初等教育 - みる会図書館


検索対象: 学歴主義の発展構造
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1. 学歴主義の発展構造

ンスの場合にくらべて比較的ゆるやかであったし、産業革命のロ火をきった先発国として、その進展 も比較的ゆるやかに進行したということができる。つまり、イギリスの場合、政治的変革も産業変革 も、ともに比較的ゆるやかに進行した。その結果、伝統的な階級構造は根強く残存し、貴族やジェン ー階級が長くその威信を維持した。商業などで財をなした富裕な町人たちのなかには、土地を購 入することによって、なんとか土地貴族の一端につながりたいと願ったものがすくなからすいたとい う事実は、その間の事情を物語っている。 その結果、イギリスでは、オックスフォードやケンプリッヂなど少数の名門大学が威信を維持し、 また中等教育も、イートンやハーロウなど名門大学への予備門が重視される一方、産業活動のための 人材をつくりだす初等・中等の教育にたいする社会の関心はきわめて稀薄であった。 一四・一五世紀のイギリスの上層社会では、家庭教師による教育が一般的であったが一四世紀の末 から、農民や市民のあいだに学習への要求がつよまっていた。これは、ジェントリー ン 織物を中心とする都市商工市民の社会的・経済的地位の向上を反映するものであった。当時民衆の通 チャントリー ル学しうる学校は、「イートンやウインチェスターのような財団立の学校のほかは、教会または祈唱堂 ールなどであり、大きい都市では司教座教会 のに附属するラテン文法学校、聖歌隊学校、ギルド・スク 公の附属学校を利用してかなり高度の教育をうけることもできた」 ( 長尾〔 7 〕五〇頁 ) 。一五世紀の中葉 章のイギリスでは、これらの学校をおえて、あるいは中退して、大学にすすむか、徒弟奉公にはいるか するのが中産市民のふつうのコースであったという。 やヨーマンリ

2. 学歴主義の発展構造

政治的変化によるもののようにはげしいものとはならなかった。フランスの場合、中等・初等の教育 も、いわば政治主導型の発展をとげたとみることができる。すなわちフランス革命の三大理想のひと つであった平等の理念にたって、教育の分野でも教育機会の均等の原則が追求され、義務・無償・世 俗の公教育がもとめられた。こうして、フランスの初等教育は、イギリスのそれが私的団体に依存す るボランタリズムによって特徴づけられるのとは異なり、政治理念に導かれて国家の責任においてそ の普及がはかられたのである。 中等教育もまた、産業上の必要性よりは政治的な必要性を反映して整備・拡充されていった。こと にナポレオンのとった政策が、この中等教育の確立に大きく貢献したといわれる。すなわち、ナポレ オンの独裁的政治機構が必要とした有能な官吏や専門家たちが、中流階級の人びとによって供給され たことから、彼は「初等教育の改善のためには、何事も貢献しなかったが、中等教育の設立には大き な努力を払うことになった」 ( 荘司〔川〕六二頁 ) のである。 このナポレオンによる学制のもっとも重要な点は一八〇二年の国立学校 ( リセー ) の創設にあった。 その教育の内容は、旧体制にもどって、ふたたび古典的人文主義的教養が重視された ( 荘司〔川〕六三 頁 ) 。 このリセーを中心とする古典的中等教育は、その後もながく一九世紀の末まで基本的にはその構造 を維持しつづけた。一八八〇年代産業の発展を反映した産業界のつよい要望にこたえて、古典中等教 育のほかに特別中等教育が設けられ、急速に普及していったが、両者のあいだの格差はその後も長く

