きく動かして自分の話を保證して見せた。 た駕屋は息杖を棒にかって汗を拭いた。 「三千歳はん : : : 」と玉喜久が振り返った時、三千歳も顏を玉喜久 の方に向けてゐた。 杉木立が屏風をたてめぐらしたやうに茂ってゐる中に、根本中堂 「三千歳はん、しつかりおしえ。」とお今は言った。 の大きな建物が隱見してゐた。 「こどすか姉はん、一念はんのうちは。」と三千歳は駕の中から 茶店の前の路をはさんで杉の木立が立ってゐた。今其木立の中に ちらと形を見せ乍ら此方に歩いて來るのは疑もない一念であった。 目を見はって共淋しい大きな伽藍を見た。 手には風呂敷包をぶら下げてゐた。もう此方の一行を先方が認めた 「一念はんは横河ゃないかいな。」とお今は言った。 「橫河はまだ遠いのどすか。」 らうかと思はれる時分に彼の姿は又杉木立の蔭に隱れてしまった。 三千歳は何とも言はなかった。興奮した顔は稍よのぼせて、共杉 「さうどす、五十丁餘りあります。」と駕屋は答へた。廣々とした 木立の方を見詰めてゐる眼は輝きに滿ちてゐたが、彫りつけた彫像 道を駕屋も足をゆるめてそろ / \ と歩いてゐた。 のやうに身じろぎもしないで息を詰めてゐた。 「姉はん、横河まで行きまひょ。」と三千歳は駕の中で言った。 再び木立の中に現はれた一念は、今度は共目ロ鼻さへ大方想像が 「これから横河までは大變ゃ。それに怖い道やわ、なあ駕屋はん。」 つく位にはっきりと一行の目に映ったのであったが、すぐ又一一本並 とお今は言った。 うはばみ 「蛇やら蟒やら、けったいなものがたんと出ます。」と駕屋も言んでゐる大きな杉に隱れて見えなくなってしまった。 「しんきくさ。」とお今は床儿を離れて茶店の軒下に立った。 った。 二本の大杉から找け出した一念は暫く此方を見つめてゐたが、お 「そんなことうそやわ。一念はんいつでも下駄ばきで來るといはは 今の招いた手に應じて一寸頭を動かした。 った。」 「早うおいなはい。」とお今は呼んだ。 三千歳は駕の中で言った。 玉喜久は三千歳の手を取って、これも軒下に立った。明るい外面 大きな道が十文字に交叉してゐる角に茶店があって、共處に駕が 下ろされて一行は縁臺に腰をかけた。婆さんの酌んで出す茶碗を取の光の中に二人の姿ははっきりと浮き出たやうに現はれた。二人は 同じゃうに赤いハンケチを上げて振った。玉喜久が振りやめた時に って皆欧んだ。 三千歳はまだ振ってゐた。 一念が今日此の東塔の方に來てゐることがふと茶店の婆さんの話 で判った。 茶店の前に來て立った一念は、暫く見ぬ間に著しく背丈が延びた 「あの小僧はんなら今の先此前通らはった。もうすぐこゝい歸ってやうにお今には見えた。離れて見る時は、同じ十五でも三千歳の方 來やはりまっしやらう。」と婆さんは言った。 が姉さんのやうにませて見えるのに、並んで立ったところを見ると 一同は興ありげな顔をして此婆さんの言葉に耳を傾けた。 三千歳の髷が漸く一念の耳許の邊に在った。 「ほんまどすか、をばはん。」と玉喜久は言った。 「一念はん、橫河へお歸りるのか。」と三千歳は心配さうに聞いた。 「うそいうてどうしますかいな。ほんまどす。」と婆さんは首を大 「今日は宿院に來て居るのだよ。」
「駕屋さん、途中で一遍おとしてあげてんか。」とお今は言った。 「いやゝわ、姉はん。」と駕の中の三千歳は訴へるやうに言った。 白河口の茶店の前に五臺の車がどやど、と梶棒を下ろした。 「おいでやす。」と茶屋の神さんは勇ましく聲を掛けたが、車から 白川の上流がおしまひになる邊から人の往來も絶えて、一行は三 現はれ出る人々のけばノ、しい服裝をちっと見つめて暫く庭に立っ千歳の駕を中心に笑ひさゞめき乍ら登って行くのであった。 てゐた。車の中からは一人の客と一人の藝子と二人の舞子と一人の 途中で坊主に出逢って三千歳は駕から下ろされ、玉喜久が代って 仲居とが現はれたのであった。 乘った。 「こぼでは登れんよって、さあ草履とおはきかへや。」と仲居 お今が三千歳の裾をからげてやり、あとがけをしてやる間に、玉 のお今は大きな聲をした。 喜久を載ぜた駕はもう四五間も先へ行って一同はそれを圍んで登っ 「誰が乘るのどす。」 て行った。急な登りで皆喘ぎノ \ 登った。 「どっちが乘るのどす。」 「わてやわ。」 七曲りに出ると琵琶湖がばっと眼下に展けて、そこを走る汽船が 「わてやわ。」 おもちゃのやうに小さく見えた。