ことはたい ( んに結構なことである。いままでは、原本刊行の翌明試みたのであ 0 た。私はこの本はなっかしい古書の一つとして書 治二十六年に博文館の「通俗敎育全書」の一册として再刊されたも架のどこかに藏してゐる筈であるが、今本稿を草するに 0 いて索 のがあるだけで、これをもふくめて本そのものがなかなか手に入れめたがあいにく見當らない。明治一一十年代の中程の文學概論やう にくかった。この不便は一つ解消されたわけだが、全體として魯庵の小著述であ 0 た所の『文學一斑』は、今は歴史的に價値をもっ のものは十分に飜刻されているといえない。魯庵沒後まもないころだけだが、當代に於ては、一般の文學靑年を益し殊に幼穉な自分 に全集の計畫があったというけれども、それは實現しなかった。魯を啓發してくれたことは感謝しなければならない。 庵は全集を出すにあたいするひとで、どこかで全集、せめて選集でという一節があった。また『愛書趣味』のこの號には、小島鳥水 も出してくれるといいと思う。 が『相見ぬ魯庵氏』という文章で次のように書いてもいる。 『罪と罰』飜譯の第一册は大評判であったが、各誌紙に續々と出た : 私の靑年時代に、殊に感化を受けたのは、同氏の『文學一 書評がいかに誤解にもとづく賞讃ばかりであったかは、第二册卷末斑』といふ、啓蒙的の文學論であった。假綴の薄い本であったが、 に付載されている書評集そのものによって見ることができる。しか今日のやうに、講義録や文學辭彙などが、容易に手に入る時節と し、北村透谷のように作品のほんとうの意味をつかんだ批評をした 違って、當時、この種の書は、殆んど是れ一册といってよかっ ひとが、まったくなかったわけではない。『文學一斑』の場合はど た。私は此本に依って、敍事詩、敍情詩、世相詩 ( 戯曲 ) などの うだったろうか。もちろんこれは評判になりにくい性質の著作であ區別やら、定義やらを、飮み込んだ、それが私を、文學靑年に引 おざなりの書評がいくらか出たくら き人れるのに、與かってカのあったことを感謝していか、恨ん いで、これをほんとうに受けとめうるひ でいかは、未だに解らない。 とが當時どれだけいただろうか、とわた」 『文學一斑』という小さい本が、當時の若い讀者にどのように讀ま しはかねてから疑問に思っていた。とこー - 一れたか、の一端はこれらによってうかがうことができるようになっ ろが、こんど『愛書趣味』昭和四年九月、 た。文學の本質を " 人生に屬する諸現象の研究にあるとして新し の「魯庵翁追悼號」を見たら、新村出が・・ 一い文學概念をおしだしたこの本は、それなりに當時の若い讀者たち 『魯庵翁を憶ふ』という文章を書いてい をによって正當に受けとめられてい て たわけである。 : ・私が初めて魯庵翁に接したのは確 近代的な文學顴念形成の歴史の か大正元年ごろのことかと思ふ。 なかで、魯庵が『罪と罰』の飜譯 初對面の時分、私は少時よんで ( 血を請一一、宿 とその二年後の『文學者となる けたことのある『文學一斑』といふ不 法』とで大きな役割をはたしてき 知庵氏の舊著を擧げたりして、その頃を第、 1 い たことは、早くからわたしなども から更に二十年近くも以前の追悼談を明治 " ・ヤ年頃 ' 中夕、内田魯庵主張し、いまでは一般にもほぼ承大正 + 年〈月刊「思 0 出す人 ~ 」表紙 7
Z58 が力を極めて君を打ちしも根のあること、是にて思ひ當るなり。抑 信長判 さいぎ 右府公は申すも恐れ多きことながら、猜忌嫉妬の念深く、人の非を 天正十年五月十九日 しんい むら こそ 憎み玉ふこと甚だしく一一六時中瞋恚の焔に身を焦し玉ひ、一戦一捷 此書を見るより明智家の家臣擧って太く激昻せり。激昻して大に あば を經る・ことに、功臣宿將の舊罪を扞きて之を免し玉ふの御寬大は更光秀に迫る。 き一を、 に之れ無し。去れば年毎に罪に行はるもの數を知らず。曩に林佐 うは 第十 渡守佐久間右衞門太夫の封を褫ぎ、又安藤伊賀守荒木攝津守を殺し かんしん はうまっ ききて れじゃうあけちやかた 玉へり。韓信は西に在り、彭越は東に在りて、夙く漢王の殘忍なる 中國出馬先手の觸妝明智が舘に到るや、光秀が家臣明智治右衞 なみかはかもんのすけ を驚嘆せるに、我君獨り漢王の殘忍に驚き玉はぬは何事ぞ。三年の門、 同十郞左衞門、藤田傅五郎、四王天但馬守、並川掃部介、村上 いづみつかみ さもんのじようさんまっとうびやうゑいまきしたのも は御身上の一大事にこそ、明智家の滅亡は : : : 。