しつこ とゞめてゐて三藏は早速使ふ。「まアおひきなすっておひきなすつも酒を注ぐのでも、あゝ執拗く言っては駄目だよ。又『お敷きにな て。」と不器用な言葉で矢鱈に繰り返す。細君は五十嵐の耳に口をつてもいゝぢゃありませんか。』などとあゝ重々しくお終ひまでい 寄せて何事をか囁き、笑ひかけたロを急に ( ンケチで隱くして眞面ってしまっては駄目だよ。『お敷きなさいな。』といふ位に輕くいっ 目な顔に戻る。五十嵐はハッハッハと開けっ放しに笑ふ。それからてあとは知らん風をして居る處がい、のたよ。しつこいのだけは止 、、、、、」といって座蒲團以來むづ / \ し 三藏に「塀和君、今こいつが斯んな事をいったよ。」といふ。細君めんと嫌はれるよ。ハ てゐた溜飲を下げて五十嵐はから / 、と笑ふ。細君も終に大きな口 は「ア一フ、およしなさいよ。」と顔色をかへて五十嵐を睨む。 をばくりと開けて堪へ切れずに笑ふ。三蔵は靑くなる。五十嵐の言 葉は怪しからぬと思ふ。自分は何も女に好かれるとか嫌はれるとか てきがいしん いふ爲めにいったのでは無い。女中に對する敵愾心から細君の面目 五十嵐は構はずに「ねえ塀和君」といひかける。細君は「アラ、 いけませんッてば。およしなさいよツ。」とハンケチを五十嵐の眼を保たしめんが爲めにいった事だ。それに何そや駄目だとかいゝの だとか手れん手くだの研究でもして居るやうな事を五十嵐はいふ。 の前でチ一フノ \ と振り動かして揉み消さうとする。五十嵐は面白が って「こいつがねえ君、君をねえ : : : 」と又いひかける。細君は怪しからぬと一度は心頭から怒を發した。けれども亦頻りに盃を強 けんどん 「厭な人、知らないツ。」と慳貪にいって眞白な眼をして五十嵐を睨ひた事、「おひきなすって。」といふ言葉を繰り返した事などは何處 みつける。後ろを通る女中どもはさげすんたやうな眼つきをして細となく三藏の心にも弱味がある。何處やら自分の擧動に輕浮なあと はんか 君を見下して行く。三藏は「何か僕についての批評かい。それは聞があったと思ふ。あゝいふのを半可通といふのかと考〈ると俄に冷 えりもと き度いねえ、大に聞き度いねえ。」と膝を乘出す。頸元まで眞赤に水を浴びたやうな心持がしてすぐ今念頭から發した怒火が半分以上 あぐら うち消される。三藏の顏面の筋肉は引締まった儘で眼はあらぬ空中 なって、胡坐をかいた膝の上に兩肱を乘せてふら / 、と體を動かし を見詰めて居る。 乍ら微笑を含んで五十嵐と細君の顏を等分に見る。細君は默って息 をつめて五十嵐の顔を見てをると五十嵐は無造作に話し出す。細君 十九 は手を出して五十嵐のロに蓋をせうとしたがもう及ばなかった。 はんか 五十嵐は三藏の顔色を見て急に笑ふのを止めて「おい塀和君、君 「君が女郞買ひでも始めたら屹度半可通になるとこいつがいったぜ。 みもな ハ、、、」と五十嵐は笑ふ。細君は「うそですよ / 、。皆自分であ怒ったのかい。」といった。三藏は「僕は怒った。」と答へる勇氣が うかゞ んな事いふのですよ。」といって急がしく三藏の顏色を覗ふ。三藏無い。泣きさうな顏をして「怒ったりしやしない。」と答へた。細 は醉ひが一時に醒めたやうに覺える。今迄ふら / 、と動いてゐた體君は「だからおよしなさいといったのちゃありませんか。」といっ 師 諧が急に眞直につんと立つ。今迄柔かくもつれてゐた舌が急に堅くなて一寸 ( ンケチで五十嵐を打っ眞似をしたが手持無沙汰に三藏の顔 って口中がから / 、になる。增田は一寸齒をむいで笑ったが、斯んを見て「談ですよ。氣にお挂けなすっちゃいけませんよ。あの な問題は鳥の影が過ぎった程にも其頭には殘らぬ。又欄干に凭れチフィと姉さん、お熱いのを一つ。」といった。女中は「お銚子ど 8 て、筏の上にかゞんで何物か洗って居る畑の媼の白手拭に目をやすか。」といった。增田はだまってゐた。 1 五十嵐は又重ねて「塀和君本當に君怒っちゃゐないの。それなら る。五十嵐は言葉を續ける。「第一君、女に座蒲團をすゝめるので
い。貴様の家も馬鹿に暑い。」といって其邊を見廻し「不景氣な紳 十六 棚だなあ。」などといってカン一フ / \ と笑ふ。それから「己はもう 御免た。厭になった。」とばたりと筆を投げて立上ったと思ふと、 五十嵐十風は夜になると毎日のやうに細君の方へ出挂けて細君と 天井に屆きさうな長い手足を延ばして背延びをする。それから三藏一緒に四條から京極あたりを散歩する。時として二三日歸って來ぬ の机の上を覗いて見て「塀和君、君も俳句でも作ったらどうです。 こともある。何處へ行ったのかと思ふと三井寺から唐崎の松を見に さう勉強ばかりしてゐると病氣になりますぞ。」といふ。三藏はさ行ったのだといふ。それから「あいつが君、唐崎の松に失望してね つき五十嵐が來る迄は私に故人五百題を出して句案を試みてゐたのえ、もう己と一緖に散歩に行くのは厭やださうだ。それから君、唐 さいせき であったが、五十嵐が來たので慌てて五百題を本箱の中に技げ込ん崎なんかへ行くよりは西石垣の何處とかへお茶漬を食べに行く方が らんざん で、手に當ったエノック・アーデンを開けてゐたのである。