ぎよく彦や はたはのこりをし に、俗に玉火屋といふのを懸けたのを右手に持て潜りぬけ、奧まっ て其望と云ふは何方からも出すに、貞之進は太た遺憾げに歸りかゝ 0 2 た一室の障子をあければ、三尺の床に袋戸棚が隣って其處から座蒲る時、すっきりとした三十三四の鐵漿つけた内儀が禮に出て、門ロ かけはないけあざみ 團が引出され、掛花活の薊は大方萎れて、無頓着が賣物の小座敷まで送って來たが、歌ちゃん明日は縁日ですよと婢が云ふを、小歌 しる あなたあしたいらっしゃ だ、婢は云ふ御酒は、小歌は云ふあがらないの、だけれども印しにはそれには答へすして、貴客明日入來いな不動さまですよと、取次 ないぎ てがる と貞之進に向ひ、貴客御飯はと小歌が尋ぬるに、まだと貞之進が云 ぐゃうに貞之進に云ふと、お約束を願ふサと内儀がこれを簡易に説 わたし いっ いは へば、何になさいます鳥になさいな今の内ですからと云て、儂が食明し、明日はと貞之進は少しく躊躇したが、惡く云れまいの念が先 べる人のやうだと婢を看返れば、何うせ歌ちゃんも一絡でせうお〈立て、そして一つには切脱けるロが重く、遂に宜いで點頭いて、 おいし ふたり なにあかり の滋味いのか何かと、兩女が笑ふ間に纒まって婢は立去った、椀來半丁許り來て振返れば、春泉の二階に猶燈光が見える、小歌はあの り、島來り、小歌と向ひ合ひに膳をならべた貞之進は、それが今連儘歸るか知らん、若しひょっと、若しひょっと、あゝ若しひょっ 立って歩いた時よりも、一層嬉しいやうな恥しいやうな、さて又一 と、小歌はあの儘歸るか知らんと、こんなことが行手を遮って、吉 はづれ 層肚が落つかぬゃうで箸も早く置いたが、婢が小歌に茶を侑めて、 川町の盡處までは車にも乘らなかった。 ごしんぞ おうやう 御新造さまと云ったのに貞之進は耳から赤くし、あいよと鷹揚に御 ( 十一 ) 新造を眞似た小歌の顔を、どうしても見て居られずに俯いたが、そ つけ こうた准さっ くれすぎ れは厭で見て居られぬのではなく、自分で自分に氣がさすことがあ 不動と云ったは附たりで、小歌菩薩が約束の縁日、いづれ暮過の って、寧ろ此方で向ふが見ないやうに仕たやうなものだ。 ことと共あくる日貞之進は、學校から歸って理髮床に用を足し、つ すぐ 出て行たばかりの婢が直戻って來て、小歌さん一寸と呼ふに、 づいて一風呂といふ時小雨がぼつり / \ 遣て來て、男が全く作上っ うなづ 歌は座敷の上り口に立て二言三言話合ひ、あゝ爾あゝ爾と頻に點頭 た頃は、傘無しではとぼ出もできぬ中々の降となったが、其時の貞 あなた すみ はるづみはをつ いて居たが、貴客誠に濟ませんが小歌さんを暫く拜借しますと云ふ之進には雨風の見界ひもなく、轍に泥を衝いて春泉へ馳着けると、 いっ と、小歌も傍から二階のお客さまにちょいと御挨拶に行て來るので 小歌は疾くから來て待て居た。雨に出這入りがうるさいからと、そ すからと云ので、放しともないが厭だとは云れず、宜しと云ふ下か の夜は二階の取次の座敷へあげられ、おや髮をお刈んなすって、道 をんな ら小歌は急がはしく出て行たが、其歸りを獨ぼつねんと待っ貞之進理で顔違ひがするやうでと小歌が打った槌へ大變御容子がと婢が調 はらの は、何かは知ぬが唯一つ小歌に望むことがあるやうで、其望が殆ん子を合せるを、貞之進は其れを世辭と知て世辭と知らず、大いに肚 ど逹し得られるやうで、又た逹し得られないやうで、更に考へれば裡に笑まれる處があって、縁日は降りだねと云へば、此處の縁日と 其望は向ふが持て居るやうで、此方が持て居るやうで、今晩それが 云ふと妙にツケが惡いのです、これでは御蓮動とも參りますまい せんちよばんる いっ 打出したいやうで打出されたいやうで、千絡萬縷胸に霞のいろ / \ と、それを捨言葉にして婢が立去った跡は、例もの通りの差向ひ と亂れた耳元へ、二階から漏來る小歌の笑ひ聲、若しゃ客は黒の羽 で、昨日の今日では談話もなく、座敷は雨に鎖されて愈よ沈むばか たしら きっかふがたまきゑ 織と云のではあるまいか、小歌の何かではあるまいかと思ふと、ひり。小 歌は床の間に在った梨地に龜甲形の蒔繪した硯箱を持出し、 たっ とりでに二階が睨まれ、四五十分經て下りて來た小歌に、一番に何殘りすくなに卷込んである妝紙を、かまはないのだらうと自問自答 ふたり 處の人と聞けば、橫濱の方でお兩人ですと云ふに稍安心した。そしで推ひろげ、貞之進の顏を見い / \ 、 一筆しめしと迄書いて、 ? ・ こちら あなた こちら うつふ はや どらら みさか まっ わだち やっ
ノ 7 油地獄 このあひた いっ ゃうになったが、それでも貞之進の聲は交らない。過日の方はあれも亦立て行たので、此間にと皺のない紙へ皺をつけて、兩女の生っ いらし さうをかし てうづ から入來って、あの翌晩おひとりで、爾可笑いんだよ王ちゃんが大て居た邊へ投出した、小歌は手水に下りたので、帳場の前で箱丁に ようす しつ 變岡惚して、風条のい長方ねえ、あら姉さんも、何だね厭に氣を廻何か云て居る處へ婢が來て、歌ちゃんあの方のお名前を知て居るか このあひだ すよ、だって風采が好って、風条の好のはまだ外にあるの、御馳走え、いゝえ知らないよ過日鳴鳳樓で大勢の時お目に懸ったばかり、 をんな こす つれだつあが さま何處に、何處につて泣通したぢゃないかと云ふと、小歌は婢の伺って御覽な、何とか云んだっけ、狡いよと笑ひながら復連立て登 口を抑へるやうにして、あれは言ッこ無し黑の羽織には懲々したと って來たが、其時廣間の客は騷飽きて歸る所で、送出す藝妓の一人 あなた こちら あけ 云て、貞之進が黑の羽織を着て居るのに心附き、貴客のことではあが、小歌が此方へ這入うとして開た障子の隙から、通りがゝりに振 きをる ゅうべあっ いっ りませんよと、撲いた烟管をふっと吹き、昨宵も逢た癖にと婢が云向いて行たのを、貞之進は既に見られてからほ顔を隱したが、殘 ひどかた まい あっ ふのを聞ぬふりで、あんな酷い方はないのと紙入に卷てある紙を取して在た一つの紙包を、箱丁へと云て婢の前へ投るやうに出したゞ あと あづか 出し、それで所在無さに煙管掃除が始まった。