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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

那」ふ風で年加 0 て行く人は、殊に女は、何だか見た目が氣毒に感理由と云 0 ても、年行かぬ娘の若」感情から割出した考で、大した 0 理窟の有るのでも無いが、然し其感情には信念が件って居る、理窟 じますね。」 かんざし あや 以上に決心の根差が深い。共の言ふ所に因ると、繁には二人の姉が けれど、繁は默って居るので、闇は文無く、唯簪の花が仄白く ある。總領の方は婿を貰って家の後を繼いで居るが、其の婿と云ふ 俯いて見えるばかり。 「私なんかも・・・・・・何れ那ですわ。」と暫くしてから言 0 たが、其聲のが健者で、家産は父の代よりも殖された代りに、母も姉も全で 餘所から來た者同様。家附の身が小さくなって、氣兼を爲拔いて、 やかましゃ こども は何と無く沈んで聞えた。 「だけど、貴方何時か病院で香浦さんのお兄さんと何なすった時今年未だ二十六の女盛の姉は、多勢の小兒と、彌喧家の夫の世話と でホッとして居る。 ね、那時の貴方の説は、獨身に同情なすったちや無くて ? 」 欽の姉は、然る相當の官吏に片付いて、此の方は夫婦懸向ひの極 「えゝ、ですから、僕は何も獨身を排斥しは爲ませんよ。唯女敎師 とか、女の敎育者とか云ふ連中が、那いふ倩も何にも無い冷たい顔氣樂な身上、夫の氣立も優しく、總領の姉とは全で反對の境遇で、 を爲て、人生の言はゞ春とも云ふやうな華かな妙齡の時代を、戀も苦勞と云 0 ては、毎日何うして退屈せずに留守を暮らさうかと案じ あはれ るぐらゐなもの。人にもお仕合と羨まれ、自身も心から滿足して居 知らずに寂しく過して了ふのを憫むのです。獨身強ち戀愛溿に背か ねば成らないと云ふ事は無い = ・・ = けれど、那様まあ二宮先生の事なるのであるが、然し是が圓滿な夫婦とか家庭とか云ふのならば、其 んか何うでも可いとして、小野さん、貴方は又何ういふ所から獨身れは誠に單純な、無意味な、充らぬものだと云ふ事を言って、さて 終りに、「 : : : 上の姉のやうなのも能く / 、なんでせうが、でもね、 主義になったんです ? 」 私のお友逹にも、始めは進んでお嫁に行って、行って見ると愁くて 「ね、何か理由が有るのでせう ? 貴方なんぞ是からが花で、行先泣いてる方が彌張有りますわ。それに何ですわ、學校退るまでは隨 甚麼望でも持 0 て持たれる身なんですもの、それに獨身なんて寂し分出來る事も出來て、會や級の事なんか先に立 0 て働いたやうな人 私の二番目の姉見たやうな全で無意味 そんな い考を持っと云ふのは、何か理由が有るのでせう ? 例〈ば初戀をでも、結婚すると皆もう いたみ な人になって了ふのが九分よ。家庭の理想だのって、那様事の實行 失った其傷とか : : : 」 「あら ! 那様事なんか私・・・・・・」と肩を搖動って、「私の獨身なんはまあ措いても、夫のあの、不品行が一つ直されなくて居る人なん か有るんですもの。」 はにか か、何でも無いんですわ。」 眞暗で顔もお互に分らぬから、繁も羞含ますに思ふ事が喋れたの さや 「何でも無いとは ? 何でも無いぢや可恠いぢや有りませんか。」 「え、理由の何のと、那様深」考が有るのちや無」んです。唯である。力ある男の靴の音と、絹裏の冱かな裾捌と、池を來る夜風 にカシミアの袴の翻はズボンを狎觸って、二人は肩と肩と擦合ふば みだしなみ ・ : ・ : 何と言ったら可いんですか : : : 自身の是迄の境遇や周圍が、つ かりに寄添ひながら歩いて居るので、女の身飭の香料は闇にも い、あの : : : 」 なまめ 「獨身主義に爲したんですね ? それちや理由が無い事は無い、然嬌く。 「成程、貴方の考は能く分りました ! 」と言って、欽哉は靴を踏鳴 ういふ立派な理由が有るのでせう ! 」 した、「家庭は働ある人間を平凡化して了ふ、夫婦は必す一方を犧 繁も初戀の爲めなぞと思はれるのが厭さに、其理由を語出した。

2. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

295 青春 に金色の女時計を出して時刻を見ると、最う十一時半。 切なる不幸の感は、第一に孤獨の寂しさであると云ふので。男なら きばらし 「小野さん、一緡に御飯を付合ひませんか ? 」 ば隨分妻子無くホーム無くとも、外で幾らも好な氣曠が出來る、新 ほしいま、 「え。ですが、爰等に食べる所が有りますか ? 」 聞に能くあるやうな、身分ある紳士が酒色の間に穢い性慾を欲儘に うくわっ 「迂濶ね、貴方、爰は小鳥料理が名物ぢや有りませんか。」 しても、世間は然のみ尤めぬ。けれど、女には無論那様眞似の出來 たかじゃうれうり 二人は鷹匠料理と看板の出た唯ある茶店へ入った。風通しの好いやう筈が無い、女の獨身は眞の孤獨で、不斷の寂寞で、然かも男氣 はなごダ たばこなん あつらへ 裏座敷へ通されて、花莚の茵に卷線香の莨盆、茶が出て、お誂がの無い所へは、同じ女の友達さへ段々寄らなくなるのである。 通る。 欽に、生活の困難と云ふ事で、今の瓧會では男同様に獨立自活す と、二宮は袂から卷莨を出して吸附けたので、繁は目を見張っ る丈の職業を女には與へて居らぬ、職業の範圍も狹いし、且っ報酬 たばこあが て、「先生は莨を喫るんですか ? 」 も少ない。昔に比ぶれば幾らか婦人の活動の道も出來たやうなもの セクレット 「祕密よ。」と我流の英語で言って、薄笑ひを爲ながら頤を歪めて の、未だ / \ 才能性格を充分自由に發揮し得らる又までには到って フーと煙を吹く。 居らぬので。物質上の不足は固より、精神上の其の缺乏を忍び、彼 「私、些とも知らなかった ! 」と言って和と打笑む。 の荒涼たる孤獨の生活に堪へ得て、さて酬いらる又所はと云ふに、 オールドミス ことは ス・ハ / 、と三吸ばかりに吸盡した殼を火人に突挿して、 常に老孃と云ふ辭が輕侮の意味を含んで迎へられるのでも分る 「時に、貴方の獨身主義ね。」 が、唯世間の冷罵と嘲笑 ! 「は。」と繁は改まる。 縱し又生活の困難を感ぜす、始めから身に附いた財産が有るか、 こんな 「自分が獨身で居る癖に、這麼事を云って人の獨身主義も攻撃出來財産は無くても、地位高く生活豐かであるか、左に右く物質上の缺 ないけれど、又ね、一方から言ふと、自分が充分苦い經驗を嘗めて乏丈は無いとなると、其れこそ危險が一層である。有らゆる誘惑は 見て云ふのだから : : : 小野さん、私は貴方の其の考には大反對孤獨の身を取籠めて、先づ、妻として養ふの責任を避け、何等の負 たか 擔無しに愛のみ貪らうと爲る卑劣な男が、我勝に寄って集って陷れ 繁が、鄕里から勸めて來て居る嫁入の話を厭がるのは、他の多く ゃうと計る。女とても同じ人間の性慾を具へて生れた身であって見 の地方出の卒業生に見る如く、生中の學校敎育と都會生活とが、婦れば、情の爲めには何う又弱い心が起らぬとも限らぬので。其れを 人生來のヴァニチイを煽って、見識徒らに高く、夢の如き空望に憧飽くまでも斥けて、自分自身の慾望を制するは勿論、他の誘惑と迫 れて居るのだらうと二宮は思った。強ち結婚を嫌ふのでは無く、土害との爲めに自營し奮闘し、堅く節操を守って純潔なる獨身を全う たとへ 臭い夫や、麥飯の家庭を嫌ふのだとーーー少し厭な喩だが : : : 蛇の道すると云ふ事は、實に常人以上の意力と決心とを要する。 へび は蛇で然う見拔いて居た。所が、今來る道々質して見ると、繁は結 所で、其等殆ど英雄的努力を貫いた結果であるが、其の結果が果 婚其物を好まぬらしいので、眞面目に獨身生活を唱へて居る、男に して何を贏ち得るかと云ふに、唯苦い經驗と冷たい涙と、然かも前 つひ 寄らずに一生ミッスで通したいと言って居る。 途は何所まで行っても彌張落莫として、終に何等の安慰も幸輻も認 で、二宮は其の考の間違って居る事を熱心に説いた。繁なぞの末められぬのでは無いか ! 我世の春も漸う移ろひ去って、何時しか だ若い華かな年頃には想像の及ばぬ事で、然かも獨身生活の最も痛鬢に霜置く身の秋を驚く時、過ぎ越方を顧みると、事多くは志と違 しとね なまなか じゃ しりぞ とが こしかた

3. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

Z イ 6 あとびッしゃ。 「父様、有難え、有難え、己ア禮のいひ様も知らねえ。最う逡巡 アまだ / 、老込まねえ。目こそ滿足に清へりやア、手前と一所に行 うそ くれえ 行かねえぢやア謔は決してしねえよ。一も二もなく我無者に飛出さア。喜んでくんね って見る位な元氣だ。アハ、、、、行け / \ 。 だ。何でも一番うまく清って、己の鼻も高くなるやうな、立派な身え。」 「それでこそ己の子だ。己ア外に言ふ事アねえ。たゞ確かり潰って の上になってくれ。己ア今ツから樂みにして待って居るぜ。」 くれろよ。」 あ又、其實平作は疝氣で惱んで、昨夜も一晩寢られなかった位 をととひ 「うん潰らなくッて、何うするものか。」 一昨日も起きられない身を我慢して、杖をカに漸と仕事に出た さすが と聲に力の籠る折節、臺所の方からかん高な女の聲で、 が、途中の坂で流石の強情も遂にへたばって、片手に笛を持ったま しばし うめさん 「梅様、今鰻と酒が來たが、こりやアお前が誂へたんだらうね。」 ま、辛うじて支いて居た杖に取縋って、稍多時は前へも踏出せなか った。「あゝ己も年をとった」と、思はず出た言葉もっく、身の 「左様だノ \ 。今そっちへ行くよ。」と、父の方へ振返って、「父 袞へを感じたからであらう。けれども今は十分の元氣を裝って物の様、お前の好な蒲燒が來た。一盃飮んでくんねえ。」 「手前又費えな事をしたな。止しやアい、に。」 見事に言ってのけた。閉合った目は淋しさうに笑を含んで、我子の 「ナーニお前。」 方へ向いて居る。 すてぜりふ 聞いて梅吉はぞく / 、するほど嬉しがった。着物に餘る膝頭の前 と捨臺辭で梅吉は出て行った。 平作は唯心の中に、あゝ可愛い奴だ。一日も早く出世をさせて遣 を掻合せながら乘出して、 とッさん りてえ。己の身體は何うなっても構はねえ。うんと氣丈夫にして出 「父様、よく言ってくれた。何にも言はねえ忝けねえ。父様なれば こそ左様いってくれるんだ。其有難え挨拶に對しても、己ア屹度遣して遣らう。己ア最う澤山だ。先は見えてらア。これが眞實の娑婆 はうでえ けえ しでえ って來るよ。行って歸った曉にやア、望欽第の贅澤も爲てえ放題さ塞げだ。こんなものに氣を置かしてなるものか。左様だ。左様だ。 こんかぎ せて見せらア、己ア眞箇に腕ッ限り魂限り潰って消って遣りぬく氣 とばかり眉は自然と寄る途端、梅吉は無骨な手つきで膳を持って 這人って來た。傍に出て居る火鉢を除けて、足の曲った能代の膳の 縁の、離れて居ない方を父の前へ差向けながら、「さあ父様、始め と思はず拳に力も這人る。平作も身を進めて、 「うむ、うむ、手前なら屹度遣るだらう。あ乂己アい長子を持った。」よう。い乂か注ぐぜ。」 はえ 「うむ、此奴ア御馳走だ。手前の志だと思やア、己ア箇にうまく 「ナニお前、譽めるなア未だ早えや。だが己ア、少しの中でもお前 に別れて居るのが實を言やア、嫌だけれど、それを言った日にやア飮めるぜ。」 「左様いってくれりやア、酒が活きらア。まあ / 、重ねねえな。」 仕様がねえ。」 なづけ うつは 肴といへば鰻と菜漬ばかりだ。器はいづれも滿足なものはない。 と流石に少し萎れ顔、聞く身の思も色には出たが、忽ち變って聲 もと ねだ 部屋は素より風穴だらけで、根太は夙うから拔けて居るから、腹の 「べらぼうめ、其様な氣で可けるもんか。己を見や。此様な身體で切れた疊は波をうって居る。天井といへば屋根裏ばかりの、何處も も墲古けて居る。此様な中にも、金で買はれない春は二人の間 居るけれど、これンばかりも弱い音は吹かねえ。」 にある。 一搖身を搖って梅吉は又乘出した。目には一雫涙を浮・ヘて、 ひとゆり さすが せんき ゑみ さ おれ おれ ペえの がむしゃ かた

4. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

きて 笑ッても、その實のところは正味が無い、のを扨慾と戀ひとに本心ほなほ、云はば、無理酒とも云ふほどまでに飮む。果ては精紳は昏 3 の大きにくらんだセビレに於ては悟りゃうもない。セビレは有頂天迷した、身はまるで利かなくなツた。 になツた。 あはれ、セビレは既に死骸となりかけたのであッた、死骸の、 「あゝ、うまい。人生これまでに無いプランディの此味はひ、あゝ只、生きて居るといふ丈の見本を早すでに示しはじめたのであッ こ 0 骨も解けますぞ。御酌していたゞいた丈でさへ此くらゐ嬉しいと思 ふわたくし、敢て匿さず云ひますよーー何と御不愍ではありません やがてうと / 、と、見る間、すや / 、と睡りかける、どうなるか かーーーあなたをばそれ程深くわたくしが思ふのを。」 と少女が故さらひッそりとして居る内には、早正體も無くなツてし 「よく、さううまく出ますことね。」 まッた。 おもて 「うまく ? 何が。」 物すごい笑顔が少女の面にほのめいた。おもむろに身づくろひし 「分かッて居ながらにくらしい。」 た。拔き足になツた。少女は室の外へと出た。 「うは乂乂、分かりませんや、何がです。」 廊下を傅はツて屋外へ出るや否や、一心の其身は飛鳥となツた。 「よく、ねえ、さううまく出ますことゝ云ふのですよ。ね、よくうたゞ宙を飛ぶ。 ふしど まく出ますこと、瓶の口からプランディが。」 兄の許へ立ちかへると兄はまだ臥床へも入らなかッた。又その筈 「こら、畜生 ! 」 でもあらう、日ならずして爆裂させる戦亂の計晝に肝膽を碎く矢さ 打っ眞似か、手をあげる。その下を仰山らしく掻いくゞッて、身き、なか / \ 眠るどころではなかッたものを。 がろく後ろへ飛びのいた。 「兄さん。」 「それ、御覽なさい、さう邪慳。」 兄を呼びかけた少女の聲はわなゝいて居た。顔はさながら死人 「邪懈、すなはち熱愛の結晶。」 くす′と少女は吹き出した。 それだけで兄は只胸どきりとした。 「ようございますよ、何とでも仰しゃい。どうせ男のかたには叶ひ 「大變ですよ、兄さん。何でも私は知ッて居ますよ。かくして、後 まぜんもの。本當、冗談でなく、本當に今度は御酌をしましゃう。」悔してはいけませんよ。ね、ね、兄さんはじめアギナルドさんもあ 「この前は ? 」 ぶないのですよ。」 「否ですよ。」 今風聲鶴唳の身の兄、「あぶない」の一語に只何も聞かぬ内に胸 又もなみノ \ 注いだ。 どきりとして、 あはれむべし、セビレは全く本心をとろかされた。戀ひと酒と、 「あぶないとえ。だれ、えツ、このおれとアギナルド君と ? 」 とりこ その二つの、あくまで恐ろしい魔力の下にまるで擒となツてしまッ 「しづかに爲さいよ、冗談ではない。アギナルドさんが大將で、兄 とげ た。目前に見える美色の薔薇の花にいかばかりの刺が有るか思はさんもその一味で、もう程無く戦爭をはじめると云ふ事が知れて、 ぬ。三杯が四杯、五杯が六杯、一刻でも永く飲むが一刻でも永く少つかまりますとさ、兄さんもアギナルドさんも。」 女と戲れて居られる事とのみ思ふ。ロ腹の慾に既に滿足しても、な 一言實に兄には霹靂であッた。やゝしばらくは言句も出ぬ。 やッ 色。 いろ こと ゑがほ しびと

5. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

いわ。」と繁がす。 那れまで辛抱したんですから、獨身で最う通したら可さゝうなもの 「でも、電車の中よりや可いでさ。」 ですに、ねえ貴方。」 「電車の中と云や、」と思出したやうに、「曩、若いハイカラの男と 「さあ : : : 何ういふものですかな : : : 」と欽哉は足を留めた。 くもで 一絡に乘って居た人ねーー私がお時儀を爲た女の人、貴方覺えて被 球燈やら萬國旗やらを蜘手に張渡した杉の葉の大アーチに、電氣 ひとだか 居って ? 」 の文字が赤くなったり靑くなったり、色々に光の變るのを人集りが 「いや、知りません。」 爲て居るので。欽哉は些っと立留って眉を顰めたが、アーチの方へ くんしゅうしろ 「御存知ありませんかねえ、貴方一度お遇ひなすった事があるのは目も與れず、群集の背後を廻って行手へ出る。繁も剥ぐれぬゃう に。そら、ズッと以前に、上野の演奏會へ御一緝に行った事が有り に後に附いて、少し行った四辻で又、丁度式場から引揚げる接待役 ますでせう、那時池之端の洋食店で出會した、那の二宮と云ふ人で の藝者逹が、揃ひの着付で、多勢花を貫いたやうになって通を橫切 すよ。」 るのに出遭ったが、其れにも二人は目を與れなかった。二宮の話か 欽哉は小首を拈って、「二宮 ? 然うでしたかね ? 」 ら、二人の戀の未だ新らしかった其の當時の、思出多い昔を、欽哉 「そら、二宮節子と云って、學校の私、舍監に會ったちや有りませも緊も、同じゃうに追懷しつゝ歩いて居るので。 んか ? 那時に。」 春の夜の月無き闇を、世界は唯二人、裏若い戀に憧れながら、不 そゞろある 「然う / 、 ! 那様事がありましたね。」と漸う思出した。 忍池畔を夢心地に漫歩いた其時の樂しい思出 ! 共れを追懷しなが 「那時の舍監ですよ、今の人が。」 ら、此の明るい賑かな巷を、今は戀も破れた二人が靑春の歡樂から 「然うですか。那麼に若かったですかね ? 僕は最っと深けてたや覺めて、互に最う孤獨の身を、僅に其所まで送りつ送られっして心 うに記憶してるが : : : 」 寂しく行く。行く先は、更に又新しい別離の涙である。 「獨身も然し、考へものですな。」曩の話に還って、思出したやう 「那時最三十二三だったんですから、彼是四十近くでせうよ。夫 が若いものだから、それで那様若作りを爲るんでせう。」 に欽哉は然う言った、「繁さんだって獨身主義だったけれど、彌張 「夫が出來たんですね ? 」 其れは行はれなかった : : : 」 「え、一緒に乘ってた、那のハイカラの男が然うなのよ。」 「ですが、私は最う、屹度是から獨身で通して見ますわ ! 恁うし 「那の若い男が」と呆れたが、「一躰男は何者です ? 」 て貴方 ( 貴方に力を人れて ) と、お別れするからには。」 「何でも婦人雜誌の記者とかで、クリスチャンですって。」 繁の答は何うやら當付けたやう。 「クリスチャンの婦人雜誌記者に、女學校の舍監、好い配綱ですな。」 「すると、僕さへ無かったら、繁さんも最初から獨身主義を通した 春 「ですから、嫌はれないやうに、那麼若作りを爲てるんでせうよ。」んですね ? 」と苦笑を爲た欽哉は、通り懸った店先の明るい飾窓の わき 青繁は突當る人を避けて傍へ離れたが、直ぐ又寄って、「ですが、那白熱瓦斯の影に、女の其の靑い横顔を見ると、急に苛々し出して、 年になって、那麼若い男と一緒になるなんて氣が知れないちや有り「然うだ ! 全く僕が繁さんの主義を破らせたのでーー繁さんの健 8 ませんか。那の爲めに學校の方も可けなくなるし、今では何でも女氣な主義を破らせて、り僕が、純潔な貴方を誘惑したんだ ! 3 學生なんか預って、素人下宿のやうな事をしてるって話ですが : ね、然うでせう ? 」 でツくは さっき ハズバンド

