くちのうら ぬけがら の身躰は脱殼で死んだと同様です、」とロ裡で消えて了ひさうに云 らもある。加之も不思議なは自己の才能力量を確信する者は自分が 6 ためいきっ ラビリンスお ってカの無い歎息を吐いた。 妖魔の迷宮に陷ちた不明を悔いないで直ちに妖匱と格鬪を試みてゐ うつむ いくたび ハンケチそっ 女は垂頭いたまゝ折々手巾で祕と眼の縁を拭いて、幾度も鼻を拭 る。加之も愈よ不思議なは格闘に負けても菩薩の手に救はれるのを 嫌って甘んじて妖の犧牲となって了ふのがある。斯ういふ意地がんだ。 あなた 情な 「二人とも不幸ですナ、」と男は軈てカの拔けた聲で、「貴孃も不幸 切めて半分もあると一切を冷笑し去って了ふ事が出來るが よ こ、ろ あなたラヴな いくぢなし いーー僕は實に無氣カ漢だ。好んで幸輻に背いて得ようと思へば得だ。貴孃の愛が喪くなツたといふ言葉は能うく僕の心根に徹した。 ラヴ じゃう られた愛を棄てて今日の不平不愉快を求めて買ったのは全く自分の僕の愛が消えて了ったといふのも貴孃の情に徹しましたらう。二人 をいちう あきら とも誰一人掣肘する者の無い自由の身で、思ふ事が自由にならなか 罪過だーーーと斯う覺悟めると其應報としても煩悶憂苦は忍ばねばな らぬ様な氣がして、今だに過去の幸輻が戀しくて、氣に入らない女ッたのは之がち渾命といふンでせう、」と祕と顏を上げて女の顏 の面倒を生涯見て面白くなく老朽ちるのかと思ふと、理想も抱負もを見た。 「之からは共運命に默從して正義の道を踏んで行くより外仕方が無 滅茶苦茶となって了ふ。」 しんみきゃうだい ぬす ためいきっ しはりだ しうぜん 男は愁然として搾出した様な溜息を吐いた。女は折々竊む様に男い。な、靜江さん、何時までも長アく骨肉の兄妹だと思って睦じく フリンジもてあそ ことさら ショール しませうな。」 の顔を見つ乂故更に無心らしく肩掛の流蘇を玩んでゐた。 ゅびさき んねず みんな 女は手巾を顔に當ててゐた。銀鼠の絹手袋を緊くり穿めた指頭が 「悉皆様の攝理ですワ、」と較ゃあって女は聲を曇らしつゝ、「で きっ ショールづきん あなた かひな すから氣を腐らせずに正しい道を行けば貴郞の抱負を行ふ時が必と微かに慄へて、腕に掛けた肩掛と頭巾がずり落ちたを拾はうともし きら トツ・ハーズビン うすさび ゆったり 來ますワ。急がば廻れッて、何でも氣を長アく悠然と持って屈しさないで、薄淋しいタ暮の光が葉越しに黄玉の華簪を燦つかしてゐ エジプト がう こ 0 いしなければ何時かは必ず成功します。モーゼが埃及を去る時は強 ひろひと ようす′ しの あくひだう 男は肩掛と頭巾を拾取って女の肩に掛け、凝ッと容子を見てゐた 惡非道の。ハロの迫害をさい禪の力に頼って凌いだンですから、賢郞 くち少げ まぶ うつむ おくさんラヴ あんまくよ / 、 も餘り怏々なさらないで : : : 第一、夫人を愛してお上げなさい。何が、眩しさうに垂頭いて眼の縁を撫でた。男の顏は蒼ざめて口髯の ちゃうど さきをの、 をなさるにも夫婦が同じ心でなければ決して成效ませんからネ。そ尖が戰いてゐた。恰度通り合はした巡行の巡査が不思議さうにジロ たちど ふりかへ だいじやさ ジロ見て、四五間行過ぎると一寸いと佇立まって顧眄ったが、忽ち れには貴郎の方から折れて夫人を安心させる様に大切に柔しくして 復た行って了った。 上げなければ : : : 」 あな た ひとりごと 「靜江さん、」と男は較や暫らく經って再び同じ事を繰返した。「貴 「無益だ、最う無益だ、」と男は獨言の様に呟いた。 ヒューマニチー おくさんラヴ 「無益だなんて、苟りにも人道を説く方が夫人を愛出來ないッて嬢も不幸だ。不幸だが諦めて下さい。僕も運命と覺悟してお吉の面 倒を見てやると決心した。貴孃も嫌だらうけれどお吉とも睦じくし ま - う・一う ラヴ むかし 「既う愛は消えて了った。」と男は愁然として、「往時は架空の夢想て。 : : : 實に困る、お吉は貴孃の潔白を誤解してゐるから : : : 」 ラヴ 「最う止めませう、升ンな愚痴ッぽい話は、」と女は顏に當ててゐ に浮れて愛の有るのを忘れてゐたのが、人生の苦限を救ふのは愛の わざ ハンケチひったく いづみ 靈泉だと初めて氣が附いた今日は、愛の靈泉は既う涸果てて了った手巾を引奪る様に取って故とらしく嫣然笑った。眼の縁が赤くな あとにじ た。有川の家庭を無事に治めるだけなら出來ないではないが、自分ッて涙の痕が染んでゐた。 ラヴ ヴヰクチム おいく おのれ そむ でき かれは ラヴ かす ふる ちょ につこり じい し むつま か
