0 5 いや 余は安心術として慈善事業の無益なるを悟れり、否な無效なるのれり、如何なる卑しき職に就け玉ふも余を傅道師となし玉はざらん みならす余は一層余の缺點を摘示せられ、尚一層の懼怖を抱き、前事を、余は勿論如何なる位置にあるとも輻音を宣べ傅ふる事は怠ら ざるべし、基督信徒たるものは一人として傳道の義務を避くるを得 日に勝りて心靈未來の危險を感するに至れり。 あんしゆれい す、然れども自ら俾道の職を取り、按手禮を受け、洗禮結婚の式を Where wouldst thou fly 7 To works ( 0 empty forms つかさど 主り、 Rev. ( 敎師 ) の名稱を以て余の名を冠せらるゝに至るは余 「 ith thy dove wings 7 みぶるひ は考へても戰慄する程なりき、よし余は車夫とまで下落するとも傅 「ーーー these give shelter fro m eternal sto rm s 道師にはならじ、の榮光を顯はさんが爲には他に途なきにあら These poor dead things 7 ず、ーーー傅道師、傅道師、 鳴呼若し飾余に命じて俾道師たれと 衾 working 「 ers 「 ith a VO 】 ce severe, 言はゞ余は如何すべき。 ・ Turn back, mistaken soul! Rest is not here 一 なるべくた 故に余は可成丈け傅道師仲間と交際を避けたり、而して若し人あ Henry Burton, in Sunday Magazine. くわうげん たま いづこ はね りて余に傳道師たるべきを勸むるものあれば余は荒言を以て彼に答 羽翼あらば何處に飛ばんわが魂よ、 とろ まんかう へ、此職に對する余の滿腔の嫌惡を吐露せり、彼等は聖書の語を引 事業へ乎、心よりぜぬ事業へ乎。 はたらき はたいろづきかりいれどき かりいれもの 用して言へり、曰く「田は熟て收穫時になれり收稼は多くエ びと 人は少し」、我國今日の急務として傳道に勝るものなし、我等信徒 永久のあらしはこに吹かぬかや、 たるものは何事を捨て、も傳道師たるべきなりと、余も傅道の急務 事業には、死せるうはべの事業には。 いはゆる なるを知れり、然れども彼等の所謂職業的の傳道に至ては余は少し けふあい も共急務たるを見る能はざりしのみならず、反て彼等の見解の狹隘 恐るべき聲もて事業答へける、 たま なるを歎ぜり、殊に壯年の男子にして學未だ修まらず經驗未だ積ま こゝになし、まどへる魂よこ長を去れ。 ヘンリー・ ざるものが早く已に衆人の傳道師となり、妻を娶り子を擧げ老成人 に類する生涯を送るを見て余は益よ傳道師てふ人士の卑しむべきを 知れり 脱罪衛其五學研究 余の傳道師たるを厭ふは此に止まらざりしなり、余のる所によ つひ やすき 平安を慈善事業に於て得る能はずして余は終に極端手段を取らざれば是等人士の多くは外國傳道會瓧又は歐米宣敎師に依て衣食する おそ ものにして彼等の風采も亦自ら非日本的なり、よし金銀は萬國の共 るを得ざるに至れり、余は事終に鉉に至らんことを懼るや久し、 然れども今は雎一途余の方向として存するのみ、聞ち身を傅道界に有物なれば彼より之を受くるも不德にはあらざるべけれ共、我國固 まね 有の習慣と感情とを放棄して西洋人を眞似んとするに至ては余の堪 投じて訷の祝輻を需めんとするにありき。 そうりよ 凡そ世に嫌ふべきもの多しと雖も僧侶の如きものはなし、余の基ゆる能はざる所なりき、その夫婦の關係たるや傍人をして夫の妻た 督敎に入るや第一の煩慮として存せし事は余も終に牧師傅道師 ( 基るか妻の夫たるかを判別し能はざらしむ、その子は父を。ハ。ハーと呼 督敎の信侶 ) とならざるを得ざるに至らん乎にありき、余は訷に祈び母をママーと云ふ、其他余輩大和男子の目より以てすれば實に忍 とこしへ はんりよ こ、 か おそれ ハートンの歌 0 やまと かへつ ばうしん めと みち
