0 8 お三千と一念は此時飯を含んだ頬をつぼめるやうにして互に顔を この村にも數臺の車があった。其うちの二臺が二人を坂本迄運ん 見合はせた。二人を驅落者と見て暗に意見するらしい口吻を片腹痛 く思はぬでもなかったが、それでも此女の生れついた優しい聲が何だ。 自動車は坂本からの電話で又飛ぶやうに逢坂山を越えて先の茶屋 といふことなしに二人の心を牽きつけた。 お三千は女の病氣を聞いた。女はもう永年腰拔けになって男の厄迄來た。 「こないな事も珍らしうおしたなあ。」 介になってゐる果敢ない身の上だと言った。もと都近く住まってゐ お三千は茶屋で一念に別れる時に斯う言った。單調な戀に倦み疲 た女かと思ったが、さうでもなかった。女は初めからの山賤であっ た。よく話して見ると別に變ったところのある女でもなかった。唯れたやうな心持が此頃はいつもお三千の心の底にあった。 ( 完 ) 同じゃうな心持が一念にも萌しかけてゐた。 生れ乍ら人の心を和らげる優しい聲の持主であった。 お三千は財布から取り出した札を紙にくるんで圍爐裏の縁に置い 阪東君、僕はもうこれで筆を擱かうと思ふ。三千歳の子供はもう た。女はそれを辭退したが、二人はそれを聞きすてゝ厚く禮を述べ 七つになってをる。京の四季に出て來る寺の下に今でも住んでゐる て出た。 表には初夏の明るい日が前の如く照り輝いてゐた。振り返 0 て見ことは前に言った通りである。彼女の生活が共後も今迄と大同小異 であることは大抵君にも想像のつくこと、思ふ。 る小屋の中は暗かった。 一念は此頃大分重用されて、時々は惠心廟などを一人で留守して 向うの高い峯の雜木を伐り開いた跡に立って何事をかしてゐる男 ゐることなどもある。彼の部屋を覗いて見ると東京から出る新らし がはっきり見えた。二人は其方を見上げて頭を下げた。 い思想を鼓吹した雜誌などがあることもある。共癖衣の袖をかき合 男が下りて來ようとするのを一念は手をあげて推しとめた。思ひ とま「たらしい男に二人は慇懃に頭を下げて例の谷川沿ひに麓に出はせて澄まし込んでゐるところを見ると大分坊主らしくなって來 た。外見許りでなく人に話す言葉を聞いても月並の坊主臭いところ ること長した。 が出來て來たやうである。 二人は暫く默ってゐた。 戀に倦んだ心は固より三千歳に多からうが、一念も此頃は同じゃ 「あないな時に心中するものどすやろか。」 うに見える。彼等二人は自ら熱することを求めて得られないことを やがてお三千の方からロを切った。 もどかしがってゐるやうにも見える。けれども一旦どうかした機會 「どうだか。」と一念は苦笑した。其時の自分を振り返って見ても があったらいっ又非常な力で爆發しないとも言〈ない。二人は休火 到底死ねさうには思へなかった。 山のやうな靜かさで叡山の上と東山の麓とに住ってゐる。 同じ心持がお三千にもあった。 彼等の後々日譚を書く時が又來るかも知れぬ。もう來ないかも知 前の壞れた炭竈のあたりは無造作に通り過ぎた。 大變登「たやうに思 0 たのであ 0 たが、下 0 て見るとそれ程でもれぬ。唯此處には鴨川の水が僕に囁いたところのものを倉卒に書き 綴った迄である。君が讀んでしま〈ばもう他に用は無い。早速送り ないことが判った。 一一人は共に物足りない心持を抱いていっかもう仰木村に降りてゐ返してくれたま〈。鳥部山〈でも持って行「て燒きすて、しまはう。
「さうか、それぢや明日からは己が代るから今晩だけ賴まう。」と 其内四人の子が順々に起き出たのでお金は暫くの間其世話にかゝ 4 らねばならなかった。春宵は又た四人の子持で此の營業は容易なこ 四言って文太郞も床に這人った。 とでは無いと思った。 春宵は獨り店に坐って夜の更けるのを待って居た。十時を過たが きやくま ひる まだ歸らぬ客が二人あった。此夜は靜かであって餘り客室で手も鳴 桂庵から下女を一人連れて來たのは午少し前であった。ぼっと出 いびき らなかった。八疊の室にはいかにも疲勞したらしい文太郞の高い鼾らしい下女で以前のお竹などとは大變な相違であったが斯んな女な が聞えた。其内子供の泣聲がして、「誰が / 、。」とそれをすかすお ら使ひやすからうと文太郞も春宵も思った。午飯から膳を運ぶにも 金の聲が聞えた。其泣聲のやがて物で蔽ひかぶされるらしいのは乳湯を運ぶにも早速此下女を使った。 いづ 房を含めるのであった。