0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 第二、浮雲は言語と所思とを必ずしも一致せしめざるなり。數多 讀せば、亦た第一一篇の如何を同ふに足る可し。故に余は此點の批評 ことばおもはく おこなひ はふき の著者は人物と行爲の一致を濫用して併せて其言語と所思とをも一 を省略して外に猶大感服大褒賞す可きの箇條を列擧せんと欲す。 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 第一、浮雲中の人物の行爲は終始一致貫通せり。夫れ小説は瓧會致併行せしむる者鮮からず。人凡そ此活動せる塵界に寄生する以上 しゆ、さまみ、 こ、ろのうち おこなひ あらはれたるさま の現象を材料とし、人の行爲を以て理想上の一世界を構造するは、其心裡に懷ふ所は千種萬類奇々怪々、劣情あり利欲ありて、 あらはれ おこなひ 一々之れをさらけ出す時は、世間恐くは奪嚴を保つの人はあらざる 者なれば、篇中に現出する人物の行爲は終始其人の性質と並行し、 一擧一動と雖も其人となりに抵觸齟齬す可からず。數多の小説を見可し。司馬温公獨り鼻を天狗にして日く、「吾は未だ曾て人に語る おこなひ るに一人の行爲時々其人となりと相違し、同一の人にして數人異様可からざるのことを思はず」と。予は此手前味噌を以て容易に信ず の蓮動をなすかと疑はしむ。浮雲は然らず、昨日の文三は矢張り今 る者に非ず。よしゃ之を信なりとするも印ち例外にして、千人が九 あた おもはくことば 日も文三、今日の昇は矢張明日も昇なり。眞に浮雲を讀むときは宛百九十九人までは皆な所思は言語の如く奇麗雅純なる者にあらざる 其人に接し其人をるの想あらしむ。斯の如く論ぜば、彼のべー 也。浮雲は此一一者の相關を描く妙技を盡せり。例へば篇中昇、文三 ことばおもはく よみてあく ローの末流を汲む者は予を難じて日はん。世人は依然たる呉下の阿の言語所思の如きは再三披讀飽を知らず、四讀五讀其巧妙に驚かず たてをやま ことはおもはく 蒙にはあらざる也。三年相見ざれば應さに刮目す可き者多し。昨日んばあらず。殊に篇中の逹小山なるお勢の言語所思の如きは最も穿 こつじを、 の乞食今日の大臣たるを保せず、明日の親方亦た明後日の旦那様た ち得て妙なり。例へば三十三頁の「彼様な事を云ッて虚言ですよ、 こづか おっか るも計り難し。然らば粗暴家時として緻密家ともなる可し、滑稽家慈母さんが小遣ひをやりたがるのよ。オホ : : : 」と言ふが如き、又 おっか 時として寡言家ともなる可し。況んや一人物にして義務者となり權百五十頁に「慈母さんまで其様な事を云ッて、そんなら、モウ是か 利者となるの時に於てをや。或は卑屈となり、或は活葮となり、或ら本田さんが來たツて、ロもきかないから宜い、イ、エモウロも利 おこなひ は澁渟となり、或は奪大となる。是を以て之を見れば行爲は一に時かない / \ 」とすねるが如きは其適例にして、一句千金君實さんの ほめたて おこなひ つきと 日と場所とに一致せざる可からず也。終始行爲をして貫通せしむ外は誰れでも成る程と稱歎せざる者はあらざる可し。 こと あやまり おこなひ るは謬誤の甚しきものなりと。嗚呼之れ果して何の言そ。行爲の如 おこなひ 何は一に性質の如何に存す。性質は豹變する者に非ず。然らば行爲 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 は終始同臭味を帶びざる可からず。彼の時日と場所とは印ち人物 第三、浮雲は能く運命を解釋せり。運命とは何ぞや、日く、都て さかえおとり さかえおとり おこなひ みえ わざはひ さいはひ おこなひ こ、ろもらまへ おこなひゼきばえ の榮枯窮逹なり。榮枯窮逹に由ッて行爲に異妝の觀あるは、行爲の人の意思と氣質とに出づる行爲の結果にして禍に罹るもを とを、 ことば おこなび かはり 褒變轉せしに非ずして只化動推歩せし者なり。語を變へて言 ( ば、只招くも、一々其の人の行爲之が因をなすもの也。著者は運命を此解 うはかはにかれこれ あかし の 表面皮想上彼此の差別あるが如く見ゆるのみ。若し夫れ時日と場所釋に由ッて筆を立てし故、其動力と反動力との窮所を描きて一點の 非難す可きなし。彼の數多の著者の如く、運命を以て天の命ずる所 との一致を要するとせば、著作は總て流暢快活の妙味を失ふ可し。 ときあかし おこなひ わづか 浮況んや浮雲は僅々五日間の經歴を寫すに於てをや。焉ンぞ行爲に差人力の得て如何ともする能はざるが如くに解釋するか、或は西班牙 おこなひ ながき 異あって可ならんや。嗚呼前後一一編數百頁の長に亙り、其行爲の終學者の如く、運命を一種の怪異となすが如きは、ち人物を以て運 フジサン つきと よむひと おなじかたち おもらやな 始貫通すること、恰も富山の東西南北乾坤巽長より望んで同一形を命の一玩具と做し木偶雛人形と一般ならしめ、讀者の感情を惹起す 呈するが如きは、予が大に敬服する所なり。 こと能はず。是れ馬琴爲永等の著作が其逹筆なるにも係らず、其缺 0 まるかはり 0 クンジッ イス・ハニア
