るいまひとつの側面は、多くの若者たちが、いわゆる〃銘柄大学〃への入学をめざして狂奔すること から生する問題、膨大なエネルギーの浪費、その結果生する教育のゆがみ、受験競争に失敗したもの の自信喪失などであろう。 まことに興味ぶかいのは、小池和男氏その他の論者が指摘するような学歴の効用の低下、すなわち 第一の弊害についての改善が進行するなかで、第二の弊害がしだいに顕著になってきたという事実で ある。一見説得的にみえる「学歴。ハスポート論」や「学歴主義↓教育の荒廃」といった単純な図式で は、この問題を説明することができないことはすでにのべた。 逆にまた、「思い込み論」者がしたように、社会的上昇におよばす学歴の影響がそれほど大きくな いことを証明してみせても、それではなぜ後者の意味での弊害がますます顕著になりつつあるのかを 説明することは困難である。 そこで必要なことは、社会の側の要求、すなわち「プルーと個人の側の要求、すなわち「ブッシ 点ュ」との、両者のかかわり方の歴史的な変化をとらえることであろう。学歴社会についての「発展モ 9 デルーが要請される所以である。この学歴社会の「発展モデル」についてはのちに第三章であっかう 1 一一卩 社が、このモデルにおいては、前述のように、「プルと「ブッシ = ーの関係が重要な意味をもっこと 学となる。この二つの概念は、 ・トロウの用語法とはいくぶんそのニュアンスを異にしているうえに、 その理論構成上の位置づけも異なるので、両者を区別してあっかうこととし、以後、「引上げ効果」、 第 「押上げ効果ーとよぶこととする。
るいはまた、能力とはかかわりなく考慮された、形式的な意味での学校歴を意味することもありうる。 それは、あるときには前者に傾斜し、またあるときには後者を意識して用いられる。またそれは、し ばしば両者を区別しないで用いられる。たとえば、「学歴別賃金、という場合の学歴がそうである。 この場合、形式的な学校歴が基準となってはいるが、学歴と実力との対応はいっさい問題とされてい 麻生誠氏は、この両者を明確に区別し、前者の意味での学歴を重視する社会を「機能的学歴社会」、 後者の意味での学歴を重視する社会を「象徴的学歴社会ーとよぶ。麻生氏によれば、アメリカ社会が 機能的学歴社会であり、日本の場合は象徴的学歴社会であるという ( 麻生・潮木〔 8 〕一八二頁 ) 。 日本がどこまで象徴的学歴主義であるといえるかについては、なお検討を要するとしても、この両 者を概念上明確に区別することは重要である。しかし、多くの論者は、この点にかんして意外に無頓 着である。小池和男氏もその例外ではない。小池氏は、後者のみを「学歴社会」と規定 ( 小池・渡辺 〔 1 〕はしがき ) して、日本の社会を学歴社会とみなすことに疑念を呈する一方で、「日本だけ」論を 攻撃するために、突然その概念を拡張して、学歴別賃金の比較などによって欧米のほうが学歴主義的 であることを主張している。そこには、あきらかに概念の混同がみられる。 問題はさらに厄介である。それは、たとえこれら二つの概念を明確に区別したとしても、なお間題 は十分にはあきらかでないからである。まず、一定の学校教育によってある能力を身につけたとしょ う。しかし、この場合、社会の要求する能力と教育によって開発される能力とのかかわりは多様であ