其の泣聲が漸く靜まったと思ふ頃又た別の 下の子二人は孰れもよく泣く子であった。上二人の兄妹は恐る恐 泣聲が起った。それは下から二番目の子の聲であった。今度は今迄る手を引いて表に出て住來を眺めてゐた。 いびき 鼾の聞えて居た文太郎の聲で、 しつこ やが 五十 「尿が出たいのか。よし / \ 。」と言って部て其子供を抱へて眠む さうな顏をして出て來た。それからまぶしさうな眼をして時計を見 文太郞が歸ってから松葉屋は暫く小康を得た形であった。新來の 上げて、 下女のお高は妙に言葉尻の上る田舍辯で時々無作法なことを言った 「もう十一時が近いちゃないか、眠むいだらう。」と氣の毒さうにり ぼんやりして氣の附かぬ事も多かったが、それでも全くの初心で 春宵に言った。部て小便をさせて再び床に這人ったと思ふともう又少しも磨れてゐない上にカ惜しみといふ事をしなかった。ちび程に た文太郞の高い鼾が始まった。春宵は四人の子を抱へて此の營業を切廻すことは出來無かったが又たちびよりは間に合ふ點も多かっ 遣らねばならぬ兄夫婦の勞苦を思ひ遣った。 た。それ故お金は四人の子供の世話に手を取られてしまってゐても さにど 左程差支へるといふやうなことは無かった。 上の二人の子供は 四十九 間も無く學校へ行くやうになった。下の二人は相變らずよく泣き立 翌朝春宵や照ちゃんの起き出た時分には文太郞はもう竈の下を焚てたが春宵も照ちゃんもだん / 、其泣聲になれた。春宵や照ちゃん きつけ、表の掃除もすませて居た。春宵の床を離れる時分にお金も許りで無く下宿人一同も俄に二人もの泣聲が一時に響き始めたので ふく もう目を覺して居たが下の子が泣くので乳房を銜めて居た。あとの 初めの間はぶつ / 、不平を言ってゐたがそれも間も無く問題にしな いやうになった。 三人の子は思ひノ \ の顏をして思ひ / \ の容子をしてまだ熟睡して けれどもお金は、元來日の長いゆったりした かちゅうまち 居た。 田舍の家中町で暮して來たのが、俄に都の中央で下宿營業といふや くひもの たとへ それから三十分もしてお金は漸く末の子を寢かしつけて臺所に出うなごたど、した食物商賣に携はったのであるから、假令文太郞其 て來た。汽車の疲勞がまだ癒えず體がふらノ \ するやうに覺えて苦他が萬事を引受けて遣っては呉れるもののどうも心から此營業に安 しいのを我慢して手傳った。 んずる事が出來なかった。弟嫁の照ちゃんも惡い人で無いことは判 ぜんだて 「まあ嫂さん今朝は休んでゐらっしゃい。」といひ乍ら春宵は膳立った。けれども全く育ちも違へば性質も違って、國の隣家の内儀な をした。 どに對する程にも打解けられ無いやうな心持がした。上の二人の子 ねえ いで かまど まんなか
ったんやらう。」 「死なう。」と一念も明るい目を瞠ってお三千を見下ろした。 8 さう言って男はお三千の風態を異様の眼を輝かして見た。再び疑 7 「さあ早う。」とお三千は迫った。 「よし。」と一念は力強くお三千の手を握って大きな呼吸をし乍ら惑の表情は其顔面の單純な大きな皺に現はれた。 二三足大地を踏みしめて歩いた。お三千は引きずられるやうに其方「そないな恰好をしてようこ、迄來やはったもんや。まあ共處に私 の小屋があるさかい、そこ迄來てお茶など歓んで休みなはらんか。」 に跟いて行った。 男は二人の風態から尚ほ共意味を讀まうとするやうにしげ / \ と 二人は壞れた炭竈の下を離れて谷河ひに二十間も登った時に又眺めてゐたが、やがて先に立って自分の小屋の方に進んで行った。 一念もお三千も此際此男の言葉に負くことが出來ないやうな心持 そこに別の炭竈を見出した。共炭竈は丸い屋根が少しも傷はれずに ゐて其傍には薪の山が積まれてあった。彼等二人が其處に行った時がして、小さくなって共あとに跟いて行った。固く手を握り合って。 小屋は大地に柱を埋めた掘立小屋であった。壁は表から小さく板 に、共薪の山の蔭から一人の男が現はれた。 「まだ人が居た。」と二人は同時に考へて覺えず立ちどまって其男を打つけた許りで土は少しも塗ってなかった。屋根も同じゃうな板 を凝視した。 が並べてあってそれが大きな葛で飛ばぬゃうに縛りつけてあった。 五十を過ぎた人の善ささうな顏をした男は、二人よりもより以上よく見ると釘は殆どってなく何處も彼處も葛で縛ってあった。固 に驚いた顏をして此方を見た。 より天井は無く、圍爐裏の上の屋根裏は煤で眞黒に染まってゐた。 