352 また單純なるは云ふまでもなく、事物に感觸して嘆稱の聲を發せば の質を仔細に説明せしは漸くコルリッヂに初まれり。彼は沙翁の曲を講 述するに臨むで先づ日く、 常に同調を繰返すは免かれざる處にして、素盞烏奪が咏じけむ「 詩は散文に對するにあらで學術 (Science) と相對す、詩に反するは學 雲たつ出雲八重がき妻籠に重がき造るその重墻を」の歌以て好 術なり、散文に反するは律語 (Metre) なり云々。 證例たるべし。是れを名けて「アリテレーション」 (Alliteration) 此説今日にては一般に行はれ、や文學を談ずる者は詩と韻文の別を合 と云ふ。此「アリテレーンヨン」なるもの實に韻律の素たるは和漢 點して是を混同するなきを常とす。こは必ず記臆すべき事なれ。 はもとより歐洲上代の歌にて今に殘るを見るも頗る此種に富めるを もて知るべし。 詩と饋文 上代の歌は自然に出づ。其感慨滔れて歌となりしものなれば、韻 律に拘束せられしの跡なけれども、其漸く變遷して、終に韻律の法 終局する處詩形の輕んすべからざるは勿論なれども縱令詩形に拘 式をさへ生するに到っては、詩が外の美は瓮よ加はれども其自然束せらるゝを甘んずる人も詩を作らむとするは畢竟詩興の爲す處な を缺くの感あるは律の爲に作るを以てなり。 れば、詩想の奪ぶべきは何人も能く知るの實事ならむ。加之、時代 音樂的文章は音樂的思想に出づと、カア一フィルが云ひけむ言極め邉り社會進めば詩形は漸次に轉化して極りなからむ。 て面白く、韻律はもと思想の跳舞せる刹那に出でしなれば、先づ音 一變して離騒、再變して西漢五言、三變して歌行雜躰、四變して 樂的思想を養ふて然る後韻律に協ひし文章も出づべけれ、然らずん沈宋律詩、或は栢梁躰、或は西崑躰、元、和、曹、劉、李、杜、 ば思想を律の典型に鑄入するの弊に陷るを如何せむ。要するに韻韋、柳己がじゝに作り出せし諸躰を滄浪は唯數へて止みぬ。若し一 律もと重んずべしと雖ども、是れ詩の果にして強て其則に従はむと時の躰に固執せば其詩想の暢逹するなく空しく古人の奴隷と爲て絡 するは却て詩の本來を誤るなからむや。ホッヂノンは日く、節奏は らむ。 詩に必要なるものにあらずして詩却て節奏に必要なりと。當れる哉 百年前我が國學瓧會に振ひし萬葉復古の勢は終に一時を制したれ 此言。 ど、其想の如何に異なれるかを悟らで、其古き言葉を學ばんとする は識者到底肯んずるを得ざるなり。されば件蒿蹊吉田令世等が是を 因に云ふ。ポーエトリイと韻文とは同じからず。韻文ち有調文章是を 英語にメトリカル、コムボジションと云ふ。邦人較もすれば詩と韻文を同難ぜしは頗る理ありて、萬葉の自然に出でゝ優絶高妙を極めたるは 視して詩を以て散文に對照し韻律節奏の如何を以て是を區分す。誤れるの兎にかく、一千年を距てゝ是を學ばむとするは可笑。 甚だしき又到れる哉。詩には韻文も散文もありて、我が從來の解釋にては 斬新若くは奇古を衒ふ詩人の弊として、或は解すべからざる古語 ありが 散文なるを詩と目さゞりしが、詩の質を詳かにすれば強ちに躰の如何に關を用ひ、或は不安の造語を用ふるは往々有勝ちなる事なれど、是れ らざるを知るを得む。山田美妙齋曾て馬琴の文を評して詩なりと云ひ、朝 却て詩想の妙を損ずるに止まりて、更に美を加ふる事なからむ。要 比奈碌堂も賴山陽を評して史家と日はむよりは寧ろ詩人なりと斷定せし するに瓧會の發逹と共に思想變遷すれば、從て其思想より湧出する が、馬琴及山陽の詩人なるは云ふまでもなき事にして、若し美妙碌堂の二 詩の轉化するは當然にして、治世には治世の調あり亂世には亂世の 氏能く詩人の語を説明して後に詩人たるを斷ぜば兎にかく、惜むべし二氏 共に詩の義を詳悉せず、一は韻文と合同し、一は唯叙情 ( リリック ) のみ音あり。若し此道理を辨へずして其嗜好に投ぜしものを直ちに探て を以て詩を考〈しが如し。然れども獨り一一氏のみにあらず、ポーエトリイ摸せんとするも豈得べけんや。所謂詩か描くの才あるものは必ずや おの
能く是を摸すべきも其思想を蓄へずして如何でか其訷を奪ふを得ん 詩想の變遷 ゃ。單に外觀の美に感じて偏に是を擬せむとするは優孟の衣冠たる 詩形既に變轉す、其原泉なる詩想の變遷するは勿論にして、社會 に過ぎず。兎にかく詩人も社會に件ふなれば、舊詩想より生ぜし舊 るつぼ 詩形を學ばむとするは、例へば今の世に強て結髮を誇らんとするに惣ての發逹と共に因縁の坩堝に融解せられ、次第に移轉するは人事 の常にて理の當然なり。上代未だ社會の結合堅からで其壓抑未だ強 異ならざるなり。 因に云ふ。今の人往々奇奥なる古語を用ゐて其識に誇るものあり、怪むからざりし時は、内界の痛苦は殆んど無く唯外界に畏縮讃歎して、 やほよろづがみ べし、其等の人の文を作るに暗きや。夜航餘話に日く、 或は八百萬の德を頌し、或は首長の武を稱へしに止まりしが、次 江戸の隅田川を眞名伊勢物語に墨多川とあるを見つけて徂徠の詩に墨第に内外一一界の爭闘衝突を生じ、其れが爲めに内界の痛苦も加はり なが 水と書きたるを翁の手がらのよし申侍るなり、されど黒山盧龍塞など云 て、漸く月を瞻め花を見る度に我身につまさる長哀歡を唱ふに到れ へる戎狄の地名のごとくにてむさくろしきいやらしき流と聞ゅ。涼しく 。然れども又進むで天運の遁るに路なく、知るも知らざるも英 美しき事をいふ詩に墨水の字を用たらんは殊に不都合なるべし、漫りに 雄豪傑仁人君子皆諸共に自然の大波濤に卷込まるゝを識認して、我 其わきまへなく用ゅべからず。すべて詩詞には汚き語を忌きらふなり。 又山本北山が日本風土記殘本に江戸を荏土と書せるを見つけて奇を好でが内界特殊の感慨を洩すの念を斷ずれば、爰に再び詩の新鉢を生ぜ 專ら用ゐけるより、書肆果肆まで用ふるに到れり。墨水は字面汚濁なるむ。若し古への躰のみを以て詩なりと爲し、是を標準として詩を考 のみ、荏土は不詳の惡號なり、是を忌憚らざりけるは誠に不埓といふべ ふれば其誤や極めて大なり。