は無かった。人の娘であった。兎も角もお霜婆さんに詫をして其許なかった。又立上って部屋中をルき廻った。 「此の場合になって人を怨むとは何事ぞ。」彼の頭は此不平に充た を得なければならぬと氣が附いた。 「何にせよお母さんに話さなけりゃならぬ。僕から言はうか、貴女されてしまった。しょんぼりと縁側に泣いてゐる照ちゃんを尻目に から言ひますか。」と春宵は熱心に照ちゃんの顏を見た。照ちゃん かけて彼は疊に音を立てて歩いた。 は默った儘で答へなかった。 考へる程彼の責任は重大であった。先づお霜婆さんに話さなけり ゃならぬ。お霜婆さんは今迄でも見ぬふりをして居った。固より異 存のあらうわけは無し + ~ 、こ工黍とても同様たし問題は其點よりも寧ろ 春宵は照ちゃんの返答を待って居た。けれども照ちゃんは何時迄今後如何にして二人の體を處するかに在る。それにしても萬事相談 する人は照ちゃんより外にない。 も默って俯むいて居た。 「ねえ何うします。」と春宵は促すやうに言った。 「此際に唯泣くとは無意味だ。無責任極まる。」彼は縁側につかっ わき 照ちゃんは顔をあげて春宵を見た。眼には澳か一杯湛って居た。 かと歩いて行って照ちゃんの側に立った。照ちゃんはもう泣くのを うらみ さうして其涙の底には怨の色が動いて居た。ちっと春宵の顔を見た止めて涙に濡れた顔を重さうに片手に支へてゐた。 許りで又俯むいてしまった。 「何を泣くのてす。」と春宵は突立ったま・、詰問した。照ちゃんは 春宵は意外に感じた。今日になって照ちゃんの眼に涙を見、怨の默ってゐた。 色を讀まうとは豫期しなかった。 「今更僂に不平なら勝手にするがいゝ。」 「お母さんには私から話しますから大阪の兄さんの方へは貴方か 照ちゃんは又た泣出した。さうして泣きながら切れえ、に言った。 ら : : : 」とか、「私からは言ひ悪くいから、どうか貴方から : : : 」 「勝手にしろたって : : : こんな體になって : : : 何がそんなに腹が立 い・つ とか、孰れか其一つの返答を待って居たのだ。然るに此状態はどうつんでせう : : : い、わ、どうせい、わ : : : 。」 であらう。 「此際二人の間には怨む理由も無ければ又怨まれる覺えも無い。怪 しからぬ。」と春宵は怒氣心頭から發した。 共夜春宵は寢られなかった。耳を立てるとお霜婆さんの鼾の外に かす 「默って居ては判らぬぢゃありませんか。貴女からは言ふのが厭な照ちゃんの幽かな寢息も聞えた。春宵は蒲團から顔を出して闇の室 内を見廻した。此の夜は初めて照ちゃんに自分の心を打明けた時の ら厭とはっきり言ったらいゝでせう。」と言葉を荒ら又げて言った。 照ちゃんは耐へ兼ねて泣出した。春宵は何の爲めに泣くのかを解夜とよく似て居た。が、唯違ってゐたのは照ちゃんの寢息であっ 師 た。彼の夜は照ちゃんもよう寢なかった。春宵が寢かへりを打っ時 諧し兼ねた。けれども泣かれて見るともう此の上追窮する勇氣は無か うづくま った。顏に袖を當てて縁端に蹲ってゐる照ちゃんを見棄てて彼はは照ちゃんは息を殺して靜まってゐたが、春宵が靜かに寢靜まった 容子を裝ほうて居る時には照ちゃんは寢かへりを打った。斯くして 机の前に倒れるやうに坐った。 5 堪へ難き苦痛を感じた。如何にして此始末を附けようかと考へ障子の白らむ頃迄二人共寢なかったのであった。然るに此の夜はど 7 た。わけの判らぬ種々の情が一時に込上げて來てちっとしてゐられうであったらう。はじめ床に人った暫くの間こそ照ちゃんは寢附か つか こら たま いびき
プ 86 しく / \ 泣くやうな事も無くなった。さうして病後の體をカめてカは遠く隔った世の響のやうな心持をして聞きながら、瞬く間に劇變 一杯働いて居た。春宵はそれを見て今これだけカめる位なら何故せした自分の運命を考へるとも無く考へた。自分は何故に紅漆の家に つば詰った場合に獻身的に働いて呉れなかったのかと恨めしく思っ同居し遂に照ちゃんと今日のやうな關係になったかを考へた。自分 こふ などよりは遙に世に劫を經た紅漆が巧みに自分を導いたやうにも解 た。お竹に逃げられた時は春宵に取っては絶體絶命の時であった。 たとへ せられた。けれども自分が好んで深みにはひったといふ方が穩當ら 照ちゃんは假令臺所で卒倒する迄も此際病をカめて補けて呉れるべ きだと春宵は考へた。ところが照ちゃんの方では病氣の自分に此頃しく思はれた。此の下宿屋をって今日の苦痛を嘗めることも亦た に限って優しい言葉を挂けて呉れぬ春宵を怨んでゐた。