二人は共儘足を返して麓迄驅け降り度いやうな心持がした。けれ 圍裏はかなり大きなもので、梁から下ってゐる自在鍵は矢張り ども此場合どうすることも出來なかった。知らぬ風をして此男の傍葛で出來てゐた。共自在鍵も、先にぶら下ってゐる土瓶も、土瓶の を通過して奧深く入るといふことは門番の傍を默って通るよりもも柄も、同じゃうな色に煤に染まって黒光りに光ってゐた。 っと難かしいことのやうに思はれた。谷は恰も此の男を門番として 二人は暫く共小屋のロに立って這人り兼ねてゐたが、男は無造作 ゐるかのやうに、此處から折れ曲って更に奧深く威儀を整へて展開に、 してゐた。 「おはひりやすな。」と言った。共時別に女の聲がして、 「仰木越に出るのは斯う行っていのですか。」と一念は此場を繕 「汚いとこどすけど、這人っとくれやすな。」と言った。 ふ爲めに出任せの事を言った。 よく見ると圍爐裏の向うに一人の女がものも敷かすに寢てゐた。 「仰木越どすか。」と男は半ば謎が解けたやうな、半ば驚き呆れた唯腰の處に薄い布團を掛けてゐた。 ゃうな顔をして、少し笑ひを含みながら答へた。 お三千は其女を見ておびえた。一度這入りかけたのが又立止まっ 「仰木越はあんた方角が違ひますがな。全體何處からお上りやし 唯此際お三千の心をそ又ったのは其自在鍵に下ってゐる土瓶であ 「仰木村から : : : 」 った。其中に沸かされてゐる茶の事を思ふと何を棄て乂も一椀の惠 「そらえらい方角違ひや。仰木越なら仰木村から大きな路を眞直ぐに預り度かった。 に登って行かはった方がよかったになあ、途中から右手へ外れやは 「お茶なとどうどす。」 むづ かづら
「醉った / 、。」と同じゃうなことをいってゐたが、もう酒氣を吐 「一念はんて誰え。」と來吉が聞く。仲居のおとよが、 いて眠って居る。余も足を踏み延べて手を胸の上に置いて靜かに呼 「それ、あの繩手のお藤はんな。あの人の甥に、あの横河たらいふ 吸して見ると、初めて自分の醉うて居る事がわかる。おとよもお艷 とこのお寺に行てやはるお小僧はんがおすやろ。」 「はあ / 、。あの小僧はんが一念はんとおいるのか。」と來吉は又も去ったあとは寂寞として我等二人の外に人影が無い。いつの間に かうと / \ とする。 煙草を一服吸ひつける。 ふと氣がつくと何かひそ / \ と話す聲がする。目をあけて見ると こちらでは、 「一念はん昨日來とゐたて本當か。」と三千歳は小聲で喜千輻に聞入口の金の衝立を背にして三人の舞子が何事をかして居る。何をし て居るのかと見ると何か舞の手を温って居るらしい。一番背の低い いて居る。 にんま のはきし勇であらう。他の二人は三千歳に松勇らしい。行燈の火影 「はあ本當え。あんた昨日はお出でやヘなんたのか。」 に遠いので顔も着物の色もはっきりわからぬが、只寢衣に着替〈て 「はあ。昨日は宇治へ行てたの。」と二人でひそ / 、話す。 來た爲であらう、頭たけもとの通り大きくって肩から下はげそりと ざこね 阪東君は倒れてしまっていくら起しても起きぬ。雜魚寢をして歸瘠せて居るのがわかる。何か三人でかすかに笑って殘りの蒲團の上 ることにする。一一階の大廣間に床を取ったとおとよが言ふ。阪東君に三人ともどたりと坐る。三人とも寢衣の上に黑繻子の襟のか乂っ はおとよに任して余は一一階に上る。二十餘疊の大廣間に這入ると只た友禪の長い半纒を着て居る。蒲團の上で向き合って坐って昨日の 一つの行燈が點ってゐるばかりで暗い。よく見ると二人寢の大きな宇治のお話をするらしい。三千歳と松勇とは宇治に行ってきし勇は 蒲團が三所敷き流してある。二枚重ねた絹の敷蒲團の上に純白の敷行かなかったものと見える。二人で何か話し合って笑ふのを、きし 布が延べられて、夜着は紅絹の赤い裏と紫の袖とを見せて二つに折勇は羨ましさうにふん / 、と聞いて居る。 ゐど ってある。近よって見ると行燈の赤く塗られたのも艶に見える。暫「あてな、昨日あの段々を降りる時にこけてな、けふはお尻がいた く經っと此處に這入った時よりは明るくなったが、それでも凡てのうて 7 く、かなんのえ。」と三千歳がいふ。 なげし ものは皆朦朧として、二間の床に掛けてある大幅も、長押にある額「さうか。強うお打ちたんか。」と松勇が聞く。 にんま も、遠くに見ゆる衝立も凡て朧ろ , , として、さなきだに廣い座敷「はあ、本當にいとおしたえ。多勢の前で泣くことも出來〈んし。」 