叱ッ : : : 利三、 和泉守、奧田左衞門尉、三毛藤兵衞、今岸賴母、溝尾庄兵衞、進士 擂〈をらう ! 右府公は此の光秀を流浪の身より今五十萬石の領主作左衞門等は勿論平生温厚深沈なる明智左馬助、妻木計豌に至る に取上玉ひし大恩人なるぞ。ハ、ツ。 まで大に怒り、一同打揃ふて光秀の御前に出で、ソモ御當家は今一方 きゃうごくとらぎ の大將にして五十萬石の領主、御當家の幕下に隨ふもの京極栃木を がうしうたんしう あまた 始め、江州丹州兩國に數多之れあり。織田家の臣下中御當家の右に ひさつもづら びっちゅう いちりゃうはい 天正十年五月十七日、羽柴筑前守より飛札安土に到來して、備中出づるもの僅かに一兩輩あるのみ。然るに此觸从を見るに御當家は たんまき の高松城川々の水を堰人れ水攻に致したれば、落城已に旦タにあ無官小身の池田堀等が下に書のせらるゝ條、明智家の不面目何物か うまのかみてるもときっかはこばやかは り。然るに毛利右馬頭輝元、吉川小早川の兩將を從へ大軍を以て後之に過ぎん、且又秀吉が指圖に從へとは何事ぞ、秀吉は我君の同輩 さを ~ 詰の爲め出張に及び候。此時を外さず御出馬あるに於ては、中國西にあらずや。右府公に仕 ( まゐらせし年月は秀吉我君より前なりと すじゃう 國一擧して征服するを得べしと訴へければ、信長之を聞き輝元以下いへども家名經歴に至ッては我君遙かに秀吉の上にあり。剩へ我君 が出陣こそ願ふ所の幸ひなれ。我此時を失はず出馬して一時に雌雄の御年、秀吉に長じ玉ふこと殆んど十歳、然るに我君は中川安部の さきて を決すべしとて、卒かに出陣の用意さまん、なり。先手の面々各其輩と同じく取扱はれ玉ひ、秀吉が指圖に任せられ玉はんこと、實に げかう 用意をなし、當月中に自國を立て備中へ下向すべしとの事にて、其無念の至りなり。況して先般より再三再四の恥辱を思ひ合すれば、 いづ 人々へ觸从を廻させける、其書に日く、 悉く是れ御當家の大々不面目。之をしも忍ぶべくんば孰れをか忍ぶ いかに 此度備中國後詰の爲めに近日彼國へ御出馬あるべき者也之に依・ヘからざらん。臣等死すとも默する能はず。我君には如何御思慮遊 気る ごんじゃうこなた て先手の銘々我より先に彼地に至り羽柴筑前守が指圖に從ふべきばさる又ゃ。諸士一同が熱涙を揮っての言上。此方は悠然として空 もの也 耳に聞き流し、ハ、、、汝等血迷ひしか見苦しゝ′、、 斯程の小事 池田藤三郞殿、同紀伊守殿、同三右衞門殿、 に心を取亂しては嗜みある武士とは申されぬぞ。ナ、何と : : : 。我 ぎゃうぶたいふ 堀久太郞殿、惟任日向守殿、細川刑部太夫殿、 君には之をしも小事と申さる乂か。ハテ知れたこと。小事も小事も となりじゅくしからす 中川瀬平殿、高山右近殿、安部仁左衞門殿、 隣家の熟柿を鳥がつくじりし程にもあらぬ小事、當家を無官小身の 鹽川伯耆守殿、 下に書きのせられたとて、何で夫が不面目になる。同輩の秀吉に從へ はうを - のかみ をへい には かのくに みとせ はい いた
目次 : 篠田一士 8 綠雨の呼吸 : 内務省時代の忍月 : : 山本健吉報 都 2 : 石丸久 高山君來書 : 京羽 魯庵はも 0 と讀まれていい : 小田切秀雄月講 東音 題字・谷崎潤一郎 るというような經驗は一度だってなかった。 ともかく綠雨の文學が他人事でなくなったのはこの縮刷版の『全 集』を手に入れてからだ。當時のぼくは海外からどっと押し寄せて きた未知、未見の文學に夜も日も明けぬ爲體で、一日に一度は銀座 篠田一士 か、新宿の洋書屋へでかけていって、強奪するように新着の本を手 綠雨を本氣に讀みだしたのはいっ頃だったろうか。いま手元にあに人れては、讀みふけるのを日課みたいにしていた。目のまえでは、 るのは例の博文館の『縮刷・綠雨全集』で、奧附をみると、大正十衰えを見せたとはいえ、いわゆる「戦後派」文學があいかわらず隆 三年八月の第七版となっている。出版當時どのくらい讀まれたもの盛をきわめていたが、どうにもこれは横目で見るしかなかった。「戦 か、ぼくには見當もっかないが、この便利な本をいまでも古本屋の後派」文學の仕事と正面から對峙しようという氣持になったのは、 棚でよく見かけるところをみると、かなり流布したようにも思うが、もう少しあとになってからである。 あるいはそうでないかもしれない。 