春宵の期待文太郎からの勸めによったとは言へ大部分は自ら好んで渦中に技じ たのであった。心を靜めて考へて見ると誰をも恨むことは無く唯だ する處と照ちゃんの希望とは餘りに離れてゐた。春宵が照ちゃんを 足蹴にまでして激怒して居る心持は照ちゃんの解せぬところであつ自ら責めるより外は無かった。 うっちゃ それから暫く打棄ってゐた新聞や雑誌の俳句稿を取り出して見 た。春宵が怒れば怒る程照ちゃんは怨んだ。照ちゃんは赫と逆上せ て本當にお腹の赤ン坊を殺す積りでは無いかとまで疑った。これでた。初め彼は此の選找で飯を食はなければならなかった時はつくづ きちがい 寧ろ飯を食ふには食ふに相當な仕事を見 く厭ゃな仕事だと思った。】、 春宵の狂氛じみた剃癪が益募れば照ちゃんのヒステリーは愈重く なる許りであったらう。が、幸なことにちびが來た。ちびは二人に つけ度いと思った。好んで下宿屋を遣ったのも一つは共爲めであっ た。而も下宿屋の主人ーー寧ろ勞働者ーーとしての今迄の經驗は非 取っての救世主であった。先づ春宵の心は彼の爲めに柔いだ。さう 甬は兎も角全く無資格者であった。ちびが得 して共の春宵の優しい一言は忽ち照ちゃんを蘇生せしめた。春宵が常な苦痛であった。苦广 きうくわっ らを 照ちゃんに獻身的の働ーー其んな大きな事を望んたのは間違ってゐ意に活に働く前に彼は殆ど水を離れた魚であった。然るに今久濶 こっ の俳句の原稿を前に置いて見ると忽として水中に歸った魚の感があ た。照ちゃんは唯春膂の優しい一言に蘇って働くのであった。 った。稍熱のある勞れた體でありながら句の善悪良否を判っ頭腦は たきゞ かまど 三十七 我ながら驚くべき程透明であった。竈の下に耕を燃やしかける苦心 はつねっ 春宵は照ちゃんが起た翌日から輕微な發熱で床に這入った。矢張に比べると一東の草稿を見終るのは易々たる事であった。自分は今 ひそか 迄何を苦んで水を離れた魚となってゐたのであらうと考へつ又彼は り過勞の爲めであった。照ちゃんの臥床中春宵が竊に不平を抱いて たちどころ いたは ゐたのと反對に照ちゃんは心から氣を附けて春宵を勞った。春宵は興に任せて立所に一堆の草稿を見終った。 さえ さっきは一寸用事があって八疊の室に來たちびは此容子を見て盛 其に對して優しい感謝の辭を與へれば與へる程照ちゃんの顏色は冴 ざえ 春館に下宿して居た頃の春宵を見るやうに思った。 冴とした。ちびは春宵をば、 「矢張り佐治さんらしいわ」と心の中で考へた。春宵も亦た此時ち 「佐治さん、そんなお味噌の磨りゃうして駄目たわ。」などと言っ おかみ て輕蔑して居たに拘らず、照ちゃんには、「女將さん / 、。」と何びを見た心持は盛春館に下宿して居た頃と同様、唯だ無意味な小女 事も一々相談して遣った。其爲め春宵は寢てゐても下宿の事は無事郞に過ぎなかった。 に運んだ。 など 春宵は昨日迄自分で奮鬪した臺所の物音や客の出這入の音等を今 っと のに たい また、
V 0 春宵は机の前に坐った。山童の草稿が開かれたま又机上に置いて 春宵は臺所で一人酒を飮んだ。照ちゃんは臺所の方を背にして靜あった。書間あれ程深く其心を刺戦した物が今は唯無意味な反蕕と かに横になった。間の懊は半分開かれて臺所の一フムプの光が照ちゃしか見えなかった。其無意味な反古の上に兩肱を突いて顎を支え乍 ひかげ んの枕許を薄暗く照らしてゐた。 らぢっと灯影の映って居る障子を眺めた。照ちゃんの泣聲は尚斷績 二人は無言であった。照ちゃんは其薄暗い光に壁を見詰め乍ら默 して聞えた。初め熱した耳には唯痛快に聞えた泣聲がだんイ、と はらわたし ってゐた。春宵は酒に濡れた唇を少し齧むやうにして默ってゐた。 腸に入み込むやうに感ぜられて來た。春宵の眼にも稍うるみを帶 そばだ 無言の二人は殆ど相關せぬもののやうであったが。其實互に耳を欹びた。 てて幽な物音も聽取らうとして居った。 照ちゃんは何の爲めに泣くのであらうか。春宵は今は靜に考へる しゃうしゃうむく 暫くしてから春宵はロを切った。 事が出來た。淸淨無垢の少女であるが爲めに共風聞が悔しいのか。 「お母さんは何しに檜垣へ行らしったのです。」 實際さういふ境遇に在るが爲めに其身が悔しいのか。照ちゃんのロ いづ 照ちゃんの聲は懊越に靜かに聞えた。 から明瞭に其孰れであるかを聞き度いと思った。兩手に載せた顎を 「今日檜垣さんからお使ひがありまして一寸お母さんに來てくれと外づして振返って見た。照ちゃんはもとの通りの姿勢で蒲團に顏を の事でしたから。」 埋めて泣いて居た。 二人は又暫く無言であった。漸くにして今度は照ちゃんの方から 九 口を切った。 