アメダス ( A M e D A S ) とは 「地域気象観測システム」といい Autæated Data Acquisition S ystem ( 自動化された気象の資料収集システム という英語頭文字を基にした呼び名です。 35 ・ 30 ・ 記号 ・地域気観測所 △地域雨量観測所 ム無線ロポット雨量観測所 ・岡△和△知 ~ 園 須、 津山△△ -. 人 福 丹 2 △山 : ・△岳 美山 京北△ 135 。 00 ・ 花背峠 / 京都 回ト - ー 35 ・ 00 ・ / 長岡京 、・鶯峰山 10 20 30 5 ・ 3 象 ほとんど独自の予報を 注意報・警報 出すことがなくなった ス ダ暦 ) 気象台ですが、梅雨の大雨、冬の大雪、 メ象 ア気よ 部台風による強風などの災害が起こる恐れ のの があるときにその力を発揮する機会があ 京 都「会 京 ( 協ります。ふだんの定期的な天気予報とは 別に、状況に応じて「注意報」「警報」 「気象情報」を発表します。京都府でも 北部と南部では発表の基準が異なり、 部をさらに丹後地区と中丹地区に細分し て発表します。これは、地域のようすを よく知っている、地元気象台ならではの 仕事です。 夏、南部で晴天が続いているのに「洪 水注意報」が出ることがありますが、一、 れは琵琶湖の水位を下げる目的でダムか 田辺 / - : ご ~ 「
2 南部 ⑩向日町丘陵を訪ねて かって京都に都が置かれ、平安京とよ 長岡京の都 ばれているのはよくご存知でしよう。 しかし、都が奈良の平城京から平安京に移るまでの ほんの一〇年間、京都市の南西に広がる向日市を中心 4 和し」・、に とする乙訓の地に、「長岡京」が設けられたことを知 る人は少ないのではないでしようか。 この「長岡」の地名は現在、向日町丘陵と名付けら れている地形に由来するのです。丘陵は、北は京都市 松尾付近にはじまり、ほぼ南に向日市の中心まで細長 く延びています。写真は、これを南東の方角から眺め一〔 たものです。丘陵の南端には向日神社があり、すぐ南 愛宕山 西山山地 論向日町第を、第 あぜ道 向日市より愛宕山方向をのぞむ
よう。この大極殿は土塁で囲まれていたそうです。水害を防ぐためだったのかもしれません。 長岡京の造営はわずか一〇年で放棄されてしまいました。今考えると、なぜこんなところに 都を置こうとしたのか不思議ですね。ともかく、その本当の理由は、まだ明らかになっていま せん。 「 : ・長岡京を建設し、都市 計画のために小畑川の流路を 付け替えた。しかし、自然を 改変したしつべ返しで、小畑 川がたびたび洪水を引きおこ 図 念した。そこで、さらに安全な 地土地を求めて長岡京は捨てら て 乙れた・ : 」ということも理由の訪 を 一つになると思うのですが、 丘 町 どうでしよう ? ・ 日 向 9 -6 洛西ニュータウン : 、、町 ; 樫原断層 ミい : 長岡京跡 ・・向日社 ノ \ 写真撮影地点 、、昔の小畑川 扇状地、、 朱雀大路 山地・丘陵 二段丘 2km
へ流れて、京都府と大阪府の境界、大山崎付近で桂川に合流しています。しかし、この流れは よく見ると、土地の高まりを横切っているのです。これは自然な水の流れとしてはちょっと 理をしているとは思いませんか ? ところで、六六ページの写真の近景には、向日町丘陵の東側に広がる水田地 あぜ 不思議な畦道 帯の畦が写っています。この地域は古くから人が住み、農業を営んできたの で、土地の区割りは「条里制」にしたがい長方形のはすです。しかし、畦や農道がゆるくカー プしています。この湾曲は何を意味しているのでしようか。 さて、水田には水が張られます。水面はまさしく水平面です。