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「然うさ。まアい、加減に笑ッて了ふのだね。」 「冗談處ですか : : : 冗談なら貴方、もッと氣の利いた言ひやうが有 「まア、何故然うでせう。最う浮かれてお談話をしては居ない積り りますわね。本當に先刻お目に掛った時は、あ、未だ縁が盡きなか ッたかと、心ちゃそれこそ手を合はさないばツかりでした。來て下ですが、まさか底にエみでもあるやうにはお取りなさいますまい。」 さると仰有ッた時、これを機に、とてもと胸に思ッて居た事を、出 「なに、那様事より、實は頭から全で解らないのだよ。」 來るなら何うかして、と直ぐに思付きはしましたものの、お目に掛「ですから、最初から今初まッた事ちゃないと言ッたではありませ ッた今日が今日、最う、恁う言出されようとも思ッて居ませんでしんか。それでなくて這事が、なんぼ何でも遇ッたばかりで言はれ を、ま るもんですか。何の、出來心なら貴方、這麼餘計な氣を揉まないで たが、餘り長い事胸に疊ッて居たもんですから、つい堪へられない でロに出して了ひました。貴方、恁うなると愚に返ッてねえ、何だ も、何處にでも好きな者が選取りのやうに轉がツて居ようではあり まる かわく / \ するばかりで、思ふ事の十分一も全で言へませんの。笑まぜんか。爲ようと思ッたら那様事に不自由をする身ではありませ ッて下さい。これで二十六ですよ。おまけに相應に鹽も踏んで來たん。」 のちゃありませんか、何だか焦れッたくて澗が起ッて來さうです 「勿論然うさ。言ふがものはない。何も物好きに、這麼處へお鉢を 廻して來るには當らないと思ふ。何か以前からとかお言ひだッた 「だがね、其方ぢやまア然うでもあらうがね、聞く身の此方ちやア が、これと取留めた談話すらした事のない私に、何うの恁うのとい 全で初耳だからね、いきなり然う無暗に浴せ掛けられちやア、面喰ふそれからして解らないちゃないかね。」 ふばかりで全で始末が付かないさ。考へなくッても知れて居る。全「それですよ、今から言ふと可笑しいやうですがね、最初お面識に あんま で此方の氣も知らないで、だしぬけに那様事を言出すのは、餘り醉なツた時から、貴方は最う人の物、手を出す事も出來はしませんで 興が強過ぎるちゃないか。」 したし、羨ましいとは思ッても、那様方の氣は出もしませんでした お今は其儘にちッと見たが、 が、忘れもしません彼の房ちゃんの亡くなツた晩私も見舞ひに行合 いまは 「あ乂、責方は私がほんの浮氣で這麼事を言ッて居ると思ッていらはして居ましたが、彼の時貴方が枕元で、臨終の房ちゃんに仰有ッ ッしやるのですね。」 たお言葉を聞いてからの事なんです。あ又、思合ッたとは言ひなが 「よしんば、然うでないにした處がさ。」 ら、恁うまで眞實の方があるものかと、涙が飜れるやうに眞から身 に染みましたが、あれから以來自分でも何うかしたのかと思ふやう 「そんなら最う少し身を人れて下さるだらうに、いくら這麼身だか らと言ッて、貴方も又餘りですわ。」 に、貴方の事を思はない日はなかッたのです。それは最う本當に自 「まア何方にしろさ、てんで本當にはされないちゃないかね。」 分でも抑へきれないで居たのですが、場合が場合で、それに未だ十 け「い、え、そりや御無理とは言ひませんよ。何うせそれは然うでせ 六になツたばかりのずぶ子供で居た時なんでせう、一人で氣ばかり ふうけれど、些少は、些少だけでも此方の氣が知れさうなもんたの揉んで居る中に、貴方は最う遠くなツてお了ひなさる、私は濱の方 に、矢張り思ひやうが足りないのかしら。」 へ行ッて了ふやうな事になツて、それから先は、自分で自由になら ない身で、彼方へ縛られ、此方へ縛られて、到頭今までお目に掛れ 「むゝ、仰有る事は大分殊勝だがね。」 「貴方、何うしたら可ござんせう。」 なかッたのですもの、覺えが無いと仰有るのも御至當で、此方には そちら らかづを一

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る目もて怨めしげに見返りしが、其まゝ顔見らる、を厭ふが如く、 あわたゞ お桂と呼べど聞えぬ風して、慌忙しく駈上る階子段の足音は暴かり いひな イうす 坊主、傾城、仲人口とて、是誰も瞞せられ易きものに昔より言做 き。宗太郞も妹の不機嫌なる理由は察して、獨切なげに其後影をば けはひ せど、媒人の私よりも却て貴方の方が能う御存知の三之助様、假令見送りつ。何時まで經てども下來る氣勢は無くて、午砲間近になれ ど仍午餉の支度にも懸らざるに、今は捨措かれず、是非無く二階に 墨を雪に言拵へて、誰も飛附きさうな旨い事ばかり並べ立てたとて 詮無ければ、好きも惡きも打明けての御相談。什麼も三之助様は錢昇りて見れば、額の邊まで掻卷引被きて、深く寢人りたるやうに打 ま - ′、らもと づかひの暴いが瑕なれど、其も獨身の氣儘なる故なり。一度世帶持臥したり。お桂 / 、、と呼べども / \ 答の無きに、枕頭に行きて掻 からみ ついむかふむき ちて、世渡の辛身も身に沁みなば、如何に宵越の錢はと江戸子がる卷に手を懸けむとする時、始めて身を動かせしが、其儘衝と向面に ふところ 男も、自ら懷緊りて、後には女房の髮結錢にまで細い穿鑿、米の寢返りけり。 むねき しかた 此胸氣なる所爲を宗太郎は怒らむともせす、却て腫物などに觸る 價を知りての上の無分別は出來ぬものなり。殊に三之助様も此度坂 ひがみ 下に伊豆勘の支店を出して、是よりは身も前垂懸の堅氣に、飽くま ものゝ如く、又例の僻起して、私が意地惡くお前の縁談を邪する ちみち いかに で率直に稼ぐ覺悟の由。人も一度は道樂して緊りたるは、水を潜りゃうに勘違ひしてくれては窮る。什麼も三之助様は男振も好し、才 あつばれ かみわ し炭の火持好きゃうに、別けて酸いも甘いも噛嚼けたる男の、亭主覺も有り、萬事に找目無くて、天睛亭主に持って恥かしからぬ男。 そふり に持ちて肩身も廣いといふものなり。父私の所のやうに姑小姑の係殊に今日此頃のお前の擧止、私も知らぬで無ければ、此から無理に さき ・とりみ ましむかふ あのやう 累は無く、親兄弟の小面倒なるもあらぬ獨身の、年齒も丁度似合し 賴むでも添はせて與りたいものを、況て前方から那様に人橋架けて よめい たっ おっかは き縁なれば、先方の執心を幸、お桂様を御遣しなされては如何で御の申込、二返辭で嫁らして潰りたけれど、と切無き顏を打背けつ。 なかうビぐら 在りまする、と例のお淸が薄い唇を飜しての媒妁ロ。宗太翩は始終 苦り切りて左右の返辭も無かりしが、何れにもせよ、當人の了簡を あたらし こなたすか 聞いた上ならでは、と曖味にして其場を濁さむとするを、此方は 今更事新う言ふまでも無けれど、お前も私も世に在る效無き穢 きゃうだい やたうのぶせり きす、それではお桂様さへ御承知なされば、貴方には御違存は御在多の同胞 ! 御維新前までは夜盜、野臥よりも卑められて、人間並 よそわ つきあひ んせぬかと問詰められて、他目にも當惑の色は見えにけり。他人の の交際さへも出來ざりし身上なり。今でこそ四姓の中に加へられて、 あた′つごきりゃうもち 私が要らぬ御世話なれど、お桂樣も二十を越して、可惜御容色を持人並に平民の籍には人りながら、末だ世間では新の字を附けて、依 ぐさり またしも はり 腐にお爲せ申すは御可哀相では御座りまぜぬか、とロ數多きは日頃然人間の仲間では無いやうな待遇。それは米矣の事なれど、一生御 の癖格別意有りての辭にもあらねど、宗太郎は何と邪推してやら思 恩は忘れませぬの、死なば諸共の、と如何にも堅さうな口を利いた みに はす屹と目を橙りしが、遽に色を變へて、二十を越さうと越すまい奴までが、新平民と聞くが最期忽ち白い目して、傍へ寄るも身の汚 と、他人の貴方の御指圖は受けませぬ。 辱、辭交すも外聞を惡がりての愛想盡し。現にお前も知る通り、私 まとまりか けんもほろ乂の挨拶に、お淸も抛然として還りし迹に、宗太郎はは此の十年許の間に前後七度の縁談、或は町懸けて急に先方の氣 ことばあらそひ の變るもあり、或は盃濟むでから苦情の起るもあり、或は言諍一 身動もせで深く物思ふ氣色なりしが、旋て使所に行かむとする澳の なみだぐ にげだ 蔭に妺の立姿、最前より爰に一部始終を立聞せしなるべし。涙含め っ爲ざりしもの長不意に遁出すもありしが、いづれも新平民といふ こ、ろ さを - でみせ いかに ごゐぞん みのうへ せつ こち うちそむ

8. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

あはれ のが破談の原因なり。然れば一度は同じ哀の穢多仲間より娶はむか のを、況てそれからそれへと穿鑿せられて怎で素性の知られずに済 7 とも思ひしが、恁ては旋て出來なむ子の、いづれ又同じゃうに新平むべきや。又此忌はしき素性を知られて怎で此縁談の纒まるべき よ、穢多よと疎まれて、一生修羅を燃すが不便さに、此様な神佛にや。當人は左もあれ、怎で身内の者の默って通すべきや。末遂げぬ なまじ ちすち まで見放されたる因果の血統を世に遺すまいと覺悟して、世間からは目に見えたれば、憖ひお前を喜ばせて、祝言間近のいよど、に又 わけ、のさ 退者に爲るれば爲れよ、人にも附合はず、附合うてもらはず、却っ破談の憂目を見せうよりはと思ひ、且は恥づべき血統を用無きに洗 て一生獨身の心安く、持って生れし壽命を一日も早く送越して、昨はるゝが可厭さに、私も頷きたい首掉って、お淸様の折角の親切も あやまり ちからおとし 日も無ければ明日も無く、唯其日を夢のやうに暮せば可い、と此一一無にし、お前の落膽も知りつ、辭ったが過失か。 すっかり 三年脱然と諦めて退けた。 嗟乎 ! 同じ人間に生を享けながら、何の因果で恁る口惜しい、 かたは きりゃう いきがひ 痴呆か、不具か、切めては容色でも惡からうなら、未だ諦めも付恥かしい、生效も無い、情無い目に遭ふ事か。人は生れながらに恁 ごふ わし けがれ かうなれど、因果か、果報か、強ち私が肉親の慾目でもなく、他人る忌はしい穢の身に在るものか。あはれ此世に於て何一つ業を作り かうつれなさいな かたら し覺無き身を、何とて世間は恁も強頻く苛むやら。設前世の罪業故 の目にも十人並勝れて見ゆるお前の容。穢多で無くば、新平で無く しあはせ くげんう ば、隨分仕合な所へ縁も有らうものを、可哀や ! 三十近くなるに とならば、其ま乂前世に如何様とも苦艱を更けて埓明けうものを、 あたら 身も固まらず、可惜容色の衰へ行くを、傍に見る此兄が心の中は如憖ひ此人界に曝して、罪も業も一切忘れて覺無き身を然りとては非 のやう 何様なと想ふぞ ! 殊にお前が年中鬱々と躰の良からぬのも、日倍道の祚や ! 佛や ! 切めて朧氣なりとも前世の科を知るならば、 もったい か椴つやうせ としごろひとりみ に面の光澤の失行くのも、皆靑春を獨身で居る所爲と醫者も云はる又何とか觀念の爲ゃうも有るべきに。子として親を恨むは勿體なけ かな なまなか る。噫 ! 人のカで稱ふものならば、私の命を縮めても、其忌はしれど、生中恁る因果な身を生むで給はらずば、縱令又生まれしまで も、物心附かぬ間に一思に殺してなりと給はらば、あはれ今日の憂 い穢多の二字をお前の體から取除けて、一日も早く好い亭主を持た はず ふんべっ せたい日頃の念願。固より今度の縁談に不承知な理は無く、又支度目も知らで濟むべきに。恁く人並の分別附きたる上は、有繋に我と はた なさけ うぶイ - なさま そらおそろ しんしゃう の要る事ならば、此身上殘らず拂いても嫁らして遣りたけれど、情我手に命を縮めもならず、産土にも空怖しく、草葉の蔭の兩親に つきあひかな 無いかな ! お前は人並の交際はぬ穢多の娘。廣い世界に唯一人も申譯無い心地して、是程までに苦しみながら仍も此の世に未練あ おくれ の、女房に來人も無き哀なる新平民の妺なり。今こそ何も知らざれ りてか、毎も間際に怯が出て、死ぬにも死なれぬとは原來も如何な はなし 互の談纒まりて、いよ / \ 與る、娶るの間際になれば、先方も一生る因果そゃ。唯此上は不意に梁でも落ちて來るか、雷にでも打たれ こまか かな ちすぢ の大禮なれば、一應此方の血統から素性、身元まで細に穿鑿するはるかして、一思に殺されたいが日頃の願なれど、それさへ恢はで、 ちゃう かみのけひとすぢ かくしお虐 なまき干 定なり。然るほどに日輪の隈無く照し給ふ下に、髮毛一條だも隱了今日まで生疵一つ受けもせず、去年の赤痢にも助かりしを思へば、 しがい たら干 さむとするは誤にて、此二十年不足の間に、芝、廱布、京橋、麹町よく / \ 業の減せぬものか。人には大猫の死屍のやうに厭はれて、 いづく つきあひ と七八所も替へたれど、何所にても少しく尻の暖まる頃には、誰言禪佛にまで憎まれたる身の、憖ひ世間に交際を求むればこそ、悲し あたり くらぎたな うらめ ふと無く隱せる素性を四隣に知られて、例のロ毒く沙汰せらるゝが い事、恨しい事、口惜しい事の數にも遭ふなれ。又夫婦と謂へば如 ためし すみつ 辛さに、つひぞ是まで一所に三年と住着きし例無く、萍の所定め何にも樂しい、賴もしい者のやうには想はるれど、元來他人の合せ よそ ず漂ふにても、實にや障子に目ある世は、何時かは人に知らるゝも物、存外離れ易くも脆いものにて、他から見る程善くは無い者な な、やところ こち しんへい みたおや

9. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

「ですが : : : 」と繁も返事に困って、「貴方は、でも、私の獨身主「社會上道德上の責任を恐れたーー無論それもあるが、實際白状す 0 ると、繁さんと那れまでになって居ながら、彌張何うも、養家の方 和義に、同情は爲すって被居ったわね。」 なはい 「仍可けない ! 獨身主義に同情し、賛成を爲て、夫を持つな、然に心が殘って居て、それで一つは貴方と結婚する氣に成れなかった し戀は爲ろーーー夫は持たんでも可いが男を持たないのは女の自然のでせう。」 い少なづけ に背く ! 那様ゃうな事を眞面目になって言ったのだ。何といふ無「心が殘って被居ったと云って、では、あの、許嫁の方に : : : ? 」 さすが 耻の言でせう ! 是が誘惑で無くって何でせう ! 今考へても、僕と問返した繁の聲は、有繋に不快らしかった。 欽哉は帽子を些っと冠り直して、「それも何ですが : : : 僕も養家 は實に耻づるのです ! 」と我にも無く調子が高まったが、擦違ふ人 の振返るのを凝と眈返し、溜息を咐いて、「彌張何うも : : : 眞面目の方を繼いで置けば、何かに便宜だし、豈か佐藤のやうに財産や家 に貴方と結婚する氣なんか、始めから僕には無かったものと見え権ばかり目當に爲ないまでも、世の中を渡るのに、言はゞ風波を凌 る ! 」とカ無げに言って、欽哉は手にした鞄を持更る。 ぐ安全な港を控へて居る譯ですからな。一時はそれは、養家の手前 「私、些と持ちませう。」と繁が手を出すのを、「何有、可いですなぞ何でも無いと云ふ氣になったが、それでも彌張許嫁を棄てるの ・ : だが繁さん、僕は成程結婚する氣はなかったか知らないが、共は濟まない : : : のでは無い、惜しいやうな氣が爲て、始終然ういふ まさ たぐさみもの れだからと云って、豈か貴方を一時の弄物に爲ゃうなんて、那様利害の打算を頭に持って居た ! やれ養子ほど不條理なものは無 憎むべき了簡では決して無かったんですから、其丈は何うか誤解し い、やれ許嫁は不自然だ、箇性を無視するの、人格を滅すのと、貴 つかま ないやうに : : : 僕が誘惑々々と言ふから、或ひは那様風に取れたか方を捉へちや能く不平や苦痛を訴へたものだ。だが、僕は那様に果 知らないが : : : 然う又取るべきが至當だが、然し僕は、何も彼も最して苦痛を感じて居たらうか ? 自分ながら何うも那頃の心持は能 う打明けて了って居るのだからーー奇麗に打明けて了って、而してく分らんので : : : 何しろ言ふ事が皆誇張だったのは事實です ! 貴 爽りした氣持になってお別しゃうと思ってるんだから : : : お別して方の同情を引かん爲めに、強ひて煩悶を大業に振廻したやうな覺が 【のご 了へば、最うそれで二度と貴方に遇はれやうとも思はんし、此期に無いでも無い。が、まあ那様事は何ちにしても、僕が結婚を避けた なって何も自分の非を飾らうとは爲ません ! 矛盾のやうだけれり、獨身主義を賛同したり爲た眞意は、全く養家に對する未練が内 こんな ど、僕は決して貴方を弄んだのでは無い、眞心から貴方を戀したの内殘って居たからで : : : 」とロ籠ったが、「いや、這麼事を聞いた は事實ですよ ! 」 ら然ぞ貴方も不快でせう ! けれど : : : 最う共も過去の事で、那通 「それは、私だって知ってますわ。」 り許嫁の身も決るし、養家とは全然僕も縁の切れたものだから、切 「然うですか、それなら僕も滿足だが : : : 」と暫く默って歩いためて其れで、繁さんも何うか恕して下さい ! 僕には最う港と云ふ が、「此間銚子でも然う言ひましたね、僕は夫婦といふ瓧會上道德ものは無いのです ! 港を失った難破船です ! 實家の方と云って も、是も腹違の兄で餘り賴みにもならないし、田舍へ退込んで、果 上の責任を恐れて、それで結婚を避けたのだ。だから、繁さんの獨 身主義を不自然と知りつゝも、結婚を避ける爲めに共を賛同したのして望通りの平和が得られ又ば僥倖なので : : : 」 だって、ね。」 人通りが劇しいので、折々聲の紛れる事もあったが、可成身近く 「えゝ。」 寄添ひながら、第も涙含んで聞いて居た。 さつば ぢッねめかへ なみだぐ けよノ・つ どっ いへ