「でせう」などゝ前けは、秋元の女房が與って力ある所で、お禮をと婢を促して小歌と ささ 後のない詞があって、貞之進は何を話すことか一向解せぬけれど共に改めて手を支へた時、貞之進もこれに答禮せねばならぬゃうな も、末の一段が何だか氣に懸り、殊に泣通したといふことが、たゞ 氣持で、自然に頭が低ったやうに見えたのも奇であった。御飯はと ・ことでないと思ふと急に嫉ましいやうな心持が加はり、小歌のこと 婢が尋ぬるに、やめますと云へば、ぼっちり召上れ毒ですよと、傍 そへ ことば か婢のことか、小歌のことらしくない、婢のことらしくない、それからロを添た小歌の詞に、大眞實が籠って居るやうに貞之進は請取 どっち つけやっ でも何方かのことだとして見ると、疑ひは小歌の方に深く存り、存れて、茶に漬て漸と一椀の飯を濟した跡で見れば、最初一寸口をつ りながら小歌ではあるまいやうに斷定て仕舞たく、打明けて云へけた椀の物の外の、白い方の魚軒が二片程箸に懸ったばかりだ。 おもふびと ば、小歌に情郞でもあるやうに考へられて、そして共んなことの無 歸り際に臨んでまだお早いでは御座ませんかは、斯る土地の習ひ いのを肚で祈って居たのだ。 だけれども、それを貞之進は誠にしていっ迄も此家に居たく、勘定 ねざめ 脂を拭いた紙を寢覺の端へまるめ込んで、手を手巾でもんで居る と云たいのが云すにむづゝいて居る間に時刻が移り、月高く屋の棟 このあひだ ふたうた 其手巾は、過日の白茶地ではないが、貞之進は其れに妙なことが思 に隱れて、鳴る鐘は淺草の十一時、風に欸乃の聲も俾はらない、お をんなとは ひ出されて、ぢっと小歌の顔を看上げると、爾とは知ぬ小歌はふい車はと婢に問れて、思切って勘定をと云ふと帳場では既に出來て居 げいしゃ うけとりつり のせ と立て廊下へ出たが、其時廣間からも藝妓が出て來て、一人かえとて、車より先に書附が來た。請取と剩錢とを盆に載て出され、いっ いっ いっ 云たのは明かに聞えたが、えと振返った小歌が眉を寄たのは障子が そや同宿の相原が、何處かで剩錢は入らないよと云たのを憶ひ出 しうぎ わづか てゝ見えなかった。貞之進は疾うから纒頭といふものが氣にな し、僅六錢といふ剩錢を、此淀文へ殘すもをかしく取るもをかし り、それを受るべき小歌の目の前で包むことが出來兼、世間の人はく、 暫く其儘にして居る傍から、どうぞ御近日と今日は「どうぞ」 ふりあひ こ、ろもた はっきりいは しに あたた うけ 何ういふ振合に遣るものかと、自分から面白くもない心悶への種をを判然云れて、それを汐に立って婢が貴客と呼んだは、其剩錢を請 いっ くる いそが 造って居たが、小歌の出て行たのを此時許りは幸ひと思ったけれ取へ包んで呉れたので、今となって殘したのが氣まりが惡く、急は いっ ど、婢が猶動かすに居るので何うも手が出し難く、さればと云て遣しく袂へ投り込んで悌子を下りる後から、帽子を持て隨いて來た小 みつ らずにも居られないので、もし / \ として居ると、何と思ったか婢歌が、帽子の内側に名刺の挾んであるのを認け、これは貴客の、爾 たっ やに はた ねた できかね はんけち のこ とり こつま はこや ござい なげ たり はこや
いっ 見ちがへたのだらう、慥に此貞之進と見たらば何とか云たに相違無を頭からスッポリ被ったが矢っ張いけない、起きて居た時よりは一 あなた はらのうちをど くわん い、證據には我れ玄關に立出た時、羽織の紐を結びながら貴客どう層激しく肚裡に跳る者があって、或ひは急に或ひは緩に、遠慮なく としごろ ぞと云て跡は聞えなかったが、何うぞといふ詞の内には、願ふとい驅け廻る。其内目はいよ / \ さえて來て、不圖小歌の年齡に考へ及 くぜっ ふ意味が無論籠って居る、どうぞ願ふ、何を此の貞之進に願ふのぼし、いつの間にか自分と夫婦になって、癡話もする苦説もする小 なペだて あひのり かな か、再た來てくれは彼れが商賣の詞なら特に我れのみに限らない、 鍋立もする合乘もする、恐い事恥しい事嬉しい事哀しい事面白い事 をかし もとめいうろう それを我れのみに限って「あら儂のではお厭なの」、あの何うぞも可笑い事、腹一杯潰って退けたと思ふと元の鳴鳳樓の座敷へ還り あたり さらひま 亦記憶すべき何うぞだと、斯思定めて四邊を見ると、こ六疊の一 「あら儂のではお厭なの」のお温習が復た始まる。 くたび ふたこま 間は、何も彼も小歌の顔で埋って居るやうだ。 漸く疲勞れて寢附いた貞之進は、いつも上二小間の筈の窓の障子 きっ ゃう 暫くして貞之進は思ひ返したやうに、儼然と口をむすんで、馬鹿へ一面日の當った頃目を覺し、周章て起きて筆立に入てあった楊 いそが だん / 、ゆる ッと自ら叱って袂の物を片附け様としたが、何事ぞ一番に手に觸れ子を取り、急はしく使ひかけたのが漸々緩くなって、其手が動かな はんけら めがた たは手巾で、是れだ / 、これを出さうとする時、「あら儂のではおい程に見えた時は又思ひ出した時で、目賀田さん直ぐ御飯をあがり ためら おしつけ 厭なの」、厭ではなかったが取おくれて躊躇って居ると、推附て渡ますかと、隣の室の入口あたり迄來て尋ねる小女に促され、應と云 そかのこゑ して呉れるに手が觸って、あ手が觸ってと思ふと、あり / 、其手て部屋を出た其處の柱に、四面楚歌聲と誰かゞ落書したのが目に這 が今も觸るやうで、むすんだロは眼と平行にほどけて仕舞った。