イ 46 新島襄參考文獻 ( 改版褪光美衛出版昭和三九・三 ) 原田助「五十年前の新島先生」 ( 同前昭和五・五 ) 一一維誌特集 村田勤「同志瓧敎育の眞相」 ( 同前昭和ん・一〇 ) 新島研究 ( 新島研究會、森中章光執筆編集、昭和二九・ 安部磯雄「同志社入學」 ( 自敍傅〃社會主義者とな 一單行本 一一以來既刊二九號。但、二八・九號加藤延雄編 ) るまでみの一章 ) ( 改造社昭和七・一 l) 同志社時報ーー - ・新島先生一一十年忌 ( 明治四三・一 ) 湯淺半月「板倉勝明と新島先生」 池本吉治「新島先生就眠始末」 同志社新報ーーー新島先生五十年忌記念展覽會特集 ( 同志社校友同窓會報昭和九・一 ) ( 警醒社明治二三・四 ) ( 昭和一五・一〇 ) 重久篤太郎「新島先生と " 漂荒紀事を」 佐々倉代七郞「新島先生高談集」 ( 輻音社明治二三・九 ) 三雜誌 ( 單行本 ) 論文 ( 隨筆、紹介 ) 鈴木達二「新島先生の敎育は自由敎育か」 宕塚正治「新島先生言行録」 ( 同前昭和九・三 ) ( 警醒瓧明治二四・九 ) 小崎、徳富、デヴはス「一周忌演説」筆己 村井知至「印象ところどころ」 Alpheus Sherburne Hardy 「 Life and Lette-s ( 同志瓧文學雜誌三九號明治二四・一 ) ( 同前昭和一 0 ・三 ) of Joseph Hardy Neesima 」 本田庸一「新島襄君に就て」 職生正藏「恩師新島襄先生と母校同志瓧初代を (Houghton of Mifflin Co. 明治二四 ) ( 同志文學雜誌五 0 號明治二五・一 ) 語る」 ( 丁酉倫理講演集昭和一一・九・一〇 ) Jerome Dean Davis 「 A Shetch of the Life of 宮川經輝「新島襄先生に就て」 深井英五「新島襄の思出」 ( 人物と思想中の一節 ) ( 同前五一號明治二五・ ll) Rev. Joseph Hardy Neesima 」改訂增補版 ( 日本評論社昭和一四・三 ) (Fleming H. Revell Co. 明治一一七 ) 横井時雄「明治敎育界と新島先生」 波多野培根「新島先生の生涯の意義」 林樂知譯「新島約瑟」 ( 自明證卷六 ) ( 同志社時報明治四〇・五 ) ( 同志社新報昭和一五・二 ) ( 上海廣學會明治二八 ) 高平小五郞「肯像除幕式挨拶」 ( 同前明治四二・六 ) 魚木忠一「敎育の一源流として見たる新島先生」 中村榮助「新島先生回想」 ( 同前明治四二・一 ll) 山本美越乃譯補、デヴィス「新島襄先生傅」 ( 右同 ) ( 警醒瓧明治三六・七 ) 大隈重信「新島先生を憶ふ」 ( 同前明治四三・ ll) 牧野虎去「新島先生と現代の指導精神」 諸家「新島先生記念集」 石井白露「新島先生を憶ふ」 ( 同前明治四三・四 ) ( 同前昭和一六 ( 同志社校友會昭和一五・一 ) J. D. Davis 「新島先生を憶ふ」 ( 同前明治四四・一 ) 田畑忍「明治文化史上における新島先生と輻 森中章光 ( 貞一 ) 「新島先生片鱗」 牧野虎次「二十一二年前の一月二十三日」 ( 同前昭和一六 澤先生」 ( 私版昭和一五・九 ) ( 同前大正二・一 ) 深井英五「人生観、基督敎、新島先生」 ( 回顧七 新島襄「新島襄先生書簡集」附年譜 ( 森中章光水崎基一「二十五年」 ( 同前大正四・三 ) 十年中の一章 ) ( 岩波書店昭和一六 ( 同志社校友會昭和一七・六 ) 浮田和民他「懷舊談」 ( 右同 ) 田中良一「水戸烈公宛板倉勝明書妝」 魚木忠一「新島襄、人と思想」 諸家「基督化の大和武士」ほか ( 松浦政泰 ( 同志社新報昭和一七・一一 I) ( 同志社昭和二五・一一 ) 「同志社ロマンス」 ) ( 警醒瓧大正七・一 9 田中良一「同志社、八十年の歩み」寫眞帳 岡本淸一「新島襄」 ( 同前昭和二七・七 ) 松山高吉、大澤善助他「懷舊談」 ( 同志社昭和三〇・一一 ) 新島襄「新島襄書簡集」 ( 同志瓧時報大正一〇・三 ) 田中良一「函館歴史散歩」 ( 岩波文庫昭和二九・一 (l) 金森通倫、海老名彈正他「懷舊談」 ( 同志社時報昭和三七・一一 ) 徳富猪一郎「新島襄先生」 ( 同志社昭和三〇・一一 ) ( 同前大正一二 ・三 ) 田中良一「熊本。 ( ンドと同志瓧」 ( 住谷悅治編 " 日 同志瓧圖書館「新島舊邸文庫目録」 柏木義圓「新島先生人格の片鱗」 本におけるキリスト敎と社會問題ん中の一篇 ) ( 同志社昭和一二三・ ( 同志社校友同窓會報大正一五・一〇 ) ( みすゞ書房昭和三八・七 ) 新島襄「新島先生書簡集」附年譜 ( 森中章光編 ) 本間重慶「新島先生の苦境と其成功」 田中良一「新島先生の繪と書」 ( 同志社昭和三四・一一 ) ( 同前昭和二・一 ( 同志瓧タイムス昭和三八・八 ) 加藤延雄「新島襄先生略傳」 山室軍平「四十年忌講演」 ( 同前昭和五・一 I) 編集田中良一 一」一罸ロ
イ 18 事業であり、同志社の建設であった。そのたもって書かれた文獻は彼からは見出せない。 めには一方にアメリカ傅道會瓧と強力に連繋このことは、もちろん新島が輻音を理解しな かったことを意味しないが、しかし輻音の理 新島襄が函館を脱出したまではのべた。翌をとり、他方井上馨・板垣退助・大隈重信・ 慶應元年 ( 一八六五 ) アメリカ合衆國ポスト澁澤榮一・岩崎久彌・彌之助・靑木周藏など解、キリスト敎の把握との關連から日本の教 ンにたどりつき、學校に入り敎育を受けるま政界、實業界の人物に近づきその援助を受け會を指導し、あるいは新日本形成の敎育の方 での好意を得たことは何よりも幸輻なことでることを忘れない。それは日本のキリスト敎針を決する論理が明白に自覺されていない點 あった。比較的順調に大學・學校と卒業し界の枠内に閉じこもって他の援助をいっさいで、新島はいささか物足りない。後者につい た彼は、明治四年ポストンで小辨務使森有禮受けようとしなかった植村や内村とは異ってていうと、新島は「同志就大學設立の旨意」 において「吾人は基督教を擴張せんが爲めに の厚遇を得て、改めて米國留學および海外旅いた。そして敎育も牧師の養成に心碎き、 行の件を許可されたのみか、翌五年日本政府崎弘道・海老名彈正・宮川經輝らすぐれた傅大學校を設立するに非ず、唯だ基督敎主義 の文部理事官田中不一一麿にしたがってアメリ道者を輩出するとともに大西祝・浮田和民・は、實は我が靑年の精劔と品行とを陶冾する カ合衆國からさらに歐洲にわたって敎育事情安部磯雄・元良勇欽郞などの學者を生み、同活力であることを信じ、此の主義を以て敎育 を視察する幸運に惠まれている。『理事功程』志瓧はキリスト敎界のみならず、學界・文化に適用し、更に此の主義を以て品行を陶冶せ は新島も執筆したその復命書である。明治七など廣範に亙って貢獻している。そこに新島る人物を養成せんと欲するのみ。」しかして の功績があり、日本の敎育文化史上における「一國を維持するは、決して二三英雄の力に 年歸國すると、在米中の關係もあってアメリ 非ず。實に一國を組織する敎育あり、知識あ カ傳道會瓧系外人宣敎師の傳道の本據地の關新島の不朽の位置があるというべきである。 西に赴き、翌八年には同志瓧英學校を設立私はもつばら内村・植村を日本におけるキり、品行ある人民の力に據らざる可からず。 是等の人民は一國の良心とも謂ふべき人々な リスト敎受容の過程において見てきたので、 し、今日の隆々たる同志瓧の基をつくった。の ち「同志就設立の始末」に「方今我邦日本にこのさいそれとの關連で新島を見ることが必り。而して吾人は此の一國の良心とも謂ふべ 於ては現に戊辰の變亂を經て舊來の陋習を破要であろう。内村・植村は何はともあれキリき人々を養成せんと欲す。」新島の新日本の り封建の迷夢を醒して明治の新政を行ふのスト敎の本質ともいえる輻音を把えた。そし荷い手としての人間はキリスト敎によって支 際、就會の秩序破れ紀綱紊れ、人心歸着するて把えたが故に彼等はキリスト敎を外國ミ , えられる近代市民としてのそれである。