「五十嵐い、さうだ。」と例の高調子で言って「增田今日嵐山へ行かうか。 君、敎へて呉れますか。」「別に敎へなくったって君、少しやって見嵐山へお茶漬でも食ひに行かうか。塀和君はどうだ。君も一緒に行 給へ。すぐ出來ますよ。」「だってまだ何にも知らないんですもの。」 かう。」といふ。 「それぢや僕が題を出すから、どんなものでも構はん、兎に角作っ 增田と三藏とは同行に決して五十嵐について行く。五十嵐は「一 て見給へ。」それから三藏は題を出して貰って初めてやっと一句を寸君待ってゐて呉れ給へ。」と或町角に二人を殘して置いてコンコ 作った。五十嵐は「これは旨い。初めからこんな句が出來れば立派ン咳をしながら亂暴に駈足をして或る一軒の格子戸の前に立止った なものだ。大いにやり給へ。」といって油を澆ける。今迄はやり度かと思ふと、長い首をかゞめて其格子戸をくゞって這入って行っ い乍らも躊躇して居ったのが、これから俄に景氣づいて三藏は朝かた。中々出て來ない。やっと出て來たのを見ると細君と一緖だ。三 ら晩まで十七字を並べる。五十嵐は頻りに讃める。終に增田と三人藏はまだ女と一絡に出歩いた事などは無い。其五十嵐に引き添うて で同じ題で句作する迄に進む。五十嵐の讃める句は增田よりも三藏こちらに歩いて來る背の低い細君の姿を見るとはっと心が躍るやう の方に多くなる。「矢張り文學者は違ふわい。」と增田は齒をむいで に覺える。殊に吉原の女郞であったといふ事は增田から聞いてゐる 苦笑する。三藏は五十嵐に俳號をつけてくれぬかと賴むと、五十嵐ので、何だかぢっと見るのが目ぶしいやうな氣持がする。細君は例 は「俳號なんかどうでもい乂さ。君の好きなのをつけ給へ。」とい の大きな口を開けて挨拶する。三蔵は眞赤になって「私は塀和三蔵 ふ。「だって僕には旨くつかないんですもの。」と三藏はあまえたやといふものですが、いろ / 、五十嵐君に御世話になりまして。」と うな口を利く。五十嵐がいろ / 考へた末「考へたって駄目だ。僕堅い挨拶をする。それから四人で車を連ねて嵯峨に向ふ。眞先の車 は五十嵐の十の字と風の字を取って十風としたのだが、どうた君、 が五十嵐、それから細君、それから增田、三藏は一番あとの車に乘 師 三藏の音をそのまゝに山信としては。」と言ふ。三藏はも少し優し って、增田の麥藁帽越しに細君の絹張りの紫色の蝙蝠傘をつくみ、 い名と思ったが、兎に角奪敬する先輩十風の命名であるから異議な美くしいと思って厭かず見る。五十嵐は時々振返って細君に何かい く其號を用ゐることにする。又增田が花翁といふ尤もらしい俳號で ふ。細君の車夫は氣を利かして前の車に追ひついて暫く併行して行 。此時車夫の足は一齊に遲くなる。それから急に又早くなったと あることも三蔵は此時初めて知った。 見ると以前の如く車は一列になって五十嵐は意氣揚々と眞先に風を ひそか
そんな金は叩き返してしまへ。』などといって大きな聲をしてわめ君の妻艶な姿は能く五十嵐の心を柔らげるに足るのである。三藏は 「十風君、亂暴をしてはいかぬ。僕が此處へ來たのが惡かった。」と れき立て、終ひには私の髮を握って引据ゑたりなんかするんですよ。 云ひながら立ち上って五十嵐の手を支へる。此時五十嵐の心はもう 私を搏つのこそまだいゝけれど、大きな聲をして古宮に聞こえたら : えゝ ? そ少し折れかけてゐる。「君は心配せんでい & よ。」と僅に笑ひを洩ら 大變だと、あの時は本當にハラ ~ 、しましたつけ。 して三藏の顏を見「馬鹿野郞が、自分の身分を恥づる事を知らない れからッて ? 」と細君は三藏の顏を見て「塀和さん大變御熱心ね。 のろけ のか、情けない奴が。」と嵐の吹き留めに共處に在る糊の皿を足蹴 あなた斯んな話聽いて面白いの ? 人の惚氣なんか聽いて腹は立た ないの ? 」とばくりと口を開けて笑って、空目を使って暫く天井をにしてひっくりかへし、眼の中には涙を一杯に溜めて居る。細君は まだ默って木像の如く坐って居る。「奧さん雜巾は ? 」と三藏は覆 見詰め乍ら、「ねえ塀和さん、『それから。』なんて聞くのはおよし なさいなね。兎に角あなた五十嵐と私は一フヴァーの間柄ぢゃありまった糊皿を見て心配さうに細君の顔を見る。「塀和君、そんな事に せんか。アイ、ラヴ、ユーになるとね、さういふあと程餘計に仲が君心配すなよ。君のやうに氣分が弱くってはいかぬよ。」といって 五十嵐は三藏の肩に手を置いて「此間の發句は出來たかい。さうか い、ものよ。」といって細君は又大きたロをばくりと開けて笑ふ。 それでは見てやらう。」といって三藏が懷から出す句稿を受取って 三藏は何だが又飜弄されたやうな氣持がして少し顏色を變へかけた 例の赤い机挂けの前に體を擲げつけるやうにして坐る。 時、表の戸ががらりと開いて共處へぬっと立ったのは五十嵐である。 かや 細君は漸く體を動かし始めて、覆った糊を拭き取ったり、飛び散 二十五 った文殼を纒めたりして、鼻を礙り上げながら共邊を片づけ始める。 