何入り楚歌の歌の字が殊に大きく見えて、何とも知れず頭に響く者が げいこまけはなかうがい うかして忘れたいにも忘れられない、忘れるは寢ることとそれからあると同時に、其柱が藝子髷に花笄を挿し、それが小歌のやうで たうさらさ かう、 唐更紗の夜の物を展べたが、其の時二階の下で小歌らしい聲がする虞氏のやうで、二階を下りるのが自分のやうで項羽のやうで、顔を ので、ヤと貞之進は耳を立て乂能く聽くと、似ても似つかぬ宿の小 洗ひ濟して部屋へ戻り、出校の時刻と急いで箸を取ったが、膳から 女が、例ものハシャギ聲で笑って居るのだ。何であれを聞ちがへた考へて向ふを見ると、又何だか坐って居るやうだ。 また きもの か、馬鹿ッ馬鹿ッと復みづから叱って衣服を着更へ、二階を下りて てうづ うしろ 手水に行けば、手を洗ふ背後に小歌が立って居るやうで、「あら儂 のではお厭なの」、と何處からとなく耳に入るので、ぐるりと貞之 それからの貞之進といふものは、明けても小歌暮れても小歌、日 たい 進が體を廻すと、共小歌かと思ったのも亦ぐるりと廻った。 として夜として、小歌の姿が眼に映らぬことはなく、學校の往歸り 枕に就きは就いたが眠られない、眠られないとゝもに忘れられなにも小歌が送迎ひをするやうで、間がな隙がな忘れたことがない。 につこり したよみ い、仰向いて見る天井に小歌が嫣然笑って居るので、これではなら今迄二時間で濟んだ下讀も、一字一句小歌の笑顏が附て廻って、五 からかみ すつけぶりうち もうろう ぬと右 ( 寢返れば障子にも小歌、左〈寢返れば紙門にも小歌、殿枚のものを二枚目で一ぶく吸た烟の裡に、朦朧と水車の裾模様が現 めいうろう にも敷居にも壁にも疊にも水車の裾模様が附いて居るので、貞之進はれ、續いて鳴鳳樓の座敷の始終が復たおもひ出されて、つひ四時 はを堅く閉ぢて、寢附かう寢附うとあせる程猶ほ小歌が見える。 間かっても滿足には出來なかった、そして國元へ滑る見舞の状を らんぶ かき もんごん これがあるからと洋燈を吹消たが、それでも暗闇の中に小歌の姿が書かけ、消しの出來たのを引裂いて二度の文言を案じる間に、同じ 現はれて、「あら儂のではお厭なの」、の聲がする。術策盡きて夜着 く不思議が胸に浮んで、其消した紙へ、楷書行書艸書片假名平假 いっ たしか ことば ひと ( 五 ) かぶ かへ おう
19 油地歎 まっ しりご さすが 陰然地を造って、小歌を二無き者と其處へ祀って仕舞った。 ざめいて居るので、流石に貞之進は逡巡みして引還さうとする時、 いっ さう / 、あすこあっ あなた 歌ちゃん昨日何處〈行たのと婢が問〈ば、爾々彼處で逢たのね妨貴客やと二階裏で高く呼んだ聲が、小歌の聲のやうに思はれて立留 わたしをかしとこいっ よそ さんはと小歌が問返す、鳥口さんのお宅へ、儂は可笑い所へ行た ったが、よしや小歌であった所が他の座敷へ出て居る事、惡い時に とっ はこや の、何處可笑い所ッて、寫眞さ、撮影て來たのお見せなと云へば、 來たものとそろり / 、元の路へ歸る向ふに、代地の方から箱丁に送 未來ないワのがあったか知らんと紙入を取出し、厭なんだよ額が られて橋を下る藝者は、何うやら小歌らしい趣きがあるので、さて いきなりびったく 出張ってと云ふを婢は覗き込んで意味なく笑って居たが、突然引奪は今の聲は別人か、其れか此れかと摺れ違ふやうに近づくと、幸ひ って貞之進〈突附け、貴客に上げませうと婢が出したを、それは不なるかな橋の街燈に顔を見合せて、目賀田さんと向ふから呼懸け 可ないのよと小歌が取返さうとする、遣るまいとする、早くお取んた。 どちら もすこゆか なさいと婢が手を伸べて差附けるに、貞之進は何方ともなく躊って 何處へ人來やるのと問はれて、彼處へ行うと思ったがと淀文の方 あなたいつなげ さういらっしゃ 居ると、婢は小歌を辛く防いで貴客と云て投て寄越した。貞之進はを向て見せれば、爾、入來いな儂も今明いて來た所ですから、今日 たが いっ 手にも取上げず落たま又瞻めて居たが、小歌は不可ないの不可ない は早いお客さまと告げるに、其儘貞之進は四五間連立って行たが、 のと云て、そして其處迄は取りにも來ない、かまはないのですよと會でもあるやうだと云たので小歌は立留り、それぢやア貴客には騷 ざうしい はるづみいっ 婢が拾って、立際に渡して呉れたので、漸と袂〈入れて貞之進は持騒敷でせう、春泉〈行て御覽なさいなと云れて、其春泉に馴染はな 歸ったが、それから此寫眞は、机の抽斗の錠のある方の奧へ藏まは いけれども、杖にも柱にも小歌があれば心丈夫と、そんならと言懸 いくたびとりた わざ れ、日に夜に幾度か引出されて、人の足音のする迄はながめられ、 けたのが最早認めた詞で、小歌は態と遲れて來る箱丁を顧み、安ど さう そして或時、實に或時、肌に着けられて寢たこともあった。 ん是から春泉へ行くからね、家へ一寸爾云て置てお呉れと云へば、 はいと箱丁は直ぐに新道の角を曲った。小歌は近頃小紋織とかいふ あゐけねすみ たうじゅす 御召の袷、色は藍氣鼠、黒の唐繻子の帶を締て、下駄は黑塗の小町 たのみや と、も 預けた金は受戻す、戻した金は使果す、この上は國元へ賴遣った とかいふもの、其れと倶に歩く貞之進は、親く女と連立ったは初て 別途の金の到着するのを、寫眞を膝に指折るばかり、淀文 ( も存じなり其女は小歌なりで、嬉いやうな恥しいやうな、それで何だか落 やきもの ゆき、 かくし ながら無沙汰したが、其十日程に白魚は椀をれて、炙物の端に粒着ぬゃうで、往來の人に顔を隱たくあり見られたくあり、旦那お合 いりよ - っ くるまや の蠶豆が載る時となった。國元では伜が今迄にない初めての入用、 乘如何ですと、からかひ半分の車夫に跡を躡られて、足を早めて小 めがね てがみ だん / 、よっ 定めし急な買物であらうと、眼鏡は掛ても書簡の裏は透さずに、何歌と離れたが、又た漸々に寄て來て、手を取らぬばかりになって米 がしといふ爲替を早速送り越したので、貞之進は見るより早く其暮澤町を右に、元柳橋から二つ手前の細小路〈折れて這入った。 