「私今度よくなったら又上邸らなきゃあならないでせうか。」それ 「何故泣くのです。泣く事は何も無いぢゃありまぜんか。」と春宵 は甘えるやうな調子であった。 は態と無造作に言った。照ちゃんは何とも返辭をしなかった。 「行ったらいでぜう。」と春宵は勉めて優しく言ったが、今日禿 「無い事なら人が何と言ったってかまやしないし、又實際の事なら 山に聞いた事を思ひ出すと盃を持って行く口許に冷笑を禁ずる事が 今更泣いたって追っく事では無し : : : 」と暫くしてから春宵は照ち ひとりごと 出來なかった。 じゃうだん ゃんの方を背にしたまゝ獨言のやうに斯う言った。照ちゃんは其に 「斯んな評判がありますよ。」と態と戲談らしく、「貴女は檜垣のおも答〈なかった。 しひ 妾さんだって。ハ、、、、 。」と春宵は笑ったが共笑は乾いて居っ 強て靜めて居た春宵の心は又浪立って來た。何とも答へぬのは必 ( 0 ず答へる事の出來ぬ理由のあるものと推量しなければならなかっ 諧それを聞いた照ちゃんは、 た。多少の疑惑を抱きながらも「よもや」と思ってゐた事が、どう 「くやしい ' 。」と言った許りで蒲團に顏を埋めてしまった。かすもこれでは事實として認めねばならぬゃうに思はれた。春宵は斯く かに吸泣く聲が聞えた時春宵の眼は輝いた。 考へて俄かに暗い穴に落込んたやうな心持がした。天地は暗黒にな 確春宵は酒を飮んだ許りで飯は食は無かった。ラムプを手に持ったって唯共處に薄暗いラムプの光を霧の中に認めるやうな感じがし ま乂奥〈歸って見ると照ちゃんはまだ背に波を打たせて泣いてゐた。酒が一時に頭にのぼって耳ががんノ \ とった。 かすか
ちょっといきらず りゃうだめ 照ちゃんは松葉屋に這人った時眉間を曇らせて其邊を見廻した。 山行けるからね。さうさ一寸言や豆腐糟のやうなものが一番兩爲 上り口には亂雜に草履が脱ぎ棄ててあった。盛春館などとは違ってさ。うまく煎ればなか / \ おいしいものだし、それで御飯には直ぐ 障子もなくすぐ其處が店になって居た。長火鉢が一つ置いてあって響くからね。何でもさういふ事に氣を附けないと迚もお前さん此商 共向うに坐ってゐたのが女將であらう長煙管で煙草を吹かせ乍ら立賣は遣れないよ。」それから又斯んな事も話した。 て膝をして居た。人相の惡い厭な女だと照ちゃんは思った。長火鉢「三番のお客は見榮坊でね。晩のお菜は香物たけでもいからお晝 さかな を隔てて坐って居た二人の書生は下宿人であらう妙な眼附をして照 の辨當にはお肴か肉を附けないと機嫌が惡いのさ。さうさ、何でも ちゃんを見た。春宵と照ちゃんとは文太郎が假りの居間にして居る市役所の土木係とかださうで、あのよく道を直す時工夫と一緒に立 六疊の室に這入った。 って居る洋服を着た人があるでせうあれたあね。時々は工夫の辨當 「愈照ちゃんの世話にならなけやならぬ。」と文太郎は第一に言っ の方に御馳走がある位ださうだから無理も無いのさ。それから七番 おかみ た。一一三日うちには自分のものになって愈奮鬪を始めるのだと思ふ の夫婦連れね。あの内儀さんは姙娠でね。それはひどい惡阻さ。そ と文太郞は何かにつけて心が引立った。殊に細君の上京する迄何よれで我儘で何を買〈彼を買〈と家の女中許り使って、此方の忙しい たのも りの賴みは春宵夫婦であった。文太郞は二人の顏を賴母しさうに見で時あらうが何であらうが考無しなんだから遣り切れないやね。」 ( 0 女將は斯ういふ事を喋り乍ら手ばしこく大きな飯櫃から小さな飯 文太郞も春宵も照ちゃんの勇ましい答を待設けて居た。けれども櫃に飯を入れたり、女中が下げて來た膳をすぐ洗って拭巾で拭いた さい 照ちゃんは何とも答へなかった。悲しさうな顏をして古びた天井を かと思ふと、もう其上に菜を載せたり茶椀を乘せたり目まぐるしく 見上げた。猿樂町の家は狹かった。けれども小ざっぱりした家であ働いて居た。それから、 った。照ちゃんは此天井や壁を見廻して何とも知れぬ悲しい心持が 「今度はお前さん之を一番へ持って行って御覧なさい。」と女將は した。 照ちゃんに一つの膳と飯櫃とを突附けた。照ちゃんは躊躇したが、 春宵は不快を覺えた。照ちゃんに代って勉めて景氣よく、 已むを得す女中の竹がするやうに膳の上の茶椀や皿やを片寄せて其 ひとすみ だんばしご 「さうですとも、當人も其氣で大に奮發して居ります。」と答へた。 一隅に飯櫃を載せて段梯子を上って其を二階の一番へ持って行っ 文太郎の引立った心には何事も愉快に感ぜられた。照ちゃんも春た。