世往々這般謬妄に陷る、爰に於て詩漸 し。 く衰ふるの説出づるに到る。 墨水及荏土の字義如何は扠て置き、斯く無理遣に字面を衒ふは却て文味 を損するが如し。 詩と理學の關係 外國の字音はいたく東洋と異なれるをもて是を挿むは文字を俗了なさし 詩の衰減を説く者が第一理由として堅く執て動かざるは理學の進 むるの感ありと云ふものあれど、こは眼に馴れぬより起れる癖見にて、特 歩なり。其説に日く理學と詩は並立するものにあらす。詩はもと想 別の意を含めるものゝ外は通常の固有名詞など少しもさまたげなきに似た り、櫻洲山人が漫遊記程中の詩、また近く鸛外漁史が物語のくさみ、を見像を基礎と爲せば理學の進歩に連れて、想像世界愈よ狹隘と爲るは てもそのひが言なるを知るべし。 自然にして、詩も從って退歩するは論を待たずト。是れ秘密の唯物 要するに詩形は詩想の表現なれば、詩想のありの儘を曲げざるを質の上に存ずるを知って、心靈の中に有るを知らざるの説なり アンノーエー・フル、ウォルド 理學は進歩せり。然れども猶ほ不可識世界の存ずるにあらずや。 以て可なりと爲す。詩想崎堀なれば詩形また崎堀なり、詩想幽奧な れば詩形また幽奧なり、綷 0 諍物い陬いてかかか平みい第い理學は進歩せり、然れども獪ほ幽靈説の行はるゝにあらずや。理學 は進歩せり、然れども萬物の原素たる分子を如何んともする能はざ 一加かか丱晰と爲かむや。 殊に合點せよ、詩形は時代と共に變遷して一定せざる事を。是をるにあらずや。 宇宙の祕密は理學の進歩に依りて次第に幽渺を脱したるは誰人も 韻律の上に證すれば最も明亮なりとす。ヘーゲルは日く史ゅ諍 い漸い零いて終に散い齢せかと。此言較や當れるに近からむ能く知る所なれど、獨ほ不可識世界は漠々として共涯際のある所を 3 知らす。畢竟吾人がロにする無際涯なるものも亦無際涯中の一小世
以心俾心的の感應を與ふるを得べし。探幽の畫如何に美妙に逹せし及ぼす區域に到ては、コルリッジが云ひし如く、詩較や一歩を讓る 6 新も、蓮慶の彫像如何に神に人りしも、到底此直接感應を與ふるを得に似たり。其言に日く、ミカエル、アンジェロ 1 或は一フフハエルの ざるなり。 作は萬國を共通して感動を與ふべしと雖ども、ダンテ若くはアリオ ストーの文字は唯伊太利人を感ぜしむべきのみ、斯かれば詩は却て 殊に繪畫の色彩を借りて極めて精緻なる形像を與ふるは遙に詩に コニバール、アート 優れりと雖ども、畢竟抽象的念を現せしに過ぎざれば詩の如く特普遍的美術の實を缺くが如し云々。 然れども他の美術印ち繪畫彫刻及音樂が博く世界を通じて、荷く 異、細質、變化等を描出するを得ず。レッシング日く、 美術者の現せし訷其外の諸靈躰は詩人の紹介せしものと同様なも七情を具有する人類は、悉く感憤せしむるが如けれど、詩が主旨 メンタル、レ・フレゼンテーション りと云ふを得ず。美術者は抽象的性質を形像と爲し、同巧を以てとする所は、既に繰返せし如く心性之表現なるをもて、音樂の 製作するに非ずんば、吾人をして承認せしむるを得ず。是に反し聲調、繪晝の色彩、彫刻の線畫を借らざるも、若し僅かに其意想を 傳ふれば以て感觸を與ふるに足る。さればへ 1 ゲルは曰く、 詩は象形美術の理覺的形像にも賴らず、音樂の聲響をも放棄 みい物かい具か第秘物か。例へば彫刻家にはべナスは唯愛 の神なれば惣て穩當なる華美とあらゆる嬌柔なる妙趣を與へ單に し、唯内裡の表現を要するのみなれば、是を外國語に飜譯して其 言語の音調を化するも、若くは韻文を散文と爲すも毫も其根底に 愛憐なる一躰を作り以て吾人が愛の抽象的覿念を滿足せしめざる べからず。毫末も此理想を離るれば吾人は中々に其女神たるを識 變化を與へず。主とする處は單に其意想にありて音調にも形像に もあらざるなり云々。 認するに苦まむ。今若し穩當なるよりは寧ろ莊重なる美を以てせ ュニバーサリチー ば是れべナスにあらでジウノーと爲り、嬌柔なるよりは寧ろ森儼 詩焉んぞ普遍性を缺くものならむや。論ゅ第麭い印い第普 剛毅なる妙趣を以てせばべナスよりは却てミネルヴハたらむ。激遍性に存ず。 因に云ふ。漢詩和歌若くは今の新躰詩を主張する輩往々聲調を尊んで第 憤せるべナス又は復仇狂暴に走りしべナスは彫刻家が意匠外たる 一要素と爲し、荐りに喋々の辯を費せども是れ詩の本質を知らざるの言な は、蓋し愛としての愛は憤激また復仇を爲すものにあらざるを以 り。讀誦して若くは高吟して耳に一種の興を副ふるも詩の本來に於ては何 てなり、然れども詩人より見ればべナスが愛の神たるは勿論なれ かあらむ。殊に共甚しきは漢詩を説くもの象形文字の能を主張して支那詩 ど此單一性質の外に彼が特有の個人性をも備ふれば其感情に左右 の長慮と爲す。斯る説を爲す者には太古のヒャログリフヰックなど最も有 せられて激動發憤せらるゝなり。されば今若し詩に此女祺が憤怒 效なる活文字ならむ。 して兇暴せしさまを咏まば如何に不思義に感ぜらるゝならむ云 詩の分類 ヴェロンが「畫人荷モ描ク所有ル毎ニ必ズ常ニ人ノ情性フ發揮ス リリッグ 工どッグ ルコト此ノ如クニシテ以テ詩ノ上ニ出ント欲スルトキハ幽晦ニ陷ヰ 詩を大別して、三と爲す。日く叙事詩、曰く叙情詩、日く戲曲。 ェビック ルニ非ザレ・ハ迂怪ニ流レテ反リテ大ニ美麗ノ観ニ損スル有ルヲ致サ 叙事詩は最始の詩躰にして有名なるホーマ 1 の詩を初めチョーサ ン」と云ひしも又爰にあらざるか。 ア、ミルトン等の作、我國の平家物語、源平盛衰記、太平記等軍記 よみん 詩の他美術に比較して勝る處斯くの如く多しと雖ども、其感應を物語類及び京傳馬琴等の稗史類惣て此中に屬す。 0 ドラマ
