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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

有木憔水「誤まられたる先師川上眉山」 岩城準太郎「川上眉山」 ( 岩波書店「岩波講座・ ( 新聲明治四二・九 ) 日本文學」「硯友社の人々」昭和七・六 ) 田山花袋「眉山の死」 ( 文章世界大正元・一 9 佐山濟「川上眉山研究」 ( 木星瓧「明治文學 川上鷲子他「川上眉山先生追憶」 講座」第五卷昭和七・一 ll) ( 趣味の友大正六・六 ) 輻田淸人「硯友瓧の文學運動」 丸岡九華「硯友瓧文學蓮動の追憶」 ( 山海堂昭和八・ ll) 一新聞・雜誌に掲載のもの ( 早稻田文學大正一四・六、七 ) 土方定一「國木田獨歩と川上眉山」 ( 西東書林 馬場孤蝶「眉山・綠雨・透谷」 「近代日本文學評論史」昭和一一・ 雪の舍主人「墨染櫻評」 ( 女學雜誌明治二三・六 ) ( 早稻田文學大正一五・四 ) 馬場孤蝶「あの頃の川上眉山君」 石橋忍月「墨染櫻」 ( 國民之友明治二三・七 ) 中谷博「川上眉山論」 ( 協和書院「明治文壇回顧」昭和一一・七 ) 三巴代「萩桔梗細評」 ( 葦分船明治一一六・一 l) ( 月刊日本文學昭和七・三 ) 片岡良一「觀念小説時代の鏡花と眉山」 大野光次「川上眉山ー人、作品ー」上・下 ( 立 原抱一庵「『太陽』既載の六小説」 ( 岩波書店「近代日本の作家と作品」 命館文學九、十號昭和一二・九、一 0 ) ( 國民之友明治二八・四 ) 昭和一四・一こ 田岡嶺雲「時文」 ( 靑年文明治二八・七 ) 前田晁「眉山の自殺、獨歩の死」 徳田秋聲「眉山氏のことども」 ( 明治大正文學研究昭和二四・六 ) 内田不知庵「小説界の新潮流」 ( 東京出版瓧「寒の薔薇」昭和一一三・ 伊狩章「明治文學史に於ける眉山の位置」 伊狩章「眉山年巴 ( 國民之友明治二八・九 ) ( 筑摩書房「現代日本文 ( 文學昭和二六 高山樗牛「明治二十八年の小設界」 學全集」第二卷昭和ニ九・七 ) 伊狩章「眉山の念小説」 ( 太陽明治二九・ 吉田精一「川上眉山の觀念小説」 ( 東京堂「自 ( 國語と國文學昭和二六・六 ) 宮崎八面樓「硯友瓧及其作家」 然主義の研究」上昭和三〇・一一 ) 鹽田洋子「川上眉山」 ( 國民之友明治二九・一 ) ( 昭和女子大「近代文學 一一雜誌特集 島村抱月「小説界の新潮を論ず」 研究叢書」第九卷昭和三三・八 ) 伊狩章「川上眉山」 ( 早稻田文學明治二九・一 ) 川上眉山追悼號 ( 太陽明治四一・七 ) 森鸛外「『書記官』評その他」 ( 塙書房「硯友瓧の文學」昭和三六・一 0 ) 眉山追悼號 ( 文藝倶樂部明治四一・七 ) ( めさまし草明治二九・二 伊狩章「眉山の『ふところ日記』」 ( 三省堂「現 ー六 ) 石橋思案他六家「故眉山氏追憶録」 高山樗牛「觀念小説」 ( 太陽明治二九・一 l) 代日本文學講座」評論一昭和三七・一〇 ) ( 新小説明治四一・七 ) 角田浩々「批評『島田くづし』」 三單行本・講座等に所收のもの ( 國民之友明治三〇・三 ) 編集伊狩章 島村抱月「觀念小説を論ず」 坪内逍遙「新著百種」第一號・序文 ( 新著月刊明治三〇・六 ) ( 吉岡書店明治二二・四 ) 時評子「眉山の『朧富士』」 後藤宙外「念小説・その他」 ( 新明治三〇・九 ) ( 春陽堂「風雲集」明治三三・四 ) 文大町桂月「時文」 ( 文藝倶樂部明治三一 ・一 ) 早稻田文學社編「川上眉山」 參島村抱月「所謂暗黒小説の功過」 ( 「文藝百科全書」 - 明治四二・一 ll) 山 ( 讀賣新聞明治三一一・五 ) 内田魯庵「硯友社のむかしの憶出」 絡方流水「鏡花と眉山を論ず」 上 ( 博文館「きのふけふ」大正五・三 ) ( 活文壇明治三二・ lll) 巖谷小波「我が五十年」 ( 東亞堂大正九・五 ) 批評子「眉山の「眞弓槻弓』」 江見水蔭「自己中心明治文壇史」 ( 文庫明治三四・一 l) ( 博文館昭和二・一 0 ) 佐々醒雪「時評」 ( 文藝界明治三五・一 9 來馬琢道「川上眉山について・解説・年譜」 ( 改 臾謝野寬「賤機」 ( 明星明治四〇・一 I) 造社「現代日本文學全集」第七卷昭和四・ lll) 川上眉山參考文獻

2. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

( 春秋計「思ひ出す人々」大正一四・六 ) 亂すのみ」 ( 以良都女明治二〇・八 ) 黐田淸人「美妙の進出」 ( 山海堂出版部「硯友社忍月居士「夏木たち」 ( 國民之友明治一二・九 ) の文學運動」昭和八・ (l) 不知庵主人「山田美妙大人の小説」 佐佐木信綱「山田美妙君、人も學ばん」 ( 中央公 ( 女學雑誌明治二一・一 0 、一一 ) 論社「明治文學の片影」昭和九・一〇 ) 漫評子「『蝴』の批評」 ( 育英書院 瀬古確「山田美妙齋の文章」 ( 日本の女學明治二一一・ 「近代日本文章史」昭和一〇・五 ) 學海居士「國民之友二小説評」 塩田良平「山田美妙研究」 中川小十郎「『いらつめ』と言文一致ー序に代〈てー」 ( 國民之友明治二ニ・ ( 立命館大學出版部「美妙選不知庵主人「蝴」 ( 以良都女明治二二・ 集」上卷昭和一〇・一〇 ) 忍 一一雜誌特集 月「與美妙齋書」 柳田泉「明治歴史小説と山田美妙ー解題に代へ ( 讀賣新聞明治二三・ 江見水蔭「美妙と硯友瓧」他 てー」「評論・隨筆解題」 ( 立命館大學出版部「美森林太郎「言文論」 ( しがらみ草紙明治二 = 一・四 ) ( 立命館文學昭和九・六 ) 妙選集」上・下卷昭和一 0 ・一 9 湖處子「山田美妙齋に答ふ」 塩田良平「美妙の時事ー世話小説に就いて」「美妙 ( 國民新聞明治二三・八・一一六 ) 三講座・叢書論文 小傳」「初期小説について」 ( 右同 ) 美天狗「文論を嘲る」 小泉苳三「明治韻文革新と美妙ー韻文解題」 ( しがらみ草紙明治二三・ 柳田泉「明治の史小説研究」 ( 立命館大學出版部「美妙選不知庵主人「最傑出の作」 ( 新鴻瓧「日本文學講座」圓昭和六・五 ) 集」下卷昭和一〇・一〇 ) ( 國民新聞明治二三・ 土井重義「山田美妙研究 . 一 馬場孤蝶「山田美妙氏を憶ふ」 ・・生「詩辯ー美妙齋に與ふ」 ( 木星社「明治文學講座」 3 昭和七・一二 ) ( 協和書院「明治文壇回顧」昭和一一・七 ) ( 國民之友明治二四・一・ 塩田良平「山田美妙齋」 柳田泉「山田美妙」 石橋思案「故山田美妙齋に就て」 ( 改浩計「日本文學講座」圓昭和九・一 ) ( 春秋社「績隨筆明治文學」昭和一三・八 ) 本間久雄「言文一致の發逹」 ( 早稻田文學明治四三・一 ll) 片桐顯智「山田美妙『日本文論』」 ( 人文書思案外史「嗚呼美妙君」 ( 太陽明治四三・一一 ( 改造瓧「日本文學講座」 2 昭和九・四 ) 昭和女子大學研究室「山田美妙」 院「明治短歌史」昭和一四・ lll) 西村渚山「明治文壇に於ける幾多の光景、山田 河井醉茗「山田美妙」 ( 第一書房「明治代表詩美妙の佗住居」 ( 「近代文學研究叢書」Ⅱ昭和三四・一 ) ( 文章世界大正一・一 0 ) 人」昭和一五・一二 ) 河井醉茗「山田美妙評傳」 禪崎淸「山田美妙と田澤稻舟」 ( 書物展望社 四甲行本所收論文 ( 早稻田文學昭和ニ・四 ) 「日本近代靑春史」昭和一六・七 ) 塩田良平「美妙齋・人・小説』曰ー国 岼内雄藏「小説家は實驗を名として非義を行ふ本間久雄「晩年の山田美妙」他 ( 國語と國交學昭和六・六ー八 ) の權利ありや」 ( 東京堂「文學と美術」昭和一七・三 ) 柳田泉「美妙潰稿 ( 祇王 ) を讀む」 ( 春陽堂「文學その折々」明治二九・九 ) 本間久雄「美妙と紅葉」他 ( 明治文學研究昭和九・六 ) 皴森鷦外「美妙齋主人が韻文論」 ( 靑梧社「冬扇夏爐」昭和一七・一一 ) 竹内英之助「山田美妙の『日本韻文論』」 ( 春陽堂「月くさ」明治二九・一 (l) 片岡良一「解題」 ( 河出書房「現代日本小設大 ( 明治大正文學研究昭和ニ七・一ニ ) 妙後藤宙外「美妙・紅葉・露伴の一一一作家を評す」 系」昭和一一七・一一 I) 村田敏子「言文一致體小説創始についての美妙 ( 春陽堂「風雲集」月の卷明治三三・四 ) 吉田精一「解題」 ( 筑尞書房「現代日本文學全の考え方」 ( 國文昭和三一・ 山河井醉茗「新體詩の發芽、山田美妙韻文を興す」 集」「山田美妙」他昭和二九・七 ) 島本晴雄他「美妙の『いちご姫』の疑問」 ( 博交館「新體詩作法」明治四一・六 ) ( 比較文學昭和三三・ 思案外史「前書」 ( 博文館「美妙叢書」上・下巻 3 五雜誌・新聞所收論文 明治四四・八 ) 編集石田淑子 内田魯庵「美妙齏美妙」 紅葉山人「調子外の戲歌ハ徒に風琴のしらべを 閲岡保生 山田美妙參考文獻 一單行本 ( 人文書院昭和一三・五 ) 一二ー三四・一こ

3. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

444 ( 岩波書店「近代日本の作家 八面樓主人「柳浪子の『狂言娘』」 と作品」昭和一四・一こ ( 國民之友明治二八・一 'l) 廣津柳浪參考文獻 竹内博「廣津柳浪の深刻小説」 八面樓主人「硯友瓧及共作家」 ( 文學昭和一一四・一一 ) ( 國民之友明治二九・こ ( 學苑昭和三〇・五 ) 花田チハヤ「廣津柳浪」 森鸛外他「三人冗語『今戸心中』」 ( めさまし草明治二九・七 ) 飛鳥井雅道「廣津柳浪の初期」 ( 人文學報昭和三四・ 抱月子「柳浪著『河内屋』」 一單行本・講座等 ( 岩波書店「座 ( 早稻田文學明治二九・一〇 ) 柳田泉他「明治の社會文學」 談會明治文學史」昭和三六・六 ) 流水生「『河内屋』を評す」 江見水蔭「配明治文壇史」 ( 博文館昭和二・一 0 ) ( 世界之日本明治二九・一 9 坂本育雄「廣津柳浪の位置」 ( 日本文學昭和三九・五 ) 森鷓外他「雲中語『淺瀬の波』」 岩城準太郞「自然主義以前の作家 ( 下 ) 」 ( めさまし草明治一一九・一一 ) 塚越和夫「廣津柳浪」 ( 日本文學昭和四 0 ・一一 ) ( 岩波講座「日本文學」昭和七・六 ) 佐藤信夫「廣津柳浪考ノート」 ( 木星社「明治文學森鸛外他「雲中語『變目傅』」 藤森順三「廣津柳浪研究」 ( 北九州大學文學部紀要昭和四二・三 ) ( めさまし草明治三〇・一 ) 講座」明治作家研究上昭和ヒ・一ニ ) 塚越和夫「廣津柳浪論」 桂月漁郎「柳浪の近作を讀む」 田淸人「硯友就の文學動」 ( 日本文學昭和四二・一 ll) ( 山海堂昭和八・二 ) ( 文藝倶樂部明治三二・六 ) ( 右同 ) ( 改浩社「日本文學講座」浩々歌客「柳浪子と詩想の裝着」 佐藤信夫「子とその父」 土井重義「廣津柳浪」 明治文學篇昭和九・一 ) ( 小天地明治三四・三 ) 三全集・文庫解説その他 緡方流水「柳浪の長所」 後藤宙外「明治文壇回顧録」 ( 岡倉書房昭和一一・五 ) ( 星光瓧「靑眼白眼」明治三五・六 ) 川原吉郎「『女子參政蜃中樓』解題」 ( 日本評論社 弔花他「近刊合評雨」 本間久雄「明治文學史」下卷 「明治文化全集」第十三卷昭和三・四 ) ( 東京堂昭和一二・一〇 ) ( 文庫明治 = 一七・一〇 ) 廣津和郞「父柳浪について」 ( 改造社「現代日本 鮫島大浪 . 「廣津柳浪」 吉田精一「自然主義の研究」上卷 文學全集」第七卷昭和四・三 ) ( 東京堂昭和三 0 ・一一 ) 片山綠兒「廣津柳浪を論ず」 ( 新聲明治三八・六 ) 廣津和郎「父柳浪のこと」 ( 明治書院「人と作品 / 現なでしこ「目黒魅談を見て」 川副國基「廣津柳浪」 ( 岩波文庫「今戸心中」昭和二六・ 代文學講座」明治編Ⅱ昭和三五・一一 ) 村山勇 = 一「廣津柳浪論」 ( 早稻田文學大正六・三 ) 吉田精一「解説」 ( 筑搴書房「現代日本文學全集」 伊狩章「硯友瓧の文學」 ( 塙書房昭和三六・一 9 河井醉茗「硯友就の『江戸紫』」 吉田精一「解題」 ( 筑攣書房「明治文學全集」第十 ( 早稻田文學昭和一一・四 ) 廣津和郎「年月のあしおと」 九卷昭和四 0 ・五 ) ( 講談社昭和三八・八 ) 田口杏村「蒼々園柳浪先生」 ( 愛書趣味昭和四・一 ) 編集岡保生 一一新聞・雜誌・單行本所收論文等 土井重義「柳浪覺書」 ( 國語と國文學昭和七・四 ) 廣津和郞「父の代から」 共川子「柳浪子の『殘菊』」 ( 東京朝日新聞昭和八・一・ ( 女學雑誌明治二二・ 中村吉藏「廣津柳浪先生」 ( 文藝春秋昭和八・七 ) 奄息生「新著百種第六號殘菊」 ・一一 l) 藤木靜枝「柳浪についての感想」 ( 國民之友明治二二 ( 明治文學研究昭和九・七 ) 謫天情仙「殘菊評判」第一、第二 ・一一 l) 竹島淸治「言文一致體と廣津柳浪」 ( 小文學明治二一一 ( 明治文學研究昭和九・八 ) 謫天情仙「柳浪子の『花の命」」 ・一一 l) 片岡良一「『女子參政蜃中樓』の由來と廣津柳 ( 女學雜誌明治二一一 浪」

4. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

イイ 6 田山花袋「風葉の『靑春』」他 ( 早稻田文學明治四〇・四 ) ( 博文館「花袋文話」明治四四・一 (I) 眞山靑果「小栗風葉論」 ( 新潮明治四 0 ・六ー九 ) 小槧風葉參考文獻 江見水蔭「紅葉と門弟」他 御風生「風葉鏡花二氏の近業」 ( 改造社「硯友社と紅葉」昭和二・四 ) ( 早稻田文學明治四一・五 ) 佐佐木信繕「小栗風葉君」 ( 中央公論社「明治徳田秋江「文壇無駄話ー小栗風葉氏の「戀ざめ』」 文學の片影」昭和九・一〇 ) ( 讀賣新聞明治四二・七・一一 ) 一單行本・講座等 生田長江「小栗風葉論」 ( 大東出版社「生田長田山花袋「小栗君について」 江全集」第一卷昭和一一・ ( 新小設大正】五・三 ) 中村武羅夫「小栗風葉」 ( 改造社「日本文學講座」 片岡良一「處女作時代の小栗風葉」 ( 岩波書店小杉天外「小栗風葉君の追想」 明治文學篇昭和九・一 ) 「近代日本の作家と作品」昭和一四・一一 ) ( 文藝春秋大正一五・三 ) 陸井淸三「小栗風葉資料集」 本間久雄「風葉と鏡花」 ( 東京堂「續明治文學中村武羅夫「小栗風葉先生の人と作品」 ( 自家版昭和一 0 ・一〇 ) 史」上卷昭和一八・一 0 ) ( 文章贓楽部大正一五・三 ) 昭和女子大學近代文學研究室「小栗風葉」 ( 光葉會 吉田精一「二葉亭の影響」 「近代文學研究叢書」二四卷昭和四 0 ・一一 D 相馬御風「風葉氏のおもひでから」 ( 岩波書店「二葉亭案内」昭和二九・六 ) ( 新小説大正一五・四 ) 吉田精一「小栗風葉の寫實小説」 ( 東京堂「自眞山靑果「舊師小栗風葉夫人にさゝぐる書」 田山花袋「近代の小説」 然主義の研究」上卷昭和三 0 ・一一 ) ( 近代文明瓧大正一一一・ ( 隨筆大正一五・七 ) 伊狩章「小栗風葉」 ( 矢島書房「後期観友瓧文眞山靑果「風葉先生醉中語」 後藤宙外「明治文壇回顧録」 學の研究」昭和三二・ ( 岡倉書房昭和一一・五 ) ( 書物展望昭和一八・一 0 ) 吉田精一「小栗風葉」 正宗白鳥「自然主義盛袞史」 ( 東京堂「自然主義の研中村武羅夫「自傳的文壇五十年」 究」下卷昭和三三・ ( 六興出版部昭和二三・ ( 東北文學昭和二一・ ( 學苑昭和二六・四 ) 本間久雄「風葉『豫備兵』問題」 ( 東京堂出版部高津和子「小栗風葉」 中村武羅夫「明治大正の文學者」 ( 留女書店昭和二四・六 ) 「續明治文學史」下卷昭和三九・一 0 ) 岡保生「小栗風葉の作家的出發」 中村光夫「風俗小説論」 ( 河出書房昭和二五・六 ) ( 語文昭和二九・八 ) 四新聞・雜誌・紀要所收論文など 岡保生「小栗風葉序説」 一一雜誌特集 ( 明治大正文學研究昭和三一・ 八面樓主人「新刊小説『寢白粉』」 岡保生「『戀ざめ』の原稿をめぐって」 ( 國民之友明治二九・九 ) ( 中央公論明治四一・九 ) 「小栗風葉論」 ( 文學語學昭和三四・一 ll) 森鷓外他「雲中語『龜甲鶴』」 小栗風葉君 ( 小杉天外 ) 風葉の性格と其作物 ( 相馬御 岡保生「風葉代作考」 ( めさまし草明治三 0 ・こ 風 ) 風葉氏 ( 正宗白烏 ) 小栗風葉 ( 江東生 ) 風葉氏 ( 國語と交學昭和三五・八 ) 尾崎紅葉他「新小説各評『龜甲鶴』」 ( 片上天弦 ) 小栗風葉論 ( 白雲「 ) 風葉先生 ( 岡本靈華 ) ( 新小説明治三 0 ・二 ) 西村慙「小栗風葉論」 ( 國文學昭和三五・一一 ) 小栗風葉氏 ( 徳田秋江 ) 小栗風葉論 ( 守田有秋 ) 小栗 烏水「牛門の二秀才・泉鏡花と小栗風葉」岡保生「小栗風葉の『寢白粉』をめぐって」 君の作物について ( 田山花袋 ) 風葉先生 ( 靑果生 ) ( 國文學昭和三六・四 ) ( 文庫明治三二・ 岡保生「『天才』から『戀ざめ』へ」 平尾不孤「風葉君著戀慕流を讀む」 三單行本所收論文など ( 文學者昭和三六・七 ) ( 讀賣新聞明治三三 ・六・一八 ) 岡保生「『世間師』の成立」 新聲瓧同人「小栗風葉に與ふ」 春潮「風葉氏、果して模擬者なるか」 ( 新聲社「三十棒」明治三三・ ( 鬣文學研究昭和三九・一 0 ) ( 中央公論明治三三・一 0 ) 岡保生一・小栗風葉傅」 絡方流水「風葉の二面」 桂濱月下漁郎「小栗風葉に問ふ」 ( 新聲瓧「第影録」明治三四・四 ) ( 學苑昭和四 0 ・九ー連載中 ) ( 太陽明治三八・一こ 王春嶺「小栗風葉氏」 ( 藝苑明治三九・ lll) ( 日高有倫堂「現代生田長江一風葉論」 糧集岡保生 文士廿八人」明治四二・七 ) 島村抱月他「『靑春』合評」

5. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

日本現代文學全集 11 山田美妙・廣津柳浪 川上眉山・小栗風葉 著 發 印 發 伊 中 平 山 行 刷 編集 藤 龜井勝一郞 村光 野 本健 者 者 者 整 夫 山 ひろ 廣 川 お 野 北 集 印 眞 昭和 43 年 8 月 10 日 昭和 43 年 8 月 19 日 印刷 發行 0 KODANSHA 1968 だ 田 つ 津 かみ 上 ぐり 間 島 び 美 りゆう 柳 眉 ふう 省 織 みよう 妙 ろう 衞 山 印 寫 版 製 製 背 刷 製 本 函 皮 行所株式會社講談社 東京都文京區音羽 2 ー 12 ー 21 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 郵便番號 1 1 2 振替東京 3930 表紙クロス ロ繪用紙 本文用紙 函貼用紙 見返し用紙 扉用紙 大日本印刷株式會社 株式會社興陽社 大製株式會社 株式會社岡山紙器所 小林榮商事株式曾社 崎製紙株式會社 三菱製紙株式會社 安倍川工業株式會社 本州製紙株式會社 日本加工製紙株式會社 日本クロス工業村式會社 / ヲ 6 と 落一本・亂「本はお取りかえいたします。

6. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

433 廣津柳浪年譜 「中央新聞」にそれぞれ連載。十一月、「房行。 子」を「文藝倶樂部」に發表。 大正五年 ( 一九一六 ) 五十六歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) 五十一歳 愛知縣知多半島師崎の海濱病院で療養。 六月、「土竈」を「太陽」に發表。 大正六年 ( 一九一七 ) 五十七歳 明治四十五 大正元年 ( 一九一一 l) 五十一一歳 晩秋、奈川縣片瀬に移住。さらに十一一 月、鎌倉坂の下に轉居した。 一月、「怪火」を五月まで「靜岡民友新聞」 大正十一一年 ( 一九二一一 l) 六十三歳 に連載、二月、「迷」を「太陽」に發表。 七月、和郞譯、柳浪閲の「子供」を「文藝九月、鎌倉小町で關東大震災に遭遇、倒潰 倶樂部」に發表。 した家屋の下敷きとなったが、奇蹟的に無 事であった。その後、東京に歸り、代々 大正一一年 ( 一九一三 ) 五十三歳 木、牛込南榎町、大森木原山 ( 現、大田區新井 七月、「花ちる頃」を「文藝倶樂部」に、 宿二丁目 ) と轉居、療養につとめた。 十一月、「お若」を「文藝倶樂部」に發表。 昭和三年 ( 一九二八 ) 六十八歳 このころ以後おもに地方紙に寄稿する程度 で、中央文壇からはほとんど退いたと見ら十月十五日、午後四時八分、心臟廠痺を併 れる。この年、廬布本村町に轉居。 發して死去した。十七日午後一一時、谷中靈 園齋場にて葬儀が行なわれた。戒名、蒼々 大正三年 ( 一九一四 ) 五十四歳 院績文柳浪居士。 一月、「卑怯者」を「文藝倶樂部」に發表。 岡保生作製 六月、肺尖カタルを病み、以後療養につと めた。 大正四年 ( 一九一五 ) 五十五歳 療養のため長男俊夫のいた名古屋の家に赴 き、伊勢の菰野温泉に避暑した。八月、和 郞編『柳浪傑作集』を實業之日本瓧より刊

7. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

イイ 2 四月、『みだれ髮』を新潮瓧より刊行、十一月、「月火」を「講談倶樂部」に連載し 「太陽」に、八月、「牛途」を「中央公論」 はじめたが、病从にわかに惡化、心嚢炎を 一月、「母の愛』を止善堂より刊行。 に發表。 發し、同月十五日永眠した。同月十七日、 大正六年 ( 一九一七 ) 明治四十五 豐橋市花園町仁長寺にて葬儀執行、東京か 年 ( 一九一一 l) 大正元 一月、『若妻』を新潮瓧より、四月、『人のら德田秋聲、眞山靑果らも參列、盛大に行 なわれた。 倩』を止善堂より刊行。 一月、「老後」を「中央公論」に、四月、 岡保生作製 「落日」を「演藝畫報」に、五月、「女の子 四十五歳 大正八年 ( 一九一九 ) と其母親」を「太陽」に發表。六月、『荒 一月より七月まで「落潮」を「讀賣新聞」 尾讓介』を新潮就より刊行。 に連載。十一月、豐橋市花田町羽根井に新 三十九歳 大正二年 ( 一九一三 ) 居の工事を起し、翌年竣工、留月莊と名づ 一月より「默從」を「東京日日新聞」に四けた。 月まで連載。三月、丈夫が歿した。九月、 大正十年 ( 一九二一 ) 四十七歳 「女夫心中』、十二月、『新かつら下地』を 前年五月に病歿した半田の實父半左衞門の ともに隆文館より刊行。 生涯を描こうとする市民小説に着手した 大正三年 ( 一九一四 ) 四十歳 が、成らなかった。 一月、『終編荒尾護介』を新潮就より刊行。 五十歳 大正十一二年 ( 一九二四 ) 一一月、「夜逃」を「中央公論」に發表。六 夏、健康診斷の結果、心臓、腎臓に異常が 月、『初一念』を隆文館より刊行。 認められ、藥餌に親しむこととなった。 大正四年 ( 一九一五 ) 四十一歳 大正十四年 ( 一九二五 ) 五十一歳 一一月、「奇縁」を「演藝畫報」に發表、「人 一月より翌年一月まで「綠の路」を「婦女 の情」を「淑女畫報」に連載しはじめた。 三月、東京毎日新聞社員となり、以後同紙界」に連載。九月、心臓性喘息の發作が起 を中心にもつばら長篇通俗小説を執筆。十った。以後、療養につとめた。 一月、養父倉次死去、家督相續。 五十二歳 大正十五年 ( 一九二六 ) 昭和元 大正五年 ( 一九一六 ) 四十二歳 四十三歳

8. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

月十二日の項を見ると「懷カトイフ」とある。何のことだか始めわこの留女が比丘尼姿で淺草を歩いてゐたのを時雨の叔父に當る人が 2 からなかったが、よく考へると「留懷姙カト云フ」の意味であつ見かけたさうである。さっそく住所をしらべて早くわかった方が知 。事實廿六年二月七日に女兒みよを生んでゐる。美妙の美かららせようといふことになったが、結局彼女もその機會なく、私も敢 「みよ」としたといふ。それにも拘らず、美妙が小きんに走ったのへて探さうとも思はなかった。まさか美妙との間に子までなした仲 は年上の女の深追ひに辟易したのか、若い小きんの魅力に惹かれたとは當時の私には考へられなかったからである。惜しいことをし のかわからないが、このやうに子供まで成した仲だけに、それと知た。因みに、日留尼は晩酌だけは出家してからも嗜んで、程よく醉 って留が猛り狂ったわけである。しかし、ことが新聞沙汰になるにふと「武太郎が、武太郎が」と美妙との思ひ出を樂しげに娘や孫に 及んで美妙はきつばり縁を切ったらしい。みよは認知しなかったの語りきかせたさうである。 で、留の私生兒として育てられた。 ( 國文學者・大正大學敎授 ) その後美妙は廿八年末稻舟と結婚したが、半年も經たないうちに 稻舟は鄕里山形に歸ってしまった。廿九年九月稻舟の自殺説が傅は 柳浪の葉書 り、美妙は徹底的に社會からたゝかれたが、同情者も多く、四十三 年十月に歿するまで、文壇傍系的な存在ではあったが、辭典編纂者 輻田淸人 とか滑稽小説や歴史小説作家として細々とした生活ながら、前述の 小きん印ちカネ女を妻として三男一女にかこまれて平穩な後半生を私は廣津柳浪の葉書を一枚持っている。文面は、 送った。勿論留にもみよにもその後あはなかったし、從って遺族た「拜復私は今病氣で居ります。おまけに荊妻も病臥して居りまし ちは、みよといふ異腹の姉がゐることは知らなかった。 て御來示の如き簡單なものでも今は執筆する氣が起りません。何と 一方、石井留は美妙と別れてからは發心して水商賣から足を洗も失禮の次第でありますが、今回は御斷申上げます。此あたり何 ひ、花屋敷の近くで甘栗屋、ラムネ屋などを開き資金を貯めて土地か差上る事が出來るだらうと思ひます。あしからず。」 家屋を購ひ貸家何軒かを持ち、一子みよに養子を迎へた。松村金作 と。ヘンで往復葉書の返信にしたため、宛名は「東京市外雜司ヶ谷 といふ。そして大正十五年みよが長男源正を生むに及んで安心した金山三三九文藝春秋瓧御中」と印刷されたものの横に、「菊池寛 のであらうか、翌年身延に赴き剃髮して比丘尼となった。法名を日様牛込區南榎町五七廣津柳浪」と五月廿七日の日付が同じくべ 留尼といった。いきなり尼になって歸京したので家族は吃驚したさンで記してある。 うだが彼女には豫て期する處があったらしい。それからは吉原花つまり、『文藝春秋』執筆依賴の斷り状である。スタンプは「 1 街、淺草三業地の法事に招かれて讀經供養に専念し敢へて布施を求 5 ・ 5 ・ 27 」印ち大正十五年ということが分る。 めず、花街の妓共に浮世の道を説くことを樂しみにしたといふ。歿「文藝春秋』はこの年八月號までが草創期とされているのである したのは昭和十四年八月で行年八十三歳であった。 が、長く沈默しているこの作家に思いついて、菊池寬は往復葉書で ところで話は後戻りするが、長谷川時雨が稻舟傅を書いてゐた頃執筆を依賴したのであろう。

