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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

に。了然は思ひきりのわるい男ゃ。ハ、、、、」 が、其が少し引き續いて耳に慣れると矢張り淋しいひそみ音の方は しゃれ 8 と小信サンは重たい口で洒落たことをいふ。塔の影が見るうちに移一層淋しい。氣の勢か筬の音もどうやら此蛙の聲と競ひ氣味に高ま る。お道はいつの間にか塔の影の外に在って菜の花の蒸すやうな中って來る。カタンノ v-- といふ音は一層明瞭に冴えて來る。ポット まとも に春の日を正面に受けて居る。涙にぬれて居る顏が菜種の花の露よ ンノ \ といふ音は一層重々しく沈んで來る。 りも光って美くしい。我等が塔を下りようと彼の大佛の穴くゞりを お髮サンが床を延べに來る。 わづか 再びもとへくゞり始めた時分には了然も纔に半身に塔の影を止め 「旦那はん毛布なんかおかぶりやして、寒むおまっか」 て、半身にはお道の浴びて居る春光を同じく共に浴びてゐた。了然「少しうた、ねをしたので寒い。それに今晩は馬鹿に靜かだねえ。 といふ坊主も美くしい坊主であった。 お道さんは來ないのかい」 「今晩は來やはりまへん。そら今筬の音がしてますやろ、あれがお 下 道はんだすがな」 其夜晩酌に一二杯を過ごして毛布をかぶったま、机に凭れてとろ 「さうかあれがお道さんか」 とろとする。ふと目がさめて見るとうすら寒い。時計を見ると八時と余は又筬の音に耳を澄ます。前の通り冴えた音と沈んだ音とが聞 過ぎだ。二時間程もうたゝ寢をしたらしい。昨日に引きかへ今日はこえる。 廣い宿ががらんとして居る。客は余一人ぎりと見える。靜な夜だ。 「二處でしてゐるね。共に音が違ふぢゃないか。お道さんの方はど ふたところ をさ 耳を澄ますと二處程で筬の音がして居る。 ちらだい」 一つの方はカタン / 、と冴えた筬の音がする。一つの方はポット 「そらあの音の高い冴え / \ した方な、あれがお道さんのだす」 ン / \ と沈んだ音がする。共二つの音がひっそりした淋しい夜を一 「どうしてあんなに違ふの。機が違ふの。」 引き締めて物淋しく感ぜしめる。初め共筬の音は遠い様に思った 「機は同じ事ったすけれど、筬が違ひます。音のよろしいのを好く がよく聞くと餘り遠くでは無い。余は夢の名殘りを急須の冷い茶で人は筬を別段に吟味しますのや」 醒ましてぢっと共二つの音に耳をすます。 余は再び耳を澄ます。今度は冴えた音の方にのみ耳を澄ます。カ 蛙の聲もする。はじめ氣がついた時は僅に蛙の聲かと聞き分くる タンノ \ と引き續いた音が時々チョッと切れる事がある。絲でも切 位のひそみ音であったが、筬の音と張り競ふのか、あまたのひそみれたのを県ぐのか、物思ふ手が一寸とまるのか。お髮サンは敷布團 なか うはし 音の中に一匹大きな蛙の聲がぐわアとする。あれが蛙の聲かなと不を二枚重ねて共上に上敷きを延べながら、 ひとはた 審さるゝ程の大きな聲だ。晝間も燈心草の田で啼いてゐたがあんな 「戦爭の時分はナア、一機の織り賃を七十錢もとりやはりましてナ 大きな聲のはゐなかった。夜になって特に高く聞こえるのかも知れア、へえ繃帶にするのやさかい薄い程がよろしまんのや。共に早く ぬ。一匹其大きなのが啼き出すと又一つ他で大きなのが啼く。又一織るものには御褒美を呉りやはった。其時分は機もよろしうおまし っ啼く。しまひには七八匹の大きな聲がぐわア / 、と折角の夜の寂たけど、もう此頃はあきまへん。ヘーへあんたはん一機二十五錢で うち 室を攪き亂すやうに鳴く。其でも蛙の聲だ。はじめひそみ音の中に ナア、一機といふのは十反かゝってるので、なんぼ早うても二日は さわ 突如として起こった大きな聲を聞いた時は噪がしいやうにも覺えたかゝります」 かはづ けっと ほか いぶ はうたい けっと せい はた

2. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

「さうか、それぢや明日からは己が代るから今晩だけ賴まう。」と 其内四人の子が順々に起き出たのでお金は暫くの間其世話にかゝ 4 らねばならなかった。春宵は又た四人の子持で此の營業は容易なこ 四言って文太郞も床に這人った。 とでは無いと思った。 春宵は獨り店に坐って夜の更けるのを待って居た。十時を過たが きやくま ひる まだ歸らぬ客が二人あった。此夜は靜かであって餘り客室で手も鳴 桂庵から下女を一人連れて來たのは午少し前であった。ぼっと出 いびき らなかった。八疊の室にはいかにも疲勞したらしい文太郞の高い鼾らしい下女で以前のお竹などとは大變な相違であったが斯んな女な が聞えた。其内子供の泣聲がして、「誰が / 、。」とそれをすかすお ら使ひやすからうと文太郞も春宵も思った。午飯から膳を運ぶにも 金の聲が聞えた。其泣聲のやがて物で蔽ひかぶされるらしいのは乳湯を運ぶにも早速此下女を使った。 いづ 房を含めるのであった。其の泣聲が漸く靜まったと思ふ頃又た別の 下の子二人は孰れもよく泣く子であった。上二人の兄妹は恐る恐 泣聲が起った。それは下から二番目の子の聲であった。今度は今迄る手を引いて表に出て住來を眺めてゐた。 いびき 鼾の聞えて居た文太郎の聲で、 しつこ やが 五十 「尿が出たいのか。よし / \ 。」と言って部て其子供を抱へて眠む さうな顏をして出て來た。それからまぶしさうな眼をして時計を見 文太郞が歸ってから松葉屋は暫く小康を得た形であった。新來の 上げて、 下女のお高は妙に言葉尻の上る田舍辯で時々無作法なことを言った 「もう十一時が近いちゃないか、眠むいだらう。」と氣の毒さうにり ぼんやりして氣の附かぬ事も多かったが、それでも全くの初心で 春宵に言った。部て小便をさせて再び床に這人ったと思ふともう又少しも磨れてゐない上にカ惜しみといふ事をしなかった。ちび程に た文太郞の高い鼾が始まった。春宵は四人の子を抱へて此の營業を切廻すことは出來無かったが又たちびよりは間に合ふ點も多かっ 遣らねばならぬ兄夫婦の勞苦を思ひ遣った。 た。それ故お金は四人の子供の世話に手を取られてしまってゐても さにど 左程差支へるといふやうなことは無かった。 上の二人の子供は 四十九 間も無く學校へ行くやうになった。下の二人は相變らずよく泣き立 翌朝春宵や照ちゃんの起き出た時分には文太郞はもう竈の下を焚てたが春宵も照ちゃんもだん / 、其泣聲になれた。春宵や照ちゃん きつけ、表の掃除もすませて居た。春宵の床を離れる時分にお金も許りで無く下宿人一同も俄に二人もの泣聲が一時に響き始めたので ふく もう目を覺して居たが下の子が泣くので乳房を銜めて居た。あとの 初めの間はぶつ / 、不平を言ってゐたがそれも間も無く問題にしな いやうになった。 三人の子は思ひノ \ の顏をして思ひ / \ の容子をしてまだ熟睡して けれどもお金は、元來日の長いゆったりした かちゅうまち 居た。 田舍の家中町で暮して來たのが、俄に都の中央で下宿營業といふや くひもの たとへ それから三十分もしてお金は漸く末の子を寢かしつけて臺所に出うなごたど、した食物商賣に携はったのであるから、假令文太郞其 て來た。汽車の疲勞がまだ癒えず體がふらノ \ するやうに覺えて苦他が萬事を引受けて遣っては呉れるもののどうも心から此營業に安 しいのを我慢して手傳った。 んずる事が出來なかった。弟嫁の照ちゃんも惡い人で無いことは判 ぜんだて 「まあ嫂さん今朝は休んでゐらっしゃい。」といひ乍ら春宵は膳立った。けれども全く育ちも違へば性質も違って、國の隣家の内儀な をした。 どに對する程にも打解けられ無いやうな心持がした。上の二人の子 ねえ いで かまど まんなか

3. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

さう言って男は庭に立った儘、其處の桶の中に伏せてある飯茶碗 「新らしいのを出しておあげやすや。」と女は聲を掛けた。 を取り出して、其大きな土瓶を自在鍵から外してそれに茶を注いで 「もうかまはんといとおくれやす。そないに構うとくれやすと氣づ くれた。 まりでたべられまへんさかい。」とお三千は男の漬物桶に手をかけ かまち 其差出した茶碗を一念はお三千に讓った。お三千は汚い框に腰を たのを強ひて止めた。 下ろして兩手でそれを受取った。寢てゐる女が暗い圍艫裏の向うで 「そんならさうしまほ。心配なしにたんとおあがりやす。」 眼を光らして此方を見てゐることを思ふとい又氣持はしなかった さう言って男は表に出て行った。 が、今や防ぐことの出來ない渇を醫する爲めに、兩手で持った茶碗「そんならよばれますわ。」 を急いで色の褪せたロ許に持って行った。 三千歳はお櫃を引寄せて御飯をよそって一念に渡した。最前此山 茶はぬるかった。それでもお三千は其大きな一椀の茶を一息に飮 の人の食べてゐるのは玉跼黍ばかりのやうな心持がしたのであった み乾した。 が、それは割合に白い麥の飯であった。 「お茶がぬるおすやろな。」 「たんと食べとくれやすや。」と女は又聲を掛けた。 さう言って男は圍裏の中に一握りの黑木を投げ込んだ。火はば 「おほきに。」とお三千は又頭を下げた。 っと燃え上った。 鉢の底に古びて殘ってゐる色の惡い澤庵が山海の珍味のやうに思 此小さい小屋の中に様々の貯〈のあることが此時お三千の目に映はれた。 った。中にも一方の壁に數限りも無く釣り下げてある澤山の玉蜀黍 二人は全く心にかゝることが無く、極めて靜かな落着いた心持で が目についた。 食べた。其間に女とお三千との間にはぼっノ \ 話が交はされた。 此山人の食料の重なものが此玉蜀黍であるらしくお三千には思〈 「あんたは京都のお方どすやろな。」 「さうどす。」 一念もお三千も思ふ存分其ぬるい茶を欧んだ。 ひや 「もうこれから仰木越〈お出やすのは大變なことどすよって、それ 「あんた方お午の御飯がまだどすやろ。冷の御飯がおすさかい、おより仰木村の方〈お降りやして坂本〈お戻りやしたらどうどすい 香子でなとおあがりやすいな。」 な。」 女の聲が又圍爐裏の向うから聞えた。其聲は人を牽きつけるやう 「そんならさうしまほか。」 な優しさを持ってゐた。始めから此女の聲は此山中の小屋に不似合 「さうおしやす。山道は物騷やさかい、ちっとでも早うお降りやし な優しい聲だと思ってゐたが、今の聲はしみみ、とお三千の心を和てお歸りやすやうにおしやす。」 法らげた。 「おほきに。」 おやぢ 流「おほきに。」とお三千は丁寧に頭を下げた。 「うちの親爺さんに送っておもらひやす。山道は慣れやはらん人に 「おあがりやすか何もおへんけど。」 は迷ひやすおすでなあ、仰木村迄親爺さんに送っておもらひやすい 9 男はお櫃を二人の前に置いて、別に漬物の出し古した鉢を取り出なあ。」 7 した。 「おほきに。」 ひる

4. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

しゃ・ヘ お髮サンは床を延べてしまって、机のあたりを片づけて、火鉢の お髮サンは聞かぬ事まで一人で喋舌る。突然筬の音に交って唄が 灰をならして、もうフムプの火さ ( 小さくすればよいだけにして、 聞こえる。 「お休みやす。あまりお道サンの唄に聞きほれて風邪引かぬゃうに 『苦勞しとげた苦しい息が火吹竹から洩れて出る』 おしなはれ」 「お道さんかい」 と引下る。 酒も醒めて目が冴える。筬の音を見棄てて此儘寢てしまふのも惜 「さうだす。えゝ聲だすやろ」 しいやうな氣がする。晝間書きさして置いた報告書の稿をつぐ。ふ とお髮サンがいふ。余は聲のよしあしよりもお道サンが其唄をうた と氣がつくといつの間にやら筆をとゞめて、きのふのお道サンの喋 ふ時の心持を思ひやる。 「あれでナア、筬 0 音もよろし」唄が上手やとナア、よ 0 ぽど草臥舌 0 た事や、今日塔から見下ろした時 0 事やを回想し 0 、筬 0 音に 耳を澄まして居る。又唄が聞こえる。 あふらあか しょたいしゅ れが違ひますといナ」 『大分世帶に染んでるらしい目立っ鹿の子の油垢』 「あんな唄をうたふのを見るとお道サンもなか / \ 苦勞してゐる 調子は例によってうき / \ として居るが、夜が更けた勢かどこや ね」 にやりうた ら身に入むやうに覺える。これではならぬと更に稿をつぐ。 「ありや旦那はん此邊の流行唄だすがナ、織子といふものはナア、 わるくち 終に暫くの間は筬の音も耳に入らぬゃうになって稿を終った。今 男でも通るのを見るとすぐ惡ロの唄をうたうたりナア、そゃないと 日で取調の件も終り、今夜で報告書も書き終った。がっかりと俄か くたび 惚れたとかはれたとかいふ唄ばっかりたす」 なんによ に草臥れた様に覺える。 俄かに男女の聲が聞こえる。 い 火を小さくして寢衣になって布團の中に足を踏み延ばす。筬の音 「どこへ行きなはる」 かうや はまだ聞こえて居る。忘れてゐたが沈んだ方のもまだ聞こえて居 「高野へお參り」 る。 「ハ、ア高野〈御參詣か。夜さり行きかけたらほんまにくせや」 眠るのが惜しいやうな氣がしつ、うと / \ とする。ふと下で鳴る はひ 「お父つはんはもう寢なはったか」 十一一時の時計の音が耳に入ったとき氣をつけて聞いて見たら、沈ん 「へー休みました」 だ方のはもう止んでゐたが、お道サンの筬の音はまだ冴え / \ とし 高野へ參詣とは何の事かと聞いて見たら、 て響いてゐた。 「はゞかり〈行くことをナア、此邊ではおどけてあないにいひまん のや」 とお髮サンは笑った。よく聞くと女の聲はお道サンの聲であった。 鳩男の聲は誰ともわからぬ。長屋っゞきの誰かであるらしい。 筬の音が一層高まって又唄が聞こえる。唄も調子もうきど、とし て居る。 からすなくま・て 8 『鴉啼迄寢た枕元櫛の三日月落ちて居る』 ( 明治四十年五月 )

5. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

おろげ 「お前には迷惑は挂けん。己が自分で死ぬる。」と文太郞は朧氣乍 九十九 らも力の籠った言葉で重ねて言った。春宵は一種の鬼氣に襲はれて 全身に粟を生じっ 國手は春宵にもう危急は此の二三日に迫ってゐると言った。それ 「いけません、そんな事は斷じていけません。」と強く文太郎の手から、 あやに ( を握って答へた。暫く默って春宵の顔を睨めつゝあった文太郎は、 「生憎某旧爵の病氣を診に行ってゐた留守中であったので殘念をし 「さうか、それも出來ぬのか。」と絶望したやうな悲げな聲を出し た。」と附加へて言ったそれは自分が居さへすればも少し手當の方 けっと て行きなり毛布を頭から被った。春宵は形容の出來ぬ心持に暫く茫法もあったらうといふやうな意味に取れた。某伯隝の病氣と同時で 然として眺めつゝあると、たん / 、毛布は頭上の方に幅を廣けて行あった事が文太郎の不幸であったといふ意味にも取れた。さうして って、はっと思ふ間に其中にあった手は枕許の手拭を掴まうとし又文太郞の手當に落度があったとしても、共責任は伯爵の病氣とい た。春宵は再び一種の鬼氣に襲はれつゝ狼狽へて其の手拭を奪ひ取ふ事で十分解除され得るものの如く國手は信じてゐるものと取れ った。毛布の中ではす、り泣く文太郎の聲が聞えた。 た。春宵は怨めしくも思ひ腹立たしくも思ったが今それを國手の前 もくねん 文太郎は暫く毛布を被った儘動かなかった。春宵も默然として棒で陳述する心の餘裕を見出さなかった。彼は空中を踏むやうな心持 の如く寢臺の傍に突立った。 がしつ又病室に歸って見ると文太郞は此の二三日來珍らしく平穩な 此間に看護婦は醫局に急を告げた。一一三の若い醫者を從へて來た る眠に落る事が出來たのが今や再び大苦痛の意識界に戻らうとして のは初め文太郞を診た例の國手であった。或大官の病を診る爲めに ゐる處であった。看護婦は唯だ此病人は瀕死の人であるといふ事實 數日間何處かに旅行をして居るとの事であったのが漸く歸京をした の認識以外に何等の感情をも有する事なく彼の袖珍の醫書に目を曝 ものと見えた。 しつ、あったが、文太郞の苦悶の聲の漸く聞こえ始めたので又た自 「少し腹が痛むさうだね。」と寢臺の傍に立って靜かに彼の毛布を己の職務に就くべき時が來たと感じてそれをポッケットに收めて立 さすが 取った。文太郞も流石に此聲を懷かしく聞いたのか、國手の爲すが上った。 儘に任してちっと目を瞑ってゐた。國手は同じ處に兩三度も聽診器 阿鼻叫喚の幕は再び開始された。それから二日二晩疲勞の爲め時 を當て乍ら其顏はだんノ、曇った。國手は後で醫局に來るやうに春時三十分一時間昏睡に落ちる時がある外は殆ど苦悶の聲の絶ゆる時 宵に耳打して何事も言はすに歸った。 が無かった。初めの間は共血を吐くやうな聲に春宵は一々身を切れ 此の一頓挫で文太郞の心は稍靜まったのであらうかそれとも疲勞る如く感じっ乂生きた心持は無かったが、睡眠不足と心配とから來 を極めたのであらうか暫く靜平な从態を續けて眠に落ちたやうである心身の疲勞と漸く共聲に馴れた祁經の遲鈍とで遂には看護婦同様 誥った。春宵が醫局に行ってゐる間看護婦は文太郎の寢臺の居に椅子唯だ器械的に看護をする迄となった。 を置いて暫く容子を覗ってゐたが先刻來に引較・ヘ餘り静かになった けれども文太郎が其の大苦悶の裡に殆ど聞き取れ難き聲を絞っ しうちん ので欠を催ほした。彼はあたり憚からぬ大きな欠をして懷から袖珍て、 「舟乘々々。」と連呼したのを聞いた時、春宵は愕然として我に返 % の或醫書を取り出して讀み始めた。 2 って、 あくび ねむ ふところ おっ

6. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

2 三日目もおたかサンの姿が見えぬ。 「えらい音やったナ、お藤ド / の大きな體が落ちたんやさかい其り 廊下を隔てゝ余の部屋と向ひ合ってゐる部屋は客室では無いやうや其筈や」 だ。手を拍いても返辭が無いので重ねて荒々しく手を拍いたら此部「サア立ちノ \ 。 立てんか。腰をうったか」 屋から人が出る氣配がして、其草履の音が梯子段の下に消えたと思 「そら打ったやろ、何でも大分上から落ちたやうな音やった」 ったら程なくお藤ドンがやって來た。 「うつかりして上ってるとひょっと踏み外づすものや。氣をつけん 「お梅ドンが見えぬがどうかしたのかね」 とえらい怪我をしまっせ」 だいどこ 「臺所をしてゐやはります」 「皿か茶椀の虧けを踏まんやうにしなはれ、又其れを踏んで怪我す 「ハ、アお梅ドンがお料理の方をするのか。それでは御寮人サン ると事や」 お藤ドンはウン ~ ( 、とって居るやうだ。其れを取り圍んで番頭 「齒がいたいというてもう一週間も寢てゐやはります」 や他の女中や客人などは呑氣な事をいって居る。 「それでも此間一寸來たぜ」 「彦ドン、お藤ドンを起こしてやりなはれ。いつまでもそこにゐた 「あの時は齒醫者に行く序でだしたんや」 てゝ仕様がない、あちらへいて少し休みなはれ」 「子供は」 これはお梅ドンの聲だ。 「お乳母サン任せだす」 「サアお藤ドン立ち、わたいの肩につかまり。そや / 、、ア、重い 「氣樂だナア、隨分客があるやうだが寢てゐられりや結構だ」 こっちゃ」 お藤ドンはまだ何かいひたさうな口を無理につぐんで歸って行っ これは番頭の聲だ。 こ 0 「お藤ドンが笑ろてる」 向うの部屋では碁が始まってゐるやうだ。共に時々若々しい女の と一人の女中が頓狂な聲を出すと皆ドッと笑ふ。 すねす 笑ひ聲も聞こえる。此日は殊に此部屋に人の出這入りが多いやうだ。 「ひどい怪我ゃなうて好かった。あれなら向う臑を磨りむいただけ 晝前に出かけて夜に入って歸る。寢ながらけふお藤ドンの話したやろ」 事を思ひ出す。いくら齒がいたくても一週間も寢てゐるのは呑氣過「お梅ドン此あとを早く掃除せんとあぶないで。茶椀がこまかうこ っゅ ぎると思ふ。お梅ドンが料理をするのであったら此間お汁の悪口を まかう虧けてるがな」 あんなにお梅ドンの前でいふのでは無かったと氣の毒に思ふ。 多勢のものはお藤ドンについて行ったらしくあとには二人許りの 客人の聲がした許りであったが、共も共々部屋に歸ったらしい。其 翌朝異様な物音で目が覺めた。何物かゞ段梯子から落っこちた音あとで瀬戸物の壞れたのを掃き集める音がする。お梅ドンの襷をか で同時に皿や茶椀の壞れた音がする。っゞいて人々が驅けつける氣けて長い腕を出して掃除をしてゐる様が想像される。 配である。 向うの部屋は朝の間は靜かであったが程なく又騷々しくなる。今 「お藤ドンか、怪我せえへなんだか」 日は彦ドンの聲もする。碁の音も昨日の通り聞こえる。其隣の部屋 「氣分が惡いか、水を酌んで來てあげうか」 を掃除してゐる一人の女中が、 は」 うんば

7. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

「さうか誰と行った。」「一人で。」「ハ 、一人で行ったか。そい て立て膝を兩手でだいて小さくなって生る。今迄の寄席は皆廣かっ つは己よりはえらい。 ハ、、、、」と蓬亭は笑って、「それから無たのでいつも三藏の坐る處から高座までは大分距離があったが、こ 暗に行き度くは無いか。」と尋間するやうに聞く。三藏は一寸困っ の廣瀬亭は狹い。後ろの方に坐っても高座はすぐ鼻先きにある。高 たが「そんなに行き度くも無いサ。」といって除ける。「さうか、そ座からもすぐ目につくと見えて皆三藏を見る。小光の弟子で光花と もたれ れ位に強い處があればい、。」といってそれから「僕は三四年前大いふ切前の前を語った子供上りの丸つぼちゃなどはちっと三藏の方 阪に居た頃親戚の藝者屋の家にゐてあゝいふものの内幕はよく知っを見て罪の無い笑顏すら見せた。「あの人は何處へでも來るのね てゐる。其爲め道樂をせうといふ考へはあまり無いし、した處で別え。」と若し樂屋で皆が自分を評し合ってでもゐはしまいかと考へ にたいした刺戟も受け無い。君等でも内部の事情を知るのはよいがて三藏は極まりが惡かったが亦何だか得意でもあった。中入に便所 溺れてはいかんぞ。」と蓬亭は荒々しい言葉で而もいつもの通り親へ立つ。此處の便所の位置は樂屋の橫手に在る。三藏は何心なく ありがた 切な忠告をした。三藏は其忠告を難有いと思ふよりも、蓬亭が藝者っッと這人らうとするとパタ / \ と小刻みの草履の音が聞こえて内 屋のうちに居ったといふ話に興味を持った。羨ましいと思った。願から戸が開く。見ると小光だ。三藏はハッと呼吸がつまるやうに覺 ムだんぎ える。驚いて目を瞠って、白粉でよごれた平常着の襟をくつろげて はくは小光のうちにでも同居して見度いと思った。 今化粧を終ったらしい首を突出してゐる妖艶な姿に見とれる間も無 しやが く、「お待遠様。」とろく′ \ 三藏の顏は見す嗄れたやうな聲で挨拶 ふきぬきてい 小光は小川亭が濟んで吹拔亭へ挂った。三藏は近くなったので得し乍らついと擦れ違った。白粉の香ひか油の匂ひか知らぬが鐃い香 が三藏の鼻を撲つ。三藏は其の素氣なく行ってしまった後ろ姿を怨 意になって行った。其次は本所の廣瀬亭といふのヘ挂った。本所と めしさうに目送する。一寸でもい、から笑顏を見せて貰ひたかっ いふ處へはまだ一度も足を踏み入れたことが無かった。町名も人に た。が「お待遠様。」といふ義太夫の文句以外の聲を聞いたのがせ 聞いて、其から地圖を廣げて略見當をつけて出挂けた。此邊と思ふ 處を探し廻ったが寄席らしいものが無い。交番で聞く。「此邊に廣めてもの心遣りだ。と自ら慰める。 瀬亭といふ寄席はありませんか。」巡査は怪し氣な目をして三藏を 六十四 見下してゐたが「ある。」といったばかりでロを閉ぢて默ってゐる。 「どう行ったらいですか。」 . と聞く。「ウ、廣瀬亭か。」と言って 便所を出て歸りにふと耳を欹てると樂屋で話聲が聞こえる。「握 又一寸默ってゐたが「この先の四ッ角を右へ曲って行くとすぐ右り屁をしたな。」といふ下劣な男の聲がする。「何かは握った事があ よそみ 、、ゝ」と甘えたやうな女の聲 側。」と餘所見をし乍ら低い聲で言ふ。大分薄暗くなった町を心細るが屁を握った事はまだ無いわ。へ が續いてする。其女の聲はすこし前「お待遠様。」といったのによ く思ひ乍ら行くと四ッ角に出る。右へ曲ると角い行燈が見える。嬉 しやが く似てゐて嗄れてゐる。併し我敬愛する藝術家の小光がそんな尾籠 しい。行って見ると果たして竹本小光と大きな字で書いてある。這 入る。若竹や小川亭や吹拔などは學生が多かったが此處は職人や老な言葉を吐くわけが無い。誰か外のものであらう。三藏は斯く考へ まちか 人などが多い。遙々本鄕西片町から出挂けて來た書生さんは誰の目ながら座に歸る。程なく御簾が上る。いつもよりも目近く美くしい にも目立っと見えてじろと人が見る。三藏は帽子を目深に冠っ 小光の眼の光りがサッと三藏を射る。さっきは笑顏さへ見せなかっ 俳諧師 よぜ まふか そばた わが にを

8. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

「駕屋さん、途中で一遍おとしてあげてんか。」とお今は言った。 「いやゝわ、姉はん。」と駕の中の三千歳は訴へるやうに言った。 白河口の茶店の前に五臺の車がどやど、と梶棒を下ろした。 「おいでやす。」と茶屋の神さんは勇ましく聲を掛けたが、車から 白川の上流がおしまひになる邊から人の往來も絶えて、一行は三 現はれ出る人々のけばノ、しい服裝をちっと見つめて暫く庭に立っ千歳の駕を中心に笑ひさゞめき乍ら登って行くのであった。 てゐた。車の中からは一人の客と一人の藝子と二人の舞子と一人の 途中で坊主に出逢って三千歳は駕から下ろされ、玉喜久が代って 仲居とが現はれたのであった。 乘った。 「こぼでは登れんよって、さあ草履とおはきかへや。」と仲居 お今が三千歳の裾をからげてやり、あとがけをしてやる間に、玉 のお今は大きな聲をした。 喜久を載ぜた駕はもう四五間も先へ行って一同はそれを圍んで登っ 「誰が乘るのどす。」 て行った。急な登りで皆喘ぎノ \ 登った。 「どっちが乘るのどす。」 「わてやわ。」 七曲りに出ると琵琶湖がばっと眼下に展けて、そこを走る汽船が 「わてやわ。」 おもちゃのやうに小さく見えた。それからの道は暫く樂であった。 三千歳と玉喜久とは爭うて其處に在る一挺の山駕の上にもたれか 辨財天の前の茶店で休むことになった。 なか かるやうにした。同じゃうな頭が二つ並んで背丈も似てゐた。 「わてお腹が減った。」と三千歳は言った。 「どちらでもお乘り。そして道で坊さんに逢うたら代るのえ。」と 「わても。」と駕から出た玉喜久も言った。 お今は言った。 其處の床儿に坊主が一人腰掛けてゐたので、又三千歳が駕に載せ られ、玉喜久が歩く番に廻った。 「そんならわてが先え。」と三千歳はもう駕の中に腰を下ろして、 玉蟲色の唇をすこし開けて笑った。 不動堂からの登りは一番えらかった。 「えらい坂やこと。ふとい木がおっせなあ。」 お今が取り出した赤い切れで、皆はき換へた草履にあとがけをし た。 「つめたい風が吹いて來ること。」 「姉はんよう氣がついてあとがけの用意迄して來やはったんやな。」 お今と玉喜久は話しながら登った。 と自分の右足を内股に踏んで見て、小ぢんまりと足にくっ又いた草 三千歳の駕により添ふやうにして歩いてゐた玉喜久は、けたゝま 履の共あとがけの赤い切を感心したやうに見て藝子は言った。 しい鳥の聲におびやかされて言った。 「あの聲何どす。」 法「ぼち / \ 出掛けまほか。」と駕屋は催促するやうに言った。 流「旦那はんよろしおすか。さあ皆え曳か。」とお今は一同を振り返「鳥どすがなあ。」同じゃうにおびえた三千歳は駕の中から言った。 った。 「何ちう鳥か知っといるか。」とお今は聞いた。 二人の駕屋が息杖をついて、 「知りまへん。」と三千歳は答へた。 3 5 「よい。」と掛聲をして舁ぎ上げた駕は輕さうであった。 「もう此坂をだら / 、と下りると中堂さんどす。」と坂を登り詰め

9. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

、力学 / き・てられた足駄には下宿屋でよく見るやうな汚な もと堀の藝妓をしてゐた、といふことがお紫津の誇でもあった。 いのもあった、意氣なのもあった、靴もあった。師匠の足駄と並べ 「まア昔の堀の藝妓ッてものは大したものとしてあったのですね。 て沓脱ぎの上に脱がれたのは二足で、あとは思ひノ \ に其處いらに お座敷へ行くに長箱 ( 三味線の ) を持たせてやったのは堀と芳原ば 脱ぎ棄てゝあった。 かりです。他地は何所でも風呂敷です。それが後にやア堀だって他 土地と諸事變りやア無くなってしまひました。」 ラムプは明るくなかった。けれどもだん / 、暮れて行くに從っ て、二三人のぼんやりした影法師を映してゐる三枚の障子が、雨の こんな話をした。酒の廻った時などは堀の話になると殊に切が無 とのも 降ってゐる外面の闇に浮き出て見えた。一人遲れて來た男は、其障くなった。 子の明りを便りに飛石の上をあぶなさうに歩いた。ざあ / と降る 「堀も今ぢや、まるで昔の姿アありアしない。あんなに石崖が高か 雨の絲も時々光って見えた。 ア無くって、棧橋がズウと並んでゐて、船宿なんかも幾軒もあっ どぶ 障子の中では其前からもう三味線の音がしてゐた。師匠の錆びの て、屋根舟は着いてゐるし、今ちゃ、溷みたいな穢ない水だけれ ある唄も聞こえた。 ど、以前は上汐の時なんか綺麗な水で、暮方の景色なんてありませ 「ハアこれは毎年參る猿若にごわります穂の絲芒、鳴らす調べの時んでしたね。 雪の時、今戸橋の上を藝妓が蛇の目の傘をさして行くとこなん を得て二上り徳若に御萬歳と君ンも榮えましんます、愛嬌ありけ る宇源次花づま、霧浪のか又る目出度き小倉の君ンの、面體にほだか、まるで錦繪みたいでした。 されて此處まで浮れ來りて百萬兩たてについて初めててんほを召さ マア昔は船宿で遊ぶのを通としてゐたのですね。」 れけるは、誠に目出たうさむらひける : そんな話をしてゐるうちに當時の心持を呼び起こして、素足に吾 師匠の聲に交って男の聲も聞こえた。合の手が濟んだ時に師匠は、妻下駄を突掛けてゐる誰とも知れぬ水々しい若い女が目の前に描き 「ヤア。」と際立って掛聲を掛けて促すやうにすると男は調子づい出された。 て唄ひ出した。其を又師匠は抑へるやうにして聲を合せて謠ふので 「芝居町が近かったから、芝居のはねる時分となると、ロがかゝっ あった。 て來るので、もう其時刻には支度して待ってゐたものです。 其時々調子外れになる震へるやうな聲はすぐに綠雨であることが 兩側に芝居茶屋があって、褄を取って「今晩は』『今晩は』「今晩 判った。 は』ッて聲を掛けて行くの。そりやッちょいッと景氣なものでし た。今のやうに俥でがらノ、ツてな事は無いからね工。 あたしども る 名高い堀の小萬さんてエのは、妾共たア又一段古い人なんです。 けいしゃ 宇治紫津といふ名前は古くから聞こえてゐた。もとは藝妓であっそれで、あんなに名高くなったなア、藝が出來る、女が美いッてば かりちやアない、恐ろしい派手な人で、お金が無い時ア、肩當のつ 杏て今は一中節の師匠をしてゐる女といふと其道の人は、 いくたり どてら 「お紫津か。」とすぐ合點した。尤も其他にも尚ほ幾人かあった。 いた褞袍を着て湯に行く、お金がありやア、紋附の着物で行くッて 中にもあの有名な、もとは或局長であって、後には大きな新聞就の風なんです。そいだから途中で、岨さん困ッちゃって行場がありま しよっちゅう 2 瓧長をしたことのある人の細君なども共一人であった。 せんなんてのがあると、ヨシ宅へ來ておいでツてんで、初終居候の とち

10. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

こ 0 大學に這入って醫科にゐる爲めにまだ角帽を被ってゐる男も來た。 靑鳥や桂堂の鼓の先生は共頃西洋音樂の學理に通じた或博士に近 綠雨が一番に唄った。皆くすぐったいやうな心持をして待設けて づきになって、丁度能樂の拍子の新しい研究を試みつ長あったので ゐたが、案外澄まして唄った。聲は震へてゐたが高い調子を自由に づさん あるが、 出して少し首を動かし乍ら唄った。お紫津は共杜撰な節があるのを 「三味線の研究が出來るのなら僕も遣って見てもいゝ。」といって氣に入ら無いやうな顔をしてゐたが、他のものには其は判らなかっ こ 0 最初の日は出掛けて行った。 「するい / 、、 其他に、春の芝居町の全盛が新富町に移った頃すぐ新富座の裏で 綠雨君はもう前に遣ってゐるのですね。」 育ったといふ法學士の、俳號を西莊といふ男も俄に共日席に列し 「い & え、初めてですよ。」と綠雨は得意らしく答へた。 た。共は丁度靑鳥の家へ話しに來てゐたので、靑鳥は強ふるやうに 其次に坐ってゐた桂堂は都々逸や端唄などは器用に唄ふので所々 して連立ったのであった。 師匠に直ほされながらも無事に唄った。 直樹も來た。 「御立派ですわ。」とお紫津も賞めた。共は綠雨よりも却って此方 に望みがあるやうな口吻であった。 共等の人々がお紫津の前に一列に坐って、お紫津の唄について、 莞を揃へて謠ったのは滑稽であった。一度謠ったあとで皆笑った。 「旨ヱもんだ。さあお欽ぎ , ( 、。」と綠雨は膝を叩いて興に乘って ゐた。 「旨ヱもんだ。」と綠雨は嬉しさうに手を拍った。 「本に何ンにも節が無いのだから驚く。」と靑鳥は當惑したやうな 直樹も巧みに唄った。 顏をした。 「こりやいた。皆旨いのだねえ。」と靑鳥は獨り當惑してゐた。 彼は謠に無い節には自分で工夫していろ / 、の符號を附けてゐた 「自分で節をつけるさ。」と鼓の先生は言った。 「頃ーーーは ですね。」と靑鳥は謠の本にあるやうな引節や廻が、謠はうとすると第一、他の人が出すやうな甲な聲が出なかった。 し節を鉛筆で稽古本に書き入れた。 「まあ君先に遣ってくれ玉へ。」と次に坐ってゐた西莊に言って靑 めい / 、が口々に小さいで唄った。 烏は頭を掻いた。 「もう一度遣りませう。」と言ってお紫津が三味線を取り上げたの 五 で皆が靜まった。 はしゃ 初めの稽古日は斯んな鹽梅で終ったが、第二回目にはもう來無い 兎もするとお紫津の澁い聲よりも、綠雨の燥いだやうな聲が先に 音驅け出さうとした。共あとからおづ / 、したやうな多勢の聲がつい人があった。鼓の先生は、 ち て行った。 「俗曲は何處迄も二拍子で行くんですよ。謠曲のやうに三拍子の所 きっき かたきすけつね の『頃は皐月の末っ方、曾我兄弟の人々は、今宵ぞ敵祐經を、宇津のはありません。」などゝ言ってゐたがもう二回目からは來無かった。 ふるき一と 山邊の現にも、只懷かしき古鄕へ、記念の品々贈らるゝ、心の内こ 靑烏は來るには來たが勇氣は全く拔けてゐた。 存外熱心なのは直樹に桂堂に西莊であった。西莊は初めの日は亠円 そ哀なれ、 2 同じ所を三度も四度も繰り返したあとで一人宛唄ふことになっ烏に無理に引張られて來たのであったが、其後殆ど一回も缺かさず うつ、