しかし、いくら海外の新文學に血道をあげ、その意味合いを自分 正確な年月はどうもはっきりしないが、この本を買った場所だけなりに眞面目に考えてみても、やはり隙間風が吹きぬけるような空 は、いまでもあざやかに記憶に殘っている。近頃はすっかり變ってしさにはたえずおびえていたのである。むしろ讀めば讀むほど、マ しまったが、武藏野館のまえの通りを東〈ずっと行って、新宿驛の一フルメの《 La chai 「 9 ( 〔 ( e 》 hélas 一 et j'ai lu 一 9 liv 「 (s) の 南ロの陸橋から下ってきた大通りにぶつかる一寸手前のところに、 一行がたまらなく身にしみる思いだった。それにしても、手近かに ワリと小ぎれいな古本屋が一軒あって、そこで、この綠雨の『全ある日本の文學はいかにも安つにく、その日本語はスカスカして、 集』を買った。もちろん戦後もいいところで、あれこれ思い合せてまったく頼りがなかった。あの頃酒といえば、どういう文字を書く みると、たしか昭和二十五、六年の頃ではないかという氣がする。のかはいまだに知らないが、キンミャという銘柄の燒酎しか飮めな いまとちがって、戦中から戰後にかけて、岩波文庫の在庫本にはかったけれども、その安酒の方がぼくには手應えがあったように思 綠雨の作品が二、三點あって、いくらでも買えた。しかし、この場う。本當にピリッとくる日本語が讀みたい、身體も心も同時に醉わ 合は小説が主で、一應目を通していたものの、とくに心を動かされせてくれるような日本の文學を讀まないと、自分は駄目になるとい 綠雨の呼吸
世界的知識の缺乏の爲に未だ自覺の域に上らず。あはれ、是の如きを求めむとするの進歩的傾向は、たしかに是の飜譯小説流行の現象 % 時に於て、聰明なる國民に安慰娯樂を供する文學は、それ如何にしに現はれたり。 飜って當時瓧會の妝況を察するに、維新このかた引續きたる改革 て生起するを得べき。 當時の小説は主として繪人新聞の續物として表はれたり。共の主の精禪も漸く靜穩中正に傾き、無謀なる進歩と、頑迷なる保守と は、互に自他の長短を覺識すると共に、十有餘年の仇敵は漸く共の なる作者は花笠文京、高畠藍泉、染崎延房、條野傅平、古川魁雷、 舊怨を解きて、一堂に握手するの道に近けり。民約論的急進派も、 伊藤專藏、須藤南翠、渡邊義方、宮崎夢柳、小室案外堂諸氏なり。 然れども今日見るに足るものとては絶えて無し。是等作者の小説を彼我國情の差別を覺りて自ら戒省し、皇學的守舊派も、世界の大勢 掲載せる新紙の主なるものは、東京繪入、繪入自由、繪人朝野、自に鑑みて漸く共の反動の氣焔を收むるに至れり。此れと同時に科 學、哲學のひらけゆくと共に、國民思想の範圍亦一層の廣きを加 ~ 、 由の燈等なり。但し自由の燈に掲げたる宮崎、小室諸氏の小説は、 多くは民權革命を鼓舞する西洋小説の飜案若しくは飜譯にして、當英佛獨諸國の語學研究の進歩に 0 れて、泰西文學の知識も、亦ます ます國民の間に播布せるを見る。而して今やスコット、リットンの 時政治界の暗澹たる風潮を窺ふに足るもの、他の群小作家のと自か 譯者によりて、外國小説の規模結構の巧妙自然に近く、思想文章の ら其の趣を異にせるものありき。 この頃に前後して、泰西小説の飜譯切りに出でしは、頗る注意す精緻高尚なる、遙に本邦小説に卓越するものあるに驚きたる文學社 ・〈き事實なりとす。其の二 = 一を擧ぐれば、織田純一郞氏の「花柳春會は、猛然として深く自ら省みる所あり。是に於て小説革新の機運 初めて動く。柴東海が「佳人之奇遇」、末廣鉞腸が「雪中梅」、「花 話」を魁として、關直彦氏の「春鶯囀」、藤田鳴鶴氏が「繋思談」、 間鶯」、藤田鳴鶴の「文明東漸史」、乃至少しく後れて矢野龍溪が 其他、「春窓綺話」、「梅蕾餘薫」、「經世偉勳」等、他にも少から ず。多くは其の原書をリ ' ト、 = 「 , ト、ディ = 」ーリ等の英國「經國美談」等は、實に是の風潮に乘じて出でたるものに外ならす。 近時の歴史小説の中に求めたりしが如し。而して共の譯者は概ね時然れども是等の著作は、新好尚に對する一定の見地と明確なる意識 の政論家の、や、文字あるものにして、専ら文學に從事するものにを以て現はれたるものに非ずして、單に在來小説の缺陷を補はむと するの消極的煩悶に過ぎざりしに似たり。是の時に當り、東西文學 非す。