「そやったろな。」ときし勇は其話も羨ましさうに聞いて居る。 が愈よ廣く、高い天井が愈よ高く見える。余はお艷が着せて呉れる にかげ ねまき 「あて、何處い寢まひょ。」ときし勇は一寸思案する。 寢衣に着更へる。お艶は行燈の火影で余の着物を疊む。 まんさん 「あぶのおっせ。」といふおとよの聲が聞える。阪東君が醉歩蹣跚「あんたら二人あちら〈寢とくれやす。あたし寢が〈りにも痛うて 懺として這入って來る。おとよの着せて呉れる寢衣に着替〈て共儘も痛うてかなはんさかい此處〈一人で寢るわ。」と三千歳は顏をしか 風う寢床の上に横になる。おとよは阪東君の着物をたゝむ。行燈の朧めて居る。 續 の火影で見るお艷もおとよも皆同じゃうな丸髷姿で、同じゃうな帶「あていやゝわ。あんたあっちいお行きやはい。」 「あてかなはんわ。」と三人で讓り合ひをして居る。 を締めて、どちらとも見分けがっかぬ程である。 9 「それよか三人一緒に此處〈寢まほか。」ときし勇はよい智慧をし 阪東君は、
田寅彦博士の言と一々紹介しない。ホトトギス寫生文家籔柑子こと「六百五十句」とホトトギスの記念發行號に應じて刊行した自選句 4 寅彦とも云はない。 集はあったが、「七百五十句」は全く新たに、昭和一一十六年以後、 ( 随筆家・虚子女婿 ) グレシャムの法則は諺でよろしい。 死去前日迄の句を、父の句日記より、私と星野立子の兩名で適宜選 拔したものである。二人の共選といふわけであるが、二人の共通し たもの六二八句、私が特に選び出したもの六二句、立子の特に選び 隨感 出したもの七一句、特別に句日記中にはなく、記録として殘してお 高濱年尾き度い句を二句加へた、總數七百六十三句を以てしたものである。 父の寫生文については色々書き記し度いことがあるが、今回の収 日本現代文學全集の一卷として、虚子・碧梧桐集が収められるこ録されたものは主として小説類が多いやうである。併し小説といっ とは、喜ばしい事である。俳句上の主義主張は異りても、碧梧桐、ても、「俳諧師」や「風流懺法」は形は小説であっても、敍述はあ 虚子二人の仲は、幼時から一絡に松山城下で育ち、學校の課程も同くまでも寫實の形をとって居る。曾って父は私逹の山會 ( 寫生文を じくしながら、終に學業を捨てて、鄕土の先輩正岡子規の門に入っ各自持ちょって發表批評する會 ) で、寫生文の小説を書いて見たら て、二人は相携へて明治時代の俳句界に立場を確立したのであった。と云ひ出した事があった。併し事實に基づく寫生文に、虚構の事を 計らずも虚子が小説に走った間に、碧梧桐は俳句の新風を稱へ、書くことが出來ないとすれば、どうしても小説の形をとることはむ 新傾向句をうち立てようとし、それを憂へた虚子が、俳句の大道をつかしいといふ、皆の結論・ 踏みあやまるものであるとして、小説の筆を斷ち、再び俳句の道にになった。許される範圍の曾 立ち戻って、曾っての親しい仲の二人の間に、文學上の大きな論爭事柄での小詭では、盛り上 りを期待することは無理で を引き起す結果になったのであった。 併し二人の仲は、家庭的には深く親しみあひ、私逹姉弟妹の間にある。そんな話が席を賑は は、河東の小父さんとしてなっかしいものがあったのである。殊にはしたものであった。 併し又一方に、私逹の寫 能樂を樂しむ碧梧桐と虚子の間には、シテ、ワキをお互に勤めて、 の いつも鎌倉の能舞臺では、一つの舞臺に一絡に立った程であった。生文といふものが、今日の 私は一一人の俳句を主とした全集が、この度の企晝に役立って、一一般の小説の樣式に、大い 西 在 卷に収められることを、大いに意義あるものとして喜んでゐる。 山 なる貢獻をしてゐると」ふマ物朝、、 父の句の収められた分は、ホトトギス五百號記念で刊行した「五點を、敍述の正しい面で十 年次 百句」及び、今回新たに編輯選拔をした「七百五十句」を以て當て分認識したところであっ 2 て物 五友 、、予 ( 」 . 和内 た。「五百句」はホトトギス五百號に到る間の父の自選句で、いはばた。この事は父も諾いて居を 昭池 父の作句の粹を集めたものである。その後「五百五十句」「六百句」ったのである。