36 イ をば留むる關もなくて年月を送りしほどに、天下の亂一日も休む 一端を擧ぐるのみ。 時なかりしかば、元弘の初には江州の番馬まで落ち下り、五百餘 太平記 人の兵共が自害せし中に交りて腥羶の血に心を醉はしめ、正平の 季には當山の幽閉に遇ひて兩年を過ぐるまで囚刑の罪に膽を嘗め は平瓏は莊重典雅なる文字を以て名あり、實に日本に於ける有數 き、是程されば世に憂きものにてありけるかと初めて驚くばかり の叙事詩と爲す。其作者小嶋法師なるものゝ歴史は末だ詳らかなら に覺え候ひしかば、重祚の位に望をもかけず萬機の政に心をも留 ざるも、平家物語と異なりてま曳比喩を設けて其理想を洩せし處多 らいい し。殊に「一や五「蜘物物 5 事」なる一節に於て頼意が立聞 めざりしかども、一方の戦士峨を強て本主とせしかば遁れ出づべ き隙なくて、あはれいっか山深き栖に雲を友とし松を隣として心 きせし三人の物語に寄せて元弘以來の兵亂を論ぜしは唯客の描寫 易く生涯を盡すべしと心に懸けて念じ思ひしに、天地命を革めて を重むする叙事詩にあらぬ事なり、又卷三十九「光嚴院禪定法皇行 あんぎや 讓位の儀出で來しかば蟄懷一時に啓けて此姿になりてこそ候へ。 ゅ知事」なる一節は法皇の行脚に寄せて作者の胸中を愬〈しと覺 山菓落レ庭、朝三食飽 = 秋風「柴火宿レ爐、夜薄衣防 = 寒氣吟肩 ゆる點頗る多し、今其二三を指摘すれば、 回レ首望レ東雲につらなり霞に消えて高く峙てる山あり道に休め 骨痩擔レ泉慵時、石鼎湘レ雪、三椀茶飲 = 淸風「仄歩山險折レ蕨倦 、こり 時、岩窓嚼レ梅、一聯句甘 = 閑味一給ふ身の安を得る所印ち心安し、 る樵に山の名を間はせ給へば、是こそ音に聞え候ふ金剛山の城と やれふとん 出づるに江湖あり入るに山川ありと一乾坤の外に逍遙して破蒲團 て日本國の武士どもの幾千萬といふ數をも知らず討れ候ひし所に の上に光陰を送らせ給ひける。 て候へとぞ申しける、是を聞し召してあな淺ましゃ此合戦といふ リリカル 是等は既に叙情の範圍内に入りしものにしても最も嚴確に論ずれ も我一方の皇統にて天下を爭ひしかば其亡卒の悪趣に墮して多劫 ェビック が間苦を受けんことも我罪障にこそなりぬらめと先非を悔させ御ば叙事詩と云ふべからざるが如し。然れども縱令作者の理想を多少 ェビック リ 0. ( ル、 見るべしと雖共もと叙事詩の質を帶びたるは分明なれば特に叙倩的 座す。 ェビック 是に一日一夜御逗留ありて様々の御物語ありしに、主上さても叙事詩なる新題目を設くるを須ひんや。 只今の光儀覺めての後の夢、夢の中の迷かとこそ覺えて候へ、縱 打諢譚 令仙洞の故宮を棄てゝ釋氏の眞門に入らせ給ふとも、寬平の昔に うを、くさ そック、ヒロイック なぞら 森嚴なる此純正叙事詩に對して打諢譚 (mock ・ heroic) あり、ボー も准へ花山の舊き跡をこそ追はれ候ふべきに、奪躰を浮萍の水上 に寄せて叡心を枯木の禪餘に附られ候ひぬる事、如何なる御發心プの有名なる「ゼ、レープ、オプ、ゼ、ロック」は實に此好摸範な にて候ひけるぞや御羨ましくこそ候へと尋ね申させ給ひければ、 我國にては適當なる摸範に乏しけれど式亭三馬の道化物語及船 法皇御涙に咽びて暫しは御詞をも出されず、良ありて聰明文思の うたず 四德を集めて叡旨にかけ候へば、一言未だ擧げざる先に三隅の高不討、空來山人の飜艸盲目等は此種に屬す。 敵不討は全交の遺せし作意を執て編みしものにして、天明の頃盛 察も候はんが、予元來萬劫煩惱の身を以て一種虚空の塵にあるを 本意とは存ぜざりしかど、前業のかゝる所に舊縁を離れかねて住んに行はれし仇討物語の千篇一律なるを嘲り、當時の楚滿人亞流を むべきあらましの山は心にありながら、遠く待たれぬ老の來る道慚死せしめし草紙なり。其文字は極めて簡約なれども巧みに仇討物 ェビック や、 0
は宗敎家往々今の小説を咎むるものあれども、是れ小説の何ものたるを知 る寓言に基づく者にして、何れの世何れの民種を問はず、自然に生 8 らざるの説なれば取るに足らざるなり。 % じたる虚誕なるロ碑中には、ま極めて單純なるが故に却て微妙な 付己 しョロ る眞理を存ずるもの多し。アラビャ物語の如きは大に荒唐に過ぎ唯 小説は散文躰詩 (Prose Poetry) の義なれば、一言して小説といふも叙 粗野にして且っ孟浪たる上世の狂想を描きし感あれども、アンダー 事詩に屬するあれば叙情詩に屬するもあり、爰に今小説といふは叙事詩に セン及びグリムが集録せし物語には自づと敎義に協ふものあり。殊 屬するをいふなるは云はでもしるき事なれど、注意の爲め記し置く。又教 にエソップ咄は素より其主旨を爰に存ぜしものから、今日に到るま 義的物語は寧ろ叙情詩の範圍に屬するものなれど物語を説きし序に述べし で傳唱せられて修身の資と爲れるも當然なり。