入学 - みる会図書館


検索対象: 学歴主義の発展構造
41件見つかりました。

1. 学歴主義の発展構造

ーロウに登録する。 ( 中略 ) 富と家柄を受け継ぐ子供達が、確実に母胎から身をかためて生れ出る ようにと親たちは願う。なぜなら、。ハブリック・スク ールに入ってしまえば、将来は約東されている からである。上流社会に直ちに迎えられ、しかるべきクラブの会員に推され、政界、産業界、外交畑 で、一番よい地位が与えられるのである。 ィートンやハーロウに入学するかしないかは、その家の勢力と大いに関係がある。父親がイートン やハーロウの卒業生であり、相当額の寄付を学校にすれば、かわいい子供を有名校にたいていは入学 させ、ウォーターローの戦いで勝利をおさめさせることができる》 ( カーカップ〔 9 〕三九 5 四〇頁 ) 見方によっては、イギリスは、第二次大戦後になってようやく学歴社会に移行しはじめたといえる かもしれよい。 先発国においては、そのゆるやかな発展によって、急激な人材育成の要求があらわれ にくく、したがってまた、学歴主義もあらわれにくいものと考えられる。 以上、イギリスの教育にみられる階級性、高等教育のエリート 性、庶民教育発展の遅れなどの特徴 ン についてみてきたが、それらは、イギリス社会における政治的・産業的変革の特徴と密接に関連して 展いるように思われる。それは先発国のゆえにもたらされたひとつのパラドックスであるといえるかも 育しれよい。 教 章 第

2. 学歴主義の発展構造

〈もちろん、予想ランク表でよくない点であっても入学できる者もいる。そうした学生は、何か特別 の才能とか、運動の成績、いままでの人生経験などによって選ばれる。「ニューメキシコ・クオータ ー」に二カ国語の詩を載せ、そのうえ、手づくりのフルートでモーツアルトを演奏するようなナバ ホ・インディアンは、翌年の入学者の筆頭に数えられよう。同様に、季節農業労働者の息子で、三つ の高校で数学を学びながら、三次元チェス・セットをつくったような学生も入学できる。あるいは、 もっとふつうのプロンクスの高校の卒業生で、学校の合唱隊のために複雑な合唱曲を作曲し、同時に 優勝したバスケット・チームのセンターをつとめるような学生である。こうした多才な学生の例とし クがいる。彼は て、一九七五年のフットボール・シーズンの得点王になったハー ピアノを弾かせればすばらしいジャズからクラシックまでこなす。彼は音楽を専攻していて、「レナ ・バーンスタインのような本物の作曲家」になりたいと思っている。 入試委員会はいつもこうした宝石のような人物をさがしていて、よく彼らを優先順位のトップにも 応 とってくる〉 ( ロベス〔〕二八頁 ) 兆このような大学入試の傾向は、日本の社会における能力証明の方式を、総合得点にもとづく偏差値 荒主義から、しだいに多様な基準にもとづく能力の証明へと変化させてゆくものと思われるし、ひいて 教は日本人の能力観そのものを、いますこしバランスのとれたものへと、変化させてゆくものと期待さ 暲れるのである。 このような方向は、さらにたんなる入学試験における選択のあり方にとどまらず、大学の威信構造