それからの道は暫く樂であった。 三千歳と玉喜久とは爭うて其處に在る一挺の山駕の上にもたれか 辨財天の前の茶店で休むことになった。 なか かるやうにした。同じゃうな頭が二つ並んで背丈も似てゐた。 「わてお腹が減った。」と三千歳は言った。 「どちらでもお乘り。そして道で坊さんに逢うたら代るのえ。」と 「わても。」と駕から出た玉喜久も言った。 お今は言った。 其處の床儿に坊主が一人腰掛けてゐたので、又三千歳が駕に載せ られ、玉喜久が歩く番に廻った。 「そんならわてが先え。」と三千歳はもう駕の中に腰を下ろして、 玉蟲色の唇をすこし開けて笑った。 不動堂からの登りは一番えらかった。 「えらい坂やこと。ふとい木がおっせなあ。」 お今が取り出した赤い切れで、皆はき換へた草履にあとがけをし た。 「つめたい風が吹いて來ること。」 「姉はんよう氣がついてあとがけの用意迄して來やはったんやな。」 お今と玉喜久は話しながら登った。 と自分の右足を内股に踏んで見て、小ぢんまりと足にくっ又いた草 三千歳の駕により添ふやうにして歩いてゐた玉喜久は、けたゝま 履の共あとがけの赤い切を感心したやうに見て藝子は言った。 しい鳥の聲におびやかされて言った。 「あの聲何どす。」 法「ぼち / \ 出掛けまほか。」と駕屋は催促するやうに言った。 流「旦那はんよろしおすか。さあ皆え曳か。」とお今は一同を振り返「鳥どすがなあ。」同じゃうにおびえた三千歳は駕の中から言った。 った。 「何ちう鳥か知っといるか。」とお今は聞いた。 二人の駕屋が息杖をついて、 「知りまへん。」と三千歳は答へた。 3 5 「よい。」と掛聲をして舁ぎ上げた駕は輕さうであった。 「もう此坂をだら / 、と下りると中堂さんどす。」と坂を登り詰め
- た」さう。」と小光は嬉しさうに言って盃をね。」とお若とお德がいふ。「こちらへ這入り給へ。」と三藏もいひ きみとこ かへす。三藏は受取って「君處へ遊びに行ってもいゝの。」と又出ながら何をしに來たのかといぶかしさうに共顔を見つめる。「もう らなづ し拔けに聞く。「はあ、どうか。」と小光は輕く點頭く。 時間なの ! 」と小光はロ輕く聞く。「はあ。」光花は簡單に答へる。 「まアお迎へにいらしったの。」とお若はいって、光花の少し首を斜 うなづ 七十二 に、肩から曲げるやうにして點頭くのを見て「さうですか。御苦労 小光の前に膳が据ゑられる。小光は體を前こゞみにして箸を取上様 ! 本當にだん / \ い長子におなりですこと。お樂しみですわね げてつゝましくお汁を吸ふ。三藏は見るとも無しに共橫顔、格段にえお師匠さん。」と小光の顏を見る。 ラムプの光りに透いて赤く血液の光って見える耳朶をぢっと見入っ 小光と光花とはお若とお德とに送られて賑やかに歸る。三藏は獨 度んやり て妙な心持になる。どうやら小光が自分一人の所有物であるやうなり茫然と後に取り殘されて聊か狐につま、れたやうな心持もする。 心持がする。可愛ゆい女房とは斯んなものかとも思ふ。斯ういふ心全體自分は今迄何をして居ったかと考へると我乍ら餘り大膽で恐ろ 持は嘗て一度起ったことがあった。それは初めて錦絲に逢った時しいやうでもあり、今迄高嶺の花とばかり見て居ったものが一擧に で、それも引きつけがすんでゆらど、とする大きな髷を三藏の鼻尖して脚下に在るのが不思議なやうな心持もし、扨てと刻下に迫る間 に聳かして初めて共傍に坐った時であった。それから恐ろしく長い題を考へて又例の口を今度は着物の上から壓さへて見て冷えた盃 キ一せる の酒をぐいと飮む。 煙管で大きな火鉢の眞中にある火を吸ひつけて、少し古びてはをつ お德ばかりが歸って來て、「お師匠さんの御馳走は折りに詰めて たが赤い友禪の袖で一寸拭うて三藏に突附け、今迄澄して火鉢の方 ばかり見て居った顏を心持ち三藏の方に向けて、共癖瞳は片方の嵎持たしてやりませうね。」と例の通り不景氣にいふ。三藏は點頭き よせ に寄てぢっと共顔を見人った時であった。三藏は共瞳の寄った眼っゝ「まさか十圓なら足らぬ事はあるまい。」と考へ乍ら心細く思 す、き ふ。 尻、薄の尾のやうな眉尻、それからふつくらと膨れ上った女らしい 頬、薄っすらした白い耳朶、其等を見た時あゝこれが自分の所有物 七十三 かと今迄如何なる美人に對しても起した事の無い感じを起した。今 ひきおこ 小光を眼の前に置いて三蔵は又た共時と同じゃうな心持を惹起して 其夜三藏は既に小光が高座に現れてから後ち宮松に行った。