さ 「オ、、花ちゃんーー・・お珍らしい、能くお入來だネ、さア、お上り かり高い時節ですから、夜分お歸りも嘸ぞ遲くて在っしゃいませう 2 なさい、今もネ私一人で寂しくて困って居たのですよーーー別にお變ねェ」 や第 りもなくてーーー」 「左様ですよ、おっちりお寢みなさる間も無くて在っしやるので、 おっかさん かしら おてすけ 「ハア、ーー・・老母もーー」と、嫣然として上り來れるお花は、頭も御氣の毒様でネ、ト云って御手助する譯にもならずネーー・其れに又 そくはっ 無雜作の束髮に、木綿の衣、キリ、着なしたる所、殆ど新春野屋のた何か急に御用でもお出來なされたと見えて、昨日新聞瓧から直ぐ けなきち おほわ あひかは おくに 花吉の影を止めず、「大和さんは學校ーー左様ですか、先生は不相に御鄕里へ行らしったのでネ」 らす おっかさん 變御忙しくて在っしゃいませうね工 今日はネ、阿母、慈愛館か 「あらツ」と、お花は驚き顔「ちや先生は御不在なんですねーー・ま ゆるし こんな らお聽が出ましてネ、御年首に上ったんですよ、私、斯様嬉しいおアーー何時御歸宅になるんですの」 おっかは 正月をするの、生れて始めてでせう、是れも皆な先生の御蔭様なん 「端書で言うて御遣しになったのだから、詳しいことは解りません おたより ですからねエーー。。共れに阿母、兼吉さんから消息がありましテ、 がネ、明日の晩までには、お歸宅になりませうよ、大和さんが左様 私、始終氣になりましてネ」 言うてらしたから、だから花ちゃん、丁度可い所へ來てお呉れだわ 老母の目は復た忽ち涙に曇りつ「ーーー豫審とやらは此頃ゃうやく ネ、寂しくて居た所なんだから」 濟んださうですがネーー・ー」 「私、まアーー・ちゃ、私、お目に掛ること出來ないんですかーーー」 むっしい 「左様ですッてネーー・・共事は私も新聞で見ましたの、 六ヶ敷文 「そんなに急ぐのかネ、花ちゃん、たまのことだから、少しは遊ん とこ 句ばかり書いてあるので、能くは解りませぬでしたが、何でも兼さで行っても可いでせう、外の處ちや無いもの」 かしら ひる こよね かへ んに、小米さんを殺すなんて惡心が有ったのでは無いと云ふやうに 默ってお花は頭を振り「明日の正午までには是非歸館らねばなり おもひやり ませんの」 思へましたよ、矢っ張裁判官でも人ですから、少しは同情があると よう ガ一フリ、格子戸鳴りて、大和は歸り來れり「やア、花ちゃん、來 見えますわねヱ、だから阿母、餘り心配なさらぬが可御座んすよ」 ありがた 「難有うよ」と老母は瞼拭ひつ「此程も伜のことを引受けて下だすっしゃい、待ってたんだ、一一三日、先生が御不在ので、寂しくて居 いら た所なんだ」 った、辯護士の方が來しったんでネ、先生様の御友逹の方で、 おふたりいろ / 、 あなた そんナ , ーー」とお花は泣きも出でなんばかり、 御兩人で種々御相談なすって在しったがネ、君是れ程筋が立って居「貴郞までが、 るのに、若し兼吉を無罪にすることが出來ないならば、辯護士を度 そのかた よろ 二十五の二 めて仕舞へと、先生樣が仰しやるぢゃないか、すると其方もネ、可し 晩餐を果てて、三人燈下に物語りつ又あり、 い約束しようと仰しやるんだよ、花ちゃん、私、嬉しくてノ \ : : : 」 おっかさん おっかさん 「本當にね工、阿母」と、お花はプル / \ と身を震はしつ「何と云 「何だか、阿母、先生が御不在と思もや、共處いらが寂しいのね たび かた ふ御親切な方でせう、 私、考へる毎にーーー」と、面忽ちサと紅ェ」と、お花は、篠田の書齋の方顧みつ乂 らめ「彼の様にお忙しい中で、私共のことまであれも是れもとお世「ほんとにね工、在しったからとて、是れと云ふ別段のことあるで どう うたづ 話下さるんですもの、何して阿母、世間態や人前の表面で、出來る も無いのだけれど」と、兼吉の老母も首肯きつ、 のちゃありませんわね工 , ーー・近頃は又戦爭が始まるとか、忌な噂ば 「本當に私、申譯ないと思ひますワ」と、お花は急に思ひ出したる えんぜん うはペ や おかへ おるす い
いのです、けども私それと無く道時に尋ねて見ましたの、道時は是て、私も何が自分に適営した職分であらうかと考へたのです・ー、・貴 0 れ迄も能く御目に懸るさうでしてね、大層讃めて居りましたの、恐女に御相談したことがあったでせう , ー・貴女も賛成して下だすった こども るべき偉い人物であると敬服して居るんですよーーけれど梅子さ もんですから、私は貧民の兒女を敎育して見たいと思ひましてネ どれ虐ど しれ あなたおとっさん じぢよ ん、私何程一人で心を痛めたか知ないワーー貴孃の阿父は篠田さん 亡母の日記などの中にも同じ敎育を行るならば、貧乏人の兒女 を敵の如く愴んで居らっしやるんですとねエーーまア、何うしたらを教へて見たいと云ふことが澤山書いてあるもんですからネーー共 