アクションキャラクター 語を用ゐて少しも憚らず唯己れの得たる事實を充分に報道するの末及び關係並びに其燒點たる人物の行爲と情性を繪畫の如く描出 6 新外は更に一念なく、全く有趣感動の法あるを知らざるに似たり。 して當時の瓧會を眼前に活動せしむるを以て主旨となす。換言すれ されば彼は小説を作るも猶ほ歴史を編むと異ならで、年月日は素ば歴史は事實の説明書なり、時代小説は事實の標本なり。歴史は事 より風は北東、南西あるは北西と記し、航海日記、送り妝、商用實の外面に露はれたる現象を解き時代小説は事實の内面に伏藏せる 帳簿、貨幤總高、正金支拂等より島の地理及び水路に到るまで悉實躰を勝ど爲して表はす。歴史は瓧會の表面に現したる主働者の功 く詳記し、讀者をして著者の如く其地の小圖を取り、終には其歴業のみを傅へ、時代小説は主働者をして功業を成さしめし因縁をも 史を尋求せんと欲するの念を起さしむ云々 詳かにす。歴史は公然の事實即ち政廳議院若くは戰爭等に於ける人 アクション デフォーが前後無比の聲譽を逞ふし魯敏孫漂流記は云ふ迄もなの行爲を説き、時代小説は却て爐邊兒女と戲るゝ英雄若くは深閨し 、疫癘物語の如き一度ならず幾度となく事實なりと誤られしも是めやかに語らふ豪傑を寫す。歴史は瓧會の事柄を細かに分拆して一 なり。冒險物語を編むものは須らく此用意なかるべからす。然らず一是を打算し、時代小説は現象を其儘に描寫して少しも解躰を加へ モック、ヒロイック きんびらばなし んば虚僞の文となり金平話の如き打諢譚と爲らむ。 ず。要するに歴史は變遷の大躰を叙し其顛末を分折して人生の運命 を攻究するを主とし、時代小説は其變遷を産出する實躰を精査し是 美術的瓧會物語 を形像と爲して表現し以て一目の下燎然として悟得せしむ。例へば 美術的社會物語は殆んど古今の小説野乘を網羅して殘さす。遠く 馬琴の稗史を見よ、里見八大俾の如き歴史の上より云へば極めて微 源氏物語より近く馬琴種等の諸作に到るまで皆此範圍内の産出物微たる小國主の幕僚をもて主人公となし其行路來歴を中心點と爲し にして瓧會の情態を寫すをもて其主旨と爲す。而して過去の瓧會をて是を四邊に散亂せしめ以て元龜天正時代の兵亂瓧會の實相を寫せ 寫すを時代小説と云ふ、スコットの諸作の如き是なり。又現在の瓧 。椿説弓張月に到っては歴史に現然たる事實を取って題目と爲せ 會を寫すを俗に瓧會小説と云ふ、ディッケンスの諸作の如き是な しが故に殊に此技倆を見るに足るべし。 ェビック 。今此二派を見るに、前者は過去の事實を材と爲すが故に往々理 然れども叙事詩に屬する時代小説はもと客相を寫すに止まれ 想に流れ、後者は眼前の現象を題目となすが爲めに較や實際生活をば、唯題目を歴史に採りしのみにして歴史上の人物部ち時世の燒點 寫すが如し。 たる英雄豪傑の眞相を描き得しものにあらず。既に馬琴の如き或は 鎌倉時代或は足利時代の事實を材料と爲せしと雖も德川時代の風俗 時代小説 習慣就中其時代の士風を根基として冠らせしに鎌倉若くは足利を以 時代小説と歴史と異なれるは他なし。もと歴史は事實の説明を主てせしに過ぎず。此派の北斗と仰がるゝスコットすら唯僅かに服飾 アクションセンチメントスビーチ とするなれば、隨筆家の如く唯精細に事實の顛末を記述するか、然風俗等外面を異にせしばかりにして其行爲其感情其談話等總て此 いまやう らずんば其原因結果及び性質を説明するか、或は一時代の中心點た遠き時代と似るべくもあらで皆今様にあらざるはなしとティン評せ うべ る偉人の品性を分折し、以て一に人性を明らかにし二に世の潮流に しもまた宜なり。畢竟時代小説なるものは歴史に殘らざる社會裏面 アーチスチック、クロニクル 逆ふて自由意志を逞ふする人間の運命を窮むるをもて目的となす。 の美術的記録にして未だ人間の蓮命を表現せしものにあらざるな 然るに時代小説は全く是と反して歴史上の事實を題目と爲し、其本 タいニクラー 0 よみにん
0 て「物カ「チか「」い角の。眞箇に是れ悲壯なるもの人生最極の壯人物にして、他の道德の犧牲と爲って減絶せるの多きを嘲る敗德者 0 、、、、、 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 まめざう 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 観と云ふべし劍を呑み劍を吐くは街頭の豆造が常に演ずる處にして流にあらざるなり。 "The highest flights have 0 ( ( the deepest 0 0 0 0 てじな 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 きも 0 ひや 0 観者之が爲めに肝を諭す。手品猶ほ且っ然り。