其夜五十嵐は犇と細君を抱き締めて寐る。斯る事のあった夜はい 五十嵐は不思議な眼附きをして此一座を見る。殊に其ぎら / 、光 る眼は先づ艶書の束に止り、細君の手許から、張り挂けられた疊つでもさうである。 紙、それから又三藏の首筋に及ぶ。細君は「大變早かったのです ね。」と少し驚いて五十嵐を見上げる。五十嵐の剃走った聲が睛天 へきれき 五十嵐は昨日七條の停車場迄行って其處で俳友の一人の佐野四郞 の霹靂と破裂する。「貴様ツ。何をして居るのだ。」「疊紙を張って 居たのです。」「馬鹿ツ。恥を知れよ恥を。人の前で斯んな物を出し に逢った。佐野といふ男は嘗て五十嵐と一緖に兵學校の試驗を受け なげ るといってをつたこともあったが併し間際になって止めた。それが 散らかしてツ。」と共處に轉げてゐた文束を取って細君に擲つける せった と、細君の前髮の邊にはたと當って櫛が飛ぶ。「斯んな物を馬鹿ないつの間にやら或商館に這入って、頭を綺麗にわけて雪駄を穿いて あそ 前垂れを挂けて居た。それで昨年など五十嵐と一縉に遊興んたこと ツ。」と疊紙を八ッ裂きに裂いて其を丸めて又細君に擲げつける。 つかさ 三藏は早く細君が逃げたら善からうと氣をわくノ、させてゐるのにも度々あった。「君が司と驩落をしたといふ事も聞いたが、まだこ 細君は靑い顏をして口をむっと閉ぢて目をショボ、 / 、させながら默ちらでまごっいてるのか。」と佐野はいきなり大きな聲を出す。そ ってキチンと坐って居る。細君は五十嵐が腹を立てて物を擲げつけれから二人で近所の牛肉屋に這人って酒を飮んで、五十嵐は咋今の る時や、長い骨々した腕で搏っ時はいつも斯ういふ態度で居る。又窮境を話して大阪行きの理由までぶち明けた。佐野は「旨くやって しろら 鬢の毛がほっれて額にか乂って憐れ氣にションポリと坐って居る細るなア。『手鍋提げても。』てなことを實行してゐゃあがる。司は素 びん ステーショ冫 かや
106 だ。」といって引合はした。增田は稍出張った齒をむいで挨拶し、 しやく 十四 しづ子は大きな口を開けて會釋した。十風は一先づしづ子を親許へ いがらしとる 此增田の友達は五十嵐透といって、俳號を十風といってゐた。增屆けてそれから增田の家へ行くと言った。增田はお向うの姉小路の かばん 田とは三年許り前東京の英語學校で知り合ひになって、それから增うちを暫時五十嵐の爲に周旋した。翌日五十嵐は革鞄一つを提げて 田は京都の高等學校の法學部に入り、五十嵐は江田島の海軍兵學校やって來た。 三藏は畏敬して五十嵐を迎へた。五十嵐の色の白い、背の高い、 に入ったのであるが、五十嵐は其翌年から肺病になって兵學校は退 かわ、すき 學せねばならぬ事になり、豫々好であった文學の方に轉ずるやうに咳をし乍らも聲の高い、元氣のよいのが先づ三藏を壓服した。それ から文壇の話になると、紅葉にも露件にも會ったことは無い、逍遙 なった。此男は何かにつけてカンラノ \ と玉盤を打つやうな響きを もろ さして笑ふのが常で、馬鹿に涙脆くって腹も立てやすい代りに機嫌外も知らぬ、僕は文學者は誰も知らぬ、たゞ仲間の四五人と遊び も直りやすい。俳句を作り始めた頃は仲間中の第一の天才といは半分に研究してゐるだけたと言った。共無造作に開っ放しな所が又 れ、小説を書いてもオリジナルな處があるといふ評判であった。と三藏を牽きつけた。山本の机の前に坐ってはゐるが、其擧動といひ くに。もと まちこが ころが一年許り前から道樂を始めて、國許に五十嵐の成功を待焦れ風といひ山本とは大變な相違で、豫々幅を利かぜてゐたメリンス の赤い机挂けが急に色があせて日蔭者になったやうに見えるし、綾 てゐたお母さんから、なけなしの財産をすっかり卷上げて遊蕩費に おしやべり けお してしまひ、何でも目下吉原の何樓とかの女郎を身受けするとかい子の方の饒舌も五十嵐のカンラ / 、といふ高笑に氣壓されてしまっ って騷いでゐるといふ噂を此頃增田は聞いたのであるが、其實此女て更に活氣が無い。五十嵐は又增田に對しては俳句に就ての談話で しず 郎といふのは京都の六條の數珠屋の娘で、かなりの身代であったの持切る。別に高ぶる風もないがそれで居て權威がある。三蔵は共俳 が破産した爲めに吉原に賣られ、此頃年季が明けて業する、それ話に聽き惚れた。 げんしなっかさ を或小官吏と競爭してゐたのである。此女郎は源氏名を司といって こま・が」 十五 小籬ながらもお職を張通してゐた。丸ッポチャの、顏の割合にロの しんしやく 奧村の座敷は夏でも暗いに引換へ、姉小路の家は朝日夕日が斟酌 大きい、笑ふ時はあまり口が廣がりすぎて相形が崩れる嫌ひはある も無く射し込む。「京都といふ處は暑い處だ。」と五十嵐は大きな聲 が美人たるを失はぬ。人の好い張りの無い、朋輩には司さんノ \ と を出して歎息する。さうして奧村へやって來て「おい增田、俳句で 可愛がられてゐたが、よくあれでお職が張れたものたと陰口を利く さやあ 者もあった。五十嵐と小官吏とが互に微力を盡し合って鞘當てをすも作らうかい。ぢっとしてはゐられないちゃないか。」