小光 んやり 茫然と共横顏を見つめて居るのである。 はテテンテン / 、と彈き乍ら今這人って來た三藏の方をぢっと見 わむ 「御免下さい。」といふ聲がして障子が開いたので三蔵は我に歸っ る。それから間も無く『今頃は半七さん』と目を幎ってさはりを語 いぶかげ て其方を見ると、ばっちらした眼の例の丸つぼちゃの光花で、 り出す。一時三藏が法外遲く來たのを訝し氣に見て居った聽衆も今 師 ちょいと 「おッ師匠さん一寸 : : : 。」といって小光の顔色を伺って居る。「何は皆高座の方を見上げて熱心に聽く。三藏は殆ど空席の無い片隅に ですね。お行儀の悪るい。」と小光はたしなめるやうにいって口許 小さくなって坐る。いつも聽き惚れる嬌音は相變らず身に入むやう には微笑を湛へてゐる。光花は「旦那暫らく。」とろくに三藏の顔に覺えるが、共上今宵は一種不思議な心持がする。今まではいつも も見ずになれ ~ 、しく挨拶して「姉さん今晩は。」と二人の女中に感服して聽き乍らも心の底に何やら不滿足な塊があった。共が不思 うらきぎ 辭儀をする。「さあこちらへお這入りなさい。」「本當に可愛いゝの議な事には今は全く溶けて無い。それから又聽衆の中の氣障な奴の みゝたぶ
二人や三人居ない事は無かったのでせう。それで困りや質を置く、 けれども老人よりもお紫津よりも若い綠雨に、其見ぬ世を憧れる 8 幻有りやアばつばと遣ふといふ調子でしたらう。共時分の噂に小萬さ 心持は一番強かった。八百膳とか重箱とかいふ今でも見ることの出 んがお湯に行くと、それこそ鼻の穴を洗ふばかりに留桶に三杯入來る料理屋の名前には驚かなかったが、共の角中とが有明樓とかい るツて言ったものです。併しそれだけの事はしてあるのです。まアふ名を聞くと、共を何でも無いやうに話す一一人が心憎くかった。 萬事が恁う言うた意氣でしたから、堀の小萬ッて唄はれるやうにな 「角中は今の今戸橋の角の一一階の出ッ張ッた家で、いま灰屋か何か ったのでせう。」 になってゐます。本當は中村屋ッていふのですが、角だもんだから 斯んな話は際限も無く出た。尤もいくら醉うたって誰の前でも喋角中ッて言ったのです。」 るのでは無かった。平岡綠雨とは遠山といふ茶人の二階で一年程前 斯んなことを言ってお紫津は綠雨に説明して聞かせたりした。 から度々落合って互に氣が置け無いで斯んな事を話し合ふ仲間とな 線香畑の事も老人は昔と今とを引較べて話した。 ってゐた。 「もとはすッと廣かったもんたが、だん / 、家が建って來るので今 どて 其遠山の二階もお紫津の稽古場になってゐて、いろ / —の人が集は改葬して一處にめてしまった。昔は堤を通り乍ら見下ろすと其 まって來たが、共處に集まる人は孰れも綠雨よりは先輩で、中には處いら一面に線香が煙ってゐて、共が丁度線香を植ゑた畑のやうだ お紫津を初め誰からも、 といふので起った名さ。」 「先生々々。」と崇められる七十近い老人もゐた。共老人はどんな 吉原の女郎の死んだものを埋めて一々墓標は立てなかったので、 事を人から聞かれても知らぬといふ事は言は無かった。むづかしい土に直きに線香を挿したのが畝を爲して煙ってゐたといふ光景は又 支那の書物の事を話すかと思ふと、芝居町や泚里の事にも通じてゐた綠雨の心を躍らせた。 どて た。自分で撥を取って様々の俗曲を彈き分けて見せた。餘り上手で 堤を暫く行ってからだら / 、と左の方に降りて小さい家の間を拔 は無かったけれど、どれでも一通りは心得てゐた。 けると共處に老人の知った女の家はあった。共女といふのは若い女 或時此老人の知った女が線香畑のすぐ傍にゐるとかいふので、おかと思ったら、其はもう二三年前に死んだといふ老人の妾の事であ 紫津と綠雨とは、遠山の稽古の崩れに老人に連れられて、其女の家って、今は足袋屋をしてゐる共子供夫婦が矢張り老人を「先生先 といふのに行った。 生」と言って曾敬した。若い女房は茶を酌んで出した。 「お紫津も線香畑は始めてかえ。」と老人は調子の高い聲で早口に 其家の裏木戸を開けると共處がもう線香畑であった。周圍から家 言った。 が建込んで來て今は狹くされた地面に、三界萬靈と彫った石が少し 「えゝ、話に聞いてゐた許りで見た事はありません。」とお紫津は傾き加減に立ってゐて、其周りの丸く掘られた溝に澤山の線香が煙 答へた。 ってゐた。 まっちゃま よっにど 吉野橋で電車を降りると、待乳山が手に取るやうに見えて、今は 「まあ詰まら無い處ですね。話に聞いてゐた方が餘程よかった。」 すっかり容子が變ってゐながらも共の町並がお紫津の心を引立た お紫津は失望したやうに言った。 かどなか せた。角中とか有明樓とか、濱中屋とか、蓬莢屋とか、共頃の料理「もう斯うなっちやア仕方が無いやね。」と老人も歎息した。 屋や待合の名前が自然老人やお紫津のロを衝いて出た。 「でも先生。これだけ面影が殘ってゐるたけでも有難いちゃありま ばち