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全集が出ている ( 版權を所有する出版社が讓りあわず、二社から分擔出版 して完結させたという異例の全集だが ) 。美妙にも風葉にも全集がなく、 小栗風葉は、硯友瓧の若い世代として出發したひとで、家を駸嫡 され紅葉家の玄關番として直接に紅葉の指導を受けながら『世話女 當然あっていい柳浪にさえないのに、眉山にだけあるのは、かれが まだ文壇内で仕事をしているときに自殺し、その自殺が衝撃的なも房』 ( 明治二九年一月ー二月『讀賣新聞』 ) ・『寢白粉』三九年九月『文藝 倶樂部』 ) ・『龜甲鶴』 ( 二九年一二月『新小説』 ) 等を發表して注目され のをもっていたということに一つの理由があろう。しかし同時に、 硯友瓧にありながら早くから『文學界』グループに接近し、またそ た。紅葉自身が前記の明治二八年以降の文學動向につき上げられて こを通して樋口一葉とも知り、一葉の日記の明治二八年六月二日の 『多情多恨』のような熟さぬ長篇心理小説を書くという時期で、風 ところには、訪ねてきた眉山が″いたく人生を思ひいりてせんすべ葉は深刻小説の流れに近づき、しかも官能的・情緖的な風俗描寫の いちじるしい作風を以て登場したのであった。この集に收録した もなく、物の辨別つき難く成し頃とて、かしらいたく氣のぼりて常に 夢の中にあるやうの心地す〃、と語った、としるされているような作『寢白粉』はまさにそうした性質のすべてを濃厚に示しており、部 家であっただけに、かれの全集におさめられた多くの作品、とくに 落問題から兄妹相通のことにまで及んでいたため發賣禁止となっ 明治二八年以降の作品は、全體として自然主義に先驅する摸索の氣て、敗戦による檢閹止のときまで一般讀者の眼からさえぎられて 配を示していたのであった。明治三〇年一月から『讀賣新聞』に連いた作品である。なお、明治三一年に『讀賣新聞』に連載し、三三 載し、のち三四年九月に小型本として刊行した『ふところ日記』は、年に完成した長篇『戀慕ながし』は、右の特色のすべてを通俗的な 三浦半島回遊の紀行文であるが、その書きだしのところからかれの形で彩り多く展開したもので大衆的な人氣を得た。 内的な傾向を濃厚に示している。ただしそれは、思想上でも文學飆 二葉亭の譯したツルゲーネフの『ルージン』が『浮草』という題 上でも古風なものを多くとどめていることが讀むにしたがって明ら名で『太陽』に迚載されたとき ( 明治三〇年四月以降 ) 、多くの作家が かになり、深刻めいた言い方は″衒い〃にすぎぬのではないかとい これに強い刺激を受けたが、風葉はとくにこれに深くとらえられて う批判がすでにその當時から行なわれていた。そしてまさにそこのます『沼の女』 ( 三五年八月『新小説』 ) のなかでそれを生かそうと試 ところこそーーかれとしてのまともな苦しみが″衒い〃としか見らみ、やがて長篇小説『靑春』 ( 明治三八年三月一五日から三九年→一月一 れぬようなかれの混沌とした新しさ古さこそ、やがて來た自然主義二日まで、時に斷續しながら二年間『讀賣新聞』に迚載 ) で、主人公關金 の時代を自分なりにうけとめまたは對抗することができなくなっ哉の像をはじめとして全體のシチュエーションから會話にいたるま で、存分にその作品から學びとりつつ、自然主義時代に人ろうとす て、自殺するという行き方に結びついていた。明治一二九年二月の 『早稻田文學』に發表した『ゅふだすき』は、島崎藤村が自然主義る時期の明治三〇年代末の時代思潮・個人意識の苦惱を描きだそう とした。この作品については中村光夫の『風俗小説論』 ( 昭和二五年 ) 解時代を開くことになった『破戒』の出版のその前月の眉山の作品と 品 作いうことになり、おもしろい作品ではあるが、自然主義にも反自然主にすぐれた批評があり、時代の苦惱が風俗として描かれることに傾 いているこの作品の弱點は見事に照しだされているが、作中人物の 義にも進んでゆくことのむつかしい性質のものであった。かれには、 5 なお長篇『観音岩』 ( 明治三六年着手、四〇年完成 ) のようなカ作があ提出している間題が自分自身の切實な問題となりえないところにや 4 った。 がてこの作家が文學から退いてしまう根據がひそめられていた。