と言ふ。增 めつき る。司は兩方共に公平に待遇する。小官吏の方は大人しい。五十嵐田は先刻から棚の下で眠むさうな眼着をしてゐる。「何んだ、居 は軈癪を起して當り散らす。小官吏の方はいつも優しい。五十眠りをしてゐるのか。さあやらう / 、。」と自分から題を出す。斯 嵐の方は優しい時は度を外れて優しい。司は度業間際になって五十んな調子で毎日百句位は作る。增田が長煙管に煙草をつめ乍らゆっ たりと句作するのと反對に五十嵐は顔をしかめて其邊を睨みつめ 嵐の手に歸した。 ゆるぎ つかさこと 五十嵐十風は其發業した司事靜岡しづ子を手裡に收めて意氣揚っ夂胡坐をかいたまゝ騷がしく貧乏搖をする。それで增田が漸く二三 て七條の停車場に下りた。迎へに來て居った增田に「これは僕の妻句作る間に五十嵐はもう三四十句作ってゐる。さうして「これは暑 ステーション しよく はづ さうがう
いが、そんな下らぬことを眞面目に怒っちゃいかんよ。」といっ 0 て、それから暫く默って時々咳をし乍ら冷たい酒を又續け樣に飲ん いはゆる だ。細君は「すぐお熱いのが來ますけれど。」といって墹德利を取「塀和君などはまだ少しの濁りも無い、所謂淸水の境界だ。羨まし 上げて三藏の顏を見た。三藏は顫ふ手に盃を上げて受けた。五十嵐いな。增田でも塀和君でも一旦僕等の眞似をしようものなら忽ち取 けんのん は「增田、何句位出來たい。君は無愛想な男だなア、少し話もしろ返しのつかぬことになってしまふ。餘程氣を附けないと險難たよ。」 度つく と五十嵐は一一口葉をついでぢっと考へてゐたが、急にカンラ / 、とい よ。」といふ。細君は「本當に增田さんは發句に御熱心ですこと ね。」とばつを合す。「熱心な癖に下手さ。ハ、、、」といって、五つもの通りの高笑ひをして「併し勝手だよ。塀和君でも墮落したけ りや勝手に墮落するサ。世の中が何だあ、つまらない。やッつける 十嵐は強ひて景氣をつけるやうな笑ひ方をする。增田は齒をむいで のんを、 笑って「馬鹿をいふな。」と暢氣にゆったりといふ。細君は「もうサ。おい貴様も飮めよ。」と五十嵐は手づから細君に酌をして「塀 そんな口の惡いことはおよしなさいよ。」といって、「父增田さんに和君、君まだ怒って居るのか。怒ってゐたけりやいつまでも怒って こら ゐるサ。」と言ひながら又三藏にも酌をする。 も怒られますよ。」といはうとしたのをちっと堪へる。けれども三 三藏は瞬きもせずに五十嵐を見詰めて居る。先つきから既に五十 藏には細君のいふ事はもう何でも皮肉に聞こえる。何か一言いはれ 嵐の眼に在った涙は、だんノ \ 量を增して來て溢れさうになってゐ る度に自分の體を引き締めらるゃうに感ずる。 何となく一座が白らけてゐる。それが自分が怒った爲めだと思ふる。五十嵐がしみみ、といった「淸水のやうな境界。」といふ言葉 も耳に殘らぬでは無いが、共よりも「墮落したけりや勝手に墮落す と三藏は又厭あな氣持がする。こで一つ呵々大笑でもして妖氣を 拂ひのけてしまふと今まで小さく固まってゐた自分が急に大きくなるサ。」といふ言葉の方がピンと三藏の頭に響く。「墮落したけりや って此一座の勢ひを制することが出來、只今の敗北を一擧に取返す勝手に墮落するサ。」と三藏は心の中で呟ゃいて細君を見る。細君 ことが出來ると思ふのであるが其がどうしても口が開かぬ。さっきは懷から大きな紙の束を出して共内の一枚を唇で巧に取って、其儘 五十嵐が增田を下手だといった時に思ひ切って笑はうとしたがどう下目を使って再び共紙の束を懷中に收め、それから唇に殘った紙を しても出來なかった。「熱いのが來ましたから。」といって細君は一一一手に取って盃を拭く。拭き乍ら「何でせうね、此黑いものは。塀和 さん、あなたのにも附いてゐやしませんか。」と覗き込む。三藏は 藏にさした。三蔵は受けた。五十嵐も亦飮み始めた。それから急に 眞面目な顏になって「塀和君、僕はねえ、白妝するが、もう僕の生自分の盃を見ると、成程今飲み干したばかりの盃に何處かの煙突か 涯は駄目だねえ、もう濁水だねえ。今僕の夢想する世界は斯う、眞ら飛んで來た煤かと思はるゃうなものが附着してゐる。細君は又 まさご 白な岩の間から白い眞砂と共に流出てゐる淸水のやうな境界だね先きのやうにして一枚の紙を取出し三藏の盃を拭いてやり「あなた のは。」といって五十嵐のを見「厭ゃあねえ、あなたお酒と一緖に え。どうかさういふ境界に立戻り度いと思ふのだが、もう駄目だ。」 といって目の中に涙を浮べて居る。三藏は今迄の事を忘るゝとも無飲んでしまったのね。」と言って艶な眼つきをして五十嵐を見る。 そはだ 此時五十嵐の眼は細君の大きな丸髷の赤い手絡に留って涙の底に別 く其五十嵐の言葉に牽きつけられて耳を欹てた。 様の光りを漂はす。 三藏の頭の中には半可通といふ言葉、「しつこいと嫌はれるよ。」 また、 はんか てがら