3. 学歴主義の発展構造

同様の関係は、大なり小なりフランスとドイツとの関係にもあてはまる。フランスにおいても、一 八八〇年代に、古典中等教育にくわえて特別中等教育が設けられ、産業界の要望にこたえる努力がな されてはいる。しかしその改革は不徹底なものであり、一九世紀末にいたるまで、フランスにおいて はリセーを中心とする古典中等教育がその中心を占めていたのである。フランスとのあいだにすら、 産業革命のスタート時期に数十年の差があったことを考えれば、ドイツの実業中等教育の整備は、産 業化の要請にいちはやくこたえたものということができる。ドイツではこのほか、実務教育をほどこ す職業学校として、徒弟制度とむすびついてうまれた補習学校や一般教育と職業教育とをあわせおこ なった中間学校などの実務的教育機関が普及していた。 このような、ドイツにおける初等・中等教育のうごきは、後発資本主義国ドイツの苦悩をあらわす とともに、急激な産業化の必要がうみだした、人材育成への社会的要請が、後発国ドイツにおいてよ り尖鋭にあらわれ、そのことがドイツの初等・中等教育のあり方に、きわめて大きなイン。ハクトをあ ン タたえたものと考えることができる。急激な政治変革の洗礼をうけたフランスにおける高等教育の急激 展な発展と対比すると興味ぶかい 育教育にたいするこのようなドイツ産業界の期待は、しかし、初等・中等教育のレヴェルにとどまら 公なかった。大学にたいする産業界の期待の反映を、長尾氏は、つぎのように説明している。 嶂《すでに一八六 = 一年、チ = ービンゲン大学はいち早く理学部を発足させているが、やがて他大学でも 哲学部は精神科学と自然科学の二系列に分化し始め、さらに経済学部の独立もみられるようになる。

4. 学歴主義の発展構造

教育の発展に大きな影響をあたえること ( 仮説 3 ) があきらかとなった。以下、これらの仮説と関係 づけながら、各国の発展にみられる特徴について整理しておくこととしよう。 まず市民革命・産業革命の先発国イギリスでは、急激な人材要求はあらわれなかった。上流階級が 温存され、彼らのなかから国家の指導層が供給されたこと、比較的ゆるやかな産業革命の進行によっ て、産業化の必要とする人材も、産業化の過程そのもののなかから自給される傾向がつよかったから である。このため社会的地位は公教育によってではなく、生まれによってほば決定され、高等教育は こうしたエリートのための教養主義につよく彩られ、また高等教育への準備として以外の初等・中等 の庶民教育は長い間軽視されていた。ヴォランタリズムの伝統が長く維持され、教育にたいする国家 の関与は大幅に遅れることとなる。 急激な政治変革と比較的ゆるやかな産業革命を経験したフランスは、イギリスの場合とは異なり、 伝統的な大学にかえて、新しく創設された高等教育機関 ( グランゼコール ) がエリートの養成をおこな 変 うようになった。しかも伝統的な貴族階級が潰滅させられたために、各界の指導者を急速に養成する 発必要から、高等教育機関における専門化と能力主義がその特徴となった。他方、産業化のための人材 の要求はそれほどっよくあらわれず、初等・中等教育にあっても、人文教育の偏重と技術教育の相対 主 学的軽視がその特徴となった。 章フランスとは逆に、不徹底な政治変革と後発国として殖産興業政策を必要としたドイツでは、産業 化促進のための人材がつよくもとめられたために、大学の専門化、 近代的科学教育の重視と初等・中

5. 学歴主義の発展構造

の子弟を教育しようとするものであった ( 長尾〔 7 〕一三二頁 ) 。この両校のほか多様な専門的職業教育 をおこなっていたいくつかのカレッヂが整理統合され、それらの連合体としてのロンドン大学が成立 するのは、ようやく一九〇〇年のことであった。一九四五年当時、ユニヴァーシティはわずかに一五 校、現在は放送大学をふくめて四五校に増加しているが、一九七五年においても大学生数は、大学院 生をふくめてもわすかに二五万人強といわれ、あいかわらず大学の門は狭い ( 麻生・潮木〔 8 〕二八頁 ) 。 大学はこんにちもなお高い威信をエンジョイしている。 なかでもオックスプリッヂなどのエリート 一九世紀もおわりにちかづくと、後発国ドイツ、ア 他方、中等・初等教育の発展も遅々としていた。 メリカの産業の発展はめざましく、イギリス工業の立ち遅れは、しだいにあきらかとなりつつあ「た。 こうしたなかで、科学的技術教育振興の必要が認識され、教育改革の努力がつよめられた。しかし、 長年にわたる庶民教育の軽視が災いして、「イギリスの下層中産階級が、科学的技術教育の基礎となる 一般教育さえ満足にはうけていないという実状」 ( 長尾〔 7 〕一九五頁 ) のもとで国際競争にそなえて ク中等教育の充実・近代化は急務であった。しかし、そうした中等教育充実の努力も、中等教育をひろ 展く国民のあいだに普及させようとするものではなく、「それらは、初等教育を終えた下層ないし下層 育中産階級の一部に、若干の実技的技芸を習得させて社会的昇進の道を開き、あわせてイギリス産業の 公国際的競争力の強化をはかろうとするものでしかなかった」 ( 長尾〔 7 〕一九六頁 ) 。 章 イギリスでは、一九世紀末になっても中等学校の整備にはみるべきものがなく、経済的・社会的障 害によって、中等年齢にたっした子供たち一〇〇〇人につきわずか四 ~ 五名が伝統的グラマースクー

