一、戦爭に關する言論の取締 も、電気も、船舶も、鐵道も、工業も商賣も始めて以て意の奧義 一、皇室に關する言論の取締 に觸る長ことを得るなり。然るに看よ、權力の私情に基きて、土地 吾人は常に所信に忠實なる人を尊敬す。其の所信が誤謬なると否 を區劃し、人類を差別し、之を以て智者の能事と誇る所の者は、内 とに拘らず、其の忠實なる精紳を奪敬す。故に政府が荷も一片忠實 に階級を立て外に詐術を弄し、人慾の爲めに天道を汚す。是れ吾 人の忍耐し得る所に非ざるなり。世界の智者才人は辯して曰く、物の心を以て其の警察權を執行するならんには、吾人は甘んじて其の には順序あり之を行ふに時機あり、急激突飛は識者の戒むべき所な束縛を受くることならん。之と同時に政府も亦た吾人の言動に對し りと。然れ共順序や時機や、是れ小智を以て彼此すべき所に非ずして飽迄謙遜の態度を守らざるべからず。 いやしく 荷も信ず て、況して野生の信徒が關與すべき間題に非ざるなり。 戦時に於ける非戦論の必要 る所は直に之を行ふこそ野生信徒の適任なれ。共の果して直に行は れ得ると否とはをも問ふ所に非ず。而して吾人を以て之を看れば、 基督は實に此の謙遜と勇氣との活敎訓を永久に遺し給へる者の如 日露戰爭の開展に從て、國民只だ陸海軍の萬歳を謳歌するに是れ し。禪學者の學を弄するは吾人の關する所に非ざるなり。羅馬法忙はしきの時、吾人少數の同志が獨り「非戦論」を唱道すること如 ざはり 何ばかり耳障ならん。然れ共吾人は今や政府が、非戦論者のロ舌に 皇をして法皇の權を主張せしめよ。正統溿學者をして三位一體論 向て嚴重の取締を施さんとするを聽きて、深く皇天に感謝せざるべ を上下せしめよ。然れ共基督敎は羅馬法皇よりも偉大にして、の 意匠は學者のみの窺ひ得る所に非ず。余は基督敎の命脈が、前學 からず。看よ、陸海軍萬歳の聲何ぞ夫れ囂々たるや、譬へば怒濤の こうめん 、又た百雷の落下するが如し。此間に立て、吾人垢面 逆卷くが女く 者以外の人心の奥深く堅固に維持せられんことを祈ること切なり。 ( 明治三十五年三月十五日「六合雑誌し の寒措大が手を振り喉を溿らして絶叫したればとて、又た何人の耳 朶にか逹せん。只だ宿昔の所信已むべからざるものあり、憎惡と嘲 弄とを忍て敢て此の狂愚を演ぜしのみ。何ぞ圖らん、政府の權力を 就會主義者の取締に就て政府に間ふ 以て來り臨むことあらんとは。鳴呼是れ吾人の微聲が、其實意外の 反響を顯しつ長ありし反證に非ずや。否な、沈默する瓧會の一面に は、吾人と心事を同くするもの少なからざる立證に非ずや。「嚴重 聞く、政府は此際社會主義者に對して嚴重なる取締を加ふと。所なる取締」の諭酷の警語は、吾人をして偶よ熱情を興奮せしめぬ。 おは 謂「嚴重なる取締」の内容如何は、是れ一に「手加減」の三字に掩吾人の言行、決して無益ならざりしことを自覺し得たればなり。 吾人の「非戰論」を主張する豈に一朝一タの故ならんや。瓧會民 序はれて、吾人の豫測すること能はざる所なるも、其の「手加減」の 命 實行者が、上官の意思を迎合するを以て職務の第一義となす警察官生の幸輻平安を害するもの、戦爭及び共準備なる軍隊に過ぐるなき を確信すればなり。或は曰く平素之を言ふは可なり、戰爭既に開始 たることは、吾人同志の眞に迷惑とする所なり。 れいり 警視廳が洩らしたる所に依て、今回實施せられんとする瓧會主義せらる、寧ろ緘默するの怜悧なるに如かずと。吾人魯鈍にして言者 宀 / 2 の論理を理解すること能はずと雖も、戦報一たび到來する毎に、 者取締の内容を推測するに、主として左の二事に在るもの長如し。 ~ ・つが・つ
2 「戦爭の災害」は歴々明證せられて、到底吾人をして默過せしめ能あり。戦爭止は元より萬國的事業なり。故に吾人同志は、萬國を はざる也。戰爭に依賴する瓧會の不幸てふ理論は、今や眼前に實驗通じて提携しつ又ある也。 そさう せられつあるに非ずや。諸君は吾人を指して士氣を沮喪せしむる 諸君は「露國の橫暴」を言ふ。然れ共吾人は諸君に向って少しく ものなりと云ふ、而して吾人は敢て諸君を指して人道を無視するも其意義を制限して「露國政府の横暴」と改正せられんことを要求 のと云ふ也。此の裁斷は吾人も爲すこと無かるべし、而して諸君もす。露國皇帝は先年萬國平和會議を發議して、日本政府も亦た之に 爲すこと能はざるなり。 賛同せり。