能力証明の機会である。この時点での成功・不成功は、日本人の能力観のゆえに、若者たちの「能力 アイデンティティ」を確立するうえで、きわめて重要な意味をもっている。のみならず、世間の側も、 彼の「能力」についてのイメージと彼にたいするある期待とを形成する。この期待のいかんが若者た ちの達成動機 ( asp 一 ra ( 一。 n ) と重要なかかわりをもっていると著者は考えている さて、しかし、すでに「学歴決定論」批判において検討したように、この能力の証明がその後の出 世コースを決定してしまうわけではもちろんない。 この点で、「学歴決定論者」は決定的な誤りを犯 しているといってよい 逆に、このような誤った見解への反動として、現実の企業能力主義を採用していることを理由に、 学歴社会の存在を否定ないし軽視する見解も、前者とは逆の誤りに陥ったものということができよう。 しくつかの節目をもっ 、ハンディキャップ競争とみるのが正しい 造実態は、、 構 の第二の機会は、社会的威信の高い集団への加入競争においてあたえられる。この機会もきわめて重 地 要な意味をもっている。たとえば基盤の安定した、発展性のある一流優良企業に参加する場合と、基 る お盤の安定しない不安定な企業や発展性の乏しい企業に参加した場合とでは、結果に大きな差が生する 本からである。かくして、第一の機会においてあたえられたハンディキャップを背負いながら、人びと 現は第二の機会に挑戦する。ここで重要な点は、第一関門における成否は、たしかに第二関門における ハンディキャップとなるが、それはけっして克服不可能なハンディキャップではないこと、またその ハンディキャップの程度は、経済界の好況・不況に大きく左右されるという事実である。すなわち、
に対して積極的な働きかけが全くないということを意味するのではない。むしろ、今まで述べてきた 人間観・教育襯などと、未分化なムラ共同体の社会構成とがあいまって、日常生活のすべてが教育的 機能をもつように、しくまれていたのだと考えたほうがよいであろう。 ( 中略 ) 世間が自然に教育するために、意図的に設けられたものの一つに「若者組」がある。しかし、若者 組は教育だけを目的としたものではない。それは、いわば「ムラ」の中の、小さな人工的な「ムラ」 とでも呼びうるものである。若者組は、教育の他に村落共同体における共同作業の分担、部落の祭祀 の担当、婚姻に至る男女の交流の場の提供、などを主な役割としているが、若者は若者組の種々の活 動に参加し、自然に周囲の影響を受けることによって教育されるのである。つまり、若者組でのすべ ての活動が教育的意味をもち、このような集団教育が自然主義教育に具体的な内容を盛っていく》 ( 園田〔〕五八 5 六〇頁 ) つまり、「サークル大学」の現状は「『学問』を学習することが教育である」とする武士階級の教 応 と育襯 ( 園田〔〕六三頁 ) から、庶民のあいだの伝統的な教育観への回帰であると考えられないであろ 態 実 うか。「大学レジャーランド化ー論は、武士的教育襯の延長線上にたっての現状批判であるとも考え の 荒られるのである。 育 教 章 209
こんにち、教育の荒廃といわれる現象は、これらさまざまの要因に影響されているし、大学のレヴ エルなど、それぞれの局面で多様なあらわれ方をしていると考えられる。大学といってもきわめて多 様である。しかし、著者はこれら多様な要因のうち、つぎの三つの要因、すなわち①使命感の喪失、 ②機会の閉塞、③能力アイデンティティの確立が、もっとも基本的な要因をなしているのではないゝ と考えている。 まず、使命感の喪失であるが、社会がすこしでも多くの人材を必要としているにもかかわらず、そ の供給が制限されているとき、有為の若者たちのあいだに、自分たちの社会をなんとかしなければな らないという使命感があらわれるのは、ごく自然の傾向である。この傾向は、幕末蘭学塾で学んだ若 者たちゃ、明治期に高等教育をうけた若者たちに顕者にあらわれていた。札幌農学校の学生たちが、 あらゆる困難とたたかってアメリカ式農業を学ばうとした姿は、感動的でさえある。これらの若者た ちをささえていたのは、まず第一に使命感であった。 しかし、教育水準が向上し、人材の蓄積がしだいにすすむと、人材にたいする社会的要請の緊要度 はしだいに緩和されてくる。もちろん、いかなる社会もつねに数多くの人材を必要としてはいるが、 その供給源がひろがるにしたがって、逆に選択が活溌となる。使命感は一般に低下する。 しかし、それでもなお、多くの有能な若者に、十分な機会があたえられている時期には、機会を実 現し自己実現を果たすために、若者たちは競って努力する。しかし、高等教育がさらに発展すると、 機会はいよいよ制約されたものになってくる。高等教育終了後の社会も、組織の巨大化、官僚制的機 206