蓋し是等の人々は當時の最も敎育ある讀者を代表せるもの、 其の頭腦の西洋文明に薰染しそめてより、在來及び當時の小説の荒の比較研究によりて我が小説の過去現在を觀察し、詩學若しくは美 學の脚地に立ちて、在來の作家を論評し、且つ小説の性質理想を説 唐陳腐なる、到底其の進歩せる嗜好を滿足する能はざりしを以て、 きて併せて將來の方針を指示し、以て我が小説の史上に一新時期を 0 0 0 0 鉉に指を外國小説の飜譯に染めしに至れるなり。主として其資をリ , ト一一輩の歴史的、はた政治的小説に藉りし所以のものは、共の劃したるもの、之を春のや主人坪内逍遙となす。 明治の小説は逍遙を以て過渡の時代に入れり。明治初年より其の 譯者が政論家たりしこと素より其の直因を爲せしなるべしと雖も、 そも , 又當時瓧會 0 文學嗜好の幼穉粗大なる、未だ人情人生の精十八年に至る吾等が所謂る第一期に於ける紛たる小説は、汗牛充 棟も啻ならずと雖も、概ね德川時代の遺風を紹襲し、馬琴、種の なら 彩妙相を描破せる寫實的、はた心理的小説の旨味を鑑賞すること能 荒唐を學ぶものに非ずむば、一九、春水の鄙俚に傚ふもの、然らざ はざりしに因らずむばあらず。然れども其の舊小説の陳套に滿足せ れば、西洋小説を摸して生呑活剥に陷れるもの、明治時代の小説と ず、從來のとは異なりたる新しき或物によりて、其の慰藉と娯樂と
もろ / 、 の經を説く爲の故に此の諸よの難事を忍ぶべし。我は身命を愛ま となりぬ。彼れの未來も久遠の未來となりぬ。彼が接觸したる一切 ず、但よ無上道を惜む。我等來世に於て佛の所囑を護持せむ。世 の衆生と國土と、凡て彼れの一身に關聯して妙經預言の註脚となり 奪自ら當に知り給ふべし。濁世の悪比丘、佛の方便宜しきに隨っ ぬ。彌勒、天台、妙樂、傳敎等は彼によりて初めて妄語の罪を免れ さく / 、ひんずゐ びんじゅく て説く所の法を知らず、惡ロして顰蹙し、數々擯出せられて塔寺 たるのみならず、一代佛敎の歸着は彼によりて初めて現前の事證と まさ を遠離せむ。是の如き衆惡をも、佛の告勅を念ふの故に皆當に是 なりぬ。是の大自覺の喚起せられたる時、鎌倉の流人、安房東條の せんだら の事を忍ぶべし。 ( 文意不通の處には假りに釋字を添加す ) 旃陀羅の子日蓮は、一躍して本化地涌の上首上行菩薩となりぬ。 あくくめり 是の偈に所謂る惡ロ罵詈は言ふまでもなし、刀杖を加ふる者とは 彼は如何にして是の自覺に到逹したりしゃ。吾人は法華經勸持品 ぞうじゃうまん びく 印ち東條景信等の一輩に非ずや。惡世の比丘、邪智にして增上慢な の所謂る一一十行の偈が是の自覺を彼れの心中に喚起したる重なる媒 あれんにや 介者なることを疑はず。何となれば、末法の大導師の一身上の經歴るものは、當時の十宗の信侶に非ずや。阿練若 ( 寺院 ) に在りて白 くうげん に關する預言は、殆ど是の一偈の中に包括せらるれば也。されば日衣空閑、無知の人に恭敬せらるゝこと阿羅漢の如く、名利に貪著し 蓮にして自家一一十年の境遇が歴々として是の預言の現證なることをて法華經の行者を誹謗するものは、印ち良觀、行敏、道隆、隆觀等 認識したる時、猛然として自ら省悟する所あるは蓋し自然の事なるの當時の所謂る諸高信に非ずや。國王大臣に向って我を讒毀するも のとは、印ち持齋念佛眞言師等が北條氏に嗷訴せるの謂に非ずや。 べし。偈の文に日く もろ / 、 あくくめり 諸よの無智の人、惡ロ罵詈等及び刀杖を加ふる者あらむ。我等身命を愛まずして但無上道を惜み、是等一切の諸惡を忍受して佛 と、ろ まさ 皆當に忍ぶべし。惡世中の比丘、邪智にして心詔曲なり。未だ得の付屬を護持せるものは、ち日蓮に非ずして誰ぞ。所謂る數々擯 あれんにや ざるを既に得たりと謂ひ、我慢の心充滿せむ。或は阿練若に納衣出せられて塔寺を遠離せむと謂へるものは、印ち居處を追はる乂こ くうげん にして空閑に在り、自ら眞道を行へりと謂ひて法華經を弘むる者と二十餘度、一たびは伊豆に放たれ、二たびは佐渡に流されたる日 きゃうせん 蓮其人の現境に非ずして何ぞや。日蓮は法華經の行者也、時は末法 を輕賤する者あらむ。彼れ利養に貪著するが故に法を説き、世間 くぎ、やう の初めに當り、國は東方の悪土に合し、而して現身を以て勸持品一一 無智の人に恭敬せらる乂こと六道の羅漢の如くならむ。是の人、 あれんにや 惡心を懷き常に世俗の事を念ふ。唯よ名を阿練若に假るのみ。好十行の預言を實現す。