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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學
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1. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

ある。彼を受くる時に祚の屬として現はれ、彼を斥くる時に禪の敵ある。「偖イエス是等の凡ての言を言ひ終りて」である。然り凡て 6 0 0 0 0 0 0 0 として定めらる。そしてキリストの弟子は到る處に此意味に於ての の敎を傅へ絡りて後に爲すべきの大事業があった。馬太傳廿六章以 0 0 0 0 0 裁判官の役を務むるのである。 ( 十月十八日 ) 下が基督敎の中心であり、頂點であり、焦點である。鉉に輻音の聖 〔『聖書之研究』第三〇五號大正十四年 ( 一九二五年 ) 十二月〕 劇はその最後の幕を開いたのである。 〇第二節の意味は左の如くであると思ふ、 ナぎこしのいはび 第十九回大悲劇の序幕 今より二日の後は汝等の知るが如くに逾越節である。其時に 諸國のユダヤ人はヱルサレムに集ひ來る。共時に、衆人注視の前 馬太傳一一六章一ー五節。馬可傳一四章一、二節。 に、我れ人の子は十字架に釘けられん爲に共弟子に賣られるであ 使徒行傳二章二三節。 らう。 0 馬太傅に在りては十字架の大悲劇は第二十六章を以て始まる。悲 イエスは聖書に由り御自身の死の意味と其方法とを克く知り給う 劇と云ひて劇作ではない。有った事であって事實である。然れども た。故に確信を以て共事に就て預言し給うた。然し乍ら是れ弟子等 かり しくみ 事實の餘りに劇的なるが故に假に劇と云ふのである。之に仕組があの意外とする所であった。イエスの死が公然に行はれ、而して其原 って、萬事が終局の目的を逹成する所は全然劇的である、諺に「事因が弟子の裏切りと云ふが如き意外の事柄に於て在るとは、彼等の 實に勝さる小説なし」と云ふが如くに歴史に勝さる劇作はない。そ到底受納るゝ能はざる所であった。イエスは此時までに幾回も御自 して世界歴史の頂點と稱すべきキリストの十字架の出來事が最大の身の死に就て豫告し給うた、 劇たるは當然である。沙翁の『ハムレット』も、ゲーテの「フハウ 彼等ガリラヤに居る時に、イエス彼等に日ひけるは、「人の子 わた スト』も到底之には及ばないのである。 は人の手に附され、人々は彼を殺さん、而して後、三日めに甦る さて いひをは 0 馬太傳廿六章一節に「偖イエスこの諸の言を言竟りて其弟子に日 べし」と。弟子之を聞いて甚だ悲めり ひけるは」とある。前章を以てイエスの言は終ったのである。イエ とある ( 馬太傳十七章廿二節 ) 。彼は其後、更に明確に彼等に告げ スは既に言葉を以て敎ふべきは既に敎へ給うた。部ち言葉を以てすて曰ひ給うた、 わた みわざ る敎訓は終りを告げた。然れども彼の聖業は説敎を以て終らなかっ 我等ヱルサレムに上り、人の子は祭司の長と學者等に附され ん、彼等は彼を死罪に定め、又凌辱め、鞭ち、十字架に釘けん爲 。彼にまだ爲すべき大事業が殘ってゐた。彼は今より贖罪の死を に異邦人に附すべし 遂ぐべくあった。彼の傅へ給ひし敎訓に彼の御血を以て署名すべく あった。イエスの死は彼の御生涯に於て最も肝要なる出來事であっと ( 二十章十八、十九節 ) 。然れども弟子等は何回之を聞かさるゝ も怪んで之を信じなかった。彼等は其師たる聖なるイエスに斯かる た。彼の敎訓は彼の死を離れて考ふることが出來ない。山上之垂訓 は奪しと雖も、十字架の死は更らに貴い。若し輻音の中心を探らん事は決して臨まざるべしと信じた。 と欲せば、之を馬太傳五章以下の三章に於てせずして廿六章以下の〇イエスが弟子等に御自身の死に就て斯く明白に告げ給ひっ長あり 三章に於て爲すべきである。近代の禪學者はイエスの敎訓に重きを し間に、他の所に於て、彼の敵は彼の死に就て謀議を凝しつ長あっ こ 0 置いて、彼の死を顧みること尠きが故に、彼を解すること淺いので もの す・ヘて 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 はづかし

2. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

113 宗敎と文學 て、イサクの妻を求めしむる記事を讀まば、黄昏井戸の傍に水瓶を 我をして吾が高き處に歩ましめ給ふ。 使ふに金なく、住ふに家なく、友は我を賣り、國は我を棄て、妻肩にのせて出で來れる妙齡の佳人、リべ力が皓齒明眸、婉麗の容姿 けんぞく を以て、優しく僕と相語らふ一段の如き、何たる美はしき光景ぞ 子眷屬また悉く隔世の人となる、眞に我は飄然たる天下の孤客、さ れど尚禪ヱホバ我と共に在り、之によりて喜ばんと。忽ちにして九ゃ。又約百記四章の幽靈の記事に至っては、英文學中『マクベス』 の幽靈と此の記事の如き物妻く、身の毛慄立つを覺ゆるものなしと 地の下、忽ちにして九天の上、變化の極端なる何ぞ其の甚しきや。 我邦の詩人は善く花を歌ひ、鳥を歌ひ、月を歌ふ。されど星を歌稱せらる、所なり。更に同三十九章に騎馬の事を敍して、 なんぢ馬に力を與へしや、 ふ者は甚だ稀なり。アラビヤ人は常に之を樂しみ、其の歌また美を たてがみ 其の頸に勇しき鬣を粧ひしや、 致す。蓋し渺々として際涯を極めざる沙漢に在っては、日夕目を歡 いなご なんぢ之を蝗蟲の如く飛ばしむるや、 ばし、耳を樂しましめ、心を跳らするもの少く、獨り天空に滴る如 おそ いな、 其の嘶く聲の響は畏るべし、 く懸かれる昴宿のみ最も善く彼等を慰藉したるもの在りしに由ら 谷を脚爬きてカに誇り、 ん。余輩も亦星を樂しむ念厚く薄暮天文學書を携へて山に上り、心 つはもの 自ら進みて兵士に向ふ、 を星晨の間に馳せ、自ら世界以上に携へ行かるゝ心地するを此の上 懼る事を笑ひて驚くところなく、 たき愉快となせし事あり。而して余輩の斯くの如き思想を惹起する 劍にむかふとも退かず、 に至れるは、又聖書の賜なり。約百記三十八章三十一・節以下に日 矢筒その上に鳴り、槍に矛あひきらめく、 猛りつ狂ひっ地を一呑にし、 なんち昴宿の鍵索を結び得るや、 つなぎ 喇叭の聲鳴りわたるとも立どまる事なし。 參宿の繋繩を解き得るや。 まっしぐら と言ひ、千軍萬馬の犇めき渡る間に、勇しき鬣振り亂しつ直驀 なんち十二宮をその時に從ひて引出し得るや、 に突進する、逞しき駿馬が勇壯なる働き振り、髣髴として眼前に現 また北斗とその子星を導き得るや。 おのづか 調自ら整ひて宛然奧妙なる音樂を聞くが如き思あり。而も其のはれ來る。 イザャ 特に彼の以賽亞書五十三章メサイヤの豫言の如き、殊更に之を讃 想像の雄渾濶大なる到底梅が枝に鶯の聲を聞きて喜ぶ所の詩人が、 するの冗を要せす。以賽亞書四十章以下は實に舊約書文學の絶頂に 想ひ及ぶ所に非ず。 馬拉基書四章二節には、太陽に羽翼あるが如く想像し、且っ吾人達したるものと言ふべし。 更に眼を轉じて方伯べリクスの前に立って、保羅が雄辯滔々、懸 の心を強うするに足るべき慰藉の言あり。曰く、 河の勢を以て、妄を辯じ誤りを正したる使徒行傳二十四章の記事を されど我名 ( ) を恐るゝ汝等には、 閲すれば、宛然デモッセニスを地下より喚起し來れるの觀あり。或 義の日出でて昇らん、 ちから は哥林多前書十三章に於て「愛」を頌咏せる、又は同十五章に於て その糞には醫す權能を備へん、 「復活」を論じ、筆鋒鏡利當る可らざるの概ある、更に同十一章に 汝等は牢よりいでし犢の如く躍跳らん、 於て保羅が千辛萬苦せる状況を敍したる、啻に稱すべく吟ずべきの 其の他創世記二十四章、アプラハムが其の僕をナホルの邑に遣し くさり

3. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

8 6 まこと に依り賴むものは靈と眞とを以てせざるべからず ( 約翰傳四章二十 支那語の信は我の國音之を「マコト」と訓す、印ち誠實を云ふな 四節 ) 、舊約書が不孝の子を稱して「アーメン , ( 眞實 ) の存せざる ( 伊川程曰以レ實之謂レ信 ) 、或は之を「マカス」と讀む事あり マカセテ 子等 ( 眞實を有せざる子等と譯すーーー申命記三十二章二十節 ) と ( 東望 = 都門一信レ馬行 ) 、忠信と云ひ信任と云ひ信賴と云ひ一として 云ふは能く不孝者の心を穿ちし言なり。希臘語のピスチューオー 眞實の意を含まざるはなし、希伯來語の「アーメン」、希臘語の (Pisteuö) 「信する」なる動詞 ( 創世記十五章六節に對し羅馬書四章「ピスチス」、英語の「べリープ」、皆同一の意を含有す、言語は人 三節を見よ ) 井に「信」ピスチス (Pistis) なる名詞は前述の希伯來類が未だその單純と眞率とを失はざる前に發逹せしものにしてその 語の譯字として用ひらる乂ものなり、共に。ハイソー (Peithö) 「縛眞意を發表せしものなり、東西所を異にし風俗感情を異にせるに關 る」又は「結ぶ」なる語の變語にして廣大なる意義を有するに至れせす「信」なる詞の原因は皆相似たり。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 ( 英語の bind 「繋ぐ」「約束する」と對照せよ ) 而して新約聖 故に信仰の基礎は眞實なり、眞實なくして信仰のあるなし、信仰 さぎ きょまう 書の記者はその各種の意義に依て之を使用したれば原文の「ビス の反對は詐僞なり、虚妄なり、無情なり、不親切なり、虚飾なり、 けんぼう しゆっすう チーオー」井に「ピスチス」なる語を解するが爲めには吾人は重空言なり、不忠なり、不孝なり、不義なり、權謀なり、術數なり、 コンテキスト もに文の連續に依らざるべからず。 信仰なる語に反道理的の意を附せしに至りしは人情輕薄に進むに及 亡いちよくぐわんぐし びぞくあせい 此語の單純なる意味は信任なり、路加傳十六章十一節の「誰か眞んで正直は頑愚視せられ學は以て媚俗阿世の器具となりし時にあり 0 たから にき。 の財を爾曹に託んや」は「任せんや」の意なり ( 約翰傅二章二十四 あ・つけ 0 0 0 0 0 0 せいちよく 節參考 ) 、信任は任せらる長ものゝ正直なるを要す、故に「ピスチ 信仰は實なり、故に信仰せらるゝもの (Object faith) も信仰 しんそっ ス」亦眞率の意を含む、加拉太書五章二十二節に於ては之を忠信とするもの (Subject of faith) も實ならざるべからず、實ならざる 譯す、馬太傳二十三章二十三節の「義と仁と信」とは眞實を云ふな ものは信すべからず、實ならざる人は信ぜざるなり、不實の人の信 り、或は確信の義なり、印ち希伯來書十一章一節に於けるが如し、 ずる人も物も世に存するなし、彼は友人親戚を悉く疑ふのみならす 亦確證の意あり ( 使徒行傳十七章三十一節 ) 、その最も淺薄なる意亦宇宙の大原則をも疑ふなり、自然は眞實なる慈母にいて疑を懷け 味に於ては僅かに智識的の説服を云ふに過ぎず部ち雅各書一一章十九る子供には何をも給せず。 節に於けるが如し。 我は三角形内の三角度を合すれば二直角なるを知る故に我は此幾 けうりゃう 英語の Believe 獨逸語の Glauben は共にサクソン語の lyfan ( 許何學上の原理を信じ、家屋の建築に於て、橋梁の構造に於ても、 いき す ) なる語より來りしものにして leave ( 捨てる、任せる ) live ( 生此原理に依らんと欲す、我は正直は最良の政略なるを知る故に、我 る ) love ( 愛する ) の三語は Believe ( 信ずる ) と根原を共にす、 の身を處するに於ても、我の社會の義務を盡すに於ても、我の目前 ( 獨逸語の Glauben, bleiben, leiben,lieben を對照せよ ) 、信するの不利益を顧みず、世の我を嘲けるを意とせず、我は此法に則らん ぎぶつ しんせいぶつ は他に許すなり、部ち己を捨て他に任かすない、而して我は我の愛とす、而して我の全性は此宇宙は僞物にあらずして眞正物なるを知 する人に我を任かすり、我を許し我を任かす人師ち我の愛するもれば、我は人生の最終目的は正義と慈悲と仁愛となるを知れば、時に 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ねいじん めいとくき のは我の生を繋ぐものなり、印ち愛は生命の精にして生命は實に愛は侒人權を擅にし、明德輝を失ふに至ると雖、時には利慾は成功 へんげんきはまり なり。 し無私は失敗すると雖、我は我の目的を變幻極なき世の盛衰に依 うが 0 0 0 0 ほしいま、 0 のっと

4. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

エスが期待し給ひし所でなかったに相違ない。彼に若し入城式執行 ス二人の弟子を遣さんとして彼等に日ひけるは、汝等向ふの村に 6 の意志がありしならば、其れは彼の少數の弟子等と共に、肅々と行 住け、直に繋ぎたる驢馬の其仔と共に在るに遇はん。之を解きて 我に牽き來れ。若し汝等に何か言ふ者あらば「主の用なり」と言はる・ヘき者であったらう。然るに意外にも群衆の加はる所となりて みこ、ろ へ、然らば之を遣すべし。此くなせるは預言者の言に應はせん爲彼は尠からず聖意を痛め給うたであらう。實に聖者の目より見て群 いや なり、部ち、 衆の萬歳の如く厭らしき者はないのである。 むすめ シオンの女に告げよ 〇イエスの來城式であった。正統の王は其都を受取るべく進み給う 汝の王汝に來り給ふ た。然れども一劍を腰に佩ぶるなく、一兵の彼の身を守るなく、平 和の君は故意に馬に乘らずして驢馬に乘り給うた。「彼は柔和にし 彼は柔和にして驢馬に乘り給ふ て驢馬に乘り給ふ」と預言者が曰うた通りである。實に美はしき崇 荷を負ふ驢馬の仔に乘り給ふ。 弟子住きてイエスの命ぜし如くなし、驢馬と其仔を牽き來り、そむべき王である。彼に比べて此世の王等は顔色なしである。 の上に己が衣を置きければ、イエス之に乘り給へり。群衆の多數〇イエスの入城式である。凡ての基督信者は彼に倣ふべきである。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 かぶとを 勝って甲の絡を締めるでは足りない。勝たんが爲に負けるのであ は共衣を途に布けり、又或者は樹の枝を斫りて之を途に布けり。 る。威權を繕ひて敵を嚇さないのである。反って謙遜りて弱きを示 而して前に行ける群衆と後に從ふ群衆とは叫んで言へり、 して恐れないのである。イエスはヱルサレム入都の際、柔和にして ホザナ、ダビデの子に、 さいは 驢馬に乘り給うた。其處に神の子の姿が現はれた。 ( 二月一日 ) 輻ひなり主の名に託りて來る者は、 ホザナ、いと高き處に。 さわぎた 輻音書に於ける受難週間イエスの御生涯の内に、最後の一週間は其 斯くて彼れヱルサレムに入り給ひける時、全都擧りて騷立ち、日 の最も大切なる部分であった。其事は輻音書記者が其大部分を其の記事 ひけるは「此人は誰なる乎」と。群衆答へけるは「彼は預一「「者イ に供して居るので判る。馬太傳は二十八章であって其内八章は所謂受難 エスなり、ガリラヤのナザレの人なり」と。 週間の記事である。簡潔なる馬可傳は十六章の内六章切ち三割七分を之 以上をイエスの凱旋的人城式と見る事が出來ないではない。群衆 に與へて居る。路加傅は二十四章であって、其内六章は受難週の記事で が衣を布き靑葉を撒いてホザナ ( 萬歳 ) を歡呼して彼を迎へたので ある。約翰傳の如きは二十一章の内九章ち四週二分を之に割宛てゐ ある。彼の得意思ふべしである。山地將軍や乃木將軍が陷落せる旅 る。依て知る輻音書記者等の眼に映じたるイエスの受難は如何に重大で 順城に乘込んだ時も此くあったのではあるまいか。イエスは今やダ ありし乎を。イエスは誠に死ぬる爲に世に來り給うたのである。「人の ビデの裔として、王都ヱルサレム受取の爲に入城式を行ひ給うたと 子の來るは : : : 多くの人に代りて生命を予へ、其贖とならん爲なり」と 云ふ事が出來る。 彼れ御自身が曰ひ給ひし通りである。 〇然し乍ら是れ此世の君等の入城式でなかった事は明かである。イ 「『聖書之研究』第二九八號大正十四年 ( 一九二五年 ) 五月〕 エス御自身が是れ死を迎ふる爲の都上りである事を知り給うた。且 又彼は群衆の歡迎を欣ぶやうな方ではない。世人の所謂公的承認は 彼が最も嫌ひ給ふ所であった。故に此場合に於ける群衆の歡迎はイ 十ゑ よろこ こぞ したが ことさら おど へりくた

5. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 義を有する語である、子を生みたる父と母とは勿論父母である、然て世の墮落の一特徴は上者に對する尊敬心の衰退、老人に對する若 わらペ 0 0 たかぶり 0 0 0 者の驕傲である、「童子は老いたるものに向ひて高ぶり云々」 ( イザ し單に其れのみではない、凡て祖先を稱して亦父といひ母といふ、 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ャ書三章五節 ) 、何故に然る乎、凡て老者又は上長者はの代表者 例へば「汝等の父アプラハム」若くは「我等の父 ( 複數 ) アプラハ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ム、イサク、ヤコプ」と言ひ、或は「アプラハムの子にしてダビデとして禪の聲を我等に傅ふべき者なるが故である、父母を敬ふ精神 の子なるイエスキリスト」と言ひ ( 馬太傅一章一節 ) 、若くは「汝の淵源は實に此處に在るのである。 等はサ一フの子たるなり」と言ふが如き ( ペテロ前書三章六節 ) 皆共「次に敬ふべし」とは如何、所謂「敬遠」と稱して「敬」の字を淺 實例である、希伯來人の語として父母とは父母並に祖先の謂であっ薄なる形式的敬禮の意に用ゐるに至りしは人心の大なる墮落を示 た、故に「汝の父母を敬ふべし」と言ひて同時に「汝の祖先を敬ふす、「敬ふ」は素々甚だ重き意義の語である、英語にて之を honour 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 といふ、に對するが如き心を以て衷心より敬愛し畏敬する事であ べし」の意義を含むのである。 0 0 0 0 0 0 - 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 る、イエス曰く「我は吾父を奪ぶ」と ( 約翰傅八章四十九節 ) 、「奪 加之すべて己の上に立ちて己を指導又は支配する者も亦之を父と ぶ」ち「敬ふ」である、を奪ぶの心を以て汝の父と母とを敬ふ 呼んだ、正義と慈悲とに富みたる帝王皇后を稱して國父國母と言ふ べしとの誡めである。 は單なる詩的稱呼に非ずして事實を表明する言葉である、其意味に 「こは汝の祁ヱホバの汝に賜ふ所の地に汝の生命の長からん爲めな 於てダビデ、ソロモン共他の諸王はイスラエルの父であった、又師 0 0 0 0 り」、父母を敬ふ者は共酬いとして長壽なるべしとの意である乎、 弟の關係に就ても此語を用ゐる事あるは聖書の明示する所である、 わかもの わかきこ 約翰第一書二章中に「父老よ」「壯者よ」「嬬子よ」と言ふは一家の或は然らん、然し乍ら父母に孝なる者必ずしも長命ならず、不孝者 必ずしも短命ならず、肉體の生命の長短を決する者は獨り道德問題 父子を指して言ふに非ず師弟を意味して斯く呼んだのである。 0 0 0 0 0 0 0 故に「父母を敬ふべし」との一語の中に雎に生みの父母に對するのみでない、潰俾又は衞生从能 ~ 等も亦與て力があるのである、然ら 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 しふ 敬愛のみならず、我等を支配する主權者並に我等の魂を導く師傅ば「汝の生命の長からん爲めなり」とは如何、此間題に就き余の研 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 究したる限りに於て最上の説明と認むべきは之を國民的に解釋する に對する畏敬の義務を包含するのである、「汝の父母を敬ふべし」、 にある、印ち孝道を重んする國民は、水く其地に存在して繁榮すべし 換言すれば「凡て上長者に對する敬愛を以てせよ」である、而して まさ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 老人に對する尊敬は聖書の敎ふる重要なる敎訓の一である、「白髮との義である、此語は將にカナンの地に人らんとするイスラエルの 民に向て榔の告げ給ひし所にして、從て「汝のヱホバの汝に賜ふ の人の前には起ち上るべし、又老人の身を敬ひ汝のを畏るべし、 我れはヱホバなり ( 利未記十九章卅二節 ) 、「老人を責むること勿所の地に云々」とは彼等若し孝道を重んずるの民たらばカナンの地 に入りし後永く共處に存續繁榮すべしとの謂なりと做すは適當なる 誡れ、之を父の如くし : : : 老いたる婦を母の如くし云々」 ( テモテ前 の書五章一、二節 ) 、「白髮は榮の冠なり、義しき途にて之を見ん」解釋と稱せざるを得ない、余の曾て米國アマーストに學びし時聖書 一 ( 箴言十六章卅一節 ) 、共他ソロモン王が共母の己れの許に至るや起學敎授博士フィールド先生余に語て曰く「忠孝を重んずる國民が長 く其國土を維持すべしとの眞理は余が日本及び支那の歴史を讀みて ちて迎へて之を拜したるが如き ( 列王紀略上二章十九節 ) 、又プジ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 人工リフが年長者を憚りて自己の意見の開陳を差控〈たるが如き初めて明解したる所なり」と、誠に忠孝の精は東洋國民の特性と 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 して祁の賦與し給ひし恩惠である、之あるが故に我等の愛する此國 ( ョブ記卅二章四、六節 ) 、皆同じ事を敎ふるものである、之に反し さかえ としより 0 0

6. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

ートの制定に係る法にある、故に靈魂の事、道德の事を言はんと欲して希伯來語に勝る 力を有したるものは確かにナポレオン・ポナバ れ律である、斯の如く數種の優秀なる法律ありて世界に於ける今日のものはない、其の強き一語の中には我等の二三語を包含せしむる事 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 法制の基礎を作れりと雖も、共時代に於て又其性質に於て遙かに之が出來る、而して右の十誡中多數は極めて簡單なる言語である、 等諸法律を凌駕するものは實にモーセの法律であった、其時代に於「汝殺す勿れ」と言ひ「汝姦淫する勿れ」と言ひ「汝盜む勿れ」と ては歐洲最古の法律に先んずる事尚千五百年印ち今より三千三百年言ふが如き何れも僅かに一一語を以て言ひ表はさる、印ち「汝殺す勿 ローティルツアー 乃至四百年前である、共性質に於ても亦モーセ律に驚くべき特徴のれ」は LO tirzah である、其他何れも皆 LO 「勿れ」の字を以て始 まり而して力ある短き語が之に續いた、故に二枚の石板上此強き 存在する事は法學者を俟たすして明かなる事實である。 先づ共大體の形態に就て見ん乎、之れを傳〈たる最も古きものは LO の語が儼然として羅列したであらう、斯る律法を手に執りてモ ーセがシナイ山より下り之をイスラエル全民衆の目前に發表せし時 出埃及記第二十章である、故に此章に記されたる通りに石板の上に 刻まれしものであるかも知れない、然しながら申命記第五章六節以の嚴肅さは能く之を想像する事が出來る、十誡實は十語 (tenwords) である、十語を中心として綴られし簡單にして強烈なる律法であ 下又は第六章四節以下又は第十章四節以下等に於て少しく趣を異に するより察して、石板の上に刻まれし言語は此中の主なる要點のみる。 十誡の區分如何に就ては從來基督敎界に少からざる議論があっ なりしに非すやと言ふは根據なき想像ではない、思ふにモーセ律の た、其何れの箇條までが第一の板に書かれたのである乎、十誡を大 根柢たる者は斯の如き詳細なる規定に非ずして神は簡潔なる力強き 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 言語を以て其要點のみを綴り給うたのであらう、有名なる東洋學者別してに對するの義務と人に對するの義務とに分ち得る事は殆ど エヴルトが石の上に刻まれし言として推定したる十誡全文は左の如疑を容れない、故に二枚の板の中第一には前者を第二には後者を記 されたるものと想像する事が出來る、然らば何れ迄が禪に對する義 くである。 かに 務であって何れよりが人に對する義務である乎、此問題に就て久し 一、汝我が面の前に我の外何者をもとすべからす。 きざ く行はれたる解釋はアウガスチンの意見であった、彼は以上に掲げ 二、汝自己の爲に何の偶像をも彫むべからず。 たる十條中、初の二條を第一誡として以下順次に繰上げ最後に第十 三、汝の禪ヱホ・ハの名を妄りにロに上ぐべからす。 誡として「汝隣人の妻を貪る勿れ」の一條を附加し ( 申命記五章廿 四、安息日を憶えて之を聖潔く守るべし。 一節 ) 、而して其第一乃至第三の三條を訷に對するの義務と爲し、第 五、汝の父と母とを敬ふべし。 四乃至第十の七條を人に對するの義務と爲した、又アウガスチンに 六、汝殺す勿れ。 先だち有名なる歴史家ョセファスは自ら病太人たるの立場より一種 七、汝姦淫する勿れ。 の區分を世に提供した、印ち前掲十條中第四迄が禪に對するの義務 八、汝盜む勿れ。 いつはりあかし にして第五以下が人に對するの義務なりとの説である、而して後世 九、汝その隣人に對して虚妄の證據を立つる勿れ。 プロテスタント諸敎會は多く此説を採用したのである。 十、汝その隣人の家を貪る勿れ。 ( 出埃及記廿章一ー十七節、申命記五章六ー廿一節 ) 斯る幾多 0 班分法あるに拘らず別に又何人も排斥する能はざる明 希旧來語の貴きは深遠なる思想を簡潔なる語を以て發表し得る所白なる區分法がある、そはち十誡を別ちて前後各五條と爲し前五 、プライ おのれ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

7. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

みのが あたっ みや 一章を研究せんとするに方て、此緊張せる心の状態を見遁してはな スが學者と。ハリサイの人等を詰責して後に殿より出で來れる時に、 らない。此は非常の場合である。熱したる質間に對し熱したる言を 弟子等は進みて殿の構造を指してイエスに日うたのである、 以て答へたる場合である。聖書學者が此章の註解に困難を感ずる 先生、御覽なさい、此莊大なる訷の殿を、之は建つるに四十六 年か長った者であります。そして其内に在りて敎ゆる祭司、學は、イエスと弟子等の此時の心理妝態に自己を置く事が出來ないか らであると思ふ。此は書齋に於て、字典と文典と註解書とを以てす 者、民の長老等は古き制度に由て其權能を保護せらる者であり あなた る問題ではない。國の滅亡を前に控へ、事變の到來と、其意義とに ます。然るに貴師は之等を有って無きが如き者として扱ひ、御自 係はる重大問題である。愛國者が血の涙を流しながら讀むにあらざ 身滅亡を招き給うたのではありませんか と。イエスの偉大は充分に之を認めしも、之を訷殿の莊大なるに對れば解らない章である。 〇此章の主要問題は是である、ち神の子は此世の勢力と衝突して して見て、弟子等に心配なき能はずであった。 其殺す所となる、然れども共れが爲に敗れない。彼は政府よりも敎 0 然るに彼は彼等の心配を打消して言うた、 汝等すべて此等を見ざるか、我れまことに汝等に告げん、此處會よりも、ピラトよりもカヤパスよりも大である。ヱルサレムは一 度神の子を十字架に釘けるが、の子は再び來りてヱルサレムを審 に一つの石も石の上に記されずして遺ることあらじ こ、ろ 判き、彼が行はんと欲する凡ての義を行ひ給ふ。彼は殿よりも大 と。調ふ意は「心配に及ばす、亡ぶる者は我に非ず、此殿なり、そ まこと まこと たよ して殿に附屬する敎職階級なり。國民が依って賴る此殿は、此敎會である。實に彼が眞の飾殿である。は彼に在りて人の間に宿り給 堂は、壞れ崩れて、一つの石も他の石の上に記れずしては遺る事あふ。故に弟子等はイエスが敵の亡す所となりたればとて失望しては らじ」との事であった。確信か狂氣か、之を聞いて弟子等は驚愕仰ならない。彼は暫時世を去るのであって、再び來りて世を治め給 天せざるを得なかった。斯かる事は果して有り得べき乎と、彼等はふ。勝利は永久に彼の有である。彼は天地の主である、人類の王で ある。彼の手に天然の力がある、歴史は彼の意志の實行に過ぎな 自己に問ひ、相互に語り合うたに相違ない。 〇此疑問を心に懷いて、弟子等はイエスの許に來り、彼が今や橄欖い。彼は弱い人の子ではない、強い訷の子である。ヱルサレムの神 へだ 山に坐し、谷を隔てゝヱルサレムの訷殿を眺めつ乂あり給ひし時殿の莊大なるは彼の莊嚴なるに較ぶべくもないとの事である。ち 馬太傅二十四章の所謂「イエスの終末的説敎」は特に彼の終末觀を に、彼に尋ねて曰うた、 共時は何時ですか、永遠無朽と思はれし此紳殿が崩るゝ時は何述べた者でない、彼の敗滅に遭うて失望せんとする弟子等をカ附け 時です乎、其れは恐るべき時、世の終末として見るべき時でありん爲に爲されたる説敎である。其點に於て約翰俾十四章以下と目的 あなた ます、そして共れは又貴師がイスラエルを審判き給ふ時、貴師のを共にする者である。故に其要點は既に馬太傅十六章廿一節以下に の 勝利の時であります、其時は何時來りますか、又共の來る前兆は於て示されたる者である。 此時よりイエス共弟子に己のヱルサレムに住きて長老、祭司の 十如何でありますか くるしみ 長、學者等より多くの苦難を受け、且殺され、第三日に甦る事等 と。恰かも大豫一一一口者に日本國の滅亡を豫言されて、日本人が恐懼し を示し始む ( 廿一節 ) 。それ人の子は父の榮光を以て其使者等と て質間を以て豫一一一〔者に迫るが如き从態であって、冷靜に、哲學的に -1 偕に來らん、共時各自の行に由りて報ゅべし ( 廿七節 ) 。 考ふべき場合でない。馬太傅二十四章、馬可傳十三章、路加傳一一十 さば 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

8. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

た。イエスは鉉に紳の正子として父の家を要求し給うたのである。 0 0 0 0 0 0 いのり 「我が家は祈疇の家と稱へらるべし」と云ひ ( 馬太 ) 、「我が父の家 第二回イエスの殿潔め 0 0 0 0 0 あきなひ を貿易の家とする勿れ」と云ふ ( 約翰 ) 。我が父の家である、故に 0 0 0 馬太傳一二章一二ー一七節。馬可傳一一章一五ー一八節。 我が家であると云ふが彼の主張であった。イエスは鉉に彼が神の子 路加傳一九章四五ー四六節。約翰傳二章一三ー一三節。 たるの權利を主張し給うたのである。而して此權利を主張し得る者 みやきょ 〇四輻音書に依ればイエスは二度殿潔めを行ひ給うた。傅道の初めは天上天下、彼を除いて他に一人もない。故に彼が爲した如くに殿 しる 潔めを爲し得る者は他に一人もない筈である。羔ならざる我等は と其終りとに於て之を行ひ給うた。前者を記す者が約翰傳である。 後者は三偏音書に依て記さる。二度であるか一度であるか能くは判「羔の怒」其儘を繰返してはならない。 さしつかへ 明らない。然し二度と見て差支ないと思ふ。馬太傳に依ればイエス〇イエスの要求は納れられなかった。祭司と學者とは禪殿を私用し は都上りの當日に之を行ひ給うたとあり、馬可傅に依れば翌日行ひてイエスは彼等の除く所となった。然し乍ら彼は彼の神聖にして正 みや 給うたとある。ち當日は調査に止め、翌日決行し給へりとの事で 當なる要求を撤回し給はない。彼は再び殿に現はれ給ふ、而して之 ある。故に一時の怒りに依て爲した事に非ず、深慮の結果爲し給へを御自身の手に收め給ふ。彼の再臨が其時である。 りとの事である。殿の俗用を深く憤り給うたからである。四つの〇舊約馬拉基書三章に日く、 なは 汝等が求むる所の主は 記事の内で最も活氣あるは約翰傳のそれである。「繩をもて鞭を作 なんぢ 忽然その殿に來らん。 り云々」とある。實に「爾の家の爲の熱心我を蝕はん」との概があ った。 汝等が喜ぶ所の契約の主は、 やさ 〇何人も鉉に看遁すことの出來ない事はイエスは決して「優しいイ 視よ彼は來り給はんと、 こひつじ エス様」でなかった事である。に所謂「羔の怒」が遺憾なく發 萬軍のヱホ・ハ言ひ給ふ。 彼れ來る日に誰か堪へ得んや。 揮せられた ( 默示録六章十六節 ) 。イエスは羔であった。然れども さばきびと 彼れ顯はる長日に誰か立ち得んや。 此羔に怒があった。彼は救主であると同時に審判人である。彼の眼 は明白なる不義を容すには餘りに聖くあった。凡て誠實なる人は怒 彼は金を吹きわくる火の如し、 又布晒の使ふ灰汁の如し。 る。怒らざる人は不實の人である。カーライルの英雄崇拜論にモハ ひたひあをすぢ メットの「額の靑筋」の一條がある。モハメットの誠實は之れに現 彼は銀を吹分け之を潔むる者の如く坐せん。 彼はレビの子等を潔めん、 道はれたりと云ふ。況んやの子に於てをや。眞の愛は怒る。路加傳 みやきょ 金銀の如くに彼等を淨めん。 架に從へば殿潔めは「噫ヱルサレムよ、ヱルサレムよ」の歎聲を發し 斯くして彼等はヱホ・ハに獻ぐるに至らん、 + 給ひし後に行はれたりとある。「既に近づける時、城中を見て之が さ、げもの 義をもて獻物を獻ぐるに至らん。 爲に哭き日ひけるは」とある ( 十九章四十一節 ) 。此愛がありて此 其時ユダとヱルサレムとの獻物は 怒があったのである。 1 〇殿潔めは單に殿潔めでなかった、殿の奪還又は其の占領であっ ヱホバの悅び給ふ所とならん。 みのが みやきょ 0 0 0 0 0 0 むち わ ぬのさらし

9. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

すことの出來ない悲歎がある。共時に涙が之を言表はすのである。 6 % 禽獸に涙はない。涙は言語と共に人の特有である。涙なき者は人に 第十五回ヱルサレムの覆減 非ず。イエス泣き給へりと云ひて、彼は女々しい人であったと云ふ 馬太傅二四章。馬可傅一三章。路加傅二一章。 のではない、人らしき人であったと云ふのである。そして人生に貴 き者とて勇者の涙に優さる者はない 〇 , = 」《類 0 救主「あ 0 。故」」 0 愛」抱世界的「あ 0 = 、是〇→ = 都」 ~ り、祭司 0 長 , 0 民 0 長老等』画突」、彼等 0 質 は彼を生んだ國に限らるべき者でない。自國に對して厚くして他國 問に答へ、進んで彼等の僞善を責め、又彼等の爲に泣き、彼等の最 に對して薄きが如きは、人類の王たるべき者の取るべき態度でない後の救に就て希望を述べ給うた。彼は御一人、彼等は多數、彼は田 と云ふ者がある。然し事實はさうでなかった。イエスは特にイスラ舍の一平民、彼等は都會の貴族、學者等であった。此世の勢力を比 あひて エルと共民を愛し給うた。 較して、彼と彼等とは到底敵手にならなかった。然れども論場に於 イエズ十二人を遣さんとして命じ曰ひけるは異邦の途に住く勿て相對してイエスは常に勝者の地位に立ち給うた。「唯一人彼に答 れ、又サマリヤ人の邑にも人る勿れ、惟イスラエルの家の迷 ( るふること能はず、此日より敢て又問ふ者なかりき」とありて、彼等 羊に往け、住きて天國近きに在りと宣傅へよ ( 馬太傅十章五ー七はイエス一人に沈默の裡に封じ込められたのである ( 馬太傅廿二章 四十六節 ) 。茲に一人の權威ある者が此世の懽者の内に立った。ヱ と。此言に表はれたるイエスは確かに自國に厚くして他國に薄かっ ルサレムを擧げて一人の彼に對抗し得る者がなかった。鉉に靈が全 彼はイスラエル人として特にイスラエルを愛し給うた。そしてく肉を壓伏した。豫言者と祭司とが相對した場合は前にもあった 共情がり出た者が「噫 = ルサレムよルサレムよ」との呻であが、然しイスの場合に於けるが如き豫言者の全勝を見たことはな る。愛國は人の至情である。是れあるが故に人は人であるのであい。若し議論が萬事を決するならば、イエスは鉉にユダヤ人の王と る。人の愛國心は少しも彼の人類愛を減じない。共反對に人類愛に して立ち給うたのである。 燃えし人は凡て愛國心の強い人であった。イエスはヱルサレムに注〇然し「今は汝等の時、暗黒が勢力を揮ふ代なり」とイエスが日ひ ぎし愛を以て萬國の民を愛し給うたのである。 給ひしが如くに、今は道理と言葉が勝を制する時代でない。イエス 0 視よ強く伊太利を愛せしダンテが人類愛の模型でありしことを。 はやがて負けて、彼の敵が將さに勝を制せんとしてゐた。弟子等も 、・卩ル又なきカ女 同じ事をミルトン、コロムウル等に就ても言ふことが出來る。日亦彼の大膽なるに驚いた。イエスの眼中、敎職なく加犀 本今日の博士、學士、學生の如くに愛國心の殆んど消滅せし人等よ くであった。今日の言葉を以て言ふならば、イエスは既成敎・曾に對 り愛と云ふ愛を其如何なる形に於ても望むことは出來ない。 ( 五月して戦を挑んだのであった。一 彼の大膽さ加減に常人の想像し能はざ みや : に 卅一日 ) る所があった。彼は曾て殿を指して「汝等此殿を毀て、我れ三日 たて 「『聖書之研究』第三〇三號大正十四年 ( 一九二五年 ) 十月〕 にて之を建ん」とまで極言し給うたとの事である ( 約傅二章十九 節 ) 。蟷螂の斧を振って龍車に向ふとは此事ではあるまい乎。そし て此場合を記したる者が馬太傳廿四章一節、二節である。ちイエ むら

