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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

俳諧師 といふ言葉が尚ほ時々響く。けれどもだん / 其響きが幕を隔て懊 翌日になるともう五十嵐は家を探す勇氣が無い。三藏は昨日夫婦 を隔てて聽くやうに遠くなって、何故に其等の言葉がさっきあれ程連れで家を探しに出たと聞いた時、エノック・アーデンにある鳥の すみか 強く自分の心を刺戟したかが不思議に思はれるやうになる。それか集のやうな棲家といふ其のネスト一フィクといふ形容詞が思ひ出され ら見るともなしに細君の横顔をぢっと見る。三藏が心を落着けて細て羨ましいと思ったが、實際五十嵐の身になって見ると、家を構〈 君の顔を見たのは此時が初めてである。口が大きくて顋が短いのはたところで、其敷金はどうする、世帶道具はどうする、米代はどう 缺點だが共他は美人だと思ふ。年齡は幾つたらうと考〈て見る。三すると考〈ると何の成算も無いので、家を探しながらも、萬一どう 藏は今迄わけも無く自分よりは年長者のやうに思ってゐたが考へて かした事で契約でも出來たら扨てどうしてよいのだか困った事たと 見ると自分より一つ下か多くとも同い歳位のものでなければなら 思ひ乍ら歩いて居たので、三藏の想像したやうな樂しい心持は更に ぬ。五十嵐の眼が細君の赤い手絡に止まった時一二藏の眼は細君の長無かった。況して今朝になって見ると何の爲めに昨日は歩いたのだ い睫の邊をさまよふ。 か殆どわけがわからぬのに氣が附いて、出來るだけ朝寐をして寐返 りばかり打ってゐたが、十時頃俄に蒲團を蹴って起き出でて、今日 は獨りで大阪へ行って來るといひ出した。それから旅費をこしらへ 五十嵐は京都で世帶を持っ積りだといってゐたが、はき / \ と其る爲めに細君を親許へやって細君の着替を一枚質屋に曲げ込ませ 蓮びをするでもなかった。嵐山行きの費用は細君が帶の中から男持て、其金を握って晝頃出挂けた。大阪には五十嵐の叔父に當る人が ちもと の茎口を出して支拂ひ、其後夫婦連れで例の西石垣の千本へお茶漬居て此頃は殆ど絶交同様になってゐるのを今日は押しかけて訪間す をさ を一度食べに行った時も、同じく細君の帶の間に藏めてあったロ る積りである。 の中から支拂はれたのであったが、京都へ來る爲め五十嵐が何某と 細君は書過ぎ一人ぼんやりと座敷の眞中に坐って居たが、戸棚の ひどくりん の連帶で非道工面をして借りた高利の金は此時もう殘り少なになつ中に仕舞ひ込んであった自分の小さい革鞄を取り出して、共革鞄の きえん かうがいびんつけ てゐた。其後は五十嵐も前程氣が上らなくなって時々長い體を八中に直かにごろ / \ と入れてある櫛や簪や ( 幵や鬢附などを取り出 たたう 疊の座敷一杯に延ばして天井を見詰めて居る事もあったが、いつのして、斯んな髮結道具を人れて置く疊紙を一枚張らうと思ひ立った。 間にか細君も姉小路の方へ來て夫婦で同居するやうになった。夏休 殆ど空になって同じく其革鞄の底に投げ込んであった財布の底に みも殘り少なになったから、赤い机挂の主人の山本も程なく歸って五厘錢を一つ見出して近處で姫糊を買って來て、綾子さんの大きな 來るであらう、歸って來たら早速明けて貰はにゃならんと綾子さん皿と刷毛とを借りて來て、鐵瓶の湯を加へて糊を薄く溶いた。それ からは二三度注意を受けた。五十嵐は或時夫婦連れで一日家を探し から同じく其革鞄の中に、何かがくるんであったあまり皺の寄って くたびれ に出歩いて暮方飯も食はずに綿のやうに草臥て歸って來た。書飯はをらぬ一枚の古新聞を取り出して此を其疊紙の心にせうと決心し うどん うご 饂飩を一一杯づっ食って探し歩いたのであるが二人の氣に入る家は無 た。扨て萬事整ったが此心の上に張る反古が無いのに頓と困った。 かった。氣に入る家は敷金が高かったり、家主の方で夫婦の風體を增田さんか塀和さんに貰って來ようかと腰まで上げかけたが、急に つくえ \ 見て既に先約があるなどといって斷ったりなどするので一 思ひ附いたものがあって、今度は五十嵐の方の大きな革鞄を開けて 軒も探し當てずに歸って來たのである。 何物かを探し始めた。 まつけ さいせき かはん な、つや

2. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

得ず手酌でやる。大分醉ひが廻って來て口が輕くなる。「まあ一切いふ考もちらと起こす。けれどもこれだけあったら又鳥鍋が食へる と思ふともう矢も盾もたまら無くなる。略此前の時刻と思ふ時に天 でもい、から食ひ給へな。君の箸と僕の箸とが此鍋の上で一度でも 出逢って見度いのだから。」と我乍ら旨い事をいったと思って三蔵神町に出挂ける。幾度か躊躇して門前をうろついたが遂に思ひ切っ て案内を請ふ。光花が出て來る事と豫期してゐたのに母親が出て來 は熱心に小光の顏を見る。小光はニタリと笑って「これでいゝ の ? 」と今卵燒を口に人れた箸を鳥鍋に下ろす。「あ、それで結る。それから「おやまあいらっしゃいまし。此間はどうも。生憎今 日は留守でございまして。」といふ。三藏はがっかりして「もう寄 構。」といって三蔵も箸を突込む。これで三蔵の希望通り箸と箸と が鍋の上で一度は出逢った事になる。小光は顔をしかめて噛んでゐ席へ行ったのですか。」と聞くと、「一寸用事がありまして。」とい たが「何て堅い鷄でせう。」と遂に皿の上に吐き出して又た卵燒きふ。三藏は頗る物足らぬ。 其翌日父た出挂ける。今度は光花が出て來たが「おッ師匠さん留 で御飯を食べる。三藏は堅い鷄を嚥み込んで獨酌を極める。長火鉢 が劃然と兩者の間を限って卵燒と鳥鍋とは全く沒交渉に事件は進行守よ。」と一寸品をしていふ。 全體何處へ出挂けるのだらうと三蔵は不審に思ふ。若し家に居て する。それでも目の前に小光を置いての獨酌は下宿の下女を相手な いはん のに比ぶれば固より比較にならぬ。況やこの半年間たゞ高座の上に留守を使ふのであるまいかとも疑って見る。此頃は芝の小金井に挂 亡ん芋ゃう 瞻仰してをつた事に思ひ比ぶれば長火鉢位の間隔は物の數でも無ってゐる。遙々出挂けて見る。いつもと別に變りも無く相變らず自 い。卵燒と鳥鍋とが沒交渉であらうがあるまいが是れ亦論ずる程の分の坐ってゐるあたりへ秋波を送る。終ねてから思ひ切って樂屋へ 價値も無い。禪田の露店で義太夫雜誌を買って片々たる記事に心を行って見ようと思って共前迄行くと二三人の書生が已に中に這人っ てゐてがや / \ といってゐる。小光の笑ふ聲もする。三藏は流石に 躍らした當時に比べて見ると今は隔世の感がある。三藏は斯く考へ 這入り兼ねて共夜は空しく歸る。 ると只愉快だ。陶然として小光の卵燒を食べて居る横顔を見る。 斯うなると是非一度逢はねば氣がすまぬ。翌日は朝九時頃天紳町 八十 〈出挂ける。襷松けで ( タキを持ってゐる光花が出て來て、「おや まあ何か御用 ? 」と目を螳っていふ。「別に用といふのでは無いが、 三蔵は其の夜今朝受け取った錦絲の手紙を思ひ出して車を飛ば 一寸此前を通ったから。お師匠さんうち ? 」と聞く。「まだ臥せつ す。 其から二三日何だかそは / 、して落ち附かぬ。又天町へ出挂けてらっしやるわ。」「さう。」と三蔵は困る。「何時頃に起きるの ? 」 度いとは思ふがさう / 、はと思って辛抱する。漸く俳人と往來して「極まってないわ。」といってハタキで自分の足袋の埃りをばた / \ 師俳句を作る間だけ小光の事を忘れてゐる。夜になると酒を飲む。酒とはたく。「ぢや又來よう。」と三藏は又た不得要領で立去る。 其から一時間許りぶら / 、と其邊を歩いて又天紳町へ歸る。小光 を飮んでは宮松へ行ったり車を飛ばせたりする。 十圓の金は其うち皆無になる。もう人に借錢も出來ず質に置く物の家の十間許り手前迄行くと髭を生やした二重廻しを着た三十許り 俳 の男が獨り向うから來る。あまり人通りの無い裏町なので共二重廻 も無く毎日怏々として樂しまぬ。只無暗に俳句を作る。 しが目立って見える。小光の家の前に行って見ると寐卷姿の小光は 或日雜誌に俳話を載せたので一圓だけ原稿料を貰ふ。原稿料とし て貰ったのは之が初めてである。國許の母に何か買って送らうかと上り口の障子を開けたまゝ立ってゐて光花の格子戸を拭いてゐるの みは あやにく

3. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

からりと睛れて今朝になって見ると佐野の高慢もそれ程もう癪に障 すし 人になっても美しいだらう。しゃぐまと丸髷とどちらがよく似合 らぬ。晝飯には昨日の財布を細君に持たせて近處の鮨を買はせにや ふ ? 兎に角こ長いらでまごっいてるのはよせよ。早く東京〈歸っ たらどうか。丁度商館の方に人が入用なんだ。君も發心しろよ。己る。さうして二人で旨く其鮨を食ってしまって、それから佐野に は俳句も金を儲けてからだと念した。アイ = の方は今いくら位あ「兎に角賴む。どうか工面して二三日うちに歸京する。」といふ意味 る。それつきりか。意氣地がねえなあ。それ位のことにくよノ \ しの手紙を書いた。 てやあがるのか。大阪行きも貴様のやうなぶつきら棒では想像する 二十七 下宿の拂ひなど旨くごまかして置いて に談判破裂だな。よせ / 、。 五十嵐十風は增田や三藏に迷惑を挂けて姉小路の拂ひをすませて 兎に角歸京って來いよ。萬事それからの事にしろ。汽車代位司にど 遂に細君を連れて東京〈歸ってしまった。其時增田や三藏に「これ うかさせろ。髮でも切って髢にでも賣らせるがい長や。」と帶の から俳句を添削して貰ふのには東京の文科大學に居る越智李堂が善 おのづか から金時計を出して「オヤもう三時だな。己か、己は今朝着いたの だが、もう此汽車で歸京らにゃならぬ。どうだ當分己の部下で辛抱からう。此男は人物が立派で、自ら我等仲間の中心になって居 しては。一年も辛抱すればどうかなる。」と立か、「て「貴様これる。僕から紹介してやって置くから君等からも手紙を出して依賴し てやり給 ( 。」といった。其から三藏は直ちに增田と連名の手紙を で勘定して置いて呉れ。もう時間が無いから失敬する。」と五圓札 召めて賴んでやった。李堂からは直ちに返事が來た。增田は「字體 を疊の上に放り出して置いて段梯子をとん / 、と降りる。五十嵐は言 が十風に似てゐる。」といったたけで別に意にも留めなかったやう 「佐野の奴、人を馬鹿にしてゐゃあがる。」と腹が立たぬでも無い たが、三藏は筆蹟が見事で文句も莊重たと思った。さうして深く が、少し煙に卷かれて段梯子の降り口まで見送って行って長い體を 突立ったま、「賴むとすれば二 = 一日内に歸京らう。」といふ。佐野深く又此李堂といふ人を敬慕した。程なく學校が始まって獨逸語は 愈六つかしくなる。物理の敎師が變ってペ一フ / 、と英語で講義す は「ウンさうしろ。あの何に : : : 」と一寸いひにくさうに言って 「細君に宜しくい「て呉れ。」ともうづか , , 、、と行ってしま 0 た。五るので三藏は又これに惱まされる。土の午後になると生きか〈っ たやうな心持で增田と二人で句作する。さうして直ちに李堂に批評 十嵐は一人もとの座に戻って其處に擲げ出されてある五圓札を見る と、いま / \ しくなる。「糞 , 食〈。」と舌打ちをしてちっと考〈てを賴んでやる。李堂からは直ぐ懇切な批評を加〈てか〈す。或時返 事が少し後れたことがある。とうしたのかと待兼ねてゐると、『頃 居たが別に仕方も無い。女中を呼んで疊の上に置いたま長の五圓札 日、當地小説熱盛んにして同志のもの數人と小説會を組織す。殆ど を顋で敎〈ると女中は何とか愛嬌を言って持って行く。 女中が持「て來た釣錢も其處〈置いて置く譯にも行かん。財布を毎日開催する程の盛況なり。山僧君は小説にも意ある由十風より傅 師 開けると今朝細君の着物を曲げ込ませて拵〈た銀貨が淋しく底の方承せり。若し學課の餘暇あらば何にても宜し御寄送を望む。』とい に光 0 てゐる。共上に厭や / 、乍ら其釣錢を投げ込むと急に光るもふやうな事が書いてあ「た。其の手紙にまた『山信君學課御多忙 の由御察申す。一方に小説盛なると共に他方に亦俳句會も成立せ のの數が殖える。五十嵐は又厭や / 、乍ら其財布を懷に推込んで、 り。從來の同人の外に或一團體と合同して近來は運座といふものを わもう大阪にも行かず家〈歸って見ると前回に陳べたやうな細君の淺 ましい癡態を見て澗癪玉が一時に破裂した。併し共暴風雨のあとは催ほせり。此運座なるものの方法等説明したけれど書端意を盡し難 すにん

4. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

まかりこ し。近日同人のうち篠田水月 ( 早稻田専鬥學校に在り ) 御地に罷越 6 まうし」 二十八 すやう申居れり。其の節は名所舊蹟御案内賴む。當地の俳況及運座 くたさる・ヘく こんにやく の方法等直接水月より御聽取可被下候。』とあった。 北湖先生は客膳を召し上る。「私は胃が悪いので蒟蒻たけはいけ それから篠田のまだ來ない前に李堂から又葉書が來た。「同人中ませんてや。」といって絲蒟蒻の上に止ったやうに乘つかってゐる よぎ の先輩奥平北湖先生一一三日うち御地を過らるゝ筈、或は貴寓を訪れ三切れ許りの堅い肉を齒をむぎ出して噛まれてゐたが遂に噛みこな けん らる乂やも知れず。山紫水明の地に於ける一タの雅會を想望して健し切れず膳の上に吐き出された。「先生、生卵はいかゞです。」と三 亡ん 羨に堪へず。』と書いてあった。共手紙の着いた翌日の四時頃であ藏がいふと、「鷄卵でやすか、鷄卵も一つはよございますが、二つ った、表にがらノ \ と車が止った。程なく「御免。」と改まった聲以上食ふと不消化でやすな。いえ、もう結構。」と茶をかけて堅い が聞こえたと思ふと、續いて「私は奧平北湖と申す者でやすが、こ飯をざぶ / —- と掻き込まれる。御飯は五分もか又らぬうちに濟んで ちらに增田花翁、塀和山信といふ人が下宿をして居りますか。それしまって、先生は「芒はなか、 / \ むつかしいでやすな。山信君のお では一寸お取り次ぎを。」と急き込んだやうな聲で、それで非常な句のうちではこれが面白いでやすな。花翁君のではこれがえゝゃう 高調子だから座敷に手に取るやうに聞こえる。三藏は飛び出て來て ですな。」とそれから二人の句を一々批評されて「私は猿蓑が好き 「どうかこちらへ。」と案内する。增田は自分の敷いてゐた汚ない毛でやして、中でも凡兆の句が純客觀的で面白いと思ひますてや。」 布を延・ヘる。 とそれから又凡兆の句の面白味を叮嚀に説明される。十風は只い 見ると北湖先生は瘠せこけた背の高い紋付羽織を着た五十近い老とか惡いとかいふだけであったが、先生のは一々理由を説明され 人で、薄い顋髯を紳經的に引張りながら「李堂でやすか。文學に熱る。三藏は進んで質問を始めようとしてゐると先生は帶の間から又 ステーション 心なことは非常なものでやすな。私と李堂とは同鄕でやして私の監時計を出して見られて「六時でやすな。これは大變だ。停車場迄一 督してゐる寄宿舍に李堂が居った頃から私もつい仲間に引張り込ま時間ではむつかしいでやせう。」と俄かに狼狽せられる。「一時間あ うろた れて、俳句では李堂のお弟子でやす。それでは一題やりませうか。 ったら大丈夫です。」と二人が言っても先生は尚狼狽へて居られる。 私は七時いくらかの汽車ですぐ國の方へ立っ積りでやすが、今は何何か頻りに探して居られるので「何か有りませんですか。」と聞く 時でやすかな。」と帶の間の時計を探される。前にぶら下って垂れと「いや有りました有りました。」と口を懷から出されて忽ち疊 うろた てゐるに拘らず、頻りに狼狽へて帶の中を探される。漸く探し當て の上にざら / 、と明けられる。さうして共中に車夫に拂ふたけの小 られて「もう四時が近いでやすな。それでは私が題を出しませう。 錢があるのに安心されて、又其れを掻き集めて蟇ロの中に拾ひ込ま ナ、き 少し早いやうでやすがもう秋にしますかな。芒はどうでやせう。」れる。それから「いやどうもお世話でやした。」と急がしく車に乘 といって增田の出した半紙を一枚取って其を二つに折り、三藏の硯って歸られた。 ま、と さう 箱の中から一本の筆を取出して、尖の堅くなってゐるのをいきなり 三藏は其夜三人の句を列記して李堂の許に送った。而して『北湖 けんち すこぶ 硯池に突き込んで、もう早や何か書かれたが、薄墨がにじんで大き先生の敎へによって得る處頗る多く候。殊に凡兆の客觀的の句の面 な染みが半紙に出來る。 白味を承りたるは有益に存候。』といってやった。李堂からの返書 に『北湖先生は凡兆の句によって悟入されたり。大兄が同じく凡兆

5. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

が十風の轍を踏まなければよいがと私に憂慮してゐたが、只三藏は又要る事があるでせう。そんなにして戴かなくってもいゝのよ。ね 十風に反し日に增し俳句が上手になるので先づノ \ 安心してゐた。 え貴方。」といって目くばぜをする。「さうとも。有難うだが仕舞っ 肝心の小説の方は書くとか書いてゐるとかいってゐるばかりで少して置いてくれ給へ。」と十風も襟垢には少し閉ロする。「なに僕は要 たのも も進行ぜぬらしいが、それでも俳句に充分の進境が見えるのは賴母ら無いのだ。それでも無いよりはいゝだろ。」と三蔵は眞面目だ。 しいと思ってゐた。 「だけれど : : : 」と細君は再び辭退せうとするのを「全く要らない 扨て十風は今度出發前一度李堂に逢ひ度いと思ったが、どうも氣のです。お持ち下さい。」と三蔵は飽迄も勸める。「さう。では ふしゃうぶしゃう 分が進まぬので手紙を送って別意を敍することにした。李堂に對し : ・」と細君は不精無性に受取って「戴いときませうかねえ。」と した、 て手紙を認める時には、流石に人よりも天才を以て許され自分も亦倩けなさうに又襟垢を見る。「全く御親切だわねえ。」と最前から様 私に任じて居った當年の意氣が呼び戻さる & 。一婦人に對する癡情子を見てゐた梅代はをかしいのをこらへてばつを合はす。 から今自分は北海道に迄落ちて行かねばならぬのかと思ふと情無い ゃうな腹立たしいやうな心持もする。梅代は其に頓着なしに又話挂 ける。「それってばねえ五十嵐さん、此間池永さんに逢ってよ。そ 十風夫婦は愈北海道に行った。三藏は共日新聞や書物をつめた行 しよくわいぼ れ金龍さんが初會惚れをして大騷ぎをした、濱町邊の若旦那とかい李を車に乘せて、自分はラムプを提げて車のあとについて本鄕臺町 った二十四五許りの : : : 」五十嵐が默ってゐるので、「姉さんあなの下宿に移った。下宿屋は五室許りほか無い。三藏の部屋は二階の た知ってるでせうあの池永さんサ。」「ア、 / \ 。」「此間汽車に乘り 四疊半で、天井が低い上に三尺の中押入れが不恰好に突出てゐる。 合はしてね。向うも慥か氣がついたらしかったけれど、これが。」障子を開けると桐の葉がかぶさりかゝるやうに茂ってゐる。三藏は と小指を出して「居たので澄ましてるのサ。本當にをかしかった共暗い障子に向って机を蝌ゑて頬杖を突いて考へる。十風のうちに わ。だけれど金龍さんが騷いだのも無理は無いわ全く意氣ね。」「お居た時は四圓の食料を拂ったり拂はなかったりしてゐながら國から や / \ 梅ちゃんも岡惚れ ? 」「ア、。」「やり切れ無いねえ。」ハ、、 送って貰ふ八圓の金では足らぬので着物は大概曲げ込んでしまっ ハ、と二人寄るといつもの通り底のぬけたやうな笑ひやうをする。 た。此處の下宿料は四圓五十錢共上炭油茶等も皆別に支拂はねばな 十風は厭な顔をして手紙の封をする。 らぬとなると八圓では迚もやり切れさうに無い。それで別に收入の 「北海道の方はまだ寒いだらう。胴着が一枚欲しいがあれだけ出質途があるでも無し儉約するより外に仕方が無い。又いつまでも斯ん て行かうか。」と十風は細君の顏を見る。「外のものと一絡に這人っなにぐづ / 、して日を暮らしてゐるわけにも行かぬから早く一篇を おほやけ てるのだからあれだけ出質にしても利子が大變だわ。」と細君は十公にし度い。今度をいゝ機會にして一勉強せうと決心して、毎日 師 風の顔を見る。三藏は何だか足らぬ勝ちの放仕度を氣の毒に思うて五時間は必ず讀書若くは創作を試むることとして三四日は一圖に勉 ゐたので「胴着なら僕のをやらう。」といってガランとした行李の強した。尤も筆を執ると例によって澁る。ま、よと書物を開いて讀 中に轉がるやうに這入ってゐたのを出して來る。見ると絹ではあるむ。只讀む。手當り次第に讀む。四五日目に少し厭になる。俳句を が餘程古びたもので襟垢のしたゝかに附いてゐるのが目に立つ。 作る。面白い。近作百句を李堂に送って評を乞ふ。李堂は大にそれ 「さう。」と細君は一どぎまぎしてゐたが、「だけれど塀和さんも を激賞して來る。圖に乘って又作る。又讃められる。興の無い讀書 ひそか てつ さすが ひそか とて

6. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

或日は又急に車を連ねて何處か〈出挂けた事もある。輕燒の道具を併し其の以後細君の手料理は無駄になる日の方が多く、一時遠ざか 持ってゐる隣りの家などでは「五十嵐さんは株かなにかで旨い事し ってゐた茶屋這人りが又た頻繁になって來た。一時熱心の光りに充 やはったんやろ。」と噂してゐた。又「五十嵐の奥さんは此頃見違ちてゐた十風の眼には又た悲痛の色が見える。 へるやうに美しうならはった。」と評判してゐた。櫛卷に埃りがか 八十六 かるのも平氣でゐる程取亂してゐたのが俄に薄化粧までして生々し てゐる處を見ると、五つか六つは若くなったやうに見える。細君は 二ヶ月後には細君の口から又會社といふ言葉を聞くことが出來ぬ 「會瓧が / \ 。」と肴屋や豆腐屋にまで吹聽して、心のうちでは、矢ゃうになった。終日駈けづり廻ってゐた十風は朝から晩迄自宅にご 張り宅の人は働きがある、どうして今迄あの働きを見せてくれなかろ′して細癪ばかり起してゐるやうになった。主として創業費を たにがし ったのだろと嬉しく思って「本當に此豆腐屋さんの鼻は妙な恰好だ支出した某は非常に星野、五十嵐兩人の行爲を立腹して訴〈るとい よ。」などといって堪へ切れずに笑ふ。只細君が稍不平なのは何々 ふ評判もあったがどうやら沙汰止みになったやうだ。十風は星野を 會社假事務所といふ立派な札が星野の家の門口に挂ってゐること 怨んでゐた。全く印分は星野の爲めに賣られたのだといってゐた。 で、どうしてあの表札を宅の表に挂けないのだらう。宅の人の話に其は事實であった。けれども其賣られたといふ事がわかって後ち十 よると宅の人が一番主な事をして居るらしいのにどういふわけだら風が星野と共に殆ど茶屋に入りびたって居た事も亦事實であった。 はか うと平かで無い。其から或時此話を十風にすると「馬鹿なことをい 誠に短い間の果敢ない夢であった。共夢の醒めかけた頃十風は又 ふな。」と顏色が變って「そんな下らぬ事を氣にするより少し己を激しい喀血をやった。それからげそりと袞〈て床に就いた。 慰める工面でもしろよ。一日走り廻って歸って來るとぐっしやりと 明治二十八年五月三藏が漸く十風の住所を探がし當てて尋ねて來 くたびれ 草臥てしまふ。好きなものの一つ位拵 ( て置く氣がっかないのか。」たのは其十風の喀血後三月ばかり後ちの事である。三藏は第四回内 と腹立たしさうにいったがそれでも平生のやうに擱癪筋をいら / \ 國勸業博覽會の通信員を新聞瓧から囑托されて京都へ來て先づ何よ させるほどには怒ら無い。それからコン / \ と咳き乍ら「宅で出來 りも早く十風の起居を明かにし度いと望んでゐたのであったが初め 無い時は八新 ( でも言ってやったらいゝだらう。」といった。細君の間は住居さ〈判明しなかった。それを此日は漸く尋ね當てて來た いひつけ は其日は早速車夫の庫さんを使ひにして三鉢許り命令てやって、翌のである。 日からは何か一つづつお手料理を拵へて十風の歸るのを待っことに 十風は三藏を見るや否や急に顏をそむけた。それから聲を出して した。 泣き出した。頬の肉はゑぐり取ったやうに落ちて頭と眼が目立って 師 或時十風は夜遲く酒氣芬々として歸って來て「星野の奴はひどい大きく見える。漸く泣くのを止めて「よく來てくれた。僕はもう駄 諧 奴だ。人間で無い。」などと口を極めて罵りながら細君にも八つ當目だよ。」といって冷やかに笑った。「そんな事があるものか。」と りをした。以前には有り勝の事であるが此頃では珍らしい現象なの 俳 三藏はいったがっゞいていふべき言葉を知らなかった。病人の着て きすが で細君は心配して其理由を聞いた。が十風はいはなかった。岦日はゐる蒲團だけ流石に小ざっぱりとしてゐたが其他のものは目も當て いつもより早起きをして出挂けて行って其の夜又た遲く歸って來られぬ有様であった。以前東京で三藏の同居して居った時も貧乏な た。酒氣は相變らずあったがもう昨夜のやうには怒らなかった。 暮しではあったがそれでも何處やらにまだ明るい處かあった。今は ムんぶん

7. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

→明治一一十八年 = 一高在學中 0 虚子 ←明治四十二 年三月子 規句集編集 の際右か ら虚子 碧梧桐 岩野大 木村正 躑泊初 躅月期 子か 」版明治四十一年一月春陽堂「、 ( 、 分「鷄頭」 ( 所藏楠本憲吉 ) 明台十一年一月陽

8. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

〈がすぐ共瞬間に起 00 て、細君は妙な眼 0 きをして十風 0 顔を見てある通り、酒に限 0 一」前錢で無」と」けぬ 0 とにな 0 てゐる 0 る。此眼を見る時は」 0 もくすぐ 0 た」やうな氣持ちがし一」十風はは、詰り此處は七錢「お茶漬が食・〈られる、其お茶漬と」ふ 0 が今 覺えず ( , ( , ( と高笑ひをする。 = れがもう細君 0 妙な眼 0 きが持 0 一」來るとすぐわかりますが一寸した煮〆と煮豆と」り豆腐と漬 功を奏した證左になる。三藏は此間 0 錦絲とか」ふ女郞 0 名ま「思物と飯と「、共上に椀盛だとかうま煮たとか」ふも 0 が一一一四品だけ ひ出して私に十風 0 談話 0 進行を待 0 て居るが、十風はもう鼾を掻別に出來る = とにな「 = ゐる、其「飯を食「一」歸るだけ 0 料理屋な いて寐て居る。三藏は非常な不滿足を感じっも亦た醉ひに敵しか ので、酒は餘分の註文になる。共餘分の註文をするのには前金で無 ねて眠る。細君は皿も茶椀も汚れたま、で臺所に置」て一摘み 0 漬けりゃならぬ、あ 0 今出した金で酒を買 0 て來てさうして飮ませて 菜を指「摘まん「〕〈入れ德利 0 底に殘 0 た冷た」酒を一息に飮呉れると」ふわけになる 0 「やすな。又此處」限「 = あ 0 酒は德利 む。十風は明方に苦しさうに核く。 に入れずにきっと土瓶に人れて來る、それも表向は何處までも酒と 五十五 せず茶として取扱ふらしいです。面白いでやせう。」と北湖先生は 頻りに興に乘ってゐられる。三藏は「さうですねえ。」とひもじい 北湖先生と三藏とは或日何處か〈散歩の歸り日本橋通り二丁目の のを堪〈て返答してゐる。共内膳が來る。成程土瓶が來る。蒟蒻や 橫町に這人 0 て、宇治 0 里御茶漬とある格子戸造り 0 うちに這入燒豆腐 0 煮〆を食 0 = 土瓶 0 酒を飮む。俄に勇氣が出來る。椀盛が る。「あ 0 うしんじよわん盛を一 0 、それからゆばうまにを一 0 來る。一」れがちしんじよなるも 0 あらう。「何も淡泊で」、で = あ 0 う。」と北湖先生は急がしげに財布を懷から出して共中かやすな。」と」 0 て北湖先生は共しんじょに大きな齒形を殘して盛 ら長」指「二十錢銀貨を一 0 摘み出されたが三蔵 0 方を見一」「山信に召し上る。「此 0 淡泊な物を食ふところが日本人 0 特色で、脂 0 君あなた酒はどうやらでやすな。少しは」けますか。」と調子 0 高」も 0 を好む西洋人はどうしても夷狄でやすな。どうでやす。あな い聲で早口にいはれる。三藏は今朝から北湖先生の「ンパスの長い た中々酒がいけますな。あまり澤山はす又めぬ方がえ又が、此の殘 脚で大股に歩かるのについて歩いておまけにもう一時を過ぎてゐ ってゐるだけはお上りなさい。」と土瓶を一二蔵の膳の上〈ばたんと るし、願はくは牛肉か何か 0 ちゃあ , \ 煮え立 0 強」匂ひをかぎ度置かれたかと思ふと「姉さん御飯を。」と」はれる。御櫃が早速來 」 0 であるが「私は此宇治 0 里が昔から好きでやしてな。どうでる。北湖先生は杓子を突込んで一すくひすく 0 て召し上る。「これ やす一 0 お 0 き合ひなす 0 ては。」と」はれる 0 で、どんなお茶漬は少し強」よ。」と顔をしかめられたが瞬く間に共一杯は食・〈てし か知らぬが仕方なしに辛抱することと欟念して這人ったのである。 まはれて、二杯目をよそはれる時、杓子でべたノ、と飯を叩いては 師 扨お誂ら〈はと聞」居るとしんじよとやら 0 椀盛にゆば 0 甘煮こね返し、 = ね返しては叩かれる。「斯うすると少しは柔くなりま とやらでやれ / \ と思「て失望を重ねて居る矢先き酒とあ 0 たのですてや。」とい 0 て又二杯目を瞬く間に召し上る。 俄に勇氣を恢復したやうに覺える。「少々は飮みます。」と景氣よく 五十六 答〈る。「それでは姉さん御面倒ちゃが、これでお酒を。」と二十錢 新銀貨をポンと疊の上に投げられる。十二三の小女が命を聞いて銀貨 一鉢の牡丹が床に置いてある。一輪の深い濃い殷紅色の大きな花 を握 0 = 立 0 。「 0 れが山君面白」でやせう。あそこにも張出しは既に半ば崩れて = 一四片鉢 0 上に飜れ、鉢に餘「た 0 が一 = 一一片更に

9. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

をとこへし 子さんはお常に代って一フムプ掃除をして居ったところへ、三藏はっ野の賴風が塚に生ひけん草を男郞花とよび、女の塚なるをこそ女郞 4 か / 、と來て手紙とハンケチとを渡した。鶴子さんは怪んで手紙を花とは呼べ。我が文ぞ僞りなる。あな物狂ほし。此の筆を燒き此の 手にしたが宛名と裏書とを見てカッと赤面した。さうして「厭よ塀塚を發き一葉の舟を江河に流せば、舟は斷崖の下を流れて舟中に二 和さん。厭やよ厭やよ。」と早口に言って二つ共其處に擲り出して人の影ある・ヘし。御かへり言こそ待たるれ。かしこ。』 しまった。三藏は格別氣にも止めず此處迄懷にして來たのであった 四十 が今此場合になって初めて若い男から若い女に送る手紙の特別の意 其夕方であった、細君は鶴子さんに斯んなことをいった。「篠田 味を了解したやうな心持がした。さうして水月の此大膽な行爲が羨 ましいやうにも思はれた。鶴子さんはホヤを拭く。ホヤは指の及ぶさんから何かいってらっしやりはしなかったかい。」此問ひは非常 うろ だけ曇り無く拭はれる。しかも鶴子さんの心はホヤには無くて只狼に鶴子さんを驚かした。鶴子さんは此場合自分の潔白を表白する外 狽てゐる。 に方法は無いと考へた。自分の書齋に走って行って彼の手紙を細君 の前に突出した。 三藏は其足ですぐ主人公の書齋に行く。鶴子さんはおど / 、とし こなた 細君は手紙を受取って驚いた。細君の鶴子さんに聞いたのは斯る て前後左右を見廻はす。細君の足音が此方に聞えた時手紙とハンケ チとは急がしく袂の中に隱されて石油が油壺の中に注がれる。細君重大の間題では無かったので、篠田の宅から綿人れを一枚正一に拵 へてやって呉れぬか、御面倒だが鶴子さんのお手あきに仕立てて戴 の足音が次の間で止って其處でお常との話聲が聞えた時鶴子さんは 又其襖の方を振り返る。襖が開く。鶴子さんは左あらぬ振りをしてき度い、此事は正一にも言ってやって置いたから直接にお願ひに出 ねぢ 反古で油壺を拭く。短い心は今鶴子さんが捩る齒車で少し捩ぢ上げるであらう。といふやうな意味の手紙が來た。其についての話であ ったのが、意外にも薄桃色の雁皮に、歎かしい文句で意味は充分に られて底を離れる。這人って來たのは細君かと思うたらお常であっ た。「お孃様もう私の手があきましてすから致します。どうも有難解らぬが、『御かへり言こそ待たるれ』とあり『かしこ』とあり『様 うございました。」といふ。「い乂よ、もうすぐ濟むから。」と鶴子御許』とある、讀めぬ處は如何に艶めかしい文章であらうかと推し さんは鋏で心を剪る。 量らるゝゃうな手紙が突出されたので細君は仰天した。それから 三藏は間も無く歸った。鶴子さんは一フムプ掃除を終へて自分の部「お前は何と返事をしたかい。」と聞いた。「返事なんかは出しはし ませぬ。」と鶴子さんは答へた。「それはよく出しませんでした。此 屋に這入った。初めて心が落着いたやうに覺えて大きな息をする。 きうして袂からまづハンケチを出して見る。覺束なき紅葉の色が糊の手紙は私が預って置くから。」と言って細君は疑ひ深いやうな眼 の多い白い地の上に五つ六つ染め附けられてゐて只あざやかに赤いをして鶴子さんを見た。鶴子さんは眉を顰めた。 水月の手紙は主人公に致されて細君と二人の前で浮世の審判を受 のは共中の一つばかりである。これに何の意味があるのか解釋のし ゃうも無い。ハンケチを再び袂の中に收めた手は今度は手紙を取りけて「怪しからぬ」といふ事に判決を下された。尤も主人公にも手 出す。墨色の濃い正しい文字は自分の名を表に見せて下に『様御紙の意味は充分に了解されなかったのであるが、矢張り鶴子さんに なま 許』とあるのが何となく艶めかしい。心は騷ぎながら封を剪る。取も細君にも重きを置かれた『御かへり言こそ待たるれ。かしこ。』 『様御許』といふ文字と薄桃色の雁皮といふことが重要な意味に解 り出された手紙は短い。薄桃色の雁皮に次の如く認めてある。『小 にうご がんび ひそ をみな

10. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

て見せる。十風は大きな舌打ちを二度許りしてまだ默って居る。 ぎるぢゃないか。ハ、、、、」と十風は笑ふ。三藏は此十風の言葉 が癪に障る。立替へて貰ったから返金する、其が初心であらうがあ 「厭な人舌打ちなんかして。そんなに私が厭ならどうかするといゝ ながはる わ。あの誰やら ? さう / 、 るまいがいらぬお世話だ。殊に「行くんなら錦絲を買ひ給へ。」と 長春とかいふ女義太夫と取っ替へると い又わ。くやしいツ。」と細君は何所までもかさにか乂って出る。 は十風も言った。「塀和さんには錦絲さんがきっとい、わ。」とは三 共癖眼には充分の優しい光りを見ぜる。細君が廓に居た時の事を回四度ならず細君のロを洩れた言葉である。其が原因になって一夜非 想する素振りが見えると十風の心にはすぐ不安の念が起る。それに常の決心をして出挂けたのである。それ以後五六度行ったとて先輩 は自分の競爭者であった古宮に對する嫉妬心も手傅ふ。又今の境遇顏をして「あまり熱心になっちゃいけない。」などと澄した事をい ちまなこ の貧しさから起こる僻みも交る。細君はこれに對する呼吸をよく心ふのは失敬千萬た。女郎上りのものを血眼になって競爭した分際で 得て居る。「ねえ。長春から手紙でもよこしたの ? 商館の方へで ゐて、他を「險難だからなあ。」がちゃんちゃらをかしいやと三藏 も逢ひに來たの ? こりやをかしい。默って居るのはをかしい。おは殊の外腹が立つ。默って返辭をせずに歩く。暫く歩くにつれて先 や笑ったのは尚をかしい。さうに違ひ無い。くやしいツ。」といっ 刻迄自分の頭を支配してゐた小光の事が又思ひ出される。竹本小光 てくすぐる。十風の不安の念はいつの間にか頭の中を過ぎ去ってし といふのは今日の眞打であった。十風がよく賞めてゐた長春といふ もたれ まって遂に又こらへ切れずにハ のは切前を語った。共長春が高座に上った時十風と細君との無言の 、、、と笑ふ。もうからりと睛れた 司の暗鬪が餘程をかしかった。中入になってから、「どこがい又 いつもの笑ひやうである。程なく手拭と石鹸とを提げて湯に出挂け尸 の。」と細君は諭淡にいった。「、 ノ、、、、」と十風は先づ笑って る。あとで細君は長火鉢の前に膝を崩して坐って眉根に皺を寄せ る。いつまで貧乏をして居るのだらうと思ふ。たって今更どうする「第一あの眼附きがい長さ。」といった。「さう。」と細君は餘所 / «- ことも出來ないわと思ふ。どうかなるやうになるのさといつもの考しく返辭をして「塀和さんあなたどう。私あんな眼附き大嫌ひた すけペえ へに到着する。蚤がむづ / \ と這ふ。細君は指尖きに唾をつけて其わ。助倍ったらしい。」と厭さうな顏をして言った。客の多くは長 痒ゆい處を探ぐる。 春を聽きに來たものと見えてぞろノ、と歸った。十風も歸らうとい ふのを細君は承知しない。「私は長春なんか聽きに來たのでは無い 五十八 わ、私は小光を聽きに來たのだわ。」といって動かない。愈切りに 共夜十一時過ぎ若竹が終ねてぞろ / \ と人の出る中に十風夫婦と なって小光が出た。三蔵は初めは何とも思ってゐなかったが、聽く 三藏とが居る。「塀和さん行き度くは無いの ? 」と三丁目の角を曲に從って節回しが旨いと思ふ。又聲が本當に修練した聲たと思ふ。 る時に細君は笑ひ乍らいふ。いづくら橫町を通る頃はまだ多勢の人頗る感服する。長春などの比では無い。それに拘らず客の半分程は 師 こうしゃう ひそか であったが、砲兵工厰の長い塀に添うて富坂を上る頃には淋しくなもう歸ってしまった。大に同情の念に堪へん。私に義憤を起こす。 諧 る。「山信君あまり熱心になっちゃいけないよ。君のやうに眞面目己が此處にゐる確り遣れと獨りでカ瘤を人れる。年齡はもう二十四 けんのん なのは一番險難だからなあ。第一君、女郞が立替へたりなんかする五でもあらう。それとも七八かも知れぬ。まだ十七八の長春なんか うばざくら にがみばし 事は極めて普通の事なんだ。それも澤山なら兎も角、十二錢許り立に比べると稍姥櫻の感はあるがそれでも少し苦走った顏立がまだ若 わざ / 、 しよしん 替〈て貰ったってそれを感謝して態々返しに行くなんて餘り初心過若しく美くしい。三藏は聽き惚れ乍ら又見惚れる。下足を受取り乍 ひが ひと しんうち こみつ なかいり