て、その誤謬を鋭く衝く。すなわち、小池氏は、①昇進、②就職にどれほど学歴が影響しているか、 ⑨学歴別賃金格差の大きさ、④経済的に恵まれた層が大学に入学しているか、の四点について、統計 資料を駆使して検討し、「学歴決定論」についての批判を展開している。小池氏の提示する資料その 月池氏の検討 他の資料についてみると、「学歴決定論」は決定的に旗色が悪いといわざるをえない。、 によって①学歴差は明らかに認められるが、②その差は決定的というほどのものではなく、学歴は たんにひとつの要因にすぎないことがわかる。 さて、ここまでの小池氏の分析はかなり説得的である。しかし、この分析からでてくるはすの結論は、 「学歴決定論」の否定の上にたつ「学歴影響論」のかたちをとるべきはすであった。小池氏がみずか ら提示する資料についてみても、学歴が昇進などに大きく影響していることは明瞭にしめされている からである。小池氏らの問題点は、①このような明白な格差を過小に評価しようとしていること、② 学歴の影響が決定的ではないという正しい観察から、学歴社会は思い込みにすぎないという誤った結 点論へと飛躍してしまった点にある。 第一の問題点については、学歴別の昇進を論じたつぎの部分が恰好の材料となる。すなわち、学歴 社別の昇進について、小池氏はつぎのように論じているのである。 学《旧中卒と比べるとどうであろうか。旧大卒との修業年限の差は六年にもおよぶが、どれほどの役職 章率の差がみられるだろうか。①すべての役職につく割合は、旧大卒の八〇 % に対し、旧中卒は六七 % 。 差はある。しかし、旧中卒でも三分の二の多数が結局は役職につく。②部長につく割合は断然大卒が
中世末期になると、国家は、官僚機構の増大によ 0 て、ますます多くの官吏や法律家を必要として いた。国家はその供給を大学に期待した。しかし、大学出身者は、官吏のあいだでは少数であ「た。 一四五〇年頃までは大学出身者の数は少なく、かなり高級な役職につくことができた。これにたいし て、貴族の多くは、その生まれによ「て国家官吏の地位につくことができたために、大学での勉学を 経験していなか「た。すくなくともフランスとイングランドにおいては、大貴族はほとんど大学へい かなかった。これにたいして、領主としての収入が減少した小貴族や中貴族は、大学の学位をとるこ とによって王に仕える地位を得ようとしたといわれる。しかし、大学出身者の多くは町民階級の出身 であ「た。こうして、エネルギーにあふれた研究・教育の中心であ「た一三世紀の大学は、一五世紀 には「国家に奉仕する職業教育の中心」となっていた。 中世末期、大学にあらわれた社会的変化としてその「閉鎖性。の発展があげられている。貧窮者は しだいに大学から締めだされるとともに、大学の貴族化が確立した。 ン 〈古くからの貴族や大貴族が大学生活における贅沢さの増大、貧乏人の締め出し、博士たちの貴族的 展な生活様式に安心して、次第に大学に入学してくるようになっこ。 若い貴族は特権と上席権を持ち、 育当然のことながら歓迎されたので、大学という環境へますます喜んではい「てきた。それ以後、大学 公は貴族たちに大変ふさわしい場所にな「た。君主あるいは諸侯の家族を大学に見出すことはまれでは 章なか「た。おそらくこの現象は、伝統的な貴族階級における学問的教養の発展にも結びついていたの だろう。しかし全体としては、このような貴族の大学への流入はあまりよい結果をもたらさなか「た。