方、豫て新調の藍縞絲織の袷に、白縮緬の三尺を卷附け、羽織は元 燈籠の火の幽かに洩れる格子戸を開けて、お紳さんお客さまと、 くるまやよ まちあひ の奉書で、運動と見せて宿を立出で、顔を知らぬ車夫を選って柳橋 小歌が庭に音を立てれば、この春泉といふは待合で、圓顏の雛形と なんびと となり はたちばか をんな 手前で下り、ぶら′ \ と淀文の前まで來ると、何人の會合か隣家のもいふやうな廿許りの婢が出迎 ( 、貞之進をちらりと視て奧にしま もえぎすき , ぐ、 あなをいらっしゃ 戸口へかけて七八輛の黑塗車が居井らび、脊に褐色や萌黄や好々の せうかと小歌に云へば、爾ねえ貴客入來いと、上り口を横に通過ぎ しるし こんはっぴ しっとり 記號を縫附けた紺法被が往來し、二階は温雅した内におのづからさて、庭づたひに小歌が先〈立て行くを、婢は竹筒のやうな臺の洋燈 ( 十 ) いけ いかゞ いらっし おり はるづみ つけ だいち はこや
21 油地獄 ごくいけ が儂には書けないの斯うですかと、それから紙一面の落書、やがてか影は見えなくなった。 くね しゃう ひきだし 目賀田と曲ったなりに角字で書いて、巧いでせうと笑ひながら一寸 歸ってから貞之進は性の星のといふことが尚耳に歸り、机の抽斗 に、づき ことば 筆を置いた時酸漿の鳴る音のしたのが、追々詞のぞんざいになる始を明けて彼寫眞を出さうとする時、いっぞや色男の祕訣を買はうと ぜさうかい さは めであったが、それが貞之進には隔てのなくなったこととのみ思はして、餘儀ない羽目に買て來た三世相解が手に觸り、若しゃ是れに せいわんせいげつきっきようことご れて、其筆を取上げて得意の小歌といふ走り書が見せたかった。 と思って引出して見ると、案の如く生年生月の吉凶が悉とく示して あなた いっ いんやうぎゃう くだり これが貴客ですよ、これが貴客の奧さんですよと云て、小歌が畫ある、小歌が火と云たのを當てに、陰陽五行の何とかいふ條下を繰 きいをしゃうすひっちをしゃうず さうしゃう みづひをこくすひきんをこくす といへば晝、丸に目鼻を書いて居る折婢が來て、感心だね歌ちゃんるに、木生火、火生土、これが相生だ、水尅火、火尅金、これが さうこく あき は繪心があるよと笑って見て居たが、小歌はそれにも飽たか半分で相尅だ、自分の性を知る方法は敎へてないが、唯女火といふ所を詮 こより むつま 止めて、今度は鼻紙を細く引裂いて綯を拵へ、見ちやア不可ません索するに、男が金では貧に暮らす、水では睦じからず、火では衣食 おみくじ ふつ あな よ、向むいて其端へ何やら書附け、御籤のやうに振て居たが、貴足らず、何うか金でなく水でなく火でないやうに、そして輻德圓滿 こっち っちしゃう 客これを結んで頂戴な其墨のついたのをよ、いえ此方のですと差とある此土性で自分が居たい心持が頻りに起り、覺えて來たばかり こより 出したを、貞之進は云れる通り結ぶと、小歌は其結ばれた綯の端をの縁結びといふのを行って見ると、何うしても自分と小歌とが結ば 一々あけて、あはあはと笑って居るを、お見せと婢は覗いて、 らない、そんな筈はないがと幾度遣り直しても離れて仕舞ふ、いよ あなを 貴客と小歌さんです爭はれないのねえお奢んなさいと云て、やきもいよ遣ればいよど、結ばらぬので、其果は無理に手を添へるやうに ぶつ ちが濱田さんだって、宜加減におしよと小歌の脊中を撲たのに意味して結んで、それで三分許り安心して、纔かに眠ることが出來た。 があったやうだが、貞之進は全體が何事とも分らない、聞けば縁結 なにしゃうだしぬけ ( 十一 l) びといふものたさうだ。貴客は何性と突然に小歌に問れて、貞之進 またよ はるづみをんな はなしあっ は素より知らないことゆゑ知らぬと云へば、歌ちゃんはと婢が横合 けれど復熟く考へると、春泉の婢と小歌とが話合て居た始終の詞 わたし きうし ふてふ からロを入れると、儂は火なの、ぢやア十八で九紫だね、能く分っ に、あれだとか其れだとか符牒のやうなことのあったのが、猶幾分 わたしじこく てね、それでも儂が二黑だから二つ下で勘定が仕易いからさ、そんの疑ひを胸に遺して、嘗て耳に挾んだ黑の羽織が又々おもひ合さ あなを べき さう なら貴客は三碧だワ、爾お若いのねえ廿一ですねと、貞之進の顏をれ、いかにもして其實否を急に突留たくなった。勿論今迄にも爾い すぎさ 新しさうに見たのは、年より老けて居るとでも思ったことか、歌ちふ念の起らないでもなかったが、大概は自分と小歌との過去った會 ゃんあれは、あれッて何、おとぼけでない彼れさ、知らないよ、知話の中から、それを打消すに足るだけの反證を自分で搜し出して、 せき ない筈があるものかねと叱るやうに早口に云へば、實は七赤儂とは明白に他人に語ることの出來ない事由を以て和められて居たのであ 極不可ないの、其不可ないのが可のだらう、時々厭になツちまうこ ったが、それが印ち或望を持て居たゝめで、寧向ふに其望を持たれ いっ はなし たんな いろ とがあるワ、勝手を云て居るよと、談話は遂に婢との遣取りと成て てあると信じて居たゝめで、或時は小歌に旦那もある倩夫もある、 仕舞たが、貞之進は其間も始終耳を離さず聞て居て、今にも胸の雲黑の羽織が其旦那で其情夫で、此貞之進も欺かれるのかと迄決着 りよう あげ ゃうす に例の龍が躍らうとした處へ、上ませうかと云て小歌が自分の煙草を附けたこともあったが、それにしても年紀なり風度なり逢へばあ を吸附けて出したので、幸なるかな龍は其煙につゝまれて、いっし どけないやうな所ろから見て、そんな筈はあるまい / 、に打消され わたし めがた むかふ きい いけ なっ とこ かっ わづ なた ねぶ