可いんでせうーー・梅子さん」 れを父に懇願したのです、けれど銀子さん、貴女も御承知の如き私 「銀子さん、皆様は私の獨身主義を全然砂原の心かの様に思って下の家庭でせう、父は私が實母の顔さへ知らないのを氣の毒に思って ださいますけれど、 凡ては神様が御承知です」梅子はハンケチ居ます所から、餘程私の願ひに傾いて呉れましたけれど : : : 後には もて眼を掩ひつ「銀子さん貴女とお別れして三年の心の歴史を、私父から私に賴む様にして、共れを思ひ止まって呉れよと言ふのです の爲めに聞いて下ださいますか」 ものーー・私は、銀子さん其時始めて世の中に失望と云ふことの存在 を實驗したのです」 なげき 十七の四 「銀子さん」と梅子は語を繼ぎつ「其頃私は貴女の曾ての傷心に同 どうそ へやいら 「梅子さん、何卒聽かして頂戴」 情しましたの、何時でしたか、貴女は夜中に私の寄宿室に來しって どう 梅子は暫ばし心に談話の次序整へつ、「學校時代の私は、銀子さ仰しやったことがありませう、ーー、・若し如何しても菅原様へ嫁くこ きよいのら ん、貴女能く御存下ださいますわねエーー・彼の一時・ハイロン流行のとが出來ないならば、私は一旦菅原様へ獻げた此の聖き生命の愛倩 どう さんしき いだ しま 頃など、貴女を始め皆様が切りに戀をお語りなさいましたが、何し を、少しも破毀らるゝことなしに抱いた儘、深山幽谷へ行って終ふ たわけか私には、其の興味を感ずることが出來ませんでしたの、貴心算だってーー」 かはあか 女に疑はれたことなども私能く記憶して居りますよ・ーー私も折々自 「あら梅子さん」と銀子は面赧らめつ「貴女も思ひの外、人が惡く 分で自分を怪しんだこともありますの、私の心が不健全であるので ってネ , ーー」 かたは は無からうか、愛情と云ふものを宿どさない一種の精禪病のではあ 「左様ちゃありませんよ」と、梅子も思はず片頬に笑みつ「只だ私 おも るまいかとーーーけれど私は只だ亡き母を懷ひ、慕ひ想像する以外も其時始めて、貴女と同じ様な痛苦を感じたと云ふ迄のことお話す まるて に、如何にしても私の心を轉ずることが成らなかったのですーー皆るんちゃありませんかーーーそれで銀子さん、私は全然砂漠の中にで 様能く男子の集會などへ行らっしゃいましたわねエーーーあら、銀子も居る様な寂寞に堪へないでせう「而すると又た良心は私の甚だ薄 たのしみ さん、貴女のことを言ふのぢゃなくてよーーけれど私の樂は日曜弱であることを責めるでせう、墓所へ詣りましても、敎會へ參りま に、靑山の母の墓に參詣して、其れから永阪の敎會へ行って、母のしても、私の意氣地ないことを叱る様な亡母の聲が聞えるぢゃあり ォルガン いっ こんな 彈いた洋琴の前に座わることの外は無かったのです、私の文章も歌まぜんか、あゝ寧そ死んだならば、斯様不愉快な苦境から脱れるこ いくたび も何時も母のことばかりなんですから、貴孃の思想は餘り單調だ とが出來ようなどと、幾度思ひ浮んだか知れませんよーーー斯う云ふ と、先生にお叱を受ましたのーー其れから學校を卒業する、貴女は厭な月日を送って、夜も安然に夢さへ結ぶことなしに思ひ惱んで居 ざんいら にかかた、 菅原様へ嫁っしやる、他の人々も其れ其れ方向をお定になるのを見た時、私はー・・・銀子さん・ーー何とも知れない一種の感動に打たれま こゞと さん まるで さだめ つもり さう
ますよーーー」 と思ひます」 2 しばらく カれ % 梅子は涙輝く眸を揚げて、始めて篠田を凝視せり 良久して彼女は思ひ切て口を開きぬ「ーーー貴所の御同志が政府の にくみ 「やツ」と、思はず聲を放って、大和は膝を進めぬ、 憎惡を受けて居なさいますことは、蒹々承知致して居りまするが、 さう いさ、 「はアー・ーイヤ左様したこともありませう」と篠田は聊か怪しむ貴所の御一身にのみ、不意の御災難が降り懸かると云ふのは、其處 はけ 色さへに見えず、雨戸打っ雪の音又た劇し、 に特別の原因がありまするのでーーーそして其の機會を生み出しまし 堪へずやありけん、大和はロを開きぬ「先生・ーー・御心當りがお有たのはーー私のーー心の弱いからで御座います」 りなさるのですか」 「ーー・何と、篠田さん、御詫致して可いのか」と、はふり落つる涙 わぎはひ 「否や、別に心當も無いが、災厄と云ふものは、皆な意外の所より を梅子は拭ひつ「心亂れて我ながら言葉も御座いまぜんーー只だ ひとこと 來るのだから」 一言懺悔させて下ださいませうか」 かた さん 大和は復た沈默せしが、やがて梅子の方に膝を向けぬ「山木様、 「喜で御聽甲すで御座いませう」 何時、先生を拘引すると申すのです」 いづ 「明朝ーーー」とばかり大和は殆ど色を失ひしが「そして、何れから 