「僕なんか山猿なんだもの、山の登り下りは平ったい道を歩くより っては親指を超して溢れてゐた。 お三千は暫く其水を眺めてゐたが、遂にそれに口をつけすに止め樂だ。」 一念は快活に笑ったが、其笑はすぐ消えてしまった。 「三千歳さん子供の事を思はない ? 」 お三千の子供はもう數へ歳二つになってゐた。 此日お三千は朝早く坂本迄來た。お三千を下ろした自動車は過分 「い長え。」 の祝儀を握った運轉手に操られて飛ぶやうに京都に歸った。其自動 お三千の返事には力が無かった。 車が逢坂山を越える頃に一念は横河を下りた。 二人は一一臺の車を庸うて仰木村迄行った。車を乘り捨てた二人は 「子供のお父さんの事は ? 」 山道にかゝった。 「そんなこと言はんといとおくれやす。あて知りまへんわ。」 お三千はあわてるやうに一念の言葉におっかぶぜて言った。 「人に逢はぬ處に行かう。」と一念は言った。 「それでも三千歳さんの可愛い子供のお父さんではないの。」 「行きまほ。」とお三千は答へた。 「もうそないなこと止めておくれやす。そないなこと言ひたさに此 何處へ行っても人に出逢った。よく斯んな處に人が居るものだと 驚かれた。 の山の上までおいやしたんか。あて何も喧嘩しに來たんやおへん 「もう此の人が最後だらう。もう此奧に人はゐないたらう。」と考え。」 あたり へて尚ほ登って行くと、そこに又人家があった。 お三千の顔は袂の中に埋められた。泣き聲は四邊を憚らず外に洩 「此邊の人は何をしてゐるのだらう。獵師だらうか。百姓だらうれた。袂の外に現はれてゐる耳は眞赤に染まった。 か。」と一念は其一軒家を不思議さうに見た。 「また怒ったの ? 」と一念は當惑したやうに言った。「さあ怒らず に機嫌をおなほしなさい。もう子供の事も、子供のお父さんの事も 何度も / 、同じことが繰り返された。もう愈人氣が絶えたと思 : 本當た。此處迄遙々誰が喧嘩をしに來るも ふと、猿とも判かぬゃうな一人の山男が峯傅ひに現はれた。 言はぬことにせう。 「もう此處迄來たら人は居ないだらう。」 のか。誰も居ない明るい天日の下で僕は思ふ存分三千歳さんを可愛 一念は壞れた炭竈を中心にして其邊を見廻して見た。誠にもう人がってやり度いと思って來たのたもの。」 一念はお三千を引寄せて其首を抱へるやうにして接吻した。お三 氣は無ささうに思はれた。炭竈のほとりに老けた蕨も、叢に林立し てゐる虎杖も全く人界を離れた淸淨無垢の草木のやうに思へた。 千が立上ったので一念も立上った。お三千が歩き出したので一念も 「三千歳さん、よく此處迄歩けたねえ。僕は三千歳さんの足のこと歩き出した、一念の左の手はお三千の首にからまった儘で。 法も氣にならないではなかったが、兎も角人のゐない處まで行かうと お三千は頭を一念の肩にもたすやうにした。二人の唇は再び接し 流思って、唯一息に此處迄來てしまった。」 た。歩く度に齒と齒との幽かに觸れて鳴る音が二人には琥珀の響の ゃうに聞えた。 一念は優しく言ってお三千の顏をのそき込むやうにした。 「死にまほ。」とお三千は立ちどまって輝いた顏を上げて一念を見 「あて、ちっとも草臥れしまへん。一念はんこそお草臥れやした 7 7 た。 ろ。横河を下りてそれから . 又こないに山登りをして。」 ( 0
39 / 寓居日記 かりしに小土佐の野崎村ハき、しより始めてまづかりし。 ( のろけにあらず ) 羽織の腋下の綻目を縫はし居るうち森々と二人 新柳亭を出で長淺草橋を渡りしが行きたいなどいいはじめしより、 か〈り支度にて人り來り安くないネーといふ。夫よグ予 ( 顔を洗ひ 遂に車にて大門に入りぬ。直樣藤本に入りぬ。靑木ハ大門をくゞり しばらく茶を飲み雜談しつ虚子は梅野と筆を奪ふて一場の角觝を企 て樓に上るははじめてなり。いろ 2 評議の末其相方 ( 花町といふ てぬ。障子一枚はづれて樓上騷然たり。 に極めぬ。其座敷にて六人會談十一時頃より一時頃に及びぬ。ある花町といふ傾城夜見ても左程わるくもよくも見えざりしが、不相換 時 ( 新造三人とも九人にて暇なる事なりし、虚子殊に酒をのみて快まづ」方なり。虚子にたのみてしきりに 0 れて來てくれといひ居れ 談放語笑聲ほとんど樓を壓す。蓋し此夜ほどに相撲をとり笑ひさゞ り。三人ぞろりと同樓を出づれ・ハ めきたる事なかりし、たのしみを煮かけしに箸にてよき物を吾一と 京町のうらに鶯の初音哉 ( 六人皆箸をもち居りしが、花町と靑木とのみ ( はじめて故手を出平野にて牛肉朝飯をくらい靑木を吾妻橋よりか〈し二人中の鄕あた さず、唯あとの四人尤も甚し ) つまみ出し一度つかみたるものを奪 りを散歩す。春の日うらゝかに風心地よし。 