一番の客人といふのはの生えた人で、粗末な火鉢の上に自分 やくわん 宵も自分同様勇を爲して居るもののやうに見えた。 で買って來た藥罐を挂けて之も自分で買って來た茶器で仔細らしく 茶を入れて居る處であったが、 師 「姉さん、今度の炭はくすぼっていかんね。こんな炭は困る。」と ぜん 諧照ちゃんは其翌日から臺所に出てがけになって下女に交って膳むつかしい顔をして炭取を突出した。照ちゃんは其を提げて段梯子 績 拵などの練習をした。女將は初め照ちゃんが感じた程厭な女でも を下り乍ら厭あな心持がした。寧ろ檜垣で小間使をしてゐた頃の方 なかった。それから斯んな事を敎へて呉れた。 が增しのやうに思はれた。が同時に又兄の事や母の事や自分の今の 「御飯は少し硬い位の方がお客が澤山食べ無いから德用よ。それか境遇やが一時に思出されて、 らお汁は餘り度々拵〈ると損よ。お汁があるとどうしても御飯が澤「さうだ。厭でも應でも辛抱しなけりゃならぬのだ。」と考〈た。 こは たすき しやペ みもち おはち つはり
「それ見ろ。」と自分を冷笑する禿山の顔が想像された。「ハッハッ牛肉屋へ書飯を食ひに上って酒を欧んだ。それから久しぶりに盛春 8 6 ハ」と人を馬鹿にしたやうな梅雨の笑聲が耳許に響いた。何がそれ館を訪づれた。 、、あだな 見ろだ、何がハッハッ、た、と春宵は體の血が湧くやうに覺えた。 「おや佐治さんだわ。」とちびと仇名のついてゐる少女は膳を下げ たんばしご 漸く泣くのを止めた照ちゃんはやがて蒲團の上に起き直って怨め て二階へ上らうとして段梯子の下に突立った儘斯う言った。 しさうに春宵の後ろ影を見た。さうして靜かに、 「まあ佐治さんなの。」と下女のお時は臺所から飛び出して來て穴 「佐治さん。」と呼んだ。 の開くやうに春宵の顏を見た。 春宵は振返って見た。さうして其顏には春宵が想像してゐた程悲 「よくまあ道をお忘れにならなかったのね。」と女將は帳場の障子 痛の色が浮んでゐないのを見て不思議に思った。 を少し開けて顏を突出してにや / 、し乍ら言った。 めんくら ざふだん 「何です。」 春宵は少し面食ひ乍らも店へ上って暫く女將と雜談をした。何か 「何故貴方はあんな事を仰しやるの。」 の用事で又店に來たお時は、「佐治さん、奧様は御機嫌ですか。」と 「さういふ噂があるからです。」 言って笑ひ乍らばたノ、と高く上草履の音を立てて臺所の方へ走っ あんま 「餘りですわねえ。」と照ちゃんの聲は怨みを含んだ。 て行った。 「何故泣くのです。實際無い事ならあんなに泣く必要は無ささうな 「本當に佐治さん、御披露も無く隨分ですねえ。」と女將も戲報ら ものだ。」 しく言った。春宵は怒る事も出來なかった。 しやペ 「そんなら貴方は其噂を本當だとお信じなすったの。」照ちゃんの 咋夜あれから春宵は照ちゃんに向って自分の能辯に驚く程よく喋 言葉は急き込んでゐた。「貴方も隨分な人ねえ。」 ったのであった。其はいろ / 、な事を話した。中にも多くの俳人が 春宵は答へなかった。 紅漆を俗人として輕蔑するのを盛に憤慨した。終には何を話すとい むやみ ふ事を殆ど意識せずに無暗に喋った。照ちゃんは顔を染めてちっと 「あゝ悔しい。今日のやうな悔しいことは私生れてから初めてだ。」 と言って照ちゃんは腹立たしげに口を閉ちた。 熱心に聽いてゐた。表の戸が開いてお霜婆さんが歸ったのだと氣が 弱い春宵の心にはもう何の疑をも止めなかった。止むることが出ついた時照ちゃんは早口に斯う言った。「私はもうどんな事があっ 來なかった。さうして淸淨無垢の此少女に一時にても疑を挂けた事ても檜垣さんへは上邸りません。」さうして二人は固く手を握った。 けど を申譯が無いと思った。殊に其靑白い病人らしい顔の涙によごれた それからお霜婆さんの前では二人は勉めて容子を氣取られまいと 痕を哀れと見た。 苦心した。照ちゃんは少し氣分が惡いと言って横になったま蒲團 「照ちゃん。」と呼んだ春宵の言葉は震へてゐた。 を額から被り、春宵は今日は酒を飮んで非常に醉ったといってから こなた からと高笑などした。 「はい。」と答へて此方を見た照ちゃんの眼にはまた涙が光ってゐ おのづか かすかいびき た。さうして其靑白い顏には自ら赤い血が上った。 床に這人ってからは照ちゃんも春宵もお霜婆さんの幽な鼾を聞き よそに 乍ら眠った風を裝ってゐたが互に眠れなかった事を知ってゐた。今 朝春宵の起き出でた頃照ちゃんはまだ蒲團から顔を出さなかった。 其翌日春宵は朝から家を出て何處を當てといふ事なく歩いた末或春宵は今日は已むを得ぬ用事があると言って朝早くから外出したの あと つひ