「何卒、篠田さん、御赦し下さいましーー、貴所の、御災難の原因は 御聽き込みになったので御座います・ーー・甚だ差出がましう御座いま と申ぜば、 私が貴所を御慕ひ申したからで御座いますーー」梅 キ、よき かすか すがーー」 子は疊に伏せり、歔欷の音、時に微に聞ゅ、 おさげす あっかましき 梅子は悄然豌垂れぬ、 梅子は面を擡げぬ「ーー定めて厚顔ものと御蔑みも御座いませ 「ーー・何ぞ、篠田さん、御赦下ださいましーーー警視から愚父へ内 うが、篠田さん、 私如きものが、貴所を御慕ひ申すと言ふこと きすっ 密の報知がありましたのを、圖らず耳にしたので御座います、お耻 が、所の御高德を毀けることになりまするのは能く存じて居りま しいことで御座いますが、愚父などからも内々警察へ依賴致したのするから、只だ心の底の祕密として、曾て一語半句も洩らした覺の あなた に、相違無いので御座いますーーー篠田さん、 私は貴所の前に一 ありませぬことは、様が御承知下ださいますーー其れを、結婚の 切を懺悔致さねばならぬことが御座いますので、御輕蔑をも顧みず申込を悉く謝絶致します所から、人を疑って喜ぶ世間は種々の風評 罷り出でましたので御座いますがーー」 を立てましてーーー貴所の御名譽に關係致しまする様な記事を、數よ 疊に兩手支きたるまゝ、整は震へて口籠りぬ、 新聞の上などでも讀みまする毎に、何程自分で自分を叱り、陰なが うでこまぬ 大和は窃と立ちて室を出でぬ、不安の胸に腕拱きっ乂、 ら貴所に御詫致したで御座いませうーーーけれど我が心に尋て見ます を - よばう 「梅子さん、決して御心配なさるには及びませぬ」と、篠田は微笑れば、、他の傅説を、全く虚妄とのみ言ひ消すことが出來ませぬの るゐせつ をり「我々の頭上に絶えず政府の警戒が嚴酷なので、何時何事の破で、必竟、貴所に此の最後のーー・縲絏の耻辱を御懸け申すのも、私 裂するか、豫測することが出來ないのです、是れは日本ばかりでは の弱き心からで御座います」 こら ありませぬ、萬國に散在する私共の同志者は、皆な同一の境遇に在 梅子は袖をみ締めて聲立てじと怺へぬ、 るのですーーーですから、貴孃に謝罪して頂くと云ふ様な必要は無い 「何も仰しやって下ださいますな」と篠田は目を閉ちつ「現瓧會の どう ひとみ あなた おゆるし きっ
戴致しませう」 様でーー御不禮無い様に御挨拶を」 「こりや奇麗な花嫁が出來ましたわイ」と利八は大笑す、 偖はと梅子の胸轟くを、松島は先づ口を開きつ「我輩が松島と云 ぶこつもの 「あら、旦那、何ですねェ」と、お熊は手を揚げて、叩くまねしつ ふ無骨漢ですーー御芳名は兼ねて承知致し居ります」 「是れでも鶯隝かせた春もあったんですよ」グッと飮み干してハッ 去れど梅子は只だ重ねて默禮せるのみ、 あなたさま 如才なき大洞は下婢が運べる盃取って松島に差しつ「ちゃ、貴所ハと笑ふ、 何れも相和して笑ひどよめく、 からお始め下さい」 梅子の眉ビクリ動きつ、帶の間より時計出して、ソと見やるを、 「梅子、お酌を」と、お加女は促がしつ、 お熊は早くも見とめて「梅ちゃん、タマに來て下だすったんだか ゆっくり 一一十一の三 ら、何卒寬裕して下ださいナ、其れに御遠方なんだから、此の寒い つもり みゆるぎ 夜中にお歸りなさるわけにはなりませんよ、最早、其の心算にして 「御酌を」と促がされたる梅子は、俯きたるま、微動だにぜず、 置いたのですから、一泊りなすってネーーーね工、お加女さん、可い 再び促がされても、依然たり、 「何したんだね工、此の女は」と、お加女の耐へず聲荒らゝぐるでせう」 「ハア、遲くなったら泊りますからッて、申しては來ましたがネ」 を、お熊はオホ、と德利取り上げ、 「なにネ、若い方は兎角耻づかしいもんですよ、まア其の間が人も 「ちゃ、大丈夫ですよ」と、早くもお熊は酒が言はする上機嫌「暫 おばあ く振りで梅ちゃんの琴を聽かせて頂きませうーーー松島さん、梅ちゃ 花ですからねエーーー松島さん、たまには、老婆さんのお酌もお珍ら んは西洋のもお上手で在っしゃいますがネ、お琴が又た一ときはで しくて可う御座んせう」 としより 「老女の方が實は怖いのサ」と、松島の呵々大笑して盃を擧ぐる在っしやるんですよ」 を、「まア、おロのお惡いことねェ」とお熊も笑ひつ「何卒松島さ 「左様ですか、 是非拜聽致しませう」と松島は盃を片手に梅子 に見とるゝばかり、 んお盃はお隣ヘーー」 みだ 酒玖第に廻りて、席漸く濫る、 「左様ですか、ーー然かし失禮の様ですナ」と、美しき梅子の横 「旦那」と小聲に下婢の呼ぶに、大洞は暫ばしとばかり退かり出で 顏、シゲ / 、見入りつ「では、山木の令孃」と小盃をば梅子に差し 付けぬ、 お熊の目くばせに、お加女も何やらん用事ありげに立ち去りぬ、 「梅ちゃん、松島さんのお盃ですよ」と德利差し出して、お熊の促 