3. 学歴主義の発展構造

つぎに、学歴主義の発展・変貌の視点から、「学歴決定論」および「学歴社会思い込み論」のもっ 意味について一瞥しておく。 三″遅れてやってきた〃学歴決定論 すでに指摘したように、日本の社会では学歴が人の一生を決定するという、素朴な「学歴決定論」 が、こんにちでも、すくなからずみられる。 教育調査団の報告書 (OQOQ 〔 4 〕 ) は、このような見解を、つぎのような言葉で端的にい いあらわしている。「雇用主の多くは、卒業生を、彼らがどのような知識や能力をもっかでなく、入 試の結果どのような大学のどの学部に入学したかによ 0 て判断する。十八歳のある一日に、どのよう な成績をとるかによ「て、彼の残りの人生は定ま「てしまう」〔 4 〕九二頁 ) このような皮相的なとらえ方は、しかし、日本人の論者のあいだにもみられる。「学歴信仰社会論」 をひっさげて活躍中の尾形憲氏も、つぎのように論じている。 〈日本では、大学へ入ればともかくもトコロテン式に押し出してくれ、あとは官庁や大企業ほど、 「休まず、おくれず、働かず」で定年までの終身雇用ということになるから、大学入試は文字通り一 生を左右する関門となる》 ( 尾形〔 2 〕一五頁、傍点著者 ) 〈十八歳を境にして、それ以前の激烈な進学競争と、それ以後大学をトコロテン式に押し出され終身

4. 学歴主義の発展構造

教育内容も、優秀な学生を集めること、したがってまた、大学の社会的威信を高めることとは直接に かかわってはいない。日本の社会では、大学のレヴェルの評価は、基本的には、研究業績や教育内容 によってではなく、入学の難易度によって決定されているからである。そして、若者たちは自己の能 力を、世間にたいして、また自分自身にたいして証明しようと競うために、入学の難易度それ自体が 将来にわたってその大学への入学の難易度を大きく左右するかたちとなり、それは一人歩きをしはじ める。もちろん、工学系が重視されるとか医歯系に人気が集まるといったように、社会情勢の変動が、 入学の難易度に反映することはあるが、従来の難易度が将来の難易度を規定するという関係は、厳然 と存在しているとみなければならない。他方また、組織を整備し、経営方式をあらため、すぐれたス タッフを集めてその研究成果と教育内容を高めるよう経営努力をしたとしても、それによって授業料 収入が増加するわけでもない。 伝統のある有名大学がそのこと自体によってその地位を維持し、逆に、 研究成果・教育内容の向上をめざす経営努力が、かならずしも大学の地位の向上につながらないとす るならば、こうした経営努力への志向は、企業の場合にくらべて弱まらざるをえない。あらためてこ とわるまでもなく、教員自身による研究成果・教育内容向上の努力はたえまなくつづけられている。 しかし、経営努力によるその条件づくりは、以上のような競争条件が存在するために、一般にかなら ずしも十分におこなわれているとはいえないように思われる。このような競争条件の差によって、大 学の場合、その経営方式を不断に改革し磨きあげようとする志向性が弱かったとみることができる。 企業と大学のあいだにみられる、いまひとつの重要な競争条件の差は、つぎの点にもとめることが 2 2 0

5. 学歴主義の発展構造

五日本的競争の性格 以上のような能力観の差は、それぞれの社会における競争の性格にも顕著な差をもたらす。たとえ ば、「実力」を重視するアメリカ社会においては、それによって競争にいくつかの特性がもたらされ る。 まず第一に、このような「実力ーを重視する社会においては、競争における個々の勝敗は、人生に このような勝敗は、敗者が勝者にた おける長い一連のたたかいの、わずかひとつの局面にすぎない。 いして決定的に劣っていることをしめすものではない。なせなら、「実力ーすなわち能力の到達水準 はつねに変化しつつあるからである。人はこんにちの競争におくれをとったとしても、明日の勝敗に は栄光をかちとりうるかも知れないのである。このような条件のもとでは競争の形態も、当然、執拗 構な、ねばりづよいものとなる。たとえば、ある学生がなんらかの理由で田舎の二流大学に入学するこ 主とを余儀なくされたとしても、四年間の意欲と努力によって、彼は超一流の大学院に入学することが カ また、地方大学の大学院に入学したとし 能できるし、またそのような努力を継続する者も稀ではない。 日ても、すぐれた研究成果をおさめることができれば、やがて超一流大学で教鞭をとることもできる。 章現にアメリカの社会では、このような現象は日常茶飯事としておこっているのである。これをわが国 の事情と対比してみると、たいへん興味のあるところである。