「ドフマ」は則ち進 ( a デ此上根の人物が沒落破壞を表はせし「ド一フマ」の妙致は豈 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 デスチニイ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 むで劍を呑吐する人間の運命を寫す焉んぞ蕩心駭目せざるを得んやに一大壯觀にあらずや。 デスチニー 人間の運命何が故に斯くの如く慘澹なるや。べリンスキーは之を 「ド一フマ」の價値 解して日く、 0 0 0 0 一大壯觀ーーー此酷烈なる慘澹を極めたる「キャタストロフ」は讀 抑も「衝突」とは何ぞや、日く運命の犠牲を貪って飽い事を知 いかいゆかい。若し主人公にして道德の法則を守りて其心の者をして戦慄せしむる事如何に深きぞ。我等は「ドフマ」に於て其 自然の欲に克たん乎、則ち人生の幸輻歡喜快樂に屬する者は總て主人公が莊重且っ靈妙にして動かすべからざる天地の大法則に並行 して微塵に粉碎せらるを見ば戦慄せざらむと欲するも豈得べけむ 消散して主人公は沁 5 沁となり、其中心の憂苦は其生活の 原素を爲して、物 0 むか嘗かか 6 「かか物い印いっ狂ゃ。然れども不幸薄命にして悲慘なる運命の犧牲となりし主人公の トラ・セディ るか、然らずかい早に就いい到らか。若し悲壯劇の主人公に爲に我等が萬斛の熱涙を揮ふは同憐の情を焔せしが故にして、若し して其意慾の生ずる儘に從はむ乎。則ち彼れ其眼中に於ても猶ほ地む滅第朝カ 2 かかざる宇宙生存の大勢力より來れるを知い 且っ罪囚と爲り、其良心の犧牲とならむ。物いむい逾御法規のい粉かる物囀崎嶇たる行路難も道理の支配するものたるを悟って 瀞急い印ふぺい。又是等道德を守るが爲めに道德を破り罪を免れん く發榔のる壤なるを以て、其心を裂き鮮血の淋漓かかい見る が爲かに罪を作り自ら無間地獄に投身する犧牲の歴史を鑑みれば人 いからナかい堅立る深根即ち道德法規を除去する事能はされば な更に換言すれば「衝突」に於ける生存の法則は恰もネロンかか少いか知かい共に、印艪の大勢力い服從いて進まば、賴み 0 0 0 0 0 0 0 0 が命令に髣髴しぬ。むかしネロンは命ずらく、我が姉妹の死を哭少き沁生い洳他の子い爲って怡々といて渡り得るを解せむ。「ドラ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 マ」が價値は實に爰に存ず。 せざるものは憂を憂とせざる徒なれば悉く獄に下して之を刑せ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 我が知識を開拓せむが爲めに庶物を尋求するは我等が常に爲す處 よ、哭するものも又然り、彼等が女禪たる我が姉妹の死を哭する にして之を研究するに動植金石各よ其科用書あるのみならず一々其 は單 0 輻の證たるに過ぎざるを以てなりト。 等の標本を具備す。然れども、是等動植金石よりも更に甚だしく我 ロッチェも説きぬ、道德を守るが爲めに却って罪囚となるか若く は良心の犧牲となりて終生の幸輻を打破する者は必ずしも過誤なき等が知見を貪るものは人事及び人間の情性にして、而して此科用書 となり此標本となるものはち「ドフマ」にあらざるか。千の心理 にあらず。彼は充分誤てり。何となれば彼は人間が有限性なる事を ヒューマン、ネーチ 1 ア 書百の倫理書を推窮せむよりは人性の寫眞たる「ド一フマ」に 一忘れ全力を盡いて其コンビクションを實行せんとすればなりト。 フォールト 然り、是れ或は過誤ならむ。然れども此過誤は躑かか沁の接して果然心に得る處必ずや多からむ。例〈ば自己の無能なるを知 らず他人の才幹をも計らずして其問題の何たるに關せず何事にも介 到底犯す能はざる過誤にして、苟くも信念を高きに置き菲德汚行に 8 屈撓せざるものは縱令其過誤なか知るい寧かかで其牲いかか喙して漫りに大言するポットムの如き、一時の僥倖を博して昇任し か甘かすべい。「ドフマ」が主人公は印ち此高尚なる性質を有せる共無學を蔽はんが爲めに殊更に奪大を衒ふて己れが解せざる言語を フォールト
6 8 2 ざらむ乎、若しくは其の行ひ能く善に協ひて而かも善を爲すの心な からむ乎、道德上の價値は共に全きを稱すべからざらむ。 是の如く詮議し來れば、吾人は鉉に一疑惑に逢着せざるを得ざる 也。例へば古の忠臣義士の君國に殉せるもの、孝子節婦の親夫に盡 せるもの、彼等は其の君國に殉し、親夫に盡すに當りて、果して所 謂る至善の觀念を有せし乎、有して而して是に準據したりし乎。換 言すれば、君國の爲にするは彼等の理想にして、而して死は是れに 對するの手段なりと考へし乎。親夫の爲にするは彼等の至善にし て、而して是れに盡すは彼等の本務なりと思ひし乎。若しくは、君 國親夫と謂ふが如き具體的麒念の外に、忠義孝貞と謂ふが如き抽象 的道義を認めて、是を奉體せりと見るべき乎。若し是の如く解釋す る能はずとせば、忠義と云ひ、孝貞と云ふもの、道德上の價値に於 古の人日へらく、人は神と財とに兼ね事ふること能はす。されば 生命の爲に何を食ひ、何を飲み、また身體の爲に何を衣むと思ひて言ふに足らざるものならむのみ。 