き出で、、何れも愚かしい眼附をして自分を見下ろしてゐるやうなでなか 0 た。一寸使に出すにも他の小信を使 0 た。水を汲んだり、 心持がした。 雜仕をしたり、布團を敷いたり、老僧の肩をもんだりすることに大 一念はそれ等の幻影を心の中で叱りつけた。 方日を送ってゐた。暗い大きな庫裏には , ーー共頃老僧は元三大師堂 一念の髮は延びてゐた。鼻下にも顎にも薄く髭が生えてゐた。 の方にゐた。 竈が並んでゐて、共竈の臺の下には薪がぎっしり 「何といふさびれ果てた詰らない山だらう。」 詰め込まれてゐた。此薪は表の納屋で年とった寺男が割ったり乾し 愚かな眼附をした幻影が消えてしまった目の前には、唯下らない たりしてくれるのであった。此寺男を一念は好いてゐた。 離木林の山の背が現はれた。 「おぢいさん一服し給へ。」 或時登山して來た一人の男が、「叡山は平安朝時代の學府で、丁 さう言って澁茶を酌んでやることも多かった。 度今の赤門大學だと思〈ば間違ひない。共頃の新智識は皆此山に居「お前さんは年は若」が、よく氣の 0 く小僧さんだ。」 たのだ。」と言った。 此寺男は東京近在の生れだといった。自然一念とはよく話が合っ 又或時登山して來た一人の男は、「昔の叡山を思ふと繪卷物を見た。 る樣な感じがする。此山路を歩いてゐたものは緋の衣を着た僧都や 「己が一杯水を汲んで來てやるべえ。」 紫の指貫をはいた稚兒達であった。」と言った。 寺男はそれが一念の役目であるのを助けてやる積りで、辨慶水の 其當時の一念は唯面白くそれ等の話を聞いた。共頃の入唐渡天と水を擔ひ桶でこ、迄汲んで來てくれる事も珍らしくなか 0 た。水桶 いふのは丁度今の歐米留學といふやうなもので、さういふ高僧智識といふのは大きな石の槽で、共下には水垢が黄色くたまってゐた。 が此山を開かれたのだとすると、成程共頃の叡山は今の赤門大學の 一念は共水を汲んで炊事をした。 ゃうな學問の淵叢であったに相違無いと思った。又緋の衣を着た和 一念は三千歳に送る手紙を此男に賴んだことも屡よであった。そ 尚さんや稚兒髷のお稚兒がぞろ / \ と此山路を歩いてゐたかと思ふれは坂本の郵便函に技函してもらったのである。 と、自然此山路がなっかしく慕はしく思はれもした。 三千歳から來た手紙は意地の惡い役僧に見つかって、老僧の手に 併し今考へて見ると馬鹿々々しかった。 落ちたことも一二度あった。けれども人のいゝ老僧は訓戒を加〈た 「昔此山が大學であったらうが、今大學でなけりや何でもないでは後ちに共手紙を一念に渡した。 無いか。昔緋の衣が通ったらうが稚皃髷が通ったらうが、今通らな 一念は見違〈るやうに大人びて來た。決して子供らしい惡戲はし けりや何でもな」ではないか。自分は何故こんな處に九年もぶらぶなくな 0 た。老僧の」ふことをよく聞」た。けれどもお經は少しも らしてゐたのだらう。」 讀まなかった。 法顔を上げて向うの峯を見た。共處には晩春の色をとゞめてゐる一一 「一念ももう十八歳だ。いつまでも小僧扱ひにして置くことも出來 法本の山櫻があった。 ん。」 一念の心はいっしか和らいでゐた。六年前の晩春の情景が思ひ出 老僧がさうつぶやいたのは二年前のことであった。けれどもそれ 0 すともなく思ひ出された。 5 が二十歳になった今年も相變らず小信扱ひにしてゐた。 あの時以來一念は橫河の老信の嚴格な監督の下に暫く外出も自由 それでも一念は柔順に自分の仕事をしてゐた。意地の惡い役信も
