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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學
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1. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

冂記ちりの中 がるべきに井らず。老たる母に朝四暮一二のはかなきものさへす め難くて、我がはらからの侘び合へるはこれのみ。すでに浮世の望 みは絶えぬ。此身ありて何にかはせん。いとをしとをしむは親の 爲のみ。さらば一身をいけにゑにして、遲を一時のあやふきにか け、相場といふこと爲して見ばや。されども、貧者一錢の餘裕な くして、我がカにて我がことを爲すに難く、おもひっきたるは先 生のもと也。窮鳥ふところに入たる時は、かり人もとらずとか あのっち ゃ。天地のことはりをあきらめて、廣く慈善の心をもて萬人の痛 苦をいやし給はんの御本願に思し當ることあらば敎へ給へ。いか にや先生、物ぐるはしきころのもと末、御むねの内に入たりやい かにと問へば、久佐賀は、しば / 我おもて打ながめて打なげく けしきに見えしが、年はいくっぞ、生れはと間ふ。申歳生れの二 十三にて、三月二十五日出生といへば、さても上々の生れかな。 たくみ 君がすぐれたる處をあげたらば、才あり、智あり、物に巧あり。 悟道の方にもゑにしあり。をしむ處は、望みの大にすぎてやぶる てんびん るかたち見ゅ。輻祿十分なれども、金錢の輻ならで、天禀うけ得 たる一種の輻なれば、これに寄りて事はなすべきにこそ。商ひと 聞だに君には不用なるを、ましてや賣買相場のかちまけをあらそ ふが如きは、さえぎって止め申べし。あらゆる望みを胸中よりさ あんしんりふめい りて、終生の願ひを安心立命にかけたるぞよき。これ君が天より うけたる天然の質なればといふ。をかしゃな、安心立命は今もな したり。望みの大に過ぎてやぶるゝとは、何をかさし給ふらん。 五うん空に歸するの曉は、誰れか四大のやぶれざるべき。望も願 こつじき も夫までよ。我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食かたゐの夫 こそは終生の願ひ成けれ。さもあらばあれ、其乞食にいたるまで の道中をつくらんとて朝夕もだゆる也。つひに破るべき一生を、 月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。破れを願ふほかにやぶ よきしにどころ れはあるまじやは。要する處は、好死處の得まほしきぞかし。先 く、ぐか , き、ま - 生、久佐賀様。此の好死處ををしへ給らずや。世に處す道のさま さうば てうしぼさん ざえ ざまもうるさし。おもしろく、花やかに、さわやかの事業あら ば、をしゑ給へと、やう / 、打笑みて語り出れば、共處也、そこ 也と久佐賀もあまたたび手をうつ。されども、圓滿を願ふはうき よのならひにして、圓滿をつかさどるは我がっとめなり。破れの 事は、俄かに語るべからず。そも君は何を以て雎一のたのしみと きんいきうちょう 覺すぞや、それ承んとある。錦衣九重、何かたのしからん。自然の 誠にむかひて、物いはぬ月花とかたる時こそ、うきょの何事も忘 れはて \ 造化のふところにおどり人ぬる様に覺ゆれ。此景色に むかひたる時こそとこたふ。あはれ自然の景を人間にうっして御 覽ぜよ。はじめて我が性の偶然ならざるを知り給ふべしあやめ、 撫子、さま \ の性をうけて、おのがさまみ \ にほひ出る、これ こそは世の有様なれ。草木に植時の機あるをしれど人の事業に種 まきの機節をはからざるは、いと愚ならすや。遠因、近因、來る 處一筋ならず。人々、只今の苦を知りて、根元の病ひをしらざれ ば、もだえは、いたづらに空に散じて、つゐにもとをいやすによ しなし。人さかりにしては、天の力も及ぶかたなし。盛なる時 は、我があづかりしる處ならず。我れは精禪の病院に成て、痛苦 の慰間者に成て、人世のくずやになりて、ぼろ、白紙、手ならひ よリわけ 草紙、あれをもこれをもかひあつめ、撰分て其むき / \ の働きを 爲させんとす。ぼろとすてたりける小袖のちぎれも、道に寄てす きかへさば、今日有用の新紙と成て、おほけなき御前に出る折も あり。ふるきをかへして新たにし、破れをと長のへてまったふす るは我が役なり。のたまふ處は、我が賛成する處にして、君が性 は、我が愛し度本願にかなへり。月花を愛し給ふ心の誠をもとゝ したらば、其ほかの出來ごとは瑣事ならずや。小さき憂の大きに かゝるは、日々の運用よろしからざるによる。運用の妙はこ又に ありて、しかも運用はたやすき物也。本源のさとり開かれぬる 後に、日々の運用何事かはあらん。さりながら、人を知る人の、 我を見るは少なきがごと、本原は知るといへども枝葉にまよふ

2. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

: 30 まれ 成ぬらん、夜な / 、影や待とるらんと哀なり。嬉しきは月の夜の客 人、つねは疎々しくなどある人の心安げに訪ひ寄たる、男にても嬉 虫の聲 しきを、まして女の友にさる人あらば如何ばかり嬉しからん、みづ 垣根の朝顔やう / \ 小さく咲きて、昨日今日葉がくれに一花みゆ から出るに難からば文にてもおこせかし、歌よみがましきは憎くき るも共はじめの事おもはれて哀れなるに、松虫すゞ虫いっしか鳴よ 物なれど斯る夜の一ト言には身にしみて思ふ友とも成ぬべし。大路 ころぎ つじうら ゆく辻占うりのこゑ、汽車の笛の遠くひゞきたるも、何とはなしにわりて、朝日まちをりて竈馬の果敢なげにする、 中など有るか無きかの命のほど、老たる人、病める身などにて聞たら 魂あくがる心地す。 ば、さこそ比らべられて物がなしからん、まだ初霜は置くまじきを今 年は虫の齡ひいと短かくて、はやくに聲のかれみ、に成しかな、くっ 雁がね わ虫はかしましき聲もかたちもいと丈夫めかしきを、何しか時の間 な・こり あさ・つくよ におとろへ行くらん、人にもさる類ひは有りけりとをかし、鈴虫は 朝月夜のかげ空に殘りて、見し夢の餘波もまだ現なきゃうなるに 雨戸あけさして打ながむれば、さと吹く風竹の葉の露を拂ひて、そふり出てなく聲のうつくしければ、物ねたみされて齡ひの短かきな うな・つ めりと點頭かる、松虫も同じことなれど、名と實と件はねば怪しま ぞろ寒けく身にしみ渡る折しも、落くるやうに雁がねの聞えたる、 ときは ちとせ あがた ひと る又ぞかし、常盤の松を名に呼べれば、千歳ならずとも枯野の末ま 孤つなるは猶さら、連ねし姿もあはれなり、思ふ人を遠き縣などに やりて明くれ便りの待わたらる頃これを聞たらば如何なる思ひやでは有るべきを、萩の花ちりこぼるやがて聲せず成り行く、さる しばしあへ 盛りの短かきものなれば、暫時も似よと此名は負せけん、名づけ親 すらんと哀れなり。朝霧ゅふ霧のまぎれに聲のみ洩らして渇ぎゅく たのも もをかしく、更けたる枕に鐘の音きこえて、月すむ田面に落らんかぞ知らまほしき。此虫一とせ籠に飼ひて、露にも霜にも當てじとい げ思ひやるも哀れ深しゃ。旅寐の床、侘人の住家、いづれに聞てもたはりしが、そ・の頃病ひに臥したりし兄の、夜な / 鳴くこゑ耳に つきて物侘しく厭はしく、あの聲なくば此夜やすく睡らるべしなど 物おもひ添ふる種なるべし、一とせ ?- 谷のほとりに仮初の家居し ことわり あきびと て、商人といふ名も恥かしき、唯いさゝかの物とり並べて朝夕のた言へるも道理にて、いそぎ取おろして庭草の茂みに放ちぬ、其夜な くやと試みたれどさらに聲の聞えねば、俄かに露の身に寒く鳴くべ つきと爲し頃、軒端の庇あれたれども月さすたよりとなるにはあら き勢ひの無くなりしかと憐れみ合ひし、共とし暮れて兄は空しき數 で、向ひの家の二階のはづれを僅かにもれ出る影したはしく、大路 に入りつ、又の年の秋、今日ぞ此頃など思ひ出る折しも、ある夜ふ に立て心ぼそく打あふぐに、秋風たかく吹きて空にはいさかの雲 もなし、あはれ斯る夜よ、歌よむ友のたれかれ集ひて、靜かに浮世けて近き垣根のうちにさながらの聲きこゑ出ぬ、よもあらじとは思 の外の物がたりなど言ひ交はしつるはと、俄かに共わたり戀しう涙へど雎共ものゝゃうに懷かしく、戀しきにもめづらしきにも涙のみ こともの こぼれて、此虫がやうに、よし異物なりとも聲かたち同じかるべき ぐまる又に、友に別れし雁雎一つ、空に島して何處にかゆく、さび きぬた しとは世のつね、命つれなくさへ思はれぬ。捻衣の音に交りて聞え人の唯今こ乂に立出で來たらば如何ならん、我れは共袖をつと捉ら たる如何ならん、三つロなど囃して小さき子の大路を走れるは、さへて放つ事をなすまじく、母は嬉しさに物は言はれで涙のみふりこ ぼし給ふや、父は如何さまに爲し給ふらんなど怪しき事を思ひょ も淋しき物のをかしう聞ゆるやと浦山しくなん。 うつ、 おは いっ

3. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

208 がたりのしどなさ。おもひがけず落あひしを恥あへるさま、男も 猶、ものつみはなす成けりと、をかしかりき。 いで、孤蝶ぬしのたより少ししるしとゞめばや。これも、此月に いりてより文三通。長きは卷紙六枚をかさねて、二枚切手の大封 じなり。一たびは名所古跡の寫眞二葉。紫式部源氏の間などいへ るをおくりこし給へり。例のこまかにつ乂みなき言の葉、わが戀 人にやるやうの事かきてあるもをかしく、誠ある人なれば、おの づからはげますやうのことの葉などもみゆめり。こゝろうつくし き人かな。 平田ぬしには此月たえて逢はず、文こまみ、とおこしつれど、孤 蝶ぬしとの間に物うたがひを入れて、少しねたまし氣などの事書 てありしもうるさければ、返しはやらず成りにき。みづから二度 ほど訪ひ來しかど、國子の取はからひて門よりかへしぬ。才子な れども憎くき氣のあるそ口をしき。 秋骨も、幾度わがもとをとひけん。大方土曜日の夜ごとには訪ひ 來る。來れば、やがて十一時すぎずして歸りし事なし。母も國子 も厭ふは此人なれど、いかゞはせん。ある夜、川上君と共に來て 物がたりのうちに、ふるひ出でぬる時などの恐ろしかりし事よ。 我れはいかにするとも此家の立はなれがたきかな、いかにせん、 いかにせんとて、身をもみぬ。みづから、こは怪し、怪しといひ っ乂、あと先見廻しつ又打ふるふに、川上ぬしもたゞあきれにあ きれて、からく件ひ出て送りかへしぬ。共夜なき寐入りにふした りとて、あくる朝まだきに文おこしぬ。うちに、さまみ、ありけ れど、猶親しき物にせさせ給はらずや、いかにも中空に取あっか ひ給ふ事のうらめしさなど、書つらねありき。あな、うたての晢 學者よな。 優なるは上田君ぞかし。これも此頃打しきりてとひ來る。されど しやらく も、此人のは一景色ことなりて、萬に學間のにほひある、洒落の けはひなき人なれども、靑年の學生なればいとよしかし。桐一葉 の評かく事をうがりて、かにかくといひわけなどいひ居るも、た かぶらずしてなっかしう見えぬ。されども心はいかならん。かく 言ひ、かく見せて、世にたゝんの人なりや知りがたし。あなどり がたうもあるかな。 おそろしき世の波かぜに、これより我身のたゞよはんなれや。おも ふもかなしきは、やう / \ をさな子のさかいをはなれて、爭ひし まじは げき世に交る成けり。きのふは何がしの雜誌にかく書れぬ、今日 ・ばかり は此大家のしかえ、評せりなど、唯春の花の榮えある名斗うる如 くみゆる物から、淺ましきは、共そこにひそめる所のさま、成 くわほ けり。わか松、小金井、花圃の三女史が先んずるあれども、おく れて出たる此人をも女流の一といふことはゞからず、た乂へても しせい 獪たゝへつべきは此人が才筆などいふもあり。紫淸さりてことし 幾百年、とってかはるべきはそれ君ぞなどといふもあり。あるは すさいきは とっ園の女文豪がおさなだちに比べ、今世に名高き秀才の際にな らべぬ。何事ぞ、をと長しの此ころは、大音寺前に一文ぐわしな らべて乞食を相手に朝夕を暮しつる身也。學は誰れか傅へし、文 さうたんいつけい をば又いかにして學ぶべき。草端の一螢、よしや一時の光りをは なっとも、空しき名のみ、仇なるこゑのみ。我れに比べて學才の きはなみど、ならざりし、さがのやが末のはかなき事、山田の美妙 すうき が數奇の體、あはれ、あはれ、安き世の好みに投じて、この爭ひ に立まじる身、いか斗かは淺ましからざらん。されども、如何は せん、舟は流れの上にのりぬ。かくれ岩にくだけざらんほどは、 引もどす事かたかるべきか。 極みなき大海原に出にけり やらばや小舟波のまに / 、 てい

4. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

ノ 88 しといへども、我みたる所にて、君を置てこれかと見ゆるもなき 成業の曉までの事は、我れに於ていかにも爲して引受べし。され に、君にしてふるひ給はゞ、かならず千載に名をのこして、不朽 共、唯一面の識のみにて、かる事をたのまれぬとも、たのみた りともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでやその一身を の事業たるべしとおもふに、いかで世にたち給はずやとすむ。 こゝもとにゆだね給はらずやと、厭ふべき文の來たりぬ。そもや 歌論もさま , ・「ありける中、げにとおぼゆるふし少なからず。此 かのしれ物、わが本性をいかに見るにかあらん。世のくだれるを 人よろしからぬ人なれど、さすがに一ふしと見ゆる説ども聞ゅ。 しぎみ なげきて、こゝに一道の光をおこさんとこ乂ろざす我れにして、 十五日。師君のもとにて、前田家たのまれの詠草をした乂む。奧方 くるしみ の也。 唯目の前の苦をのがるゝが爲に、婦女の身として尤も奪ぶべき此 とくぼくし てんち・ぎみ の操を、いかにして破らんや。あはれ笑ふにたえたるしれものか十六日。早朝、禿木子來訪。天地君より文あり。花ごもり二度目の な。さもあらばあれ、かれも一派の投機師なり。一言一語を解さ 原稿料送りこさる。禿木君も、學校のいそがしき頃とてはやくか ざる人にもあらじとて、かへしをしたゝむ。 へる。われは小石川稽古にゆく。 ( 以下九行抹消 ) みやけたっこ いりよくけ人まんろく 此日、三宅龍子ぬしより使にて、依綠軒漫録かさる。坪内ぬしょ 一道を持て世にた乂んとするは、君も我れも露ことなる所なし。 りかりたる小説もろとも今宵通讀、一時に及ぶ。 我れが今日までの詞、今日までの行、もし大事をなすにたると見 給はゞ、 ( 四字抹消 ) 扶助を與へ給へ。われを女と見て、あやしき二十日。午後一一時、俄然大震あり。 我家は、山かげのひくき處なればにや、さしたる震動もなく、そ 筋になど思し給はらば、むしろ一言にことはり給はんにはしか こなひたる處などもなかりしが、官省通勤の人々など、つどめを ず。いかにぞやとて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの 中止して戻り來たるもあり。新聞の號外を發したるなどによれ 返事をまっ。 かうちまち ば、さては強震成しとしる。被害の場處は、芝より糀丁、丸の 文を出すの夜、返事來る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉ど くないおにくら 内、京橋、日本橋邊おも也。貴衆兩院、宮内、大藏、内務の諸省 もをつらねたる、今は又かへしせじとて、そのまゝになす。 大破。死傷あり。三田小山町邊には、地の裂けたるもあり。泥 びとまる 水を吐出して、共さま恐ろしとぞ聞く。直に久保木より秀太郎見 かの人丸も、我家を訪ひたり。かゝる人に似合はしからずと見ゅ るは、かへす 6 、我れを浮世の異人なるよしたゝへて、長き交 舞に來る。ついで芝の兄君來訪。我れも小石川の師君を訪ふ。師 君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。床の間の 際を結ばまほしきよしなどいふ。おもしろからぬ者ども也。 ( 四 おほごとなり につくわい 壁落、土蔵のこしまきくずる又などにて、松平家は大事成しと 行半ほど抹消 ) 出づ。この日は田中ぬしが發會なりければ、手傅ふ か。鍋嶋家にて新築の洋館震に逢て、畛貴の物品ども、あまたそ 事多かる身は、朝よりゆく。來會者二十二三人は有けり。人々か こい・て せち へりて後、しばし小出ぬしとかたる。切に歌をよむべきよしすゝ こなひ給ひけるよし。師君のもとには、さしたる事もなかりき。 此夜更に強震あるべきよし人々のいへばとて、兄君一泊せらる。 む。君が業とする著作の事、もとよりあしからず。そはおもしろ かるべけれと 。、小説は、書く人世に猴多かるべし。歌道はしから この夜十時過る頃、微震あり。見舞从の來たりしは、横須賀にて ず。今の此ょに、天然の歌才を得て、一身をこれに打人れて世に 野々宮君、靜岡にて江崎ぬしなどなり。山梨へも見舞の从出す。 なかしま たゝんとする人、かっふつ有ことなし。されば、中嶌の瓧中人多 例の返事はなし。 ことびと

5. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

322 ありげに物語はじめ、心こめて聞様にもてなせど、なにと無く心落 めは姫そを喜び、さらぬも喜べる樣にもてなしが、次にはそを怒 居ぬ様なるを、グルシュニッキは何故ならむと怪むさまなり。 り、遂には共の爲グルシュニッキに怒をうっす様になりぬ。昨日姫 あなあはれなるメリイ姫よ。君が心をば皆よく知りぬ。さきに君がは我にむかひて。君はみづから我よしと思ふ心少き人なり。おのれ 歌を聞かざりしかへに、今我言葉を聞かで、我をきずつけむとなすのグルシュニッキとあるかた、君とあるより樂しからむと思ひ給ふ と覺し。そはいと ~ 難かるべし。若我に戰をいどまば、我はっゅは何故ぞ。我こを聞て、我友の爲には、身の幸をもうち捨てゝ惜か ゆるしなくふるまふべし。 らず、と答へしに、姫、さらば我幸をも合せてなげうたむとし給ふ 此タ我はしば / \ 姫と言葉かはさむとせしが、よろづ冷やかにのみにや、といひき。我はこの言葉を聞て、きと姫の面をまもり、すくよ もてなされて果さゞりき。我は怒りたる様にもてなして引退きぬ。 かなる様してそれよりひねもす一言をもいはざりき。夕暮に姫は物 姫は凱歌をうたひ、グルシュニッキはこれに和したり。 おもふさまに見えぬ。けさ泉のほとりにて相見し時、物思はしげな たゞ歌へ。たゞ和せよ。そは久しき事にはあらじ。我は一目女を見る様はいよゝ蝓れる様なり。我姫にちかづきたる時、グルシュニッ れば、その戀はしむべきこと又さならぬとはとくしるが常なり。 キは姫のかたへにありて、景色のうるはしきをめではやせる様なり 此タ我はヱラアの傍にのみありて、過し昔を物語りぬ。いかなれしが、姫は心とめて聞居るとは見えず。さるに我姿を見るより、姫 ば、我をさばかり思ふらむ。我まことにその故をしらず。この女ほは聲高やかに笑ひて、又目に留らざる様にもてなしつ。我はことさ ど我弱點をも、あしき性をもしりながら、思ひすてざるはいと / 、 ら遠ざかりて伺ふに、姫はグルシュニッキに面をそむけて、ふたゝ 怪しき事なり。人に戀はる又は、かへりてさるあしき所あるけに びまであくびしぬ。思ふにグルシュニッキのいとはしくなりしこと ゃ。 は、はやあきらけし。今二日もたちなば、姫はグルシュニッキと一 我はグルシュニッキと共にかへりぬ。ちまたにてわがかひなをとら言をもまじへざるに至るべし。 へ、しばし物いはで、いかにと間ひぬ。我ロよりは、汝はおろか物さ月八日。 なり、といふ一「ロ葉出むとするを、暫時おさへ、唯肩をゆり動かしゝ 我は折々わが行を怪み思ふことあり。いかなれば我は契結ばんとも のみ。 思はず、また娶らむとも思はざる一人の少女のためにかくまで心づ おのれは一度我企を始めしよりは、暫時も心をゆるさゞりき。メリ かひして、その愛をもとめむとするならん。我行は女の人に媚をも イ姫は我物語を面白く思ひはじめぬ。ある時我過こしかたの物語の とむる様なるは何ゅゑぞ。ヱフアが我を愛ることはいと切にて、メリ 中、いみじう面白しと思はる長ものを、二つ三つ語り聞せしに、そイがいかにつとめたりとて、及ぶ・ヘしともおぼえず。されどメリイ れより後は我を世の常ならぬすぐれ人と思ひ初めたり。我は何事をのうつくしさ世の常ならずば、我行は難きに打かたん爲なりとも思 もいやしみ笑ひ、ことに人情の事をば、いたく嘲りぬ。姫は我を恐はるべし。さるにメリイはさまでうつくしからず。年若きほどは、 れはじめ、我見る前にてはグルシュニッキと人情にか乂はる物語す何故ともわかねど、一人の女より他の女へとつぎ / \ に心をうっし るを、やう / 、いとふ様になりぬ。ある時グルシュニッキが人情に行て、遂に我身をいとふ女にいであひてやむごときことま又あり。 か又はる事いふを聞きて、嘲ける様にほゝ笑むをも見たりき。我はそれより人の戀はかはらぬ様になるものなり。もと戀は一つの點よ 二人の出合ふを見る毎に、ことさらに避くる様に見せて退きぬ。初 り初まりて、きはみなく引たるすぢの如く、とまる事なきをそのひ

6. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

ひつぼく ひとひ が、さる病ひの床に筆を取寄て物書く事一日もやすまず。うせてち難きのまなこをもってみだりに毀譽のことばを出さば、時に冠を の後には庫をもうづめぬべし。かる高名の人のかく世をも思ひす くつにする事あり。このあいだにうまれて此詞に左右さるべき文士 きこえ てながらなからん後の子等の爲にと多くの反古を作り置けんこ又ろ畫客のをかしさよ。人の見るをこのまず、世の聞を願はず、靜に思 人の親のやみならずや。さるにても持つまじきは子ぞかし。あはびを筆墨の間にかまふるもの、又いくたりかあらん。これありては れ、きよくてありぬべき身の終に用なきくるしみをもしつる事よ。 じめて天地しるべく人事うかゞふにたるべし。夜深くして月くら はさう 此人の書のいとうるはしと見ゆる中に、黄金のにほひありなど京 く、ともし火消えんとする破窓のもとに、ひとり思ひて猶ゑがきが わらべのしりう言するを心得ずと思ひつるが、げに心ひかるゝものたし。 せいせう をんなさかく の有つればさぞ有けん、あはれ深かし。 おろかや、われをすね物といふ、明治の淸少といひ女西鶴とい ぎをん こまんぢやや 歌の論をよくする人あり。よろしき歌よみ出る人は少なしとい ひ、祗園の百合がおもかげをしたふとさけび、小万茶屋がむかしを おとむすめ ふ。誠に論の如くこ長ろのとゝのひゆかば、歌はかならずと長のひうたふもあめり。何事ぞや身は小官吏の乙娘に生れて、手藝ったは ぬべし。靜におもひこまかにかんがふるとも、論ぜん爲に論をたてらず、文學に縁とほく、わづかに萩の舍が流れの末をくめりとも日 しん なんはそれ虚論ぞかし。一事一物とてもこゝろにそまりたらば事理日夜々の引まどの烟こゝろにか長りて、いかで古今の淸くたかく新 こきん ふたつなし、もと末何かはわかれむ。 古今のあやにめづらしき姿かたちをおもひうがべ得られん。まして かげき つら之みつねは自然をうたひたる歌人なるべし。景樹を第二の貫や、にほの海の底深き式部が學藝おもひやるま又にさかひはるか 之といふは、そのしらべ人の心をもとゝしてやすらかにすなほにと也。たゞいさゝか六つな長つのおさなだちより誰ったゆるとも覺え けいゑんいっし をしへしによれり。さるも猶そのよめる歌共の桂園一枝などよろしず心にうつりたるもの、折々にかたちをあらはして、かくはかなき こきん きも多かれど、古今の歌どもに見くらぶれば、姿かたちいたくおと文字沙たにはなりつ。人見なばすねものなどことやうの名をや得た りて、餘情などさら′・侍らず。さりともこれをかれにおとれりと りけん。人はわれを戀にやぶれたる身とや思ふ。あはれ、さるやさ はいふべからす。くだりゆくよのならひ、人すなほの心をうしなひしき心の人々に涙をそゝぐ我れぞかし。このかすかなる身をさゝげ て物事たくみになりゆき、われと我本のこ長ろをさへわする長に寄て、誠をあらはさんとおもふ人もなし。さらば我一代を何がための れり。よこぞりてにごれり。ひとり歌の道に古代をとなふるとも此犠牲などことみ、敷とふ人もあらん。花は散時あり月はかくる、時 しゅしゃう 流れをいかでかすまさるべき。世奪ふたゝび世にあらはれて、衆生あり。わが如きものわが如くして過ぬべき一生なるに、はかなきす ひとまる の濟度をなし給はん時、此道の人丸くだりて和歌のながれ、むかしねものゝ呼名をかしうて、 にかへりぬべし。 うっせみのよにすねものといふなるは ある よははかなくてをかしき物也。いさか筆に墨をぬりて、白紙の つま子もたぬをいふにや有らん 上にそめいたせば文といひ歌とよび、おのが心にかなひたらば、やをかしの人ごとよな。 ひにんぜっりん がて非凡絶倫などた又ゆるぞかし。つくる人もとよりこゝろなし、 春のゆふべ、よは花さきぬべしとて人ご長ろうかるゝ頃、三日四 ばかり ほむる物いかでなが又らんや。きのふの歌才は今日の平凡に成て見日のかけ斗に成て一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心い かへるものもなきこそ哀れなれ、凡眼いかで玉石をしるべき。わか とをかし。はぎ / \ の小袖の上に羽織きて何がしくれがしの會に出 ゆき さいど こがね

7. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

しば人に打むかひて、我はこの世にふさはしからぬ身にて、何事やに來る人は、皆病ある人の常とて、色靑ざめ、タ々酒のみに行く人 らん、人に告げ難きくるしさを、思ひ亂れ居れり、と思はせんとしは、すこやかなる人の常とて、つゆ面白からず。女も少しはあれ たる事ありしが、いっしかみづからさへ、誠にかくやと思ふ様になど、語らふべきもなく、皆「ヰスト」の遊びし、衣をいと見苦しく りぬ。此故にこそ、ほこりがにいと厚きしるし付たる、兵卒の外套まとひ、聞も厭はしきフ一フンス語もて物語しぬ。今年こ又にある中 を身にまとひ居るならめ。かくこの人の心の底を熟く知る我なれに、雎一人さるべき人あり。そはモスコオより來れる侯爵夫人リゴ ば、おのれに向ひて、いとやさしげに交はれど、心の中には、忌みウスキと、そが女となり。されど我は交をば結ばず。この兵卒の外 思ふめり。世の人はいと勇ましき兵卒と思ひ居りぬ。おのれも戦の套をまとひては、交らんことおぼっかなく、又交りたりとて、かた にはにて、共様見しことありしが、烈しき聲をあげ、目をいからゐの哀まるゝ如き有様なるべければ。 せ、氷の刄ふりかざして、敵に打かゝりぬ。こは眞のロシャの兵卒かく語らふほどに、二人の婦人泉のかたへたどり來ぬ。一人ははや の勇ましとする所にはあらざるを。 さた過ぎたれど、一人はまだうら若し。二人の面は、かぶり物にお おのれもかの人をば、好ましと思ねば、いっしか爭を起す時なからほはれて、さだかならねど、その衣は、貴きあたりに行はるゝ形し ずやは。そは互にいと / 、危き事なるべし。かの人のコオカスに旅たり。一として身にやくなき飾なく、若きかたは、眞珠の如く、う 立しも、又物語ざまに、打つくろひての事なりき。おのれは思ふるはしくかゞやける水色絹の衣よそひて、項には、かるき絹の巾を に、かの人我家の門を出し時、眉根に皺かきたれて、ほとりに住めまとひ、蚤といふ蟲のいろしたる、うつくしき沓は、やさしく小き る、うつくしき手弱女に打向ひて、いひにけん。我は陸軍にいで、 足を包みたり。おもふに、女の飾のひめ事知らざる人は、此沓のみ 身のなり出んを望みて旅立にあらず。否かへりて、死をもとめにこ を見ても、かならずといきつくなるべし。よしゃ唯うるはしと思ふ そ出行なれ。そが上。といひかけて、掌もて目をおほひ。共ほかの のみにても。あゆむ姿はいと輕く、なよびかに、こめかしく、唯目 我苦しさを、聞玉ふこと無るべし。君がすがやかなる心は、ふるひ にのみ見えて、ロにいはれぬ有様なり。我等の立る前をよぎりし 戦く事もやあらん。さるを語りて何にかせん。君の爲にはおのれは時、共追風は、うるはしき人のもとより送りこせる玉章のごと、え 何ぞ。君は我が心を悟り玉ふや。などと語り續けしならん。 もいはれぬかほりしたり。グルシュニッキ。あれこそ侯爵夫人にて、 又おのれに向ひても、我コオカス軍に入りし故は、後世迄のひめ事そのともなひたるは娘なり。共名を英國ざまにメリイと人に呼ばし なり。我と天との間のひめ事なり、と語りき。この人とても、折々む。この地に來てより三日になりぬ。われ。三日のまに、君ははや は共つくろひまとひし外套を脱捨つることあり。さればいと面白き共名までも知給へりや。かれ。聞ともなしに一と面赤めつ又答へ 人なるに、とにもかくにも、女の前に出し有様の見まくほしゃ。さぬ。又言葉をつぎ。我はかの人々と交らんこと思ひもかけず。か又 泉こそことみ、しくふるまふらめ。 る奪き人々は、我等ごとき兵卒をば、物の數とも思はず。しるし付 浴おのれ等は、互に友だちの間の會釋をなしぬ。やがてかの人に打向たる帽の中にも、才あり、あっき外套の下にも、やさしき心包めり ひ。このいでゆにて、君はいかにして日を暮し給ふや。又こに名とは知らで。聞っゝおのれは打笑みてあはれ、いとほしきは兵卒の 礦知られし人々の來り遊べりや、と間ひぬ。かの人は、といきっきっ外套なるよ。されど今この二人の人にちかづきて、うやうやしく水 つ、我はこゝにて、いとみやびならず日を送れり。朝な / 、水飮み進むる男は誰ぞ。かれ。あれはモスコオの一フェヰッチュといひて、

8. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

プ 7 プ とぶらひをゆるし給へとこふに、更に聞き給ふべきにも非らず。 さらば、せんなし文をだにとせちにいへど、いづれも / 聞き人 れ給はず。こは我が上をおぼし給ふによりてながら、身にあやま ちすべきわれにもあらぬを、などかうはつらうの給はすらん。か しこにもいかにおぼしなやみて、よの中うらめしう、みだる乂ふ し多くおはすらんなど思ひやるまゝに、いと堪がたし。侘てこ れを邦子にはかるに、思ひやりなきにしもあらぬ人は、諸共に涙 さへさしぐみて我が爲かにかくとはかる。わがはらからの、あや すくせ しう、よの中にことなりたる宿世にて、はかなきことにもの思ふ なる、人の上にて見んには、如何かたはら痛からぬ。をさなきょ りおもふこと人にことにて、いさゝかも世の中の道といふことふ み違へじ。よし、人めにはいかに見んとも我れは空にますにこ そとて、千よろづのこがねにも、しき渡すにしきにも心をかけず して過し來ぬるものが、はかなう世にも人にもうとまれぬべき人 の、さりとは知らぬにしもあらで、猶なんわすれがたき。邦子も おなじこと、あるまじきおもひにくるしむ成けり。されども、か たみに、よのつねのいろめかしき方はおもひかけぬ事にて、たゞ 隔てなき心のかはるまじきを願ひ、かく、なやましき事ある折ふ しなど、心の限りの誠をあらはしてんのねがひぞかし。月花の 折々に心をかはし、文にもまのあたりにも、をかしき事いひ交し などの嬉しきにもあらずかし。おなじうはもろ共に涙そがまほ しきを、我とおなじき人しなければ、大空のみにわがおもふなる べし。我がかくおもふ心を人は知らず、只大方の戀と見て、な まをこめかしうもて遊びがほに思ふらんもしらず。そは夫ぞか ぶし。笑はれなんもよし、そしられなんもよし。我が戀の禪は、さ しるいさ又かなるまさなごとにかゝづらひて、圓滿をかくことを惜 しみ給へばなり。もとより戀に圓滿なし。圓滿のなきならねど も、人二人に分ちては、まどかなるべき道理なければ、その人と いふ文字は只捨てにすてつ。天地にみちたる戀てふものゝ、共か たはしを顯はし初たるは、その人をおもふに猶我が恩ある人をお もふに似て、そのもとの忘れがたければ、かくもおもひなやむ成 りとは、折ふし定かにさだめたる我が哲理ながら、さし當りて は、猶よのつねの戀めかしく逢みまほしさなどの時々にしのびが たきぞかし。あはれ / 、書きっゞくるとも、得やはおもふことの べ盡くすべきかは。只ょにをかしく、あやしく、のどかに、やは らかに、悲しく、おもしろきものは戀とこそ言はめ。 まちし花も靑葉に成ぬるときくに、 人の上もかくこそ有けれ大かたの まつははかなきものとしらなん みちのくなる友の、花の頃久しくおとせざりければ、ことさらに うらみ聞えんもなめしけれど、 春がすみ立隔てゝもみゆる哉 いはての山の花や咲けん まふ蝶の袖のうかれ給ふは、ことわりながら、都の花をいかにと だに、の給はぬも情なくこそ。 すみだ 都のはるは、いかにとだに、の給はせぬもことわりながら、角田 あすか 飛鳥の花の爲いとくちをしうこそ。 道もせに咲く花のなかばは、っちに敷きて、雪の中ゆくなどはか かるをいふにや。靑葉に成ぬる梢、わかやかにもえ出たる小草な ど、景色をかしきわたりに、うしかふ家のひろやかなるなドもみ ゅ。田町よりの坂をのぼれば、かの馬琴が八大傳に、丸塚山とか きつる、濱路が最期の場所、めの前にうかぶ心地して、遠からぬ 傅通院の森、小石川の町々只こ又もとにみゆるもをかし。おもふ ことなからましかば、いかばかりをかしからんと思ふも、我が心 からのつれなきぞかし。道ゆく人も我が面て守るらん様に覺え て、只相しれる人に逢はじと斗いそぐ。かの家には思ひかけぬ事 と、只あきれにあきるゝものから、人々うれしげにもてなさるゝ

9. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

の夏子ぬし、さては我母君味などのいへるにも、書たえたる様に するは、いとあしきこと也。共故よし審らかに語りて、得心の上 に交際を斷ぞよきといへるに、我もしかせし方宜かるべしと思へ ば、今日しも人氣なくっゝましきこといふにはいとよき折からな り。我しばしはいひも出ず、うつぶきがち成しが、さりともいは ではつべきならじと、いとせめてものがたり出づ。例しらぬにし まっ もあらぬに、あたら御朝ねの夢おどろかし奉る罪ふかけれど、申 さで叶はぬ事ありて、かくは參り來つる也といふ。君、何事ぞ 何事ぞと間ひ給ふ。いでや我が上の事のみならず、君様の御名も いとをしくてなん。實は我がかく常に參り通ふこと、いかにして 世にもれけん。親しき友などいへば更に師の耳にもいっしかいり て疑はるゝ處かは。君様と我れまさしく事ありと誰も / 、信ずめ る。いひとかんとすれば、いとゞしくまつはりて、此無實の名晴 るべき時もあらじ。我身だに淸からば、世の聞えはゞかるべきに も非ずとおもへど、誰は置きて、師の手前是によりて、うとまれ などせられなば、一生のかきんに成べき。それ愁はしう、と様 かうざまに案じつれど、我君のもとに參り通ふ限りは、人のロふ さぐこと難かるべし。依りて今しばしのほどは御目にもかゝら じ、御聲も聞じとぞおもふ。共こと申さんとて也。しかはあれ ど、我は愚直の性、かならず / \ 受參らせたる恩わするものには すゐ 候はず。かゝること申出る心ぐるしさ推し給へといふ。大人も打 あふぎて、さる事成しか、さること成しか。我は又勘違ひをなし 居たり。お前様、余の男子に逢ふはいや也とつね乙、仰せられし かば、紅葉に對面うるさしとて夫故の御と絶か、さらずば此日頃 の 中島様御中立などにて、しかるべき御縁や定まりたるなんど川村 し しゆったう 記 の老人とも語り居しなり。何はとまれ夫は御迷惑の事出到したる さそ もの哉。我は男の何ともなけれど、お前樣嘸かし御困りお察し申 也。さりながら我は今更に驚きはせず。かゝる事いはれんとは、 かねて覺悟なり。先我を人にしていはせても見給へよ。樋口様は、 つまび だえ おいくら 此頃半井といふ人のもとへ時々に通ひ給ふよし、共男もまだ老朽 たる人にも非ずとか。かつは一人住みにあんなると聞を、とし若 き乙女の故なきにしもあらじと此うたがひ立つは無理ならずし て、何事なき我々二人が無理なるぞかしとて事もなげに笑ふ。さ い・つかた りながら何方のロより世にもりけん。我が友などにも、お前様の こと物がたりたる人もなきに、かくすにあらはるゝが常なればに や、人は我がしらぬ事までしる物なり。されど猶よくおもへば必 竟は我罪かもしれず。先頃野々宮ぬしに物がたりの時、いはねば よかりしものを、我思ふことっみかねて、お前様の事しきりに むこ たゝへつ。何と嫁に行き給ふこと能はぬ御身分か。さらばよき聟 ぎみ 君のお世話したし。我れ何ともして我家を出ることあたふ身なら ば、お嫌かしらず、しひても貰ひていたゞき度ものよなど、我れ 實はいひたり。夫や取あつめて、世にさまえ \ にいひふらすなる べし。今仰せられし様に恩の義理のと、けがにもの給ふな。我は 御前樣よかれとてこそ身をも盡すなれ。御一身の御都合よき様が 我にも本望なり。今よりは、か來我家にお出あるな。さりとて丸 でかげ絶給ふも、少し人目をかしからんに、折ふしは音づれ給 へ。とかくは御一人住みが惡るき也。我いつも申様に、御身を定 - ろし め給ひしかた宜かるなり。今のうき名しばし渹るとも、我も君も 生涯一人にて世を盡さんに、ロ淸うこそいへ、何とも知れた物な らずなど尾びれ添へられんか、しるべからず。お前様嫁入し給ひ しのち、我一人にてあらんとも、哀不びんや、女はちかひをも破 りたらめど、男は操を守りて生涯かくてあるよなどは、よもいふ 人も候はじとてはと打笑ふ。さまみ、の物がたりして、いざや 歸らんといへば、先今しばし宜かるべし、今日は御せん別ぞか し。又いつの日諸共に粗茶すゝり合ふこと有ゃなしゃ期し難き に、今しばし、しばしとてもの語る。此人の心かねてより知らぬ にもあらねば、か様の事引出しつるにくさ限りなけれど、又世に さま、にいひふらしたる友の心もいかにぞや。信義なき人々と