まさ ころも 而して吾人は是の如く解釋するを欲せざるもの也。楠公の湊川に らふ勿れ。生命は糧よりも優り、身體は衣よりも優りたるものなら ずやと。人若し吾人の言をなすに先だちて、美的生活とは何ぞやと討死せる時、何ぞ至善の念あらむ、何ぞ其の心事に目的と手段と なげう の別あらむ、唯君王一旦の知遇に感激して、微臣百年の身命を抛 問はば、吾人答へて日はむ、糧と衣よりも優りたる生命と身體とに ちしのみ。是の如くにして死せるは、楠公にとりて至高の滿足なり 事ふもの是れ也と。 し也。而して是の滿足を語り得むものは、倫理學説に非ずして楠公 自らの心事ならむのみ。菅公の配居に御衣を拜せし時、何ぞ至善の 一一道徳的判斷の價値 觀念あらむ、何ぞ君恩を感謝するを以て臣下の義務なりと思はむ 夫れ道徳は至善を豫想す。至善とは、人間行爲の最高目的としてや。畢竟菅公の本心は、唯よ是の如くにして滿足せられ得べかりし のみ。拘々たる理義、如何ぞ菅公が是の本心を説明し得べき。戦國 吾人の理想せる觀念なり。是の至善の實現に裨益する所の行爲、是 を善と謂ひ、妨害する所の行爲、是を惡と謂ふ。至善其物の内容如の武士は吾人に幾多の美譚を遺したり。然れども或は勇士意氣に感 すなは じては輙ち身を以て相許るし、或は受くる所は糶に一日の粟、而か 何は、學者によりて必ずしも説を同うせずと雖も、道德の判斷が、 かは 是の地盤の上に立てるの一事は、古今を通じて渝らず。されば凡百も甘じて己れを知る者の爲に死す。是の間の消息何ぞ至善あらむ、 の道德は、其の成立の上に於て、少くとも兩様の要件を具足するを何ぞ目的あらむ、又何ぞ手段あらむ。彼等の忠や義や、到底道學先 ゆる ひっ 必とすと見るを得む。兩様の要件とは何ぞ。一に日く、至善の意識生の窺知を容さざるものある也。喩へば鳥の鳴くが如く、水の流る したが 也。二に日く、是の意識に遵ふて外に現はれたる行爲の能く其の目 るが如けむ、心なくしておのづから共の美を濟せる也。古の人日へ かな 的に協へる事也。至善に盡すの意ありて而かも其の行ひ是れに件はらく、野に険ける玉簪花を見よ、勞かず紡がざれども、げにンロモ 美的生活を論す 4 かて あひゅ のこ はたら つむ
四五年前我が國に行はれし未來小説は、理想と名くべきほどの理 社會小説 想なくして、唯散漫たる空想を記述せしに過ぎざれば是を標本と爲 現在に屬する社會物語印ち俗に云ふなる社會小説も亦時代小説とすを得ず。今其好例に乏しけれど、ベルネの諸著の如き多くは未來 同様にして唯題目を現在社會の現象中に求むるをもて異なれりと爲の理學的豫言をなせしものにして較や其摸範と爲すに足りなむ。要 するに未來を想像するは詩人の常なれども瓧會的若くは宗敎的觀念 會小説は に富むも . のが往々平かならずして圓滿なる未來世界を夢むより生す 現在瓧會の風俗を寫さゞるべからず、 るなれば、もと敎義的物語に屬するものなり。 現在瓧會の風潮を描かざるべからず、 敎義的物語 現在瓧會の道德的概念を現さゞるべからず、 現在瓧會の意嚮を示さゞるべからす、 敎義的物語は政治上宗敎上若くは或る他の概念より生じたる理想 ミステリー 現在瓧會の祕密を明らかにせざるべからず、 を寓し、或は高遠なる學術の眞理を寄せ、または單純なる道德上の 現在瓧會の信仰を顯はさゞるべからず、 被言を表はすものなり。 現在瓧會の蓮命を説かざるべからず。 蓋し詩人及哲學者は智情の働き熾んなるをもて、常に現在就會に 此七件は瓧會小説の備ふべきものなれども、單一なる叙事詩の定滿足せず、綿密なる思想と幽奧なる感情と共に相件ふて未來を想像 義に從へば必ずしも具ふるを要せず。否、從來の瓧會小説は唯現在し、漸く其不平を押へ安心を買ふの癖あり。而して彼等は唯理想を 社會に生ぜし一現象の顛末を美術的に記せしに過ざりき。 啗せしのみにては到底安んずるを得ず、又是を現在瓧會に實行する 瓧會小説の作家は往々一意想を礎と爲し是を現實瓧會の現象に寓事能はざるをもて、一に自己を慰め一に他を敎へんが爲め、終に理 するものあり。例へばヂッケンスの如き常に聖書中の金句より立案想鄕 ( アイデアル、、コムモンウエルス ) を創造して是を記述する事 せしと云ふ。また馬琴が忠孝の抽象的概念を經緯と爲して小説を編多し。例へばムーアのユトーピア物語、またはホルベルグの地界物 みしは誰人も能く知る所ならむ。然れどもこは素より小説の第一義語、或は我が國の和莊兵衞物語等の如し。又現在社會に平かならず にあらず、凡そ瓧會の現象は何事にまれ或る倫理的箴言に依って發して其道德習慣に憤ふるもの往々之を嘲罵し若くは諷刺せんとて編 生せらるゝものなれば、殊更に一金句より事柄を作爲するを要せざみしもの有り、例へばスウヰフトのガリバル巡島記、馬琴の夢想兵 シムボル るなり。 衞物語等の如し。又敎育の一助として學術上の智識を表號となし、 以て世を敎ふるを目的となすもの有り、例へば馬琴の質屋庫の如 未來小説 アレョリイ フェープル 未來に屬する社會物語は希望印ち理想を現示し、若くは前途を豫 爰に寓意小説と名くる者あり。もと幼穉なる喩言に出でゝ較や發 ・フリンシプル 言せんが爲めに一意想を未來瓧會の上に寓するをもて主旨と爲す。 逹したるものにして、深遠なる理義を卑近なる小話に寄せ以て、 此故に社會物語の範圍に編人すれども寧ろ敎義的物語の名目の下に單純なる思想を耕すをもて目的と爲す。例〈ば西遊記の如し。凡そ ダイグクチック 收むるをもて當れりとなす。 是等敎義に屬する物語は元來上代人民の單純なる腦膸より沸湧す