お熊は松島の側近く膝を進めつ「ほんとにね工、さうして御兩人 がすを、梅子は手を膝に置きたるまゝ、目を上げて見んとだにせ どんな 並んで在っしやると、如何に御似合ひ遊ばすか知れませんよーーー梅 ず、 の あなた 「梅子、頂戴しないのかね」と、お加女は目に角立てぬ、「かう云ちゃん、貴孃も嬉しくて居っしゃいませう」と、醉顔斜めに梅子を てうし 窺ひ、德利取り上げて松島に酌がんとぜしが「あら、冷えて仕舞っ ふ不調法もので御座いましてネ、誠に御不禮ばかり致しまして」 引「なにネ、お加女さん、御婚禮前は誰でも斯うなんですよ」と、おたんですよ」と、ニャリ松島と顏見合はせ、其儘スイと立って行き 貢はノッを合はして「ちやア梅ちゃんの名代に、松島さん、私が頂ぬ、微動だもせで正座し居たる梅子、今まお熊さへ出で行くと見る どう てうし こら ちよく ぬ、 おとま ちよく おふたり
どうぞ マザア カギ、り ア、梅子さん、何卒我國に於ける、瓧會主義の母となって下ださつ「何時と云ふ限も御座いませぬから、是れでお別れ致します、只 いのら 幻い、母となって下ださい、是れが篠田長二畢生の御願であります」今の御一言を私の生命に致しましてーーで、御一身上、私が承って どうぞ 梅子は涙堰きも敢へず、 置きまして宜しいことが御座いまするならば、何卒仰しやって下だ 隣房の時計、二ッ鳴りぬ、ア、、 さいませんかーーー」 「最早、一一時」と、梅子は皿垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に 篠田は暫ばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますか きた 二時を經過せるなり、曙光差し來るの時は、則ち篠田が暗黒の底にら」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、 やさ 投ぜらるべきの時なり、三年の煩悶を此の一夜に打ち明かして、柔 整を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得すして打 しく嬉しく勇ましき丈夫の心をも聽くことを得たる今は、又た何を ち伏しぬ、 げいぎころし か思ひ殘さん、いざ、立ち歸りなんか、 店りとも無し、 「梅子さん、此の老女を勞って下ださい、是れは先頃藝妓殺と唄は おっかさん 胸も張り裂けんばかりの新しき苦惱を集中して、梅子は凝乎と篠れた、兼吉と云ふ私の友逹の實母です、ーー老母、私は、或は明日 たぎゃう かたおたより 田を仰ぎ見ぬ、 から他行するも知れないが、少しも心置なく此の令孃に御信頼なさ ふたり 兩個相見て言葉なし、 い、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、共れ しばら かれ ふたり 良久くして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、彼女は唇を噛んに若し兩個が相許るすならば、花ちゃんと結婚したらばと思って居 で俯きぬ、 るのです、元より強ふることは出來ないですが」 突如、温き手は來って梅子の右掌を緊と握れり、彼女は總身の熱 篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするカイ : 、它と云ふ婦人 血、一時に沸騰すると覺えて、恐ろしきまでに戦慄せり、額を上ぐ が在るのです、元と藝妓でありまするが、餘程精の強固なのです あなた れば、篠田の兩眼は日の如く輝きて直ぐ前に懸れり、 から、將來貴孃の御事業の御手助となるも知れませぬ、」 いま たんせん さ、や 篠田は一倍の力を加〈つ「梅子さんーー此れは米だ曾て一點 梅子は思はず赧然として愧ちぬ、彼女の良心は私語けり、汝曾て あなた だも見ざる純潔の心です、今ま始めて貴壤の手に捧げます」 共の婦人の爲めに心に嫉妬てふ經驗を嘗めしに非ずやと、 梅子は左手を加へて篠田の右手を抱きつ、一語も無くて身を其上 兼吉の老母は正體なき迄に咽び泣きつ、 に投げぬ、 「其から梅子さん、私一身上の御依賴が御座いますが」と、篠田は まなこ 風も寢ね雪も眠りて夜は只だ森々たり、 悄然として眼を閉ちぬ、 ひとり 既にして梅子は涙の顔を擡げぬ「篠田さんお叱りを受けますかは 「私に一人の伯母があるのです、世を厭うて秩父の山奧に孤獨して しばし くわくしやく 存じませぬが、暫時御身を潜めて下ださることはかなひませぬか、 居ります、今年既に七十を越して、尚ほ钁鑠としては居りますが、 別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせうーーー大に眞珠を 一朝私の奇禍を傅へ聞まぜうならばーーー」語斷えて涙滴々、 お技げなさらずともーーー」 梅子は耐へず膝に縋れり、「御安心下ださいまし 何卒御安 篠田は首打ち掉りつ「如何なる場合に身を棄つべきかは、我等が 心下さいましーーー」 もろて 淺慮の判別し得る所ではありませぬ」 篠田は梅子の肩、兩手に抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいま ふうん 「篠田さん、最早決して弱き心は持ちませぬーと梅子も今は心決めすなーー・ア、今こそ此心睛れ渡りて、一點憂愁の浮雲をも認めませ ゅんで ひっせい
