こうした活断層がたくさん集まっているのです。 京都には、古くから都が作られ、た 地震が作った くさんの人たちがくらしてきました。 京都盆地 それは、ひとつには、山に囲まれた に平らな土地が広がっていたため、水も豊富でくらしゃ 層方と 断きも すい場所であったからではないでしようか。 書では、なぜこうした地形ができたのでしよう ? そ 活古れは、日本列島を東西に圧縮する力によ 0 て作られた 形クと考えられています。上の図のように、左右 ( 東西 ) からカを加え続けると、地盤は上に押し上げられる部 方ク 驪と分と沈み込む部分に分かれ、その境目が断層となるわ 近形 動けです。また、横方向にずれたりもします。押し上げ られた部分は東山や西山の山地にあたり、逆に沈み込 んだ部分は京都盆地の低地にあたります。 こうした地形のでき方は、図からもわかる通り、な にも京都盆地に限ったことではありません。山科盆地、
ュリカモメだったのです。朝方京都盆地へ飛来するのだから、夕刻、どこかへ帰還するはすで リ、鳥Ⅱでの飛びたちを待ちかまえ、帰還ルートを追跡した結果、ほどなく琵琶湖の浜 す。タ亥甲丿 大津で、帰還途中の = リカモメの大群を確認することができました。朝髭琶湖を飛び立ち、昼 間を鴨川で過ごし、夜再び髭琶湖へ戻っていくというくり返しの行動ですから、この行動を 「ユリカモメの通勤」と呼ぶことにしました。 ところで琵琶湖に戻ったユリカモメの大半は、大津から草津の沖合で一夜を過ごし 通勤路 ますが、琵琶湖大橋を越えて滋賀郡北小松沖で過ごす群もいます。一夜を琵琶湖で 過ごした群は、翌朝、日の出の約三〇分前から湖面を滑走し、浜大津へ集結してきます。集結 おぜきごえ した群は、東山山系を越えるために旋回しながら高度を徐々に上げ、ほとんどの日は、小関越 を越えて山科盆地へ移動してゆきます。浜大津での集結はおおよそ一時間くらいの間繰り返さ れ、大小の群をつくって次々と出勤してゆきます。 山科盆地を横断してゆく群は、ひも状になり波打 0 て、猛ス。ヒードで京都盆地に向かいます。通 中には山科川に途中下車する小群もいます。東山山系を越えたユリカモメは、京都盆地へ入りモ カ 鴨川に着くとすぐに、鴨川に沿って北上するものや南下するものがいます。先頭集団が鴨川に ュ 到着してしばらくしたころ、冬の遅い日差しが京都盆地を照らし始めます。浜大津から鴨川ま では、直線距離で約九キロありますが、この間をおよそ一五分で飛行します。これは時速約四
一九八三年二月のある日、午前六時 出勤に出くわす 四〇分ごろ、山科盆地の四宮を車で 出勤中、異様な鳥の群の移動に遭遇しました。数百羽の 白い鳥の群が、東から西方向に移動していく光景です。 それが何という鳥なのか筆者にはわからず、すぐにその ことは忘れていました。ところが翌日もほぼ同じ時間に 同じ場所を通ったところ、前日と同じような光景にぶつ かりました。「この鳥の群は一体なんという鳥で、どこ へ行くのかな」と思ったのです。この出合いが、この鳥 の群と一五年以上っきあうはめになったきっかけです。 翌日から鳥の群を追いかけてみて、山科盆地を越えて 京都盆地へ飛んでいくことがわかったのは、追跡して四 日目のことでした。その群が、鴨川の冬の風物詩である ①ュリカモメの通勤 ュリカモメ 172