7 つ 4 られてしまって、今迄古い土塀の日蔭にばかり居たものが、初めて牽き附ける。三藏の足は知らず識らず東に向ふ。 暖かい花園に立ったやうな心持がした。三藏は殆ど京極を歩きっゝ あるといふやうな感じさへ無くなってゐる。今故鄕を距る百里外の 京都の地に在って、而も上長者町の下宿を出て京極を散歩しつあ 此夜はいろ / \ の物が三藏の目に留る。紅屋の看板の紅で書いた るのだといふやうな感じは殆ど無い。故鄕に在る時すら未だ感じた 字が心を牽く。呉服屋の店頭に吊してある色々の小切が目の前にち かきめし かうもりがさ 事の無い人懷しいやうな心持が胸に溢れてゐる。 らっく。牡蠣飯屋を出て行った若い夫婦の女の蝙蝠傘が美くしいと 鮨屋と小間物店との中に押しつぶされたやうになった小さい這入思ふ。四條橋畔の電氣燈の。ハッと明るい下に今向うからこちらへ來 あんどう り口に赤い紙で縁を取った橫長い行燈が額のやうに挂けてあって、 る二三人の女の顏が目に入る。一人の女は女中らしい顏立で下ぶく それに鶴澤小梅とか盟竹玉之助とか盟竹玉子とかいふ名が肉の太いれの品の悪い顏ではあるが、それでも色が白いのとばっちあとした 字で大きく書いてある。三藏は此狹い入口の奥に寄席があるのかと 目で見るとも無しに三藏の顔を見た共目つきが心を牽く。今一人の 思って見てゐると三味線の音が思はずも鮨屋の二階から聞える。鮨女は瘠せこけて顏の色艶は無いが、鼻の高い、目に張りのある、眉 屋の二階が寄席になってゐるものと見える。職人のやうなものが這毛の凛とした三十四五の奧様らしい婦人で、鬢のほっれ毛を長い瘠 入る。遊び人のやうなのも這人る。餘程下等な寄席と見えて見なり せた指で掻き上げた其顔を氣高いと思ふ。今一人の女は藝者だ。艶 っと の惡い者ばかりが這入る。三藏は人に推され乍ら此處を立去らうと艶した髮を一絲亂さず結ひ上げた島田の、長い髱が鳥の尾のやうに してふと見ると自分の同級の學生が二三人今此寄席に這入らうとし後ろに出てゐる。共に準じてグイといなした襟と、又其の反比例に わちこ てゐる。其内の一人は今迄着てをつた制帽を脱いで懷の中に捩込ん前へ突き出した首とが水際立って美くしい。擦れ違ひさまに妙な匂 で這入った。三藏はあっけに取られて見てゐると、をばさんらしい ひが三藏の鼻を撲つ。鳥打帽子を被った三藏が同じく明るい電氣燈 人が一人の娘を連れて這人って行った。たしかにをばさんらしいの の下で大きな目をして驚いてゐる隙に、是等の人は忽ち行き過ぎて で三藏は覺えず延び上って見たが、少し違ふところもあるやうでは新らしい人が續々と明るい顔を電燈下に曝す。 つきりはわからなかった。をばさんが此頃自分の下宿してゐるうち 鵯川の兩岸の燈が仕挂花火のやうに水に映ってゐる。物音がざあ の娘が美しいと言って自慢してをつたが若しあの娘が共であらう ッと三藏の耳に集って來る。三藏はふら / 、と橋を渡る。 か。いくら平氣なをばさんでも共娘を連れて歩くなどいふ事はある 橋を渡り終って橋畔の電燈を後にすると、少し燈火の光が弱くな まいと三藏は考へた。 ったと思ふ間も無く南座の前の電燈が又。ハッと書よりも明るく街上 三藏は心地よく人の氣に醉うたやうで、帽子を懷に捩込んだ友達を照らす。多勢の男や女やが皆顏を上げて繪看板に見とれてゐる。 や、娘を連れてゐたをばさんらしい人を見たことも矢張り暖かい感繪看板の框の赤い色と其前に突き出して交叉してある紫の旗とが中 じになってしまって、歩くとも無く京極を歩いてゐるうちにいっし 心になって、其外に種々の色が錯綜して、共色の中から拍子木の音 まけ か四條通りに出た。四條通りは京極よりは道幅も廣いし人通りも比や三味線の音が聞こえる。三藏は其繪看板を見てゐる女の髷の高低 に目をすべらしてふと一人の少女に目を留める。 較的少ない。三藏は一寸立留まってどちらに行かうかと思ったが、 矢張り立止って繪看板を見てをつたのが、何とかいひ乍らついと 南座の芝居の幟や四條橋畔の明るい電氣嶝が今宵は殊に三藏の心を のぼり よせ
此天氣に講堂や中堂あたりに居た參詣人が皆此の茶店に驅け込ん 「宿院てどこえ。」 「すぐそこさ。」と一念は茶店の横手に在る一つの堂の後ろの方をで來た。それ等の人々はめい , ・ \ 同じゃうな事を言って騷いでゐ た。三千歳や玉喜久の艶な姿を不思議さうに見るものもあったが、 敎へた。 「そんなら今日一日そこにお居るのえな。橫河〈はお歸りや〈んの其暗い土間を晝のやうに明るくする稻光りの度に孰れも聲をあげて 恐れた。其どよみの終らぬ内に大きな音が頭の上で碎けてそれが山 えな。」 全體に鳴り響いた。 「和尚さんさへ歸らなきゃあ。」 孰れも雎鳴りを恐れるばかりであったが、その中に三千歳は一 「三千歳はん、そんならもう横河〈行くことはいらんやないか。そ 念の事を考へてゐた。