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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

6 9 嚴肅な兄の膝下に保管されて、さうして際限も無い老母の愛に甘や かされて、三藏は人に對して極めて柔順で素直で氣が弱くって、さ うして何處か我儘で敗け嫌ひで、虚榮心の強い性質に育て上げられ 兄は「金儲けには醫者がいゝよ、醫者にならぬか。」と勸めた。 三四年前或寺を借りて毎月演説會をした仲間は「君は政治家になる 筈では無かったのか。」といった。三藏は醫者は思ひもよらぬ、金 なんか儲けなくってもよいと思った。政治家は初め其花やかな點が 心を牽いたが、後になって雪中梅や佳人の奇遇で想像してゐたのと は違ってゐる事がわかって來て政治家も面白くないと思った。かく 明治二十四年三月塀和三藏は伊豫尋常中學校を卒業した。三藏はて三藏は文學者と決心した。文學は束縛の少ない自由の天地である 四年級迄忠實な學校科目の勉強家で試驗の成績に第一位を占めるこ上に又政治についで花やかな天地である事も三藏の心を牽いた一つ とが唯一の希望であった。それがどういふものか此一年程前より學の原因であった。 校で成績の善いのは下らぬことだと考へ始めた。試驗の答案に筆記 松山一の老櫻のある料理屋に同窓生の祝賀會が開かれる。御詠歌 ふだらく 帳通りを書くのは不見識たと考へはじめた。試驗前の勉強は一切止の上手な同窓生の一人が「普陀落や岸うつ波』と茶椀を箸で叩いて しゃうるり さいおもちゃの傘と、これも杉箸を杖の代りに持ってを めた。この卒業試驗前は近松の世話淨瑠璃を讀破した。試驗の案唄ふと、小 は誰よりも早く出して殘った時間は控室で早稻田文學と柵草紙のばさんと仇名のある滑稽家の粟田が妙な身振りをして「順襴に御報 しゃ 沒理想論を反覆して精讀した。 捨』と可愛らしい聲を出す。こまでは趣向が出來たが『今日は幸 しなひひっさ 三藏の父は竹刀を提げて中國九州を武者修行に廻って廢藩後も道ひ夫の命日、お手のうち進ぜませう』といふ塗盆を持って立って行 場を開いて子弟を敎育したといふ武骨一片の老人で、三藏はその老 く役割に當るものが一人も無い。三藏は乾いたロを開けて「僕がや 後の子であったに拘はらず家庭の敎育は非常に嚴格であった。「三らう。」といふ。「君がるか。」と粟田が眞面目な顏をして驚く。 藏炭取りを持って來い。」といふ聲にも「やつ。」と竹刀を握って立茶椀が鳴る。『普陀落や岸うつ波』と唄ふ聲が響く。をばさんは目 なが 合った時の氣餽が籠ってゐるので、三藏は覺えす言下に「はい。」をしょぼ / \ させ乍ら首をかたぎ『順禮に御報捨』と絲のやうな聲 けつき と蹶起せねばならぬゃうになる。「三藏此手紙を高木へ持って行てを長く引っ張ってゐる。いざとなると三藏は喉が詰って口がきけ くれぬか。」といふ整はゆったりしてゐるが、三藏は其手紙を受取ぬ。をばさんは又「順に御報捨』と改めていふ。三藏はまだ默っ つつか るや否や下駄を突挂けて駈け出さねばならぬほど其聲に威嚴があてゐる。「馬鹿 ! 」といふものがある。「自分でろといはねばい乂 る。さうして其謹嚴な半面には又他愛も無い愛情がある。三藏が中のだ。」といふものがある。餘興はそのまゝにつぶれて三藏は面目 學校に這入って後迄も、外出して歸った父の袂からは紙にくるんだ を失ふ。三藏は祝賀會中第一の日蔭者は自分だと考へて最後まで隅 餅位のお上産が出ぬ事は稀であった。父が亡なってからも同じくの方に小さくなってゐた。 ト諧師 ごはう

2. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

プ 5 ノ 俳諧師 めした 障子の前には大きな鏡臺があって小光は其前に坐って居る。三蔵は又た「それから行きがけに一寸熊サンのうちへ寄ってね、明日の朝 はっとしてどぎまぎしてゐると小光の方は無造作に「御免下さ來てくれるやうに賴んで置いておくれ。」といふ。光花は又「は い。」とお茶漬を含んだまで答へる。小光は又何か考へてゐたが い。」 . と大きな聲で挨拶して ( それも鏡の方を向いたまゝで ) 藥指で 薄く紅粉をつける、眉をつくる。三藏は小光の方を見たり光花を振り 急に思ひついたやうに三藏の前に轉がってゐるカメオの箱に眼をや 返ったり三味線を見上げたりしてまだ心が落附かぬ。俄に思ひ出し って「一本頂戴ね。」と一寸三藏の顏を見ながら一本拔き取って火 て今來がけに奮發して買ったカメオを一本取り出して火をつける。 をつける。「さあ / 、。」と三藏はいって「此間の酒屋は面白かった よ。」と出し拔けに讃辭を呈する。「さう。」と小光は輕く首を傾け 七十七 て三藏を見てス。ハ / 、とカメオを吹かし乍ら「あの晩聽きに來て下 「花ちゃんもうそろ / 、仕度をおし。」といひ乍ら小光は尚ほ鏡のすったの。」といふ。「あ、いったよ。」と三藏はいったが、あの晩 前を離れない。光花は三藏の前を通ったり後ろを通ったりそは / 、 高座からまじ / 、と人の顏を見て置きながらあんなしらばっくれた としてゐてろく / 、其の方を見向きもし無い。何だか自分の存在が事をいふと少し腹が立つ。「君煙草好きなの。」と三藏は煙を一直線 認められてゐないやうで三藏は心持が悪い。光花が臺所へ行ったと に吹き出してゐる小光の尖ったロ尖を見ながら問ふ。小光は又た其 思ふと「あのお客さん誰だい。」といふ年寄りの聲が聞こえる。「塀れには答へずに「あなたは ? 」と反問する。「僕 ? 僕は好きとい 和さんとかいって : ・。」といふ光花の低い聲がしてあとは聞き取ふわけでも無いが、人と話をする時など手持無沙汰なのを誤魔化す れぬ。程なくぢゃぶノ、と茶漬を掻き込む音が聞こえて何かを刻むのにいゝから。」と正直なことをいふ。「ちゃあ行ってまゐります。」 またいた ひキ - だし 俎板の音もする。小光は漸く鏡に覆ひを挂けて抽斗をばた / 、と閉と光花は小光の前に手を支へる。「急いでお出で。」と小光は煙草を めて「お待たせ申しまして濟みませんでした。」といって三藏の傍吸ひ乍らいふ。 に來て坐る。それから「此間はどうも。」と輕く會釋して「何て今 七十八 日は寒いのでせう。」と慣れ / 、しくいって三藏の手を翳してゐる 火鉢に自分も並べて手を翳す。さうして「花ちゃん早くしないとも 「露ちゃん、御飯が出來たがお前食べるかい。」と母親は臺所から う四時半だよ。」といふ。「此間は失禮。」と三藏は固くなって挨拶出て來る。「君のお母さん ? 」と三藏はゐずまひを直ほして「これ は初めて。」と叮寧に頭を下げる。母親は「御免下さいまし。」と襷 して「今日は世話しいのちゃないの。」と小光の顔色を覗ふ。小光の を取り乍ら挨拶して「お客様の御飯は ? 」と小光の顔を見る。小光 顔色はどことなく隱かで無い。草津で逢った時とは一體の素振りが 大分違ふ。けれどもあの時は相當に着飾って居ったが、今日は平常が默ってゐるので「何かお取りになりまするならさう申して參じま せう。」と母親は又三藏の顔を見る。三藏は計らずも小説太棹中の 着のまゝで、其平常着の中から今化粧したての首が出てゐるので三 藏は又た格段に美くしいと思ふ。小光は三蔵の問ひには答へずに 己事を思ひ浮べる。共は女義太夫のうちへ遊びに行った客が鳥鍋を こすム 「若し小住さんが休んだら三吉さんに代って貰ふといわ。」と臺所取って二人でつき乍ら食ふ記事である。三藏は今日斯る事を豫期 して來たのでは無かったが、意外にも共羨望して讀んだ小説中の記 の方を向いていふ。「はい。」と光花はお茶漬を口に含んだまで答 へる。三藏は手持無沙汰に默って眼を火鉢に落としてゐる。小光は事を今實行することが容易らしいのに驚く。併し尚ほ多少疑惧しな ふだん

3. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

水月は此年の秋自殺した。三四年間殆ど俳人としての交通を絶っ てゐたが、三藏は京都から歸って間も無く久し振りに出逢って其風 采言行の非常なる變化に驚いた。以前は一見異常なる哲學者膚の人 と思ったのが極めて隱かな平凡な人になってゐた。「近來俳句は如 何です。」と三藏が聞いたら「近頃二三句作りました。」といって思 ひ出しノ、其句を話した。三藏は全く月並であるのに驚いた。其か ら最も三藏を驚かしたのは「僕は自殺せうと思ひます。」といった ことだ。けれども其態度が極めて平靜で更に大間題と思へぬゃうな ロ振りであったので三藏は初めこそ驚いたがたいして氣にも留めな しのげ干ちはん ひょうげつ かった。二人は不忍池畔を散歩したが冰明に上って汁粉を食った。 其時大きな地震があって水月は逸早く跣足のま、庭に飛び下りた。 さうして「死なうと思ってゐるのに地震が恐いのは不思議だ。」と 1 獨り言をいひながら又座敷に上って汁粉の殘りを吸った。其時の勘 定は強ひて水月が拂った。歸路三藏は水月に妻帶してはどうかとい 俳諧師 をして笑ふ。それから「いやなか / 、むつかしいものだが併し又面った。水月はさういふ事を聞くとすぐ目の前に饑餓に迫ってゐる要 白いものだ。」と前置を置いていろ / 、、質間を發する。それから一一一子の状態が描き出されるといった。それから切通しの坂の上で別れ えんすん 人で二三題作って更に其句の批評などしてタ飯の御馳走になる。主た。其の後二三日してピストルで前額と延髓とを一發づっ打って自 えうち 人公も飲む。お客も飮む。二人は盃を擧げ乍ら幼穉な議論を闘は殺した。 す。それから二人では水挂け論だから一つ先生に聞いて見ようなど といって三藏に審判を乞ふ。三藏は以前獨逸語の書生として釜から けんい 5 しゃ 取る熱い御飯を頂戴して居った時に此べて其變化にき乍ら御馳走 三藏は尚ほ小説に意を絶っことが出來ぬ。當時賣出しの硯友社の になる。主人公とお客とは頻りに飮む。三藏は臺所に退いてなっか作物などを見ると物足らぬ所が多く何所にか新たらしい境地がある しい中庭の竈を眺めながら鶴子さんやお常の事を聞く。鶴子さんやうな心持がする。が扨て筆を取って見ると相變らず何も書けぬ。 は三藏が京都を去ってから間もなく或るエ學士の細君になりお常は已むを得ず時機の到るを待っこととして、暫く俳句専攻者として立 去年の暮まで續いて此家に居たが此春丸太町の或家へ嫁人ったさうつことにする。小説俳諧師は之れを以て一段落とする。 で「お常はあれから後もよく貴方の噂をしてゐましたよ。」と細君 ( 明治四十一年二月ー九月 ) は附加へていふ。三藏は其夜渥美に泊る。 はだ

4. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

プ 32 の ? 」といひながら一本長いやつを三藏に突き出す。三藏は一寸躊ゃうな、いろ / 、の心持がいづれも薄い色ながら錯綜して重なり合 躇したが「供は澤山です。」といって又固くなる。「梅ちゃんお上り って頭の中を過ぎる。其時座敷で大きな笑聲が起こる。取り亂した な。」と梅代の方へは新聞紙のまゝ一寸突きやって、自分は兩肱をやうな締まりの無いやうな笑聲で、一遍靜まったのが又抑へきれぬ そばだ あやぎぬ 兩膝の上に突いてを前にかゞめながら細君は皮をむぐ。「さう。 ゃうに起こる。三藏は我に歸って耳を欹てる。「本當に綾衣さんほ さっ おいしさうなお芋ね。あなた如何です。」と三藏の方に會繹して梅どだらしのない人は無いわねえ。」と梅代がいふ。「あの人でもこれ 代は恐ろしいものをこはえ、摘まむやうな指つきをして、其癖中で があるんだから不思議さ。」と細君がいふ。「これ。」といった時手 上等らしいのを目早くえりわけて、それから細君と同様に兩膝の上附きか何かで符牒でもしたらしいが三藏にはわから無かった。併し に兩肱を突いて前かゞみになって皮をむぐ。此時三藏は梅代の横顔自分の悪口をいってるのでは無いといふ事だけわかって一時興奮し ふたり を初めてしみえ、と見る。鼻は細君より少し低いがロ許は細君のと た三藏の經は靜まる。障子を開けて座敷に這人る。二女の眼が三 反對に可愛ゆらしくちんまりして顔立ちは全體に悪くない。只皮膚藏に集まる。「塀和さん退屈でせうねえ。もう歸って來さうなもの の荒れてゐるのと生え際の薄いのとが目に立って見にくい。それでだのに。」と細君はいふ。「本當に靜かな方ねえ。」と梅代は三藏を てがら も頭は細君同様つや / \ した丸髷に結って矢張り赤い手絡を挂けて目の前に置き乍らほめる。「また塀和さんは綺髴なものよ。ねえ。」 あそび ゐる。 と細君は妙な笑ひやうをして三藏の顔をちらと見て「まだ遊蕩に行 った事なんか一度も無いでせう。きっと。」と梅代の方を見ていふ。 五十一 「まあ。さうなの。」と梅代はさも / 、驚いたやうな顏をしていって ふたり さっ 暫く二女でお芋を食べ乍ら喋る。三藏にはわからぬ話が多い。默「感心ねえ。」と感服する。「だけれど、共内覺えまさあねえ。」と細 って聞いてゐるとまた眠むくなる。十風は歸って來ない。蓬亭も來君は三藏の爲めに辯護するやうに言って「ねえ梅代さん。塀和さん おびた きんし ない。便所に行く。掃除が屆か無いのか汚ない事夥だしい。鼻緒の には錦絲さんがきっとい長わ。」といふ。「さうねえ。そりゃあきっ 赤い草履が片方は戸に夾まってゐて片方は壁の隅っこの方に裏返し といゝわ。」と梅代は笑ひながらいふ。細君はばくりと大きな口を になってゐる。手水鉢には杓が無い。手拭は古びてゐる。いっ掃開けて笑ふ。三藏は又眞赤になる。何たか愚にされたやうな心持も 除したともわからぬ庭は隣の庭から流れて來る雨水が溜ってゐる。 する。が同時に又共錦絲とかいふ女はどんな女であらうと想像して 一時明るくなってゐたと思ったに雨はじめ / \ と降ってゐるのであなっかしいやうな心持もする。尚っゞけて其女に就ての話が出るか る。三藏は暫く縁に立って鬱陶しい庭を眺める。もう春の末である と心待ちにしてゐるともう二人の間には外の話が持出されて又締ま にしを、、 のに花らしいものは一つも庭に無い。若葉した錦木らしい木が板塀 りの無い聲をして笑ふ。梅代の膝もいつの間にか少し崩れて足の腹 に壓しつけられるやうになって茂ってゐる。縁日で買って來たらしの汚ないのが三藏の方に突き出されて居る。 い鉢植が四つか五つあるが、いづれも今は何も生えてゐないで雨水 五十一一 が溜ってゐる。此の鉢植をぢっと眺めてゐて三藏は淋しい心持ちに ふたり なる。急に故鄕が戀しいやうな、今の自分の身の上が憐れむべきも 漸く十風が歸って來て二女は臺所に退去する。蓬亭も歸る。三人 のであるやうな、又今座敷に居る二人の女にさ〈馬鹿にされてゐるで寐轉んで話す。「僕に少し餘裕があれば君一人位食はしてやるこ てうづばち はさ ひしやく しやペ

5. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

「さうか誰と行った。」「一人で。」「ハ 、一人で行ったか。そい て立て膝を兩手でだいて小さくなって生る。今迄の寄席は皆廣かっ つは己よりはえらい。 ハ、、、、」と蓬亭は笑って、「それから無たのでいつも三藏の坐る處から高座までは大分距離があったが、こ 暗に行き度くは無いか。」と尋間するやうに聞く。三藏は一寸困っ の廣瀬亭は狹い。後ろの方に坐っても高座はすぐ鼻先きにある。高 たが「そんなに行き度くも無いサ。」といって除ける。「さうか、そ座からもすぐ目につくと見えて皆三藏を見る。小光の弟子で光花と もたれ れ位に強い處があればい、。」といってそれから「僕は三四年前大いふ切前の前を語った子供上りの丸つぼちゃなどはちっと三藏の方 阪に居た頃親戚の藝者屋の家にゐてあゝいふものの内幕はよく知っを見て罪の無い笑顏すら見せた。「あの人は何處へでも來るのね てゐる。其爲め道樂をせうといふ考へはあまり無いし、した處で別え。」と若し樂屋で皆が自分を評し合ってでもゐはしまいかと考へ にたいした刺戟も受け無い。君等でも内部の事情を知るのはよいがて三藏は極まりが惡かったが亦何だか得意でもあった。中入に便所 溺れてはいかんぞ。」と蓬亭は荒々しい言葉で而もいつもの通り親へ立つ。此處の便所の位置は樂屋の橫手に在る。三藏は何心なく ありがた 切な忠告をした。三藏は其忠告を難有いと思ふよりも、蓬亭が藝者っッと這人らうとするとパタ / \ と小刻みの草履の音が聞こえて内 屋のうちに居ったといふ話に興味を持った。羨ましいと思った。願から戸が開く。見ると小光だ。三藏はハッと呼吸がつまるやうに覺 ムだんぎ える。驚いて目を瞠って、白粉でよごれた平常着の襟をくつろげて はくは小光のうちにでも同居して見度いと思った。 今化粧を終ったらしい首を突出してゐる妖艶な姿に見とれる間も無 しやが く、「お待遠様。」とろく′ \ 三藏の顏は見す嗄れたやうな聲で挨拶 ふきぬきてい 小光は小川亭が濟んで吹拔亭へ挂った。三藏は近くなったので得し乍らついと擦れ違った。白粉の香ひか油の匂ひか知らぬが鐃い香 が三藏の鼻を撲つ。三藏は其の素氣なく行ってしまった後ろ姿を怨 意になって行った。其次は本所の廣瀬亭といふのヘ挂った。本所と めしさうに目送する。一寸でもい、から笑顏を見せて貰ひたかっ いふ處へはまだ一度も足を踏み入れたことが無かった。町名も人に た。が「お待遠様。」といふ義太夫の文句以外の聲を聞いたのがせ 聞いて、其から地圖を廣げて略見當をつけて出挂けた。此邊と思ふ 處を探し廻ったが寄席らしいものが無い。交番で聞く。「此邊に廣めてもの心遣りだ。と自ら慰める。 瀬亭といふ寄席はありませんか。」巡査は怪し氣な目をして三藏を 六十四 見下してゐたが「ある。」といったばかりでロを閉ぢて默ってゐる。 「どう行ったらいですか。」 . と聞く。「ウ、廣瀬亭か。」と言って 便所を出て歸りにふと耳を欹てると樂屋で話聲が聞こえる。「握 又一寸默ってゐたが「この先の四ッ角を右へ曲って行くとすぐ右り屁をしたな。」といふ下劣な男の聲がする。「何かは握った事があ よそみ 、、ゝ」と甘えたやうな女の聲 側。」と餘所見をし乍ら低い聲で言ふ。大分薄暗くなった町を心細るが屁を握った事はまだ無いわ。へ が續いてする。其女の聲はすこし前「お待遠様。」といったのによ く思ひ乍ら行くと四ッ角に出る。右へ曲ると角い行燈が見える。嬉 しやが く似てゐて嗄れてゐる。併し我敬愛する藝術家の小光がそんな尾籠 しい。行って見ると果たして竹本小光と大きな字で書いてある。這 入る。若竹や小川亭や吹拔などは學生が多かったが此處は職人や老な言葉を吐くわけが無い。誰か外のものであらう。三藏は斯く考へ まちか 人などが多い。遙々本鄕西片町から出挂けて來た書生さんは誰の目ながら座に歸る。程なく御簾が上る。いつもよりも目近く美くしい にも目立っと見えてじろと人が見る。三藏は帽子を目深に冠っ 小光の眼の光りがサッと三藏を射る。さっきは笑顏さへ見せなかっ 俳諧師 よぜ まふか そばた わが にを

6. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

らち 見るものが皆暗い。大きな口をばくりと開けて「おや塀和さん。」 によらんものね。道樂もんでしてねあの人は。さうよ。宅を件れて 8 しん といった細君の聲は昔とあまり變りは無いが、三藏を子供扱ひにし ったのも大概あの人なんですけれど、それで心は矢張り親切なの た當年の活氣が少しも無い。「まあ美しい林檎ですこと。」と三藏のね。」と心から感謝して居った。三藏は、それでは以前十風にかけ あがた 手土産の風呂敷をほどいて籠のまゝ十風の眼通りに置く。十風は大た損害を償ふ積りで病中の補助をしてゐるのであらう、と考へた。 きな眼でぢっと共を見て「一つむいで呉れ。」といふ ) 「僕がむいで其から半月許りの間先づ十風の病勢は持合ってゐたが此頃は醫者か 遣らう。奧さんナイフを借して下さい。」と三藏はいふ。細君は齒ら談話を禁ぜられた。十風は「馬鹿な。話をせずにどうして生きて わざ のこぼれた大きな庖丁を持って來る。三藏は持ち惡くさうに庖丁をゐられるものか。」といって態と長い話をしてさうしてほろ / \ 涙 持ってむぐ。長い皮が疊につくまで細君はぼかんと眺めてゐたが急を流し乍ら咳き入った。其頃から不思議な事には今まで櫛卷ばかり こめかみ に思ひ出して盆を持って來る。十風は旨さうに食ふ。顳顎の筋の動であった細君が艶々とした丸髷を結ってゐる日が多いやうになっ くのがいたましく目立って見える。細君はぢっと三藏を見てゐたが た。それから或月夜の晩三藏は十風を訪はうと思って歩いてゐると 「塀和さん本當にあなた此頃立派におなりでしたのね。」といふ。そ向うから月光を正面に浴びた色の白い美しい婦人が一人來る。餘程 れからいろ / 、東京の事を聞く。三藏は李堂、蓬亭の從軍したこと美人らしいと三藏は凝視し乍ら近づいて見ると驚いた共は十風の細 などを話す。細君は急に思ひ出して「矢張り錦絲さんとこへ行っ君であった。「あ長あなたでしたか。」と三藏は立留った。「おや塀 て ? 」と聞く。「おやさう。住み替へたって。何處へです新宿 ? 和さんなの。びつくらしたわ。」と細君も立留って「何處へいらっ うち 品川 ? まあ骨ですって。」と斯ういふ話しになると流石に調子が張 しやるの ? 宅 ? 」と訊く。「え乂。」と三藏は答へて「あなた って來る。それから共日は順序の立たぬ昔話に十風も大分元氣が出は ? 」「一寸お使ひなの、すぐ歸りますから、お先へ行ってて下さ て來て「まるで君滅茶さ。昨日は古新聞を賣って漸く藥を買ったの いな」といふ。それから五六間も行った時細君は急に走り戻って來 さ。ハ、、、、」と昔のやうな投げ出したやうな笑ひやうをした。 て「塀和さん私に此處で逢ったといふこと宅に言は無いで置いて下 さいな。此頃病氣の所爲だか馬鹿に疑ひ深くって本當に困るのよ。」 八十七 と顔をしかめる。月明りの爲めか此間頃の細君とは見違へるやうに 其後三藏は屡十風を見舞うた。或日一人の髭を生やした金縁の眼色が白い。それに物いひに活氣があって小石川時代が思ひ出され なまちろ 鏡を挂けた色の生っ白い三十餘りの人に出逢った。十風は「此が星る。其夜は十風は珍らしく熱が無いといって大變元氣がよく此頃手 いとこ さす 野君だ。」と三藏に紹介した。そして其談話の中に頻りに其厚意を傅ひに來た細君の從妹とかいふ十五六の小娘に足を摩らせ乍ら三 と快談した。「細君は ? 」と聞くと「一寸醫者の家へ滑った。」と無 感謝するロ吻が見える。嘗ては「星野が全く僕を陷いれたのだ。」 とまで話した事のある人をと三藏はをかしく思った。十風の病勢は造作に答へた。間も無く細君は歸って來たが「おやいらっしゃい。」 段々面白くない。近頃は熱の高低が激しくって食慾が減退して愈衰と澄して三藏に挨拶して茶を汲んで來る。月明りで見た程では無い が、それでも顔には白いものを塗ってゐる事が明かだっ 弱を增すばかりである。或日十風の眠ってゐるとき細君に「失禮で すが此頃の經濟はどうしてやってゐるのですか。」と三藏は聞いた。 細君は「星野さんが全く親切なんですの。」といって「人は見かけ