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すでにこれより十年前、大正四年に出た『柳浪傑作集」にその子もの記」である。明治三十一年秋、二十歳の荷風が「今戸心中」「黒 息和郎は「彼は靑年のやうに人生問題に惱んでゐる。彼は所謂おど蜥蜴」「河内屋」「龜さん」等愛讀し、その門下生になろうと牛込矢 なになれない。彼はみいかめといふ事を知らない。彼は世間と安協來町の柳浪の寓居を訪ねる。その家の様子や、門人となりたい懇願 一する事をまるで知らな」。彼の眼、彼の頭、彼の禪經に觸れるものにもなかなか承知せず、逆に小説家志望を戒め、また門生を養」敎 ( はすべて彼に堪へられない。嫌悪すべきもののやうに思はれる。える煩に堪えないことなど告げた擧句、草稿の字句、假名遣の誤ぐら 彼は障子に青いカーテンを掛けて日光を遮った暗い部屋の中でい正してやろうと言われた時の荷風の喜び、その後の原稿の紹介な 孤獨な六年を送った」と序している。 ど詳しく書いていて柳浪の親切な一面を示している。 硯友瓧の作家群のなかで、川上眉山と共にもっとも人生や瓧會に荷風はその後、巖谷小波の木曜會に加わっており、そのことで」 心を寄た作家あ 0 た」、明治一一十八年「黑蜥蜴」 = 初ま 0 」わ波 0 門下生視さ〈一」」る。小波は兒童文學 = 向 0 一」」た大人 ゆる深刻小説時代は、「翌年一葉が出、露件が復活するまで文壇はきのものも時々書き、さらに博文館の編集局にいたので、原稿發表 殆んど彼の獨斷場であった」と田山花袋に云わぜたほどの地位を占のってもあることも考えて、荷風は近づいたのかも知れぬ。こうし めていた。 て柳浪とはいっか荷風の關係が薄くなっているが、「今戸心中」の しかし、厭世癖と、明治四十年代からの自然主義の流行と、加え影響は荷風に長く殘っている。 て、大正三年には胸を病み、ほとんど筆を投ずるに到った。 さて柳浪は、前記のような葉書を書いて二年後、昭和三年十月十 柳浪の文壇的地位は、深刻小説時代の餘勢をかって、三十六、七五日には永眠した。おそらく『文藝春秋』には執筆することもなか 年頃までであったようで、三十五年の「隅田の夜露」は好色な事務ったであろう。死の翌日、國民新聞に次のような小さな記事がある。 員の毒牙にかかる女工等を描き、同じ年の「雨」は陰雨に閉された「柳浪廣津直人氏は十五日午後四時八分府下荏原郡人新井町の自宅 貧民窟に生活難にあえぐ若夫婦、そこへ金をせびりにくる女の母親で老衰病の爲め死去した、享年六十八、枕頭には一週間前より詰切 を配している。 りの令息和郞氏が侍してゐたのみで往年の文壇の巨將として淋しい 三十七年發表の「そまる糸」には、妹の友逹であった女が、藝者最後であった。」 に賣られた。その女に同情した主人公は、一夜、その藝者を茶屋に呼荷風の「斷腸亭日記」十月十六日にその死を新聞で見たこと、「明 んだが、あまりに商賣ずれしていることに幻減し、急いでそこを引日午後谷中齋場で告別式執行の由」と記され、十七日の條に「晴れ きあげるといった筋であり、「兄の煩悶」は腹ちがいの妹が淫蕩でて風なし、午後一一時過谷中齋場に往く、燒香して直に齋場を出づ、 不良靑年と關係、つづいて牧師とも關係することについて、兄の煩泉鏡花生田葵山日高笄阜の三子に逢ふ、葵山笄阜の二子と共に上野 悶を描いたものであるが、前記三十五年の作品は、社會の暗い一面公園を歩む、工事の最中なり」云々の記事が見える。「わが文士と をリアルに描いて、かっての深刻小説と呼ばれた作品より實感性がしての生涯は廣津柳浪先生の門を叩きし日より始まる」と書いたこ ある。 とのある荷風の告別をも舊師柳浪は受けたのであった。 柳浪の流行作家時代の一面を示したものは、永井荷風の「書かで ( 作家・立敎大學敎授 ) 3