ほしからむ事を欲するが故に、其弊極する處纎細卑俗に陷り、所謂紙鳶繪 ヘーゲル日く、 くびき を塗りたらむ様に爲し終ふするを常とす、友なる詩人なにがし余に語りて 韻語は詩の衡軛にあらねば、毫も此妙を毀損せずして却て裨補 白く我れ小説を編みし時、哲學者ならでは到底作り得まじき乾燥無味なる するに力あり。純一なる想に被らしむるに華美なる皮を以てし、 文字を聯ぬるに苦みたりきと。同じ苦心をなすにも其目的はいたく相違せ 其調和瑰麗を求むるに最も必要なるは音響にあれば、其能く呂律 るもの哉。 に協ひたるものゝ金聲玉振と爲りて或る感動を與ふるや勿論なり 要するに修辭は想を發揮するに利使を與ふるの法なれば其想を曲ぐるに 云々。 到ては殆ど意のある處を解せざるなり。近頃名高き文章家さる處にて文章 の祕訣を演述して日く、文章家となる祕訣は平易簡明の文字を陳ぬるにあ 韻律は素より重んずべく、是を壓史の上に證すれば上代未だ文學 りと。平易簡明なる文字を可と爲すは華麗怪奇を喜ぶより勝るれども猶ほ の目あらざりし時は、感情の激發に任せて歌ひ或は舞ひ、詩と音樂 文章の爲め意を曲ぐるの憾なきを得ず。陶淵明の如き人棘ち陶淵明的の詩は同一の作用に起りしを以て、共餘波は延て今日に及びしなれど、 を作るべし、若し力アライルの如き人に陶淵明的の詩を作れと命ずれば則 韻律の詩に於ける關係頗る大なるは明らけき事實にして、古代より ち如何。人は往々力アライルの文字の幽奧なるを訴ふれども、是れ力アラ 有名なる歌謠詞曲の今に傳唱せらるゝもの律語の力を借りしは頗る イルが想の幽奥なるより生ずる所以なれば、強て平穩和順の躰を得せしめ リ訂 . カル んと欲するも得ざるは當然にして、若し必ずしも簡明平易ならむ事を勤む多し。就中叙情の一躰に於て律語の大偉功を奏せしは既往の文學史 に徴して燎然たらむ。 れば其想を曲ぐるに到らむ。 夜航餘話に曰く、 フヱルプスは最も面白く韻律の必要を説て日く、 聞にゆく道から細し鹿の聲はあらはにして淺く俗なり、弄巧成レ拙と 聽者の詩を耳にして最も感動せらるゝは有力なる韻律の輪轉に いふべし、鹿の聲かすかに二日月夜かなは能く婉にして章を成したり、 して、人初めに聽く時は其感深からざるも、轉輪幾回繰返さるゝ 渾然として自然に趣深し、是また晩唐盛唐のわいだめなり。 時に於て其感動如何に深からむ。是れ散文に於て見るべからざる 又日く、 長處なり。例へば闇黑の中に在て人階段を下るに其行く處は昏然 家内みなまめで芽出たし年の暮といへるはむげに淺ましき野調なる として視るべからざるも、段を踏む其足音は規則的に自然の韻律 を、何事もなきをたからに年の暮と直しけるは詞めでたく調高し、宋の を爲して幾分の興味を添えむ。是に反して平坦の地を自由に逍遙 王仲至が日斜奏罷長橋賦を王荊公奏賦長楊罷と改られ、品格氣だかく立 あがれり、かるが故に篇成て語を錬かへし點化の工夫を盡すべきなり。 するの同調なるは云ふまでもなく凡ぞ地もない迷惑い曰はゞ平 レール 此二話能く修辭の奧に逹したる人の語にして尋常字句の雕琢を爲せしも 坤 0 いっ間かか一静ゅ如む鐵軌ゅ物か尖立つい歩かか のにあらず。古人が所謂一字の恩なるものも父無用なる事かは。唯纎巧綺 らむ云々。 麗を専念に勤めて文字の爲め強て詩想を撓むるも猶ほ外観の美しからむ事 天に日月星辰あり、地に山岳河海あり。是等皆自然の調和を爲し を欲するは修辭の目的を誤まるものと云はむ。 て默唖聲を發せざるも其間自ら節奏の美を爲すものなからむや。文 學又更に文躰の上より云へば、文章大別して二と爲す、一を韻文と 學一度綜合の妙を爲して鏗鏘の聲耳を聳かさば人の腦裡を刺激して 云ひ、一を散文と云ふ。 胸板に徹する事の深きは勿論ならむ。 然れども此韻律の生ずる所以は何ぞ。試に是を推究すれば淵原遠 韻文 5 く上代にあり。蓋し上世人の思想單純なるや、其口に出づる言語も 1