ですから、田の畦は等高線と いえます。また、地下を掘ってみると、長岡京の遺構の一ぐらい下のところに、向日町丘陵 で見られるものと同じレキ層が見られます。 このようなことから、小畑川は長岡京造営前には、現在の流れとちがって東の方へ流れ、淀 付近で桂川に流入していたと考えられないでしようか。 つまり、乙訓地域は西山から桂川に向かって、大変ゆるく傾斜する扇状地なのです。その等 高線が不思議にカー。フしたあぜ道として現れている、と考えたらどうでしよう。 長岡京造営には小畑川の流路も利用したと思われます。淀川から桂川さらに 長岡京の末路 小畑川へとさかのぼった舟の行く手正面には、大極殿が見えてきたことでし よど
標高差約三〇という自然の傾斜を利用して送ら れます。この水は、京都西山のすそに広がる向日 市、長岡京市、大山崎町へ送水されます。これが、 画 計「京都府営水道計画」です。 水 長岡京市、向日市、大山崎町を含む 府乙訓の水 都 乙訓地域は、何億年も前にできた硬 い岩石を基盤として、その上におよそ五〇万年前 の比較的新しい地層が堆積するという構造をして います。これは、豊富な地下水を蓄えやすい構造 です。この水は、おいしい乙訓の水として有名です。この地下水を利用して、天王山の山すそ にあるサントリ ーエ場で、ウイスキーがつくられていることはよく知られています。地下水は、 夏冷たく、水道の蛇口に水滴がつくほどです。冬は温かく、自然の恵みを感じることができま す。乙訓地域では長く、この地下水を生活用水として使用してきました。 よ、つすいじよう ところが、長年の地下水の使用によって地下水位が低下し、揚水場付近では、地盤沈下が 生じてきました。また、人口の増加と工場の地下水利用によって、水量の確保が困難になって きました。さらに、一部の工場から漏れた薬品 ( トリクロロ = チレンなど ) によって、地下水 日吉ダム / へ 保津峡取水口 浄水場 長岡京市向日市 大山崎町
七月 七月 七月七日亀岡で大雨。一四一 ( 一九五一・昭二六 ) 平和池決壊、死者一一四人 E ( 一九八六・昭六一 ) 死者一人 二〇日ー 中部で大雨。長岡京で二一日に二二六 二八日 丹波で風水害 ( へスター台風 ) 。知井で四九〇の雨、京都で二三五の雨 ( 一九四九・昭二四 ) 死者一一人 九月全域で干害。京都で七月一四日ー八月一日無降水 ( 一九七八・昭五三 ) 九月全域で冷害。京都で八月の気温が平年より一・七℃低く、日照時間が平年の四 四 % ( 一九八〇・昭五五 ) 八月八日 京都で最高気温三九・八℃ ( 一九九四・平六 ) 丹波・山城で水害 ( 七号台風 ) 。黒田で三一八の雨、京都では一三日に二八九 Ⅷの雨 ( 一九五九・昭三四 ) 桂川・由良川で洪水、死者一四人 一五日南山城水害。和東で四二八Ⅷの雨 ( 一九五三・昭二八 ) 死者三三六人 全域で風水害 ( ジェーン台風 ) 。京都で二四・九医の風、伊根で二〇七皿の雨、 九月三日 宮津で七〇の高潮 ( 一九五〇・昭二五 ) 死者一一人 全域で風水害 ( 一九号台風 ) 。舞鶴で一三・七医の風、花脊峠で二八九の雨 一七日ー 149 京都の気象記録と災害の暦
⑩乙訓を歩く 5 河岸段丘と竹の浸食 5 阪急長岡天神駅は、春や秋の行楽 河岸段丘 シーズンともなると、緑豊かな西を / 段部 山の自然や史跡を求めて、多くの ( イカーでに 宮噬 層地〕 満カ ぎわいます。ガイドブ〉クを片手に、熱心に見」 〕ぐこ 0 ? 天 て回る人も見かけます。何気なく目にする自然 もちょっとしたポイントをおさえて眺めると、 八条が池一 結構いろんなものが見えてきて歩く楽しみもふ . 、た段講い 寵あ岸 くらむものです。 の河 のを〔ト岡 駅の南側の天神通りに出て西を見ると、鳥居 のある長岡天満宮が三、四高くなっています。 どうしてこんな段差ができたのでしよう ? 京 ここはちょうど地層の境目にあたる所なので す。駅から続く道沿いの平らな部分は「沖積 岡京市 を地支化 =