今や非常に我輩の傅道に勉勵するのときなり。十六年五月の此の 一週間は非常の時なり。大阪宣敎師の集會あり。又此三月以來横濱、 東京、安中の諸敎會には特別に聖靈の降臨あり。罪を悔い主に隨ふ もの百を以て數ふるに至るの際に當り此の大親睦會を開くに至りた われら るは、決して偶然にあらず。在天の父の特別に我輩に賜ものある べしと確信す。東京を動かすは大切。東京に大學を立つも必要。此 専道の維新とすべし。 時を以て我國イ、 張 皇國會開設前に五千の信徒、一年に二人づ長導かば開設の年には三 督千二百八十萬五千人は信徒となる。今東京にある二千の信徒、年二 人づ、導かば六年をですして東京の人民は皆信徒となるべし。此事 難事か、のカ、聖靈の助を受けば事成るべし。 7 3 東京を動かすは大切。東京の兄弟、我輩を先導し賜へ。我輩地方 より來るもの共、今回此の精を振ひ興し、地方に互に主の御國を る事を論じたるものなれば、予の傅道論は之を以て盡きたりとせず。 只だ傳道に必要なる手段を論じたるなり。此の三つの手段は恰も一一一來らす爲に働かば、地方を動かすも亦容易なるべし。人に於て難 し。に於て難事にあらず。 軍の如し。直接傅道は中軍。新聞雜誌著書と學校とは左右翼なり。 ジョン・ノックスの祈り「スコット一フンドを吾に與〈よ」と。我 是は平時の戰の用意なり。以上のものは傅道の手段の梃子の如し。 輩今回、此の大親睦會に臨み、實に傅道の必要なるを感じ、我が日 梃子あるも支點なければならず。その支點は靈のそゝぎなり。 乍」去危急の場に至れば、必らず他の力をからざるべからず。昔本を基督の爲に我輩に與〈よ。我が同胞を天國の民とせよ。 ロシャのセバストボールの戦ひに於ては、婦人も子供も出かけ土足 となりて砲臺を築きしことありと。今日は我邦の傅道に於て非常の 時と見做さゞるを得ず。を知らずを聞かざる三千萬餘の的あ り。祁の爲め之を射落さねばならぬ時なり。故に學不學、才不才、 貧富貴賤、老幼男女を論ぜず、皆盡く基督の兵丁となり、此の戦を 爲さば、大敵を降伏せしむるは決して難事にあらざるべし。 兄弟よ、此の道なくんば、我同胞三千萬餘は罪に死す・ヘし。此の 生命の。ハンを食ひ、生命の水をのまざれば、彼等は飢渇に死すべ し。
51 求安録 ぶべからざるの妝態を目撃せり、さなきだに基督敎は外敎なりとの 禪學校 故を以て我邦人の厭ふ所たるに、今や基督敎傅道師日常の有様は余 あと 輩をして基督敎とは實に亞米利加敎を云ふにはあらざるかの疑念を 今は俗界を後に置き、世に屬する希望と功名心とを斷ち、余の魏 起さしむ、余は基督敎の原理に服せしのみにして其今日歐米に行はを救はんが爲めに、御の惠にあづからんが爲め、余は紳學校の一室 るゝ外形上の組織に感ぜしにあらざれば傅道師てふものを見るに多に閉籠り、祈疇と斷食とに依りて單に人生の最大幸輻を得ん事を勉 少攘夷的の調念を以てし、時に或は國賊視する事もなきにはあらざめたり、勿論今日の學校は中古時代の寺院にあらす、體操場あ りしなり。 、浴場あり、文明世界の快樂にして害なきものは一つとしてその 然れども余の心中又理想的の傅道師を存せり、余は或る意味より 生徒の達し得べからざるものはなし、故に余はサポナローラがポロ 言へば保羅もルーテルもリビングストンも傅道師なりしを知れり、 グナ府「ドミニカ」派の寺院に於ける如き、又はルーテルがエヤフ 故に若し傳道師たれとの天命降るとも余は逃げ避くべきロ實を有せ ルトの「アウガスチン」寺院に於けるが如き辛苦は一つも受けしこ ざりしなり、然れども世間より見れば傳道師は傳道師なり、而してとなし、否な余が慈善病院に於ける生涯と比較するときは安心快樂 しうみ 最多數の傅道師が余の非理想的傅道師たれば余もその臭味を以て世なるものなりき、實に學校に人てより先づ第一に余の注意を惹き おそれ に待遇せられ又終には之に感化さる、の恐あり、に對して避くる し事は共生徒の樂すぎる事なりき、實業學校に於ける一週三十四時 にロ實なく、余の全身全情は之に反し、余は實に正反對の主義を有 間の授業時間は學校に於ける一一十時間以下となり、慈善病院に於 なつやすみ する二人の主に苦しめられたり。 ける一ヶ月間の夏期休業は學校に於ける五ヶ月間の夏期閉校とな 余は思へらく余の平安を得ざるは余が傅道師たるの決心を爲し り、共他學資支給の點に於ても、又は業を終へて後職にあり就く點 得ざればなりと、は私慾の痕跡だも余の心中に存するを許し給 に於ても、余は學生たるを以て非常の獻身的の事と信する能は はす、而して余の全く神を見る能はざるは余に尚「俾道師たるまず、余にして若し最少の生存競爭を以て一生を終るを目的となすな さ、げもの じ」との慾心存すれば也、此最終の捧物をに捧げ、此最大の刑罰らば余は學生となり、後、傅道師となりて世を渡るに若くものな (Penance) を余の身に受くるに至らばは必す余に賜ふに平和の賜からん。 