いつも祗園の明るい燈火のもとで逢ふ人を、 れでもまだ橫河〈行き度いか。」とお今は調戲ふやうに言った。 「三千歳さん宿院〈遊びにおいでよ。玉喜久さんもおいでよ。」と今日初めて此の山の上で見出したことが淋しかった。 「斯んな山の上に居やはるのかいな。あ可哀そやの。」 一念は暗い土間の縁臺に腰かけてゐる客を流し目に見て言った。 さう考へた時にけ涙がにじみ出た。祗園で逢ふ度に山の上の話は 「行てもかまへんのか。」と玉喜久は三千歳の手を取って言った。 よく聞いた。けれどもそれは雎だ面白半分に聞いてゐたのである 「僕一寸行って來る。」 が、實際斯うやって來て見ると、斯んな淋しい處かと驚かれるばか 一念は玉喜久の言葉には答へずに、風呂敷包みをぶらっかぜなが りであった らさっさと宿院の方へ行った。 「一念はんはどうしてゐやはるのやらう。又何處かへ使にやられて 「一念はん早う來とくれやすや。」 此の訷鳴りに出逢うてゐやはるのやろか。早うこ、ヘ來てやはった 「すぐおいなはいや。」 らえ、のにな。」と思ひ續けた。 三千歳と玉喜久とは手を繋ぎながら二三歩其あとを追ふやうにし 鳴りは愈よ募って來た。ガ一フス障子の外は眞暗になって來た。 て聲をかけた。 それが稻妻がする時は一時に明るくなって、茶店の前の出世大黑天 の玉垣も、「榮西禪師舊蹟」とある文字も、杉の中に隱見してゐる 大きな雨が一つぼつりと茶店の前の大地に落ちたと思ふと、地の 中堂も講堂も手に取るやうに一目に見えた。 底の鳴るやうな物妻い響がいづくともなく聞えた。 「恐ろしい天氣ゃな。どないになるやらう。」といふものがあった。 「あれは何やろ。」とお今は不思議の目を上げた。暗いのに慣れて ゐた土間が一層暗くなってゐるのに氣がついた。大粒の雨は三つ四其心細い言葉が三千歳の心をおびえさせた。 「玉喜久はん。」と三千歳は玉喜久の手を堅く握った。 っと數を增して來た。 「三千歳はん。」と玉喜久も同じゃうに握りしめた。 法「恐ろしい天氣になって來た。」と駕屋が言った。クワチイ、とい 「二人とも心配おしることあら〈ん。しつかりしとゐ。」とお今が 流ふ妻まじい響がして頭の上で雷が鳴った。 風 言った。 「あて恐はいわ。」と玉喜久はお今の傍で襟を縮めた。三千歳は靑 雨が大地を掘るやうに降り出した。家が搖るぐゃうな鳴りが隝 ざめた唇をして外を見た。そこにばっと目を横ぎった靑い光があっ 5 5 こ 0 り續けた。三千歳と玉喜久はお今の膝に取りすがって慄 ( てゐた。
お三千は淋しさうに默った。一度は年よりも老けて見えた一念が さう思ふと俄に蘇ったやうな心持になった。流し元に口を開けた 今は又もとの若いノ人に戻ったやうな心持がした。 儘突立ってゐる飯櫃などはどうならうともう間題ではなかった。 「なあ一念はん、そないなこといはずに、ぢっと時の來るのを待っ 「又こんなことが起ってはどもならんがな。」と耳を動かしながら てゐておくれやすや。」 あたふたと狼狽へる老僧を想像しても、それも問題ではなかった。 さう言ってお三千は一念の手を堅く握りしめた。 「何故決斷がもっと早くつかなかったのたらう。」 時の來るのを待っといふ落着いた心持が一念には慊らなかった。 一念は今迄に覺えの無い生きど、としたカの體中に充ちてゐるの それは此女の不純な心持に萌すものとしか思はれなかった。 を覺えた。此力が今迄何處に潜み隱れてゐたのだらうかと自分でも 「僕はもう歸る。」 不思議に思はれた。 さう言って立ち上った一念をお三千は抱きすくめるやうにして留 一念はもう何の躊躇も無しに強い足踏をして山路を辿った。 めた。其涙は再び一念の顔の上に降りそ乂いだ。 圓岳和尚の居る寺の前を通った時に、一念はもう和尚の事を考へ てゐなかった。和尚の寺は森閑としてゐた。 其時終にお三千の涙にほだされ和らげられた自分を、一念は腹立 たしく思ひ乍ら今山路を歩いてゐた。 一念の心は忙がしかった。此山道を通る人が少しでも近道と思っ 「あの時もさうであった。その次の時もさうであった。その次の時て自然に足跡をつけた徑は必す見逃さずに通った。其一つの徑に這 もまたさうであった。いつも三千歳の涙に包まれて、一時の滿足を入って行った時に、一念の眼の前に二つの黒い塊がぶらさがってゐ 得て歸って來るばかりだ。」 るのに氣がついた。よく見るとそれは二匹の大きな蜘であった。 一念は腹立たしさうに大地に唾を吐いた。