6. 学歴主義の発展構造

に思われる。このような社会の要求は、さらに農業ハイスクール、商・工業ハイスクールの普及など、 高度の職業中等教育の発展のうちに、とくに顕著にみられる。 また、この時期には、流入する移民のための同化教育もおこなわれている。初等教育は、一八三 0 年代にはいると、州の責任で実施される普通教育としての性格をもつようになり、貧民にあたえられ る慈善的教育の性格をしだいに克服してゆく。しかし、普通教育が義務化されるのは、南北戦争以後、 とくに一八七〇年代以降のことであった。広大な土地に拡がった農民たちのあいだに普通教育を確立 することが困難であったことのほかに、就学の義務化によって、子供の教育にかんする親の私権を侵 害するとするアメリカ的な考え方がこれを妨げたといわれる。 七日本型の発展 ン タさて、周知のように、明治維新によって近代化競争に〃すべりこんだ〃日本の場合には、当然、政 展治的変革も産業化も急激なものとならざるをえなかった。したがって、国家の指導的役割を担いうる 育人材や、あるいは産業化を担いうる人材の育成にたいする高度の要求が、いちはやくあらわれること 公なる。実際、その必要性はあまりにも急激にやってきたために、人材を育成する暇がなく、周知のよ 章に「お雇い外国人」によって急場をしのぐ有様であった。それだけ教育にたいする国家の関心もつよ 第 く、高等教育、初等・中等教育の各層とも、その整備が急がれたのであった。日本の場合特徴的なの

7. 学歴主義の発展構造

ルに入学できる状態で、「初等学校における中学にゆけない有能な子どもたちは、一一歳、一二歳の 制限を越えて余分に一年あるいは二年その学校にとどまる , という傾向がみられ、こうした一二歳以 上の子供たちの数は、一八九五年には約五〇万人にた 0 していたという ( 海後・広岡〕三七頁 ) 。 イギリスにおいては、中等教育の真の充実がさけばれるようになったのは第一次大戦以後のことで ある。第二次大戦中の一九四四年には、「初等教育・中等教育・継続教育という三つの累進的段階で 公教育を整備しようという方針」がうちだされ、「ことに一九六五年以後、スプートニク・ショック で他国に遅れをとるまいと技術教育に力が入れられ、『継続教育のためのカレッヂ』『テクニカル・カ レッヂ』『商業カレッヂ』『エ業カレッヂ』などが充実整備されてきている」 ( 麻生・潮木〔 8 〕二六頁 ) という。イギリスの教育は、一九六〇年代にはいって、おおいに整備され、教育における階級性の克 服、支配階級のための教育と庶民のための教育との二重性の克服において、さまざまの努力がおこな われている。 しかし、イギリスの教育が、伝統的に、高度の階級性をともなっていたことは、多くの論者が指摘 するところで、かってのイギリスでは高等教育そのものよりもそれ以前にすでに勝敗の帰趨がほば定 まっていたという指摘もみられる。カーカップ (JamesKi 「 kup) は、この点について、つぎのように 指摘している。 〈特権階級になれる教育を受ける費用が高騰 ( 中略 ) しているのにもかかわらず、勢力者になれる席 を得ようという要求が非常に強く、野心まんまんの両親達は、子供を妊娠するとすぐに、イートンや