7. 日本現代文學全集・講談社版 25 高濱虚子 河東碧梧桐集

釋されたのであった。それから『鶴子にまで御差出しの手紙に就て生があの手紙を見ると直ぐ呼びにやったんですけれどまだ來ません 御話申上度事あり御來宅待上候』といふ洋紙に亂暴にべンで書か あんとう のですよ。」「さうですか。」と三藏は又驚いて水月の既に東京に歸 れた手紙が其日水月の案頭に落ちた。水月は此を開封して見て例の った事を話した。「マア、さうですか。」と細君も目を丸くして、何 淋しい笑ひを洩らした。 といふ我儘な失敬な人であらうと顏色まで變へた。「先生は御在宅 ですか。」と三藏は又恐る / \ 聞く。「いえ。まだ歸りません。も 四十一 ごしゃう うすぐ歸るでせう。」と細君は意味ありげに三藏の顔を見て「後生 水月は渥美より手紙を受取った翌日は例の新聞紙包みを手に持っ さまよ ですから、これから鶴子の部屋などへは行かぬゃうにして下さい て京都市中を彷徨うて居った。それから其日の夜汽車で東京 ( 歸つな、私の手抜けになって先生から叱られますから。」といふ。三藏 てしった。渥美〈は何の挨拶もしなかったが、三藏には『今夜歸はまごっいて「決してそんな事は。一昨日もお部屋〈行ったのでは 東』といふ四字だけ認めた葉書を出した。それから例の新聞紙包みありません。あのラムプ掃除をしてゐらしった時に。」「何にせよ、 は濱名湖の眞中で汽車の窓から湖の中〈投げ込でしまった。此新聞氣をつけて戴き度いものですね。」と細君の顏色はだんど、險惡に 紙包みが何であったかといふ事は水月と濱名湖の外は知るものが無なって來る。三藏は居た、まらずなって、此上先生に歸られたら大 變だと、そこ / 、に挨拶をして逃げるやうにして歸った。歸りがけ もと 三藏は其葉書を受取るや否や柊屋〈行って見たが固より居る筈はに氣がついたのは鶴子さんの部屋では例の箏の音の悠長に響いてを 無い。其足で渥美〈行って見ると、細君が頭から「塀和さん、貴方ったことである。 あんなお使ひなんかをしてはいけませんよ。」と笑ひ乍らいふ。三蔵 をと、ひ 三藏は横町の曲り角で大きな風呂敷包みを抱へて歸って來るお常 は一昨日手紙を鶴子さんに手渡しする時初めて自分の使が格段な意に出逢った。お常は突き出すやうに不恰好に其風呂敷包みを抱〈て 味のものであることを了解して、何だか又た自分が水月の爲めに愚眞赤な顔をして三藏に目禮した。さうして三藏が矢張り靑色の毛絲 にされたやうな心持がせぬでもなかったので、思はず手を頭にやっ の羽織の紐を締めて呉れてゐるのを見て此上無き滿足を覺えた。 はや て恐縮する。殊にあの手紙の件が早細君に知れてゐようとは意外で 四十二 あったので目を瞠って其の顔を見る。「先生はあんな手紙をよこす 篠田も固より怪しからぬが、使に立っ塀和も塀和だといって大變立 京都の今年の冬は格段に寒い。三藏は國許から新たに屆いた綿入 腹してゐますよ。」と細君はいふ。三藏は「さうですか。」と益恐羽織に、鶴子さんに拵〈て貰った袷羽織をも重ねて丸くなって小さ 縮して、どうしてあの手紙がさう早く兩親に見つかったであらう、 いラムプの下で勉強した。渥美の主人程の空氣ラムプは駄目として 師 鶴子さんの見て居る處〈細君でも突然這入って行ったものか、又机 ひきだし 諧 も責めて鶴子さん位の明るいのが欲しいと思はぬでも無いが、又此 の抽斗を探されて見つけられたものか、祕密の事は斯く迄に早く暴暗い侘しいのにも俳味が無いでも無いと諦らめて、燈下にすり寄せ 露するものかと只驚いて居た。鶴子さんが此を細君の前に突出した るやうに書物を置いて勉強をした。 % といふ事は固より三藏の想像の外にあったのである。 水月が風の如く去ってからは東京との俳交も暫く途絶え三藏は只 「篠田君は參りましたか。」と三藏は恐る / \ 聞く。「い又え。先學校の課業にのみ埋頭して居った。例の手紙以來渥美〈も敎授を受

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7 つ 4 られてしまって、今迄古い土塀の日蔭にばかり居たものが、初めて牽き附ける。三藏の足は知らず識らず東に向ふ。 暖かい花園に立ったやうな心持がした。三藏は殆ど京極を歩きっゝ あるといふやうな感じさへ無くなってゐる。今故鄕を距る百里外の 京都の地に在って、而も上長者町の下宿を出て京極を散歩しつあ 此夜はいろ / \ の物が三藏の目に留る。紅屋の看板の紅で書いた るのだといふやうな感じは殆ど無い。故鄕に在る時すら未だ感じた 字が心を牽く。呉服屋の店頭に吊してある色々の小切が目の前にち かきめし かうもりがさ 事の無い人懷しいやうな心持が胸に溢れてゐる。 らっく。牡蠣飯屋を出て行った若い夫婦の女の蝙蝠傘が美くしいと 鮨屋と小間物店との中に押しつぶされたやうになった小さい這入思ふ。四條橋畔の電氣燈の。ハッと明るい下に今向うからこちらへ來 あんどう り口に赤い紙で縁を取った橫長い行燈が額のやうに挂けてあって、 る二三人の女の顏が目に入る。一人の女は女中らしい顏立で下ぶく それに鶴澤小梅とか盟竹玉之助とか盟竹玉子とかいふ名が肉の太いれの品の悪い顏ではあるが、それでも色が白いのとばっちあとした 字で大きく書いてある。三藏は此狹い入口の奥に寄席があるのかと 目で見るとも無しに三藏の顔を見た共目つきが心を牽く。今一人の 思って見てゐると三味線の音が思はずも鮨屋の二階から聞える。鮨女は瘠せこけて顏の色艶は無いが、鼻の高い、目に張りのある、眉 屋の二階が寄席になってゐるものと見える。職人のやうなものが這毛の凛とした三十四五の奧様らしい婦人で、鬢のほっれ毛を長い瘠 入る。遊び人のやうなのも這人る。餘程下等な寄席と見えて見なり せた指で掻き上げた其顔を氣高いと思ふ。今一人の女は藝者だ。艶 っと の惡い者ばかりが這入る。三藏は人に推され乍ら此處を立去らうと艶した髮を一絲亂さず結ひ上げた島田の、長い髱が鳥の尾のやうに してふと見ると自分の同級の學生が二三人今此寄席に這入らうとし後ろに出てゐる。共に準じてグイといなした襟と、又其の反比例に わちこ てゐる。其内の一人は今迄着てをつた制帽を脱いで懷の中に捩込ん前へ突き出した首とが水際立って美くしい。擦れ違ひさまに妙な匂 で這入った。三藏はあっけに取られて見てゐると、をばさんらしい ひが三藏の鼻を撲つ。鳥打帽子を被った三藏が同じく明るい電氣燈 人が一人の娘を連れて這人って行った。たしかにをばさんらしいの の下で大きな目をして驚いてゐる隙に、是等の人は忽ち行き過ぎて で三藏は覺えず延び上って見たが、少し違ふところもあるやうでは新らしい人が續々と明るい顔を電燈下に曝す。 つきりはわからなかった。をばさんが此頃自分の下宿してゐるうち 鵯川の兩岸の燈が仕挂花火のやうに水に映ってゐる。物音がざあ の娘が美しいと言って自慢してをつたが若しあの娘が共であらう ッと三藏の耳に集って來る。三藏はふら / 、と橋を渡る。 か。いくら平氣なをばさんでも共娘を連れて歩くなどいふ事はある 橋を渡り終って橋畔の電燈を後にすると、少し燈火の光が弱くな まいと三藏は考へた。 ったと思ふ間も無く南座の前の電燈が又。ハッと書よりも明るく街上 三藏は心地よく人の氣に醉うたやうで、帽子を懷に捩込んだ友達を照らす。多勢の男や女やが皆顏を上げて繪看板に見とれてゐる。 や、娘を連れてゐたをばさんらしい人を見たことも矢張り暖かい感繪看板の框の赤い色と其前に突き出して交叉してある紫の旗とが中 じになってしまって、歩くとも無く京極を歩いてゐるうちにいっし 心になって、其外に種々の色が錯綜して、共色の中から拍子木の音 まけ か四條通りに出た。四條通りは京極よりは道幅も廣いし人通りも比や三味線の音が聞こえる。三藏は其繪看板を見てゐる女の髷の高低 に目をすべらしてふと一人の少女に目を留める。 較的少ない。三藏は一寸立留まってどちらに行かうかと思ったが、 矢張り立止って繪看板を見てをつたのが、何とかいひ乍らついと 南座の芝居の幟や四條橋畔の明るい電氣嶝が今宵は殊に三藏の心を のぼり よせ