キリ 所を知らず。今日に於て我日本に眞正の敎育シ「ンから解放せねばならぬとした。輻音のスト敎が近代市民意識をもり上げるその構造 を布き、以て治國の大本を樹立し、以て人智把握と外國ミ〉シ「ンからの解放との間にはとかれない。新島の近代市民意識は少くと を開發し、以て眞正の文化を興隆せんと欲せは、彼等のナシナリズムが介在しているこも新島が存命中明治政府の絶對主義の正體を ば、宜しく歐米文化の大本たる敎育に力を用とは認めねばならないが、しかしそこにはそむき出しにしなかったので、政府のそれと對 ひざる可らず」といっている。新島は明治一一れを越えて輻音自體の理解また學の必然性立せずに濟んだし、新島自身對立すると思わ なかったから氣樂に大隈・井上・澁澤らに援 十三年中途にして倒れたが、彼がもっとも心があったことは前にのべたごとくである。 ところで新島の輻音の理解を多少構造性を助を依賴したのであろうが、内村不敬事件を を碎き生涯一貫して努力したのは、この教育
けれど、一寸讀んで、ここで骨折新島書像門人湯淺一郎筆 思想的影響 ったろうと色うところは、外國か ( みを第 , ~ 山本明治學院は宙に浮いたようなことをいうクリスチャンを生むら來ている代表者たち、その連中一第を 雰圍氣があり、同志瓧はもっと實行家を生む雰圍氣があった。そことの折衝で新島襄は本當に苦勞し ~ 物 に新島襄という人の型が浮んでくる。思想家としては平凡な人といているに違いないと思った。 う氣がしますけどね。 山本そういう俗的な苦勞をして 龜井しかし、十幾つ新島襄の方が後の二人より年上で、その時にいますよ。あの敎派、組合派とい 官立の大學に賴らずに私立のキリスト敎の宗旨の學校を立てようとうのはキリスト敎團の中で一番リ して、そのために實業家とか政治家と仲よくなり、それを攻撃さべラルなんじゃないですか。へポ ンはもう少し行動的だった。 れた。しかし設立者としてのつらさに對しては敬意を表したい。 伊藤そういえば新島襄より内村鑑三の行き方のほうが樂ですよ。伊藤そうですね。 對外的というか實生活的には樂ですよ。一番辛いことをしたのが新山本だからやはり戒律というようなものを考えるような空氣があ 島さんで、植村正久はそのだと僕は思う。植村正久は弟子達に對って、そこから「破戒」というものが生まれたと思いますね。 してはディクテーターシップを發揮して、横暴でもあり、かっ政治伊藤ぼくは獨歩がどこでどういう意味でキリスト敎の影響を受け 的組織者であった。しかし敎會へ行って説敎すると、その時は聞いたかということはよくわからないけれども、自然に對する驚き、人 ている信者たちの氣持を和らげることが目的であって、その效果に間が存在することの驚きというようなことを考えるそのルートは西 おいて説敎している。そういう感じがする。内村さんの場合は、と洋的で、ワーズワースとかいろいろある。だけどその實質は、獨歩 にかく氣に入った弟子しか集めないし、その弟子逹との間に何も處はきわめて日本的で、存在と無しかない。ゼロとプ一フスしかないん 世的な操作が要らないわけですよ。そういう非常に純粹な生活をすだな。ところが蘆花のような本當のクリスチャンにはプラスとマイ ることができたのは、生活を著述にしぼって、敎會というものも持ナスがある。ゼロがあるかどうかわからないけれども、善と惡があ たす、學校という雜務も持たすにやれたからだと思う。 る。獨歩にとっては、善と惡は考えの中にあまり入ってこなくて、 山本そういえばそうですね。蘆花の「黑い眼と茶色の目」等讀む存在と存在しないことだけあるような氣がする。 と、あの中にも新島襄が出てきますけれども、新島襄からどういう山本言いかえると、宇宙と自分は考えるけれども、瓧會と自分と 影響を受けたか、或いはどういうふうに尊敬していたかということは考えない。しかし瓧會と自分を考えないと善と惡、罪の意識とい は全然現われてないように思う。あまり思想的な影響を受けてないう間題は出てこない。 のじゃないか。 日本とキリスト敎 龜井むしろ敎育者の方に人れた方がいいんじゃないか。 伊藤津田梅子に近いかもしれない。新島襄はそれほど讀んでない龜井それからこういう問題がある。外來文化の影響を受けて新し 6