よわたら いつ、むつ 「伯母さん、私ですー 健康の様だが、生れが何せ、脆弱い質で、五歳六歳になるまでと云 まる 「オ、ーー長二ちゃないか」倉皇として起ち來る音して、歪みたるふもの、全で藥と御祈疇で育てられた軅だーー江戸の住居も最早お ごみ そんな 戸は、ガタピシと開きぬ、 止めよ、江戸は塵と埃の中だと云ふちや無いか、其様中に居る人間 どうろく 「まアーー」と驚きたる旧母は、雪に立ちたる月下の篠田を、嬉しに、何せ滿足なものの在る筈は無い、今ま直ぐと云ふわけにもなる どうぞ たっしゃ やまうばきんとき げにツクヅクと見上げ見下ろせり「能く來てお呉れだ、先頃の手紙 まいが、何卒伯母の健康な中に左様しなさい、山姥金時で、猿や熊 ゆっくり に、忙しくて當分行くことが出來さうも無いとあったので、春暖か と遊んで暮らさうわ、ーー - 、其れは左様と、今度は少し裕然泊って行 にでもならねばと思って居たのに、 嘸ぞ寒むかったらう、今年けるだらうのーーー」 は珍らしい大雪での、さア、お人り、私ャ又た狐でも呼ぶのかと思 篠田は頭掻きっ又、ロごもりぬ「ーーー先日も手紙で申上げたやう わけ ったよー な第で、當時差し懸った用事がありますので、殆ど足を拔くこと くわんぜん かまら 「狐と間違へられては大變ですネ」と篠田は莞然笑傾けつ、框に腰が出來ないのですがーー何だか無闇に貴女が戀しくなったもんです こほ わらら こんにち 打ち掛けて雪に冰れる草鞋の紐解かんとす、 から、今日不意に出掛けて參ったやうな始末でしてネーーー」 けげん 「お前が來ると知って居りや、湯も澤山、沸かして置いたのに」と 伯母は怪訝な目して良久篠田を見つめしが「ーーー又た明日ゆっく 伯母が爐上の茶釜をせゝるを、「なに、伯母さん、雪路だから、足 り話しませう、疲れたらうに早くお寢み、例の所にお前の床があ も奇麗ですよ」と、篠田は早くも上りて爐邊に座りぬ、 る、ーー氣候が寒いで、風邪でも引かれると大變だ」 まつのあかりおぼっか やもめ 昔ながらの松明の覺束なき光に見廻はせば、寡婦暮らしの何十「貴女こそ早くお寢みなさい」と篠田は笑ひぬ、 わが たのしみ 年に屋根は漏り、壁は破れて、幼くて我引き取られたる頃に思ひ較 「何の、私は寢たよりも醒めてる方が樂だ ーーー此の綿を紡で仕舞 あはせ らぶれば、いたく頽度の色をぞ示す、 はんちゃ寢ないのが、私の規定だ、是れもお前の袷を織る積なので びつくり こんな 「まア、長二、お前ほんとに吃驚させて、斯様嬉しいことは無い」 さア、早くお寢み」 さう ほだうづたか と、山の馳走は此れ一つのみなる榾堆きまで運び來れる伯母は、 「左様ですか」と篠田は暗涙を呑で身を起しつ「誠に、恐縮に御座 をひかほ ひとま イソ / \ として燃え上がる火影に凛然たる姪の面ながめて「何時も ります」と懊開きて、慣れたる奧の一室に入れり、 かしら 丈夫で結構だの、餘り身體使ひ過ぎて病氣でも起りはせぬかと、私 伯母は膝に手を組んで頭を垂れぬ「ー・ー何か只ならぬ心配がある ャ共ればかりが心配での」と言ひっ乂見遣る伯母の面は、何時もな と見えるーー此の私を急に戀しくなったと云ふのはーー・彼の剛情な つやみなぎ さすが がら若々として、々しきばかりの光澤漲れど、流石に頭髮は去年男がーーー」 まさ の春よりも又た一ときは白くなり增りたり、 二十四の五 榾の煙は「自然の香」なり、篠田の心は陶然として醉へり、「私 の こんなおそく よなペ よりも、伯母さん、貴女こそ斯様深夜まで夜業なさいましては、お 火 「長一一や、大層早起の、何時起きたのか、ちっとも知らなかった 體に障りますよ」 よ」と言ひっゝ伯母は内より障子開く、 ちゃう 「なんの、長一一」と伯母は白き頭振りつ「身體は使ふだけ健康だが 縁端には篠田が悠然と腰打ち掛けて、朝日の光輝く峯の白雲眺め 2 の、お前などのは、心氣を痛めるので、大毒だよーー今ではお前もっ乂あり、「そりや、伯母さん、私の方が早く寢ましたからネ こ、ろ きた おもて かしらこぞ はやい しばし
