章 - みる会図書館


検索対象: 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學
460件見つかりました。

1. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

65 求安 動かすもなほ足らざらん、鳴呼我を救ふものあらざるか、嗚呼メシ ヤは未だ降らざるか、宇宙は絶望の上に立てられしか、祚は存せざ るか、人は捨てられしか。 よろこびおとづれ 喜の音 失望暗夜に此聲あり、 なんぢらの紳いひたまはく、なぐさめよ、汝等わが民をなぐ わん・こ さめよ、懇ろにヱルサレムに語り之によばゝり告げよ、その服 役の期すでに終り、その咎すでに赦されたり、そのもろノ \ の 罪によりてヱホバの手よりうけしところは倍したりと。 ( 以賽亞四十章一、二節 ) をんな ちのみ・こ 婦その乳兒をわすれて己がはらの子をあはれまざることあら たと んや、縱ひかれら忘るゝことありとも我はなんちを忘るゝこと たなご、ろ きざ なし、われ掌になんぢを彫刻めり、なんぢの石垣はつねにわ が前にあり。 ( 同四十九章十五、十六節 ) 我名を恐るゝ汝らには義の日いでゝ昇らん、その翼には醫す ちから をり をど 能をそなへん、汝等は牢より出でし犢の如く躍跳らん。 ( 馬拉基四章二節 ) あまっ使のつぐるを聞けよ、 "Christ ist erstanden 一 "Freude dem Sterblichen, "Den die verderblichen, "Schleichenden, erblichen "Mängel umwanden 一ご キリストは甦みがヘれり 壞つべきものよよろこべ、 世々死にまとはれて そのとりこたりしものよ。 よき おとづれ 嗚呼如何なる音ぞ、餘り善に過ぎて我は之を信する能はず。 Die Botschaft hör ・ ich wol, allein nur fehlt der GIaube. Goethe's Faust, 765 おとづれ ( 音信を我は聞く、然れども信仰我に乏し ) 此救主とは誰ぞ "The Lord who all our foes o'ercame, Wo ュ d 》 sin and death, and 一】 ell o'erthrow And Jesus is the Conqueror's name. 諸て我等の敵に勝ち、 よみ 陰府と世と死と罪とをば きり從へしものにして その名を耶蘇と稱ふなり。 彼は如何なる生涯に依て此世と我を救ひしや、 われらが宣るところを信、せしものは誰ぞや、ヱホバの手はた れにあらはれしゃ。 かれは主のまへに芽の如く、燥きたる土よりいづる樹株の如 くそだちたり、 すがた われらが見るべきうるはしき容なく、うつくしき貌はなく、 われらがしたふべき艶色なし。 あなど かなしみ かれは侮られて人にすてられ、悲哀の人にして病患を知れり、 また面をおほひて避くることをせらるゝ者のごとく侮られた り、われらも彼をたふとまざりき。 やまひ まことに彼はわれらの病患をおひ、我儕のかなしみを擔へり、 然るにわれら思へらく、彼はせめられ、祚にうたれ苦しめらる るなりと。 かほ イエス のぶ めばえ われら C. Wesley. かたち きかぶ

2. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

6 6 たゞ かれは己がたましひの煩勞をみて心たらはん、わが義しき供 とが はその知識によりておほくの人を義とし、又かれらの不義をお 彼はわれらの愆のために傷けられ、われらの不義のために碎 こらしめ はん。 かれ、みづから懲罰をうけてわれらに平安をあたふ、 きす そのうたれし痍によりてわれらは癒されたり。 このゆゑに我かれをして大なるものとともに物をわかち取ら しめん、 われらはみな羊のごとく迷ひておの / 、己が道にむかひゆけ かすめもの かれは強きものとともに掠物をわかちとる・ヘし、 とが 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ、愆あるものと 然るにヱホ・ハはわれら凡てのものゝ不義をかれのうへに置た まへり。 ともに數へられたればなり、 彼はおほくの人の罪をおひ、愆ある者の爲にとりなしをなせ へりくだ ( 以賽亞五十三章 ) 彼はくるしめらるれどもみづから謙りて口をひらかず、 我此救に預からんと欲せば何をなすべきか、 屠場にひかる又羊羔のごとく、毛をきる者のまへにもだす羊 なんち 主イエスキリストを信ぜよ然らば爾および爾の家族も救はる のごとくしてそのロをひらかざりき。 ( 使徒行傳十六章三十一節 ) ぎやくたい 何故に然るか、 かれは虐待と審判とによりて取り去られたり、 ひとりごたま いけ それ訷はその生みたまへる獨子を賜ふほどに世の人を愛し給 その代の人のうち誰かかれが活るもの又地より絶れしことを なく へり、此は凡て彼を信ずるものに亡ぶること無して永生を受け 思ひたりしや、 ( 約翰傳三章十六節 ) しめんが爲なり。 彼は我民のとがの爲にうたれしなり、 然り人は信仰に依てのみ義とせらる又なり、儀式に依るにあら しぬ その墓はあしき者とともに設けられたれど、死るときは富めず、血肉に依るにあらず、位によるにあらず、學識に依るにあら はづかしめ るものとともになれり、 ず、行に依るにあらず、只十字架の辱を受けしナザレの耶蘇を信 いつはり ずるに依るのみ。 かれは暴を行はず、そのロには虚僞なかりき。 之れ迷信の如くに聞えて眞理中の眞理なり、人の經驗中の最確 されどヱホバはかれを碎くことをよろこびて之をなやました まへり、 實なるものなり、我の此の輻音を信ずるは聖書が斯く云ふが故にあ かく とがさ、げもの らずして我の全性が之に應答すればなり、我の經驗が之を證明すれ 斯てかれの靈魂咎の獻物をなすにいたらば、彼その末を見る ばなり、歴史が之を確むればなり、自然が之を敎ふればなり、 を得、その日は永からん、 然り信仰ーー信仰に依らずして人の救はるべき理由あるなし。 かっヱホバの悅びたまふことはかれの手によりて榮ゅべし。 にムりば あらび

3. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

のろ 非ざるに果を要求して之を與へざればとて詛ひしと云ふは、是れ無 古き日に於けるが如く、 理の要求であって、の子の行爲としては受取り難き節がある。此 先きの年に在りしが如く、 の二の點より考へて此奇跡は解するに最も難い者である。 ヱホバの悅び給ふ所とならん。 おも 〇イエスは如此くして再び現はれて徹底的に殿を潔め給ふ。而して〇然し乍ら難解の主なる理由は之を單に奇跡として見るからであ る。此は奇跡であるよりは寧ろ比喩である。簡短なる奇跡を以て示 彼の初めの殿潔めは此終りの殿潔めを豫表して爲された者である。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 預言は成就されずしては止ない。紳の殿は必ず禪の子に依て潔めされたる比喩である。葉あるも果なき樹は棄らるとの事實を以てし しりぞ て、表白するも實行なき信仰は斥けらるとの敎訓を傅へんとの比喩 らる又に定まって居る。 0 殿潔めは今日の言葉を以て言〈ば敎會改革である。敎會は神の殿である。所謂 acted pa 「 able である。演ぜられたる比喩である。舊 あまた であって、此は地上に在ってはの子に屬する者である。而かも其約聖書には此種の比喩が許多載せられてある。アガポスと云ふ豫言 みこ、ろ 内に在りて彼の聖名のみが稱へられて、彼の聖旨は行はれない。敎者ありてユダヤよりカイザリヤに來り、。ハウロの帶を取り己の手足 あきなひ ぬすびと 會は大體に於て今猶ほ盜賊の集であり、又貿易の家である。之を潔を縛りて、如此ヱルサレムに在るユダヤ人は此帶の持主ち。 ( - ウロ を縛りて異邦人の手に渡さんと曰ひたりとあるは、此種の比喩であ むるの困難は昔のヱルサレムの殿を潔むるの困難と同じである。そ いひかた いくたび して幾回か敎會改革の聲は擧ったが、其徹底的實行は今病ほ行はれる ( 使徒行傅廿一章十一節 ) 。最も力強き言方である。言葉を以て ない。ハッス、サポナローラ、ウイクリフ等が之を試みて敎會の燒するよりも遙に強い言方である。イエスは鉉に豫言者として、此演 殺す所となった。敎會改革は今の時代に於てもイエスの殿潔丈け其ぜられたる比喩を以てヱルサレムの近き將來に就て豫言し給うたの れ丈け無效である。然し敎會改革が徹底的に完全に行はる長時があである。 る。其れは契約の使者印ちキリストが忽然その殿に來り給ふ其時で〇當時イエスの目前に横たはりしヱルサレムは實に葉ありて果なき いちじゅく ある。敎會改革はキリストの再臨を待って行はるゝのである。我等無花果樹であった。ち信仰の外形は盛であったが全然其内容を缺 は其時まで俟てば可いのである。但しイエスに傚ひ、生命を睹してく妝態であった。殿は高く天に聳え、儀式は嚴格に日々行はス一。 つ、しみ あかし 然れども神を敬ふの敬虔なく、人を愛するの愛がなかった。白く塗 黐音の眞理の證明を爲す事を怠ってはならない。 ( 二月八日 ) け′′れ りたる墓の如くに、外は美はしく見ゆれども内は骸骨と様々の汚穢 「「聖書之研究』第二九九號大正十四年 ( 一九一一五年 ) 六月〕 に充ちて居た ( 馬太傳廿三章廿七節 ) 。學者と。ハリサイの人等とは 口には盛に信仰を唱へ、傳道と稱して敎勢擴張には熱心であった 第三回詛はれし無花果樹 が、信仰の根本たる愛と謙遜と慈悲とには全然缺けてゐた。は凡 馬可傳二章一二ー一四節。同一九ー一一六節。 はんさいさ、けの ての燔祭と禮物よりも愈りて己れの如く隣を愛することを好み給ふ 馬太傳一二章一八ー一三節。 とは知りつ、も、ヱルサレムの宗敎家等は禪を祭るに忙はしくして 0 此奇跡はイエスが爲し給ひし他の奇跡に比べて大に異なる點があ隣人相互を愛することを忘れた。ち彼等は葉は繁れども果を留め る。第一にイエスの奇跡は大體に於て生かす奇跡であるに對して此ざる無花果樹であった。斯かる者は長く地を塞ぐべきでなかった。 いらじゅくみの は殺す奇跡である。第二に春まだ早くして無花果樹の實るべき時に斫って棄られ火にて燒かるべきであった。葉は繁りて僞はりの希望

4. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

然るに彼等は懣ない理由の故に之を辭した。辭して或者は田畑に住兩派に取り共同の敵であった。其當時の人に取りて、パリサイの人 いた、或る他の者は商賣に往いた。是れ既に大なる侮辱である。然と ( 0 デの黨とが提携したりとは、今日の日本に於て憲政會と政 るに或者は更に進んで王の使者等を執ら〈、辱かしめ又殺した。 = 友會とが提携したりと云ふ以上の奇観であったらう。然し怪しむに ダヤ人等は天國の輻音を至って輕い懣らない者として取扱った。斯足らず。此世の人等が聖善の主なるキリストに對する時は、常に此 途を取るのである。 くて彼等はの怒に觸れざるを得なかった。「王之を聞きて怒り、 みつぎ 軍勢を遣はして使者を殺せる者を亡し、又其邑を燒けり」とある通〇「貢をカイザルに納むるは善きや否や」と。實に陰險極まる質問 である。イエスを苦める爲の質問として之れ以上の者はない。「善 りの運命に遭うた。民の不幸、王の失望、此上なしであった。 し」と答ふれば獨立を熱望する民を怒らせ、「惡し」と答ふれば叛 〇然し婚筵の準備は既に成った、何人か之に招かれざるべからず。 然れども招かれし者が辭したれば、招かれざる者が招かれざるべか逆の故を以て政府に訴〈らる。民の敵か政府の敵か、イエスは其態 らず。 = ダヤ人が辭したれば異邦人が彼等に代って招かれたのであ度を明かにすべく迫られたのである。恰かも我國の官吏敎育家等が 基督信者を苦しめんとて「基督敎と我國々體との關係如何」との質 る。部ち羅馬書九章二十五節に於て。ハウロが述べし ふみ 問を屡よ提出すると同じく、惡意より出たる質問であった。訷の子 神、ホセヤの書に「我は我民ならざりし者を我民と稱〈、愛せ ざりし者を愛する者と稱〈ん」、又「汝等我民ならずと言はれたならざる我等は此質問を懸けられて如何に苦しめられし乎を知っ りし其處の彼等も活けるの子と稱〈らるべし」と言〈るが如て、イエスの此場合に於ける困難を推量る事が出來る。 〇然しイエスは我等と異なり立派に之に應ずるの途を知り給うた。 し。 彼は質間者に向ひ、彼等が納税用として使用すべく命ぜられし羅馬 との言が事實となりて現はれたのである。 ( 三月八日 ) 政府鑄造の銀貨デナリを持來るべく彼等に要求した。而して彼等に 〔『聖書之研究』第三〇〇號大正十四年 ( 一九二五年 ) 七月〕 之を示して其貨幤に打込まれし像と共周圍の文字との誰を現はす乎 を反問し給うた。而して「カイザルなり」との答を得て之に對して 第七回カイザルの物との物 答へ給うた、 馬可傳一二章一三ー一七節。馬太傅一三章一五ー一三節。 カイザルの物はカイザルに返し、の物は紳に返すべし 路加傳一一〇章一一〇ー一一六節。 と。實に驚くべき言葉であった。反對者は之に對し一言も返す言葉 〇。 ( リサイ派は國權主義の獨立黨であった。羅馬政府の保護の下にがなかった。 〇デナリは羅馬皇帝勅命の下に鑄造せられし貨幤であって、帝國に 存立する ( ロデ王朝に反對し、「國をイスラエルに還さん」と稱し、 の = ダヤ國の獨立を期待したる者であった。 ( 0 デ黨は其正反對であ納むる諸税は凡て此貨幤を以て爲された。是れカイザルの物をカイ 架 字 ザルに返すのであって、帝國の統治を受くる者の何人も爲すべき事 って、羅馬皇帝の權威に賴りて ( ロデ王朝を維持せんと欲する者で あった。故に不斷は氷炭相容れざる黨派であったが、イ = スに對しであった。納税は臣民第一の義務である。故に納視と稱して貢を獻 ては一一黨が結合したのである。此の世の黨派は凡て如此し。彼等は納するのではない。借りし物を返〈すと同然である。カイザルが受 利瓮の爲に相爭ふが故に、利瓮の爲には容易に一致する。イ = スはくべき物を彼に返すのである。服從獨立の問題に非ず、義務實行の

5. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

△△ ある。 〇而して破裂に先立って注意があった。最早敎職に注意するの必要 〇イエスは如何にもして祭司の長並に民の學者等をして御自身に關はなかった。學者と。ハリサイの人等に就てイエスの弟子等に注意す する此事を知らしめんと欲し給うた。然れどもイエスと雖も御自分るの必要があった。人が其罪を悔改めざる場合には、彼に鑑みて其 ばんだね とまは の事は語るに甚だ難くあった。故に間接に、遠廻しに此事に就て語罪を避くるの必要がある。「汝等パリサイの麪酵を愼めよ是れ僞善 なり」との敎訓は此事である ( 路加傅十一一章一節 ) 。學者と。ハリサ り給うた。黐音書の此箇所は此心を以って讀まねばならぬ。 おこなひ みづか 夫れダビデ聖靈に由りて自ら言ふ、「主我が主に日ひけるはイの人に傚ふ勿れ。イエスの弟子たる者は彼等とは全然其行動を異 云々」、此くダビデ自ら彼を主と稱へたり、然れば如何で其裔なにしなければならない。 らんや 〇第一の注意は僞はりの敎師を排斥せざる事である。 と ( 馬可傅十二章卅六、卅七節 ) 。是れ反對者を苦しめん爲めのコ 學者と。ハリサイの人とはモーセの位に坐す。故に凡て彼等が汝 なぞ やすき ナンドラム ( 謎 ) ではない、彼等の平康に關はる大間題である。詩 等に言ふ所を守りて行ふべし。然れども彼等が行ふ所を爲す勿 篇第百十篇の意味の解った者が己と己が屬する國家民族との救ひに れ。そは彼等は言ふのみにして行はざれば也 なんぢ 關はる大間題の解った者である。「爾の清はし給ひし者を識るは是と。敎職は敎職として奪敬すべきである。モーセの権威を以て語る れ窮りなき生命なり」である。「汝等キリストに就て如何に思ふ乎」者にモーセに對すると同じ尊敬を以て對せざるべからす。の言は と。主は今日も我等に此質問を發し給ひっ乂ある。我等は之に對し何人を通して臨むも紳の言である。故に謹んで之に服從すべきで 如何に答へつある乎。 ( 四月五日 ) ある。然れども敎師の行爲に傚ふと否とは我等の自由である。而し 「『聖書之研究』第三〇一號大正十四年 ( 一九二五年 ) 八月〕 て僞はりの敎師の場合に於ては、彼が傳ふる訷の言は守りて其行爲 は傚ふべからずとの敎である。眞に深い智慧のある敎である。敎師 第十一回。ハリサイ人と基督敎會 の行爲を以て其敎を判斷してはならない。イエスの此敎にして服膺 あまた せられんか、夥の敎會騷動はなくして濟むのである。多くの場合に 馬太傅二三章一ー一二節の研究。 くだ 於て最も悪き敎師が最も善き敎を傳へる。水を運ぶ管を飮むのでは 馬可傳一二章三八ー四〇節參考。 ない、生命の水を飮むのである。管の善惡に由て水の善惡を審いて △△△△△ 〇イエスと敎職との衝突に於て彼は最後まで忍耐の態度を取り給うはならない。 おこなひ 。彼等の責問に遭うて彼は飽まで説明誘導の途に出で給うた。彼〇然し乍ら行動は別である。人は何人もの言を受けて之を行動と して現はさなければならない。そして行動に於て我等は。ハリサイの は彼等の亡びんことを欲し給はなかった。故に如何にかして彼等を 6 して彼の誰なるかを知らしめて終に神の子を十字架に釘けるの大罪人に傚うてはならない。彼等は重く且っ負ひ難き荷を人に負はしめ なか 字を犯すこと莫らしめんと努め給うた。然れどもイエスの努力は無效て、己は指一本を以て之を動かさんと爲ない。部ち誡律を下すのみ ちからあた であった。彼は敎職との間には了解の橋を架することの出來ない深にして之を行ふの能力を供へない。爲すべし爲すべからずと命じて みぞ い廣い溝が橫はった。問答は終に破裂に逹せざるを得なかった。而善を爲し惡を避くるの動機を與〈ない。然れどもイエスは斯かる敎 いましめ 師でなかった。彼の誡令は嚴格 . であったが、彼は共れと共に之を行 して十字架は歩一歩と近づいて來た。 をしへ

6. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

プ / 8 破れて禪の御計畫が完然に成ったと云ふのが、第二十章以下、 た。イエスは鉉に弟子等全體の不平を受けたのであって、其不平は すぢがき 卷末に到るまでの筋書である。 彼の死ぬる時まで續いた。其意味に於てイエスに叛きし者はユダ一 〇我等は之に由て何を學ぶ乎と云ふに、我等にも亦禪の御計書が成人に止まらなかった。弟子全體が反逆者であった。「弟子等之を見 るのであって、人の計書が成るのでない事を學ぶ。の善き聖旨はて怒を含み」とある。彼等はマリヤの行爲に就て憤慨した。然し乍 日常の人事に於て行はれつ長ある。我等各自にも亦、同情者のマリ ら實はマリヤの行爲を憤ったのではなくして、彼女に之を爲さしめ ャもあれば反逆者のユダもある。然れども「凡ての事は禪の旨に依しイエスの行爲を憤ったのである。弟子等はイエスに對する不平を りて召されたるを愛する者の爲に悉く働きて益をなす」とあるが弱きマリヤに向って發したのである。 館くに、我等にも亦、味方も敵も悉く働きて益を爲すのである。我〇而して憤慨の理由はまことに尤もらしくあった。「若し之を賣ら 等は沖を信じて少しも懼るゝに及ばないのである。 ( 十一月一日 ) ば多くの金を得て貧者に施すことを得ん」と云ふのであった。自分 「「聖書之研究』第三〇五號大正十四年 ( 一九二五年 ) 十二月〕 等が得んと欲するのではない、貧者に施さんと欲するのであると。 彼等が貧者を思ふの情はまことに切なりと謂ふべしである。然し乍 第二十回離叛の第一歩 ら是れイエスに對する大なる侮辱であった。イエスは貧者の爲を思 ひ給はざりし乎。彼は此時までに幾度か貧者を顧み給うたではない 馬太傳一一六章六ー一三節。馬可傳一四章三ー九節・ 乎。貧民救助の事に就て彼は弟子等の敎を受くるの必要は少しもな 約翰傳一二章一ー二節。 かった。然るに共心に於て既に共師より遠かりし弟子等は強に此事 〇馬太馬可兩傅の記事は約翰傳の記事と併せ讀むべきである・約翰に關しイエスに缺點ありと思うた。憐むべし彼等は幅音の眞理を解 傳に由れば、病人シモンの家に於けるイエスの招待會に於て、マ せざりしが故に、名はイエスの弟子たりと雖も、實は彼の敎師とな ルタ、マリヤ、ラザロの兄弟姉妹の在った事、又イエスに膏を注ぎ り其批評家となった・イエスは高い嚴しい道徳を説き給ひしと雖も し者のマリヤでありし事、又此事に關しイエスに對する弟子等の不道徳の敎師でなかった。彼が聖い道徳を説き給ひしは罪の赦しの輻 平の主唱者がイスカリオテのユダでありし事が明かである。又香油音を説くが爲であった。弟子等はイエスに従ふ三年にして此事を充 は三百デナリの價値あるものであったとの事であって、今日の時價分に解し得た筈である。然るに惡魔は先づユダの心に入りて彼を欺 に積りて九百圓程の品であったらう。婦人の嫁人支度として共兩親き、彼を通して弟子全體を欺いた。輻音の信者たる・ヘき弟子等は より受けし最大價額の品であって、之を此際マリヤがイエスに注ぎ道徳家に成った。是れ彼等に取り明白なる墮落であった。そして道 しは、彼女として爲し得る最大の奉仕であったのである。まことに徳家に成った彼等の眼にはイエスの缺點が見え出した。然り缺點な 在った事實の有の儘の記事であって、之に疑を挾むの餘地がならざるものが缺點として見ゆるに至った。道徳は善きものであるが 篇音は道徳よりも善きものである。音信者が道德家に成りし時に 〇鉉に注意すべきは、イエスに對する不平を漏らせしはユダ一人に彼は墮落の第一階段を降ったのである。そして多くの場合に於て之 、、ぞこ 乙△△△ 非ずして、弟子等の多數又は全體であった事である。不平はユダに を第一歩として墮落のどん底にまで降るのである。ユダの場合がそ 由て釀されし者ならんも、之を感ぜし者は彼れ一人に止まらなかつれである。私は私の生涯に於て同じ實例を多くの我國の基督信者に さしはさ あぶら

7. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

ぬすびと かねいれも ろび が如此言へるは貧者を顧ふに非ず、竊者にて且金嚢を帶ち其の中に である。そして人に此心が殘りて彼は終に滅亡に住かざるを得な 入りたる物を奪ふ者なれば也」との言は多分後世の記入であって本い。人になくてならぬものは敎へられんと欲する心である。ユダに 文に屬すべきものではあるまい。ユダは愛國者であって、人類の友此心が無った、故に彼は滅びた。他の弟子等に此心があった。故に であり、イスラエルの復興に由て世界の平和統一を期した者であっ誤謬の中より救出されて、永生の幸輻に與る事が出來た。 たと思ふ。然るにイエスが此理想に副はざるに失望して、かの恐る〇近代人は如何 ? 自己を信するの強きが共特徴ではない乎。敎へ あやまち べき過失に陷ったのであらう。彼が必しも悪意を以て彼の師を賣り られんと欲して師を求めず、自己の思想の實現を期して彼に到る。 たりとは思へない。彼は或は心の中に獨り言うたであらう「我れ彼其點に於て彼等はユダと同じである。そして彼等の最後も亦ユダの を彼の敵に渡して或は彼の最後の決心を促すに至るやも知れず。彼それと異ならない。彼等は自分の理想の實現を他に於て見んと欲し は屡よ奇蹟を行ひたれば、奇蹟を以て己が身を救ふであらう。彼をて、失望悲憤の中に共一生を終る。彼等は自分を信する事餘りに強 危險に導くも危險が彼の身を害ふの虞はない」と。彼はイエスに失 くして、他人の思想の自由を重ずるの餘裕さへない。萬事を自分の 望せしも最後まで彼を信じたであらう。然るに事の成行は彼の想像思想に依て行はんとする、故に事に當って碎けるのである。我等す に反し、終に髑髏山上に彼の先師の十字架に懸るを目撃して、彼は べてにダビデの謙遜がなくてはならぬ。曰く「ヱホ・ハよ、汝の大路 みやなげすて 失望の上に更に失望を重ね、イエスを賣りし銀三十を殿に投棄て、 を我に示し汝の徑を我に敎へ給へ、我を汝の眞理に導き給へ。汝は くび ひねもす 其處を去りて自から縊れ死んたのであらう ( 馬太傳廿七章五節 ) 。 我が救のなり。我れ終日汝を俟望む」と ( 詩篇廿五篇四、五節 ) 。 〇然らばユダの罪は何處に在った乎。それは彼が餘りに強く自己を正直であり誠實であるばかりでは足りない、碎けたる心の人と成ら 信する事に在った。彼は最後まで自己の思想を變へ得なかった。共ねばならぬ。ユダはイエスより直に敎を受けて終にコンポルション 點に於て彼は他の弟子等と異なった。イエスを初めに誤解せし點に ( 心の改造 ) の經驗を有たずして終ったのである。彼は信仰的流産 於て十二弟子等は皆な同じであったが、ユダを除く外は、イエスの の悲しむべき實例である。 ( 三月二日 ) 「「聖書之研究』第二八五號大正十三年 ( 一九二四年 ) 四月〕 敎訓に順ひ、徐々と自分等の誤り居るを悟り、イエスの思想を以て 自分等の思想と成すに至った。然るにユダ一人には此轉換の能力が 其二イエス對ユダ なかった。彼は自己を信ずる事餘りに強くして、最後まで自己の意 馬太傳一一六章。同二七章一ー一 0 節。 見を押通した。彼は「救拯は斯くあらねばならぬ、メッシャたる者 ヨハネ傳一三章。 は斯く爲さねばならぬ」と信じて、寸毫も共信仰を變へなかった。 其他四輻音書に散在するユダに關する記事を參照すべし。 徹底と云へば徹底である。然れども頑固と云へば頑固である。西洋 の の諺に「智者は變はる」と云ふが、ユダは共意味に於て智者でなか〇我等は前回の講演に於てユダのイエスに對する態度に就いて考へ 字った。彼はイエスの許に來って、イエスに敎へられんとぜずしてイ た。今回はイエスのユダに對する態度に就いて研究せんと欲する。 もた エスを以て自己の思想を實行せしめんとした。是れ彼の陷りし最大我等何人もユダたり易く、又何人もユダを持せらる。我等ユダたら もた あやまり の誤謬である。そして從順ならざる徹底は大なる罪悪である。徹底ざらんと欲して努めねばならぬと同時に、又ユダを持せられし場合 さと みあし と云へば立派に聞えるが、共源は傲慢である。自己を慧しとする事には主の御足の跡に從ひて試みられて罪に陷らぬゃう努めねばなら おも いかに みち まこと おら

8. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

いねたるものよ目を覺して死より起きょ 敎を調査せし結果斯の如し。彼等は確かにキリストに事せり。又 基督汝を照さん 基督を讃美するに歌を謳ふの習慣もありき。ポリカルプが、基督の と見ゆる如きは洗禮の際に歌ひし聖詩の一部分なるべし。是れ甚 ために光榮ある證死を遂げしは世人の熟知するところなり。其の祈 だ信じ易き推測なり。以弗所書四章に、 りと稱するもの今日に傅へらる。史家の信を置くに足ると做すとこ みたま なんち 體は一つ靈は一つなり、 ろなり。日く我爾を讃美し、爾を祝す。我永在にして、天に在す祭 をさ 爾曹の召れて有っところの望の一つなるごとし 司の長耶蘇基督、爾の愛子に由りて榮光をに歸す。今も後も世々 主一つ信仰一つバブテスマ一つ 永遠に至るまで彼及び聖靈とゝもに爾に榮光あらんことを祈ると。 なかば 紳すなはちすべての人の父一つなり 而して使徒信條の過半は第一一世紀の中半頃既に羅馬信條のうちに包 彼はすべての人の上にありすべての人に貫きすべての人のうち 含せられたるを見る。羅馬信條は洗禮の時に用ひられしものにて、 にあり 其の基督に對する信仰今日の使徒信條と一致せり プリニイの書翰に基督を讃美する歌云々の語あり。基督に向ひて とあるも亦當時敎會に用ゐられたる讃美歌の類なるべしと想像す 歌を唱ふるは、敎會最古の習慣にてありき。其の淵源を推し尋ぬれるを得べし。 使徒時代の敎會は基督に讃美せり。然かも肉體となりて顯はれし ば、既にして使徒時代に入りしを覺ゅ。前テモテ書三章十六節に日 、榮光の中に擧げられし基督を讃美せり。彼らは基督に照されて なら 肉體となりて顯はれ 罪より目を覺しぬ。彼らは基督を父なると併べて之を稱揚せり。 みたま けが ヤコプ書に曰く、彼らは爾らの稱へらる又ところの美き名をすも 聖靈に由りて義とせられ 天の使に見られ のにあらずや ( 二の七 ) 。。ハウロが昔し基督を罵りしは、取りも直 がいたう 異邦人のなかに宣べ傳へられ さず之を謗濡せるに該當すと考へられたり ( 前テモテ一の十一一 l) 。 けが 褻すとはに對するの犯罪を云ふなり。 世の人に信ぜられ 榮光の中に擧げられたまへり 耶蘇日く、父よ我靈魂を爾の手に委すと。ステ。ハノは日く主耶蘇 此の一節は自から韻文の體を具ふるのみか、之を六句に分てるなよ我が靈を受けよと。ステパノは明かに基督に祈りしものなり。宛 けい けた ど、蓋し基督敎徒の間に用ゐられし讃美歌若しくは告白文の一節をかも耶蘇が十字架上に於て父に祈りし如し。ヘルマンが「との契 がふ 合」に於て基督に祈りを奉ぐるを危疑み、ユニテリャンの徒が之を 業引用せしものならんとは、或る學者等の語るところなり。 事ヱペソ書五章の十九節に、互ひに詩と歌と靈に感じて作れる賦と爲すに躊躇せるにも關はらず、基督敎徒は早くより基督を禮拜し、 そ を以て語りあひ、又歌ひて爾らの心に主を讃美すべしとあり。基督且っ之に祈りたるなり。ヨハネが天使の足下に俯伏して拜せんとし 督 を信するものは、早くより其の充ち溢れたる靈的經驗を詩的に述べけるとき、彼は儼かに之を推し禁めて曰く、爾たゞ禪を拜せよと。 いづく て謳歌するの必要を感じたり。焉んぞ知らん、。ハウロの如きは大い然れども耶蘇のまへに禮拜を爲すに當りては何らの仔細もなかりし もくしろく あらざ となへ 四に之を稱道し、好んで聖歌を唱し一人に非るを。現に此の章の十四なり ( 默示録十九の十。五の八以下 ) 。舊約聖書に見えたるヱホ・ハの 3 禮拜は、少しも其の意味を變ぜす共の内容を減ぜずして耶蘇の禮拜 節に此の故に言へる言あり、 えんげんお おごそ あやぶ の、し びれふ

9. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

なきに非ずと雖、此は乃ち彼が如何に雄渾偉大なる思想を有したる而してゲーテの人生観を知らんと欲すれば、共の傑作たる『ファウ かを示す所以に非ずや。而して「ディヴィナ・コメディア」と言ふ スト』を熟讀して、概ね共の欟察の立場と歸着とを察知するを得べ は、共の聖にして敬虔の文字なるを以て、後世之を奪んで「ディ ヴィナ」の字を加へたるのみ。此の書、章を分っ事百、首の三十四 『ファウスト』の主人公即ちファウストは、博學多才の紳士にし 章は地獄の記事にして、次の三十三章は練獄の記事、終の三十三章て、哲學に詳しく、政治に通じ又學に明かに、宛然ゲーテ自らを は印ち天國の記事なり。地獄は彼が嘗め盡したる凡ゆる苦き經驗以て擬するものに似たり。されど彼は一朝人生間題に接觸して以 を、沈痛嚴正の筆を揮って敍し、悲愴阻、坐ろに、讀む者をして戰來、疑は疑を生み、惑は惑を來らし、懊惱煩悶、更に平和を得ず、 慄して恐懼の念に堪〈ざらしむるものあり。練獄はち假令忍び難絶望の極自ら毒杯を取りて、「平和此の中に在り」と稱し、已に自 き悲慘の身となり絶望の淵に沈む事ありとも、若し鍛錬の功を積む殺を覺悟したりしが、時恰も基督の復活節に際せしかば、遙に幼兒 時は遂に天國に上るに足るべきを書き、最後の天國に於ては完全なが愛らしき聲立て、「 Ch ( オ ( erstanden 」と餘念なく讃美する る人間の住する所の光景を歌へり。 を聞き、自殺をば思ひ止まりたり。されど又程もなく惡膕來り誘う 彼はエマルソン等の如き樂天家に非ず。人生の行路は苦痛と悲哀 て日く「汝徒らに思ひ惱めり、戀の味を知れよ、さらば汝の心一變 とを以て迎へらる又事を知れり。されど靈性上の經驗と信仰上の鍛して萬事悉く新なるに至るべし」と。彼此處に於てか悪匱の敎ふる 錬とによりて、遂に地獄の苦より天國の幸に導き行かるゝ事を認め所に從ひ、處女マーガレットと情を通じて共の純潔を汚し、更に甚 たり。自ら平隱無事なる生涯を送りて樂天を歌うたりとて、余輩の しきは女をして共の母を殺さしめ、自らは二人の戀を妨ぐるの故を 決して感服する所に非ざれども、彼が自ら悲慘の生涯を通り扱け、 以て女の兄を殺せり。後女は捕縛されて市中を引廻され、遂に重罪 初めて世は實に地獄なり、されど又彼邊には天國ありとなし、以て に間はれて死刑に處せらるゝに至る。ファウストは斯る殘忍なる罪 共の平和、共の光明、共の快樂を讃美し、凱歌を奏して基督と共に 悪を犯し、Ⅱつに絶なる情婦の最後を見たりしも、自らは幸にして 「我已に世に勝てり」と言ひ、保羅と共に「の智識は大なる哉」共の禍を免れ、續いて國務大臣の榮譽を擔ふ身となり、或は美術を と嘆美し、ウォルヅウォルスと共に「我は塵埃より出でし者なれど 評し、哲學を論じ、頗る幸幅にして平になる生涯を送り、老後住年 も、苦境悲遇また音樂なり」と歌へるに至っては、余輩共の人物のを回顧して一つの善事をも成したる事なきを見て嘆息し、之が爲に 偉大なるを感ぜざるを得ず。 死を見る歸する如き感懷を有する能はす、此に於て一大工事を起し せうたく ダンテの生れたるは千二百六十五年なり。故に我邦に在りては文て、沼澤の水を排して、公益に供し、以て一功績を世に留め、軈て しつけん 永三年、賑 ( 小の鎌倉に執權たりし頃にして、日蓮正に共の事業自らは病を得て隔世の人となれり。死後惡群り來りて彼の靈を奪 を終らんとせる時、元の水師が九州に襲來せる五六年の以前なり。 ひ去らんとす、されど天使拒んで之を許さず、終生善行を勉めたる 而して彼の死は恰も後醍醐帝の御宇の頃なりとす。 者なれば、必ず共の報を失はずと。遂に携へられて天國ち所謂 ェビゲヴァイ・フリツへ 「永遠に婦人らしき』所に人るを得たり。之を有名なる『ファウス 余輩は一歩を進めて、是よりゲーテの人生觀を論評すべし。ダン ト』の筋書なりとす。 テは中古時代の辯護者にして、ゲーテは卲ち近世紀の辯護者なり。 而して之をダンテの念と相對照して考ふれば、頗る其の傾向を

10. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

世の所謂幸なる生涯、之れ皆な盜む生涯である、我等は今日直にれたる證人のみならず今日我等各自が亦其の適用の下に於て在る、 我等は果して隣人を裁判かない乎、又は共の裁判かるゝ時之に對し 之を廢すべきである。 ( 十一月九日 ) いつはりあかし て虚妄の證を立てない乎、日々の新聞紙上に現はるゝ一人の人物を 捉 ( て幾千の人々が裁判を下しつ、ある、又は共裁判に參加して毀 十誡第九條 譽褒貶種々なる證を提供しつ・ゝある、加ち我等各自が日々裁判官と いつはりあかし なり證人となりつゝある、殊に昔日平民は諸侯士族等を裁判く能は 汝其の隣人に對して虚妄の證據を立つる勿れ。 此誡は本來裁判所に於ける證人の責任に關する者である、住時ざりし時代と異なり今日文明の世に在ては何人が何人を裁判くも全 ユダヤに在ては裁判共他公事の決定は常に城邑の門の處に於て行はく自由なるが故に至る所に於て各種の裁判又は立證の盛に行はれつ つあるを見る、此時に當り「汝その隣人に對して虚妄の證を立つる れた ( ルツ記第四章參照 ) 、而して事件に關係ある者は證人として 共處に呼出され之等證人の言に由て裁判の判決は下されたのであ勿れ」との古き誡めを我等の普通道德に適用せん乎、乃ち其意咊す △△△△ム△△△ る、從て證人たる者の責任は甚た重大であった、彼等にして若し僞る處は「人を議すること勿れ」と言ふと異ならない、更に之を約言 △△△△△△ 證を爲さん乎、無辜の隣人をして重き罪に陷らしむるの虞があっすれば悪評する勿れである、隣人の名を捉 ( て之を悪評する勿れで た、故に十誡第九條は隣人に對する義務の一として特に證人たる者ある、然らば何人か敢て「我は此罪を犯さず」と言ひ得る者がある の責任を誡めたのである、日く「汝その隣人に對して虚妄の證據を乎、言を以て隣人の名を傷くるの罪、之を誡めたるものが十誡第九 條である、而して之れ今日に在て最も普通に行はるゝ罪である、何 立つる勿れ」と。 此意味に於ける僞證の實例は聖書中諸所に之を發見する事が出來人も自ら辯護する能はざる日常の罪悪である。 何故に惡評は罪である乎、何故に人を議するは悪しき事である 0 0 0 0 0 0 る、馬太傳第廿六章五十七ー六十八節はイエスに對する僞證の記事 である、「多くの妄りの證者來れども亦得ず後また妄りの證者二人乎、其理由の説明は必ずしも容易でない、然しながら一度び此の罪 みやこに の行はれざる社會に往いて見て其大なる罪悪たるを認めざるを得な 來りて日ひけるは、此人先きに言へる事あり、我能くの殿を毀ち い、恰も禁酒の嚴守ぜらる社會に入りて初て明白に飮酒の罪惡を て三日の中に之を建て得べしと云々」、此場合に於て彼等が立證し たる言共ものは虚妄に非ざるもイエスの之を發したる眞實の意味を感ずるが如くである、曾て英國某紳士が曰うた事がある「余の生涯 以てせず、全く別個の精訷より出でたる語として之を引用するが故中他人に惡評を下せし事一二度あり、之を思ふ毎に堪 ( 難き苦痛を に亦事實を誣ふる僞證たるを免れない、共他使徒行傅第六章第八節感ず」と、此人の如きは他人の惡評を口に出さんとするも恰も盜ま 誡以下はステ。 ( ノに對する明白なる僞證にして列王紀略上第廿一章五んとするの心を起すが如く堪ふる能はずして之を抑止するのであ のー十四節はナポテに對する明白なる僞證である、彼等妄の證人はる、斯の如き人の前にありては何人も他人の悪評を憚らざるを得な い、美はしきは斯かる惡評の行はれざる社會である、之を去って普 0 0 0 0 0 一何れも其悪むべき僞證に由て隣人の生命を奪ふに至ったのである。 共の直接の目的は古代に於ける = ダヤの法律を維持するにあっ通の社會に入らん乎、悪評又悪評殆ど聞くに堪〈ない、何そ知らん あかし た、然しながら此誡の精訷とする所は畢竟隣人に對して誤りたる證人を惡評するはち自己を悪化する所以なるを、人を議するは印ち を爲さゞらしめん事にある、此意味に於て惟り = ダヤの裁判に招か自己の議せらるゝ所以なるを、試に次の安息日迄一回も他人の惡評 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0