而して幼稚なる寓言 なれば猶ほ叙情詩の章を參考すべし。 は次第に長じて他の智識と瓧會の發逹に件ひ、終に理想界物語或は 嘲世談の形を爲せしなるが、世益進まば這般の物語は亦愈よ其美 雜躰叙事詩 を顯はして光彩を競ふに到らむ。蓋し詩は漸次に空想を離れて人生 と密接の關係を深ふする事更に一層なるを以てなり。 第三雜躰叙事詩 以上數種の物語類、是を叙事詩の第二種と爲す。 英語に「テール」 ( 小話 ) と云ひ「・ハラッド」 ( 小曲 ) と云ひ「パ ストラル」 ( 牧歌 ) といふもの、我が國の謠曲、土佐淨瑠理、今昔 因に云ふ。矢野龍溪氏曾てスコットの「不善ならぬ娯樂を人に與ふるも のなり」の語を引て小説の本色となして云〈らく「世に有り得べき事柄を物語、宇治拾遺等、支那の樂府、情史、及び聊齋志異等の小話皆是 濬合して世に有る事なき物語を組み立て世人に娯樂を與ふるもの是れ小説に屬す。 の本色のみ」ト。詩人なるも詩學者にあらぬスコットの事なれば左る淺き 「テール」は短かく町まりたる小話にして、「バラッド」は變轉錯綜 説を立つるも怪むに足らず。娯樂は小説が生ずる間接の效果にして其本色したる物語を極めて短かく疾速に纒めたるものなり。一は元來短か にあらざるなり。父小説に副産物ありといへるも理ある事ながら、副産物 きものなるも、一は稀に描寫を用ひて短截したるものなり。又「パ リリック はもと小説に随件する功益の一にして、本來の目的にあらねば、其收の ストラル」は自然界の現象を咏みしものなるをもて、一般に叙情詩 リリック 多きを貪ぼらんとするは小説を誤るものと云ふべし。 の範圍内に置くと雖ども、叙情詩の本態印ち作者の理想を歌ふ事な 又學海居士は曾て演述して日く「近來小説家は勸善懲悪などいふは陳腐 ければ、是を叙事の一躰となすをもて當れりとす。要するに雜躰叙 なりといふ論が起りまして、何でも目新らしく耳新らしくといふよりし て、悲哀小説がよひとか眞理小説がよひとかいひまして、或は色好みの男事詩なる名目の下に屬するものは前の二種に比して更に單一なる小 子が心正しきおとなしき女を姦し、終にこの女が不幸を悲みて死する事を話を記述せしもの也。 デスクリノチーヴ飛ーエトリイ 作りましたり、又は善でもなき悪でもなき道樂書生が女生徒と密通する躰 爰に修辭上より説けば叙事躰詩 (Descriptive Poetry) と紀傅躰詩 ナーレーチーヴポーエトリイ など作り、其淫奔のさまを細かに寫し、これが小説の髓じゃ眞理に協ふ (Narrative Poetry) の別を論ぜざるべからず。 デスクリ・フション たものじゃ、勸懲などいふのは極く下手の作者であるといふ事を主張する 詩に於ける叙事とは一定不動せざるまゝの現象を描寫せしを云 ものが有る様でありますが、私はけしからん事と思ひます」ト。是れ時弊 ひ、紀傅とは現象の變化並びに聯續をも併せて記述するを云ふ。 を穿ちしの詞なれども此時弊を生ぜしものは畢竟不完全なる勸懲主義の反 ェビック ナーレーション デスクリ・フション 叙事詩は詩形より云へばもと紀傅の一躰にして、其間叙事の 動にあらざるか。 其他今の小説を論する者理義を以て小説の主義なりと誤りて、政事家或事に富めるをもて純粹なる紀傳印ち通常の歴史と異なると雖共、 エピック ナーレーション 工ポス
、歴史は意匠の圖にして之に依って製作せし摸型は叙事詩なり みにくつばみをひたして攻め戰ふ、其時何とかしたりけん、判官 0 しきし 弓を取落し浪に搖られて流れしに「其折しもは引潮にて遙に遠く 共相隣りするや斯くの如く近しと雖ども、從來の歴史なるものは殆 流れ行くを敵に弓をとられじと駒を浪間にをよがせて敵船ちかくんど詩の範圍に屬するのありて、恐らく社會の發逹と共に漸く推 クロニクル なりしほどに「敵は是を見しよりも船を寄せ熊手にかけて既に危移するに到らむ。則ち歴史は雎事實を編述する記録に止まるか、然 く見え給ひしに「されども熊手をきり拂ひ終に弓を取かへし本のらずんば人性と瓧會との關係及び運命を研究する瓧會學の一種と爲 ドラマ なぎさ くちをし エピック ふるまひ 渚に打あがれば「其時兼房申すやうロ惜の御振舞ゃな渡邊にて景らむ。而して叙事詩も亦次第に一進して戲曲の域に到逹するや必然 時が申しゝも是にてこそ候へ、縱令千金をのべたる御弓なりともなり。是れ素より潮流の然らしむる處にして特に怪むを須ひざるな 0 御命にはかへ給ふべきかと涙を流し申しければ、判官是をきこし と わたくし ェビック 召し、いやとよ弓を惜むにあらず、義經源平に弓箭を採って私 叙事詩は其質より云へば唯客相を歌ふに止まれども、其成立上 なし、然れども佳名は未だ半ばならず、されば此弓を敵にとられ國民的概念を有するは當然にして、凡そ忠君愛民の念熱して國光を こひやう し義經は小兵なりといはれんは無念の次第なるべし、縱令是れ故炫耀せんと欲するものが國民の美を稱へ祖先の德を頌し其國の偉人 さ に討たれんはちからなし、義經が運の極めと思ふべし然らずば敵豪傑の功業を歌ふは人間の情なり。