かゆ すくな 物を以てせらるべしと、「皮をもて皮に換るなれば人はその一切の 然れども身の安樂にあらずして余は尠からざる靈の快樂を學校 もちもの へきない 所有物を以て己の生命に換ふべし」 ( 約百二章四節 ) 、われ我が靈魂の壁内に得たり、毎朝の祈疇會、閑靜なる圖書館、名士大家の説敎 を救はんが爲めには傅道師たるも辭せざるべし、たゞ我に給ふに平演説、老實なる敎師の薫陶は實に余の思想を發達せしむるに於て大 和を以てせよ、我は我の望と意志とに反し、此身は死せしものと思勢力を有せり、殊に希臘希伯來兩語の研究は余をして直接に聖書記 ひ、傅道師たるべければなり、余の此時の決心は實に世を捨て耶蘇者の思考に接せしめ、直に摩西に接するの感あらしめ、直に飃に に來る罪人の決心なりき、 聽くの快あらしめたり、此感と此快とは余のに至る迄に受し苦痛 つぐな いまぞゆく 主よわれは の大部分を償〈り、余は思〈り若し鄰學敎育の區域をこれに止めな 十字架の血にてあらひたまへ ば其學生に及ぼす功力は現在の組織に百倍するならんと。 かなし いは 余は終に意を決し慈善病院を去て訷學校に人れり。 然れども悲いかな聖書研究はその一部分なりき、日く聖書歴史、 0 0 リシャへブツィ
なれば、我輩速に此事に着手せん事を希圖するなり。兄弟にも知ら こそ實に貴重なるものにして、弟は太政大臣の位にあらんよりも、 寧ろ傳道の任に當らん事を欲す。太政大臣の如きは一國衆庶の上にる通り、今日の新聞は幾分か瓧會を益せすとは云はざれども、彼 の淫卑なる雜報に至りては、親子の間などに於て決して讀み得ざる ありと雖も、唯だ衆庶の身體を治むるのみ。然るに傳道師に至りて は、如何に身は貧に、位は賤しと雖も、此の全地球よりも遙かに貴ほどの事もあり。別して或る畫入り新聞の如きは甚た風俗を亂すも のと云はざるを不レ得ものもあり。 ため き一己人の靈魂の輻祉に關する所の働きを爲すものなるをや。此の 我輩先づ基督敎主義の新聞雜誌を發兌して、此の弊風を矯ざれ 道を傅へざれば、人之を聞くをえす。聞くを得ざれば人之を信する ば、又他に望むべきものなし。且っ現今著書の類を見られよ。多く を得す。信ぜざれば人救はるる事を得す。 兄弟よ、今日は人力車馬車汽車汽船の便幾分か備はりたれば、我は政事上の書にして、現時政事の志操 ( 思想 ? ) を起すは大切なり と云ふと雖も、此等の書類は人間の德義をす長め、人の志操 ( 同 全國に傳道するは難事にあらず。然れども、尚ほ難事とする所は、 收穫人の至って少なき事なり。御同様に幾分か傳道に從事の精に上 ) を高尚ならしめ、人をして克く人間の終局に逹せしむるの目的 にあらざれば、此等の書の如き雎だ一分の益を爲すものにして、此德 乏しき事なり。 仰ぎ希くば在天の父、我が東洋にも亦ポール ( 。 ( ウ。 ) の如きル義を重んずべき瓧會に取りては最も必要とも見做すべからず。又近 來の著書中往々基督に反對するものも少しとせざれば、彼等若し著 1 サー ( ルッター ) の如き、ジョン・ノックスの如き、ホワイト・ フィールドの如き、ウ = スレーの如き、フィネー・ムーデーの如書を以て我輩にいどまば、我輩も亦宜しく著書を以て之に答ふべ き、人物を起さしめ、此の傅道に從事せしめ、我日本の首府なる東し。且つ新聞の如きは未だ基督敎傳道師の入りこまざる山村僻地の 京を初め、他の大小都會、山村僻地、津々浦々迄も殘る所なく、漏人々迄にも、克く基督敎の動波を及ぼし得るものなれば、此の傅道 に急なるの際に當り、我輩一日も之をゆるがせにすべからざるな るゝ所なく、此の救の道を傅播せしめ、我同胞三千萬餘の生靈をし 。且世間に道を慕ふものあるも、役目がら、又仲間親類に對し、 て、此の生命の。ハン、生命の水に就き、飢渇を止めしめん事を。且 っ細の方法等の如き、各敎會に於て已に之を施行したるなれば、弟陽に我輩と全く隔絶し、斷然と敎會に來るを好まざる = 「デモ ( ョ ハネ傳三章 ) 流人物も少なしとせざれば、我輩此等の人に傳道する は茲に其の方法を論ずるを好まざれども、何れ地方に於ても敎會協 力して其の人を撰び、各々の力に應じて出金し、今の不完全をも顧に、著書にあらざれば能く我輩の目的を逹する能はず。是れ口を以 みず、カの及ぶ丈け、手の屆く丈け傅道に着手するは、基督信徒各て耳に達する能はざるより、文を以て共の耳目に接し、遂に心の根 各の、今日缺くべからざる大急務なりと信ず。敎ゆるは學ぶの半ば底に迄此の活種を播かんとするには、新聞雜誌著書にあらざれば、 克く爲し能はざるなり。 論と申して、傅道せざる敎會の信仰も亦振はざるべし。 諸兄弟も新聞雜誌等の必要なる事は兼て知らるゝ事ならん。去れ ども今日迄之に着手せざりしは、各々全力を以て傅道にそぎ、餘 純第二間接傅道 間接傳道を一一分して、一を基督敎主義の新聞雜誌著書、他は基督力の之に及ばざりしならん。今一派の敎會を以て之に當らんとすれ ば、實に難事なるべきも、日本全國のプロテスタント敎會の有志連 8 敎主義の學校なり。 3 〔甲〕新聞雜誌著書等の如きは、尚ほ基督敎瓧會に於て甚だ不完全中聯合して之に着手せば、事甚だ容易なるべし。今全國に五千の信 てい はつだ