か度つき ぬす かけはんんあいそ 顔色、それでもお馴染だと思ってさと婢が云へば、儂はあの方だと見た小歌に出會って、缺半分の愛想も出すに、折々偸むやうに其横 につこり につ しらす′、ー 思って、無理に幹事さんに賴んで貰って來たの、どんな方と尋ねる顔をながめ、小歌が莞爾と笑った時だけ、不知不識の間に自分も莞 こり ことば に斯う / と告る婢の詞が、小歌には思ひ當らないやうで、それち爾と笑ひ連れて、あとは唯腕組するばかりのことだから、年の行か たち なり おにざらさ つぎに やアお馴染ではあるまいよと、立もせず坐りもせずで居るのを奧か ぬ小歌には堪たへ兼て接穗なく、服粧には適應はず行過た鬼更紗の あるじ あけ いっ ようすはこやそっ いっ ら主が、仕方がない來たものだ、兎も角二階へ行てお呉れと促すの紙入を、要もないに明て見て何か探す容子、箱丁が密と人れて行た あが ふすまもと で、はアと小歌は氣が無さゝうに登って行った。 三味線は、棹を繼れたまゝ座敷境の紙門の下へ片寄られ、客も藝妓 見ると小歌は覺えがあるやうで思出せない、毎夜の夢に忘れないも居るか居ないか疑はれる程の靜かさであった。 とっ をんな ちっ あなたいっ 貞之進が何とか、聲を懸けさうなものを、是れも知らぬ人のやうに 貴客と云て義理でもするやうに小歌が銚子を執た時婢が來て、些 てうし たら しやく あが いっ 横向いて居た、それが初心の買所だ。小歌は銚子を執てお酌と云ふとも飲らないのと云たので爾と銚子を下へ置き、二杯足ずの酒に貞 ちよく に、貞之進は冷たくなった猪ロの殘酒を飲干し、顫へまいと力を入之進が眼の内迄も赤くして居るのを見て、それには恥しさの籠るこ のにせ やつばり れる程顫へて、ロへは遣らず矢張膳へ置たが、其時小歌は考へ附い とゝも知らないゅゑ、ちやアお逆上なさるのと椽の障子を一枚明け たか、慥か貴客は過日鳴鳳樓でと云ふと、あゝと貞之進は初めて聲ればどんよりとたげな第月、河浪のに咽ぶ間から、兩國橋を ことば よいらし むかふ を出して答へ、能く入來ってよと解けた詞に嬉しさは頸筋元から這 行く提灯が、二階の欄干越しに三つ五つ見えて、こんもり黒んだ向 はら きかへ てすり あなた 入って、例もの通り肚で躍って居た。小歌は今日は着更の姿で、上岸の森に、物思ひは春の夜と知られた。欄干に片手載せて、貴客 おめしちりめん 着は靑味の勝った鐵色の地に、白い荒いさつま筋の出た御召縮緬、 ちょいと御覽なさいと小歌が云ふのを、貞之進は立ちもせず振向け しゅちんぼたんがたまきゑ 六一を一がた あづきいろ 下着は同じく小豆色の御召、帯は紫地の繻珍、牡丹形の蒔繪の櫛にば、水にも雲が映って居るといふだけのことで、先刻小歌が出て居 をっし J ・つ わがふしいと なかむらやのき きんあしたま さしもの 金足の刑瑚の簪、貞之進は我伏絲が見られるやうで、羽識の襟をた中村樓の檐に、宴散じ客去て尚ほ毬燈の殘って居るのを、今日の おになか をんな そっ 密と引張って居たも可笑かった。 大中さんは何と婢が間ふに、幹事さんは知った方だけれども、あと おもむ は厭な人ばかりと小歌は答へて、徐ろに元の座へ復った、其時隣の 廣間は愈よ騷がしく、年を取った藝妓の聲で、ちっと靜になさいよ いっ よどぶん あん 貞之進より少し遲れて隣の廣間へ來た三人連の客は、淀文がお馴 と云ふと、そんなら此家へは來ないと云た客の詞が、貞之進には暗 げいしやきやくかす 染の嬾ぎ好と見え、膳の出ない先から賑かであったが、藝妓も客數に自分が嘲られたやうに僻んで聞え、思はず居直ったのを婢が見て どちら けん ほど來て、饒舌るは / 、春の潮の湧くが如く、拳を打ったり歌を唱取って、ほんとに元氣のいゝ方、お騷々しいでせうと何方附かずに いっ あひかはらす ったり、ふたりで蛟帳の紐を釣ったとか云て足拍子のしたのは、若慰めたが、これにも貞之進は不相變答へは出なかった。 さう こっち おとはやま いっ かいりゃうざおいり 歌舞伎座が大入ですとさ、姉さん御覽なすってと小歌が云ふ、爾 い妓が起って踊ったので、關の此方だと思ったら音羽山だと云て膝 うたひ としかさ なにか へんし をんな ふたり かきはまばし を叩いたのは、年嵩な客が何彼につけて出る謠だ。首で返詞すると だって見たいのねえと婢が云ふ、それから兩女は話が榮え、蠣濱橋 はいげつ くん 極った貞之進は、隣座敷の人々が臆面のないのに感じ、自分の氣の へ毎日お參りに行く事、髮結を取替た事、梅月で誰かに汲で遣った はなし ときはや 弱いことが自分ながら疎まれ、せめて談話の一つなりとも顫へずに湯の返しのなかった事、常磐屋で大臣さんにお目に懸った事、船 はら きえ 出來さうなものと、あのと肚を出た詞も口元で消て仕舞ひ、夢に迄で花見の約束に行た事、こちらの室からも頻りに笑ひ聲が漏れる じみ いっ しやペ うし のこり おい わたし とっ てすり ひが さう かへ
春泉へ參って小歌さんを呼出して貰ひ、直かに渡しました處お客さないことが心變りかのやうに思はれ、爲に貞之進は殆んど狂する如 どなた ふんぬ ます まは誰何だとの尋ねださうで、存じませぬと云ふと此手紙を披けてくで、外に忿怒の色の現れるだけそれだけ、内に沈鬱することの倍 ます 見て、どうぞ宜くと云て返したさうですから、お返詞はと重ねて尋ね倍多きを加へた。