・桃山丘陵と六甲山 天下の支配者となった豊臣秀吉は、桃山丘陵の地に城を 築き、京都盆地を見下ろしていました。 桃山丘陵が、京都盆地や山科盆地よりも高くなっている のはなぜでしようか ? 丘陵の西の縁の地下には、京都盆 地の北からのびてきた花折断層が通っていると考えられて います。また、丘陵の東側地下にも断層があると考えられ 冂 ~ 印〔冂冂 ています。丘陵の両側の地下に想定されるこうした断層が、 桃山丘陵を長い時間かけて押し上げたのでしよう。 冂盆冂 都 丘陵をつくっている数十万年前の地層 ( 大阪層群とよぶ ) 京 が丘陵の境目で大きく変形していることから、丘陵を上昇 させた断層運動が数十万年間続いたのではないかと思われます。桃山丘陵だけでなく、近 畿地方では、こうした断層運動によって多くの山や盆地ができ、その運動は現在でも続い ています。神戸の六甲山もこうした運動でつくられたと考えられています。 山科盆地 桃山丘陵 - 第桃山れき層 - 数十万年前の - 地層 81 桃山丘陵と六甲山
サガサにこわれています。雨が降り、水が流れるとすぐに崩れ、溝状の真っ直ぐな地形ができ てしまうのです。 この写真をよく見て、他にも直線状の地形がないか探してみて下さい。先の断層ほどではな るる 成いのですが、山と平地の境目が直線状に れあのあ作 さでもの になっている場所があるのに気づきません 定層な 推断実疑 , ・ / ・ , 層、「が層のをか ? 山科盆地の東側、亀岡盆地の東側、 - ノ断のと断も会 活もこ活る版そして大阪の高槻市から池田市にかけて 学の北側などがあげられます。これらの直 京 東線部分は、やはり活断層と一致するので お , フ・はく す。それそれ、「黄檗断層」、「亀岡断 、の層」、「有馬・高槻構造線」と名付けられ ています。最後の断層は、最近の調査で、 7 ・ 5 ) を引き断 層先に述べた慶長地震 (ä の起こしたことがわかってきました。阪神の 京 地淡路大震災後、多くの人に知られるよう ノ / にな「てきましたが、実は近畿地方には、 高塚山断層 六甲断層・、、
し、立木観音やさらに下流の宇治市内を流れるころには、琵琶湖の水よりもかなりきれいに見 えますし、実際に水質も良くなっています。これは、途中できれいな河川水が流入しているこ ともありますが、先に書いた「自然の処理場」の働きがあるためだと思われます。宇治橋の下 流付近では、水鳥たちが魚をついばんでいる様子を見ることもできます。 ところが、きれいな宇治川も山科川との合流付近をすぎると水質が悪化します。町の中を流 れる山科川は、水量が少ない上に「瀬」や「淵」があまりなく、排水を浄化する働きが十分で はないようです。 最近では、都市の河川にも自然の浄化能力を取り戻そうと、岸辺に草を 河川工法の見直し 植えたり、瀬や淵をもたせた「近自然型・多自然型の河川工法」がとら れるようになってきており、効果を上げています。日本各地でメダカが見られなくなり、絶減ム トで固めるのではなく低い土でつくることによス の危機にありますが、川の岸を高いコンクリー って、川から田んぼにメダカが出入りしやすいようにする工夫なども行われています。 の 然 自
ころを運んでいたのでし よう。この時に桃山高校 の地層も作られたのです。 上のグラフを見ると、桃 山高校の石ころは山科川 のものとそっくりに見え ます。おそらく、桃山高 校付近には、以前、山科 川が流れていたのでしょ その後、東山のふもと を走る花折断層などの活 動で、河原は現在の高さまで隆起しました。こうした理由で、当時の川の河原にたま 0 た石こ ろが桃山丘陵のあちこちから見つかるのです。 東山連峰 近鉄電車 桃丘陵 名神高速道 鴨川 田 竹 山科川 桃山高校 丹波橋・ ムロ 桃山高校 その他 砂泥岩 桃山高校のレキ層と周 チャート囲の川のレキ種の割合 0