試みるは、宛がら蟷螂の斧を振り廻はすと同じことで、見込のない 戰爭を始める様な理由だとは、誰でも言ふことで有たらう。然し彼 は「我れ輻音を恥とせす、此れ信ずる者を救はんとのの大能なれ ばなり」と宣言した。。ハウロは己が宣傅する輻音に無限の信認を置 た。共の中には全世界を征服する力があると信じた。之に依らざれ ば文明も進歩も、又兵馬の盛んなるも、眞の救を與ふることが出來 昔。 ( ウ 0 がアグリ , 。 ( 王の前に立ち、一個 0 囚徒として裁判せらな」と、深く思ひ込んだ。其れ故「我れ力を盡して」云《と言 0 た れたとき、彼は段《論じ進んで、王の基督敎に入られるを促し、之様に、共の有ん限りの精力を之に注」で、目覺るほどの働きを遣 0 たのである。羅馬の榮華と盛大とは、パウロを萎縮せしめないのみ に海改めを勸めるかの如き語氣が盛んであった。王之がために少し く氣色を損じ、汝容易く我を基督敎徒たらしめんと欲するかと。丁か、此 0 人民にしてを知らな」とは、此の強大にして祁より出づ る眞の靈的賜ものを受けて居らんとはと、遺憾遣るかたなく、益奮 度汝の如き分際で、其れしきの議論を以て、我を基督敎などに引き 入れんとするか。慮外千萬な奴であると言 0 た様なも 0 だ。。 ( ウ 0 發せしめたものと思はれる。天下の事業甚だ繁多で、世人の慾望を 答〈て曰く、容易きにもせよ、容易からざるにもせよ、余は爾のみ動かし、共の功名心を刺激する事物は算ふるに遑がない。然しリビ くさり ングストンがアフリカに傅道し、ダッフやケレイが印度に輻音を宣 ならず、此所に列座の人々が此の鎖の外、皆余が如くならんことを 願ふと言 0 た。彼が自ら縲絏の身であるに氣が付て、此の鎖の外と布し、共他多くの宣敎師が、南洋諸島の敎化を經營したことなどを 言 0 た所など、共の雅量があ 0 て禮儀に敦」所に感服せざるを得な考〈て見ると、世に傅道ほど偉大な盛事はあるま」。古〈の志士は 」。然し彼は王公貴紳の前にあり乍ら、基督の御蔭で自分の有て居國家の事に奔走して、其の事業の立派なるに勵まされ、家も生命 る所のものが非常に貴とく、囚人であるにも拘はらず、共の眞正のも、犧牲に供するをも厭はなか 0 た。然しザヴヰや、リビ一グ = しのぐ トンの胸を躍らした訷國經營の大計畫に較ぶれば、其等は殆んど言 冨彼等を凌ほどであると確信して居った。王公でも誰でも、。 ( ウロ の様にならねば、實に愍れむべきものであるとは、彼の確信した所ふに足らんのである。 傅道はの聖旨だ。九十九の羊を置て、迷った一頭を、野に山に である。共の自から任ずるの篤いこと驚くの外はない。彼が有て居 るもので、王公の手に無いものがあ 0 た。共れ故縲絏の恥辱を受け尋ね出し、之を求め得た喜び言はん方なきは、罪ある人に付ての 恩み深い思召である。禪は共の愛より逸し去らんとする者を、何所 て居るうちにも、自奪の精禪は天を衝くばかりの勢である。謙遜で ぞあ 0 て紳士的禮儀を重んずる風と、此の自奪の念が調和して、實にまでも追跡して、尋ね出す所の愛である。が父であると言はる、 一つは、部ち此の愛の溢れる様である所を指す。我々の傳道は、畢 みこ、ろいさ、 の立派に奧床しく見えるのは、パウロの人格である。 もっ 竟此のの聖旨に聊かでも同情を寄せたいと志すのである。傅道は 道斯の如く自身に有て居るものを、大なりとして之を人に傳〈るの であるから、共の傅道は氣魄充溢して、堂 ~ たる威風を具〈て居 0 祚の聖旨の反響だ。此れの志であると信ずるが、内外傳道の動機 である。共の勢力の生ずるのも此所である。 礙た。羅馬は文武ともに盛大で、全世界の中心と仰がれ、言はゞ。 ( レ 。ハウロがグリシャのアテンスに傳道をした時、學者なぞが大勢ア 3 ステナの邊陬から出て來た田舍學者の。ハウロが、之に對って傳道を 傳道何の爲ぞ ( 六月五日市ヶ谷敎會に於て ) おほい たうらう