ひながらそれでも相當に働いた。さうして客の處へ行っては、 郞は才智も學問も自分より勝れたと信する春宵の言ふ事は一も二も 4 なく聽き、又萬事春宵に賴るやうな傾があったが、扨て實際事に當 「斯な妙な下宿屋ってありゃあしないわ。」と不平を零した。 彼此するうち半月餘りも經って兄弟とも大分下宿の事に馴れた。 って見ると春宵はまだ全くのお坊ちゃんで少しも役に立たぬのを見 以前程大騷をしなくとも用を辨ずるやうになった。照ちゃんは蒲團て失望した。春宵にも失望し照ちゃんにも失望した文太郎は唯無暗 きんからばこ を被って終日八疊の室に心細さうに寢て居た。例の金唐函は棚の上に働いた。利害得失を靜かに打算する事の出來ぬ文太郎は斯る際に はふ に新聞包と一絡に投り上げられたまゝ埃まみれとなって居た。春宵自分自身の體を粉にして働くより外取る・ヘき方法は無かった。文太 まるまけ はそれを見た目を照ちゃんの上に落した。照ちゃんの丸髷も白く埃郎は最後の望を自分の妻に繋いで國に歸った。 おき を被って居た。 照ちゃんは一二日起て働いて居たがすぐ又床に倒れてしまった。 あんばい はれもの 文太郎はいろ / \ 考へた末、照ちゃんが此鹽梅では迚も主婦とし春宵はお竹を腫物に障るやうにして使ひ乍ら自分で飯も焚き菜も煮 て働けさうにない、どうせ連れて來ねばならぬ妻の事であるから一 た。お竹はぶつ / \ と怒ってゐて春宵のいふ事は少しも聞かなかっ 日も早く連れて來る事にせうと決心した。 た。春宵が、 「今日の晝は牛肉にするから買ひに行って來て呉れ。」と賴んでも 三十四 お竹は返辭もしなかった。それから三番の客の處へ行って斯んな事 照ちゃんが今日は少し氣持がよいからといふので不味い顔をし乍を言った。 ら臺所に出て手傳って居た日であった。文太郎は春宵に斯う言っ 「たった一人で遣り切れないわ。臺所の事もしなけりゃならない こ 0 し、お座敷の方の事もしなけりゃならないし、給料はもとの通りで 「照ちゃんがあの體で無理をしてだん / 、惡くなっても困るしどう 斯んな馬鹿々々しい事あ有りゃあしない。それに何だか家内がごた ねえ あんはい せ嫂さんも早いか晩いか來ねばならぬのだから、一つ至急に歸鄕し ごたしてゐて此鹽梅ではいっ迄續くんだか知れたもんぢゃない。旦 て家族を纒めて來うかと思ふが、どうであらう。」 那が國へ歸ったといふのも逃げたのかも知れないわ。」それから其 春宵は答し兼ねた。 日の夕方一寸先の主人の家へ行って來ると言って出たっきり歸って 「まあ考へて見て呉れ。どうなとお前の意見に從ふから。」と文太來なかった。 きやくま 郞は言った。 春宵は到頭獨りぼっちになってしまった。其夜客室で手が鳴ると 春宵はくれみ、も照ちゃんの役に立たぬのを殘念に思った。けれ「はい」と無器用な返辭をして春宵が面を出したので客人は皆厭な どもさういふ自分自身も斯ういふ仕事には全く不適當であることを顔をした。 つくん \ 悟った今日になってはもう文太郞の意見に逆らって此上照 ペんたっ 三十五 ちゃんを鞭撻して自分等夫婦でやって見ようといふ勇氣も起らなか った。遂に、 翌朝になってもお竹は歸らなかった。昨夜春宵が寢たのは一時を 「ぢゃあ嫂さんに來て戴くことに願ひませうか。」と春宵は言った。過ぎて居た。それから今朝は四時に起きた。自分で飯も焚き味噌汁 文太郞は早速共日の夜汽車で國へ立った。東京へ來た許りの文太も拵へた。扨てこれから膳を出すといふ時になって、ふと照ちゃん おそ まづ とて こば せん ナぐ さい
傍に入れてあった金唐箱に目を留めるのが常であった。此金皙箱では十分に介抱してやるから心配せすに置いて行けと仰しやって下 は誰のとも分らなかったがどうも照ちゃんのものらしく春宵は想像すったけれども、此娘が歸り度いと申しますので : : : 」とお霜婆さ してゐた。今は誰も留守だ、誰も見て居るものは無いと意識した瞬んはおろア \ してゐた。 「それでは兎も角も私醫者を呼んで來ませう。」と春宵は立上った。 間に彼は、 さす 「さう願へますれば。」と心細さうな顔をして照ちゃんの背中を摩 「あの金唐箱を開けて見よう。」と考へた。其時もう彼の體は押入 り乍らお霜婆さんは言った。、 の懊の前に立って居た。 けれども躊躇した。何物かが頻りに自分を叱るやうな心持がし た。が、其心持がすればする程一方には「早くノ \ 」と急き立てる 照ちゃんの病氣はチプスにならねばよいがと醫者は言った。チプ ものがあった。遠方に車の音がした。共車がお霜婆さんの車のやう な心持がした。