をう / 、 蕭々として孤影寥々、梅子は燈下、思ひに惱んで夜の深け行くをも だ、ーー供ア外國へ逃げでもしなけりや、安心が出來ませんよ」 「非常な心配だナ」と、川地は冷笑しつゝ、「其れなら我輩も一ッ知らざるなり、 こよひ 「ア、、剛さんは如何なすったでせう、今夜はお歸りの日取なんだ 善根の爲めに、貴様を救けて、篠田を一生娑婆の風に當てないやう が、今頃までお歸りないのは、大方此の雨でお泊りのでせう、お一 にして潰らう」 「笑談言っちゃいけませんよ、何程意氣地の無い裁判官でも、警視人なら雨や雪に頓着なさる男ぢゃないけれど、お友逹と御一所で さう は、左様もならないからネ」 廳の命令に從ひはしませんからネ」 かれ きっ 彼女は机上の置時計を見て獨語せり、 「馬鹿だなア」と川地はポカリ煙草を喫しつ、「裁判官は只だ法廷 あなた しやくしぢゃうぎ ない 「ほんたうに剛さん、私や、貴郎に感謝してますよ、貴郎の様な男 めぐみ で、裁判するだけの仕事ちや無かーー法律なんて酌子定規に拘泥し らしい男を弟と呼ばせ給ふ様は、何と云ふ恩惠深くて居らっしゃ て、惡黨退治が出來ると思ふか・ーー・フ、ム」 たちまら るでせう、私の嬉しく思ふのは、天では祁様、そして地では、剛さ 吾妻は暫ばし川地の面ながめ居りしが、忽如、蒼く化りて聲ひそ ん、貴郎ばかりですーーー」 めつ「ーーぢや、又た肺病の黴菌でも呑まさうと云んですかーー」 ーー私は慥に 彼女は忽ち眼を閉ぢて俯けりアーー・左様ちや無い、 川地は默ってスイと起ちつ「吾妻、居室へ來給へ、一盃飲まう 身も心も獻げた奪き丈夫が在るのです、けれど篠田さんーー貴方は 骨折賃も遣らうサ」 ひた され 少しも私の心、此の涙に浸せる我心を少しも知っては下さいません 去ど吾妻は悄然として動きもやらず「、ーー考〈て見ると警察程、 ゃぶ 其れを御怨み申しは致しません、けれど何と云ふ情ない世の中 瓧會の安寧を壞るものは有りませんね工、泥棒する奴も惡いだらう でせう、此の純潔な私の戀がーー・左様です、純潔です、必ず一點の が、捉へる奴の方が尚ほ惡黨だ」 汚漬もありません、ーー貴方の爲めに禍の種となるのです、・ー・・篠田 「瓧會の安寧 ? 」と川地は苦笑しつ「何も、皆な飯の種サ」 つま さん、我が夫、何卒御赦し下ださいまし、貴方の博大の御心には泣 吾妻は低聲獨語しぬ「飯の種、ーー飯の種」 いて居るのです、私は既う決心致しました、私は父から全く離れま 二十八 した、家庭からも全く離れました、敎會からも離れました、私は天 大洞別莊の椿事以來、梅子は父剛造の爲めに外出を嚴禁せられの祁様をのみ父とし母として、地に散在する憐れなる兄弟と、大き て、殆ど書齋に監禁の様なり、繼母の干渉劇しければ、老婆も今はな家庭を作ることに覺悟致しました、そして此世を訷様の敎會と致 心のまゝに出入すること能はず、妹芳子が時々來りては、父母が梅します、ーーー篠田さん、貴郎は私の此の決心を、叱って下ださいま 子に對する惡感情を、傲りがに傳逹しつ、又た姉の悲哀の容態をばせんでせうね工 をひれ 女は恍惚として夢の如く、心に浮ぶ篠田の面影に縋りて接吻せ 尾鰭を付けて父母に披露す、芳子は流石にお加女夫人の愛兒なり、 ぜん の ざんそ 梅子の苦悶を見て自ら喜び、姉を讒訴して、母を喜ばしむ、只だ前 はげ かれ 「姉さん」と黄色の聲して芳子は走せつ乂入り來れり びつくり よりも一層眞心を籠めて彼女を慰め、彼女を奬まし、雎一の楯とな きょぜん 梅子は遽然我に返〈りつ、「あら、芳ちゃん、喫驚しましたよ、 りて彼女を保護するものは剛一なりける、 2 剛一は千葉地方〈遠足に赴きを二三日、顔を見せざるなり、雨何なすって」 とら どう ひと
251 火の柱 必ず火ありとも云ふぞ、 然かし僕が若し婦人ならば矢張り左様「左様です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面會 思ふかも知れない、僕が先生を斯く思ふの情、是れが女性の心に宿をと云ふことです」 レ」うか れば戀となるのかナーーーア、、何卒先生に思ふ存分、腕を伸ばさし 「ウム此の雪中を御光來は尋常のことでは有るまい、 早速に」 て上げたいナ」 梅子は大和に導かれて篠田の室に入り來りぬ、肉や又落ちて色さ いた いんギ、んかしら 風又た吹き加はりぬ、雪の音はげし、 へ甚く袞へて見ゅ、彼女は言葉は無くて只だ慇懃に頭を下げぬ、 しばらく 門戸に低く人の聲す、 「良久御目に掛りませぬでした」と、篠田も丁重に禮を返へして そばだ こ、ろがかり 大和は耳を聳てぬ、戸を叩く音なり、 「此の吹雪の深夜御光來下ださるとは甚だ心懸に存じます、早速 なんびと 何人の何等緊急事ならん、此の寒き雪の深夜にーー大和は訝かり 承るで御座いませう」 かしらもた あなた っゝ立って戸を開きぬ、 梅子は僅に頭を擡げぬ「・・・ーー篠田さん , ーー私、貴所に御逢ひ致し 