論せずとも事實上判決は早晩新島の眞價如何んを明かにするで有ら が新島の全部を掩ふべきもので有るかとも思はれる。 う。兎に角此の際新島の傳が、比較的大部の書として世に公にされ 第四新島は共の出身の經歴と言ひ、人物と言ひ、日本基督敎開 をしいかな たのは至極適當で又便利を與ふることが少くない。此は著者デビス 拓の。ハウロ若くはヨハネで有り得たので有るが、惜哉彼をして其の 博士に對して公衆の謝すべき所で有る。 天分を充分に發揮することを得ざらしめた事情が有る。彼はを信 記者等の記憶する所に依れば新島は、 じ基督を愛したに違ひ無い。彼は傅道の熱情を有って居った。然し 第一何所となく上品で風采の好い人で有った。彼は此の點に於彼は餘り己の事業を偶像としたので有る。其の計書と事業とは彼を て多く人を引著る力を有したので有る共の人物の如何んはさて置束縛して、靈的の發展にも幾分か害を及ぼし、日本敎化の頭領とし き、推し出しが好く、愛嬌が有って、如何にも紳士らしく見えるの て共の天職を全うすることを得ざらしめた。彼は共の事業の成敗よ が新島氏人格の特徴の一つで有る。多く英雄及び聖徒は風采に於てり打算して、日本基督敎徒の無宗派主義を否定し、何所までも外國 甚だ不利 ( 血な地位に立った。新島は此の點に於て仕合者と言はねば の宗派に據らざる可らずと主張した。事業上の必要は彼を驅って、 はうがふ ならぬ。或は此所が彼の最も優れた長所で有ったかも知れぬ。 非基督敎的勢力を抱合し、之を利用せんとするに汲々たらしめた。 第二彼は熱情の人で有った。共の傳にも見える如く、其の日本彼は世間の政治家や財産家をも利用し、外國の宗派と其の勢力を自 脱走から大磯の臨終まで、彼がヱンスウジアズムに富んで居ったこ家藥籠中のものとなし、之をエ合よく操縱しつつ己の理想を實行せ とは明白で有る。彼が同志瓧の經營に就て如何に希望を屬し、熱情んと試みた。俗的勢力、外國宗派の金力、及び自己の信念と理想、 を之に迸しらしたか、之と交際したものは忘れ難く感ずるで有ら此等三者を遣り繰りし調和せしめて好結果を奏せんと試みたのが新 う。第二回全國基督敎徒大親睦會の有った節、基督敎傅播の勢甚だ島の遣り方で有った。古來傅道を以て大いに成功した人々は、決し れすみ なか 盛んで有ったので、新島の熱情燃え上り、彼をして傅道の成績を鼠て斯う言ふ遣り方で無った。鹿を逐ふものは山を見すミ新島襄は ざんてき 算的に豫想せしめ、國會開設の曉に於ける基督敎の勢力云々なるべ餘り多く一種のアムビシ「ンに驅られた所から、到頭此の難關に乘 たぐひ こぶねあは な - っと しと絶叫せしめたので有る。凡て此の類で彼は熱情の人で有った。 り入れ、宛も輕舟が阿波の鳴門に卷き込まれた時分見た様に、進退 きに 或は共の肉體の負擔し難い程、或る目的に就て熱情激發したので有維れ谷まったので有る。此の事情が如何に新島の品性に害を與〈、 さまた るたらう。此れ實に彼が成功した祕訣の一つに違ひない。 共の靈的進歩を妨げ、其の天分の發展を滯らせたか、之を研究すれ けいりん 第三新島は學識に富んでも居らなかった。經綸の技倆も左程に ば精禪の修養 -u 益する所頗る多からうと思はれる。新島は日本俾道 は無い。共の講壇に於て述ぶる所は別段優れて居る様にも見えなんの一大預一「〔者たるべき人で有ったが、洗禮を受けた企業的豪傑とし りんぜん をは 襄だ。共の聲は堂々たる威嚴を具へたでは無い。凛然たる勢力は其の て畢ったので有る。彼は出來べからざる藝を試みて見事失敗した。 島 雄辯に ( 若し雄辯と言ひ得べくんば ) 缺乏して居った。然し其の演彼の死を早めたのも此の難關に悶躁いた結果では有るまいか。