是の如きは南岳、天台、妙樂、傳敎等の尚ほ ぞ むで我等法華經を弘むる者の過を出し、而して言はむ、此の諸爻遙に及び到らざる所、本化の上行菩薩に非ざるよりは誰か能く佛讖 人 る の比丘等は利養を貪る爲の故に外道の論議を説き、自ら此の經典を顯證して是の如く的確なるを得むや。佛にして妄語の祚ならむ か、則ち已む。荷も久遠實成の三界の敎主ならば、日蓮亦必ず上行 を作りて世間の人を誑惑し、名聞を求むる爲の故に是の經を分別 は すと。彼等常に大衆の中に在りて我等法華經を弘むるものを毀ら菩薩ならざるべからず。日蓮は疑ひもなく是の如く思惟し是の如く と 臥むと欲するの故に、國王、大臣、婆羅門、居士及び餘の比丘衆に確信したりし也。 向ひ誹謗して、我が惡を説いて謂はむ、是れ邪見の人にして外道 の論議を説くのみと。我等佛を敬するの故に悉く是の諸惡を忍ぶ くふ ぢよくこふ 7 べし。濁劫惡世の中には多く諸よの恐怖あり。惡鬼其身に入りて 9 きにく めり 我を罵詈し毀辱せむ。我等佛を敬信して當に忍辱の鎧を著け、是 いだ に 六上行菩薩としての日蓮 今、彼れの遺文に就いて檢するに、是の信念の曙光は、彼が越後 げ く
活を始めた。以後、本鄕をはじめ各地を轉「のこり物」を「文藝倶樂部」に掲載。九「方角早見五十音」「鷓外氏の新作」を「文 轉とする下宿生活がつづいた。十月、一一六月、評論「霹靂車」を「めさまし草」に發藝倶樂部」に發表。十月、本鄕丸山町に下 宿をかえ、森川町に下宿の島崎藤村を訪ね 新報瓧長秋山定輔に招かれ、編集主任のか表。「三人冗語」を、この月から、紅葉・ たちで入社、編集の與謝野寬、劇評擔當の思軒・學海・篁村を加えての匿名合評「雲るうち、來合わせた孤蝶・秋骨・敏らとし だいに親しくなった。 伊原靑々園と相知った。十一月、「新體詩中語」 ( 三 + 一年六月まで ) として連載。十月、 見本」を外山調、輻羽調、上田調、鐵幹一葉の病妝惡化、鸛外に依頼し、亠円山胤道 明治三十一年 ( 一八九八 ) 三十二歳 調、佐々木調の順で同紙に掲げ、新體詩流に診察してもらった。一葉危篤の報を聞 き、後日のことの相談のため戸川秋骨を訪一月、萬朝報に入社、二月、森川町の下宿 行の風潮を諷刺した。 ね、以後、交際をつづけた。十一月二十三に移り、大野洒竹と同宿になった。「ひか 明治二十八年 ( 一八九五 ) 一一十九歳 へ帳」 ( + 二月まで ) を「太陽」、隨筆「眼前 日、一葉死去。川上眉山・平田禿木・戸川 七月、「門三味線」三 + 五回 ) を「讀賣新聞」秋骨らと通夜を營んだ。葬儀費の會計・支口頭」 ( 翌年三月まで ) を「萬朝報」に連載。 に連載。八月、「覿面」を「國民之友」に拂・借金の始末のために盡力し、その後「紅葉尾崎德太郎君に質す」を「萬朝報」 發表、「門三味線」の「發端」を終り、大も、秋骨とともに樋口家の後事について骨に掲載。二月、幸德秋水が萬朝報に入社、 患執筆不能の旨を掲載して中絶。二六新報を折り、一葉の遺稿の出版を計畫。「小細以後、秋水との交友が深まる一方、洒竹を 休刊となり、退瓧。九月、瓧主松下軍治にエ集」を「文藝倶樂部」に、「枯菊」 ( 俳句通して田岡嶺雲・久津見蕨村との交際も始 まった。この頃から發熱することが多くな 招かれ、主筆として「時論日報」發刊のこ十一一句 ) を「讀賣新聞」に掲載。十二月、 った。三月、「太陽記者に告ぐ」を「萬朝 とに當り、野崎左文を顧問、伊原靑々園を説「合作十二ヶ月」のうち、「一月の上」 報」に掲載。六月、「大通至極俾」を「文藝 劇評擔當として招き、小杉天外を小説擔當「一月の下」を「文藝倶樂部」に發表。 倶樂部」に、「文藝倶樂部第四卷第七編」 の記者に當て、後藤宙之助 ( 宙外 ) を就員に 明治三十年 ( 一八九七 ) 三十一歳 を「萬朝報」に掲載。七月、「忍月居士に した。十五日創刊、十數號で廢刊。 一月、『一葉全集』に序文を附し、博文館答ふ」「再び靑葉會の一員に答ふ」「批評家 明治二十九年 ( 一八九六 ) の特別智識」、八月、「僞作博士」「女子と より刊行。三月、「一葉全集の校訂に就て」 一月、評文「金剛杵」を「めさまし草」を「早稻田文學」に掲載。四月から「太反省記者」「女子の眼識」「夏期附録」「文 に、「雨蛙」を「太陽」に發表。樋口一葉陽」に「おぼえ帳」連載。五月、「齋藤綠學と季候」「文藝倶樂部第十編」等諸短評 年 に初めて手紙を送った。三月から、鸛外雨氏が『かくれんぼ』由來及び色道論戀愛を「萬朝報」に發表、「抱月氏に答ふ」で ( 鍗舍 ) 、露件 ( 脱天子 ) とともに、登仙坊の 論等」 ( 談話 ) が「新著月刊」に載り、『雨蛙』は、演劇研究會靑葉會のことをめぐって、 匿名で、合評「三人冗語」を「めさまし草」 ( 袖珍小設第九篇 ) を博文館より刊行。六月、會の立場を辯ずる抱月の論を駁した。「豆 四に連載。五月、丸山輻山町の一葉宅を訪「のこり草」を「文藝倶樂部」に掲載。この花」を發表。九月、「早稻田文學記者に 答ふ」「帝國文學と靑葉會」「曲學博士」「帝 の夏、樋口家で馬場孤蝶と會った。九月、 ね、以後、數度の訪問を重ねた。七月、