其日貞之進は頭から蒲團を被って、病氣と云て學 いっ ゆか ひともしごろ ましたら、返詞は入らない宜しくと云て下さればいゝとのことで御校へも行ず打臥して居たが、點燈頃むつくり起て戸外〈出で、やが さう ふくめいかた はらのうち 在ましたと、爾とは知らないあけすけな復命方に、貞之進の肚裡はて小さな鐵鍋に何やら盛て歸って來て、復た床に這入て夜の一時と いきなり 一層二層 = 肩倍に沸返って、突然其手紙を取て丸め、丸めたのを贐も思ふ頃儁第頭を擧げ、忘れて居たやうに急に火鉢 ( 山の如く炭を ゃう あふ んで前なる川へ投り込み、現在封を破った上で、持て歸れば宜とは積んで、机の上にあった雜誌様のものを取てそれを煽り立って居 くわっくわ 何處が宜、おのれ覺えて居ろと天地に向って吐く息に無念の炎の燃たが、活々と火のおこるを待って前の鍋を載せたのを見ると、中に まるまげ いひ えるばかりなのを、今日は小歌さんは丸髷で居たと云ますから、失盛られたものは油であった。油は次第に煮て大小の粒のぶつ / 、と とりな つけ 禮だと思って來ないのでせうと耳做す婢の手前、ぢっと堪らへれば沸立っ頃から、貞之進の形相は自然に妻じくなって、敲き附るやう すぐ 堪らへる程手も膝も顫へ、罪もない淀文の梯子を荒々しく踏んで其に投込んだのは小歌の寫眞で、くる′ v-- と廻って沈んだと思ふと直 さて こたゞ 夜は歸ったが、それも一旦の怒で扨又鎭って考へると、もしや小歌浮上り、十二三分の間に寫眞は焦げ爛れて、昨日迄は嬉しくながめ わざさう きえなくな が春泉の思惑をかねて、態と爾したものでもあるやうに思はれ、其られた目元口元、見る / 消て失ったを、まだ何か鍋の中に殘って きつみつ 翌晩其翌々晩っゞけて淀文へ來て小歌をかけさせたが、唯遠出とば居るやうに、貞之進は手を膝に突いて瞬きもせず屹と瞻詰めて其夜 さて かりで影だも見せない、扨は噂の通りと貞之進が恨は此時頂きに上の明るのも知らなんだが、火勢漸く袞へて遂に灰となる時、貞之進 うち しまっ り、床の裡の次團太は自分を驚かして、寢られぬものを無理に寢かの嵂前に垂れて果は俯伏しになって仕舞た。早起の秋元の女房 ものう せ、夜明けて起るさへが懶くなって、橫倒しにした枕に肱を乘せてが、猶ほ室内に殘る煙に不審を立て、何の臭ひかと貞之進の部屋の はらばひ いっ 腹這になって居る時、隣室とまちがへて小女が投込んで行た新聞紙障子を、がらりと明けた其音に貞之進は驚き覺めて、や小歌かと突 あとじさ を、不圖取上げて繪のある下の方を見ると、一番に目についた標題然起って足は疊に着かずふら / \ と駈寄ったが、あっと云て後退る ひっこみ は小歌の落籍、其要をつまんで云へば、柳橋の藝妓梅乃家小歌が黑女房の聲と同時に、ばったり其處へ倒れて、無殘、それから後は病 あたな めんぼく うはごと の羽織と仇名された深間のあったを、仲間の花次に奪はれた面目の の床、頬はこける眼は窪む、夜晝となしの譫言に、あの小歌めが、 見せつけに、かねて執心の厚かった濱田の御前へ春泉の内儀からすあの小歌めが。 ( 明治一一十四年五月ーー六月 ) がらせて、今度いよ / 、廢業するとの記事であった。貞之進は其始 終を讀むか讀ないに、既髮の毛の逆立つやうで、兩手を新聞の上に 突いてぢりど、と睨んで居る間に、いっか其新聞紙は二つに裂かれ て居た。 嘘であるべく願って居た疑ひの方からすれば、それが實であった だけで小歌の廢業に就て怪む所はないが、實であるべく祈って居た 打消しの方からすれば、それが全く嘘であったので、約束したでも よま はふ いっ にえかへ ふかま はや まこと まこと みたし にえ おもて
23 油地獄 はなは と乂、恰も符節を合すやうな次第であったので一時太だしく激してず、つるんだ金の手許で出來る筈はないので據ころなく卷紙の皺を なげつけ らんぶ さすがこ、ろ 誤まって父母の寫眞を投附たものゝ、それは其夜の失望が大いに怒展べて、洋燈の光と瞬きの數を比べながら筆を執ったが、流石良心 はらのうちまた はびこ を助けて居たので、實際貞之進の肚裡に末十分の疑ひが蔓って居たに咎められて、濟まないことゝ思ふと其手紙が止たくなり、止ては のではなく、五分の疑ひに五分の打消しが添て居て、疑ひが一分伸此方が立たずと又た一行とう / \ 切手を二枚要する長文句が出來上 れば打消しも一分伸び、打消しが一分伸れば疑ひも一分伸び、疑ひり、自分で持て出て郵便凾へ入れやうとして猶躊ひ、向ふから來た と打消しとが互ひに地歩を爭って居たので、氣を鎭めて後疑ひの方巡査に怪まれるのを恐れて思切って投込んだが、歸ってから其文句 かど′ ( 、そら から考へれば、濱田といふ姓は縁結びの時聞たことがあれば、それの廉々を諳んするにつけて罪恐しく、よせば宜ったと思っても見、 ふかま が小歌の旦那に相違無く、黒の羽織と云ふのがお酌の頃からの深間 首尾よく行けば宜とも思って見、思ひ思って五日と經ったが返詞が いっ よどぶん であるとして見ると寫眞を取りに行たことは淀文の二階で聞たこと無い、其間も金ゅゑ逢れぬとなると倍一倍逢たさが差募り、僅か三 がまぐら があれば、それが小歌の倩夫に相違無く、旦那もある情夫もあると四十錢の小錢を剩すばかりの蟇口を袂へ入れて、一夜ふらりと秋元 すると、其處で自分が今迄の望の逹し得られないことが知られて、 を出たが、貞之進とてもそれで小歌に逢へると思ったのではなく、 のにりつめ はらわたまた いは 腸は復忽ち沸騰點に昇詰る、が、更に打消しの方から考へれば、 若しゃの三字の外は言ふにも言れぬ果敢ないことが頼みで、先づ一 わたし いつはんけら 初めて鳴鳳樓で逢った以來儂のではお厭なのと云て手巾を出された散に柳橋まで乘り着けた。