残存した。この両者が対等の位置にすえられたのは、前世紀末から今世紀の初頭にかけてであったと いわれる ( 長尾〔 7 〕二〇六頁 ) 。 内藤貞氏も、フランスにおける学校教育の伝統のひとっとして、つぎのように人文教育偏重と技術 教育の相対的軽視をあげている。 《フランスにおける学校教育ーー初等、中等、高等教育を通じて , ーーの伝統のひとっとして、人文教 育の偏重と技術教育の相対的軽視が挙げられるであろう。これはまた抽象性と論理性 ( 論理構成 ) の重 視としてとらえることもできる。 このことは、フランスにおける教育の諸側面を通じて明らかとなる。ます第一に、中等教育諸学校 における優秀生は、国語、現代外国語、数学、理科系教科目主流のコースに進み、そうでない生徒は 技術教育コースにふり分けられ、後者のコースはエリート 養成路線から隔絶されている。 ( 中略 ) 第三に、そして、これが最も顕著な事例であるが、フランスのエリート の多くを輩出している理工 タ系のグランゼコール ( その名称は技師の養成を目的としている学校のようであるが ) においてさえ、その教 齪育の主流は数学と物理に代表されるいわゆる純粋科学、理論科学に置かれ、これについで文学・哲学、 育修辞学が重視されている。修辞学に関していえば、それは一定の形式に即した論理構成による明晰な 教 公文章表現力がとくに重視されている。 ( 中略 ) ほとんどの入学試験や国家試験の主要な受験科目のひと 章っとして「論文 , が課せられており、それは共通してとくに古典文学や哲学思想、修辞学の習得を不 可欠なものとしているからである》 ( 麻生・潮木〔 8 〕八九 5 九〇頁、傍点原文 )
る。ことに一九世紀の中葉、西部の開拓をめざす西漸運動が活化すると、農業や機械技術の指導者 が多数必要とされ、専門的職業教育の充実、そのための教師を充足する必要から、大学院大学の設置 がはかられている。一八七六年、最初の本格的な大学院大学として創設された、ジョンズ・ホプキン ス大学をはじめとして、こんにち名門大学として知られる多数の大学が、大学院を開設ないし大学院 大学としてこの時期に創設されている。 このように、アメリカでは、宗教教育ないしイギリス風の古典的教養教育の機関としてスタートし た高等教育も、西部開拓や急激な産業化にもとづく人材へのはげしい需要を刺激として、高度な専門 教育をおこなう高等教育機関として発展してゆくこととなる。それは、いわばイギリス風の伝統のも とにスタートしながらも、後発国にみられる急激な発展と、それにもとづく人材への社会的要求を反 映して、イギリス型というよりはむしろドイツ型の発展にちかいかたちをとって発展していったもの とみることができる。ここに後発型発展の特徴があらわれていて興味ぶかい。 アメリカでは以上のような高等教育の発展にそって、中等・初等教育も発展してゆく。すなわち、 一八世紀から一九世紀の前半にかけて、富裕な商工業者の子弟を対象として、宗派性を脱した近代 的・実学的なアカデミーが、カレッヂの入学準備教育のために多数設立され、また一般商工市民のた ールが急速に普及していった。「公立ハイスクールのこのような急成長は、当時 めに公立のハイスク のアメリカ産業社会がもっていた開かれた可能性に対する人々の期待に支えられていたー ( 長尾〔 7 〕一一 三三頁 ) といわれる。ここにも、急激な産業化がもとめる人材への要求が顕著にあらわれているよう
クールへの入学自体、その出身階層や父親と学校との特殊なつながりがものをいうような社会では 「生まれ」こそが社会的地位の主要な決定要因であり、高等教育による学識の蓄積は、二次的な要因 として背後におしやられる。第二次大戦後、イギリスの状況は大きく変化したといわれるが、すくな くともこのような条件が強固に残存する社会ほど学歴自体の機能は低いレヴェルにとどまらざるをえ イギリスとは逆に、伝統的な支配階級が打倒されたフランスや、南部をのぞいてはそれがかならす しも十分に根をおろさなかったアメリカでは、能力にもとづくきびしい選択と競争による社会的な上 昇の可能性があたえられている。このような社会でも、もちろん、余裕のある階層の出身者は有利な 競争条件をあたえられており、貧困な階層の出身者は不利な条件をまぬかれてはいない。しかし、す くなくとも学識や実力による社会的上昇の可能性が大きくひらかれているかぎり、学識をもとめる志 向性は、野心的な若者たちのあいだにはげしい競争をまきおこさずにはいない ( 第一の条件 ) 。 図人材の育成にたいする社会的要請の存在 社会が停滞しているか、あるいは比較的緩慢な変化の過程にあるときは、必要な人材は既存の体制 のなかで再生産されてゆく。しかし、一定の歴史的条件のもとで、社会が停滞を脱して急激な発展期 にはいると、従来の方式では人材の供給がまにあわなくなる。このような状況は典型的には、市民革 命・産業革命を契機としておこった。このような条件のもとで、大量の人材をできるだけ効率的に育 成するために公教育の発展が促されることは、前の章でみたとおりである。ことに、後発国として政