さればオリンピヤに熱狂する希 ハーキュ 1 ルスの武勇を仰ぎて に渡さじとて、浪に引かるゝ弓取の名は末代にあらずやと語り給臘人がジュウビターの威德を讃し、 ミソロジカル・エージ へば兼房さて其外の人までも皆感涙を流しけり「智者は惑はず勇終に代を想像し、ホーマ 1 のロを借りて以て是を發揚せり あづさゆみ 者は恐れずのやたけ心の梓弓、かたきには取傅へじと惜むは名の我が國に於ける史家また詩人も荐りに上代の英雄を崇拜して其功業 のちのき ため、惜まぬは一命なれば、身を捨てゝこそ後記にも佳名をとゞ を誇大なる文字をもて稱賛せるは、亦一國を貫穿する概念の發露せ むべきゅみ筆のあとなるべけれ。 しものにして、太平記、盛衰記或は山陽の歴史、馬琴の時代小説を 要するに謠曲の作者は緇流就會に多きをもて、ま佛敎的思想を見るも皆一道の思想をもて充たされしを知るを得む。 挿人せしを見ると雖ども、其大躰より論ずれば蓋し最好なる叙事詩 我が肉躰を愛し我が心靈を重んずる人間が其接近したる者に愛念 と呼んで可ならむ。 を運ぶは免かるべからざる事實にして、我が家族を愛し我が部落を 「テール」は今昔、宇治拾遺等の諸物語に於て見るべく通常「戀」愛し我が國を愛するは其性なり。加之、仇敵と相持して沮喪せざら を以て主とするものなり、近く一般に行はれし「スケッチ」と名くんが爲め、若くは虚飾に狩られて特有の美を顯さんとするは、人間 ェビック るものは亦此範圍に屬す。 が常に爲す處にして、叙事詩は恰も此習癖に乘じて人間の詩想を發 エピック 以上掲げし處是を總稱して叙事詩と爲す。 揮せしものにあらざるか。而して叙事詩の發生せしは國民既に成立 せし時代にあれば、國民的概念を有てるは素より當然にして、ホー 士ロ マ 1 の「イリャッド」をはじめ有名なる此種の作の今日に到るまで 既に繰返して云ひし如く叙事詩は記傅躰の詩にして史と相隣り 傳稱せらる乂も、亦此概念を存するが故のみ。 たてもの するものなり。換言すれば歴史は骨格にして之に筋肉を加へしもの 偉大なる事實及び其俳優たる豪傑を記述する外に、叙事詩は雄麗 ェビック ェビック は叙事詩なり、歴史は線畫にして之に色彩を施せしものは叙事詩ななる文字を有たざるべからず。既に叙事詩を解くに人間第一の雄偉 ェビック エピックナーレーチーヴ なみま ェビック 工どック 0 0
流行なるものに富みて不易の躰に乏しかるは、詩人が重んずる常久と異なりしを知れる語なり。 芭蕉は人の日へる如き厭世家にあらず。たゞ彼が涵養せられし外 不變の理想を涵養せざりし所以ならむ。されば檀林が一時を奮ひし は、太平に馴れし遊蕩浮泛なる淺き嗜好に投ぜし結果にして、共火界は極めて單純にして、當時兵亂熄むで既に百年、天下漸く太平を 勢瞬時にして消滅に歸せしも怪むに足らず。天下漸く共派の調に倦謳歌し、四民皆歡樂の奴隷と爲りし折なりしかば、彼も其嗜好を押 おひのこぶみ むで淫浮麗に趨るを厭ふの時來るや、突兀として一方に起りしもふる能はずして自ら風狂の士をもて任ぜしならむ。笈之小文に先づ 記して曰く、 の是を松尾芭蕉とす。俳諧が本色は實に此派に存ず。 0 0 0 0 百骸九竅の中に物あり、かりに名けて風羅坊といふ。誠にうす 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 芭蕉及び正風 もの長風に破れ易からん事を云ふにゃあらむ。かれ狂句を好む事 久し終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦て放擲せん事を思 前に述べし如く、俳諧はもと滑稽の義にして季吟が與へし九品の 解釋を見るも、詮ずる處滑稽に加ふるに諷誡を以てしたるに過ぎず。 ひ、ある時は進んで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふ て是が爲に身安からず。暫らく身を立てん事を願へども是が爲め さる故に俳諧としての俳諧を求むれば、檀林或は其主旨に適、ヘるも ウヰット にさへられ、暫らく學んで愚を曉らん事をおもへども是が爲めに のならむか、詩の本質より考ふれば、檀林の大部分は言詞上の機才 を弄せしなるか、然らずんば當意妙の詩興を發露せしに止まりし 破られ、終に無能無藝にして只此一筋につながる。西行の和歌に をもて、是を芭蕉が深く造化の祕奧に入ておのづと天地のおもしろ 於ける、宗祗の連歌に於ける、雪舟の畫に於ける、利休が茶に於 味を感得して咏じたるものと比ぶべくもあらず。されば支考は曰く、 ける、其貫道するものは一なり。しかも風雅に於ゆるもの造化に なには したがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事ない、おも ( 上略 ) その後難波の宗因は武城に檀林の額うちて、誹諧の湟覓 ふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひと は破りたれど、耳に言語のおかしみを得て、目に姿情のさびしさ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 を知らねば、是も其道に其法なしと曰はむ。其法なき時は其師な い、か花 0 みいざか時は鳥獸に類す。