6. 学歴主義の発展構造

抗するまでになったといわれている。一九六六年、アメリカ教育委員会が一〇六の大学の大学院を、 人文科学、社会科学、物理科学、生物科学、工学の五分野にかんして評価したときには、バー ーヴァードは二位であったという。 校が「もっとも均衡のとれた優秀大学」とされ、 もっとも、この評価にたいして、『ハ トの神話』の著者ロベス (Enrique H ・ Lopez) は、この = 「ロ価が眉つばものであるとして、つぎのように批判している。 ークレーの一位というのは少しおかしくなる。五分野のうち 〈この評価を詳しく検討してみると、 四分野でハ ドの評価がゼロだ ークレーを抜いていたが、五番目の分野、工学でハ ったのである。というのもハ ードには工学の大学院がなかったというごく単純な理由からである。 ある人が批判したように、「五種競技を四種目しかしないで勝とうというのは、ちょっと無理だ」。 二つの大学のより量的比較がほしいのなら、次のことがいいだろう。一九六七ー六八学年度にハー ードとバークレーの両方に入学願書を出した高校生のうち、 ードが落とした一一三人に対し てバークレーは入学を許可した。しかしハー ードに入学した学生でバークレーを落ちた者はただの 一人もいなかった〉 ( ロベス〕二六頁 ) しかし、一位であるか二位であるかという微妙な評価はべっとして、 ークレー校がめざましい躍 進をとげつつあることは衆目の一致するところであろう。このバークレー校のほかにも、ミシガン大 学やイリノイ大学などが、このような上昇の過程をたどっているといわれている。 他方、私が留学していた一九六〇年代のおわりから一九七〇年代の初めごろには、有名私立大学が ー 0 0

7. 学歴主義の発展構造

ルに入学できる状態で、「初等学校における中学にゆけない有能な子どもたちは、一一歳、一二歳の 制限を越えて余分に一年あるいは二年その学校にとどまる , という傾向がみられ、こうした一二歳以 上の子供たちの数は、一八九五年には約五〇万人にた 0 していたという ( 海後・広岡〕三七頁 ) 。 イギリスにおいては、中等教育の真の充実がさけばれるようになったのは第一次大戦以後のことで ある。第二次大戦中の一九四四年には、「初等教育・中等教育・継続教育という三つの累進的段階で 公教育を整備しようという方針」がうちだされ、「ことに一九六五年以後、スプートニク・ショック で他国に遅れをとるまいと技術教育に力が入れられ、『継続教育のためのカレッヂ』『テクニカル・カ レッヂ』『商業カレッヂ』『エ業カレッヂ』などが充実整備されてきている」 ( 麻生・潮木〔 8 〕二六頁 ) という。イギリスの教育は、一九六〇年代にはいって、おおいに整備され、教育における階級性の克 服、支配階級のための教育と庶民のための教育との二重性の克服において、さまざまの努力がおこな われている。 しかし、イギリスの教育が、伝統的に、高度の階級性をともなっていたことは、多くの論者が指摘 するところで、かってのイギリスでは高等教育そのものよりもそれ以前にすでに勝敗の帰趨がほば定 まっていたという指摘もみられる。カーカップ (JamesKi 「 kup) は、この点について、つぎのように 指摘している。 〈特権階級になれる教育を受ける費用が高騰 ( 中略 ) しているのにもかかわらず、勢力者になれる席 を得ようという要求が非常に強く、野心まんまんの両親達は、子供を妊娠するとすぐに、イートンや