いずれも有名大学卒の比率は沈下している。裏返せば、それだけ新任重役の出身校は多様化してお り、少数の有名校への集中度は年々下がってきているということだ〉 このような有名大学卒の地盤沈下を指摘したうえで、同調査は「なにも有名大学へ入るために大き な苦労を積まなくても、企業社会に入ってから十分に努力し、実力を発揮すれば、重役への道は開か れるということだーとむすんでいる。 学歴主義問題の重点は、第二章において検討したように、社会的上昇の問題から、しだいに「能力 アイデンティティーの問題などにみられるような、誇りと自信の問題へと移行しつつあるように思わ れる。こんにち、学歴主義の最大の問題は、入試に失敗した若者たちの劣等感と意欲の喪失にあると みるのはゆきすぎであろうか。いずれにしても、学歴主義の問題を、処遇の面からのみとらえるのは 片手落ちではないかと思われる。 ー 94
《日本の大学の歴史も、これを三期にわけてみることができる。第一期、つまり創設期は、明治十九 年の東京帝国大学の創設から大正の初期まで、京都に東北にあいついで帝国大学が設立され、他方、 私大の前身である私立の専門学校が基礎をかためた時代である。 第二期は大正の初期、とくに一九一八 ( 大正七 ) 年、大学令が公布され、早稲田、慶応、明治、法 政、中央、日本、国学院、同志社など、多数の私学が一時に大学として正式に認可をうけ、他方、官 公立の大学も新設されて、大学の規模が飛躍的に拡大してから、第二次大戦の終結にいたる時代であ 第三期は、、 しうまでもなく第二次大戦後の時代であり、この時期に新制の大学制度が発足し、国立 の地方大学、マンモス私立大学、女子大学、短期大学があいついで誕生したことは私たちの記憶に新 しい》 ( 永井〔〕一八 5 一九頁 ) 以上のような高等教育の整備とならんで、初等教育の整備にも力が注がれており、その普及はめざ ン ましかった。明治四年、廃藩置県が強行されたあと設置された文部省は、ただちに学制の整備に手を タ つけ、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事 , を期して、小学校および師表学校 ( 師範 の学校 ) の整備・拡充にのりだしている。 公こうした明治政府の努力は、明治一〇年の西南の役鎮定まではさまざまの障害によって妨げられた 章 が、明治一〇年以後しだいに軌道にのり、小学校の就学率も順調に向上してゆく。明治六年、約二八 セントにこ ーセントであった就学率も、明治一一年には四一。 ーセント、明治一六年には五一。
しかし考えてみると、むしろ、このような当然すぎることがときどき強調されるという事実のほうに こそより興味ぶかい問題が隠されているように思われる。つまり、ひとたび「能力」を証明したもの は、それに磨きをかけることによって、さまざまの領域で力を発揮しうるのだという、日本社会にふ かく浸透しているひとつの信仰が、それとはあいいれない現実の姿と衝突して生する一種の驚きない し違和感が根拠となって、以上のような発言となったものと思われる。つまり、このような発言は、 その根底に以上のような信仰が存在しなければ、本来あらわれないものなのである。 六日本的競争と大学入試 さて、能力評価基準一元化の傾向や日本的競争における「能力ー証明の重要性は、大学入試による 能力評価にその典型をみいだすことができる。