さま 事に崩壞せらるゝ態を表現するを以て異なれりと爲す云々 て迷々朦々たる米來に餘義なくも進行し、一種の隱密微妙なる運 此説はプ一フィドが與へしものとは大に異なれり。思ふに一段を進 命を有てる動物なる事を感すべし。此観察をもて作りしもの、之 トラゼディ を悲壯劇と云ふ。 めたるものならむ歟。 トラゼディコメディ たて プフィドの説に從へば悲壯劇と滑稽劇とは楯の兩面を見たるに過 之に反して人生の照明なる部分を見れば、人の生涯は斯くの如 トラゼディ く幽鬱なるものにあらざるを感ずべし。世界は光明遍照、滿枝のぎす。換言すれば暗黒なる一面を表せしものを悲壯劇と爲し、照明 コメディ いきゃう 花は異香を薫し鳥鵲は嬉々として囀り、凡そ天地に充てる有るほなる一面を表せしものを滑稽劇と爲すが如し。 又ロッチェの説に從へば、等しく企望の破壞を現示するものなれ どのものは皆樂しく面白く、悉く禪が我等に與へし天惠と信ずれ トラゼディ ば、是を受けて其恩に沐するは當然の義務なりと爲して、戲謔詼ども、唯人物及び企望の高下大小に依て或は悲壯劇と爲り或は滑稽 諧事に觸れ物に接する毎に抃舞して歡樂を盡さゞるはなく、之を・劇と爲る。プルータスは偉大なる人物にして其計畫は一時の情に發 はか たまもの せず深く心膽を錬て而して後に起せしものなるを以て、彼が敢果な 以て人間が専有の賜物と爲す。這般の觀察を爲して作りしもの、 トラゼディ へうきんをとこ コメディ き失敗は悲壯劇なるを得たれども、彌次郞北八は淺慮なる剽輕男に 之を滑稽劇と云ふ。 して其計謀は唯一瞬の中に生ずる猥瑣なるをもて彼等が罪なき失敗 此解説は極めて明晰にして較や二劇の特質を發揮したるが如し。 コメディ 蓋し二劇の初めて形を爲せしは希臘にして、其當時の解釋に依れは滑稽劇と爲る。然れども若し地を代へて見れば、焉んぞ知らむ、 ば、莊重且っ剴切にして完備せる働作を表現し、榮華より災殃、若プルータスが企望も彌次郞北八の計畫も千里隔絶せずして相隣勺す トラゼディ る者なる事を。畢竟人事は觀察者の眼に依て變ずるものなれば、同 くは災殃より榮華に到るの行路を含蓄せるもの之を悲壯劇と云ひ、 ラフター 又可笑を起すに足るべき卑陋奇謔なる働作を表現せるものをば滑稽一事態にして或は悲壯劇となり或は滑稽劇と爲るべし。冷淡なる目 トラゼティ トラジカル を張って客欟的に見れば、英雄豪傑仁人君子が心肝を錬り肺腑を吐 劇と名付けぬ。此故に悲壯劇と云ふも必ずしも悲壯なる團圓に終ら きし絶大事業も螻蟻が塔を積むと異ならず、雨來れば忽ち崩壞する ざるはエスキラスの「イユーメナイヅ」或はソフォクルスの「フヒ コメディ コメディ の光景如何に嗤笑すべき滑稽劇ならむ。又慈悲の眼を以て主欟的に ロクテ、ス」等を以て知るべし。滑稽劇に到っても亦た此の解釋が 見れば匹夫小人愚者痴漢屮ケものが目論見半可通の心事何れか涙 示すごとく唯だ笑謔を買ふのみにてありき。 トラジック 是れアリストートルが與へしものにして、當時に於ては二者の區の種ならざるべき、世事惣て悲壯の塊物ならむ。 トラ・セディ 又何者が果して偉人にして何物か是れ偉業なるを判するに、如何 別斯くの如く隔絶しつれども、若し正確に論ずれば何れか悲壯劇に なる標準を以てせんとするか。既に此標準にして漠然たらばロッチ して何れか滑槽劇なるを知るに艱まむ。ロッチェ日く、 トラゼディコメディ 工が區分法も中々に二者を差別するはむづかし。 其根本より考ふれば悲壯劇も滑稽劇も同い印を持てるものと 云はざるべからず。則ち天道を踏み世綱に循はんとするや、必ず 今日の「ドラマ」 壞滅を免かれざるは有限性の一般に有する心理の弱點なる事を共 トラゼディ 要するに此一一者は希臘の如く全く相反せし時に於て判然區分すべ に現示するものとす。唯悲壯劇に於ては偉大或は才幹ある人物が 時を費して企圖せし計畫を世界の大勢力に依て打破せらるゝ事をけれども、然らずんば二者共に結局同一に歸するを如何せむ。され へうきんもの 3 現示し、滑稽劇に於ては瑣屑なる小謀を抱ける剽輕者が通常の人ば今日に於て「ドラマ」と名くるは二者を混同せしものにして之を コメディ
3 イ 3 文學ー斑 一を割て二と爲し二を割て四と爲し天を望めば星辰の所在を詳かに むるの念は尤も深ふして曾て飽足せし事なく、風采傾癖は常に變 せむ事を欲し地を見れば土層の性質を窮めむ事を願ひ草木の生長を 轉して定まらず、又懆然たる想像力に富むが故に絶えず實境を離 量り昆蟲の肚を剖く是扣第御想か第、或は花爛煜たる春の景色 たちまら れて空想の中に彷徨し、而して現在の幸幅は是を捨て却って頼む に浮れて蝶と共にさまよふや倏爾にエンジェルを空際に現じ、或は べからざる空想を尚ぶものなりと爲す。 うみばうず 怒濤澎湃として來り一葉片々呑まれむとするや忽然として海坊主を 哲學者は是に反して常人の解すべからざる人生の最大幸輻たる 水上に見る、扣御かい。此二者は人間共に有する處にし 至賢に心醉し、唯一不變の目的を執て堅く動かず其行爲は智あり て、一方に偏すれば恆河の砂をも數〈んと欲し又一方に偏すれば木 て、共希望は適度に利瓮また眞理を尚むで愉快娯樂を卑み、能く に縁て魚を求むるを怪まざるに到る。而してたゞ意を以て直ちに身 確然たる實益を尋求し、且っ其原因を人生浮榮の皮相若くは雜駁 を處し能はざるものが事物に觸るゝ毎に情或は智に愬〈て なる「カレイドスコープ」の中に求めずして反て是を其祕寶なる 滿足を求むるは自然の數にして怪むに足らず。殊に氣鋧雋爽の士が 不死の靈魂の中に得て以て樂むものなりと爲す。詩人は萬物の愛 まゝ熱焔して兩極端に馳するは免かれざるの事實にして、爰に於て 元、幸輻なる頑童、無頼、放逸、我意。