之が 新 壇に立って大いに人を動かすことが出來たのは、無論共の精の高ため彼が一大セイントたることを得なかったのは、其の肉體の死よ こんじ いにも依ることで有ったらうが、共の聲に愛嬌が有り、何だか金の りも更に大いなる恨事で有る。我輩の見る所を以てすれば、日本に 鈴でも鳴る様なエ合で、聽く人の懷に這入る如く感ぜられた。共の於ける進路に横はる最も恐る可き誘惑は、此の點に存すると言はね 雄辯は男性的で無く、寧ろ女性的で有った。蓋し、共の雄辯の特徴ばならぬ。小さな新島が多く出來て、續々失敗するを見よ。事業の でんば
←明治十年八月十日右から太田 ( のち新 渡戸 ) 稻造岩崎行親宮部金吾鑑三 ・ - にツの ・ - ・ツ第寸 、を一↓い↓ ←明治十六年頃右から鑑三宮部金吾 新渡戸稻造 ←昭和三年五月九日内村鑑三 田仙松山高吉奧野昌綱中島カ造二列目右から石原保 太郎寺原久吉木村熊二新島襄鑑三辻等夫牧岡鐵彌 平岩愃保森田太平三列目右から小出市之助稻垣信横 井時雄宮川經輝靑山準次郎井深梶之助加藤勇次郎大 儀見一兀一郎四列目右から上原方立和田秀豐押川方義 金森通倫植村正久小崎弘道服部綾雄長坂毅伊藤藤吉 五列目右から一人おいて南小柿州吾熊野雄七吉岡弘毅 三浦徹淺川廣湖
新島襄集目次 卷頭寫眞 筆蹟 同志社設立の始末・ 同志社大學設立の旨意・ 基督敎皇張論・ 天父基督を十字架に添て世に賜へり : 宅一 書簡・ : 三主 1 一 = ロ 一致・組合兩敎會合併間題について : 『一究 作品解説・ 新島襄入門・ 11 一一口 參考交獻 : : 龜井勝一郞四 0 四 : 大内三郎四一 0 : 四三六 ・四四六
日ホ袋學 京の 座談會内村鑑三・植村正久・新島襄 司會龜井勝一郞報 6 善川 都町 伊藤整 京羽 山本健吉 講東音 月 題字・谷崎潤一郎 ウン、それが合同して一致敎會というのができたのでしようね。ど っちかというとカルヴィニズム。もう一つ熊本バンドというのは、 ジョーンズというのがやってきた。新島さんは熊本バンドと直接の 龜井勝一郎 關係はないのだけれども、熊本バンドの卒業生達が德富兄弟をはじ 伊藤整 めみな同志就大學に行っておりますね。ジョ 1 ンズというのはどう 山本健吉 いう敎義か知らないけれども、結局組合派でしよう。新島さんの同 志社というのは組合派ですからね。それから札幌は結局クラークの プロテスタンティズムと明治の日本 薫陶で、そこから内村さんの無敎會主義というのが發生した。そし一ノ 龜井この卷は明治の代表的なしかもそれ入、性格が違うキリストて日本の明治文學にそれぞれの形で影響している三つの代表者とい 敎信徒である新島襄・植村正久・内村鑑三の三人を收めているのでう感じがする。橫濱バンドの ( ポン、プラウンの方からは「文學 すが、明治の新しいヨーロツ。 ( 文明に接觸した時に、それまで日本界」の運動というのが出てきているし、同志瓧の方からは「國民 に傳統としては存在しなかったプロテスタントのキリスト敎信仰に之友」系、札幌の方からは、内村、新渡戸に續いて有島その他個々 直面した。どういう態度をとるかということがその頃の若い知識階の作家は非常にたくさん出てきていますね。文學的な影響からいう と、結局あの三つの代表者に歸することになるかもしれない。 級の一つの問題だったと思うのです。 山本明治のプロテスタンティズムというものを考えると、三つの龜井聖書や讃美歌が明治文學に與えた影響は非常に大きかったと 思うんですが : バンドがプロテスタントの發祚として考えられる。横濱バント パイプル 札幌・ハンド。そうすると横濱バンドというのは ( ポンと山本聖書はそのうちで横濱バンドに關係していることですよ。明 大・バンド、 バイプル プ一フウンだけれども、植村さんはそのうちのプラウンの直系でしょ治十年前後に日本の聖書の飜譯をどういう文體で譯すか、これは大 う。そして ( ポンとプラウンで立てた明治學院の敎職にもあったわ變なことだったと思う。それをこれまで僕らが親しんだようなああ けですね。あれは敎義的にいうとユニテリアンですが、ユニテリアいう文語體で譯して、それがいままで生命を保っている。これは大 ンというのはスコットランドの長老敎會の系統で、 ( ポン、プ一フ變なことで、明治十年前後に書かれた日本語の文書でこれだけ生命 座談會内村鑑三・植村正久。新島襄 目次