8. 学歴主義の発展構造

五ドイツ型の発展 ドイツの場合、周知のように、市民階級が十分な力を蓄えるにいたらなかったため、近代化は上か らの近代化としておこなわれた。このため、その階級構造は大きくはゆるがなかった。このような事 情は、高等教育をはじめとするドイツの教育の発展を特徴的なものとした。 他方、フランスよりさらに遅れて、一八三〇年代に産業革命を開始したドイツでは、イギリスとの 競争、急激な追いあげなどにみられるように、急ピッチでその産業化をなしとげていった。このため 産業化を担う人材への要求がより尖鋭なかたちをとってあらわれたということができる。逆にまた、 ドイツの教育がこのような人材の供給を可能にしたことが、急速な産業化を可能にしたということも できる。こうして、ドイツでは、産業化の要求を充たす初等・中等教育がいちはやく普及しただけで なく、高等教育も産業化の要求を大きく反映させていく。このような条件のもとで、ドイツでは、フ ランスの場合とくらべて、高等教育の規模の膨張が抑制される一方、産業化の要求に適合的な初・中 等教育が大きく発展してゆく結果となった。 中世末期、ドイツの諸大学は、分立する領邦君主の私設機関と化していたといわれる。長尾十三二 氏によると、「領邦間の対立感情のひとつの現象形態として、大学が競争的に設立されたという事情 もあって、ドイツの大学の多くは小規模であった。教授数一五 ~ 三〇、学生数三〇〇 ~ 四〇〇が平均

9. 学歴主義の発展構造

業革命はいわば自然発生的におこなわれ、その進展も後発型先進国の場合と比較すると、比較的緩慢 にすすんでいる。このような場合には、初等・中等教育にたいする社会の要求は、それほど尖鋭なか たちではあらわれてこない。 これにたいして、後発型先進国の場合には、その産業化が、先発国との競争のもとで、急激におし すすめられる必要があったために、こうした産業化を担う人材への需要はより尖鋭にあらわれてくる。 その結果、後発国の場合には、初等および中等教育にたいする要求が顕著にあらわれるものと考える ことができる。 以上のように、政治的・産業的変革がもたらした人材にたいする要求と、それらが教育の各レヴェ ルにあたえた影響関係とを、二つの層にわけて考えると、われわれは、イギリス、フランス、ドイツ、 アメリカ、日本の五カ国における公教育の発展を、ある程度類型化して分析することが可能となる。 以下、これらのそれぞれについて「社会の変化↓人にたいする社会的要請↓公教育の発達」という視 点から検討し、これらの過程が、先発国および後発国において、どのようにあらわれたかについて検 討する。 三イギリス型発展の特徴 まず、イギリスにおける政治的・産業的変革についてみると、イギリスの場合、市民革命は、フラ

10. 学歴主義の発展構造

る。ことに一九世紀の中葉、西部の開拓をめざす西漸運動が活化すると、農業や機械技術の指導者 が多数必要とされ、専門的職業教育の充実、そのための教師を充足する必要から、大学院大学の設置 がはかられている。一八七六年、最初の本格的な大学院大学として創設された、ジョンズ・ホプキン ス大学をはじめとして、こんにち名門大学として知られる多数の大学が、大学院を開設ないし大学院 大学としてこの時期に創設されている。 このように、アメリカでは、宗教教育ないしイギリス風の古典的教養教育の機関としてスタートし た高等教育も、西部開拓や急激な産業化にもとづく人材へのはげしい需要を刺激として、高度な専門 教育をおこなう高等教育機関として発展してゆくこととなる。それは、いわばイギリス風の伝統のも とにスタートしながらも、後発国にみられる急激な発展と、それにもとづく人材への社会的要求を反 映して、イギリス型というよりはむしろドイツ型の発展にちかいかたちをとって発展していったもの とみることができる。ここに後発型発展の特徴があらわれていて興味ぶかい。 アメリカでは以上のような高等教育の発展にそって、中等・初等教育も発展してゆく。すなわち、 一八世紀から一九世紀の前半にかけて、富裕な商工業者の子弟を対象として、宗派性を脱した近代 的・実学的なアカデミーが、カレッヂの入学準備教育のために多数設立され、また一般商工市民のた ールが急速に普及していった。「公立ハイスクールのこのような急成長は、当時 めに公立のハイスク のアメリカ産業社会がもっていた開かれた可能性に対する人々の期待に支えられていたー ( 長尾〔 7 〕一一 三三頁 ) といわれる。ここにも、急激な産業化がもとめる人材への要求が顕著にあらわれているよう