兇惡また兇悪なるが故に か詩人若くは哲學者を生ずるにあらざるか。 一層可憐なる小兒なり。哲學者は眞理及至賢の忠僕、言語中に形 等しく情感的思想なりと雖ども、是を表白するに或は會意的を以 せし眞誠、行爲中に藏する善行と爲す。 ( 中略 ) カかい物沁か てし、或は分拆的を以てす。會意的を以てするものは思想を形像の 學者 0 於ゆかい、活烈狂誕豪放かか想第の冷索物物い物 上に表はして是を直覺せしめ、分拆的を以てするものは思想其まゝ さと 莊重なか智識 0 於ゆかと同い云々。 を分拆して是を理解せしむ。一は譬喩形容を設けて覺らしめんとし、 二者の相離る斯くの如くにして其現象を見れば到底同一なる範 一は解拆釋義を試みて説かんとす。蓋し二者各、、所長ありて共に學圍内に置く事能はざるが如けれど、また如何にしても隔 0 る事を得 海の水路案内者たれば相隨伴して離る、事なしと雖ども殆んど背反ざるは「一ゅ印拠想いかい一い秘つつ、詩人が胸を打 したる研窮法をもて互に結托して以て文學を爲す。而して文學の主って其心肝を吐くも哲學者が頭を曲げて其腦漿を沸すも間接に又直 因たる感情的思想を會意的に表白したるものを詩と云ひ分拆的 接に大道を踏むで眞理を求め衆生を擧げて其理想界に奔らむとする に詭明したるものを哲學と云ふ。べリンスキーは此二者を論じて ものならざるはなし。べリンスキーは又説て日く、 日く、 詩と哲學は共に同一ゅ小御を有し共に上天に赴くものなりと す、印ち一般瓧會の詩に歸するは人生の最も美なる紳工の形像を 詩及び哲學 作り依て以て人をして高尚なる感情を起さしめ依て以て人心をし 詩と哲學と常に相關係して常に相和せず、二者の故國たる希臘 て九天の上にあらしむるの神力を以てす、然れども哲學い沁か物 に於て見るも所謂哲學者は曾て桂冠を獻げて詩人を賞揚せしと雖 ども終に是れを想像社會の外に追逐せり。一般瓧會は詩人を見て 高尚なか感情か起さしむるものなりとす云々 以て最も活熱心なる者と爲し、過去將來を遺却して獨り現在に されば相離る乂と雖ども素と其根蔕を同ふして、是を別種と爲す 沈溺し、雎快樂あるを知て利あるを知らす、而して其快樂を求を得ざるなり。又詩を以て哲學の附屬物と爲すを得ざると同じく、 メタフィジック 工モーション インテレクト
るを認むるを得む。 の訷代紀に到るまで皆同じ。 歐羅巴に於ける訷代紀は希臘を以て祖となす。其他は皆此ロ碑を 上代人民は斬殺を以て武勇の功と爲せり、此故に彼等は人類を斬 俾 ( しものにして、素と自然の諸現象を禪と爲せし偶意的の想像に殺する惡紳を作れり。上代人民は猛獸に勝つを以て非常なる名譽と 出でしなれど、是に勇武なる英雄の偉蹟を加 ( 、殆んど考ふべから爲せり、此故に彼等は虎獅を威服する武紳を作れり。上代人民は自 ざる架空の妄想をもて飾りし變幻怪奇痴人の夢に似たる物語也。 然界の現象に驚異して、迅雷風雨是を學ばんとするの念あり、此故 ミソロジカルエージ 支那に於ける三皇五帝時代また代なり。かの共工氏が祝融に彼等は天地を搖がす大自在力を有する全能の神を作れり。獨り彼 と戦ひ、勝たずして頭を不周山に觸れ、天柱地維を折缺して、女蜩等は庶物を以て禪威の顯現と爲せしのみならず其單純・ーー單純なる 氏が五色石と鰲足及び蘆灰を煩はせしは素と是れ列子の寓言にしてが故に一層茫漠たる妄想をもて訷を作爲せり。力アフィルが日 ( り フハンタジイ 支那上古の詩想ならむ。 し如く誰人の目より見るも自然界は唯其人自身の空想にして、錯 是を我が日本に於て見るも、混沌たる上代の歴史はまた單純なる雜せる幻夢の形保たるに過ぎざるなり。 いはとがく かむつど 人間の思想より生ぜしかと思はる乂もの多し。岩戸隱れに群集 うすめさるだひこ 創世紀 ひして鈿女猿田彦の二大禪の禪怒を鎭め參らせし事跡は、縱令實 ミソロジカルエージ 事にもせよ、如何に祁代の思想に似たるならむ。素盞鳥奪が手 なづち やつがしらをろち 加之、もと單純なる思想より出でしをもて、不必要なる修飾なき 摩乳の娘を助けむとて八頭の大蛇を斬り給ひし武勳今に芳ばしき物爛煖たる想像は、まゝ自然の理と暗合して偶然に一種の單純且っ深 語なれど井澤長秀が辯ぜし序に引照せし古語拾遺句解の説最も面白奥なる寓意小を爲す事多し。舊約聖書の創世紀に録せるアダム及 し、日く、 びエバの物語を初め共他の事跡は、勿論是を希臘の禪代紀と同視す 斬 = 八岐大蛇一是非 = 實事「以 = 素盞鳥奪一爲 = 正陰「以 = 大蛇一爲 = べきにあらねど、ヘブリュウ人のロ碑に傅へし一種の寓意小説な 邪陰「正陰位 = 共處「則邪陰爲レ之減也、八岐者四方四維也、猶言 = り。カンプリーは創世紀第一章を評して日く、 八方之邪陰 = 也。 如法暗夜過去れば、世界は新たに眼前に生ずるの觀あるをも 此説また頗る附會にして信憑すべからずと雖も、此花やかなる事 て、ヘブリューの詩人は、原始のあした亦斯くなりと妄想して、 跡をもて寓言なりと斷ぜし其識見眞個に卓越せりと云ふべし。 麗かに明小御い朝ゅ景色いて擲か創 ~ か。