10. 日本現代文學全集・講談社版14 内村鑑三集 附 キリスト教文學

ったのである。そして以下が感謝の連續である、 0 なんちみな のべった 我れ爾の聖名を我が兄弟に宣傅〈、 第二十八回死して葬られ つどひ 爾を集會の中にて讃ったへん。 馬太傅二七章五〇ー六一節。約翰傳一九章三一ー四二節。 ヱホバを懼る者よヱホバを讚めた乂へよ。 希們來書一一章八ー一八節。 もろ / 、すゑ ヤコプの諸の裔よヱホバを崇めよ・ かしこ いきた イスラエルの諸よの裔よヱホバを畏め 〇イエスは詩篇第二十二篇の第一節を口にしつ氣息絶え給うた。 みやまく と。此は大讃美である、共内に悲調は痕跡だもない。すべては勝利それと同時に三つの異象が現はれたと云ふ ) 「殿の幔上より下まで いは と感謝に終った。「、我を棄たまへり」ではない。其正反對に「彼裂けて二つとなり」と云ふが其一である。「地震ひ磐裂け」と云ふ たす れ我を拯け給へり、我を高く揚げ給へり」である。 が其二である。「墓開けて多くの聖徒甦りたり」と云ふが其一二であ 〇廿二節より廿六節までが感謝と讃美である。第二十七節以下が後る。孰れも洪大なる奇蹟であって、斯かる事は到底在り得べからず 世に及ぼす感化の預言である。受難は受難者に取り勝利に終りしに と云へば其れまでゞある。然し乍ら信者は此事ありしを信じ得るの 止まらず、後世を善導恩化するに至るとの預言である。無意味無益 である。此は單に人を驚かす爲の奇蹟ではない、信者を敎へ導く爲 のではない、意味深長、效果無窮の苦難であると云ふことであの異象である。孰れも意味ある、イスの死の意義を表明ぜる奇蹟 をつな る。 である。萬物を支配し給ふ全能の禪が此刹那に於て特に行ひ給ひし 地の極は皆な思出してヱホ・ハに歸り、 奇蹟である。 もろアー、 やから みまへふしをが みやまく 諸ゝ、の國の族は皆な聖前に伏拜むべし・ 〇「殿の幔上より下まで裂けて二となりたり」と云ふ。聖所と至聖 もの 國はヱホパの所有なればなり。 所とを分かっ此漫が裂けて、二所の區別が無くなったのである。 くにびとすべをさ ヱホバは諸よの國人を統治め給ふ。 ち聖所が至聖所丈けそれ丈け聖くなったのである。祭司の長が年に 一回、贖罪の小羊の血を齎らして入ることを得し至聖所の漫が裂け みわざ 彼等來りて「此はヱホバの行爲なり」と云ひて て、何人も今や直に禪に近づき得るに至ったのである ( 希伯來書第 のべった その義を後に生まる民に宣傅へん。 九章參照 ) 。そして是れ主イエスキリストが彼の贖罪の死に由て實 みやまく 實に偉大なる歌である。そしてイエスは此歌を口にしつ世を逝際に成就し給へる事である。キリストの死に由て殿の幔は裂けて、 り給うたのである。共最初の一句のみを以て彼の最後の御心中を忖信者は誰でも人なる祭司、ち法王、監督、牧師と云ふが如き人の たく みくらん 度することは出來ない。最初の一句は全篇を紹介するの言であった。 定めし敎職に由らずして直にの寶座に近づき得るに至ったのであ 詩篇第二十二篇が十字架上に於ける彼の實驗、又慰藉であった。彼る。信者の自由は髑髏山上に於けるキリストの死に由て獲得せられ は禪の愛を疑うて死に就き給うたのではない。 ( 二月廿八日 ) たのである。此事を表號するに最も適切なる出來事は聖所と至聖所 〔『聖書の研究』第三一〇號大正十五年 ( 一九一一六年 ) 五月〕 とを區分する殿の縵の分斷されし事である。此事を克く説明する者 が希伯來書の九章と十章とである。其十章十九節以下に日く、 是故に兄弟よ、我等イエスの血に由り、その肉體たる幔を經て はて にめ