其時向うの岨道を歩き それは此狹い間道の住手を塞いで二つの大きな網を木の枝に張っ ながら尚ほ心配さうに此方をふり返ってゐる圓岳和尚のあることをてゐて、其各、、の網の心に帝王の如く蜘が座を占めてゐた。さうし 一念は思ひ出した。 てふと見ると其うちの稍よ小さい方の一匹は風も無いのに左右に動 搖してゐた。尚よく見るとそれは自分のカで網を踏張って自分の體 其時一念は圓岳和尚が何といふことなくなっかしかった。ふと駈を搖り動かしてゐるので、他の一匹の蜘に戦を挑んでゐるのである 足で其あとを追って行き度いやうな心持がした。 ことが判った。一念はふとこの蜘の珍らしい振舞に心を奪はれて立 「追ひついたところで詰らない。」 ちどまった。 すぐ其あとからさう考へた。和尚の姿は拭き取るやうに木の間隱 稍よ小さい方の蜘は動搖を續けてゐた。其振舞は段々と強まって 法れになってしまった。 益よ他の蜘に肉薄するやうに見えた。それはかなり長い時間であっ 流それかと言ってこれから横河 ( 歸る心持にもどうしてもなれなかたが一念は辛抱して見てゐた。やがて今迄靜まり返ってゐた大きな った。洗ひかけた飯櫃はどうなってゐるであらう。今日此儘歸らな方の蜘は、敵が自分を侮って愈よ眞近く肉薄して來た刹那、俄に活 かったら、老僧はじめ又一同が騷ぎ立てるであらう。 3 動を開始したと思ふと、もう其瞬間小さい方の蜘は大きな蜘の捕勝 6 「愈よ今日山を下りてやらう。」 となって、くる / く、と尻から吐き出す糸にからまれてしまった。
あつら でも牛肉でも客から誂へたものには一割とか五分とかロ錢を必らずやうな心持がして晴れみ、した顔をして言った。 「え、さうしませう。」と春宵も景氣よく答へた。 取るといふ事であった。 二人は今日は牛肉屋へ上った。 「二十錢の牛肉に正味十七錢のものほか客に出さぬのか。」と初め 「此牛肉屋はなか / \ 立派だ。額も油繪を挂けてゐるね。」とコロ て合點のいった時春宵は厭な心持がして、今迄自分も此下宿に居た ーム版の古びた額を文太郎は感心して見た。それから今の貸下宿を 間はさういふやうに取扱はれてゐたのかと腹立たしく思った。けれ ども成程さういふわけで下宿屋といふものは儲かるのかと思ふと田借りるとして一番に手を人れねばならぬのは壁や懊だと考へた。嘗 たのも 舍で貧乏してゐた兄がこれから取附く商賣としては賴母しいやうなて自分の田舍の家の壁や懊を張替へて見違へるやうになった事を回 心持もした。唯不思議なのは兄の文太郎はそれを當然の事として更想した。 に驚きもせねば喜びもせぬことであった。驚かぬどころか却て、 「それで酒屋や牛肉屋の方は割引はして呉れないのですか。」と文 文太郞は矢張り昨日の如く盃を擧げるのが非常に樂しさうであっ 太郎の方から進んで斯んな事も聞いた。さうして女將はそれは勿論 た。さうして、 して呉れると答へた。 「流石に東京だ、牛肉も旨い。」と舌を鳴らして食った。それから 「片方では商賣人から割引して貰ひ又片方では客からロ錢を取る。 月末客に二十錢と請求する牛肉が其實は十五錢程のものになるわけ國許の家を賣ってあの貸下宿の雜作を買ひ取る件などを相談した。 何でも春宵の言ふ事を信用する文太郎は初めから盛春館の女將を だ。」と春宵は愈驚いて、成程これなら儲かるわけた、全く賴母し 疑はなかった。 い商賣だと思った。けれども何處となく又其うちに不安を覺えた。 おかみ 「親切な女將だと弟はいった。が、實際逢って見ると親切な許り 法網を潜って働く大罪とも思はなかったが、明るみの仕事では無い やりて ゃうな心持がした。一應其貸下宿を見て女將と別れた後ち春宵は兄か、氣が利いて遣手らしい。」と一々敬服した。 「女將さんが雜作が餘り高いから負けさすといふ話であったがさう に此事を話すと、 「けれどもお前、さういふ事でロ錢を取るのが商賣ぢゃないか。又行けば結構だ。」と殊に又それを賴母しく思った。 にふよう 「此間から聞かうと思って居たのですが嫂さんは下宿屋に賛成なの 實際さういふ使ひ歩きの爲めに下女の一人位は餘計に入用なわけだ からの。」と文太郎は言った。春宵は成程と合點した。さうして見ですか。」と春宵は聞いた。 こちら くら 「嫂さんはあの通り餘り健康な方で無いから第一東京へ來るのが厭 ると何も暗やみの仕事といふわけでも無いと判った。 「客の爲めの使ひ歩きをする爲めに下女一人を要する。其下女の食らしいが、併しもう念して居るさ。」