10. 日本現代文學全集・講談社版 11 山田美妙 廣津柳浪 川上眉山 小栗風葉集

のみの御身の上では無くて現在母上の夫さ ( もおなじ様でおじゃる向 0 て字をば讀まずに、いよ , \ 胸の中に物思の蟲をやしな 0 た。 みつね つらゆき のに : : : 扨も扨も。武士の妻は箇程無うてはと仰せられても此身に 「『題知らず・ : ・ = 躬恆・。 = ・貫之 = = = つかはしける = = ・・女のもと ( はいかでか / 、。新田の君は足利に計られて矢ロとやらんで殺され うはさ : 天津かりがね : : : 』。お又我知らず讀んだか。それにつけても てその手の者は一人も殘らず = = = あ、胸ぐるし」浮評ぢやわ。三郞未練らし」かは知らぬが、門出なされた時から今日までは快七日ち の刀彌は、然うよ、父上も其處を逃れなされたか。門出の時このヒやに、七日目にかう胸がさわぐとは・・・・・・打出せば愚痴め」たと言は 首を此身に下されて『喃、忍藻、おこと、己とは一方ならぬ縁でれ = ・・・・お、雁よ。雁を見てなげ」たと」ふ話は眞に・・・・・・匯、雁は翼 ・ = やがて己が功名して歸らう日は何時ぞとはよう知れぬが、和女あって。・・ = 喃」。 みびいき も並々の婦人に立超えて心ざまも女々しうおじゃらぬから由ない物 かたみ だが身贔負で、猶幾分か、内心の内心には ( このやうな獨語の中 思をばなさるまい。その時までの記章には己が祕藏のこの匕首 ( こ でも ) 「まさか殺されは爲まい」の推察が蟲の息で活きて居る。そ れには己の精訷もこもるわ ) ヒ首を殘せば和女も是で煩惱の羈をばれだのに涙腺は無理に門を開けさぜられて熱」水の堰をかよはせ 喃 : : : なみだは無益ぞ』、と日頃から此身は我ながら雄々しくして しばらく 居るに、今日ばかりは如何にして斯う胸が立騷ぐか。別離の時の御 わざ この儘でや又少焉の間忍藻は全く無言に支配されて居たが、其の 言葉は耳にとまって = = = 拔離せばこの妻い業もの = = ・・發矢、なみだ内に破裂した、次の一聲が。 の顏が映るわ。この涙、あ乂ら此身の心はまだ左程弱うはなるまい 「武藝はそのため」。 ともしびふつ に : : : 涙ばかりが弱うて : : : 昨夜見た怖い夢は : : : あ思人ればい その途端に燈火は弗と消えて跡〈は闇が行亙り、燃さした跡の火 とゞ獨胸は = = = 胸は湧起っわ。矢ロとや、矢ロは何處ぞ。翼さ ( あ皿が暫時は一人で晃々。 らば箇程には : : : 」。 そ ~ 、ろ 思人ってはこら〈かねて坐に涙をもよほした。無論荒誕の事を信 ずる世の人だから夢を氣に掛けるのも無理では無い。思 ( ば思ふほ ど考は遠く〈走って、それでなくても中々強い想像力が一人躔扈を 夜は根城を明渡した。竹藪に伏勢を張ッて居る村雀はあらたに軍 極めて判斷力をも殺いだ。早くこ、でその熱度さ〈低くされるなら議を開初め、閨の隙間から斫込んで來る曉の光は次第に四方の闇を 別に何のこともないが、中《通常の人には其様に自由なことはたや追退け、遠山の角には茜の幕がわたり、遠近の溪間からは朝雲の狼 すく出來な」。不思議さ、忍藻の眼の中には三郞の俤が第一にあ烟が立昇る。「夜ははやあけたよ。忍藻はとくに起き 0 らうに、ま いか らはれて次に父親の姿があらはれて來る。靑ざめた姿があらはれて だ聲をも出ださぬは」。訝りながら床をはなれて忍藻の母は身繕 來る。血、血に染みた姿があらはれて來る。垣根に吹込む山おろ なう し、手早く口を漱いで顏をあらひ、黄楊の小櫛でしばらく髮をくし し、それも三郎たちの聲に聞える。ポー , 惱と鳴る遠寺の鐘、それけづり、それから部屋の隅にか、ツて居る竹筒の中から生鑞を取出 かみのけ も無常のかと思はれる。 して火に焙り、切りにそれを髮毛に塗りながら。 おこと 人に見られて、物思に沈んで居ることを悟られまいと思って、そ 「忍藻いざ早う來よ。鑞鎔けたぞや。和女も塗らすか」。 ひとこと れから忍藻は手近にある古今集を取って宜加減な處を開き、それ〈 けれど一言の返辭も無い。 ゅう・ヘ