られるのである。 学歴社会論にみられる混乱の多くは、このような学歴主義の二面性と。ハラドックスの存在を考えす、 その一方のみによって学歴社会を規定しようとすることから生じているように思われる。ある論者は、 後者すなわち受験競争のはげしさのみに着目して、日本の社会は類い稀な学歴偏重社会であると主張 する。他の論者は、前者すなわち学歴による処遇に着目して、日本の社会は学歴社会というにはほど とおく、それは「思い込みーにすぎないと主張する。しかし、この両者はともに大きな欠陥と限界を もっている。われわれは、学歴主義の二面性とパラドックスを承認することによってのみ、こうした 欠陥と混乱とを克服することができるのである。すなわち、このようにみると、「学歴決定論」は、 はげしい受験競争の弊害をもたらす要因をみいだそうとして、学歴による処遇についての事実認識の 誤りに陥ったものということができるし、また「思い込み論」は、学歴による処遇のみを重視した結 果、受験競争の激化のもつ重大な意味を軽視してしまったということができる。彼らは、受験競争の 激化自体学歴主義の一部であることを見落してしまった。このため、彼らはなぜ学歴の機能低下にも かかわらず、逆に受験競争が激化するのかという事情の説明において破綻せざるをえないのである。 「引上げ効果」と「押上げ効果ー ここで、学歴主義の二面性に関連して、「引上げ効果。と「押上げ効果 . という二つの概念を導入
かにすることは困難となる。この場合、どうしても質的な分析が必要なのである。 以上のように、学校歴と実力との対応を把握することは、なかなか厄介な仕事である。そのうえ、 たとえ学校歴と実力が一致しているとしても、その意味での学校歴が社会的上昇の決定を高度に左右 するならば、学歴をもとめる競争が激化し、学歴社会論が問題とする学歴社会の第二の弊害、すなわ ち多くの若者たちが、権威のある大学への入学をめざして狂奔することから生ずる、膨大なエネルギ 1 の浪費、その結果生ずる教育のゆがみ、受験競争に失敗したものの自信喪失などは、同様に生ずる こととなる。つまり、この第二の弊害にかんするかぎり、学歴と実力との乖離の有無は問題とならな したがって、われわれが学歴社会問題を検討する場合、たんに「実力の有無を問わず銘柄校を不当 に優遇する社会を学歴社会と考えるー ( したがって「実力通りに処遇するのなら、それは学歴社会ではなく、 実力社会だと考える . 小池・渡辺〔 1 〕はしがき ) のではなく、この問題を二段構えで、すなわち、①実 力との対応のいかんにかかわらず、学校歴が重視される程度と、そのことから生する問題、②学校歴 と実力とが乖離することから生ずる問題とを、明確に区別したうえで、この両者をともにとりあげる ことが必要であろう。この意味で麻生氏のとりあっかい方は正しいと思われる。ただ、麻生氏の場合、 歴史的な発展・変遷の過程を考慮せず、アメリカ社会が「機能的学歴社会ーであり、日本の場合は「象徴 的学歴社会 . であると固定的にとらえている点、なお問題がのこされているといわなければならない。