吹き卷く雪中、門燈を背にして、黒き影一個立てり、 まする面目が無いので御座いますけれどーー今晩容易ならぬこと を、耳に致しましたものですからーー・」 かれためら そっかたへ 一一十九の二 彼女は逡巡ひっ又、窃と傍の大和を見やりぬ、 どなた きたい おほわ 「何殿です」と、大和が雪明にすかして間ふを、 容易ならぬことの一語に、危殆の念愈よ高まれる大和は、躊躇す 拂ひも敢へず、ヒフリとばかり飛び込めり、 る梅子の様子に、必定何等の祕密あらんと覺りつ、篠田を一暼して あづま おこそづきん た 東コートに御高祖頭巾、 ア、是れ婦人なり、 起たんとす、 大和は眼を圓くして怪しげに見つめぬ、 篠田は制しぬ「何事か知りませぬが、梅子さん、少しも御懸念に あな 「大和さん」、婦人の聲に、大和は愕然として一歩退けり「ア、貴及びませぬ、是れは私の弟ですから」 孃ですか」 大和は又た座りてホと吐息を漏らしぬ、 「あの、御在宅でいらっしゃいますかーー是非御面會せねばならぬ 「否工、篠田さん、大和さんに御遠慮申したのでは御座いませぬ ことが御座いますので」 が」、梅子は言はんと欲して言ひ能はざるものの如し、 深夜の雪道に凍えてや、婦人の聲の打ち震ひて聞えぬ、 「何でありまするか」と篠田は間ひぬ「何か私の一身に關係しまし 「暫くお待ちを願ひます」と、大和は急ぎ篠田の書齋へと走せぬ、 た凶事でも御聞き込みになりましたのでーー」 いた けけん うなづ 「先生ーーー」驚愕と怪訝とに心騒げる大和の聲は甚くも調子狂ひた 「ハイ」と、僅に梅子は首肯きぬ、 こぶし 大和は拳を固めぬ、 ひもと した、をは 既に文書認め了りし篠田は、今や聖書繙きて、就寢前の祈疇を捧「如何なる件でありまするか、御遠慮なく仰っしやって下ださい」 げんとしつ乂ありしなり、 篠田は火箸もて灰かきならしつゝあり、 あなた 彼は靜かに顧みぬ「大和君、何です」 「篠田さん」と、梅子は涙呑み込みつ「是れは貴郞の少しも御關係 おいで 「ーーー只今、あの、山木の梅子さんが御光來になりました」 ないことです、けれど今の世の中は、貴郎をーーー拘引する奸策を廻 うしろ 「ナ三、梅子さんがーーーこ篠田も首傾けぬ「お一人でか」 ~ 三 らして居るのです、冷かな手は黒き繩もて貴郎の背後に迫って居り リの客ま釉の雪
の底には、「戦爭に全勝せよ、去れど我等は益苦まん、との微風 ならぬと思ひますの、受くるよりも與ふるが寧ろ幸輻ちゃありませ さ、やき の如き私語を聽く、去れば九州炭山坑夫が昨秋來增賃請求の同盟沙 んか、貴女が全、心を擧げて常に道時さんを愛して居なさるならば必 ず慚愧して、昔日に優る熱き愛情を貴女に與〈なさる時が來るに違汰俾はりてより、同一の境遇に同一の利害を感ずる各種の勞働者協 同して、緩急相應ぜんとの要求日に益よ激烈を加〈、四月三日を以 ありません」 て東京市に第一回勞働者大會議を開くべきこととはなりぬ、 「ア、、梅子さん、其れが眞理なんでせうね工 其の中堅は瓧會主義倶樂部にして、篠田長二の同胞新聞は實に共 ーー・貴女 「銀子さん、ほんとに貴女こそ幸輻ねエーー何故ッて ? の機關たり、 は愛を成就なされたちゃありませんか、現今の貴女は只だ小波瀾の まさ どうぞ 齒にも掛けずありける九州炭山坑夫の同盟罷工今や將に斷行せ 中に居なさるばかりです、銀子さん何卒、私を可哀さうだと思って それ られんことの警報傅はるに及で政府と軍隊と、實業家と、志士と論 私の全心が愛の焔で燃え盡きませうとも、其を知ら 下ださい、 たより 客と皆な始めて愕然として色を失へり、聲を連ね筆を揃へて一齊に ぜる便宜さへ無いちゃありませんか、此のま長焦がれて死にまして げき 之を讒謗攻撃して日く「軍國多事の隙に乘じて此事をなす先づ賣國 も、ア、氣の毒なことしたとだに思って貰ふことがならぬではあり ちゅう の奸賊を誅して征露軍門の血祭せざるべからずーー」 ませんかーー何と云ふ不幸な私の皷膜でせう、『我は汝を愛す』と 云ふ一語の耳語をさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなり ませんよーーー」 かちこう うぐひすだに 勞働者の大會準備の爲めに、今宵しも上野鶯溪なる鍛工組合事 「梅子さん」突如銀子は梅子の膝に身を投げ出し、涙に濡れたる二 つの顔を重ねつ「梅子さんーー寄宿舍の二階から閃めく星を算〈な務所の樓上に組合員臨時會開かれんとするなり、寒風膚を裂いて、 をとめむかし 雪さへチフつくタ暮より集まりたるもの既に三百餘名、議長の卓上 がら、『自然』にあこがれた少女の昔日が、戀しいワーーこ うづたか いだ ワッと泣き洩る聲を無理に制せる梅子は、ヒシとばかり銀子を抱には書類堆く積まれて開會の鈴を待ちっゝあり、 とざ きうしゅ 此時階下の事務室、扉を鎖して鳩首密議する三個の人影を見る、 