淀文の前春泉の前を、往復一一度通り過ぎ ひか こより ことを第一として、自分と手を牽れて歩いた事、結んだ綯に目賀田たが、顏を知った婢も見えず呼懸ける者も無し、敷居を跨ぐべき身 ごしんそ につこり とあるを悅んだ事、御新造さまと呼れて莞爾あいよと笑った事、そではないので、振返り勝に何かなく兩國橋の上まで來て、新柳町の れやこれや小歌の我れに對する誠が一通りでないやうで、且又あの家々を見渡すと、いづれも二階に燈がかゞゃいて、起ったり坐った やさし なんによ 優い小歌に、男の二人も三人もあらうとは自分に較べて何うしても りの男女の影が障子にうつり、樂しさうな聲が水を度って聞えるに おりく 信じられなく成って、腸は復忽ち氷點に下降だる、殊に幾度となく つけて、おれも彼の座敷で飮んだことがある、あの棧橋に小歌が立 亡き 出會った小歌の擧動に確められなかったことを唯一タの花次の蔭ロ って居てそれを一一階から顏見合せて笑ったことがある、えゝッ今で こぶし に決斷して仕舞ふことが自分ながら、如何にも不公平の處置のやう も金があればと橋の欄十に拳を當て \ 闇にも淺ましい自分のこと やつばらよこつら つはき に思はれて、熱えたり冷めたりめたり熱えたり、どちらが何うとは氣が附かずに、遊んで居る奴原の横面に唾がしたい程になり、橋 むしやくしゃ すぢかひ かけ げい も突詰めかねて、自分で自分を武者苦者と掻むしるやうに苦ませた から廣小路へ斜に下りる時、電信局の橫手から駈て來た車に、藝 あっ しやはこや おっ 揚句が、兎に角もう一度小歌に逢た上でと、弱い決心を纔かに固め妓と箱丁と合乘りして居る其藝妓が小歌らしいので、我知らず跡逐 かけ て、直ぐ出向うとして氣が付いてみると、小歌に與へる祝儀だけの駈ると其車は裏河岸の四五間目で停って、小歌と思ったのは夜目に 、みいれ いうぜん しやく 物も、最う嚢には殘って居なかった。 も紅い幽禪の袂に、ぼっくり下駄のお酌であったのに力を落して引 もんごん 國元の父と母とへ交るえ、宛てた無心も、初めは短い文言で足り 返し、それから新道表町をのそり / 、と歩き廻る内、兎ある路次の 。もくさん うめのやこうた て、そして金は目算より多く寄越されたが、度重るほど文言は長く 内に梅乃家小歌と一人名前の御紳燈が、格子の中に掲げてあるのが こしら どぶいたくつつき なって、そして金は目算より段々少なくなる。この上は假設へるべ見附かり、溝板と密接合った井戸流しに足音を掠めて、上り口の障 いひぐさ いっ はつがらす そっ きロ實の種も盡て居たが、さればと云て小歌に逢はずには居られ子の中程に紙を貼た硝子の隙から窃と覗くに、四十餘りの女が火鉢 わづ さい こちら うらがし をんな よんど わた よめ
ねすみどんす て居た。名を知りたいと思った貞之進は歌ちゃんとだけ分りは分っは同じ年配で、御召の大縞の上着に段通織の下着、鼠緞子の帶を締 げいこつぶ たが、藝妓の名はそれでは分らない、歌吉か歌助か小歌か歌子か但め、藝子潰しに銀のあばれ綯といふ扮粧、歌ちゃんまだ着更ない さう よは 「とこと しは其儘のお歌か、つひ一言尋ねたくも仲々ロは開かない、其時歌の、でも直ぐ行く待てと云ふのだものと嫣然笑へば、爾、ひどく醉 あげ あなた いは されちゃったと今來たのも亦嫣然笑って漸く坐った。ほんとにロ駄 ちゃんと云れた藝妓は貞之進の方を向いて、貴客にも上ませうかと かのをと ( とびつき いっ 云たこそ幸ひ、飛附たい程貰ひたかったがそれも手が出ない。彼男らないよと云ふのを何だと思へば、それあの燭臺の前に居る、あゝ みる い、をとこ たもと は一旦袂へ取込んだ名札を再び出して見て、何だ柳橋だ家名が無いあの服を着た方よ、好男子が居ると高ちゃんが云ふから行って見 さう ひろ きんぶちあか と疑はしさうに云ふを、おや爾ですかと藝妓は一寸覗き込んで、弘と、眼鏡の金縁へ燭りが映ってそれで顔が光るのよ、高ちゃんは直 いつん はんけち わたし めの時の殘りですもの、儂は名札は嫌ひと云たのから見れば、一本あれだと云って、手巾を口へあてゝちろりと貞之進を見たので、今 よく , ( 、をんさく なつまたま に成て未間のない歌ちゃんなることが知られた。彼男は能々の穿鑿迄歌ちゃんの頸の動く通り自分の頸も動かして居た貞之進は、この いへな 家と見え、それぢや家名は何だと推返すと、知ませんよと藝妓は冷時試驗に遇ふやうな心持がして、お前、見に行くから悪いのさと云 ことば かに受けて銚子を取り、お酌 / 、と突附たが彼男が名札を下〈ぬた歌ちゃんの詞は、まるで俯いて居る間に聞いた。それから兩女は うめのや あなた ので、くどいのね貴客は、梅乃家ですよサアお酌と、同一時間に一一頻りに話合って居たが、今度は小歌々々と聲に色があるものなら、 しよくこう 種の事業を遣り遂げる、彼男は漸く滿足して猪口を取った。名札をどすぐろい聲で呼ばれるにハイと長く答へ、膝の上に在った蜀紅錦 たまし いっ の煙草入を右手に持ったまゝ立って行たので、貞之進は魂ひを赤の 呉れろの家名は何だのと根掘り葉掘りするは、一一度と來ない客か、 みおく ようす 來ても自腹を切らない客だと或老妓の言ったのは、この男の容子か絞り放しのしょひ揚に縋らせ、ぼんやり後影を目送って口惜いやう だんつうおり ら考へて、宜べ經驗のあることと信じられた。然れども悅ぶべし其な氣がする間に、あとから來た段通織の下着も又た起って行たの さくらこ かいだうよ かうかくらうぜき そくさいえんめい で、櫻媚び海棠醉った我膳の前の春は忽ち去って、肴核狼藉骨飛び 名札は、江戸三界を持廻られて、息災延命のお札より難有いに相違 箸轉がるの秋となった。雎すこしく貞之進の心を安んじたは、柳橋 無い。 そばだ の藝妓梅乃家の小歌と、今の呼聲に由って初めて承知されたこと 貞之進は始終耳を欹て乂居たが、遂に思ふ名を聽得なかったの ちりあくた で、平日ならば男兒が塵芥ともせぬ程のことが膽を落し、張合なげだ。 