めるからである。 また、経済発展およびそれにともなって一般の生活水準が向上しはじめると、高等教育を希望する ものの出身階層も拡大する。財政基盤の充実によって教育制度も拡充され、これにともなって進学率 もしだいに向上する。高等教育がもたらす有利な機会を獲得しようと、より多くの若者が競争に参加 し、その要求にこたえて教育制度が拡充されれば、この両者のあいだに、しばらくは一種のシーソー ゲームが演じられることとなろう。こうして「引上げ効果ーと「押上げ効果ーとの蜜月時代がおとず れる。その過程で、公教育制度はしだいに拡充されてゆくが、この段階は基本的には、教育エリート の時代にふくめて考えるのが妥当であると思われる。 さて、このような国民の教育水準の向上の結果、社会の知識水準はますます向上し、マスコミの発 達などにより情報のレヴェルも高度化する。その結果、学歴が資格として機能する条件もしだいに弱 まってくる。大学は、人材育成機関から基礎教育機関へとしだいに転化しはじめる。アメリカ社会が 大学院教育の拡充にむかい、日本の社会が社内教育の充実を余儀なくされた時代は、ほばこの傾向の あらわれた時期と一致するとみてよかろう。 図成熟段階】教育エリート候補の時代 しかし、拡充をつづける高等教育のもとで育成された人材が累積してゆくにつれて、やがて人材の 飽和現象があらわれる。しかし、にもかかわらず、競争への参加は教育制度の拡充をもこえて進行す る。学歴の機能低下にもかかわらず、進学競争は激化せざるをえない。高等教育のもたらす機会が相
人社会に入「て魅力的で、割りの合う仕事に就く資格がないという、強固なそして現実的でもある予 こうしてますます多くの大学該当年齢層の若者が大学に進学するようにな 想などがそれである。 れば、大学生ではないということ、あるいはかって大学に学んだ経験がないということは、ますます 永続的な恥辱となり、精神や性格になにか特別の欠陥のあるしるしと目され、成人としての一切の活 動や営みにと「て致命的なハンディキャップとなっていく》・トロウ〔 3 〕三〇 5 三一頁 ) 〔付記〕ヴ = トナム戦争当時、徴兵忌避のために進学する若者が急増し、このことが、アメリカにおける大学進 学率を、一時大幅に高めたことがある。 この点、とくに日本の社会においては、到達レヴ = ルとしての実力よりは潜在的能力が重視される こと、その結果、大学入試における潜在能力の証明がきわめて重要な意味をもっていることなどの事 ・トロウの指摘する進学への強制力は、他の多くの先進国よりもいっそう強 情が存在するために、 力に作用する可能性がある。 変これらの条件の存在によ 0 て、社会的上昇における学歴の機能が低下しつつあるなかで、進学竸争 ははげしさをくわえつつある。 発 の 主 学
優秀な学生を集めることも必要であろう。 以上のように、能力証明の機会を領域別に分化させる一方、二段、三段の機会を設けるならば、 学歴Ⅱ能力Ⅱ人間評価 という図式は、かなり変化してくるのではなかろうか。また、教育荒廃問題のひとつのポイントは、 高校以下における競争の過熱状態と大学レヴェルにおける競争の沈滞にあるから、大学教育にこのよ うな競争をもちこむことは、高校以下の事態の改善に大きくつながると思われる。 反面、高校以下のレヴェルにおいては、能力証明の多様化によって、一元的な競争の激化を緩和す ることが必要である。 この点、佐藤忠男氏のつぎの指摘は、まことにふかい示唆に富んでいる。 〈みんなに見られて晴れがましい思いをするチャンスが、かなり平等に地域の人に与えられていたよ うに思いますね。お祭のみこしを担ぐことから始まって、やぐらに上って太鼓を叩いたり、若者頭と 。そして若者頭は年齢制限があって、それが過ぎたら隠退して、次々 してお祭の指揮をとるとか : と交代する。節分の豆まきもそうですね。人から注目されるチャンスがかなりあったからこそ、人格 的に自己規制が働いて、だからこんなことはしちゃいかん、こういうことを修練すべきだ、こういう 恰好が好ましいということが、かなり一般的に成り立っていた。それが地域社会の教育の基本構造だ ったと思うのです。 ( 中略 ) ひとから見られて晴れがましい思いをするチャンスが急激に減ったように思いますね》 ( 佐藤・京極 2 ー 2