ふなど、遂にハ梅野笑ひをこらへて、鍋を座敷のそとへとるなど、 二三本菜の花さきぬ葱畑虚子 亂暴到らざる所なし。然れども虚子が一度司と酒をぼうたらのみに實景にして て立ち廻りなど ( 一度もなかりし。花町曰く始めて、皆のかように 二三人彼岸參り の女哉 あれたるを見たりと、新造の日くおいらんのよく食ふの ( 客の敎〈 これもうそにあらず、業平橋の處にて馬の屍をつみたる車水の中に たるなりと、吾等 ( 已に樓上樓下能く食ふを以て鳴り渡りたるが如ひっくりか〈りて、泥の上に人もぬれ、馬も落ちけり。・哀なりけ し。大勢の一座ハはじめてなれバ面白くてたまらずいっ迄も其ま 。十一時頃歸寓淺草上野の人通りけふハ春季皇靈祭なれ・ハいと賑 にてありたかりし。虚子は殊に司と二人になるかやと思〈バ淋しか ハし。書後山本の處にて又々いりかはり雜談遠山、新海、之なり、 りしとい〈り。蓋し今晩 ( 皆いつになく饒舌にて予と司、虚子と先なるもの ( 新橋ののろけ、後なるもの ( 吉原ののろけ一 ( 新にし 梅野當にい、合吾司をわるくい〈バ虚子梅野をひやかし司吾をなぶ て他 ( 古きものを各かづで行きぬ、夜若竹に行き歸途藪蕎麥にて酒 れ・ ( 梅野べんごし梅野虚子を笑 0 ( 司抗するなど舌戦たゆる事なかを飮む。一醉一語快甚し。 りし。 廿二日睛 皆々別れて床に入りしは一時半にもなり居りしならん。其後 ( かく 朝のうち發句など作る。夕飯後森々、蕉月一一人到り雜談。 もうるさし。たゞ吾が梅のにたゞして得たる一二を記さん、彼女 ( 廿三日睛 明治三十一年にて年があき今迄已に三年居りたるなりと、埼玉縣浦晝後一一人圖書館に赴く四時過か〈る。 和在のものにて姓を山縣といふ、樓主 ( 常に妾宅にありて妻君一人夜内藤翁を訪ふ發句、美の話などにて九時を過ぐ。 やかまし、揚屋町に、新藤本といふ樓 ( 其妾のたつるなりとそ : 廿四日 吾ハ春季百題を作り終る。 三月廿一日睛 晝後虚子ハ圖書館へ吾ハ常盤舍に赴く。 朝七時過起きて梅野の座敷に行き ( 吾と虚子 ( 廻しなりし ) 予 ( 夕飯後蕉月、森を一人來る散歩に出で蕉月は茶話會なれ・ ( とてか〈 ( つまらん話なり )
ある、とあった。春宵は更に一歩を進め責めて一日でも其雨を恐る た文太郞の眼のいつもより一層落窪んでゐるのを氣の毒に思った。 る境遇に立って見たいとまで思った。 お金は春宵にも一別以來の時儀を詳しく陳べた。それから照ちゃ 四十七 んにも初對面の挨拶を念入りにした。周圍の騷々しい物音で其しと やかな低い稍田舍訛の言葉は半分も照ちゃんには聽取れなかった。 共日 0 夕方車ががら / \ と三臺門前に止 0 たと思 0 たらそれは文二處で同時に手が鳴 0 た。文太郞はもう大きな聲で「は」。」と返 太郎と嫂のお金と四人の子供とであった。文太郞はにこ / 、し乍辭をした。 ら下から二番目の子供を抱いて眞先に這入って來た。 四十八 「そらこれが坊のお家だよ。」と言って其子供を店に下ろした。子 供は大きな目をして共邊を見廻した。其あとから上の子供が二人田 文太郎は大概の出來事は時々遣した春宵の手紙で知って居たが、 舍者らし」服裝をして這人「て來た、最後に元來病身なお金が汽車固より最近 0 出來事であるちびの病氣の事は知る筈がなか 0 た。 に弱 0 て殊に血色の勝れぬ顏をして下の乳飲兒を抱」て這人 0 て來「其は定めて困 0 たらう。早速挂庵〈でも賴めばよか 0 たに。」と た。これも田舍風 0 丸髷に田舍好み 0 生 ~ し」色をした手絡を挂け文太郎は言「た。春宵は挂庵と」ふもののある事は固より知 0 て居 た。共處、賴めば下女が來て呉れるといふ事は氣附かぬでも無かっ 客が二人表に出ようとしたが此の一行に遮斷せられて突立「た儘たが、何たか見ず知らずの女が突然遣 0 て來てどんな事を振舞ふか ぼんやり眺めて居た。文太郎は氣がついて、 も知れぬと思ふと恐ろしいやうな心持がして賴まうとも思はなかっ 「やあ、これはどうも、さあどうぞお通り下さ」まし。さあお前等た。兎に角下女が無くては困るからと」ふので、文太郞は疲れた體 こちらに寄らないか。」とお金や子供を片方に寄せるやうにした。 を休めうともせず、共夜盛春館に行って皹禮も陳べ、女將と相談 子供は皆恐しさうな眼附をして二人の客人を眺めた。お金は慇懃に の上或る桂庵に賴みに行った。 