切り、細君の絹張りの蝙蝠傘は其あとにいら / \ する夏の日を心地な擧措がくすぐったいやうな心持がするのをちっと辛抱してゐる。 8 あご 增田は欄に凭せた肱の上に顋をのせて無頓着にもう物案じを始めて プよく反射してゐる。 斯くて四人は三軒家に上る、細君は小さく坐って疑ひ深いやうなゐる。 酒肴が運ばれる。增田は「僕は飮めん。」といって大きな竹の子 眼附をして一寸周圍を見廻す。座蒲團や煙草盆を運んで來た女中は 皆言ひ合はしたやうに怪課な眼をして細君を見る。三蔵は氣をつけを一口に頬張る。五十嵐は大に飮む。「增田貴様は相變らず飮まん て見てゐると二人の女中が隣の間で耳打ちをしてフンといったやうな。己か。己は大いに飮むサ。病氣が何んだ。やッつけるサ。」と な冷笑を洩らしたりなどする。細君がもと女郎であったことが直ちいって少し咳をし「塀和君、どうだい君は。君なんかには餘り酒は に女中逹の眼に映ずるものと見える。さう思って見ると細君の顔は勸めない方がいゝけれども、飮めるなら少し位い、だらう。」とい 馬鹿に淋しい。五十嵐の顔にも黒い雲が翳ってゐるやうな感じがすふ。さうすると細君がハンケチで墹德利を握って三藏にお酌をす る。三蔵の頭は急に興奮する。此際大に細君を尊敬して見せて、細る。五十嵐の顏はたん / 、靑白くなって眼がきら / \ と光って來 君を此窮地から救ひ五十嵐の顔をも立て、女中どもの鼻を明かしてる。細君の方を向いて「貴様も飮まんか。いやに澄し込んでるね え。氣取ったって駄目だよ。ハ、、、、、」と笑って「こいつがね やるのは自分の責任のやうな氣がしてぢっとしてゐられなくなる。 「おい / 、姉さん / 、共方にも座蒲團をあげぬか。」と三藏は突然叱え增田、いっか醉つばらって腰が立たなくなってねえ、くす / 、泣 りつけるやうにいふ。女中はじろりと三藏と細君の顏を見較べてき出しやがって、共ざまったら無かった。今日は厭に澄ましてやあ しろうと がる。これでも素人と見せる積りだから可笑しい。」といって又咳 「おしきやす。」と澄まし切っていって一寸襟をいなす。三藏は益 き入り乍ら笑ふ。細君は「好かないねえ、此人は。」とつい下卑た 躍起になって「あなたお敷きになってもい、ちゃありませんか、私 も失禮してゐます。」と不器用にいふ。細君は其大きな口をハンケ言葉を使ったが、「御酒を飲むと、いつでもあんな事をいって仕方 がありまぜんのよ。」と急に言葉を改める。三藏はさっき五十嵐が チで壓さへ乍ら一寸五十嵐の顏を横目で見て座蒲團の端へ僅に膝を 載せる。三藏は「もっとずっとお敷きになったらいかゞです。どう「君なんかには餘り酒は勸めない方がいけれど。」といったのが じゅっ 非常に自分を若輩視した言葉のやうな心持がしてどうも蟲が落附か かど、。」としつこく繰りかへす。細君は術なさうに五十嵐の顏を ぬ。盃が空になると細君がすぐ氣を利かしてついで呉れるのを何だ 橫目でチョイ / 、見ながら默ってゐる。 か感謝するやうな心持もして頻りに飮む。大いに醉ふ。五十嵐の境 十七 遇が羨望に堪へぬゃうな氣持がする。どうか自分も早く五十嵐のや すゐび うな境遇になり度いと思ふ。敬愛する先輩五十嵐十風の言行は醉中 嵐山の翠微、其前を廣々と流れてゐる桂川の白砂、渡月橋を渡る こなた 人、此方の岸に繋ぐ筏、それから白い手拭を被って櫻の葉陰に立っ尚大に三藏の心を支配する。三藏は又盃を重ねる。細君の前にもい てゐる畑の媼等、是等が、一幅の書圖になって目の前に展開されて つの間にか盃がある。さうして見る度に空になってゐる。三蔵は先 わざ ゐるのを五十嵐は柱に背を凭せて昻然として眺めてゐる。態と細君刻の細君の好意に酬ふるのは此處だと思って頻りに注ぐ。細君が の方へは一眄をも呉れずにゐるが、耳は絶えず細君を中心とせる其「いえまたあります。」と辭退するのを「まアまア。」と頻りに勸め 場の光景に引立てられてゐる。三藏が頻りに蒲團をすゝめる其初心 る。細君がさっき自分に「おひきなすって。」といった言葉を耳に いちペん いかた げび
俳諧師 といふ言葉が尚ほ時々響く。けれどもだん / 其響きが幕を隔て懊 翌日になるともう五十嵐は家を探す勇氣が無い。三藏は昨日夫婦 を隔てて聽くやうに遠くなって、何故に其等の言葉がさっきあれ程連れで家を探しに出たと聞いた時、エノック・アーデンにある鳥の すみか 強く自分の心を刺戟したかが不思議に思はれるやうになる。それか集のやうな棲家といふ其のネスト一フィクといふ形容詞が思ひ出され ら見るともなしに細君の横顔をぢっと見る。三藏が心を落着けて細て羨ましいと思ったが、實際五十嵐の身になって見ると、家を構〈 君の顔を見たのは此時が初めてである。口が大きくて顋が短いのはたところで、其敷金はどうする、世帶道具はどうする、米代はどう 缺點だが共他は美人だと思ふ。年齡は幾つたらうと考〈て見る。三すると考〈ると何の成算も無いので、家を探しながらも、萬一どう 藏は今迄わけも無く自分よりは年長者のやうに思ってゐたが考へて かした事で契約でも出來たら扨てどうしてよいのだか困った事たと 見ると自分より一つ下か多くとも同い歳位のものでなければなら 思ひ乍ら歩いて居たので、三藏の想像したやうな樂しい心持は更に ぬ。