出せし富士山の如きものにあらずやと云はれたる如く、我邦維新以出かけ、普く之を天下に傳播するにあり。 きゃうがい 然らば之を皇張する如何。手段なくして可なるや。否必らず方法 來の改革進歩は、實に驚駭に堪へざるなり。 夫れ、物質上の進歩といひ、政體上の進歩といひ、學術上の進歩なかるべからす。戰を爲すに必らす軍律なかるべからざる如く、我 が基督敎皇張にも手段なかる・ヘからす。去りながら軍律は戰をして と云ひ、又志操上の進歩と云ひ、進むべくして再び退くべからざる 程の況情に至りしは、豈偶然にして成りしものと云ふべけんや。嗚便ならしむるものなれば、軍律は決して戦ふの精訷にあらず。故に けんこ 呼、在天の父忝なくも我國を眷顧し賜ひ、此の活動なる我邦家大改傅道の方法の如きも、只傅道の便宜の爲なれば決して傅道の精神と 革の際に當り、我が同胞一箇人にとり、又全瓧會にとり、共の終局の混同すべからず。 目的を逹するに最も必要なる基督を外國敎友の手をかり、我邦に傳 たとひ 去らば俾道の精とは何そ。共の門徒に地の極までも行き、此道 播せしめしは我邦家にとり何等の事件ぞ。縱令史家の一言以て我史 てっとうてつび 上に記載せざるも、此事件こそ決して少々の事件にあらず。一國のを傳へよと命ぜられし救主基督の心を以て我が心となし、徹頭徹尾 さか 人民にして之を採用し之を信ぜば、必らず昌え、之を拒絶せば必ら基督の信徒となり、身も靈も皆な主に捧げ少しも私慾私心を挾ま ず衰へんと、かの著名なる獨乙のクリスト・リー プ氏も云はれたるず、只だ主の命に耳是隨ひ、飽までも此の道を全天下に傳ふるの精 如く、之を受くると然らざると、又之を傳ふると傳へざるとは我がを云ふ。此の精ありて、人初めて主の爲めに働き得べし。此の われら 同胞の輻祉を蒙ると不幸に陷いるとの二事に關する事なれば、吾輩精紳ありて、人初めて他人をも動かし得べし。此の精ありて、人 幸ひにの招を受け、基督の血により贖はれたる身として、豈に之克く主の名の爲めに此道を俾ふを得べし。我輩にして眞に此の精神 そうそっ を匇卒に看過すべけんや。 を得、克く身も靈も抛ちて主に捧げ、只だ主の命に耳是隨ふの心を 持って道を傅ふることこそ、實に傳道の大綱領なれ。此の精の眞 兄弟よ、然らば我等何を爲すべきか、他なし傳道の一事に從事すに心に發暢し、活渡に働かざれば、吾人の爲す事は總べて半熟ナマ のみ るにある耳。今日日本の況情を見られよ、歐米文化の皮相を取り、 ヌルの仕事に屬し、決して主の爲に功を奏せざるべし。 幾分か模擬し得たるも、文化のカ尚ほ米だ人民の心の根底に逹せざ 吾人やゝもすると川の末流に着手して、共の水源に溯り、其の源 るを知らるならん。皮相の開化は益々進み却って心中の開化は瓮を淸めざるの所業をなす事あれば、我輩御同様に祁の招を蒙り基督 きうもん 益退くに似たり。今日我國に於て德義如何を糺問せば、恰も茫々たの寶血により、自らを稱して主の僕と呼ぶに至りしもの、今回の大 る亞弗利加の砂漠中、一の憩ふべき地なく、渇を止むるの水源なき親睦會に際し、熱心に禪に祈り、靈の賜を受け、新たに生れ新たに ばら 論が如し。砂漠にも薔薇の花咲くべしと、イザャも預言せられたる如捧げ、禪の聖言に叶ひ、喜びて用ひ賜ふ所の傅道の器と成らん事を 皇く我輩紳の助けを蒙らば、此の德義上の砂漠中に輻音の花を喙かし願望し、且っ此の願望を遂げざる上は決して止まざらんとす。兄弟 よ我輩眞に基督の心を以て心と爲すに至り、基督に於て一身一體と 督むるは、決して難事にあらざるべしと信ずれば、我輩斷然此の道を あつれき 我同胞に傳へ、之を全國に皇張せずして止むべけん。 なれば、我輩の間には、最早や少しも軋轢などはあるべからざる事 皇張するとは何ぞ。我輩基督信徒老幼男女を論ぜず、學不學、才と信すれど、吾人は矢張り弱き不完全の人間たる事は、生涯免れざ 不才を問はず、各々應分の力を盡し、否各々全力を竭し四方八方にるの恐れあれば、我輩共に傳道に着手するに當り、の助けを蒙 あがな ・てん のみ しもへ われら