新島襄集
轉機に對立がはっきりしてくる段階に入ってらくる必然の論理としてなされていない、そキリスト敎 ( ないしキリスト敎會 ) に自己集中 新島の人間像はそれにどう對決するか。新島の點は全く自覺されておらず、したがって敎化の方向であり、後者は自己外向化の方向だ には内村に見られるような輻音の把握に支え會政治の面からとりあげるたけで會衆主義一とすると、彼等の活動はけつきよく自己集中 られている近代市民の論理構造は見出されな點張りで、一致敎會の長老主義と矛盾をつく化の方向に傾かざるをえなかったが、しかし い。前者についていうならば、明治十九年前だけに止り、それ以上に出ることはなかっ兩者互に交錯しているところに内村・植村の 後一致・組合敎會合同間題が再燃したさい、た。その點内村・植村が果した歴史的課題にキリスト敎が他の世界と共通の地盤をもって 植村はこれに全力を擧げて賛成し合同に盡カ直接どの程度參劃したことになるか。檢討のいて、次代の牧師がそのような共通の地盤を した。新島は極力合同に反對した。植村が賛餘地があるといわざるをえない。 もたず、敎會内に閉じこもる傾向が著しかっ 成したのは輻音を把握したその論理からきて たがそれと對照的である。それも彼等の内側 七 いる。前記のように、植村は輻音を構造的に からみると、キリスト敎以外の面に關心と見 把握したその時から外國ミッシ , ンからの解最後に一つ指摘して終りたい。内村鑑三・識とをもっていたことにも歸因するであろ 放を計っている。植村の合同問題の背後には植村正久にかぎったわけではないが、わが國う。「文學」についても、とくに植村など「文 解放間題が控えている。合同には當然「信初代キリスト者の指導者に共通に見られる特學」についてそういえるのではあるまいか。 條」も間題になってくる。直寸 本の日基敎會の色は、彼等はキリスト敎に止らず政治・學間・ 「信條」制定の際の意見にみられるように、文學・評論などに深い關心と見識をもってい 彼は「信條」には人間の救濟はイエス・キリることである。それは明治以後の西歐文化の ストにおける「事實」によることすなわち輻影響を受けた日本の文化・思想・學術が未分 音をうたい、あとは自由寛容を旨とすること化であったという條件があったことも見逃す をのべ、それでよいとしている。この「信條」・ことはできないが、内村は自然科學に深く通 襄 はのちに日基敎會のそれとして探用されたじ、その方面の學者にもなれる素質をもって 新が、一致・組合敎會の合同に優に適用できる。いたことは、植村が評論にまた文學に關心を 久 しかもかかる「信條」の採用はそのまま外國もちその邊の素質にめぐまれていたと同じで 正 村 ミッシ , ンからの解放を意味する。かようにある。京極純一氏によると、植村は曰「輻音 植植村の敎會合同には輻音理解の必然の結果とノ廣播」「聖會ノ干城」たらんとする役割と 三して論理が自覺されている。これに對して新「文筆著述ノ業」「社會人民ノ木鐸」たらん 村島はどうか。植村はその「新島襄」論においとする役割と、この二つを自己の役割とした て論評しているが、紙數の餘裕もないので私といわれる。しかし、これはひとり植村に止 四はこれをとらない。ただこのさい指摘しておらず内村にもいえそうであり、また初代キリ きたいのは、新島の反對根據は輻音の把握かスト者の指導者たちにもいえる。假に前者は
←明治五年ベルリンにて新島襄 切ルーレ ~ ん へ磯放を豸イ・ 1 ' ャのイ雇多を 今函館脱出の時 の自筆日記卷 頭挿繪 ↑表が , 亠 ~ 毋から ポストンまで 乘船したワイ >- ・ロヴァ