五十嵐の眼が細君の赤い手絡に止まった時一二藏の眼は細君の長無かった。況して今朝になって見ると何の爲めに昨日は歩いたのだ い睫の邊をさまよふ。 か殆どわけがわからぬのに氣が附いて、出來るだけ朝寐をして寐返 りばかり打ってゐたが、十時頃俄に蒲團を蹴って起き出でて、今日 は獨りで大阪へ行って來るといひ出した。それから旅費をこしらへ 五十嵐は京都で世帶を持っ積りだといってゐたが、はき / \ と其る爲めに細君を親許へやって細君の着替を一枚質屋に曲げ込ませ 蓮びをするでもなかった。嵐山行きの費用は細君が帶の中から男持て、其金を握って晝頃出挂けた。大阪には五十嵐の叔父に當る人が ちもと の茎口を出して支拂ひ、其後夫婦連れで例の西石垣の千本へお茶漬居て此頃は殆ど絶交同様になってゐるのを今日は押しかけて訪間す をさ を一度食べに行った時も、同じく細君の帶の間に藏めてあったロ る積りである。 の中から支拂はれたのであったが、京都へ來る爲め五十嵐が何某と 細君は書過ぎ一人ぼんやりと座敷の眞中に坐って居たが、戸棚の ひどくりん の連帶で非道工面をして借りた高利の金は此時もう殘り少なになつ中に仕舞ひ込んであった自分の小さい革鞄を取り出して、共革鞄の きえん かうがいびんつけ てゐた。其後は五十嵐も前程氣が上らなくなって時々長い體を八中に直かにごろ / \ と入れてある櫛や簪や ( 幵や鬢附などを取り出 たたう 疊の座敷一杯に延ばして天井を見詰めて居る事もあったが、いつのして、斯んな髮結道具を人れて置く疊紙を一枚張らうと思ひ立った。 間にか細君も姉小路の方へ來て夫婦で同居するやうになった。夏休 殆ど空になって同じく其革鞄の底に投げ込んであった財布の底に みも殘り少なになったから、赤い机挂の主人の山本も程なく歸って五厘錢を一つ見出して近處で姫糊を買って來て、綾子さんの大きな 來るであらう、歸って來たら早速明けて貰はにゃならんと綾子さん皿と刷毛とを借りて來て、鐵瓶の湯を加へて糊を薄く溶いた。それ からは二三度注意を受けた。五十嵐は或時夫婦連れで一日家を探し から同じく其革鞄の中に、何かがくるんであったあまり皺の寄って くたびれ に出歩いて暮方飯も食はずに綿のやうに草臥て歸って來た。書飯はをらぬ一枚の古新聞を取り出して此を其疊紙の心にせうと決心し うどん うご 饂飩を一一杯づっ食って探し歩いたのであるが二人の氣に入る家は無 た。扨て萬事整ったが此心の上に張る反古が無いのに頓と困った。 かった。氣に入る家は敷金が高かったり、家主の方で夫婦の風體を增田さんか塀和さんに貰って來ようかと腰まで上げかけたが、急に つくえ \ 見て既に先約があるなどといって斷ったりなどするので一 思ひ附いたものがあって、今度は五十嵐の方の大きな革鞄を開けて 軒も探し當てずに歸って來たのである。 何物かを探し始めた。 まつけ さいせき かはん な、つや
プ 12 から思ひ立って來て呉れたのだと尚嬉しいわ。」といって上り花を 入れ更へてそれから三人で櫻餅を食べたつけ。などと細君の聯想は 細言が五十嵐の革鞄の底から取り出したものは大きく卷いた二束果てしも無く進みつゝ、手は其の手紙の皺を延ばして無造作に其を ふ・みがも の文殼である。これは過去一年間に五十嵐と細君との間に取り交は二つに破り、扨て糊をつける臺に困って一寸其邊を見廻し、山本の された艶書の殼である。細君は其の二束を兩手で一絡に取り上げた本箱の蓋を外して來て、其を裏返して置き、共上に手紙の切れを置 が、やがて一束の方は再び革鞄の底に戻し、一東だけを持って座敷いて糊をつけ、共をべたと新聞紙の上に張附ける。裏側に糊を附け の眞中に歸り、一番上側に卷いてある一本の手紙をする / 、とほぐ た爲めに『そんなにちらすのわっみだわ』といふ文字が陽はに上向 し取って讀むとも無しに見る。これは新たらしい方で、廢業する一 いて出てゐて、これではまづいと氣がっき、今度は文字の方に糊を 月程前に細君から五十嵐に出した、文面の意味は取敢へず來て呉れ附けて張附ける。次にほぐし取った手紙は五十嵐からよこしたの ぬかといふに過ぎぬ簡單な手紙であって、文字は幼い字體の平假名で、此は五十嵐が通ひ始めた頃の手紙で、 ( いっか二人で此手紙の が薄墨で亂暴に書いてある。細君は此手紙を書いた時の事を思ひ出束をすっかり讀んで見たことがある、其時順序が滅茶苦茶になった すと今この姉小路の座敷に斯う坐って居ることが夢のやうに思はれのである、 ) 五十嵐に似合はん猫を被った隱かな文句が並べてあ る。丁度此手紙を書き挂けた時であった、妹株になってゐた梅代と る。細君は又其を幾つかに破って一々糊をつけて新聞紙の上に張り ゐっゞけ いふ女郎が流連の客が今漸く飮みつぶれて寐てしまったといふの附ける。 で、眞晝間の白粉はげのした淺ましい睡むさうな顔を障子の間から 左の二の腕の所が痒い。細君は刷毛を口にくはヘて糊のついた右 突き出して「姉さん、五十嵐さんあれから來ないの。隨分ね。だけの手の甲で左の袖をまくり上げて痒い所を散々に掻く。 あたい どもうたった一月だわ。お樂しみね。