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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

そば 、産婆も手柄顔に吉五郞が傍へさし付け、「御覽なさいまし。御 與太に何とでも云って見ろい。作言をつくなら吐いて見ろい。」 けんまく いざと云はば、打ちも掛りなん吉五郞が見脈に、老婆は仔細は知器量好しで人ッしゃいます。丸々とお肥りなすって、此お可愛いこ らねど、また例の一件ではあるまいか、まさか今度のに其様事は と。まア笑ひさうな顔をなさって。」と、笑を含みつ、「さアお爺ち みど 0 ご と、尚ほ疑ひを存しつつお都賀を問詰むれど、泣入りて仔を語らやんですよ。」と、愛想を花に孩兒を見ぜけるに、此時までも德利 を放さざりし吉五郎、振向きだにせざれば、産婆は繼ぐべき言葉を ず、僅かに口を開きて、「何様面ア爲て居たツて、心まで : どせい ちゃんちょい 云掛くれば、吉五郎が付く如き怒聲に、云はんとしては云ひかぬ失ひて呆れたり。 與太郎は斯くと見て、産婆が思はん所も氣の毒さに、「家爺、烏 る風情なり。老婆は愈よ其と覺れど、知らず顔に吉五郎を和めつ、 渡見てって呉んねえ。折角産婆さんが連れてッて呉れたんだよ。 お都賀を慰めつ、兎角しける處へ、與太郎歸宅りたりき。 老婆は與太郎に對ひ、おのれが見し様子を語りて、仔細は知らね可愛くもあるめえけれど、ねえ家爺。」と、促されたる吉五郎、「何 ど、お都賀どの悪きものなれば、惡き様に詫の爲様はお前の心に在だ見て呉んねえだ。何を見るんでい。」と、漸くにして朦朧たる酔 なまじ るべし、憖ひに他人が入ったなら、そこには蓋も入る道理、親子夫眼を此方へ向けたり。 よきしは なかな准り 「何だ、孩兒か。見ろてえな、此か。は、は、、不思議だなア。此 婦三人水入らずの和合をと、好機會にして歸り去りぬ。 へんをこらい 與太郎は詫をするにも、謝せしむるにも、さし當って迷惑したれ でも人間並の面アしてやアがるから、變梃來だなア。生れねえでも あにをつら ふをつ ど、何がなしに酒の事と、泣居るお都賀を叱りて酒屋へと走らせ、 好いんだに : : : 。痘痕面もしねえで、眼も雙方ある處がまア儲けも 何事も酒に免じてと、膳を賑はす下物も一一三品、飲らぬロながら其んだ。何だッて。可愛かろだア。産婆さん、串戲ひッこなしだ ・ ~ ごまり てめえ うるは おいら よっど いはすかたらす 身も脣を濡し、仔細は不言不語、一場の段落はっきたりき。 ぜ。自分は此奴の方が、餘稈可愛いや。なア、手前とが一番気が合 此よりの後、お都賀は岳父の顏を見れば、淺猿しやと思ふ心の動ってらア。何時見ても憎くねえな、手前ばかりだ。さアもう一杯可 ひきがヘる はんめ きて、包むとすれど色に出づれば、吉五郞はロ續けに隻目の蟾蜍と愛がって遣るべい。」 ふたり みけん」、・を 罵りつ、酒に怒を漏らして夫婦に當れば、與太郎が眉間の顰み、お 吉五郎が言葉の終れる途端に、屏風の中なるお都賀、はアと聲立 てつつ泣く。産婆は驚き呆れながら萬一の事ありてはと、與太郎へ 都賀が眼の赧からざる日とてはなかりき。 みごも よそ 眼顏の指圖に、與太郎はお都賀が手を屹と握りしめ、耳に口を寄せ 斯かる中にお都賀は姙娠りたりしが、他家にては打祝ふべきを、 がまん 吉五郞と云ふものあればこそ、因果を宿せしかの如く打歎く、夫婦て、「今始まった事ちやアねえや。耐忍して。能いか。氣を落付け てなア。何と云ったツて能いや。今手前が如何か爲って見ろ、おい の意中こそ哀れなれ。 でえかええさう らが困るばかりぢやアねえや、何にも知らねえ孩兒が、第一可哀想 がまん だ。耐忍して呉んねえ。能いか。さア氣を落付けねえ。な、な、 されはひ はらのこ つつが 繞倖にして血も上らず、胎兒にも恙なく、お都賀は夫の優しき心な ! 能いか。」と、吉五郎へ聞えざる程に慰め勵ますなり。 かろ しにかまま、り お都賀は夫の心配するが氣の毒さに漸う涙を拭ひっ、袖より僅か を鹽釜の守札とも縋りて、産婆來りし後は思ひの外に産も易く、身 うなづ に顔を脱し、與太郎を見て言葉なく首肯きしが、見まじとすれど見 二つになりし嬉しさ何物にか比ふべき。 あくきらせつ をのこ 産聲にも力あり、男兒なりと聞くに、與太郎が喜ぶ顔を見るよゆる屏風越の岳父の顏の、惡鬼羅刹よりも尚ほ怖ろしさと、當座の うぶ・こ丸 こ ( ろ むか どんな あさま たり めが こなた は一つ がき をば てめえ この

2. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

たせ置きて、座を立ちたり。 うせ、め、迷惑序でだ。ね、ね、傳さん、は乂、はゝ又。お、お、 れつはり 7 おは、仁、仁壽堂の、お、お濱さん、お濱さんだ。ち、ち、畜生ツ、 仁壽堂の來ると云ひしは素より譌言、常蔵を此へ引出せしも、一 僕、僕なんざア、い、いの、命も入んねえ、入んねえ。ち、ち、畜時を欺きしにて、常藏が様子を窺ひ、切羽詰りし難儀を打明け、一 めえ 生ツ。でツ、でツ、傅さん、お前さん、い、い、美女だ。ち、畜判にて金を借らんが爲めなりしに、常蔵が今の様子、到底も承知せ いできた いだ ん望なし、何とせばやと、奧より表へ出來りたれども、迎を出す用 生、た、堪んねえなア。」 ひそか 「は又は乂ゝ。大分御執心ですな。お前さんも美女だと思ひなさるあるにもあらねば、また私に立戻りて、便所へ人りたり。便所を出 かね。」 で、手を洗ひっゝ空を仰げば、庭もせに櫻花の咲き亂れて雪洞の火 はなびらこず 「な、な、何だッて。お、お、思ひなさるかッて。えへ、えへ、え影にちらり / 、、 花瓣の梢頭はなる又風情、得も云はれざるに、覺 うちふる へ。お、お、お濱さんの爲めなら、でツ、傳さん、ぼ、僕ア何だッ えず見惚れたりしが、我に還りし時、全身ぶる / \ と戦慄ひぬ。わ まなざし うなづ て、ほ、欲しかアない。こ、こ、此だって : れ知らず前後を見返りし眼光いと鋧く、首肯くが如くいと深く呼吸 ふところ・ 常藏は懷中に手を差入れ、胴卷を引出し、傅吉が前へぼんと技出をつく。 「お、おーい。おーい。でツ、傳さん。」 「こ、こ、此金だッて、す、すぐ、直ぐに奉るねえ。ははゝ、 常藏が我を呼びつ乂手を拍けるに、傅吉は我にもあらす走り戻り あは、は乂又。」 あつい 「常さん、今ツ、今直きに。ちやア熱墹のを、もう二三杯。え、さ 「お濱さんの爲めなら、此をツ。」 あんま 傳吉は胴卷を取上げしが、二百圓近き手當り、此故に此苦勞をすうして常さん。常さん、此ッ限ぢや、餘り濟まないから。」 る事ぞ、と覺えず手に力の加り、夢心地になりつ、常藏が顏を見詰 折能く來合せし女中の、銚子を手にしたるを見て、傅吉熱燗かと あっし うらふる 問へば、熱烱と答ふ。それ幸ひと無理強に立績けて四五杯、自分常 めつ乂戦慄ふ。 ゐざりよ かたは 常蔵は膝行寄りて、傅吉が手にせし胴卷を取らんとせしに、俾吉藏に酌する傍ら、手早く勘定を濟まして、足元覺束なきを介抱しつ くるま なま袁ひ いらぬ たが つ、家外へ出でたり。常蔵が無用と辭する人車に、相乘しつ又其と が手にはカ入りたれば、生醉本性違はすして、俄かに心付きしか、 傅吉が手より奪ふが如く、我懷中へ押人れたり。 指圖すれば、人車は猿樂町へは行かずして、萬世橋を北へ、常藏は 「は又はゝ乂。」 其とも知らす、醉に夢心地を辿るなる・ヘし。 「はゝはゝ乂。」 十五 「俾吉さん、お前さんに上げるなア、ま、ま、未だ早えんだ。えー かなたこな あんま い。仁、仁壽堂の大將、あ、あ、餘り : : : 。」 次の朝仁壽堂の勝之助は、平日よりは早く店へ立出で、彼方此方 ちょいと くる 「鳥渡待って下さい。もう一遍使を遣るから。なに、直きです。人藥瓶など調べ居り、葡萄酒の壜を取上げ、透し見て小首傾け、 車を持たせて遣るから、もう長くは待たぜやせん。鳥渡、鳥渡、も 「定二郞、此は如何したんだ。些ともないちゃないか。此様事を爲 少し。」 て置いちやア困るよ。早く取替へて置くが能いよ。」 きがっきま 傅吉は常蔵が様の一變せしに、我も気付きて心に驚き、常藏を待「へい。もう、其ッ限で外にもありませんから、其でつい、不注意 ふところ い、をんな い、をんな ちょいと はえ おもて みうち さくら めがね ふたつみッっ とて こんな んり

3. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

55 變目傳 あやまち やけど そんな 眼を丸くしたる母の顔を、俾吉は見返り、 統に私が濟まないのさ。私の過失でお前に湯傷をさせて、其様顔に おツかさん うまれつき 「だッて、慈堂。私の事を世間ちゃ、變目傳だの蜘蛛男だのツて、 爲たのだから。勘忍してお呉れよ。生得の片輪ちゃあるまいし、顔 みんな、、 じゃんこ 衆人がさう云ってるぢゃないかね。だもの、此様男を亭主にする女にひッつりがある位は、痘痕から見りや、お前何でもありやしない が、何處にあるもんかね。」 よ。人は美目より心と云ふぢゃないかね。男振を望で來る様な女房 きせる 帳簿はたと閉めて、烟管手に取り上げ、伏目になりつ烟草を吸なら、此方からお斷りさ。お前が私に委せてさへお呉れなら、屹度 立派な嫁を探して見せるよ。世間は廣いやね、馬鹿な娘ばかりあり すべて 傅吉が我と我身を歎てるが如く、身材いと低くして、且っ肢體をやアしないよ。お前、私に委せてお呉れでないか。」 たけ きせる 小さく生れ付きたり。ゆきは六寸五分、丈は三尺一寸、其にても尚 母が斯く云へる間、傅吉は烟管を手にせし儘、往來を見潰りて、 きもの たうぎんじま ほ踵を掩すば。かりなる着服は、羽織にも好みて赤出の唐棧縞を用耳を傾け居る様もなく、母が迫れば、雎打笑めるのみなり。 ふところ ゐ、常に手を懷にし、駒下駄突掛けて、ちょこど、と小走りに歩「お前、なには如何だらう。あの仁壽堂のお濱さんは。私は大層能 ゆきき くちさが わらべら める様、往來の人目を惹けば、ロ惡善なき童等は、蜘蛛男又は侏ささうに思ふんだよ。」 すんぼふしあだな 儒と綽號し、彼を見るごとに、興ある事にして打ちはやす。顏は お濱と聞いて、傅吉は覺えず母の顔を見返りたり。 めじり 丸顔にして、鼻は形よく、口元に愛嬌あれども、左の後眥より頬へ 頬赧くなりて、何となく羞を含みたる我子の様子に、母は傳吉が やけど 掛け、湯傷の痕ひッつりになりて、後眥を竪に斜めに釣寄せ、右の顔をちッと見詰めぬ。 あだな 半面に比ぶれば、別人なる如く見ゅ。此にぞ、變目傅の綽號は附け 「だめだよ、母親さん。呉れるものかね。」 わぎ いと られける。態とらしく笑を含めば、厭ふべき目付いとゞ氣味惡く、 「だッて、呉れないたア限らないやね。お前彼娘なら : : : 。」 をんなこども 女童など親しまん様なし。されど、ロに毒を含まず、氣輕に而も 母は云掛けてぢッと見る。傅吉は例の目付ににやりと打笑み、 いづれ 人と爭はねば、何方にても憎きものにはされず、物淋しき折など、 「ふゝふ ゝ又ゝ。だめだよ。恥をかくばかりたよ。」っいと立ちて 遊びものとして待たる乂事もありけり。 店へ出でたり。 母は傅吉が諦め顏に、我女房となるべき女の、いかでか世にある べき、われは變目傅蜘蛛男なればと、伏目になりて烟草を喫める樣 こ、ろふびん まぎ をさない のけ あなど を見れば、其意中の不便さに、はや涙のせき來るを、態と笑に紛ら 傅吉は幼時より友逹に除ものにされ、物心つきては、人の我を侮 かろ くちをし ひとなみ り輕しめ、尋常ならぬを云ひ罵るが口惜さに、尾張町の洋酒間屋へ 「ほ長ほ乂ゝ、お前またきまりを云ってお居でだよ。他人が何と云奉公せし中も、身を粉にして立働き、主人の信用を得たる結果、朋 ちっ そんな いちはや ったツて、些とも關ふ事はないぢゃないかね。其様人達の世話にな輩五人ありし中に、逸早く店を持たせて貰ひ、母に不自由な思させ いつんだち まうけすくな りやア爲まいし、斯うやって、獨立で店を張ってるし、立派なもざる迄にはなりしなりき。されば、商賣には目先きゝて利潤も尠か たくはヘ んだアね。大きな體格を爲て居たツて、土方だの、人足だの、人に らねば、店の品物思ふ儘に積みたるが上、現金の貯蓄も相應に出 使役はれてるぢゃないかね。お前が小さいからとッて、何も羞かし來、二間の間口を近き中に三間にしてなど、母を喜ばすれば、母も い事があるものかね。大男總身に智慧が廻りかねとさ〈云ふよ。本其を樂しみにして、其程の身代になりしを見れば、共日に眼を瞑る め、とカく づうてえ かこ ゑみ たて こんな ものさみ たばこの いっ うち あのこ どひや

4. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

18 イ よそめ 一盃一城に代へ、三盃一國に代へ、百盃命に代へて、餘り安さの五餘所目にも餘るほどなりけるを、如何しけむ男すまずなりてより、 ながら 十年、それまで能く生存ふべきゃなど、不圖思起す時、却って打笑此女も俄かに都を去れりとのみ聞えしが、朝の雲タの雨、行き行く ふ若氣の至り思ふほど口惜しく、野心なきにしもあらず、抱負なき水の流渡りて、其身に取りては好ましかるまじき此處等わたりにあ うらだなくまさん らむとは、さりとも思ひ寄らざりき。今は何するぞと問へば、それ にしもあらねど、それを言はゞ裏店の熊様だにとのみ、事は變れど うんびんくわがん より先に彼人は如何したまひしと言ふ。雲鬢花顔、いで其頃は一笑 詰る處は同じゃうなる輪を廻りて、死なむが爲に生きむ事をカむる 米や魚鳥や牛乳や肝油や、不朽奪きか無限有難きか。古來英雄すべ百媚の中に幾百の心をも奪ひたりけるが、鏡にや泣く移ろふ色の笑 て寂寞、盛名論もなく馬前の塵、枯骨鍬先に掘出されたる幾百年の止や、むかしの花もなし、只有る家に誘はれて、共事此事語出づる に、我も十九血氣の伊逹の當時、二十といひし折からの後先知らぬ 後、世話燒なる古實家に騷がれて、俄かに石を立てられたると、も しくは刑場の露と消えて、生理學者の御參考とやらむ室の一隅に釣笑顏も殊に懷かしきを。思ひきや、三浦の半島に彼一句此一句うら むかし しるこ 若かりし夢の片割を描出して、今更に跡形もなき往時を忍ばむと 下がれる骨骸と、其間徑庭あるが如くに思沼す事全く汁粉の御祟り ひそ などと私かに嘲笑びける醉語我ながら面憎く、如何すべきと思入るは。なほ其心事を聞續くるにいと哀れなり。脂粉汚れたりと言ふこ と勿れ。士や其德を二三にす。彼男の家には又新しく大張子のある 度の心の下より、今も逸早く、三崎に行かば飮むべし。と直ちに思 定むる心根の下劣なる事を恥づるの次第是非もなし、此間一里思ふを。といと苦しければ、思ふほどの言葉を盡して、やがて別る乂に ときは なかふき ところ多くはロ腹の慾のみ。常盤、島村、中葺など、念頭に上りた再び遇はれまじとや泣くもしをらし。なほ此處にあるやと問へば、 らくくわへうれい かひ るものの第一なるべし、何故とも知らず斯かる處に來て時なれば貝心ならぬ人と共に明日は名古屋へ行くべき身とぞ。落花飄零、いか さより このわた ばしら しらを 柱を思ひ白魚を思ひ、獨活を思ひ筍を思ひ、針魚を思ひ海鼠場を思なる日を見むとすらむ。匂渡れるタ松島も、思へば果は佗しかりけ しうづら ちゃうさん からすみ ひ鱸を思ひ、果は其處等目に人る鴫鶉にも及びける卑しさの張三 さいほ 我嘗て日光の山中に歌舞の女の成れの果を見て、むかし諸侯の奥 李四と選ぶ處なきそれも恥かし。既にして菜圃盡く。刺子の如きも ひすん まいはひはお ぢり蒲たる老漁夫前を行き、間祝被りて頬冠りしたる若き漁夫脇道に爭ひ召されきといふ振袖の盛時を思ひ、翡翠のかづら花萎れける いにしへ ひがきしらびやうし 檜垣の白拍子が、みづはくむまで老いにける古を忍び、其後田子 より來れり うらわ の浦回にては又分けて人を動かしける女の、驚かれぬる埴生の宿に 三崎は近し。軒やゝ繁く渭羽子の、伽羅追ふ風にも迎へられつ うばたま わぐりあ さま變りてありけるに邂逅ひて、か又れとてしも烏羽玉の黑髮長く かつら 恨を曳けるに、其むかし桂の眉の匂、美色の誇りに世を世とも思は ざりける眼の色の殊に冴え冴えしかりし頃は、拙かりし心も嬋妍た もとひ こむらさき 君來ずば、閨へも入らじ濃紫、其元結に霜白きタとばかり五歳る中に隱れ、なまじひの才藝も目覺ましきものに思ひなされて、心 おとづれ むとをやとせ 六歳、八歳がほどは音信も聞かざりける女に、ゆくりなく三崎の町のま又の振舞をも人は許すより先に醉うて騷立てけるが、一朝光失 せて身はさすらひの疵はあらはに、言甲斐なくも誘ふ水あらばいな 中に行遇うて、物々しく聲掛けられ、はじめは面影を打忘れて、心 付き驚きて如何にして斯かる處へと差寄れば、答へはせで先づ涙ぐむとぞ苫屋のもとをも辭まざるほどに思屈しけれども、我を見るよ り面を蔽うて避けむとしたる心根の餘りに不便なりき。自ら立つ事 む。此女我が知れる男に淺からぬ契ありて思ひ思はれける月頃日頃 ねや こじっか けいてい うど やりはご を一やら いかゞ ゅふべ さしこ っと れっとせ とまや いな はにふ 亡んけん

5. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

りを ひとあし 聞が惡いやね、親のロを乾すだなんて。」父を見る眼も自づとカむ。 も察はれ、蟲の音なる女房が言葉に、與太郞は尚ほ一歩進み寄り とッくり から はふりだ がまん ばアさん 吉五郞は空になりし德利を板の間に投出し、「其面何でい。其様 8 て、「今直きに産婆が來るからな、耐忍して居ねえよ。」 げえぶん 「あ ! 心配してお呉れでない。もう、なアに、苦しかア : : : 何と面ア爲やがって、如何爲ようと云ふんでい。ゃい與太ツ、手前外聞 わり あたしとかい が惡いてえ事知ってる氣か。よう、與太ツ。」 もありやしないよ。私ん所ア能いから、は、は、早く、お出でよ、 與太郎は相手にならざるこそ能けれ、とは思へども立ちもなら お家父さんが呼んでお居でだから。」 なか′、ー がまん ず、今は倒に尻を据ゑつ、腰の煙草袋を取り出し、伏目になりて 「耐忍しねえ。もう直きに來るんだから。」と、女房を慰め置きつ、 煙草を吸む、其眉頭には顰みも見ゅ。 與太郞は腕打組みて、吉五郞が前へ坐りたり。 ふりうご ひま おいら 吉五郎は德利を取上げ、これ見よがしに振搖かしつ。「六十近い 「おい與太。手前何だな、乃公と話す間もねえんだな。」と、茶碗 べえあてが 老親のロに、好い酒一杯宛行へねえで箆棒めツ、外聞が惡いたア、 に八分目の酒を一息に飮み乾し、長き息をふうッと吐く。 いく 1 っ うなづ ぬか 與太郞は眼を閉ぢて垂頭き、「其様事アありやしねえよ。今歸宅何吐しやがんでい。年老って樂が爲たけりやこそ、手前の様な無氛 った所なんで、鳥渡いま : : : 。」 カ野瑯を、馴れねえ男の手一つで人間並に爲て遣ったんだ。職業も 「今歸宅ったなア、手前から聞かねえでも知ってらア。手前何の用碌素法出來ねえ木葉大工の癖しやがツて、直きに嚊の詮索よ。親へ ごをくすさま があって、何處へ行きやアがツたんでい。」 樂な思ひもさせやがらねえで、嚊のも妻じいや。初めツから云 むしがかぶ ばアさん 「何處ヘッて、産婆を呼びに。お都賀が陣痛って、今にも飛出しさはねえ事ちゃねえんだぞ。お都賀が來やがツてから、ロが殖えたの ごんつく だん / 、おいら うなんで。見ねえな : : : 。」と、吉五郞が顔を屹と見て、其目に産何のツて漸よ乃公のロを絞りやアがって「此頃ぢやア五合と相場を ひりた あんなせつ 定めッちまやアがったちゃねえか。此上孩兒なんぞ出産されて、お 婦を見返り、「如何に苦ながりやがるから、産婆を呼びに行って、 たまり小法師があるもんかい。孩兒が生れりやア、乃公はどんな目 今歸宅って、鳥渡お都賀の : めえ に會はされるかも知れやしねえ。へん、老人の乾物なんざア、何處 「だから云はねえ事か。一人前の腕も持たねえで、孩兒い生えて、 どう へ持ってッたツて、錢にゃなるめえぜ。加之に無鹽の脂ッ氣なしと 手前其で如何する積りなんでい。」 しゃう めえ 「如何するツたツて、お前、今更其様 : : : 爲様がねえよ。」 來ちゃ、與太、手前捨所にも誤っくだらうぜ。」と云ひ止んで、 うつむ からどくり 空德利を傾けて茶碗へつがんとし、「へん、何の事アねえ、のの字 「爲様がねえものを、何故こせえやがツたんでい。」 「だッて : を書いたツて初まらねえ奴よ。」と、又もや德利を投出しぬ。 。困ッちまはア。」 「無えんだねえ。なけりや今買って來るよ。濟まねえけれど、産婆 「何だと、困ッちまふだア。」と、乘出すが如く顔を進めて眼を怒 らし、「生意氣なことを拔かしやアがるない。めツ、手前の様が來る迄だ、鳥渡待って呉んねえよ。お前の云ふ通り、お都賀を娶 おいら かかア、も はじめ ったなア、自分が惡かったから勘忍して呉んねえ。今更追出される な意氣地なしにや、嚊は有てねえッて、最初ツから云ってるんだ。 それ わからすや がき もんでもねえし、其に孩兒が出來ちやア、もう詮方がねえよ。お前 嚊を有ちやア兒が出來るてえなア、手前の様な沒分曉漢にだッて、 とるとし からだたん・ ( ー が年老で、四肢は漸よきかなくなるし、其世話をさせてえと思った 分らねえ事はあるめえ。今でせえ、箆棒めツ、たツた一人の親のロ めえ から、お都賀を娶んだ様なものの、如何した譯だか、お前の氣にや を乾しやがるぢゃねえか。」 こうけえ ちゃん げえ 「家爺、靜かに云って呉んねえな。」と、與太郞は家外を見返り、「外入らねえし、自分ア實に後悔してるんだ。だがね家爺、お前だッて ちょいと そんな そんな はアさん おもて こせ うめ おいら すてどころ ひそ いれ ぢらいひもの おまけぶえん しゃう そのつら おの しごと はアさん

6. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

老母は一服吸ってから、「だが、男の子ちうても、何もお前を陸「けれども分らんよ。房さんの知ってるのは、未だ眞面目に學校〈 わし 行ってる頃の事だが、それから何う人間が變ったか知れない : : : 」 な事が無いちふ譯ぢや無いにの、私は佐藤の輻さなんかを見て : さっきこゝ 「學校ちへば、お前は何う爲いちふのだえ ? 」と老母は開直る、 おゝ、共の輻さで思出いたが、曩爰へ來る途中でーー・それ、此の向 わざ / 、わし でくのばう ふに小さな松原が有るづら、眞黒な偶人坊の据っとる、那の傍で看「うやって故々私が出て來たのも、其れを聞かうと思ってだが まさ ・ : お前、豈か佐藤の輻さの眞似を爲る意りぢや無いだらうの ? 」 護婦と立話爲とった男が、何うも橫顔が佐藤の輻さに違無いと思っ とりす 「無論ですとも ! 一絡に見て下すっちゃ困る ! ーと胸を張って意 たのだがーー・房やは年を加過ぎとるちふけどーーのう。何時だった まる か、佐藤の兄さに豐橋で逢った時の話にも、家へは全で便りが無い氣込んだ欽哉の兩腋の手は、共儘凝と腕組になって行くので。 「一絡に見ちゃ困る ? 然うかえ。でも、途中半端で學校歇めち げなが、一躰那の子は、學校歇めてから何爲とるづら」 さっ 「知りません ! 僕も更ばりⅡ」と目を光らせて答へた、絶えて心や、私は似たもんのやうに思へるがのう ? 」 「色々又、僂には考も有るんですが : : : 」 の奧に忘られて居た琴線の一筋が、圖らず音を出して鳴ったやう わし おももら なっか 「何ういふ考だか、私に其れを聞かせておくれ。」 に、如何にも欽哉は可懷しさうな面色で、 うなだ 欽哉は腕を組んで俛れたま又答は無い。其の考を聞かした所が、 「佐藤の輻さん ! 何う爲たのでせうな」 こど。も 「お前とは本當に、小兒の時から同胞のやうに爲とって、學校もな無論老母の耳に人る譯も無いし、第一自分の其の考がを : ・考と言ふ か , , \ 能う出來るちふ話だったに : : : 何時頃から那頽れ出いたもんよりは寧ろ感じが、變って來たと言ったものか、左に右く一二週間 前の自分と今の自分とは何と無く心持が違ふ。有らゆる物が無趣味 かの ? 」 で不愴快で、何とも言はれぬ心の寂寞を感じたのが、丁度冬枯の枝 「さあ、那れは恁うと : ・ : 慥か高等學校の二年の試驗を濟した時で つぼみ あす 芽とも莟とも附かず、朧げながらも に一脈の春の通ひ初めた如く、・ したな、暑中休暇に一緒に歸って、何でも二週間の餘も家で遊んで しま 行った事がありませう、那れが尾ひでしたなあ ! 那秋上京してか新しい生氣が血管を動いて覺える。尤も、學校を舍して何う爲ゃう らは、間も無く佐藤は寄宿を出て了ふし、逢っても何だか向から避と云ふ定った考も有ったのでは無く、唯もう堪へられずなって出し けるやうな氣味で、其内學校 ( も出なくなる、僕も又京都大學〈行た岼紙が、直ちに養母の上京と云ふ思懸無い事になって、欽哉も聊 か迷付きの氣味でもあるのでーーー速男が神經衰弱の所爲だと言った くと云ったやうな都合で、到頭離れみ、になって了ったが : : : 惜い のも、或ひは當って居たかも知れぬのである。 男でしたに ! 全く何う爲たのでせう ? 阿母さんが見たと云ふの どんな 「のう、聞かせておくれ。」と重ねて云っても默って居るので、老 は、甚麼恰好して居ました ? 」 のみさ とんび 「鼠色のシャッポを冠って、短い鳶合羽を着て : : : 着物なんかも立母は飲半しの冷たくなった茶をグッと干して、茶碗を擱いた其の手 たはけ で襟を突くと、「それとも默っとるのは、私のやうな痴者に聞かせ 派な風だったの ? 房ゃ。」 「え、何でも廻外套の端から羽織の袖丈見えとりましたが、葉出なても分らんでかえ ? 」と自分で頷き、 やはらかもん 「ちゃ、可い、何うせお前のやうな學者の考だで、那とか恁うと 女の着るやうな格子縞の軟物でーーー其れも縮緬のやうで御座んし あなり か、難しい理が有る事は聞かんでも分っとるで : : : それよりも、 % たもの。私、だで那の裝でも、那れが何うも佐藤の輻さんとは思〈 2 お前に言っとく事は、私はの、月々金を仕送って、五年十年とお前 ませんで : : : 」と娘は娘丈に細かい所を見て居る。 ほんと きゃうだい なにし おっか ちりめん あ、ぐ はで ろく わし いさ、

7. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

おにくづれ あんぎや 大崩の下を過ぎ、浪打際を縫うて處定めす行く。十歩一景を生たり。行脚の信一人、遠く山越しに行くを見る。佗しかりき。 でんけい ず。風光至る處によし。既にして暫く田畦の間に入る。信侶一二四、 既にして行々又海を見る。日は早く暮れむとす。堤防長く練絹の くばりもの 年賀の配物持たせて、各戸を廻るに遇ふ。前を行く野夫に語らひ寄 如き波を限れる水の江の際に出づ。島あり、波島といふ。右に荒崎 かた いさなかご ひとむら りて道を共にするにいとをかし。苫打っ竹を擔げて行くもの、魚籠を望み、左に黑崎を指す。夕日を洗ふ沖っ白波一簇しげき磯松の水 うしろ はなはひい 肩に急來るもの、まだ正月の遊びありくもの、背負梯子を背後に焚 に躍って、空に飛べる、墨色太だ秀でたり。舟もなし。鳥もなし。 あしな えんし 木を積重ねて熊手さしかけて歸るもの、處を間へば此處を蘆名とか臙脂を流す雲と波とそれも暫し、日は西に名殘の色をとゞめて、忽 ゃ。連の男我が爲に遠廻りして導きて又渚に出づ。鹿島といふは此ちにして水のあなたに入る。 うら、 處等あたりなるべし。白砂前に走り靑松後を遶りて、いと麗かなる 行暮れて宿かる頃や花の香を探るべき時にも處にもあらねば、道 とあみ 入江なり。海は凪ぎて鏡の如し。見渡す方は皆打烟りぬ。投網を手端に蘿蔔積みかけて、明日は房州に送らむとぞ立働ける男に間う なよし あるじ にしたる男三人、海中に立ちて、鯔の寄り來るを窺ふ。一群の士て、外に宿なければ止むなくいぶせき家に泊る。主人は三崎に魚を まさご 女、紅紫を交へて渚に立てり。眞砂を踏んで屈曲したる濱邊を尚行求めて未だ歸來らす、酒待っ程に名ばかりの庭に出づれば、暮煙近 しばし く事少時、僅かなる鹽田を見る。鹽燒く煙もあらばと思へど、未だ く島根を包みて、水の色心ゆくばかり美しきに、家に舟ありやと聞 ふなよそ 閉したれば無し。空は霞渡りて浪いよ / 、優なり。のどかに打語らけば、ありといふ。名は何とか言ひけむ、家の子を召寄せて舟裝ひ うて長井の村に入る。連の男の酒を好むといふに、飮ませむと さす。櫓拍子靜かに軈て漕出づる波の上の心又なべてならす。煙波 思ふ興深く強ひて酒亭に案内さす。土藏づくりの中二階に通され縹眇として、近きは黒く遠きは白く、漁村の燈火二つ三つ松の樹の て、窓を開くに海其處もとに近し。丸裸なる漁家の兒群三十人ばか 間にきらめけるあたり、炊烟一朶の雲を吐きて稍見え初むる星屑の しめなは みづのと り、手に手に標繩を持ちて、地を打叩きっ又いふ。「出ーさいな、 それも又よし、舟は搖々として浪を分けて行く。思ひぞ出づる癸 きよみがた 出さいな、出ないものはがにぐぞう。」と相追うて去る。 巳の歳、日に淸見潟に舟を浮べて、山と水と酒と月とに明くるを忘 れたる事もありけるが、歳月流るゝが如し、我に馴聞えたる彼の酒 はを ふく 好む老漁夫將何となりけむ。今も猶我が與へたる盃を銜みぬるや。 醉うて長井を出でたるをいっとも覺えず、端山繁山さりとも淺けはた死にけるにや。東西幾十里、此星同じく其家をも照らせども、 あづま れど、樹の間がくれの茅が軒端に竈の烟の立昇れる方を、むかし和 と思へども甲斐なし。人の心の嬉しさよ。其歳七月、我吾妻に歸ら だよしもり 田の義盛が生れし處ぞと聞きて、丸三つ引の旗風にこ又らわたりのむとするを送りて、涙を含んで興津の停車場に立ちける時、目をし よろひ 旺野をも山をも打靡かせたる三浦の一黨が鎧爽かなりし當時を思ふばた、きて旦那様、命があったら又お目にか乂りませうぞ。私は取 しを くろ に、村老既に記せず、行人更に顧みもせで行過ぐる山田の畔に、鴫 る年ちゃ、これが永のお別れになるかも知んねえ。と巖の如き身を 泣崩しける哀れさに、押して再會を約しけるが、汽車既に發するに、 一羽ちょろ / 、駈けありく風情またあはれなり。古人こ又にあり。 けんこん われ今こ乂にあり。匆々七百年、縱令其人々は立って、乾坤の上に彼なほ去らず、走り來りて、旦那様よ、まめで御座れよう、と其聲 いまはた 挺んずべき大人物ならざりしにせよ、今將こゝに來る、多少の感漑今あるが如し。櫓聲俄かに聞くに堪へず、急に舟を漕戻さして宿に なき事を得むや。傍への孤っ松に近寄れば、鴫驚きて飛ぶ。四面寂歸る。老漁夫なほ念頭を去らず。酒を飲んで愁を消すに愁更に長 ぬき あない ひと かまど なぎさ かふら おきっ ねりぎね

8. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

んでも無い事をお云ひだよ。」 お重は水口を出ながら、お八重を見返って、「お八重や、お前も 8 きッ 「何が飛んでもない事だよ。其様に違った事は云はねえ積りさ。吉 能く考へて見るが可いよ。見切るんなら今の中だ。飛んでもねえ掛 さんが先刻の物で融通をしたツて云ふんなら。」 合にならねえ様に、氣を付けなよ。」 そんな 「吉さんが何時共様事をお云ひなんだよ。」 お八重はもう腹が立って溜らなかった。 あぎわら お重は冷笑ひながらも、「さうさね、おいらが惡かったらーー・お 「阿母さんに心配して貰ふ事は無いよ。吉さんとは何うしても切れ もろとも いらの邪推だと云ふんなら、謝罪らうよ。ねえ吉さん、謝罪ったら る事は出來ないんだから : : : 死なば諸共だと思って乂お呉んなさ 勘忍してお呉れだわねえ。」 い。また降込みやがるよ。」 「なアに、謝罪って貰はないだッて、共は可いんだが : : : え乂ッと お重が未だ軒下を離れないのに、水口の戸をはたと閉めて了っ おもてやッばり : お八重、家外は依然降ってやがるだらうな。」 「お前さん又何處かお出掛けなの。もう今夜は止して下さいよ。」 「覺えてるが可い。」とお重が怒隝ったのも、戸を隔て、居るのと、 と、お八重は耳を傾けて、「お聞きよ、何だか雨の音が聞えてる様雨の音に紛れたのとで、お八重の耳には入らなかった。 だよ。」 「左様か。」と吉松は不愉快さうに其邊を見廻して居たが、ごろり ちま と横に倒れて、取って付けた様に、「いやに惡く醉ッ了やがった。 お八重は茶の間に歸って來て、尚ほ後向きに臥て居る吉松に寄添 いだ 阿母さん、御免ねえ。」 ひ、懷く様に手を掛けて搖動りながら、 つむりあてが きッ お八重は押人から枕を出して來て、吉松の頭に宛行って遣りなが 「吉さん、睡てお居でなの。」 ら、「風をお引きだと不可いよ。」 吉松は何にも云はないで、お八重を見返った眼には涙を有って居 吉松は默って居る。 た。 うつむ 火鉢の傍に復ったお八重も、物思はしげに垂頭いて、お重の方は 「吉さん、睡るんなら床を取るから、本統に寢てお呉んなさい。 見返りもしなかった。 様にじと / \ してるんだから。」と、掌で疊を押へて見ながら、 らよく 「やれ / \ : : : そろ / 、お暇申しますかね。」と、お重は猪口を置「體にお障だと不可いよ。」 ねむ あぐら いて、「吉さん、今夜はお暇致しますよ。大きに御馳走さま。何れ 「なアに、睡かアねえんだが。」と、吉松はついと起きて、胡坐を おいら ためいきっ しちゃ 又、此金が無くなった時分に來るからね、其時は又 : : : ね其お金を組んで腕組をして、深く歎息を吐いて、「乃公は濟まねえ事を爲了 わたしあて 無駄にお遣ひでない様にね、い乂かい、私は當にして置くんだよ。 ッたよ。」 そんな やれやれ。」と、立上って、「お八重、共様に佛頂面ばかし爲て居ね 「えツ。」と、お八重は母に云はれた事が氣に掛らぬでも無かった けえ あかり どんな えで、阿母さんが歸るのに、燈火位見せて呉れたツて、罰も當るめ から、覺えすぎよッとして、「濟まない事ッて、吉さん、何樣事を えよ。」 お爲なの。」 いひょど めえ しんべえ お重が歸るのを、お八重は水口に送って行ったが、吉松は睡って 「なアに。」と、吉松は一一一口淀みながら、「お前には心配ばかしさせて まへ ったのか見返りもしなかった。 るし : : : お前のお袋にだッて。」 かへ そんな そ ( ら さはり ゆすぶ てのひら

9. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

あたし です、私を打ちたいでせう、殺したいでせう、私も殺されたいの わがひ が願に候、お前様のお歸りを待ち候へども、待って居る中も怖く をば ッて、家内に居る事が出來ず候、坊はお隣の媼さんに預け置き 候、可哀想なのは坊に候、坊に別れるのは悲しいけれど、生きて おとッさん は居られない私は惡人、人を、家爺を、勘忍し下され度候、惡人 の子だけれどもお前さんの子だから、可愛がって下され度候、私 は死にに行きます、逹者で居て下さい、坊も逹者で居て下さい、 いろ / 、 あー書きたい、種々な事が書きたい、もう書けませぬ、まだ忘れ た事が澤山あり候、坊を賴み候、惡いけれども勘忍して下され たく、どうか察して下されたく、此ばかりが願ひに候、もう紙 まのぼ 大空は一片の雲も宿めないが黑味渡ッて、廿四日の月は未だ上ら ず、靈あるが如き星のきらめきは、仰げば身も洌る程である。不夜 しもがれみつき すゐだう うらみなんだ 城を誇顔の電氣燈にも、霜枯三月の淋しさは免れず、大門から水道 紙盡きて筆も亦盡きたり。盡きざるは與太郎が遺憾と涙となり。 じり かんなし なんだとど 尻まで、茶屋の二階に甲走ッた聲のさゞめきも聞えぬ。 傍より差覗く老婆も涙禁め敢ねば、懷中なる與吉も何に魘えてか、 や、あた、か あさッてはっとり たきいだ 明後日が初酉の十一月八日、今年は稍温暖く小袖を三枚重襲る程 わッとばかりに泣出しぬ。 さむさ さすが にもないが、夜が深けては流石に初冬の寒氣が身に浸みる。 人を賴みて警察署へ訴へ、檢視を受け手續きをも濟し、其夜は父 かどえび いまの・さキ、う かばね 少時前報ツたのは、角海老の大時計の十二時である。京町には素 の屍を守り明し、心には掛りながら、お都賀が行方は探しかねたり いまし すみちゃう やかし き。 見客の影も跡を絶ち、角町には夜を警めの鐵棒の音も聞える。里の や、はなしとぎ 翌朝まだきに、警察署よりの召喚に出頭し見れば、濱町河岸の杭市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にも稍雜談の途斷れ さい る時分となツた。 に流れ掛りし水死の女あり、人相其方が妻に似たればとの申渡し に、それはと駈付け見れば、面影も變らざるお都賀の死骸に、與太 廊下には上草履の音がさびれ、臺の物の遺骸を今室の外へ出して 居る所もある。遙かの三階からは甲走ッた聲で、喜助どん / \ と床 郎は人目も羞ちず泣き倒れたり。 かたを - 嫁と舅なれども敵同士を、同じ日にも爲されまじと、二日引續い番を呼んで居る。 し うるさ あんま、、、、 せしゅ 「胸臍いよ。餘りしつこいぢやアないか。くさ / 、爲ッちまふよ。」 て二箇の棺桶に、施主は與太郞と與吉と一日づつ、知れると知らざ いそい じれッた と、自烈體さうに廊下を急歩で行くのは、當樓の二枚目を張ッて居 ると、見る者泣かざるはなかりき。 ある よしざと おいらん よる 戸晝間は乳を貰ひにとて、夜間は泣く子をすかさんとて、或は人のる吉里と云ふ娼妓である。 ちょいと そんな 「其様事を云ッてなさッちやア困りますよ。鳥渡お出でなすッて下 門に立ち、或は子守歌うたひ歩く、物の哀れは與太郎が上にぞ止め おひすが おいらん さい。花魁、困りますよ。」と、吉里の後から追縋ッたのはお熊と 5 たりける。 しんざう 9 云ふ新造。 ( 明治二十八年五月 ) せうくわん ふところ 今戸心中 かんにし かなぼう はりみせ へや おほもん みッつかさわ

10. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

うなづ ゆかり し。あ彼一介の舟師ながら深き所縁もなき我を動かす事斯の如き りと點頭く。幸ひなれかし。と竊かに見入りて、途を問うて別る・、 2 けんとう に、我振返れば、彼も亦振返る。一樹の縁、また會ふべき時ありや 一片の衷情或時菩薩の如きものあって存せりき。原頭人日に墳墓を かた 築く、彼なほ健やかなりや。去年沼津に赴きける時は、事多くして とのみ、互みの笑顔に打別れて道を下るに、面影なほ目の前にある 心地するも優し。 行くを果さず、此度こそは彼が家を叩きて、笑ふ時は赤兒の如く、 奮ふ時は野牛の如き彼に再び遇はむかな。と盃を捨てゝ眠る。夢は 漸くにして渡津に出づ。舟子我が來るを見て棹を突立て又待つ。 こあじろ 我を彼の浦に載せざりき。 三戸の濱を後に人江を横切りて、對岸近く小網代に着く。高きに登 りて一たび振返れば、江は足元に三戸の崎黒崎荒崎皆歴々として指 五 すべし。彼の少女と別れぬる松原近きあたり逸早く目に入るに、其 幾度か寢覺勝ちに、夢より夢に入る事多く、日の影澳を洩る、に人いづこと望めども見えず、我は處定めぬ旅客なり、明日は幾里を 驚き、跳起きて海を望むに、心なき雲幾重見渡す方を殘りなく遮り や隔つべき。日を重ぬる事漸く多く、相隔つる事いよノ \ 遠く、南 て、波より外に何も見えず、風はならひに變りて、寢起の肌膚いと伊豆に行き西駿河に出で、甲斐が根を廻りて、遂に都に歸らむに、 けいくわ 寒し。舟路を油壺に行かむとしたる心構へも此雲と風とに消されいづれの日か、重ねて彼の目に殘る笑顔を見むとすらむ。京華事多 て、頭重ければ、連りに數太白を引いて、其ま又宿を出づ。起伏し し、我は長く汝を見る事能はざるべきか。と思廻らすに心を惹く事 たる通を行く事少時、路傍に椿落ちて、いさ乂村竹、左右に繁き處更に深し。いと寒ければ、酒ある家に就きて、手に一升を提げて、 を過ぎ、村を出でて畠に人り、畠を出でて小山に人る。藻屑を籠に荒井の城址を尋ねつ、行く。歩武數百、麥作り菜作る方を過ぎて、 をとめ 盛りて背に負へる少女に遇ふこと數強、そを何にするぞと間へば、 松林の中に人る。こ乂に荒次郞の墓あり。太龍院殿云々といふ。嗚 ばんぶ 畠の中へ突捏ねまするといふ。一群又一群、我が足早ければ、皆遙呼半生の勇士、其名は八州に震ひ、其力は萬夫に當りけるが、徑は けれきよく しようらい かに後にして行くに、道にや迷ひけむ、行けども行けども渡津あり荊棘に亂れて松籟たゞ昔の夢を吹く。裏淋しき塚の主や。いにし永 と聞きける方に出でず、人に問はばやと求むる折しも、十四ばかり 正十三年なりけむ。油壺の波を紅にしける御身が末路も亦悲しかり の少女一人、例の藻屑を負うて脇の小徑より來る。手拭引冠りたれ き。時を隔つる事四百歳、こ又に來って御身を弔ふ、契淺しとせむ うりざねがに ど、端より洩る乂黑髮すぐれて艶やかに、瓜實顏の口元愛らしく、 ゃ。と花は無ければ、路傍の枝を折掛けて、一傾の酒を屬して出 鼻筋通りて、黑味勝ち目の美しさ言はむ方なし。か又る所に、はし づ。松風颯たり。濤聲近く聞ゅ。此浪嘗て此人が矛を枕の夢にも通 たなくて斯かるものもありけるよ。と言葉を交はすに、初めは打驚ひけむ。 きて、後には心よく打笑めるもをかし。親はと聞けば無しといふ。 はらから 兄弟はと聞けば、それも無しといふ。いかなる身ぞと問へば、去年 ふたおや きは 雙親を失ひて、又家を失ひ、生れし方を去りて、遠く此里の所縁に 徑は斷崖に窮まって、こ乂にも村松と浪の音の相爭へる方に、一 だうすんよしあっ 身を寄ぜけるとぞ。憐むべし薄倖の身、自ら薄命を説きて薄命を知基の墓あり。導寸義同の刻字を見る。左手に稍深き松林の中、一面 らず、語りて後は笑顔に返るほど心足らぬ裏若さもあはれなり。妙平布の芝原あり。荒井の城址として殘るは此あたりのみ。松の露タ はた 齡の好女、此末何となるらむ。家の人々は善き人かと言へば、然な に落ちて、汐風枯草の上に吹渡らむ時、怨魂將いづこにさまよはむ しりへ かを いっかい小こ すたいはく はだへ ゆかり へいふ さっ ひそ ゅんで えにし