と文太郎は無造作に言った。 師 ぶち 諧糧や給料の爲めに客からロ錢を取る。極めて明瞭だ。公々然たるもけれども其顔は少し曇った。 それからいろ / 、今迄苦辛した生活難の話をして、家のほかもう のだ。」と何か今迄判らなかった浮世の事實が初めて判ったやうな 殆ど財産は無くしてしまったと言った。春宵が十歳前後の頃迄はま 心持がして春宵は非常に愉快を覺えた。 さすが 「春三郞、昨日の料理は旨かった。流石東京ちゃ。今日も一つ何處だ可なりの財産があったのだが、其後ち種々の事業に手を出して大 かで食らうか。」と文太郞は今の貸下宿がもう自分のものに極った概は他人の爲めに損をした。尤も文太郞自身も茶屋酒を飲んで愉快 かへつ くひ ざふさく わえ
に思ふのである。今此宿に來て見ると、矢張り温泉は昔の通りの温 泉、庭の大木は昔の通りの大木い裏を流る川は昔の通りの川、周 圍を取圍んでゐる山も昔の通りの山、温泉客を此處に運んで來る乘 合馬車のフツ。ハの響さへ昔の通りの響である。が、其でゐて、其二 十年前の事を思ひ出して見ると、其はもう古い古い昔の事のやうに 思はれて、何だか違った世の中の出來事のやうな心持さへするので ある。隔世の感といふのは大方斯ういふ心持をいふのであらう。 今度來た私は鞄に一杯詰め込んで來た仕事の事のみを氣にしてゐ るのである。今の私に前途といふやうなものがあるであらうか、考 私は今或温泉に來て居る。此温泉には二十年程前に一度來たこと あげく がある。其は或大病をした擧句であって、其時は醫者から一度見放へて見れば無いことも無いやうであるが、其を考へてゐるよりも目 の前に迫って來てゐる仕事の方が強く自分を壓迫して來て、唯共に された位であったのが幸に快方に向って、其恢復期を此温泉で過ご はたち のみあくぜくしてゐるのである。此宿の一間に陣取って、此處で愈よ したのであった。二十年程前といふとまだ私は二十を澤山越してゐ ちのみご なかったので、私は早婚ではあったが、其頃はまだ乳呑兒が一人あ若干日を過ごすことと極めた時も第一其山の形も水の形も餘り眼に 入らなかった。唯私の眼の前には仕事を詰め込んだ鞄が聳えてゐる る位のものであった。 其頃私はこ長の温泉につかりながら心は歡喜に充ちてゐた。すん許りであった。 たと 同じ温泉を浴びながらも私は昔の心持を呼び起こさうとさへ思は での事で死ぬるのであったのが命をとりとめた、といふ喜は喩へる なかった。あの頃唯一人の乳呑兒を抱へてゐた妻も今はもう六人の にものが無かった。私は毎日何をするといふ事無く、唯ぼんやりと 子持ちである。もう皮膚にも光澤が無くなり髮の毛も薄くなった中 温泉につかって、洋々たる春のやうな前途を自分で祝輻してゐた。 家庭には漸く此頃片一一一〕交りに喋り出した子供を抱いて若い妻は私の婆さんである。其頃絡につきかけて有望なるものの如く思はれてゐ た事業はどうであったか、幾多の波瀾を經た後格別目ざましい事も 歸るのを待ってゐたし、其頃私のやりかけて居った事業も豫想した よりは都合よく運びかけてゐたので、其も此際一發展すべく私の歸無しに現在ある通りの从態である。今になって見るとあの當時若い 京を待ってゐるやうな始末であった。此際半月や一月歸るのが後れ心を躍らした程のものでは無く、元來事業其ものが平々凡々たる詰 たところで家庭の方も仕事の方もさうたいした不都合があるといふらない事業であったことが判るのである。共でゐて私は毎日々々其 て とゞこほ り / 、した仕事を此鞄の中に詰め込 では無し、共よりも十二分に健康を恢復して、今後素睛らしい活動仕事に逐はれて、其積り / 、滯 をせなければならぬといふやうな、何事につけても前途にのみ希望んで此温泉に落延びて來た始末である。温泉に這入るのも餘り蓮動 葉を繋いだ心の張りを持って悠々と此温泉に漬ってゐたことを私はを缺いて腹が空かぬので仕方無しに、運動代りに這入るのである。 さすが 稍古い昔の事のやうに思ひ出すのである。十年や二十年昔の事で出て來るとすぐ日受のい、座敷に陣取って仕事に取りか乂る。流石 礙も、恰も昨日の事のやうに思ふといふのが世間の常であるが、私はに山間であるから朝晩は冷えるけれども晝中は暖か過ぎる程暖い。 けやき 2 私の部屋の前には大きな槻の木がある。其が盛んに落葉してをる どういふものだか、其が十年や一一十年よりも、もっと古い事のやう 落葉降る下にて