あゝ / 、私なんかつまらない 漸く半面を張り終った頃細君は今の身の上を考へて豫期してゐた わ。まだ一年半もあるんだもの。」といひながら體は矢っ張り障子程でなくつまらぬと思ふ。此考へは此間から屡起こる。けれども えんぎだな の外に置いたまゝ首だけ簟笥の上に飾ってある縁喜棚に向けて「姉吉原に居た時よりは樂だと思ふ。まアどうかなるだらうと考へて大 あたい たたう さん。あれ私に頂戴ね。そら其輻助さ。一體誰に貰ったのさ。私其きな欠伸をする。疊紙を拵へるのもそろノ、厭になる。共處へ三藏 おでこに惚れちゃったんたもの。は又、」と肩で障子を開けて が這人って來る。 這人って來て、懷手をした儘で長火鉢の向うに坐って「たけどね え、姉さん、姉さんが行ってしまふと私淋しいわ。」と甘えるやう にいって自分の手紙を書くのを見てゐた。それから自分は手紙を出 三藏は「十風君留守ですか。」といって其儘歸らうとする。細君 はさ こぞう してしまって、長火鉢を夾んで向ひ合って其日はいろ , / 、淋しい話は出てゐた膝頭サンを一寸隱くして「話してらっしゃいな。」と今 をした。「馬鹿に淋しい日だわねえ。」といって障子を開けるとし糊を含ました刷毛を一枚の手紙の上にべたと下し乍ら、目は其刷毛 しづく と / \ と雨が降ってゐて、程なく五十嵐が傘の雫でつい濡らしたと の方を見たまゝでいふ。三藏は立ちはだかったま又「すぐお歸りで かいひ乍ら、櫻餅を一籠手土産に持って來て呉れた。手紙を見たか せうか。」といって細君を上から見下す。「大阪へ行くって晝頃から といふと、見無いと言ふ。「それでは行き違ったのね。あなたの方出挂けましたから今日は遲いでせうよ。」といって糊を附け終った あたい ちょいと あら
紙の上の兩隅を兩方の手の二本の指で摘み上げて目の高さまで上げ紙をほぐし取りながら「あのね塀和さん、あなたもどうせ行らっし やるでせうけれど吉原のお話をしませうか。」「え又。」と三藏は少 たのを下へ下ろさうとしたはずみに、ぶら下ってゐた下の片隅がべ ちょいとは ~ 、か そばだ し顔を赤くして耳を欹てる。「併し吉原の話も詰らないのね。それ たりと折れてくつつく。細君は「一寸憚り様。」とか何とか刷毛の よりも古宮といってね。古宮の話あなたあの人からもうお聞きなす 柄を口にくはヘたま又判らぬことをいって空目を使って三藏の顏を うろたへ 見る。三藏は狼狽て兩膝を突いて、兩方の手を突き出して細君の摘って。まだ ? 私實はこちらへ來るか、古宮の方へ行かうかと廢業 まみ上げて居る上の兩を自分で摘ままうとする。細君は首を振っる一月程前迄迷ったのですけれど、たうとうこちらへ來るやうにな あわをゞ りましたの。全くをかしなものね。どちらかといへば私あの人より て眉を寄せ、顋で下の折れ目を指す。三藏は漸く氣がついて慌しく も古宮の方が好きな位であったのですけれど、全く妙なものね。」 共折れ目を直さうとすると、糊で柔かくなってゐた紙が破れてしま しゃべ と細君は刷毛を動かしながら喋る。三藏は細君の額と手附きとを見 ふ。三蔵は「これは悪い事をしましたね。」といって細君の顏色を 覗ふ。細君はロにくはヘてゐた刷毛を取るが早いか、ぶっと噴き出ながら目を瞠って聽いて居る。 して「塀和さんがあまり慌てるからサ。」といふ。「全體何をして居 たたう 二十四 るのです。」と三藏は頭を掻きながら聞く。「疊紙を張って居ますの サ。」「さうですか。」といって三藏は手紙の束に目を留める。「大變「困ったのは古宮とあの人とが落合った時でした。餘程氣骨を折っ みんな、、 ても、惡くすると、兩方共の機嫌を損ねっちまったりなんかして、 な手紙ですね。」「これ ? も一卷あるのですよ。皆あの人からよこ したのと、こちらからやったのとですよ。」と細君は自慢らしくい本當に弱りましたわ。それでも、あの人も古宮といふものがあるこ って次の手紙を又二つに破って糊を附ける。「そんなにしてしまふとは發業る三月程前迄は全く知らなかったらしいですし、古宮の方 のは惜いぢゃありませんか。藏っといたらいゝでせう。」といひ乍は尚それよりも少し後れて感づいたらしかったです。まあそれ迄は いうても扱ひやすかったですが、困ったのはそれからでした。いっ ら今糊を附けた下に光ってゐる文字を見る。是は細君のであらう。 えうち かあの人が流連をしてお拂ひが足りなくなりましてね。私の身のま 何處か五十嵐に似たやうな字體で而も幼穉な平假名が行もしどろに 認めてある。三藏は女郎の手紙といふものは今初めて見る。而も今はりのものも大概無くしてしまってゐるし、どうすることも出來 目の前に此手紙の筆者其人が共を無造作に引裂き糊を附けて疊紙をず、馬を引いて歸るのも見つとも無いし、丁度古宮が來て居たもの ふだんぎ ゆかた 張って居るのを物珍らしく見る。洗ひ白らけた平常着の浴衣に毛繻ですから少し自分に入り用があるからといって無心をいひますと 子の帯をお髮さん結びに結んで、肩から下は赤い物一つ止めすげそね、古宮は『五十嵐が來て居るちゃないか。無心なら五十嵐に言っ たら善からう。』