なが て滅びむは、垢を含みて存ら〈むよりも、如何ばかり美はしかるべ かくて平家は亡びぬ。亡ぶるまでも、成敗の爲に其の名節を枉ぐ き。 ることをなさざりき。あはれ平家の世ざかりは、まことに大いなり 太宰府に落ち行くや、緒方三郞、使して申しけるは、まことに重しが、其の沒落の更に大いなるには及ばざりき。うるはしき哉平 代の芳恩を思はざるに非ざれども、一院の仰せ默止しがたければ、 家。かくして滅びたりとて何の恨むところぞ。 九國におき奉るべき地も候はず、と。平大納言、乃ち衣冠束帯して ( 明治三十四年四月 ) 出で向ひて宣ひけるは、それ我君は天四十九世の正統、祚武天皇 より人皇八十一代に當らせ給ふ、祖宗壓代の靈、我君をこそ守ら せ給ふらめ。就中、當家は保元平治以來、度々の逆亂を鎭めて、九 川の者共をば皆内ざまへこそ召されしか。然るを何ぞや、かゝる重 恩をも打忘れて、あづま夷の下知に從ふこそ奇怪至極なれ。あ長何 そ其の態度の正々たるや。 本三位の中將、一の谷に捕はれけるを、院宣、屋島に下りて、三 うけ 種の紳器、都に上せよ、重衡を放ち還さむとぞ傳へける。平家の調 文こそまことに壯大ならびなかりしか。日く、院宣謹みて承り畢む ぬ、通盛の卿以下一の谷にて誅せられけるもの、其數少からず、何 ぞ重衡一人の宥恕を喜ばむや。三種の神器は正統の天子、一日も御 身を離し給ふべきに非ず。そも / \ 我君は故高倉院の讓を受けさせ 給ひてよりこゝに四年、東夷北狄の禍にあひて、暫く西國に御幸あ るのみ。天に二日なく國に二君なし、還幸なからむに於ては、禪器 などか都に還るべき。そも / 、賴朝は逆賊の裔、幸に入道相國の慈 なた 悲によりて申し宥められし所なり。然るに忽ちにしてこの鴻恩を忘 れて、妄りに干戈を弄ぶ、やがては神罰其の身にかへるべきか。君 にも當家累代の奉公、亡父數度の忠節を思召し忘れずば、逆賊の裔 に與し給はずして、早く西國の御幸あるべきなり。一門の武運こ長 離に盡きなば、鬼界、高麗、天竺、震旦のはてまでもまかりなむ。悲 平しい哉、人皇八十一代が間、傅承あやまりなかりし靈器、今にして 空しく異國の寶とならむとは。宗盛頓首謹みて申す。 5 8 2 ぶみ くみ げち
206 けば其他の子弟をもおのれと結縁せしむ・ヘき自由を有す ) が、他の 生路を望まずして、遯世せし所以、總て是れ「文づかひ」が等閑に 附せしものなり。人は少しにても自由意思の存する間は未だ絶望者 とはならざるなり。枯死者とはならざるなり。予は「文づかひ」が 姫をして全く絶望者となさゞる以前に早く既に枯死せしめたるを惜 む。是れ通情に非らざる無き耶。 落合直文君、本年一月附の書面を以って「文づかひ」を判定して 日く、「明治二十四年の新好文字ならん」と。將來を豫言したる君 鸛外漁史足下、足下が最初予に與へし書に、始めに「イ、ダ姫はの慧眼、暗に我文學界が衰退するを嘆ぜしものか、非耶。予は偏に メヱルハイムを嫌ひて宮仕へせり」と言ひ、後に「イ、ダ姫は男嫌君の豫言の當らざらんことを祈る。 ( 明治二十四年二月十九日「國會」 ) ひの爲めに宮仕へせり」と言ひ玉ひしゅゑ、予は其間に疑ひを生 じ、姫はメヱルハイムなる男を嫌ふの意か、將た世間一般の男を嫌 ふの意かと質問し、而して二者何れにあるにせよ「文づかひ」は此 點に失策あることを明言せり。然るに足下は答へて日く「前者の意 にもあらず、後者の意にもあらす、其心は兩者の中間に位す」と て、「イ、ダ姫は脅迫結婚の法にて、おのれに強ひつけられたる男 を嫌ひしなり」の言を以て切拔玉へり。流石は筆戦に御熟練の足下 だけありて、血路見開の奇巧なるに驚人候。予の「淺々しき心」と やらむいふものにて筆は重寶のものかなと感じ候。 足下は日く「姫はメヱルハイム及び其他の絏袴子弟を嫌ふ」と。 是れ取りも直さず、予が曩に意の在る所を推理提出せしが如く、姫 は貴族の煩習慣を厭へるものなり。