其始め萬物混 かみひかり 同じく是れ人類なれば、其空想の歸一せるは怪むに足らず。東西 沌たり下地暗澹たり、爰に於て禪光ありと云ひ給ひければ光あり 較や異なるも共に、人類以上の靈精虚空に遊揚して生存せりと妄信 たりき。是れ曉光の暗冥を破りしの景なり。而して一髮天地を分 し、自然界の諸現象をもて是等紳物の所爲となし、太陽を以てあら 斑 つの地平線は現前して忽ち地上に水陸の別ありて、丘陵起伏し、 おほひる 一ゆる大威力の中心點なりとして、奪崇恭禮を盡せしは我が國の大日 山野連續し、森林鬱然として草木繁茂せるを認む。天漸く明イれ 墨・めむち 貴、印度のプラマ、また希臘のジューピターをもて知らる。兎に 文 ば日は東端に昇る、星辰の如きもまた同種の天躰なるをもて共に かく宇宙に禪ありて其威能は庶物を生じ、無邊の大智惠を働かして 地を照す光となりぬ。此時動物の運動は活氣を帶びて、魚は濛々 情念意識を滿足せしめむが爲めに禍輻を人類の頭上に與ふるものな たる底より浮びて水面に剌し、鳥は曙光を樂みて樹梢に隝き、 3 りと謬想して、是を傳へしは遠く印度のロ碑よりスカンディナビャ 百獸野に走れば昆蟲地上に這ふ。而して人は皆其業に行く云々。 ミソロジ
爰に植物學者あり。花を採て其蕊其蕚其瓣と一々解躰して再び とあるは蓋し眞理を存するの言にして、萬言の文字を聯ぬるも以 元の如く爲すとも、其生氣を恢復して花命を有たしむる能はざるて詩人の月桂冠を買ふべからず。然れども是れ「意」の重んずべき なり、詩をして詩たらしむるは此急捷なる活氣、この訷快なる感を知て詩の目的を誤りしものなり。 觸、この名くべからざる要素にして、惣て學識も批評も研究も考 胸境超脱相對温雅なるものは是を都市熱蕩の間に求むべからざる 察も皆以て詩を殺了すべくして是を創作するを得ざるなり。 も山家漁村を索ねて是を得べし。彼等を以て詩人の境界に到達せし あっ 或は天地精粹の鍾まる處と云ひ、或は「入禪之域」といふは皆此 ものと云ふは可なり、然れども直ちに眞詩人を以て目するは非なり。 活氣を云へる言にして、詩の恰も活動して直接感覺を與ふる事自然 幡隨院長兵衞が浴槽に槍傷を受けて一喝せし瞬間、羽柴筑前守が 界に接すると同じきは是活氣あるが爲めなり。畢竟古〈より唯外覿賤嶽に三軍を叱咤せし當時、其刹那は詩人の感想を發せしものなら の粧飾にのみ汲々として偏更その麗彩を衒ひ韻語の奴隷と爲て却てむ。然れども詩想の沸湧を以て直ちに其人を詩人と爲すは非なり。 識者に笑はるゝは此活氣に乏しきが故ならずや。 凡そ人荷くも情趣あり又想像を有するなれば、一年の中、一月の 劉放は日く、 中、若くは一日の中必すや詩想の發動する時ありて、若し唯詩想の 詩以」意爲」主、文詞次」之。或意深義高、雖 = 文詞平易一自是奇發動せしのみを以て詩人と爲さば、何人も一日一度或は詩人たる事 作。世效ニ古人平易句一而不レ得 = 其意義一飜成ニ鄙野一可レ笑。 あらむ。然らば特に李杜亞流韻律に遊ぶもの、或はヂッケンス、サ 此「意」なるものはシャープの所謂活氣にして詩が古今を一貫し ッカレイ輩人情の穿鑿に狂ふものを呼んで詩人と爲すは非なるか。 て不思義の威能を有するは此カ多きに居るが如し。 否、非ならず。單に詩想の發動せしのみを以て共人を詩人と目する 支那日本に行はれしは主として叙情の一躰なるをもて、詩を説く 能はざればなり。 にあたりて殊に此一點に力を費しぬ。是れ麗彩を事とする元白の亞 唯意主義に固執する人は荐りに沖來の感想を説けども、此紳來の 流が世の嗜好に投じて常に「意」の重んずべきを忘るゝが故に、特感想なるものは事また物に觸れて各人共に喚起する自然の情にし に是を唱道するならむが、若し此一點にのみ奔らば或は恐る一種の て、殊更に詩人の専有に屬するにあらず。シャープ云へりし如く、 論者の如く單インスピレーションを尊びて詩の目的を誤らむ事を。 詩に活氣ありて以て詩たるべきは勿論なれども、活気獨り詩を作る べきにあらず。花に不可思義の命あれども其花蕊共花蕚其花瓣は分 詩人及び非詩人 明に花を組織する一部を形づくりて、是れ無くんば縱令不可思義の 勿論「意」の重んずべきは詩を説くもの大抵同じけれども、質と命あるも以て花を成すべからず。要するに靈と物とは相待って宇宙 目的とを混ずるは往々陷り易き謬論とす。詩と想像とは相件ふて離を組成す、推究する事愈深ければ此一一者の纒綿して相關係する事 一るべからざるものなれども、是二者素より同一にあらねば、唯熱焔益密なるを知らむ。 する想像を目して是を詩と云ふを得ざるなり。隨園詩話に 蓋し力アライルが日へりし如く、詩の脈管は何人も是を有すれど 王西莊光録爲レ人作レ序云、所謂詩人者非 = 必共能吟レ詩也、果能 も詩を爲るを得ざるなり。若し詩想の喚起せらるゝのみをもて詩人 胸境超脱相對温雅、雖 = 一字不。識眞詩人矣、如 = 其胸境齷齪相對塵と爲さば、世に詩を作り得ざる詩人も多からむ。村老田婦の團欒に 俗→雖 = 終日咬レ文嚼レ字連レ篇累レ牘乃非 = 詩人一矣云々。 一丁字を解せざる陶淵明、若くは寒村古塋に泣く無智文盲のグレ リリカル