元氣に傳道活動をし、全國各地の傳道のた年間にわたって論爭が續けられた。 四月、大會に戦時傅道部が設置され、植村 めに寧日なく働いた。 は部長となる。五月、芝公園において日本 明治三十五年 ( 一九〇一 l) 四十六歳 宗敎家大會が開かれ、紳道、佛敎、キリス 明治三十二年 ( 一八九九 ) 四十三歳 「基督と其の事業」を一月より「幅音新報、 ト敎の各代表が會した。九月、日本基督教 一一月、小崎弘道の息女菊代の葬儀に説敎をに連載する。これは、前年から續いた對海會靑山派遣所成立する。十月、日本基督敎 する。この時の説教はまことに感動的な名老名論爭における、植村自身の主張のまと會第十八回大會において、植村らは獨立教 説敎であったと語り傅えられている。この めである。四月、第十一一回幅音同盟大會に會の權限を擴大し、補助敎會の權限を限る 年、信州佐久教會設立のため中會を代表しおいて、値村らの提出した輻音主義に關す建議案を提出したが、激論の末不成立に終 て同地に赴き奔走した。 る議案が ) 退 、「キリストのたるを認った。同月、東京紳學社を設立し、十一月、 * 七月、内務省〈「第四十一號 ( 宗敎取締令 ) 發めざる敎會並に俾道師は本會に加盟するを開校のはこびとなる。これによって輻音的 布される。 得ず」という決議文が採された。これは、學の形成と、傅道者の養成のために盡カ * 八月、文部省訓令第十一一號發布される。 前年以來の對海老名論爭の結末となるとと した。その設立趣意書に、「日本は獨立の もに、これによって日本の基督敎界に輻音基督敎を要す。獨立の基督敎は獨立の敎會 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 四十四歳 主義が確立された。十月、日本基督敎會第を要す。日本の基督敎は基督と其の靈とに 「宗教法案に付きて」 ( 「「音新報」一月 ) にお十六回大會において傳道局の大擴張並びに賴る外、少しも他に待っ所なく、己れに足 いて、前年十二月に議會に提出された宗敎臺灣・北淸傳道を決定する。 りて自から立つの覺悟を抱き、着々此の理 法案を批判する。一一月、流行性感冒から肺 想を凡ての方面に實現せざる可らず」とあ 明治三十六年 ( 一九〇一一 I) 四十七歳 炎にかかり、一時重態となるが間もなく回 り、日本の敎會の獨立は更に數歩前進せし 復する。七月、海老名彈正が雜誌「新人」七月、有馬温泉における第十五回夏期學校められた。三松俊平「植村正久の思出」に、 を創刊する。 で、プ一フゥニングの詩について講演する。 「かえり見れば、一番町敎會が聽衆多きを 十月、日本基督敎會第十七回大會において加〈て立錐の餘地なきまでに至ったのは、 明治三十四年 ( 一九〇一 ) 四十五歳 朝鮮傅道の開始が決定される。同月、元衆明治三十六七年のことであったと思ふ。」 とある。 六月、『靈性の危機』出版。この年、「廿世議院議長片岡健吉の死去にあたり記念會が * 二月、日露戦爭はじまる。 福紀大擧傅道」が開始され、全國各地で集中祚田靑年館において催され、植村は「眞正 正傳道が行なわれた。九月、海老名彈正との の自由」と題して説敎をした。十二月、宣 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 四十九歳 間にキリスト論論爭はじまる。明治のキリ 敎師との學上の意見の對立から明治學院 スト敎思想史上特筆すべき事件で、キリス禪學部を辭職する。 十月、日本基督敎會第十九回大會において 3 3 トの受肉をめぐって、「輻音新報」 ( 植村 ) 、 獨立自給案、ミッションとの協力案を可決 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 四十八歳 「新人 . ( 海老名 ) などの誌上においてほぼ一 する。植村の提案により右の兩決議を書簡
ては寧ろ反對者として待遇せざるを得ざるものなり。左れど、日本 十三四年以前のことかと覺ゅ。紳士として品格申し分なく、學者と あいぜんきく の學界の空氣を新鮮にし、一時動搖を與〈しにも拘はらず、基督 しては深く奪敬すべく、基督敎の信者としては虔誠の德靄然掬すべ きものありし同氏の事業は、人を悔い改めに導きて、堅固なる敎會敎徒の大多數をして着實なる進歩的態度を取らしめ、英米諸國宣敎 師等の傅道法をして、一開明的のものたらしむるに與りて力あり を建設する如き種類の成功殆ど見るべきものなしと雖も、宗敎界に し大功沒すべからざるものありと謂はざるべからず。余輩は此點に 波瀾を生じ、未熟なる學者、經驗に乏しき信徒の心に動搖を來し て、種々の現象を引き起せしよりすれば、傅道界稀有の成功なりと於て「眞理」の發行ありしをび、の攝理によりて日本基督敎の 開發に貢獻する所ありしを喜ぶものなり。日本人にして「眞理」の 謂はざるべからず。無論プロテスタント派基督敎者の中には、始め より進歩的の考〈をなせしものもありて、間々懷疑者も少からざり編輯に從事せしもの & うち、丸山通一氏の如きは日刊新聞の事業に 轉じ、向軍氏は敎育界に身を投じたり。