尤もお霜婆さんは車で行ったのでは無かった。それスといふ言葉を聞いた時春宵は變な心持がした。彼が十歳の時彼の に何故か其がお霜婆さんの車のやうな心持がした。あの車の音の近母はチプスにか、って死んだ。共時流行病だといふので親戚のもの は彼を母の傍へ近よせなんだ。母は死ぬる前に春三郎といふ名を繰 づかぬ間にと急き立てられるやうに覺えた。遂に前後を忘れて懊を 開けて急いで金唐箱の蓋を取った。中には赤い切が洋山入れてあっ返して呼んだといふことであった。彼は其後ち此話を聞く度に身を た。其赤い切がばっと目に映って身に入みるやうに覺えた。果して切られるやうに辛く感するのであった。果して照ちゃんの病氣がチ 車の音が門の前に止った。春宵は今更飛び上るやうに第いた。急いプスとすると、共患者の傍に身を置くことが死んだ母に對して申譯 うろた 無いやうな心持がした。けれども亦此際おろ / 、してゐるお霜婆さ で蓋をしたがあまり狼狽へた爲めに共がどうしても合はなかった。 んを振棄てて歸るべき義理でも無いと思った。殊に照ちゃんの熱に 仕方が無いので蓋は合はぬ儘にして置いて懊を立てた。 苦しんで投げ出した白い腕や、我を忘れて「苦しい。」と言って怨 其車は二臺であった。一人はお霜婆さんに一人は照ちゃんであっ めし氣に春膂の顔を見たうるんだⅡなどは恐しい流行病といふ事を た。照ちゃんは車夫に助けられるやうにして下りた。顏色は靑ざめ て居て髪は亂れて居た。春行は思ひも挂けず照ちゃんが歸って來た忘れしめて若い男の心を牽きつけるのであった。 お霜婆さんは五十五といふ歳の割りには老けてゐた。若い時から のを見て愈狼狽へずには居られなかった。 「照が病氣でしてね。」とお霜婆さんがいふ迄ぽかんとして立って の苦勞に疲れ切っていっは何よりも唯無事を望んで居た。日の當 って居る障子に額を突附けるやうにして大きな眼鏡を挂けて針の穴 居た。 に絲を通し古いものをつゞくるのを日課としてゐたのだが、照ちゃ お霜婆さんは蒲團を敷いた。照ちゃんは上に着て居た着物を脱ぐ 師 ねまき 諧と下は寢衣であった。寒さうに床の中に這人って額迄蒲團を被ってんの病氣以來は涸れみ、の勢力を振ひ起して、夜の目も合はさず甲 まげ しまった。根のゆるんだ島田髷に埃の挂ってゐるのが目に附いた。 斐々々しく介抱をしてゐた。さうして春宵を何よりも賴りにして 「どんな御病氣です。」と春宵は漸く口を切った。 「佐治さん / 、。」と何事も相談をするのであった。さうしてお霜婆 「何でも二三日前から寒気がして熱がしますのださうでして、お醫さんの疲れ切った夜などは春宵は代って介抱をした。或夜などは春 者様もまだはっきりした事は判らんと仰しやるさうです。檜垣さん宵の拵へた氷枕のエ合が惡いといって、 きれ これ
ア 66 春宵は照ちゃんの病氣の顧末を話した。 禮な言分に對してこれ以上力強い反抗は無いと思った。 「さうか、それちゃあ丁度いゝ機會だ。自分ところへ留守番を賴ん 春宵は俄かに勇氣を得た。あらゆる迷ひが此の一句で明快に解決 よそ で餘所へ奉公に行く奴があるものぢゃない。檜垣の方を斷って妹が されるやうに考へられた。自分は天下ーー・春宵は敢て天下と考へた 家に居て君は出るとするさ。君が言ひにくけりや僕がさう言ってや に反抗して紅漆兄妹に同情してやるのだ、照ちゃんが妾であら らう。」 うがあるまいがそんな事に頓着は無いとまで考へた。 春宵は答へなかった。 春宵が家へ歸ったのは七時を過ぎてゐた。お霜婆さんは着替をし 「餘程君、氣を附けないといけないよ。君の一生で今が大事の處て春宵の歸るのを待兼てゐた。さうして、 だ。我黨でも専門の俳人として立たうといふのは君や梅雨の外には 「一寸檜垣さんへ行って來ますから。」と言って出て行った。春宵 澤山無いのだ。我黨の爲めに自重してくれんと困る。何故君は紅漆は厭な顔をして共あとを見送った。 かいまき の家などへ輕々しく留守番などに行ったのだ。」 照ちゃんは蒲團の上に起き直って掻卷を着てゐた。今日は大變氣 春宵は禿山にいかなる權利があってか、る干渉がましき事をいふ分がよかったのであれから時々斯んな風に坐って見るが別に苦しく のかと赫として腹を立てた。 も無いと言った。 「留守番に行かうが行くまいが僕の自由では無いか。第一吾黨とい 春宵はお霜婆さんの出して行ったちゃぶ臺の前に坐った。腹は空 ふ言葉が僕には氣に食はん。若し僕のする事が君等仲間の迷惑にな いてゐる筈たが箸を取る氣にならなかった。いっかお霜婆さんの買 るのなら僕は君等仲間から遠ざかればい又のだ。」 