夷狄を出で烏獸を離れて造 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 化にしたがひ造化にかへれとなり云々 し、其師なからんには其弟子もあらず。實にそよ其比の誹諧とい かるくち 「夷狄を出で鳥獸を離れて造化にしたがひ造化にかへれ」とは彼が ふは今樣の人の輕ロとをぼえて、歌よみ連歌する人も一座の酒興 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 にいひ捨てゝ、誹諧のロをまねる人あれども誹諧の心を傅ふる師行はんと欲し又行ふ處にして、造化にしたがひ四時を友とせし彼が 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 なし。おろかや今いふ俳諧は其道は唐虞の先にわかれて、其名は風雅は所謂正風を新たに我が文學壇に開きたりき。 「風雅」なる詞は常に狹く解釋せらるれど、芭蕉が風雅とは頗る宏 齊楚の後にあらはれ、其風は和漢の一躰となりぬ。況んや其道に をしへ 其法をさだめて世情をあっかふ敎とならば滑稽の心は吾翁に傳は博なる意を存して、造化の友と爲って自然を樂むを云ふならむ。彼 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 りて、菅丞相の梅をさげて佛鑑の禪をつたへ給ひしよりも、法が逍游遙に「道に逍遙の二字ある事は心に天游あって世をおもしろ 然上人の夢に遇ひて善導の法をさづかり給ひしよりも、古池の蛙からむと云ふ事也」とあるは能く其立脚地を表白せし言也。彼が風 に自己の眼をひらきて、風雅の正道を見つけたらむ。 雅とは此天游を云へるにゃあらむ。さる故に此風雅より生ぜし所謂 支考が此説も俳と誹との別を道理ありげに述べし末に及ぼせし言正風なるものは、俳諧と名くれど、俳諧としての俳諧にあらで和歌 なれば、少しく附會に過ぎるの嫌あれども、又芭蕉の見較や檀林派漢詩と義を同ふするが如し、芭蕉談に、 0 0 ネチミヤク しゃうふう 0 0 0 0 0 0 0 0
ぐち いろよいとせん。故に天下には大道を示して殉死を禁ず、況んや 口に太兵衞をやりこめ、我が男の格子に縛られしを知りて騷げる體 いろざと 男女の對死をや。然るに其大道を明らめずして只秘情の向ふ處に 和もなく「醉狂のあまり色里にはあるならひ沙汰なしに往なしてやら わしゃ 切なるもの、天理を私慾に昏まし仁義を名利に害するに到る事。 んしたらナア河庄さん私よさそうに思ひます」とツィ云ふてのけた ひとふで 實に過ぎて實を失ひ正を欲して正に背き第かい争か事憐むに ほどの女なり。殊に紙屋内さんよりの一筆に義理を立て出來にくき 堪へたり。是を譏る人は己が色に溺れざるを賢しと思ふべけれど 辛抱をして、治兵衞に踏まれ罵られても我が心に收めてジット堪ゅ も、其薄情より忠孝の道も文武の藝も到る處需むる事あるべから る我慢心を持ちたりき。治兵衞來る事一日遲からば御女は單い刃に ず。云へば云はるとて人を譏り己が不實を顯す事恥を知らぬに 伏いたかならむ。 うろたへもの 似たり。渡い奉公するものい殉死嘲第遊を欺ひて貪る人 如斯き小心なる意苦地なき狼狽者が貞實堅固なるおさんと縁切り いきはひ の對死を謎らんは五十歩を以て百歩を笑ふにあらずして、百歩を ては勢極まる處死に奔るは當然にして些々たる小事にも猶ほ躓蹶 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 以て五十歩を笑ふといふべし云々。 するをもて常となす。さる故に治兵衞をして終生の幸輻を打破せし 近松翁が義理を以て「哀」の骨髓となし主として心中を題目と爲 めし外縁は、少しく宏量なる硬骨漢たらば之に忍ぶ事極めて易々た るのみ。扣も海兵衞御扣印小 6 見地いいて扣か道德の加然をせしも理の存する處爰にあらむ。翁は能く「ド一フマ」を知れるもの といふべし。 全いい到つつはか題い於君か静いを晒せしと何ぞ異なるべ き。小春に到っても加同じ、節義を立て又萬人のほめ物となりし古 「キャタストロフ」 烈婦にいかで劣いむや。縱令其見地の高低に應じて多少修德の形を 「ド一フマ」の大團圓 (Catastrophe) は人間自身の心より起せる幸 異にするも。 人は云ふ、心中は猶ほ利己の分子を存すと。蓋し當れる哉。然れの打破を表現するものとす。人間の一生を繰返せば常に丘陵起伏の いひわけ ども女房おさんに言譯しながらも小春と一蓮托生を祈念せし治兵衞中にありて、虎豹路を夾んで吼へ蟒蛇樹上に蟠々たるが如し。然れ ども虎豹猶ほ斬るべし蟒蛇豈追ふを難しとせむや。唯胸裡に生ずる 其人の如き輩の道德を判ずるに此言を以てするは較や酷深に過ぐ、 0 0 0 0 0 0 0 意思の角鬪に到ってい如何にいて之を鎭靜すべき。弱性なるもの 西澤李叟いへらく、 世に男女對死する事を心中とも情死とも云て、多くは父母の戒は上帝の裁斷に依て之を決し、剛健性なるものは自己の幸輻を破壞 0 0 0 0 に逢ふて己が非の改め難きを悔るが互の志の叶はざるより起る處して止む。 「トラゼディ」とはもと「悲壯なる光景」の義なり。げにや其「キ にして、戰國の砌には絶えて聞かぬ事也。