桃山御陵周辺にも分布しており、今から数十万年前に河床に堆積したレキ層であることがわか ってきました。でも、どうして河川に堆積した地層が、今では桃山の丘の上から見つかるので 1 しよ、つか 河原の石ころは、洪水によって運ばれてたまっていきます。現在の桃山丘陵の 石ころから 冫甲丿カ流れています。丘陵で見つか 周囲には、南に宇治川、東に山科川、西こ鳥Ⅱ : し 何がわかる る石ころは、これらの川と何かつながりがあるのでしようか。とりあえず、三 つの川の石ころを調べてみることにしました。「河原の石ころなんてどこでも同じ」と思って ち いたのに、どうも川によって種類が違うようです。山科川の石ころは、つるつるした硬い石 けつがん お ・鳥Ⅱの石ころには、黒っぽい石 ( 砂岩・泥岩・頁岩 ) ( チャート ) が多いのに比べ、宇冶Ⅱ の がめだっています。どうやら、河原の石の種類の違いは、上流に出ている岩石の違いであるこ陵 山 ともわかってきました。石の種類が、その故郷を教えてくれるのです。 桃 る さて、桃山高校に現れた地層の石ころにも故郷があるはすです。手がかりとなる三つの川の さ 石ころと比べると、どの川と似ているでしようか。何か推理小説の探偵のような気分になって ろ きました。 自分たちの調べたことから推理をしてみました。今から数十万年前、当時まだ平 日が丘に 野であった桃山丘陵のあたりを、大昔の山科川や鴨川などが洪水の時に多くの石
⑩氷室の里とみなづき 「六月のころは、炎暑の盛りでございました。 : ・ ( 女達は ) 氷室より取り出し もてあそ 源氏物語と ました氷の塊りをうち割って弄ぼうと致しております」 か。け・ろ、つ 氷室の氷 この文章は、平安時代に書かれた『源氏物語』蜻蛉の巻の一節です ( 『窯変 源氏物語』橋本治訳より ) 。宮中の女性たちが氷と戯れている様子が描かれているのですが、 季節は「炎暑の盛り」の夏です。冷蔵庫もない時代に、どのようにして夏に氷を手にすること ひむろ ができたのでしようか ? 文章の中に「氷室」という言葉が見られますが、実はこの氷室で冬 にできた天然の氷を、夏まで保存していたのです。氷室はいわば天然の冷蔵庫です。では氷室 はどこにあったのでしようか ? ・ たかがみね 洛北鷹峰からさらに北の山中に、氷室という集落があります。どうやら 氷室跡・氷池・ 氷室があったところが、地名として今でも残っているようです。この集落 氷宀至神社 には、氷をつくった「氷池」や氷を保存した氷室跡が残っています。山間 の盆地性気候のため市街地よりもかなり気温が低く、氷室をつくるには絶好の場所だったので しよう。氷室跡は山の斜面にあり、直径三 5 四、深さ一 5 二程のくぼ地になっています。 ひむろ
⑩自然と人のせめぎ合い 5 亀岡盆地 5 亀岡は、まわりを山に囲まれた、南北に細長い小さな盆地です。こちん 小さな盆地・亀岡 まりした中にもいろいろな地形が見られます。そんな中で、古くから人 の住んでいるところには一つの共通点があります。それは「少し高くなったところ」です。な ぜ、人びとは高いところに家を建てようとしたのでしようか。それは、この盆地がつくられた 歴史と深い関係があるのです。 亀岡盆地の中央部に桂 洪水のつくった地形 ( 大堰川・保津川と 識も呼ばれます ) という大きな川が流れています。 示 害丹波の山の中から水を集めて流れてきた川です の が、やがて保津峡を経て京都盆地を流れ、淀川 岡と合流して大阪湾へと出ます。この桂川が保津 亀 峡にさしかかるあたりはとても狭く、そこでせ き止められて、亀岡盆地はよく水浸しになりま : S35.8. し明しを 物 おお