って來て呉れた酒が殘ってゐる事を思ひ出した。戸棚を探して紙の かんどくり 「さうか。それぢや勝手にするさ。」と禿山も腹立たしさうに言っ栓のしてある燗德利を取出して照ちゃんの傍の火鉢にかゝってゐる こ 0 鐵瓶の中に人れた。 「お酒を飮るの ? 」と照ちゃんは不思議さうに春膂を見た。 「え。」と春宵は簡單な返辭をしたが共も喉に詰って思ふやうに出 春宵は禿山に別れてもと來た道を一文字に歸って來た。 なかった。 「照ちゃんが檜短の妾、そんな馬鹿な事が : : : 」と考へてフ、ンと 「どうかなすったの。」と照ちゃんは心配さうに言った。春宵は默 笑った。けれども如何せん其は嘗て屡春宵の心にも往來した事のあって照ちゃんの顔を見た。これが處女であるかどうかと考へた時が る疑惑であったのだ。「よもやそんな事」と思へば思ふ程「萬一」 た / 、と戰慄を覺えた。 といふ疑が生じずには置かなかった。夕暮近くなって、行手の木立 照ちゃんは燗德利のロの紙の栓に氣がついた。 を煙が罩めてゐた。春宵は何かなしに急がれて其中をぐん / 、歩い 「まあ、ロがしてあるま又なの。」と亠円白い顔に淋しい微笑を洩ら て田端から動坂にか、った。奥深い植木屋にはまだ灯がともって居した。春膂は矢張り默ったま、腕を伸べて栓を取った。德利の口か なかったが軒の淺い荒物屋には汚ないラムプが釣るされてあった。 ら酒の氣の僅に上るのが二人の目に映った。 「吾黨 ? 五月蠅い言葉だ。」と思った。同時に、 「墮落が何だ。」と考へた。共處に痛快な意味があった。禿山の無 かっ うるさ いかに あが
いさみ を盡くした事があったのだといふやうな噂もあったが、それも大概 文太郞は上京後萬事好都合に運ぶのに頗る勇を爲して居ったが此 〃他人の爲めに遊ばされたのであった。今年一二十八になるまで何一つ 禿山の忠告を聞いた時は一時大に落膽した。俄かに東京が恐ろしく 彼に取って成功と認められ愉快と感ぜられた事は無かった。彼も其なり、前途が暗黑になり、自分のやうなものが馬車や人力車が走せ そもそ 事を話して、 違ふ此都曾に居るのが抑もの間違で、矢張り靜かな故鄕に引込んで 「今度はもうどんな事があっても成功せなけりゃならん。國に居っ居る方が安全なやうな心持もした。殊に又大事な弟の身の上が心配 だま ても種々考へたが下宿とは思ひっかなかった。いゝ事をお前は思ひ で、若し山本一家の爲めに騙されてゐるのが事實としたなら棄て措 附いて呉れた。あの女將さんの家で月に三十圓の利益があるといふかれぬことだと胸を痛めた。けれども、共後お霜婆さんや照ちゃん 話であったが、さうするとあの貸下宿の方でも二十圓位はあるだら と履逢って話して見ると文太郎の眼には少しも悪人のやうには見 いつけ う。二十圓で無く十圓でも利益さ〈あれば結構た。毎月食ひ減してえなかった。又春霄からよりノ、に不幸なる山本一家の内情をも聞 行くのに比べたら住く前に樂しみがあるといふものだ。」と一時曇いて自分の身に引き較べて同情した。盛春館の女將とも屡會見を重 った顔が又樂しさうに睛々とした。 ぬるに從って其親切を疑はうとしても疑ふ事は出來なかった。遂に 春宵は此劔様のやうな人 ( 春宵はさう思った。 ) の前に立って彼女將の盡力の結果三百五十圓といふ雜作を二百五十圓迄に負けても の一事だけ包み隱して置くのは何となく心に忍びぬゃうに思った。 らふ事になって愈例の貸ド宿を借りる事に相談が極った。唯先方の 遂に思ひ切って口を切った。 都合もあり、此方も準備の時日を要するので旁授受は二月後とい 「實はねえ、兄さん。 ふ事になった。文太郎は一應歸鄕した。 また、 文太郎は驚いて春宵の顔を見た。 文太郎が歸鄕してから一月は瞬く間に經った。山本の家の狹い庭 をんな 「あの婦人をねえ。 にも一本の小さい櫻の樹があって今が滿開であった。或日お霜婆さ えんばな 「あの婦人とは ? 」と文太郎は判じ兼ねた。 んは留守であって春宵と照ちゃんの二人は縁端に立って默って此櫻 「あの山本の娘です。あれを私貰ひ度いと思ふのですが、兄さんはの花を見て居た。 御異存無いでせうか。」と春宵は極めて落着いて言った。春宵が餘「ねえ貴方。」と照ちゃんは瞬し乍ら春宵を見た。春宵は默った り落着いて居ったので、 儘で笑顔を作って照ちゃんに答へた。 「そりゃあもう : : : お前が信用する女なら・・・・ : 己は別に・・・・ : 」・と文 「私ねえ。此頃少し體具合が變なんですよ。」と言って照ちゃんは うつ 、ごっ一 太郞の方が却て狼狽した。 俯むいた。照ちゃんは先刻から櫻の花を見て居たのではなかった。 