雎た殘れるは三並良氏あ しことなれど、スピンネル氏等來りて、「眞理」てふ雑誌を發行し、 るのみ。氏がキリストリーブマ氏等ともに健在して、萎靡振はざ プライデレル一流の極端自由派の學を唱道して、基督敎の根本的 る中にも「眞理」の存在と體面とを維持し、之と主義を異にする基 事實及び要理に向て、破壞的の批評を試みしため、是れ等の傾向一 般の勢力を增し、暗々裡に胚胎されつありし破壞的批評勃然とし督敎徒に向ひて研究の刺激物となり、一種の敵國外患となりて進歩 ふんぜう を奬勵すべき媒介となりつ、あるは、余輩の奪敬する所とす。「眞 て迸しり出で、基督敎就會の紛擾、昨今の暴風雨に於るが如きも のありき。支那臺灣に傅道する宣敎師等が、本國の進歩變動を度外理」と趨向を同うせるものを「ゆにてりあん」とす。後改めて「宗 に措き、唯だ薄なる基督敎を傅〈、共の新たに道に入りし者を養敎」と云ふ。無味淡泊なる孤立一教を唱〈、超自然的要素を拔き 成して俾道に從事せしむるに至りても、深遠なる智識を養ひ、泰西去りたる倫理的基督敎を唱ふるを以て特色とす。然れども此の派は 日本の宗敎思想に何の寄與する所ありしとも見えず。雎だ近頃「六 の文學を吸收せしむることを怠り、甚だしきは斯くなすより生する 結果を氣遣ひ、故らに傅道者の深く學間せざらんことを望む輩もあ合雜誌」と合併せしてふ一事の目立てるあるのみ。之に關して面白 りと聞く。幸ひにして日本に來れる外國宣敎師等の多數は、斯くのき一つの事實あり。さしもに宗敎界に雄視ぜる「六合雜誌」も名實 者 如き謬見を抱かず、學間上の開拓と傅道とを兼ぬるの方針を取りた共に = = テリアン主義となりては、讀者著しく減じ、二雜誌合併の 。然れども其の大體の形勢より言〈ば、彼等は本國の進歩に件ふ甲斐殆ど之なしといふ。是れ方今の宗敎事情に關して何等の消息を び いんしゅんこそく 及の傅道を等閑にし、因循姑息、唯だ舊式の學説解釋を移植し、日本傅ふるものなるか。 誌 雑 ( 明治三十一年八月二十六日、九月二日、九日、十六日「輻音新報」 ) 人をして之を丸呑みにせしめんと擬したり。英國及び米國の宣敎師 新 等のみに一任したらんには、たとひ心ある日本の敎師傅道者が、直 の 徒 接に書物などによりて學の新智識を研磨すればとて、共の結果日 督本の基督敎思想をして、恰もベルリの來らざる前、唯だ和蘭人を經 て外國と交通ぜる舊日本の如き觀を呈せしむるものなきを保する能 はず。スピンネル氏等其他「眞理」に從事する面々は、其の基督敎 2 の解釋、信仰の性質に於て余輩の感服し難きものなり、或意味に於 にとは とうかん
432 * 十月三十日、敎育勅語發布される。 る傅道の主體性を確立するために、自ら傳 明治一一十五年 ( 一八九一 l) 三十六歳 道局に配を振った。九月、傅道局の用務 明治二十四年 ( 一八九一 ) 三十五歳 四月、次女薰永眠する。同月、マルカス・ で北海道に赴く。この年、四女惠子誕生。 一月、内村鑑三不敬事件がおこる。植村は * 八月、日淸戦爭おこる。 ドッヅ著『信仰の標準』を口譯して出版す 「音週報」二月二十日の瓧説に「不敬罪る。 明治二十八年 ( 一八九五 ) 三十九歳 と基督敎」を發表し、御眞影・勅語禮拜に 明治二十六年 ( 一八九三 ) 三十七歳 對して斷固たる否定の態度を表明したため 「幅音新報」は、五月三十一日第二百一一十 「篇音週報」は二月二十七日第五十一號を この年、いわゆる「敎育と宗敎の衝突」事號を以て發行禁止となる。これは、學術誌 以て發行禁止となった。三月二十日、「輻件おこる。植村は「今日の宗敎論及び德育 として認可されていた同誌が、政治上の事 音週報」を「輻音新報」と改稱して再發行論」 ( 「日本評論」三、四、五月 ) において「敎育柄に言及したために受けた處分であるとい する。四月、ストーカー著『基督のすが と宗敎の衝突」における井上哲次郎の主張われている。七月、「音新報」を再び第 た』を妻季野の甥、田中逹と共譯して出版を批判した。五月、名古屋において輻音同一號より發行する。 する。五月、市ヶ谷講義所が成立し、六月、盟會が開催される。九月、本鄕に「救療曾」 明治二十九年 ( 一八九六 ) 四十歳 その主任となる。この頃、麹町三番町十一 が設立され、植村は理事長となって貧困者 番地に移轉する。この頃からいわゆる新訷の醫療にあたった。醫長は高田畔安。