さらに、天満宮本殿の左側の遊歩道を登っていくと梅林 のがあり、すぐに長岡グランドにでます。このあたりは広葉 樹の森が一部手つかずで残されており、多くの野鳥のさえ ずりが聞こえてきます。休日ともなると、多くの市民でに のぎわいます。 ちょっと一休みした後は、公園の西側の柳谷 血断層地形 道に出て、西に進みましよう。道の両側も U 「段丘層」です。住宅開発が進んでいるものの、タケノコ えの栽培用にきれいに手入れされた竹林がまだ残っています。 このあたりは段丘層の一番上の段にあたります。 この坂道を上り、長岡第五小学校が左手に見えるあたり までくると、道は下り坂となり視界が広がってきます。見 こ山通しの良いところで、じっくり西山の方を観察してみて下 さい。左前方の天王山あたりを注意して眺めると、三角形 をした斜面がいくつか並んでいるように見えませんか ? さんかくまったんめん 西この斜面は「三角末端面」とよばれ、活断層の活動によっ
層」といって、近くの川によって、運ばれてき た土砂がたまって出来たものです。石段から上 はどうなっているのか注意しながら、奥の長岡 天満宮、長岡公園に向かって歩いていくと、急一 に傾斜がぎつくなる所が何カ所かあり、この辺岸 河′ ~ イ停印 ス海石。 金た は階段状の地形をしていることがわかります。 斜面の所々にレキ層が顔をだしています。今 十亠 の川より少し高いところに河原のレキのような ものがあります。これはどういうことでしようか ? それは、このあたりの土地が隆起し川底 が高くなったため、河原を削り取るはたらきが強まり、階段状の地形をつくったにちがいあり ません。そこで、このような地形のことを、「河岸段丘」と呼んでいます。 また、天満宮本殿のすぐ東側を「光明寺断層」とよばれる活断層が北西ー南東方向に走って いると推定されており、この断層の活動で西側がさらに高くなっていることも考えられます。 乙訓地域には、古墳や古い社寺などの史跡がたくさん残っていますが、これらの多くは、こ 畑川のような河川のはん濫を避けるた のような段丘層の上につくられています。おそらく、小 めに、高くて平坦な段丘が選ばれたのでしよう。 柳谷道 / ! 停金原回 ~ ー御陵道 - ー 71 乙訓を歩く
や西側は高さ三〇ほどの崖になっていて、地層が観察されます。 向日神社の崖には、大きさが五ぐらいの砂利 ( レキ ) がたくさん見ら 向日神社のレキ層 れます。このレキ層は、およそ五〇万年ほど前に、何回もの洪水によっ て西山の方から運ばれてきたものと考えられています。つまり、かってここは低い土地て が洪水のたびに土砂をまき散らすようなところだったと 考えられます。 気 0 い、生そんなところがなぜ、長岡とよばれるような丘陵地に 高なったのでしようか。活断層地図を見ると、向日町丘陵 かたぎはら 察の東は「樫原断層」という活断層に一致します。向日 を町丘陵はこの活断層の活動によって、数千年におよそ一 地程度の割合で上昇してきたようなのです。 て では、細長い丘陵の西や南の崖はどのようにしてでき訪 + 亠 を ( 賞キを【神たのでしようか。崖ですからやはり断層でしようか。現陵 一 ( ン、第に、イツ、向地に行くと、小畑川という川が丘陵の西に沿 0 て流れて町 向 います。西側の崖はじつはこの川の侵食でできたものた ったのです。小畑川は現在、向日町丘陵の西側を南の方