ゑしやく 腰を曲めて家中の女儀らしい能 ~ 度で會釋をした。此二人の客人は文 其夜はお金と四人の子供は早くから寢かせた。お金は枕につきは 太郎歸鄕後に下宿した人であったので此一行を此家の主と知るよし したが矢張り汽車に乘って居る時と同じゃうな心持で、これが自分 もなく不審さうに眺めて表に出た。 の家とはどうしても思〈なかった。汚い襖や壁や、取亂らした棚の 春宵は膳を洗「て居た手を止めて飛で出た。前に報知も無か「た上やが皆見馴れぬも 0 許りで、其の上絶えず喧嘩でもして居るのか ので、豫期しなか「た援軍が突然現れたやうな心持がして覺えず涙と思はれるやうな表 0 人聲や其他雜多の物音が耳に 0 」て眠らうと ぐまれる程嬉しかった。 しても眠れなかった。さっき一寸見た臺所の光景や店の有様が目の 諧「大變遲くなって氣の毒をした。定めて待兼て居るだらうと思って 前に浮かみ出て、自分にあんな仕事が果して出來るであらうかと危 氣が氣で無か「た 0 だがね。」と文太郞は春宵 0 勞を犒ひ顔に斯うぶまれもした。照ちゃんも亦た文太郎に勸められて床に就」てお金 言った。其實後片附をする、親戚〈挨拶廻りをする、何や彼やで一日 と少し離れて寢て居たが其の照ちゃんの亂れた朿髮は又たお金の眼 も休息無しに文太郎は駈けづり廻り漸く出京する蓮になったのであに恐ろしく映った。 った。文太は春宵の顏の著しく衰〈てゐるのに驚いたが、春宵は又 「兄さん、今晩は早くお寢みなさい。」と春宵は勸めた。 にん やす
體力、健康ともに惠まれ、單に異色の俳人里の道灌山に誘い、自分の後繼者たらしめよ たるのみならす、ジアナリスト・書家・能樂うと説得、虚子はこれを辭退するという出來 家・旅行家・登山家としても一流の業績をの事が起っている。 こし六五歳の生涯を激しく燃燒させた碧梧然しながらその後、「明治一一十九年の俳句 桐、小説家たらんとする野望を捨て、一個の界」によると子規自ら クンストラーとして俳句固有の方法を完成操 はしがき 守の上、悠々八二歳の天壽を全うした虚子、こ 此新調は早く幾多の俳人の間に行はれつ の兩人は時・處を同じゅうして振り出されたつありとい〈ども、就中虚子、碧梧桐一一人の 碧梧桐とはよく親しみよく爭ひたり 一對の獨樂ではあったが、その描いた生涯の句に於て其特色の殊に著しきを見る。二人 たとふれば獨樂のはちける如くなり虚子軌跡はまことに相異ったものであったのだ。 は又實に此新調を作る原動者たりしなり。 尤も兩人生存中から、口さがない俳壇雀は 一句は、「日本及日本人」の " 碧梧桐追悼「虚子と碧梧桐とどちらが先〈死ぬだらうと と述べ、更に「明治三十一年の俳句界」で 號〃にのせられた虚子の句である。 云ふ事が討議されたが、結局急病で碧梧桐がは子規をして 明治六年一一月、伊豫松山市に生れた碧梧桐先〈逝くと云ふことに決せられた ( 早桶屋 ) ②」 と、翌七年一一月、同市に生れた虚子とは、伊などとささやいていたが、不幸にもこの豫言 碧梧桐の老練にして遒勁なる、虚子の高 豫尋常中學で同級となり、卒業の頃、相前後は的中、悲壯な俳壇引退聲明の後、煎餅屋を朗にして活動せる、共に天下敵なき者、若 して、鄕黨の先輩子規の俳門に投じ、爾來あ計畫して晩年の策とした碧梧桐は程なくあっし此矛を以て此楯を突く、吾人固より共勝 たかも一對の喧嘩獨樂のように、相親しみ、けなくも急逝してしまい、殘った虚子は碧歿敗する所を知らざるなり。 相彈きつつ、門下双璧の名をほしいままにし年の六月に創設の帝國藝術院會員に推され、 たのであった。 以後】 風滿帆、功成り名遂げ一族相榮えて、 デイヒター とまで稱揚せしめているのである。 門 山本健吉氏は、「詩人としての時代の使命俳壇の直木として寂滅するまで、まこと、生そして子規はこの二人の門下生に亡きあと 梧 観のうながしによって激しく動こうとした」命餘さず生き得たのであった。 クンストラー のすべてを托して、明治三五年九月一九日に 碧梧桐に對し、虚子は「藝術家として 0 自己ところで、先師子規は、生前この二人をど歿したのであるが、碧梧桐は子規が開拓した の分際を頑強に守ろうとした」ものとし、「近のように評價していたのであろうか。 俳句革新の方途を「横に横にと掘り擴げ」、 虚代の詩人的決意」を抱いた前者が捨て去った明治一一八年、子規は日淸戦爭從軍出發に際虚子はそれを「深く深く掘りさげる」ことに ところの「特殊文學としての俳句固有の方法して、二人に後事を托す告別文を與えている。よってそれぞれ獨自のかたちで繼承發展せし 論」を追及し完成したのが後者であって、虚そして、從軍中の日本俳壇は碧梧桐が擔當めたのであった。 2 4 子の勝因も碧梧桐の敗因も一にかか 0 てそのすることにな 0 たが、程なく子規は罹病歸以下、一一人の生涯と句業について略述し、 點にあると明快に洞察しておられる①。 還、療養生活を經てその年末に、虚子を日暮以て兩作家入門のための一助となしたい。 一咼濱虚子 河東碧梧桐入門 楠本憲吉