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く過した。それから漸く賴みに行ったら、其敎師は避暑旁何處か 歩きかける。美しい雛様のやうな着物を着てゐて頭にも櫻のやうな ぐわぺい かんざし へ旅行したといふ事で折角の計畫が畫餅に屬したけれども三藏はそ 簪を挿してゐる。三藏はこれが舞子だと氣がつく。さうすると又 共あとから一人出て來る。一人かと思ったに二人連れである。あとれを殘念とも思はなかった。 風通しの惡い奥村の座敷で增田と三藏とは毎日只ごろ / \ して日 の一人は前の一人のあとを追ひかけて、二人で手を組んで、又何と みは かいひながら一緒に繪看板を振り返って行く。三藏は目を瞠って其を暮してゐる。增田は時々例の物案じをしては日中は大概書寐をす る。肌を脱いだまゝ古びた疊の上に仰向けに轉がって、少し飛び出 後を見送る。 南座の前を通り過ぎると兩側の家の軒下に悉く角い行燈が出てゐた前齒を開けっ放しにしてすう / 、寐る。三藏は書寐は嫌ひだ。行 る。三藏は道の中央を通り乍ら左右を振り返って其行燈を見る。三李の中に收めてあった小説などを取り出して見る。暫く忘れてをつ 味線の音がところえ \ で響く。人がぞろイ、と共行燈の影を歩いてた興味が呼び起こされる。此一年間の學校生活がつくみ、、つまらな れんじ ゐる。表を覗いてゐる女の影が糯子の中からほのめく。三藏は『外かったと考へる。去年故鄕の書齋で近松世話浄瑠璃以下を讀破した かみぢ は十夜の人通り』といふ紙治の文句を讀んだ時の心持が思ひ出されあの勇氣が今日まで續いてゐたらもうたいしたものだと考へる。其 て身に入みる。其人通りの中にちらと又さきのやうな舞子の姿が認時書きかけた小説の原稿を取り出して讀んで見る。自分ながら旨い められる。箱屋を連れた一人の藝者が橫町に曲る。四辻に立って三處があると思ふ。あの時分から續いて筆を握ってゐたらもう一二篇 のかなりの作物は出來てゐたらうにと殘念に思ふ。露件に負けぬ氣 藏は前後左右を振りかへる。どの町も / \ 皆同じゃうに角い行燈が 軒並に點ってゐる。 で二十一歳迄にはと思ってゐた其歳ももう半年足らずのうちに來 三藏は歸途で、ふと尋中卒業の時の祝賀會の事を思ひ出した。さ る。斯うしては居られぬゃうな氣がする。 うして自分から進んでお弓をやらうといひ出した當時の心持が思ひ 增田が物案じをしてゐる隙に三藏も筆を執って紙に向始めた。寂 出された。三藏は京都へ來てから獨逸語や三角に苦しめられていっ光院の若い尼を主人公にして、共若い尼と四條で見た舞子とを姉妹 の間にか其時分の心持は忘れてし寸ってゐたのである。 にして趣向を立てたのたが筆が澁って一寸も運ばぬ。 東京に居るといふ增田の友逹から近日遊びに行くといふ報知が來 た。增田の話す處によると此友逹といふ人は俳句が上手なばかりで 其夏の休暇には大方皆歸省した。加藤も平田もをばさんも綾子さなく小説も作るさうで、行く / は文學者として立つ人ださうだ。 んの家に居た山本も歸省した。歸省しなかったのは增田と一一藏ばか增田は法學部で無味乾燥な法理や條文を研究してゐる人たから其人 りである。三藏は六十幾番といふ札を下げて歸るのを面目なく思っ が俳句を作るといふ事は左程三蔵を刺戦もしなかったが、自分と同 師 じく小説を作る志望の人が矢張り俳句を作るので、しかも上手たと 諧たばかりで無く、此夏は自分の不成績であった第一の原因の獨逸語 を勉強し度く、それには此地でなければ敎師が無いと考へたからで聞いたので三藏は俳句其ものの上にも多少尊敬を拂ふやうになっ あった。增田は「歸ったって面白くない。」といって去年も歸らなた。さうして私に其人の風矢を想望して心待ちに待ってゐた。 かった。今年も同じ事をいって歸らうともしなかった。 1 三藏は獨逸語の敎師のうちへ行く / と言ひ乍ら一週間許り空し かへりみち まんなか ひそか ちっと