きつ、燃え立っ二人の花の唇、一つに合して、暫ばし人生の憂きを 目を閉ちて沈默する四十五六とも見えて和服せるは議長の浦和武 逃れぬ、 とっ / 、の、し 遠音に響くピヤノとウアイオリンの節面白き合奏も、紳の御園の平、眉を昻げて咄々罵る四十前後と覺しき背廣は幹事の松本常吉、 あひて 二人を對手に喋々喃々する未だ廿六七なる怜悧の相、眉目の間に浮 天樂と聽かれて、 あづまとしらう 動する靑年は同胞新聞の記者の一人吾妻俊郎なり、 つくゑ 松本は拳を固めて卓を打ちつ「實に怪しからん奴だ、其事は僕も ひたすら 豫め行德君に注意したことがあったが、行德君は無雜作に打ち消し 國民の耳目一に露西亞問題に傾きて、只管開戦の速かならんこと の にのみ熱中する一月の中旬、社會の半面を顧れば下層劣等の種族とて仕舞ったーーー八ッ裂きにしても此の怨は霽れない」 火 さん して度外視されたる勞働者が、年々歳々其度を加ふる生活の困苦慘「然かし、松本君、餘りに意外な報告なので私は何分にも信用出來 たん ませぬでーー」と、浦和は瞑目のま又思案に沈めり、 ごもっとも 幻憺に、漸く目を擧げて自家の境遇を覺悟するに至り、沸騰せんばか 2 「イヤ、浦和さん」と吾妻は乘出で「信用なさらぬのは御道理で りの世上の戰爭熱も最早や、彼等を魔醉するの力あらず、彼等の心 すみや みその ざんばう こふし
さんどう 「ナニ、篠田樣が如何なされたと云ふんだ」と、居合せる面々、異 の多數は現に鐵砲を造り軍艦を造って飯を食って居るものである」 ロ同音に吾妻を顧みたり、 松本は絶叫せり、拍手喝采の響は百雷落下と疑はれぬ、 くひしめ 吾妻は目を閉ち、齒を噛締て、得堪へぬ悲憤を強ひて抑へつ「諸 今は議長も思ひ決めて起ち上がれり「議長に於きましては、此の これまで 重大問題を決致しますることは、少こしく輕率の様にも考へま君、僕は實に諸君に對する面目が無いです、ーーー從來僕は篠田先生 す、依て五名の調査委員を擧げて、一應調査することに致し度存じに阿媚するとか、詔諛するとかッて、諸君の冷嘲熱罵を被ったです が、僕は只だ先生を敬慕する餘りに、左樣な非難をも受くることに ます、御異議が無くばーー」 あわて 松本が周章て起たんとする時賛成々々の聲四隅に湧出して議長のなったのです、然るに諸君、僕は全く欺かれて居ましたーー」吾妻 ばり はハンケチもて眼を蔽ひつ「僕が諸君の罵詈攻撃をさへ甘んじて敬 意見を嘉納し了ぜり、 ちゃうたそく ふる 賣節漢であった、疑もなき間諜であ 愛信した彼はーーー諸君、 「あゝ、大事去れり」と行德は涙を揮って長大息せり、 いま った」 菱川は髮遡てて怒號せり「我が勞働者未だ自覺せず」 「間諜ツ」と一人は吾妻を睨めり、 「馬鹿ツ」と他の一人は冷然微笑せり まなこ 一同の吾妻の言に取り合はざるに、彼は悄然として落涙せり「ア 階下の一室に兀座せる篠田は、俄に起る階上の拍手に沈思の眼を ア、諸君、ーーー僕の言を信用なさらぬは、必竟僕が平素の不德に依 開きぬ、 るですから、已むを得ないです、が、先生を間諜と認めたのは、僕 隙洩る雪風に燈火明滅、 の觀察では無い、先生とは最も密接の關係ある鍛工組合が調査の結 十九 果、昨夜の臨時總會に於て滿場異存なかった決議ですーー」 うそっ 「ナニ、鍛工組合が決議した、ーー・吾妻、又た虚言吐いちゃ承知せぬ 正午には尚ほ間のあり、 ストウヴほとり 同胞新聞の樓上なる、編輯室の暖爐の邊には、四五の記者の立ちぞ」 さいき て新聞を獵さるあり、椅子に凭りて手帳を飜へすあり、今日の勤務「騷いちゃ可かん、ーー彼の松本が例の猜忌と嫉妬の狂言なんだら う、馬鹿メ」 の打ち合はせやすらん、 吾妻は目を擧げて「左様です、若し松本等の主張ならば、僕も驚 足音あわただしく驅け込み來れる一人「諸君、ーー實に大變なこ きらひ しゆったい きは致しませぬ、るに彼の温良なる、寧ろ温柔の嫌ある浦和武平 とが出來した」 ふる が、涙を揮って之を宣言したのです、餘程正確なる證據を握って居 其聲は打ち顫へて、其面は色を失へり、彼は吾妻俊郞なり、 えらん 「何だ、君、そんな泥靴のまゝで」と、立ちて新聞を見居たる一人るらしいです、昨夜は兎に角、調査委員を選で公然之を審判すると の ひそ 云ふことにして散會したさうですがーーー聞く所に依れば、先生も昨 は眉を顰めぬ「電車でも脱線したと云ふのか」 なか 「馬鹿言ってちゃ困まる、我社の危急存亡に關する一大事のだ、我夜は眞ッ靑になって、一言の辯解も無ったさうです、僕は斯かる不 まるで 祚を聽かねばならぬことを、我が耳の爲めに悲むですーー」彼は面 我は全然、篠田の泥靴に蹂躪されたのだーー」吾妻の兩眼は血走り きよき 2 て見えぬ、 を掩うて歔欷したり、 どっぎ きは かは じうりん おほ てんゅ し