すなわち、まだ人生のさまざまな領域で活動し、成功 や失敗の経験をしたことのない若者たちにとって、大学入試における成功、すなわち高い知的能力の 証明 ( と世間ではみなされている ) は、彼の潜在的可能性を証明するーーー他人にたいして、そしてまた、 それ以上に自分にたいしてーー・・ための恰好の機会を提供する。もちろん、高校や中学の入試もある程 度その役割を果たしてはいるが、この場合には競争が局地的になること、そのあとに全国的な規模で 競う大学入試がひかえていて、雪辱の機会があること、大学入試がけつきよく「能力」証明の決定的 な段階となっていることなどのために、それらはいわば前哨戦でしかない。このため、共通のルール ー 42
三教育荒廃問題の実態 教育荒廃問題の実態について検討する場合、大学教育における問題と高校以下のレヴ , ルにおける 問題と、一応わけて考える必要があろう。この両者が同じ " ルーツ。をもっとしても、両者のあいだ の問題のあらわれ方が異なるからである。すなわち、中・初等教育レヴルにおいては、はげしい受 験競争のもたらす教育のゆがみが問題とされているのであり、高等教育のレヴ = ルにおいては、 " 大 学のレジャーランド化 , といわれる現象にみられる学習意欲の低下が問題となる。 ます初・中等教育における問題についてみよう。はげしい大学〈の入試競争が高校を予備校化し、 その影響は中学から小学校、幼児教 . 育にまで = スカレートし、乱塾プームをよんでいることが指摘さ れている。もとより子どもの教育に熱心なのはいいとしても、それが子どもの思考過程を重視し創造 力を育て個性を育む方向にではなく、入試に心要な科目に偏した、いわゆる偏差値教育にむか 0 てい る点が、識者の批判をまきおこしているわけである。こうした方向は、たしかに能力選択の過程とし ても、その効果ははなはだ疑わしい。レ ース・シロ女史は、つぎのように書いている。 《アインシ = タインは、他の子と比較したがる先生たちから「のろま」と軽蔑されながら、一五歳に なるまでには、ユーク リッド、 = = ートン、スビノザ、あるいはデカルトを読破していました。後年、 彼は「私は、強い知識欲を持「ていた」と述懐していますが、それをだれも気づかなか「たわけです。 202
は、時にそれはタブーにさえ近い。それが完全にタブーとなった状態を、筆者は″平等信仰〃と呼び ここにわざわざ信仰などという言葉を用いたのは、能力差という事実は、真に残念なことでは あるが、現実に存在するからである。 ( 中略 ) 能力差の存在の事実を、欧米の教育ははっきりと認めて いる。それを端的に示しているのは、小学校で落第や飛び級の制度があるということである」 ( 河合 〔四〕五三頁、傍点著者 ) という。 ここで問題となるのは、能力の平等性を主張する人びとが、事実認識の問題として能力差の存在を みとめようとしていないといえるのであろうかという疑問である。著者自身近所の子どもたちに英語 を教えた経験によると、わずか七 ~ 八名程度の小クラスでさえ、理解・習熟の早い子どもと遅い子ど もとのあいだには驚くべきほどの差があり、このことが教えにくさの最大の原因となっている。つぎ つぎに飛び級をさせて、小学校四年生が中学二年クラスにくいこんだケースが二つあるのである。ま してや、一クラス四〇名、五〇名をうけもっている現場の教師たちが、能力差ーーー私のいう「実力」差 造 のであれ、あるいは「能力ー差であれ・ーーに気づかないわけはなかろうと思われる。学力別学級制度に 義 主たいして頑強に反対する日教組にしても、あるいは能力評価を極力避けようとする現場の教師にして 能 も、現実に能力差が存在することを否定するものではなかろう。つまり、彼らは、一方で能力差の存 日在をみとめながら、他方、評価によって能力差をあきらかにする ( なんらかのかたちで表明する ) ことが、 章 劣等感の形成につながることをおそれるのであろう。この点について河合氏はつぎのようにいう。 「能力差がみじめさにつながる基盤として、不思議なことであるが、日本人の平等信仰があることも