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プ 20 を三四句話す。水月は其を聞いても善いとか悪いとかいふ批評はせ ビールを零したのか。これお常。」といっても返辭が無い。「お常ー ツ。」と大きな聲を長く引く。充分にビールを含んだハンケチは盆ぬ。「其は李堂が讃めるでせう。」とか「北湖先生が取るでせう。」 あてこ の上に置かれて、跡はお常が持って來た雜巾で拭ひ取られる。三藏とか「共は十風當込みですね。」とかいって、それから又思ひ出し は「不調法をしまして。」と恐る / \ 鶴子さんの顔を見る。鶴子さたやうに「花翁君は今日どうしました。」と聞く。「少し風邪をびい ゑしやく て今日はよう參りませんでした。」と三蔵は答へる。水月はもう默 んは默って一寸會釋をしたばかりである。 あはをばおり 三蔵は鶴子さんに拵へて貰った袷羽織を着て居る。お常は疊を拭ってしまって何もいはぬ。 あたり き乍らちらと共羽織の紐を見る。三藏は初めて其羽織を着た時紙縒「三十三間堂邊迄行きますか。」と三藏が聞くと「どうでもようご ひきだし を紐にしてゐた。それを見兼てお常は自分の針箱の抽斗からなまなざいます。」と水月は氣の無いやうな返辭をする。「それとも歸りま ましい靑い色をした毛絲の殘りを見出して短い紐を編んでやった。 すか。」と三藏が重ねて聞くと「歸ってもいゝです。」と矢張り氣の 三藏は素直に其紐を締めてゐる。お常はそれを見る度に嬉しいと思無い返辭をする。三藏は困ったが終に歸ることにする。 渥美の家が近くなった頃、水月は突然口を利く。「山信君。」「何 ふ。 ですか。」「僕昨夜夢を見たです。面白い夢でしたよ。」「へえ、どん 水月は主人公が大きな聲をしてカラ / \ と笑ふ時淋しくかすかに な夢でした。」「僕の腰に花が咲たのです。」「へえ。」と三藏は驚い 微笑むばかりですぐ眞面目な顏に戻る。 て暫らくしてから「どんな花でした。」と聞く。「何だか妙な花でし た。折るとポキリ / 、と丁度細工か何かを折るやうに折れるので あけ かもやしろ 翌日三藏は水月を案内して糺の森から朱の玉垣の加茂の瓧、それす。それから折るとすぐ又後から同じゃうな花が険くのです。折っ くろだに にやくわうじ ても / \ あとから / 、と啖くものですから弱りましたよ。」增田の から吉田村の自分の學校、黑谷から眞如堂、若王寺、永堂、南禪 前では常に自ら詩人らしい心持がしてゐた三蔵も、水月の前に立っ 寺と件れて歩いても水月の方からはあまり口を利かぬ。それでも三 藏の方から文學に關する事を尋ねると考へノ、話す。併しその答はと忽ち俗人に墮したやうな心持がする。三藏は水月の横顏を見る。 三藏の問うた心持とはひたと合はぬ事が多い。水月は加茂の瓧の前日を受けてキラ / 、と光ってゐる眼鏡の奥に細いどのやうな眼尻が に立った時も、黒谷の石壇を登る時も、南禪寺の疏水工事を見た時見える。水月は又た「僕は此間海に這人って、いろア \ の魚の顏の もいつも同じゃうな顏附をして居て、只三藏が歩く足に連れて歩前で頻りにピョコ / \ 頭を下げて謝罪をした夢も見たです。」とい しか ふ。右の手にはまだ確と彼の新聞紙包みを握ってゐる。 き、三藏が立止まる處で立止まる。 「水月君、其は何ですか。」と三藏は水月の手に握って居る新聞紙 三十四 包みを聞く。水月は一寸考へた末口を噤んで只微笑を洩したばかり 鶴子さんはお母さんに髮を結って貰ってゐる。古びた小さい鏡臺 で返辭をせぬ。それから疏水について歩き乍ら暫くして、「水月君、 が障子の前に置かれてある。此鏡臺は亡くなったお母さんのであ 發句は御出來になりましたか。」と三藏は又口を切る。水月は又一 る。今度の細君の鏡臺は別に新しいのがある。「其方をお使ひな。」 寸考へた末「出來ませんでした。」といって「山僧君、出來ました か。」と今度は水月の方から間を發する。それから山信は出來た句と細君はいふのだが鶴子さんは必ず共古びたのを使ふ。鶴子さんは ゅうべ