なんて皮肉をいひますのをやっと泣いたり怒った りと物淋しいのに、いつもの通り赤い手各を挂けた丸髷の艶々しく 師 りして機嫌を取って漸く聞いて貰って其でそっとお拂ひを濟ませて 大きいのが格段に三藏の目を牽く。「藏っとくってもう斯うなった ら反古だわ。塀和さんなんかこれからたけれど、私逹はもうおしま『どうやら工面が出來て内證の方は濟ませたから安心おしなさい ひですわ。」といって又上の兩隅を摘まんで上げたのを三藏は今度な。』っていひますとね、五十嵐は「どうして工面が出來た。工面 が出來る譯が無いちゃないか。今廊下で古宮の奴に遇ったつけが、 おは氣を利かして早く下の兩隅に手を添へてやる。「さうやっていた だくと大變樂ですこと。」といって細君は又文束から次の一枚の手貴様古宮に出して貰ったのだな。怪しからん。己を侮辱してゐる。 にうご かみ そらめ みは ゐっゞけ
からりと睛れて今朝になって見ると佐野の高慢もそれ程もう癪に障 すし 人になっても美しいだらう。しゃぐまと丸髷とどちらがよく似合 らぬ。晝飯には昨日の財布を細君に持たせて近處の鮨を買はせにや ふ ? 兎に角こ長いらでまごっいてるのはよせよ。早く東京〈歸っ たらどうか。丁度商館の方に人が入用なんだ。君も發心しろよ。己る。さうして二人で旨く其鮨を食ってしまって、それから佐野に は俳句も金を儲けてからだと念した。アイ = の方は今いくら位あ「兎に角賴む。どうか工面して二三日うちに歸京する。」といふ意味 る。それつきりか。意氣地がねえなあ。それ位のことにくよノ \ しの手紙を書いた。 てやあがるのか。大阪行きも貴様のやうなぶつきら棒では想像する 二十七 下宿の拂ひなど旨くごまかして置いて に談判破裂だな。よせ / 、。 五十嵐十風は增田や三藏に迷惑を挂けて姉小路の拂ひをすませて 兎に角歸京って來いよ。萬事それからの事にしろ。汽車代位司にど 遂に細君を連れて東京〈歸ってしまった。其時增田や三藏に「これ うかさせろ。髮でも切って髢にでも賣らせるがい長や。」と帶の から俳句を添削して貰ふのには東京の文科大學に居る越智李堂が善 おのづか から金時計を出して「オヤもう三時だな。己か、己は今朝着いたの だが、もう此汽車で歸京らにゃならぬ。どうだ當分己の部下で辛抱からう。此男は人物が立派で、自ら我等仲間の中心になって居 しては。一年も辛抱すればどうかなる。」と立か、「て「貴様これる。僕から紹介してやって置くから君等からも手紙を出して依賴し てやり給 ( 。」といった。其から三藏は直ちに增田と連名の手紙を で勘定して置いて呉れ。もう時間が無いから失敬する。」と五圓札 召めて賴んでやった。李堂からは直ちに返事が來た。增田は「字體 を疊の上に放り出して置いて段梯子をとん / 、と降りる。五十嵐は言 が十風に似てゐる。」といったたけで別に意にも留めなかったやう 「佐野の奴、人を馬鹿にしてゐゃあがる。」と腹が立たぬでも無い たが、三藏は筆蹟が見事で文句も莊重たと思った。さうして深く が、少し煙に卷かれて段梯子の降り口まで見送って行って長い體を 突立ったま、「賴むとすれば二 = 一日内に歸京らう。」といふ。佐野深く又此李堂といふ人を敬慕した。程なく學校が始まって獨逸語は 愈六つかしくなる。物理の敎師が變ってペ一フ / 、と英語で講義す は「ウンさうしろ。あの何に : : : 」と一寸いひにくさうに言って 「細君に宜しくい「て呉れ。」ともうづか , , 、、と行ってしま 0 た。五るので三藏は又これに惱まされる。土の午後になると生きか〈っ たやうな心持で增田と二人で句作する。さうして直ちに李堂に批評 十嵐は一人もとの座に戻って其處に擲げ出されてある五圓札を見る と、いま / \ しくなる。「糞 , 食〈。」と舌打ちをしてちっと考〈てを賴んでやる。李堂からは直ぐ懇切な批評を加〈てか〈す。或時返 事が少し後れたことがある。とうしたのかと待兼ねてゐると、『頃 居たが別に仕方も無い。女中を呼んで疊の上に置いたま長の五圓札 日、當地小説熱盛んにして同志のもの數人と小説會を組織す。殆ど を顋で敎〈ると女中は何とか愛嬌を言って持って行く。 女中が持「て來た釣錢も其處〈置いて置く譯にも行かん。財布を毎日開催する程の盛況なり。山僧君は小説にも意ある由十風より傅 師 開けると今朝細君の着物を曲げ込ませて拵〈た銀貨が淋しく底の方承せり。若し學課の餘暇あらば何にても宜し御寄送を望む。』とい に光 0 てゐる。共上に厭や / 、乍ら其釣錢を投げ込むと急に光るもふやうな事が書いてあ「た。其の手紙にまた『山信君學課御多忙 の由御察申す。一方に小説盛なると共に他方に亦俳句會も成立せ のの數が殖える。五十嵐は又厭や / 、乍ら其財布を懷に推込んで、 り。從來の同人の外に或一團體と合同して近來は運座といふものを わもう大阪にも行かず家〈歸って見ると前回に陳べたやうな細君の淺 ましい癡態を見て澗癪玉が一時に破裂した。併し共暴風雨のあとは催ほせり。此運座なるものの方法等説明したけれど書端意を盡し難 すにん