あなた そのぜん 其前貞之進は知己なる飯田の人といふのに挨拶を仕たくって居た に卷煙草を吸附て居ると、其藝妓は此方向きに居坐り直って、貴客 みつ が、其時其人が丁度座敷を出るのを認けたから、若しゃ歸るのかと 一本頂戴なと云って、無論許されるのではあるけれども、末許しの むつ、りいは 出ない内に既に早く手を着けたを、彼の右隣りの男は、こゝにもあ思って奮って起って其人の跡を逐ひ、例の沈默と云れる調子を以 こらら ると自分のを投與へたが、藝妓は矢っ張貞之進のを取って、これが て、きれえ、と怪い挨拶を施し、別れて此方へ來懸ったが、序に ことば おりようたし 善いのですよと煙草の珍しい方を取った積りの詞が、貞之進は譯無と二階を下て用逹に行くと、手を洗ふ後ろに立て居たのは、料らざ そっ りき歌ちゃん印ち小歌で、この多勢の宴會に一々お附申すのではな しに嬉いやうで、入物ぐるみ密と藝妓の手近へ推って、そして自 さきがた けれど、出會ったまゝ先刻顏を覺えた客だと思へば其處が商賣で、 分の顏を朱で塗って居た。 あたた はんけち 歌ちゃんと呼ぶ聲がするのを其藝妓は振返り、其處は懲々だよと貴客これをと白茶地に紋形のある手巾を出したのを、貞之進はそれ とり きた が取にくいよりは取ていゝか惡いかゞ分らないで、自分の袂から惜 ロの内で云って、こちらへおいでと頤で招いて居ると、やがて來の ふだん おしかへ ちよく いへな まだ めし より うつぶ だんつうおり こしらへ につこり ふたり はか ついで
ちゃく さきぶれ の前に唯ひとり居るだけで、それが此方を睨んだやうに思はれたの右衞門が前髑もなく俄かに出京して、着したばかりで直ちに秋元へ けうらっ で周章て乂戻らうとして足元の芥箱に躓くと、それに驚いて屋根へ尋ねて來た。貞之進は自分の放埒を父が聞及んでのこと、ヒシと胸 あはせ しろぶち 駈登った白斑の猫に、却って貞之進の方が驚かされた。小歌は居な板を貫かれ、おづ / 部屋へ迎へ入れたが、庄右衞門は手織の袷に さいでう いとはいっ また い、何處へ行った、濱田の御前か黒の羽織かと復疑ひ出すと、宿で絹糸の這入たゞけを西條の豪家として、頬から下へ輻々しい顏に變 りはなく、甓すこし白んで、悅ばしさうに貞之進を諦視め、一旦思 考へたよりも一層急激な胸騷ぎがして、再び吉川町の往還へまぐれ をし ふたりづれ 込んだ修行の遣り遂げる迄は、決して費用を吝む所存はなく、爾か 出た時、加賀屋橫丁を曲った兩人連の女ひとりが、何うやら小歌に まぎ と云てお前を危ぶむではないが、今年ばかりは學資もたいていでは 紛れがないやうで、急いで自分も其處を曲ると、共女逹は立花家と ようす はなし よせはいっ いふ寄席へ這入た。いっか小歌が落語が面白いと云たことをおもひない、それに又た過日の手紙どんな容子かとお袋が氣に懸け、旁よ うす たっ ふたり 出して、必定それと自分も迂架《《寄席〈這入り、坐を定めかねて用事もあるので自身出て來たとの話振りに、金を持て來られたこと 立て居た今の兩人の前へ廻って見ると、似ても似つかぬ三十近い薄が明らかに知られて、首を垂れて聽て居た貞之進は、其時冷たい汗 かい がっかり あたま わきのした あばた 痘痕、後から見ると頭髮ばかりが若いので、貞之進はいよ / \ 落膽が腋下を傅はるともに稍安堵し、手紙に書たま乂の事を、ぼつぼ あたりみ うなづき して、直ぐに出るも變なものと一寸坐りは坐ったが、高座で何事をつと句切って繰返すを、爾か / 、と庄右衞門は點頭ながら四邊を看 はいら 云ふか耳には這入ない、他の笑ったのに誘はれて顏を擧げると、丁廻はし、いや厚い、いや細かい、これも讀んだのかと取散らしある てうづいっ 度其時起って手水に行た女の、しょひ揚の赤いのに疑念がかつ大字典の金字に目を留め、是れは高價な物であらうと云れたに附込 ふちこす こちら しゃうし えんざか んで、書籍の代に追れますと、貞之進は紙の吸ロで火鉢の縁を摩っ て、小歌ではあるまいかと用も無い椽境ひの紙障をあけて、此方へ つきあた 這入らうとする其の女に衝當り、厭な人だよと云れて其顏を見れて居たが、三度の食に望みはないことだから、宿を新しく取るより ば、成程年ごるは十七八眼附も何處か似たやうでも、小歌に其んなも、ほんの二三日此家で濟めば結句勝手ぢやがと、共儘父に泊込ま なくろ 黒子はないと、誰かの罪でもあるやうに寄席を飛出し、又もや彼れて氣が氣でなく、親も大事金も大事暫し夜歩きも出來ずに居る假 ます / 、 わざ / 、 の路次を態よ通りぬけて、本意なく秋元へ歸ったが、それからは毎の禪妙が、眞との念ひを倍々募らせて、今ごろは小歌は何うして居 まさか 夜々々、そんなことに本鄕から柳橋まで出て來て、話しにならぬ苦るか、濱田の御前か黑の羽織か、正可此貞之進を忘れもしまいと、 きこあひくだ やっ 例に依て寢てからの枕の上にも、疑ひと打消しとが旗皷相下らず鬪 勞にれて居たが、遂に小歌の影法師にも出逢はなかった。 ござい って、明日の天氣はと問れた父の詞に、縁結びで御在ますかと答へ A 」書ノり、つ ( 十四 ) て、最う夢か寢附の早い男ちゃと笑はれ、やっと四日間の父の逗留 ざふよう ゆか 其内には雨も降る風も吹く、果は十錢五錢の車代にも差支へ、同を三五年程になやみくらし、これで私が雜用もと出立際にのこし往 ゃうす たうぎがり 宿の誰れ彼れに當座借の二三度は仕たが、此頃の貞之進の擧止が尋れた金の、思ったより多額なのに勇氣が出て、父を上野迄送った其 うけと のこらす あくたばら 常でないので、嘗て貞之進をせびり續けた惡太原の如きに至って日の暮れるのを待たず、請取っただけを悉皆懷ろにして出やうとす ちょっと めがた きびし はくどうひとっ かしくれ は、一層酷く嘲けりこそすれ白銅一箇快くは貸て呉ぬので、貞之進る所を、目賀田さん一寸と呼留めたは秋元の女房、直歸りますと既 に下駄箱へ手を掛けたを、まあお待なさい話がありますと強て引留 は唯怒り易い一方にのみ傾いて、沈默男子の價値は疾うに津えて 仕舞たが、彼手紙を出してから數へると凡そ十日の後、國元の父庄られて、銓儀なく貞之進は呼れる方へ戻って行った。 ひと ごみばこ こちら よ亡 このあひだ さう ィ一う カり