8. 学歴主義の発展構造

第 3 章学歴主義の発展・変質 ような仕事を遂行しうる人物であるかを、自分自身に確認させようとする。そして、こんにち日本の 社会では、大学入試がその確立に大きな役割を果たしていると考えられるところから、学歴の機能低 下にもかかわらす、すこしでも難易度の高い大学をめざして、進学競争が激化するという考え方であ る。この考え方も、日本人の能力観にささえられていると考えられる。学歴の機能低下と進学競争、 進学競争と入学後の不勉強、入学後の劣等感など、日本の社会に顕著にみられる諸現象は、これらの 要因を考慮にいれないと説明が困難である。 著者は、学歴の機能低下と進学競争激化の。ハラドックスの説明としては、エントリ ー説、社会的圧 力説、能力証明説、能力アイデンティティ確立説の組合わせで考えてゆく必要があるのではないかと 考えている。もちろん、このことは惰性や幻想、タイムラグの存在をまったく否定するものではない のであるが。

9. 学歴主義の発展構造

「学歴主義↓教育荒廃」を主張する見解は、ごく単純化してみると、およそっぎのようになろう。す なわち、日本の社会は学歴主義がつよく、ひとたび大学の入試を。ハスすれば、大学はトコロテン式に 卒業でき、将来の地位も保証されている。このため、すこしでも権威のある学歴、。ハスポートとして の学歴をもとめての受験競争が激化する。その結果、教育は受験本位の教育となり、教育の本来ある べき姿が大きくゆがめられることとなる。逆にまた、これによって大学入学後の不勉強、大学のレジ ャーランド化がもたらされるという。このような見解を図式化して表現するならば、つぎのようにな ろう。 学歴による↓学歴をもとめての入試競争 学歴主義 ↓教育の荒廃 将来の保証↓大学入学後の不勉強 このような見解は、一見もっともらしくみえるし、世論のうえにも大きな影響力をもちつづけてき た。しかし、仔細にみると、この説明には、なお怪しげなところがいくつかある。なかでも、つぎの 点は、このような見解の大きな弱点としてあげることができる。すなわち、いまもしこのような見解 が正しいと仮定するならば、学歴が決定的と、 しいうるほどの役割を果たしていた往年の時代にこそ、 もっとも教育が荒廃する条件が整っていたということにならざるをえない。しかし、現実には、学歴 の「資格」としての機能が低下してきた昨今になって、「教育の荒廃」といわれる現象が表面化して きているのである。さきの見解は、このような事態を説明できない。

10. 学歴主義の発展構造

ン系のある有名私立大学は、就職開拓の成功が強力なテコとなって、入試競争における地位を大幅に 高めたことはひろく知られている。 しかし、それだけでは日本の社会における特徴的な入試競争を十分に説明してはいない。就職動機 によるこのような入試競争の説明が有効であるためには、さらにそれではなぜ企業の側が入学後の教 育効果よりも、入試時の力を評価して「教育のある」大学よりも入試難易度の高い大学を重視するの か、なぜちょっとでも偏差値の高い大学を重視するのか ( 実際にそうであるかどうかは、ここでは問わな い ) を明確に説明しなければならないからである。そうでないと、ちょっとでも偏差値の高い大学へ はいろうとする受験生の行動を説明することはできないし、また入学後の不勉強を説明することもで きょ ) 。 進学熱を就職から説明しようとする立場の第二の弱点は、受験競争におくれをとったものの″劣等 感〃をうまく説明できない点にある。たとえば、一「三流大学の場合、教員の側が優秀だと思う学生 にたいして一流企業への挑戦をすすめても、学生の側がこれをいやがり、″分相応〃の企業をみずか らもとめる傾向があるという指摘がしばしばおこなわれている。就職こそが受験競争の主要な動機で あるとするならば、あれほどはげしい競争努力をおこなった人間たちが再起を願うどころか、挑戦の 意欲をなくして、無気力状態に陥ってしまうのはなぜか、こういった問題への説明がなされなければ ならないだろう。第三の弱点は、すでにふれたように、女子学生の受験競争を十分に説明できない点 にもとめられる。