おのれの見識は當世の貴族社界 と相容れざるものなり。姫の沈鬱偏屈の性は世の風波に靡く能はざ りしなり。予は姫をか長る人物に養成せしめたるーーち當時の貴 族一般と相反したる人物となせし所以のものを、文づかひが看過せ しを一大失策と云ふのみ。姫があらゆる貴族仲間の男を嫌ふ所以、 縱令姫が情のゆくまゝに男選びすべき身にあらざるも、父をしてメ ヱルハイム以外の男を提出せしむるの勇氣なき所以、全く絶望に陷 うま らざる姫 ( 姫は父に調ふて父をして他の多くの貴族子弟ーー甘く行 再び外漁史に答ふ ( 參照ー昨日の國民新聞第一面 ) 蟻王門急使相次ぐ事變かな 蝶片羽蟻の一念曳き行くよ 再び見れば曳く蟻の遙かなる 斃れ蛇井堰の杭にしがらめり さみだれを濡れて枇杷の荷舁き急ぐ 晒井や蓋新らしく鹽を盛る 井戸浚果てしタ餉や桐の風 黒岩にこぼれ夕日や鮎を釣る
で確認できるし、綠雨のところでふれた春陽堂の書きおろしシリー けつきよく、 、説は、おのずから金澤時代のものだけが並ぶこと ズ「文學世界」にも『辻占賣』が組み入れられている。小説家とし になった。したがって、その文學的生涯の發端であった評論には、 ての地位の安定を知ることができる。それが、すべて東京帝國大學 たちもどって觸れることになる。 法科大學在學中のいとなみだったのだから、まさに目を見張るべき 忍月はレッシングを愛した。あとでは、藤代素人のものもあるが、 ことなのだ。ただし、こんにちからすると、『露子姫』はひどく甘この段階では、忍月の『レッシング論』に指を折らなければなるま すぎるものだし ( それゆえに流行したのであろうが ) 、『辻占賣』も い。『戲曲論』があり、またとくに「想實論』がある。これは、観 なんということもない。 念と現實との調和によって眞實を追求するのをもって、文學の本義 おなじ甘いものでも、資本主義が第に上昇し、ようやくその醜であるとするものだった。これらは、かれの文學論確立への、いわ 妝が目にあまるようになって來たプルジョアジーへの反撥をまだしば摸索にちがいなかったが、とにかくそういう原理との關係で、文 もみるべきものと思うので、本卷へは『蓮の露」を收録した。藤田壇現象を批評しようとするのだった。ということは、ありがちなア 福夫氏の『石橋忍月の金澤時代』 ( 「文學・語學」第二四號 ) によると、明ナーキーなものでは必ずしもなかったのである。しかし、本卷で 治二十六年十二月九日 ( 八日に「序言しから十二月三十一日までは、紙幅の都合でそれらのいずれもを割愛した。と同時に、時評ー 「北國新聞」に連載された。明治二十七年六月、春陽堂から單行本作品論のたぐいについても、ひとっぴとつにふれることはできな になった。短篇『蝙蝠』 ( 比喩談 ) 、單行本になった『←俄分限』が あわせておさめられている。 批評家としての第一聲だった「妹と脊鏡を讀む』に、すでに第か 「惟任日向守』も、藤田氏の調査によると、明治二十七年の十一月の凡ならざるところが出ている。靑年にありがちな、やや責めるに 末ごろから十二月十一日へかけて「北國新聞」に連載された。明治急なところがなくもないが、お雪の人物造型に對する見解や、「異 二十八年十二月、春陽堂から單行本になった。『比喩談』六話と贋感覺」不足の指摘などは、うなずくべきものだろう。『浮雲』論も 西鶴戲稿として『まだ櫻険かぬ故にや』が、いっしょにおさめられ當時出色のものといってよかろう。こんにち見て、當っているとこ ている。「惟任日向守』は、忍月小説をできるだけ多く讀みかえし ろが少なくない。第一篇について、「女を男となし、男を女となし てみて、第一等の作品であることをあらためて確認した。主をなみたること」を、第一の缺點として擧げているが、むしろそこにこそ する逆賊としかみられていない光秀を、新しく照明してみごとであ作者の新しい發見があったとしなければならないようなところもあ る。光秀によりそうようにして、「逆賊」にならなければならなかるけれども。 った必然を追求している熱のこもったものだ。忍月小説として傑作 忍月は、當代作家たちの作品を、かなり萬遍なくとりあげている 論 解であるばかりではなく、明治歴史小説の名作に伍して必ずしも遜色が、露件についてもっともしばしばふれているようだ。かれの文學 のないものといえよう。 上の所好と理想が知られるというべきだろう。 作 「まだ櫻咲かぬ故にや』は、三十數人の男を迷わせたといわれる年『舞姫』論をきっかけとする鷓外との數次にわたる應酬は、明治文 增藝者の微妙な心理を、西鶴調に擬えて皮肉にえがいた好短篇であ壇におけるめざましい論爭であったことは周知である。斬人斬馬の 4 る。 劍をふるう威丈高な鸛外に立ち向ってゆすろうとしない忍月の意欲