プ 56 てつんとしてゐる。十風は一寸目を開けて細君を見たが再び目をつ んっゞけ むってこれも默ってゐる。こんな有様で流連をした事は遂に二人の 話題に上らずに濟む。それでも時々は眞面目に夫婦で談合すること 八十四 もある。「あの靜ちゃんの家の赤ん坊ねえ、可愛い長でせう。」「う あれ 十風夫婦は此年の暮北海道を去って東京では誰にも逢はずに京都ん可愛い又兒だ。」「彼兒を誰でも欲しい人があったら遣るといふん へ來た。北海道の寒さが非常に十風の健康を損じたのと何かの事件ですって、貰って育てて見ようかしら。」といひかけて考へる。「さ うか。」と十風も眞面目に「子供が一人あったら賑かだねえ。貰っ で佐野と爭ったのが原因である。間も無く蓬亭が佐野に逢った時 てもいなあ。」とこれも一寸考へる。それから二人とも暫らく無 「十風の野郞無責任で困らしゃあがる。」といって佐野はひどく怒っ 言でゐて「まだ新聞社は給料を增してくれないのですか。」と細君 てゐたといふ事だ。 京都〈來てから間も無く十風は或會社の臨時雇となったが其も喧は櫛卷きのほっれた鬢を掻き上げる。「星野がいろ / 心配して呉 嘩して止めた。それから或通信社〈這入り直ぐ又た或新聞社の會計れてゐるがまあ駄目だらう。」と十風は咳き入る。こんなことを暫 あげく はげ くしんみりと話した揚句には十風の態度に激變を來たすのが常であ 方に轉じた。北海道で劇しく喀皿してから體はだん / \ 衰弱する。 京都〈來てからも發熱する事は屡であるが其でゐて亂暴に酒を飮る。ハ、、、と先づ大聲を上げて笑って「それでお前子供を育て む。金がある時は登樓などもする。「京都といふ處はしみったれなる柄だと思ってるのか。」といふかと思ふと「子供を育ててどうす 處だが、己等の様な貧乏人が遊ぶにはい、處だ。」などといって流る氣なのだ。それより舞子の小岸でも連れて來よう。小岸に墨でも 連などすることもある。細君は「又今日も歸って來ないんだよ。本磨らして : : : 」といひかけて自分が大文學者になって唐木細工の大 もた じゅうたん 當に人を馬鹿にしてゐる。」と考〈乍ら雨戸の障間の白んでゐるのきな机に凭れて絨毯の上に坐って小説を書いてゐる所をちらと默想 くうけい を見て又空閨に二度寐をする。初めの間は心から腹も立てるし殆どする。「墨位私が磨って上げるわ。」と細君は櫛卷きを手で握ってぐ あき 命がけに嫉妬も燒いたが此頃はもう根氣負をして、仕方無いわと絶らイ、と動かし乍ら顏をしかめてつんとする。大概斯ういふ事が落 念めてゐる。十時頃になって本當に眼が覺める。それからお茶を沸ちである。 かしてお茶漬を食べる。漬物を出すのも面倒なので梅干で食べる。 八十五 十風は其日は夜になるまで歸って來ない。どうしたといふんだらう あきら 共から十風は東京の俳友などとは全く交際を絶ってしまって一年 絵りだわとむか / \ するが、又、仕方無いわと絶念めて財市の底を 餘り新聞瓧の會計で辛抱して居たが遂に其をも止めた。同じ新聞の 探ぐると十錢銀貨が一つあるので急に輕燒を燒かうかと思ひ立つ。 お隣りに輕燒を燒く道具があるので借りに行く。それから砂糖を出三面記者をして居った星野といふ男も同時に止めて二人で或會社を さうと思って戸棚を開けると蟻がついてゐる。それを見てもう輕燒創立するといって頻りに奔走して居った。此から二月許りが十風の えびすざ も厭やになる。それから道具をお隣りへ返しに行って夷子座の話し全盛時代で俄に美しい服裝をして大きな名刺を拵へて月極めの車夫 が出たのでそれに油を賣って歸る。歸って見ると十風は醉ひ潰れてを置いて毎日の様に駈けづり廻って居った。細君は十風程景氣はよ 倒れてゐる。瘠せた額の筋がいら 2 と怒張してゐる。細君は默つくなかったが其でも二人で八新の料理を取寄せて食った事もある。