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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

日本現代文學全集 25 高濱虚子・河東碧梧桐集 編集 整郎夫謙吉 光健 井村野本 伊龜中平山 昭和 39 年 9 月 10 日印刷 昭和 39 年 9 月 19 日發行 定價 500 圓 ◎ KODANSHA 1964 たかはまきよ 高濱虚 者 子 著 かわひがしへきご とう 河東碧梧桐 發行者 野間省 印刷者 北島織 發行所 株式會社講談社 東京都文京區音羽町 3 ~ 19 電話東京 ( 942 ) 1111 ( 大代表 ) 振替東京 3 9 3 0 し 大日本印刷株式會社 印 刷 寫 眞 製 株式會社興陽社 版 印 刷 製 本 大製株式會社 株式會社岡山紙器所 製 株式會社第一紙藝瓧 背 革 小林榮商事株式會社 表紙クロス 日本クロス工業株式會社 ロ繪用紙 日本加工製紙株式會社 本文用紙 本州製紙株式會社 函貼用紙 安倍川工業株式會社 三菱製紙株式會社 見返し用紙 紳崎製紙株式會社 昴用紙 落丁本・亂丁本はお取りかえいたします。

2. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

布衣の策す經國に霜日和あり は、場合によって實際の感じと衝突せざるを得ぬ。老人の愚痴と殆 ネル産地まで直行や霜日和同 んど好一對をなす靑年の譫語と見ることもある。靑年の譫語は大體 机上靑き紙に新意や霜旦水仙籠 に於て常識を缺くものであるけれども、時に大局の上に一種のヒン 蒲團縫へり霜日和地震知らざりし同 トを與ふる場合なきにしもあらすである。 垣竹に埃花見つ霜の後映紫樓 「日本俳句」は我等の信ずる新傾向の句を以て埋まってをるもので 汐ざえる名殘とも霜さびの雲碧梧桐 はない。正直に言へば、舊傾向の興味を存する句が過半を占めてを 根蔕の宿弊霜にもげにけり同 る。敍法には舊欒臼を脱したものがあるとしても、其著眼點若くは 舟伏せしに國栖の古事霜降りて同 興味中心は、舊態度に立つものが多い。新らしい著眼點を握って幾 道の霜拾へるを近江聖人へ同 分新らしい試みをしてをるものは、殆んど指之を屈するに足る程で ある。選者たる予が舊敎育に馴れた者であるが爲めに、さる結果を 十一月ニ十四日。曇、靄深し。 來たすといふことの外に、大部分の作者も亦た予と同様の經歴であ こでも予の感ずる最新傾向談をした。さうして左の如きことを るといふことも考へねばならぬ。或は我輩の平生の主張と「日本俳 附け加へた。 句」とが一致してをらぬと評する人もあるが、恐らくは俳人の内情 現在の「日本俳句」を、度外れをしてたゞ向ふ見ずに前進してを を等閑視して、單に抽象的に革新の意義のみを捕へていふのであら ると解する人は、「日本俳句」中の十中の二三の特例を捕へて、そ う。若し眞に革新の事業に努力する逹識者であるならば、「日本俳 を云爲してをるやうである。新らしい試みに對する批評の標準は、 句」中に散見する指屈の一二例に著眼して、そこに大勢の推移を直 普通の句に接する批評の標準よりも更に區々である。殊に新たなる覺すべきである。若し其直覺が歳月を追うても毫も起らぬといふな 或物を得たいと現在句作裡に沒頭して努力しつゝある者と、數年間 らば、其人は我等と道を異にするものであると斷定しても大なる誤 句作の興味を忘れて、単に客顴的批評の地に立つ者との間には、自謬ではない。寧ろ各よの信ずる道に依りて努力するを意義ある事と 然に一大溝渠を生ずる。二三の特例に對する惡評若くは不平は當然思ふのである。我等の立場より言へば、「日本俳句」の與ふる指屈 に生れねばならぬ運命というてもよい。我等は時にそを時代後れをのヒントに依りて、大勢を直覺するの士が日に多きを加へ、其直覺 した老人の愚痴と見なすこともある。老人の愚痴は多くの場合、大に件なふ旺盛な句作の月に長ずるに隨うて、我等の希望する新傾向 局の上に影響はないとしても、末節の點に幾分の利目はある。 の世界の現出を早からしむるものと信ずる。 下 「日本俳句」を依然として舊思想を脱せない或る位置に停滯してを 元祿の昔に徴しても、芭蕉が俳句の新傾向を感得して或物を得ん としつ長も、尚ほ貞德檀林の舊趣味に拘泥してをつた間は相應に長 千ると解する人は、多く他の文學小説新體詩などに趣味を持っていふ もの如く思はれる。が、そも多くは「日本俳句」中の二三の特例かった。自己の主張が明らかに樹立されたのは、殆んど奧の細道以 續 を捕へての評論である。俳句の形式と相待つ一種の束縛、或點より 後である。奥の細道以後芭蕉は十年とは生きて居らなかった。前後 言へば如何にも窮屈なる束縛の下には、自然的制裁が思想の上にも十年の努力が、俳句界に未曾有の革新をして、さうしてそれが千古 3 動くといふことを忘れてはならぬ。突飛なる革新、不規則なる發展不磨の事業として遺留してをることを思へば、我等の今日の一年は

3. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

良・南紀等をめぐり、五月は岐阜の鵜平方。三月『日本俳句鈔第二集』出版。四月大和七月長谷川如是閑・一戸直蔵と日本アルプ ス登山。十・十一月滿鮮旅行。この間、「日 月末東本願寺遠忌參拜のため京都〈行った臺ヶ原登山。さらに九州旅行。七月は北ア ルプス白馬登山。十月は越後阿賀野川探本及日本人」に外國文學論・總選擧論・美 が、のち東海道をへて、七月十三日歸京。 全國旅行 ( 一・二次合せれば一一〇四日、旅費勝。また、東京俳句會第百回大會を芝浦の術論など執筆、「龍眠」にも稿を載せ、『新 傾向句の研究』『日本の山水」を出版した。 約七 0 〇 0 圓という ) を終えた。この間、無見晴亭で催した。 中心論の論議盛り、『文章世界』で文壇各界 * 虚子「所謂新傾向雜感」。乙字「季題の意義を論 * 虚子「進むべき俳句の道」開始。乙字「現俳壇 の人々」。井泉水「眞實を求むる心」開始。櫻 の人氣投票があった時、俳人では鳴雪に去ず」。井泉水「昇る日を待っ間」。一碧樓『はか 碑子『閭草の門』。東洋城「澁柿」、亞浪「石 ぐら』。書道誌「龍眠」創刊。露風『白き手の ぐ二位となった。この年「層雲」等碧派俳 楠」、蛇笏「雲母」、銀波ら「射手」各創刊。 獵人』。茂吉『赤光』。 誌の創刊があり、年末はまた俳三昧會を開 大正五年 ( 一九一六 ) 四十四歳 始している。 大正三年 ( 一九一四 ) 四十二歳 * 乙字「俳句の立場を自覺せよ」「人事は季題に 一月小説「一から四まで」發表、『續 = 一千里二月乙字編『碧梧桐句集』出版。この年、 すべからず」。井泉水「雲」、一碧樓「試作」、 「徹底せざる俳句觀」「直接的表現」「手段 天郞ら「朱鞘」、松宇「にひはり」各創刊。秋上卷』出版。三月上根岸七十四番地の家が 狹いので、同番地の奧の家 ( 移る。この頃としての純一化」など發表。五月播州地 聲「黴」朝外「雁」。 葛野流の太鼓を習う。四月歸鄕。九月急性方、八月奥羽地方〈旅行。この頃、連年 「日本及日本人」等に俳事以外の時評・美 四十歳 腸カタルを病む。秋各、乙字・一碧樓らと 明治四十五年 ( 一九一一 l) 大正元 再び親しくなり、俳一一一昧會も催された。こ術論・文學論などの執筆も活發であった。 * 四月虚子國民新聞の選句を東洋城からとりもど 一月「新傾向の變遷」 ( 日本及日本人 ) 。冬との年「日本及日本人」にはよく美術評論な す。水巴「曲水」創刊。鷓外「澀江抽齋」。百三 ども載せた。また、「層雲」とは無縁となる 春に俳三昧句會、よく俳談會も催す。飛 「出家とその弟子」。漱石歿。 北陸・越中黑部など ( 旅行。年末は岐阜が、この頃から自由律に入ったと見られる。 〈赴いて、鵜平方で越年。この年、一次一一 * 虚子「俳句の大道」開始。乙字「俳壇復古論」。大正六年 ( 一九一七 ) 四十五歳 次旅中句集 ( 屠雲 ) 、明治大帝追悼の記・文「屠雲」四月季題止。八月『自然の扉』。三 四月上根岸八十二番地の能舞臺のある家に 汀ら「都會と吾人」、折柴ら「ツチグモ」、和露 展に對する私見 ( 日本及日本人 ) 等の稿があ 移り、同好者を會して能樂をたのしみ、鳴 「阿蘭陀渡」、地橙孫「白川及新市街」各發刊。 譜 丿こ。 雪古稀祝賀の演能には「自然居士」のワキ 年 光太郞『道程』。八月對獨宣戦布告。 桐 * 射穹ら「紙衣」、一碧樓ら「第一作」、鵜平「壬 をつとめた ( シテは虚子 ) 。「海紅」に「長句 碧子集」各創刊。ホトトギス雜詠選復活。乙字大正四年 ( 一九一五 ) 四十三歳 論短句論」「人間味の充實」など、その他 河 「生命を枯らしつつある言語の濫用」朝漱石「彼 一月『新傾向句集』出版。三月一碧樓・鵜「日本及日本人」「龍眠」等にも執筆したも 岸過迄」。 1 平・乙字らと「海紅」創刊。四月「現實味のが多かった。夏、松山に歸省。この年、 大正二年 ( 一九一 lll) 四十一歳 俳論俳話集『碧梧桐は斯う云ふ』出版。 と眞實味」發表。五月乙字「海紅」を去る。

4. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

日本現代文學全集・講談社版 25 子桐 虚梧 高河

5. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

日吉丸三段目半分すみ居たり。小 土佐の菅原傳授鑑松王首實見の段方の表を通りしに又た土枝子、小上八の二人にひょっと出くハす赤 6 4 此間の如くきけぬなるべしと覺悟せし故か、格別におもしろく思ハ 面する迄もなし ) 忠臣藏のつゞきにて小土佐ハ九段目山科閑居の段 れたり。 を語る、矢はりうまし。仲入後ハ總かけ合にて一カ茶屋の段を語 廿八日睛 る。小土佐のおかる、鐘吉の由良の助、玉枝の平右ヱ門、千歳の九 朝ゾフを讀む。 太夫、龜千代の番内等にて太鼓、長唄入さう & 、しき事限りなし。 晝後常盤舍に赴く。 かへりて寢につけパ十二時をきく。 夕飯後靑木來る、共に出で國に到り牛肉を食ふ。けふ宗重 ( 日本 五月一日睛 へ發句投書する人 ) に一書を出す。 朝例の如し、晝後爲替をとりに行く。返事來らずとてくれず、昨夜 廿九日睛 來鼻血出でゝやまねバ頭髮を一分に刈り盡す。常盤舍にて山本を訪 朝ゾ一フを讀む、二十四。ヘージに到る。 ふ、在。壽しをおごる。沐湯してかへる。枕を横にしてしばらくう 晝食後芝へ赴き池内にて金壹圓を貰ふ。歸途名刺用紙百枚を買ふ、 た、ねす。山本、亠円本來る。日くれて後よせに行かんかとさそひし に錢。 も ( 若竹にハ越子あり小土佐ハ劔樂坂の石本なり ) 行き度なけれバ 夕飯後鳴雪先生を訪ふ、二十七日の日に佐倉へ行かれ唯今歸へられつきあハず。寓に在て終霄を費し暮春七章を作る。日本へ投ぜん爲 たるなり。 めなり。夕食後寓にありし事之を始めとす。都新聞ハ梅乃に送る。 八時頃吹ぬきへひとり出かけぬ。素行終り居りて永の助なりし小土 二日睛風あり 佐の合邦辻の段いつに似すまづし。中途にしてかへり藪蕎麥にて一朝例の如し。書後郵匣局にて爲替をうけとる。新聞就に暮春七章を 杯をひっかけかへる。 投す。祁田東陽館にてハンケチ及び卷紙を買ふ。鳴雪先生を訪ふて 陰風少しくさむし 發句談。靑木の處にて雜談、單衣一枚をかりてかへる。夕方袷を七 朝虚子より端書來る。書する處僅に維摩默然の四字のみ。晝前正岡屋にもて行き、六十錢を得たり。夜一人して石本亭に赴く。小土佐 へ行き萬葉集と The Works Tennison をかりかへる。歸途新の廿四孝、十種香の段おもしろかりし。歸途藪蕎麥にて一杯をひっ 聞屋に立ちより明日より都新聞を送りくれとたのむ。 かく。此日より單衣となりぬ。更衣ハやし。 晝後日本新聞社へ行き歸途寶生新朔先生を訪ひ、小談常盤舍により 三日陰 て天岸君と雜談、蓋し新朔先生の言傅ありし故なり。 朝例の如し。日本に暮春七章を五章にして出す。晝後塢雪翁を訪 夕飯後かへれ・ハ虚子より電報來る。 ふ。坐に信州の俳人奇峰あり。年二十五六かねて子規と文通ありし ホウガクイントリカへテクレカネアトヨリ 矢ヶ崎榮玖郞なる人なり。今朝より會談ありしなりと蓋し少しく發 簡にして明瞭ならねど四月分の月謝未だ收めて無けれ・ハ至急おさ句の眞味を解するもの、如し。予の來りしとて題を課して三人句會 めくれとの事ならんと推し、天岸君に一圓をかりて直ちに四月分のをなす。四時過山本の處にて質張を借り、予ハ單衣一枚を出す。三 聽講券を買ふ。藪蕎麥にてそばを食ひ直ちに吹拔に行く。けふ許と十錢、靑木の時計をばらしてくれとのたのみにより三圓に入れあり 思へバ何となく去り難き心地すれバなり。 ( 法學院より歸途小土佐し上尚六圓を借る。夕飯後靑木來る。欽第を話す。去らバ驕らんと

6. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

6 黒田忠次郞「碧梧桐に與ふる書」 瓜生敏一「碧梧桐と態本」 ( 東火昭和二七・三 ) ( 明治書院俳句講座七昭和三四・ II) ( 同前 ) ( 『嵐の來る時』大正六・八 ) 喜谷六花「三千里について」 阿部喜三男「自由律俳句史」 水上茂「思想上より見たる碧梧桐氏の藝術」 ( 俳句研究昭和二七・八 ) 瓜生敏一「月斗と碧梧桐」 ( 同人昭和三四・三 ) ( 海紅大正八・三 ) 武田悅「河東碧梧桐」 ( 學苑昭和二八・ (l) 荻原井泉水・楠本憲吉「新傾向から自由律へ」 風間直得「河東碧梧桐」 瓜生敏一「碧梧桐と父靜溪先生」 ( 俳句昭和三四・九 ) ( 改造社俳句講座五昭和七・七 ) ( 草莖昭和二八・一一 ) 北住敏夫「靑春時代の碧梧桐と虚子」 宮田成子「河東碧梧桐論」 ( 國語と國文學昭和三四・一一 ) 阿部喜三男「碧梧桐の日本俳句」 ( 俳句研究昭和一〇・一 ) ( 連歌俳諧研究昭和一一九・六 ) 龜田小蛄「日本新聞をめぐる日本派」 太田鴻村「日本俳句鈔」 ( 俳句研究昭和三五・五 ) 瓜生絞一「碧梧桐の家系」 ( 草莖昭和三〇連載 ) ( 俳句研究昭和一〇・一一 ) 伊澤元美「河東碧梧桐論」 ( 俳句昭和三〇・六 ) 瀧井孝作・楠本憲吉「碧梧桐を語る」 山口靑邨「續春夏秋冬」 ( 俳句昭和三五・六 ) ( 同前 ) 西垣卍両子「三昧と短詩運動」 ( 同前 ) 齋藤淸衞「新傾向運動の特質」 ( 新俳句昭和三〇・九 ) 龜田小蛄・楠本憲吉「明治俳句史の一齣」 ( 俳句昭和三五・七 ) 安齋櫻碑子「碧梧桐を繞る人々」 ( 同前 ) 阿部喜三男「新傾向初發期の様相」 ( 同前 ) 吉田精一「虚子と碧梧桐の道」 ( 俳句昭和三〇・一 (l) 喜谷六花・楠本憲吉「碧梧桐とその流れ」 ( 俳句昭和三五・一一 ) 「新傾向展開期の様相」 長谷川素逝「子規歿後に於ける碧虚第一次の論戦」同 ( 俳句昭和三一 ( ホトトギス昭和一二・四 ) . 一一 1) 喜谷六花・阿部喜三男「碧梧桐師弟」 ( 俳句研究昭和三六・ 生方たっえ「負けなかった碧梧桐」 吉岡禪寺洞「河東碧梧桐先生を語る」 ( 同前 ) ( 俳句昭和三一一・四 ) 北住敏夫「碧梧桐の俳論」 ( 天の川昭和一二・六 ) ( 同前 ) 伊澤元美「碧派の三系統」 阿部喜三男「新傾向分裂期の様相」 阿部喜三男「碧梧桐の俳風」 ( 俳句研究昭和一二・六 ) ( 同前 ) ( 俳句昭和三一一・八 ) 池上浩山人「碧梧桐と虚子」 長谷川素逝「温泉百句論爭以後」 同 「河東碧梧桐年譜控」 阿部喜三男「碧梧桐と北海道」 ( ホトトギス昭和一二・一 0 ) ( 明大日本文學紀要昭和三二・九 ) ( 葦牙昭和三六ー三七連載 ) 平井程一「碧梧桐の歩んだ道」 同 加藤楸邨「新傾向の句」 「月斗・茂枝・碧梧桐」 ( 俳句研究昭和一三・一 l) ( 國文學解釋と鑑賞昭和一一一三・ ( 同人昭和三七連載 ) 中塚一碧樓「俳三昧の思ひ出」 伊澤元美「自然主義の俳句」 瓜生敏一「禪寺洞と碧梧桐」 ( 俳句研究昭和一三・六 ) ( 國文學昭和三三・ ( あまのがわ昭和三七・五 ) 安齋櫻硼子「續春夏秋冬の思ひ出」 阿部喜三男「碧梧桐と煎餅屋」 ( 靑芝昭和三三 ・三 ) 阿部喜三男「新傾向俳句論」 ( 俳句研究昭和一三・九 ) 同 ( 國語と國文學昭和三八・四 ) 「碧梧桐と乙字の一端」 同 「河東碧梧桐」 ( 俳句研究昭和一四・五 ) 「碧梧桐と三千里」 ( 主流昭和三三・ ( 國文學昭和三八・六 ) 野村泊月「河東碧梧桐」 大野林火「河東碧梧桐」 ( ホトトギス昭和一七・四 ) ( 明治書院俳句講座六昭和三三・一 0 ) 北住敏夫「碧梧桐と虚子の俳句活動」 ( 文化昭和三八・一 0 ) 内藤吐天「續春夏秋冬と日本俳句鈔第一集」 瓜生敏一「河東碧梧桐」 ( 東炎昭和一七・八 ) ( 明治書院俳句講座八昭和三三・ 編集阿部喜三男 田秀夫「新傾向初期の思潮を顧みて」 大野林火「明治大正期俳句の展開」 ( 俳句藝術一一昭和二三・ ( 國文學昭和三三・ 阿部喜三男「碧梧桐の回想」 伊澤元美「碧梧桐と井泉水の新傾向」 ( 同前 ) ( 民生昭和二五ー一一九連載 ) 龜田小姑「碧梧桐の俳三昧」 中村草田男「俳諧俳句」 ( みどり昭和三三ー三五連載 ) ( 至文堂日本文學敎養講座Ⅳ昭和二六・一 (l) 阿部喜三男「新傾向俳句史」

7. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

丸くして、其の早熟を語ってゐました。女になるまでの十年、私に 2 は一種の懷古の感とでも言ひませうか、淡い喜びと悲みとがごっち やになって、夢のやうに目の前に漂ふのでした。 くれえ、も私は子に謝まらなければなりません。ゃう / 、女に なった位の若さ、女になる前後には、人生の第一の動搖とでもいふ べき思想の變化の來る大事な時期に、自分の運命に疑惑を感じなけ ればならないやうにした私逹の罪の深さを謝らなければなりませ ん。自分で解決のつかない大きな間題に惱んでゐる共のいちらしさ が、私にはたゞ可愛相なのです。 : : : そんな重荷を背負はさねばな 明治三十九年八月六日、日本全國遍歴を志して東京の寓居を出 らなくなった私逹 : : : それは何たる暴君なのでせう。順當に伸びて づ。之を第一次旅程とす。日々の見聞を敍して「一日一信」と題 かしやく 行くべき萌芽を猛雨惡風で虐げる、苛責の鞭を加へる : : : それを思す。纂めて一卷となすに當って「三千里」と改む。 うては、悪辣な運命の迫害を呪はずにはすまされまぜん。どうか 一日一信は始め之を新聞「日本」に掲載す。後雜誌「日本及日本 子に向って、其の重荷を幾らでも卸ろす事の出來るやうに仕向けて人」に移す。 下さい、お願ひするのはたゞこの一事であります。 旅中の筆散漫放逸殆んど文章を成さず。三千里と改むるに及んで 多少の改刪を加ふ。然も尚ほ蕪雜拙劣を免れず。大斧鉞を加ふべき を思うて未だ果さず。 三千里は予が旅中唯一の事業なりき。然れども究極の目的にはあ らず。 三千里は短時日なれ共、一面俳句の歴史を意味す。讀む人其の推 移變化の跡を看て、之を研め之を評するの力あらんことを欲す。 三千里は之を第一一欽旅程中匇忙の間に於て編纂し完成す。而して 上梓の機亦た屡よ蹉跌す。踈漏社撰の罪は甘受する所なり。 旅中吟は一信中に漏れたる各地の拙作を拾へり。雜誌「懸葵」に 連載せしものなり。 固と質素の裝釘を得て世に見えんとす。上梓蹉跌の間、遂に如是 の美裝を凝すに至る。世事意の如くならざる概ね斯の如し。 本書成るに及んで、予の行に援助を與へられし人々、及び予の 款待に吝ならざりし各地同人の厚意を想ふ。 ( 大正七年一月 ) 三千里抄

8. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

4 の代表句として擧げられた 俳句を据え、進歩主義を弭調、一二月二六日年に出た『日本俳句鈔』第二集はその頃の碧 の「續一日一信」では、「超脱趣味・寫生・門の諸作を集録したものである。乙字は四三 思はずもヒョコ生れぬ冬薔薇 個性發揮・接社會的」の面を具體的な特徴と年春頃から碧梧桐の新傾向運動發展を喜ば して認めるに至っているのである。 ず、「懸葵」「蝸牛」に據って屡よこれを駁し が出來た。更に宮城・盛岡を經て靑森で越この年の五月、政敎社から出版された『日始めた。 年、北海道に渡り、秋田・新潟・長岡を經て本俳句鈔第一集』上・下はこの期の所産を集この乙字の批判に績いて、明治末年頃より 母の病いに會い、旅行を中止して歸鄕、この旅録したものである。 井泉水も別の立場から非難、次第に反碧傾向 行記は「ホトトギス」九月號に「三千里曰」 これよりさきの四月、碧梧桐は第二次全國が現われ始めたのである。一方、一碧樓は碧 として掲載されたが、永續せず、あとは「一旅行の途に上り、旅行記は「續一日一信」と梧桐の意志に反し「第一作」で季題・定型に 日一信」と題して「日本新聞」・「日本及日本題し「日本及日本人」に連載、大正三年、そとらわれぬ句作活動を展開、最も前衞的な動 人」に續載され、四三年單行本「三千里』との前半のみ『績三千里』上卷として上梓されきを示し、日田亞浪と結んで季題奪重の側に して刊行された。 た ( 後半は未完 ) 。山梨・長野・新潟・富山・立っ乙字、「層雲」に據り自由律俳句を推進 明治四二年一月、東京日日新聞に「新俳風石川・輻井・岐阜・名古屋・三重・京都・鳥せんとする井泉水、止むを得ず一碧樓と共に 論」を執筆した乙字は、更に根岸短歌會から取・島根の諸縣を廻り越年、九州に渡り、四「海紅」を出そうとする碧梧桐と、碧派分裂の 三井甲之の編集で出された短歌誌「アカネ」國を經て、廣島・岡山、祚戸で越年、京都・様相が次第に表面化していったのであった。 ( 創刊號 ) に「俳句會の新傾向」を發表、碧門奈良・和歌山・岐阜を通り、四四年七月に東①グ現今の俳句界み ( 「ホトトギス」明間 ) 虚子 当現今の俳句界」を読む久「ホトトギス」・Ⅱ ) 碧梧桐 の俳句は從來の直敍法・活現法の句から隱約京に歸着するという、足掛け三年にわたる空 ″再び現今の俳句界に就て第 ( 「ホトトギス」・貶 ) 虚子 法・暗示法とよび得る句へ發展したものでそ前の大放行であったのだ。 れを新傾向と斷じたものである。 この旅甲一一月に但馬城崎で新鋧中塚一碧 三、自由律時代 これに對して碧梧桐は「日本及日本人」六樓との出會いを大いに喜び、翌年の冬、岡山 月號に「新傾向大要」を載せ、「文學の墮落縣玉島で 大正四年三月、「海紅」が創刊された。創刊 は多く型式に拘泥するに始まる」と説き、更 號で碧梧桐は「我等を押し進めん」を書き、 に八月號で「俳句の新傾向に就て」を發表、雨の花野來しが母屋に長居せり 響也同人銘々の自由な道を認めると述べている。 乙字説を是認の上、個性發揮から生ずる新俳相撲乘せし便船のなど時化となり碧梧桐そして「海紅」の作品傾向は、季題奪重、自 風としてこれを大いに高唱するに及んだ。 由律容認の線に沿ったものであった。結果、 四二年、更に碧梧桐は、二月二〇・二一日などの句に發する、いわゆる無いか論を唱「層雲」側は前者を非難、乙字の據る「石楠」 の「國民新聞」に「俳句の新傾向」、續いてえ、從來の俳句に見られるような中心點のな派は後者を批判という、兩派の攻撃を受ける 「日本及日本人」二月號に「俳句の新傾向に就い、自然現象そのままに接する句を以て新傾に至ったのである。 てⅱ再び」を載せ、自然主義思想の影響下に向の一歸着點と見做す論を發表した。大正一一「海紅」は順調に刊行されたが碧梧桐は、

9. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

380 かい棒が取り拂はれたやうにフラ / 、としてしまった。自分を支持 するものは、自分の外にはない、そんな考へが泉の湧くやうに意識 されて來た。さうして「日本」俳句欄の代替りの悲哀を痛切に身に 刻み込まねばならなかった。私は勢ひ感傷的にならざるを得なかっ た。若し私が多少とも、人間とか人生とか、個人とか社會とかいふ 我々生活當面の問題に、私だけの解釋を下し得たとしたら、それは 言ふまでもなく、子規歿後の孤獨感と、「日本」代替りの悲哀觀の 賜物であったと言ひ得る。 明治三十五年子規が歿してから約一ヶ月夢のやうに過してゐる中 代替りの直接の悲哀は、投句者によって裏書きされた。子規時代 に、重い役目が私の頭上に落ちて來た。新聞「日本」の俳句欄の選の投句者は。ハッタリ影をかくしてしまった、まさか投句哀願の手紙 をすることがそれであった。今でもはっきり想ひ出すことの出來る を書くことも出來なかった。よろしい、新たな投句者を作るより外 二つの問題が、私の目の前に橫はってゐた。一つは、子規の開拓し に道はない、と言った反抗氣分をさへ唆られるのたった。 た史のある俳句欄を擔當することの可否、言ひかへれば、荷が勝 代替り當時の「日本」俳句欄は、私と碧童とで、作ったやうなも ち過ぎはしないかといふこと、今一つは、それと反對に、病氣のせ のだった。明日の材料がないと言っては、碧童を呼び出して、二人 いもあったであらうが、この一年間位の子規の選は、正直に言へばで對坐吟をやり、それで間に合せたことも一再ではなかった。隨分 ダレてゐた。それをどう振興すべきであるか、といふ二つであっ苦しい對坐吟であり、又た緊張した對坐吟でもあった。それまで た。一つは自己否定に出發し、他は自己肯定に立脚した、相矛盾しは、面白半分の句作をしてゐた碧童に、職業的とも言ふ・ヘき句作感 た考へであった。私は可なり永い間、この矛盾した二つの考へに累を強ひたことも、當時は已むを得なかった。 ひされて、時には悲觀もし、時には又た痩我慢を張ったりしてゐた。 一體魚河岸の若い衆、殊に父は場所でも派手な暮しをしたといふ 當時さういふ私の腹の中を十分理解してくれた、又たそこに熱情チャキ / \ の一人忰が、我々の俳句に興味を持っといふことが、一 をもって同情してくれた唯一の男は碧童であった。 種の奇蹟とも考へられた。それが勃興新俳句の一象徴であるとも言 碧童と私との結びつきが、いっ頃から始まったのか、私には著しはれてゐた。のみならず、其の句作技倆は、多くの先輩を凌いで、 い印象が遺ってゐない。「日本」の俳句欄擔當當時の記憶が、今尚龍鱗一片の閃めきを見せてゐた。甲羅に苔の生えた連中よりも、紅 ほきのふのことのやうにまざノ、としてゐる。 顔の一アニイに輝く未來を囑望せざるを得なかった。 代替りといふことは、いっ如何なる場合でも、新たな責任者に、 子規生前、東京の新人として迎へられたのが、紫人、抱琴の一一亠円 一種の悲哀觀を味はしめる。先代に對する倩愛と義理と憧憬の絆が年であった。子規庵の忘年會であったと思ふ、輻引の中に、箒にビ まだ全く斷ち切られてゐないからである。まして子規の後の私で 一フをつけ、それに「ん」の字を書いたのがあった。題を「新進俳 は、當然ガタ落ちのした代替りでなければならなかった。 人」と言った。「ホーキン」という洒落であったりした。 私は子規に永別した時、今まで自分を支持してゐた何らかのつッ 八重櫻といふ多作家が出雲にゐる、平凡の行列に弱らせられる、 想ひ出話

10. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

年一月號より、連績掲載中 ) 近代』〈久松潜一編〉昭和三二・ 高濱虚子參考文獻 中島斌雄「俳句」 ( 大正・昭和 ) ( 至文堂『日本文學阿波野靑畝他『「虚子百句」鑑賞』 ( 輸講 ) ( 「かつら ・六 ) ぎ」昭和三五年三月號ー三八年三月號 ) 史近代」へ久松潜一編〉昭和三二 橋田憲明「一句に執すること」ーー・高濱虚子の古池 山本健吉「高濱虚子」 單行本及び單行本に所收のもの ( 明治書院「俳句講座第六卷』昭和三三・一 0 ) 句解ーー ( 「勾玉」昭和三六年五、六月號 ) 橋田憲明「虚子俳話ノート」「非人情」「非々人 輻田蓼汀「高濱虚子」 正岡子規「明治一一十九年の俳句界」 ( 明治書院「俳句講座第八卷」昭和三三・ 情」 ( 「年輪」昭和三八年三月號 ) ( アルス社『子規全集第四卷』大正一四・ (l) 太田鴻村「明治徘句史下」 飯田蛇笏「高濱虚子」 編集淸崎敏郎 ( 明治書院「俳句講座第七卷」昭和三四・ ll) ( 改社『俳句講座第五卷』昭和七・七 ) 伊澤元美「大正俳句史」 柏崎夢香『虚子の俳句を解く』 ( 明治書院「俳句講座第七卷』昭和三四・ ll) ( 山彦發行所昭和一一 ・六 ) 楠本憲吉「昭和徘句史上」 河東碧梧桐參考文獻 濱中柑兒『虚子五百句鑑賞』 ( 明治書院「俳句講座第七巻』昭和三四・ ll) ( 改造社昭和一六・五 ) 池上浩山人「ホトトギス史」 水原秋櫻子『高濱虚子』 ( 明治書院「俳句講座第七卷」昭和三四・ ll) 單行本 ( 文藝春秋新瓧昭和二七・一 (l) 大野林火「虚子秀句鑑賞』 北住敏夫『寫生説の研究』 ( 角川書店「角川新書」昭和三四・一 11) ( 角川書店昭和二八・三 ) 濱中柑兒『虚子と芭蕉』 ( 新樹社昭和三八・一 ) 松山市碧梧桐の會『碧梧桐』 ( 昭和二八同上會 ) 栗林農天「高濱虚子」 ( 東京大學出版會『日本文學 吉田精一「高濱虚子・斑鳩物語』 ( 三省堂『鑑賞山本健吉『近代俳句』 講座第一一卷』昭和二九・一 l) ( 昭和三三岩波講座日本文學史内 ) と研究現代日本文學講座第三卷』昭和三八・一 ) 山岸外史「高濱虚子論」 ( 明治の作家たち一 ) ( 昭和三五櫻井書店 ) 瀧井孝作『海ほうづき』 ( 英寳社『現代作家論叢』昭和三〇・一 ) 雜誌等に掲載のもの 西垣卍禪子編『自由律俳句文學史』 中村草田男「解説」 ( 「五百句、五百五十句、六百句」 ( 昭和三五新句社 ) 平畑靜塔「昭和の西鶴ー虚子の俳人格とその作 〈高濱虚子〉昭和三 0 ・三角川書店 ) 同 「現代新俳句の焦點』 ( 昭和三八新俳句瓧 ) ( 角川書店「俳句」昭和二七・七 ) 折ロ信夫「日本文學研究法序説」 ( 中央公論社 昭和 = 一四年六月號阿部喜三男『河東碧梧桐』 ( 昭和三九南雲堂櫻楓社 ) 『折ロ信夫全集第七巻』昭和三〇・五 ) 「ホトトギス」 ( 虚子追悼號 ) 昭和三四年六月號 「玉藻」 ( 虚子追悼號 ) 折ロ信夫「自歌自註」 雜誌その他掲載稿 昭和三四年六月號 ( 中央公論社「折ロ信夫全集第一一六巻』昭和三一・五 ) 「俳句」 ( 虚子追悼號 ) 昭和三四年六月號 折ロ信夫「追ひ書きにかへてーー、明治新派和歌」「俳句研究」 ( 虚子追悼號 ) 追悼特集ーー白塔 ( 昭和一二・一 I) ・海紅 ( 同一二・ ( 中央公論社「折ロ信夫全集第一一卷』昭和三一・六 ) 淸崎敏郞「虚子文學の本質上・下」 ( 角川書店「俳句」昭和三四・一 0 ・一一 ) ・懸葵 ( 同上 ) ・徘句研究 ( 同上 ) ・日本及日本人 ( 同一 折ロ信夫「左千夫の小説」「虚子文學の結論」 二・四 ) ・碧雲 ( 同上 ) 「流行と質」 ( 中央公論社「折ロ信夫全集淸崎敏郎編「高濱虚子執筆總目録控」 ( 「ホトトギス」昭和三五年四月號より連載 ) 特集・ーー俳句研究 ( 昭和三六・ ( 同三六・一 0 ) 第二七卷』昭和三一・ 高田風人子編「虚子年譜周遊」 戸澤百花羞「新傾向沿革」 ( 蝸牛明治四一一・一 ll) 獻折ロ信夫「虚子さんよ」 ( 中央公論就「折ロ信夫全集第二八巻」昭和三二・五 ) ( 「玉藻」昭和三五年一月號より連載 ) 大須賀乙字「碧梧桐の新句作態度論について」 星野立子他「研究座談會ーーー「五百五十句」「六百 ( 蝸牛明治四四・一 l) 柏崎夢香『虚子の句と生活』 ( 弘道閣昭和三一・六 ) 句」「六百五十句」「句日記」 ( 「六百五十荻原井泉水「日本俳句鈔第二集の原稿を見る」 ( を雲大正二・四 ) 楠本憲吉『一筋の道は盡きず』 ( 昭和俳壇史 ) 句以後 ) 「虚子俳話」「績虚子俳話」 5 ( 近藤書店昭和三二・五 ) ( 「玉藻」昭和三四年一〇月號より連載 ) 瀧井折柴「直接といふこと」 ( ッチグモ大正五・五 ) 4 伊澤元美「俳句」 ( 明治 ) ( 至文堂『日本文學史野見山朱鳥他「高濱虚子研究」 ( 「英火」昭和三三