この この年、妻季野の母三千代永眠する ( 一八二 學の主張が活になり、植村をはじめとす年、名古屋における輻音同盟大會が、佛敎 0 ー一八九六 ) 。 る輻音主義者との間にしばしば論爭が生じ徒から迫害を蒙る。 明治三十年 ( 一八九七 ) 四十一歳 た。植村は「現今の基督敎並びに將來の基 明治二十七年 ( 一八九四 ) 三十八歳 督敎」 ( 「日本評論」七月 ) において金森通倫の 七月、大會において讃美歌改正委員にあげ 自由主義訷學を批判し、キリスト敎は天啓七月、大會傳道局の改組が行なわれ、日本られる。この年、全國各地に俾道旅行に赴 宗敎であるという自己の主張を明らかにし基督敎會大會傳道局は外國宣敎師との關係く。また、植村の提案によって日本基督教 た。また、「聖なる人・救世の大師表」 を斷って獨立した ( 第九回大會 ) 。植村は同局會は朝鮮傅道を開始した。また、二十二年 ( 「日本評論」 + 、 + 一、 + 二月 ) において輻音主最初の委員の一人に選出される。また、日本から始められていた日本基督敎會創立二十 義的キリスト論ならびに紳觀を表明し、 基督敎會條令第五條修正案には、日本基督五年を記念する歴史編纂事業が成り、植村 「罪惡とは何ぞや」 ( 「音新報」二、三月 ) にお敎會大會傳道局は「輻音新報」を俾道の機は委員としてこれに參與した。またこの年、 いて、罪惡は人と紳との隔絶である、との 關とすることを同社に囑託すること、とあ正宗白鳥に洗禮を授けた。 罪悪を述べる。この年、番町一致敎會をり、從來植村個人のものであった同誌が傅 明治三十一年 ( 一八九八 ) 四十二歳 一番町敎會と改稱する。 道局の機關誌として、公的性格を帯びるこ とになった。こうして植村は、日本人によ三月、『信仰の友』出版。この頃いよいよ
にあたり、富士見町敎會で奉悼禮拜を行なこの頃、再臨問題が活渡に論ぜられるようび富士見町敎會が燒失し、その復興のため になる。植村は、五月に再臨について説敎に奔走する。十一月、富士見町敎會假會堂 をし、「輻音新報」誌上にも一回論じたが、 落成する。 大正二年 ( 一九一三 ) 五十七歳 特に意見は出さなかった。二月、富士見町 大正十三年 ( 一九二四 ) 六十八歳 五月、日本基督敎會の婦人有志者をあつめ敎會で議會禮拜を行なう。年末に、傅道の て、婦人傳道局を設立する。 ため朝鮮、支那に赴く。 この頃、過勞のため健康を害す。二月、精 紳作興懇談會 ( 淸浦内閣による宗敎家招待 ) に、 大正三年 ( 一九一四 ) 五十八歳 大正八年 ( 一九一九 ) 六十三歳 日本基督敎會を代表して出席する。九月、 五月より翌年五月まで、全國の敎會が一丸六月、女婿川戸洲三永眠する。七月、四女東京禪學瓧被災後の新築成る。この年、 となって「全國協同傅道」がおこなわれ、 惠子が米國 ( ートフォード學校に人學す『信仰の生活』出版。年末に、東京柏木に 植村はこのために奔走した。九月、長女澄る。同月、富士見町教會において平和條約新住居成り、移轉する。 江、佐波亘と結婚する。 調印感謝禮拜を行なう。また同月、學生歡 * 四月、米國移民法成立。 * 八月、對獨宣戦布告。 迎禮拜をおこない、河合道子が演説する。 大正十四年 ( 一九二五 ) 六十九歳 十一月、説敎集『祈の生活』を出版。 大正四年 ( 一九一五 ) 五十九歳 一月八日、東京柏木の自宅で、心臟マヒの 大正九年 ( 一九二〇 ) 六十四歳 七月、朝鮮中會が成立する。十月、富士見 ため急逝する。 町教會において天長節禮拜を執行する。こ七月、滿洲・朝鮮に傅道に赴く。十二月、 昭和五年 ( 一九三〇 ) の年、大森敎會成立する。また、朝鮮、滿四女惠子米國で病死し、植村夫妻に深い悲 洲、臺灣などに傅道放行をする。 しみをあたえた。 六月七日、妻季野永眠。七十三歳。 大正五年 ( 一九一六 ) 大正十一年 ( 一九二一 D 六十六歳 鵜沼裕子作製 大内三郎閲 この年、富士見町敎會創立滿三十年祝賀會四月、日本基督敎會創立五十年記念特使と をおこなう。 して、歐米巡回の途につく。十七日横濱港 年 を出帆し、北米、カナダ、英國の諸敎會を 大正六年 ( 一九一七 ) 歴訪して、九月二十五日日本に歸る。この 村四月、三女環、川戸洲一一一と結婚する。この年、ラトガース大學より・を贈られる。 年、上大崎傳道所が開かれる。 5 大正十二年 ( 一九二一一 I) 六十七歳 大正七年 ( 一九一八 ) 六十二歳 九月、關東大震災のため、東京飾學瓧およ