となるのである。多くの受験生たちが「狭き門」よりはいろうとひしめきあっているのは、就職 率や出世の可能性よりもまえに、人間評価にむすびつく自分自身の能力を「世間」にたいして、そし

10. 学歴主義の発展構造

のなかに、それぞれの特徴をもった多数のサミットを形成することによって、いっそう促進されよう。 たとえば、東京芸術大学のような存在が、多様な領域に形成されてくるならば、評価基準の一元化の 傾向はチェックされよう。その結果若者たちが自己の関心と興味にしたがって努力する傾向がつよま ることが期待される。このためには、既存の大学の分解・統合をはかるなどの施策によって、たとえ ば創造性の開発を基本理念としてすべてをこれに集中するようなユニークな一流大学を、さまざまの 領域に形成・発展させるのも、ひとつの方向といえよう。大学を、アカデミズムの砦とする古い観念 を打破することが必要と思われる。 このような基本的構想が承認されるならば、大学自身の創意・工夫にもとづく大学間の競争の活溌 化がのぞまれるが、大学自体のもっ体質が、このような方向への大きな阻害要因となっている。つぎ に、日本の大学組織がもっ問題点について検討しておこう。 五日本的経営制度としての大学 田裏目にでた日本的経営 ここ数年来、日本的経営の諸問題が論議をよんでいる。それは、一方で、一九六〇年代に経済の高 度成長を担った日本企業の実力が注目されたこと、さらに、一九七三年のいわゆるオイル・ショック にはじまる不況にたいして、日本の企業が欧米諸国にはみられない抵抗力と回復力をしめしたことか 2 ー 6