10. 日本現代文學全集・講談社版10 樋口一葉集 附 明治女流文學

229 みづの上日記 かりに我が心中をいはしめ粭へ。かってたけくらべをよみたると き、密かに我れのおもへらく、龍華寺の信如は露件兄にして、田 中の正太は我が兄外、横町の長吉はとりも直さず齏藤のはまり みどり 役なるべく、をどけの三五郞はかく申す拙者、大黒やの美登利は 樋口君と定めき。此わりにてやらまほしきなり。さしづめ我が兄 は團十郞、樋口君は新こまとこゑのかゝる處なるべく、齋藤は菊 五郎の向ふをはり、露件子のやくは故人宗十郞と參るなるべし。 かくてこれをば小説にせずして、芝居になさばと我れはおもふ。 さてはいよ / 、、おもしろかるべしとおのが好きの道にいざなふい とをかし。露件はしばしなりを靜めて、おもむろにいふ。場處など の事も御心にかなひたるこそよけれ、知り給はぬ處にては、情う つらずしてをかしみ少なし、西洋の事は鸛外君うけもち、田舍の てい ことはそれがし書くといふ體ならば、實景實情まのあたりにうか ぶべし。いかやうにも御心ずみのするやう仰せられよ。もとこれ 假の遊戲なれば、書きはじめて後、おもしろからずば半ばにして 筆をなげうつ、誰れかは妨げん、しかも御互ひつひえのたつべき 事にもあらねばといふ。我れ等一同、君に迫りて我がめざましに 無理やりの筆をとらし參らするやうおぼし給はんかしり候はね ど、こと更にさる心得あるにもあらず、同じき業に遊ぶ身の、文 のたのしみを相たがひに別ちもし、知らざるはとひきゝ、しれる は敎へてともに進まばとおもふのみなり。天明のむかし、横谷宗 みんー・ーの兩人、當代の名人、兩關といはれぬるこの人々のむつ まじかりしこと、一つの額を二人の刀してつくりしもの、其ころ の美談として傅へられぬ。もとより人に特異の點あれば、同じ額 を二人してつくる、明かに變りし處ありしなるべし、されども、 そをば人笑はんものか、引かへ用なきひちを張りて、何がし筆と る以上は、我れ何かはといふやうの事あらば、そは區域いと狹く るしく成りて、進歩の道のさまたげなるべし。今、君と我れ等と 相ともに提携して世に出んか、文士の交りはか又る物と世人迷夢 たう やゝはれつ。志しあるものは胸壁をつくらずして、おのづから悠 悠の交りなるべしと思ふ。さまえ、はゞかり給ふ事多からめど、 此義なればとやう / 、とくに、何かはさる處存にも候はず、餘り に筆のをさなくて、御かたみ、と一つ舞臺にのらんこと、いと心 ぐるしければぞといふ。 さうは用なき遠慮にてこそおはせ、我れも、鸛外ぬしも、いかで か卒業の身なるべき。ともに修業の道にあるもの、出來不出來、 そは時によるべし。今のわかさに、さる弱き事にて成るべきか。 うき世は長し、まだ百篇、二百篇の出來そこねこしらへ出ると も、取かへしのつく時は多かるを、一生に一つよき物出來なば、 それにて事は終るべし。弱き事おほせられなととき聞かさる。 此合作出來あがる後まで、世にもらし給ふ事なかれ、うるさき取 さた聞くもあきたり、こしらへあげたる後めざましの別册として 出すもよく、書てんにおくるも、時の都合なり。さらずは、各自 の間におきて世に出さぬもまた自由ぞ、すべて打くつろぎたる事 こそよけれといふ。 こはいと長く物がたりき。このあら筋立ちもせば、又こそ參らめ とて立あがる。かたれる事三時間に過ぬ。これより鸛外君がもと を訪ふとて、三木君ともん、家を出らる。いまだ十間ならじとお もふに、大雨車軸を流すが如く降りくる。 以上、七月二十一日午前のうちした乂む。 二十二日の夜、ふけて正太夫來る。露伴および三木竹一一參上した りし由。めざまし草への寄稿御承諾相成しよしにきけるは誠かと 間はる。いな、取とめたる事にもあらず。例の遲筆なれば、いっ の何號にはなど、さだかに申つるにもあらず。もし書出らるこ とあらば其折にと申つる也。いつの事ならん、いとおぼっかなき 業といへば、いな、書き給ふ書き給はぬにもか又はらす、唯めざ しゃちく