とに 照ちゃんの見て居たのは櫻の花を透しての曇った空であった。 いや 十九 照ちゃんとの戀を賤しき戀とも平凡な戀とも考へず、又考へよう 文太郞は豫て知合であった禿山を訪間して禿山から田舍者のぼっ ともせず、又斯る結果を豫想せうともしなかった春宵は之を聞いた と出が下宿業などを營む事の危險な事、盛春館の女將をも餘り信用時初めて夢が醒めたやうに覺えた。自己の責任の重大な事を了解し こ 0 しては險難な事、春宵が此頃全く俳句を發して山本一家の爲めに誤 られつゝある事などを忠告された。 「どうしたら善からう。」と考〈た。照ちゃんはまた自分の持物で こちら また、をご
1 / 6 れないやうに見えてゐたが、一時間も經たぬうちにもう安らかな眠 春宵は此お霜婆さんの言葉を又甚だしく不快に感じた。彼は豫々 りに落ちたやうであった。 お霜婆さんは暗に二人の中を許して居るものだと認めて居た。さう 春宵はつくみ、淋しさを覺えた。孤獨の感に堪へなかった。賴み考へる事の不當で無い實例は已に多々あった。それに今にして斯る 難き照ちゃんの寢息に耳を傾けた。此事實ーー・・此闇の中に伏在して挨拶を受けようとは思ひも寄らぬことであった。 居る事實の責任を背負って立つのは自分一人だと覺悟した。今まで けれどもお霜婆さんは繰返して其事は言はなかった。さうして家 戀に醉うたのは二人だと思ってゐた。けれども今になって考へると族同様に春宵を取扱って何かと氣を附けることは前と變らなかっ それも矢張り自分一人であったのかも知れなかった。 た。唯其翌日であったか春宵が表から歸った時、お霜婆さんは照ち けれども翌朝早く暗いうちに目が覺めたのは照ちゃんであった。 ゃんを前に置いて二人共に涙に顏を濡らして居た。春宵はそれを見 今少し眠らうと思ってもどうしても眠むれなかった。これも彼の一 ると又不快な感じがむら / 、と起って來た。殊に何の爲めの涙か共 夜を回想せずには居られなかった。何だかあの時は唯もう夢みたや意味を探らうとするやうに照ちゃんの顏をしげノ、と見た。照ちゃ なかげ そむ うに、眠られぬ苦しさも半は醉うたやうな心持であったが、此夜はんは顔を背けた。 したた どことなくはっきりして、醉の醒め際の苦しみといふものがこんな お霜婆さんが老眼に眼鏡を挂けて古風な文字に長い手紙を認めた あのこと ものかと思はれるやうであった。咋日彼事を話してから佐治さんは のは其夜であった。それは紅漆へ送る手紙であった。翌日其手紙を どうしてあんなに荒々しく人を叱りつけるやうにしたのであらう。 自分で持って表へ出た時に春宵は照ちゃんに聞いた。 照ちゃんの解することの出來無いのは此の事であった。恨めしいや 「昨日は二人で何を泣いてたのです。」 うな情ないやうな心持がした。春宵はと見ると熟睡して居た。 照ちゃんは此間の出來事以來其事に關して春宵に何か言はれる度 春宵は明方近くなって眠ったのであった。 照ちゃんは大きな溜に物に恐れるやうなおど / «- した眼附をして春宵を見た。此時も同 息をついた。 じ眼附をして其顔を見た許りで暫く默ってゐた。けれども春宵の顏 それでも翌朝になって二人は一緒に飯を食ったり、新聞を讀んだ色が益穩かで無くなるのを見て、 とけあ りして居るうちに自から心が融合って、昨夜眠れずに考〈た程の大「お母さんが斯う言ったのですわ。」と遂に其譯を話した。「お前も きな隔りは無い事を知った。 娘の間にもう少し樂をさせてあげようと思ってゐたけれど、此間ま みもち 其後春宵は機會を得てお霜婆さんに打明けて話した。お霜婆さんでは奉公をさせて居たしこれから又姙娠になれば迚も樂は出來ま は已に共下心があったものと十分春宵には想像されてゐたに拘らい。一生のうちで十六七から二十位迄が一番花で苦勞の無い時分な ず、意外にも極めて眞面目な調子で、母らしい威嚴を保って、 のだが、お前には其間が無しに濟む。それが可哀想だと言って泣い 「もうさうなった以上は仕方がありませんけれども困った事になり たものですから私もつい泣いたのです。」と言って眼に涙を含んだ ましたのね。餘所の手前もある事ですから、殊に大阪の兄はさういまゝ淋しさうに笑った。春宵は默って何とも言はなかった。 やかま ふ方には喧しい方ですから : : : 。」と言った。 春宵は又紅漆に手紙を出した。其文句の最後に、『今日あるは全 いうじよ く僕の罪科として貴下に宥恕を乞ふの外は無い。』と書いてやった。 二十ニ 紅漆の返事はお霜婆さん宛のと春宛宵のとが同時に來た。其春宵に はう おのづ