191 姫 今其人物の性質を見るに小心翼々たる者なり。慈悲に深く恩愛の情 余は守る所を失はじと思ひて己れに敵するものには抵抗すれど に切なる者なり。「ユングフロイリヒカイト」の奪重すべきを知る も友に對して云々 ( 一二頁上段 ) 者なり。果して然らば「む 6 行爲は性印ゅ必照な第」と云〈る確 此果斷と云ひ抗抵と云ひ、總て前提の「物ふるれば縮みて避けん 言を虚妄となすにあらざる以上は太田の行爲ーー印ちエリスを棄て とす我心は臆病なり云々」の文字と相撞着して井行する能はざる者 て歸東するの一事は人物と境遇と行爲との關係支離滅裂なるものと なり。是れ著者の粗忽に非ずして何ぞや。 謂はざる可からす。之を要するに著者は太田をして戀愛を捨て功 弐ぎに本篇二頁下段「余は幼なきころより嚴重なる家庭の敎へを 名を取らしめたり。然れども予は彼が應さに功名を捨てゝ戀愛を取受け云々」より以下六十餘行は殆んど無用の文字なり。何となれば るべきものたることを確信す。ゲエテー少壯なるに當ッて一二の悲本篇の主眼は太田其人の履歴に在らずして戀愛と功名との相關に在 哀戲曲を作るや、迷夢弱病の感情を元とし、劇烈鬱勃の行爲を描ればなり。彼が生立の妝況洋行の源因就學の有様を描きたりとて本 き、其主人公は概ね薄志弱行なりし故に、メルクは彼を誡めて日篇に幾干の光彩を增すや、本篇に幾干の關係あるや、予は毫も之が く、此の如き精氣なく誠心なき汚穢なる愚物は將來決ッして寫す勿必要を見ざるなり。 れ、此の如きことは何人と雖も爲し能ふなりと。予はメルクの評言 予は客冬「舞姫」と云へる表題を新聞の廣告に見て思へらく、是 を以ッて全く至當なりとは言はず。又「舞姫」の主人公を以ッて愚れ引手數多の女俳優 ( 例へばもしゃ艸紙の雲野通路の如き ) ならん 物なりと謂はず。然れども其主人公が薄志弱行にして精氣なく誠心 と。然るに今本篇に接すれば其所謂舞姫は文盲癡験にして識見なき なく隨ッて感情の健全ならざるは予が本篇の爲めに惜む所なり。何志操なき一婦人にてありし。是れ失望の第一なり ( 失望するは失望 をか感情と云ふ。日く性情の動作にして意思ーー・考察と共に詩術の者の無理か ? ) 。而して本篇の主とする所は太田の懴悔に在りて、 要素を形くるものち是なり。蓋し著者は詩境と人境との區別ある舞姫は實に此懴悔によりて生じたる陪賓なり。然るに本篇題して舞 を知ッて、之を實行するに當ッては終に區別あるを忘れたる者な姫と云ふ。豈に不穩當の表題にあらずや。本篇一四頁上段に日く 0 0 0 0 「先に友の勸めしときは大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが今は 著者は主人公の人物を説明するに於て頗る前後矛盾の筆を用ゐた稍やこれ得かかかと思はる云々」と。ソモ屋上の禽とは如何な り。請ふその所以を擧げむ。 る意味を有するや、予は之を解するに苦む。獨乙の諺に日く「屋上 ねむ 我心はかの合歡といふ木の葉に似て物ふるれいみつゆかい の鳩は手中の雀に如かず」と。著者の屋上の禽とは此諺の屋上の鳩 す我心は臆病なり我心は處女に似がり余が幼き頃よい長者の敎か を意味するもの歟。果して然らば少しく無理の熟語と謂はざる可か 守りて學の道をたどりしも仕への道を歩みしも皆な勇氣ありて能 らず。何となれば獨乙の諺は日本人に不案内なればなり。況んや くしたるにあらず云々 ( 四頁下段 ) 「屋上の鳩」の語は「手中の雀」と云へる語を俟ッて意味あるもの 是れ著者が明かに太田の人物を明言したるものなり。然るに著者に於てをや。蓋し此の如き些細を責むるも全く本篇が秀逸の傑作な れば也。 は後に至りて之と反對の言をなしたり。 余は我身一つの進退につきても又た我身に係らぬ他人の事につ 本篇一〇頁上段に「表てのみは一面に氷りて朝に戸を開けば飢ゑ 0 0 0 0 0 0 0 きても果斷ありと自ら心に誇りしが云々 ( 一四頁上段 ) 凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり云々」の語あるを以ッて人或 0 0 万イスト