又此太平の御代となり ても遠國片鄙には聞かぬ事にて、縱令たま / 、あるとも其所のみャタストロフ」 ( 大團圓 ) を見れば銃砲劍戟の下に、若くは伏藥し て殪る死躰之が材を爲すにあらずんば、人間最貴の願望の不成就 の噂にて都會の地まで沙汰に及ばざるかは知らねども、先づ口に 膾災するは三都の者にかぎれり。是を世上には鈍根なる男よ愚なか、或は終生の幸輻を破毀して生きながら黑暗の中に投ずる厭世家 る女よと彈指して笑ふものもあれど凡そ眞實の情は死を以て驗との表現にあらざるはなし。物榔は死しつ雷霆と爲れり。「ドラマ」 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 すか切なるはない。對死の者の志は殉死のものに似たり。さ 6 主沁公は生きかがら雷霆いなかか然らずかば進むで雷霆に撃たる るのみ。火吐て寺を燒かむよりは火を吐て先づ自ら燒かる乂を以 扣ど大道い悟て眞い仁第 6 眼を開かば何ぞかいる不正ゅかい ところ たがひ 0 0 0
ニ四・七・ニ三ーー九・三 0 ・山形新聞 ) を連載した。派と批判し、島村抱月らと是非の論議を戦わ完成をめざすことを唱えた。このために『小 ・三・太陽 ) の到來した 大學に入ってから、『平家物語』に據って匿したばかりでなく、ジャアナリスティックに説革新の時機』 ( 明治三一 名で書き、「讀賣新聞』の懸賞小説第二位に文明批評の分野にのりだしていった。この第ことを明かにし、坪内逍遙の提唱した「寫實 當選した『瀧ロ入道』をとって考えるならば、一期は e ・・グリーン流の「自己活動説」に主義」は「文學獨立論」をとなえ、この十年 間に國民的性情を蔑視して、次第に「非國民 樗牛はすでに浪漫主義的傾向をみせていたこもとづく「浪漫主義」と名づくべきであろう。 とが知られる。 第二高等中學校敎授として佐々醒雪とともに的小説」を生んだと、その弊害を批難した。 明治一一十八年一月、東大文科大學關係者で仙臺に赴任し、『退壇に臨みて吾等の懷抱をさらに、『國民之友』による瓧會小説の要望 帝國文學會が組織され、『帝國文學』が創刊白す』 ( 明治ニ九・九 ) の一文を『太陽』に殘しを、新聞記事、その「三面雜報に見るが如き された。樗牛は嘲風、雨江、桂月、柳村らとた。しかし半年後にはストフィキ事件の處置皮相な察」を小説の形に書き延ばしたよう 編集委員にあげられ、發刊の『序詞』と『近にあきたりず、忽ち敎職を辭して博文館に人な傾向を助長するものとして斥けもしたので 松集林子』とをかかげた。同年七月から大橋瓧し、『太陽』の文藝欄主任として文藝批評ある。他方において史劇や歴史畫について坪 乙羽の斡旋で『太陽』の文藝評論を擔當し、家として縱横な活躍をみせた。樗牛の思想的内逍遙との間に論爭がおこなわれた。史實を ジャアナリストとしての天分を發揮するとと變轉は激しく、「豹變博士」の異名をとったこ奪重する逍遙の立場に對して、史實からの游 もに、精力的に勉學にも沒頭した。この年十とは有名である。この第二期は日淸戦役後の離を主張したものであり、逍鷓二家による沒 一月、風邪から氣管支炎を併發し、彼の生命國民意識の進展に應じて「日本主義」を提唱理想論爭と軌を一つにするところがあった。 門を蝕む結核の發病をみた。勉學と鬪病との間したものであるが、世界における日本の危殆明治三十三年六月、文部省から美學研究の 入 に、明治一一十九年七月、大學を五番で卒えに瀕した位置の認識から、國家の獨立と國民ために獨・佛・伊三國に三年間の留學が命ぜ た。樗牛の文學活動の第一期はこの〈んで區の幸輻とのために唱えだされたものにほかなられた。しかし、八月八日、喀血して、渡航 内 切られるだろう。 らない。もちろん、彼の日本主義にも「國體を前に療養生活に人らなければならず、靜か 樗牛は世論』等において「悲哀の快の特性」を説く國粹主義の半面がみられなかに内省する時間ができた。八月二十五日、詩 山 感」に美學的關心をみせるとともに、時代のったわけではないが、頑迷固陋なものではな人哲學者フリードリッヒ・ニイチェがワイマ 高 底深くうごめく悲哀感をさぐって『瀧ロ入かった。むしろ時代精に則って、文明批評アルで死去した。この計報をきくと、いっそ 月 道』とした。しかも『源氏物語』を「古今のをおこなおうとする要求にもとづくものであうニイチ = を多く讀み、且っ動かされて、『文 石 大惡文」として斥け、『平家物語』『太平記』り、「世界文化の逹觀」と「國民的意識」と明批評家としての文學者』 ( 明治三四・一・太陽 ) を書いて、ニイチェにもとづきながら、民主 などの鎌倉文學の「朴古」、「淸新」をみとの調和の上に成立するものであった。 藤 め、感傷的な美文體を創造し、『わが袖の記』樗牛は、『我邦現今の文藝界に於ける批評主義・社會主義・國家主義を批判し、ニイチ ( 明治三 0 ・八・中央公論 ) へと展開していった。日家の本務』 ( 明治三 0 ・六・太陽 ) において、かよ工主義といわれる個人主義・超人主義を説い 幻淸戦後、個性的な近松研究から一歩をすすめうな時代認識から、「文明史的麒察」のもとた。第三期と名づけられる新しい思想轉換が て、いわゆる大學派 ( 赤門派 ) の新體詩を朦朧に、「國民的見地」に立って「國民文學ーのはじまる。こうして樗牛の思想的遍歴は浪漫