平和會議發議者の政府が却て軍備を修めて平和を破壞す ること、眞に怪むべく、又た眞に憐むべき也。露國の社會黨が、日 戦爭の義を理解せず 露開戦に抗議して其政府を責めつゝある事件は、日本の政府と國民 とが、壯とし快とする所也。然り、若し社會黨の平和主義が露國の 吾人非戰論者を以て治安妨害と配慮する政府よ、世の戦爭辯護論政治に加味せらるゝに非ずんば、露國の改善は得て望むべからざる も亦た頗る滑稽なるに非ずや。日露開戦の當初に在りてや、彼等皆也。吾人は露國に於ける同志の堅忍不拔を見、飜て己が薄志弱行 な曰く、平和は我等の希望なり、然れ共戦爭は實に已むを得ざる也を省みて常に慚愧に堪〈ざる也。然れ共我が日本の政府がロに平和 くわんまん だかっし と。戦局の開展は此の如き緩慢の主戦論にては遂に人心を滿足せし を唱へつ乂、而かも「平和」を生命とする吾人同志を蛇蝎視し之に むること能はずなれり。日く人生は凡て是れ戦爭なり、瓧會國家は向って嚴重の取締を爲さんとするに至ては、吾人の愚なる、殆ど共 戰爭に依て生くと。然れ共吾人は日本の政府が最後迄も平和の目的の露西亞政府と相距る若干なるやを知るに苦む。如何に嚴重なる取 を抱て露國政府と交渉したりとの告白を聽て、其心事を多とするも締法の新設せらるればとて、吾人は到底言はんと欲する所を默する の也。而して露國の政府に在りても、啻に外相、陸相、藏相等が開能はざる也。只だ我が政府が餘りに小膽細心にして、他の嗤笑を買 戰を豫期したるに非ることを聽くに至ては、吾人は旅順及び滿洲に ふなからんことを希望せずんばあらず。 於て既に演ぜられたる悲劇、及び尚ほ引き續き演ぜられんとする大 悲劇の眞義を會得するに苦まずんばあらず。大學敎授某の歌に日く 皇室論に驚愕する勿れ とき ぐわしん 「いざ打ち懲らせ露西亞國、十年臥薪還遼の、怨報ゆる秋は來ぬ」 と政府に問ふ、斯の如きの軍歌果して諸君が開戦の心情を穿てる 非戰論と相並んで、否な、其れに倍層して政府が痛心する所のも もの乎。 のは、吾人同志の間に唱へらる乂「忠君愛國」の異議なりと云ふ。 ゑかうゐん 要するに戦爭は猶ほ回向院の角力の如きか、常陸山、梅ヶ谷の立政府は吾人の言論往々にして皇室に渡ることあるに喫驚すと傳聞 會の爲めには、萬都の士女をして熱狂せしむ。然れ共常陸山と梅ケす。思ふに今後警察の手は吾人のロを掩うて復た之を説くこと能は 谷と元と是れ爭はざるべからざるの理由あるに非ず、怨あるが故にざらしむるならん乎。乞ふ、少しく虚心平氣以て吾人が今日皇室論 爭ふに非ずして爭ふが故に怨生ずる也。而して傍者間又た常陸黨を公演するの已むを得ざるものある所以を辯ぜしめよ。然る後之を と梅黨とを生じて相怨爭せしむる也。故に吾人萬國の同志は此の悲取締るも、禁止するも、其は擧げて政府の自由に一任せむ。 ( 瓧會主 義者の一人 ) 慘にして無意義なる國際的角力を止ぜんとして、熱心蓮動しつゝ ゑとく ざんき へだ、 ひるがへつ
2 プ 1 火の柱 かしら 一座しんみりと頭を垂れぬ、 「花さん、何時の間に貴女は其にな弱き心にお化りでした、ーー先 イエス うやま 「御覽なさい、救世主として崇敬はる、耶蘇の御生涯を」と篠田は 夜始めて新聞瓧の二階で御面會致した時、貴女と同じ不幸に陷って うまぶね る女、又陷りかけてる女が何千何萬とも限ないのであるから、其を壁上の扁額を指しつ「馬槽に始まって、十字架に終り給うたではあ ひとりあかしびと りませんか」 救ふ爲めの一個の證人にならねばならぬと申したれば、貴女は身を 粉に碎いても致しますと固く約東なされたでせう」 あつまり はげ 十五 と篠田はお花を奬ましつ「誠に世の中は不幸なる人の集合と云う 多事多難なりける明治三十六年も今日に盡きて、今は其の夜にさ ても差支ない程です、現に今ま爰へ團欒てる五人を御覽なさい、皆 よのなか へなりにけり、寺々には百八煩惱の鐘鳴り響き、各敎會には除夜の な瓧會の府です、渡邊の老女さんは、旦那様が鹿兒島の戦爭で あつまり ちんはた 討死をなされた後は、賃機織って一人の御子息を敎育なされたの集會開かる、 くわはん 永阪敎會には、過般篠田長一一除名の騷擾ありし以來、信徒の心も ーー大和君の家は が、愈、、學校卒業と云ふ時に肺結核で御亡なり、 のぞみ つねあつまり 離れ離れとなりて、日常の例會もはかばかしからず、信徒の希望な 元と越後の豪農です、阿父さんが國會開設の運動に、地所も家も打 あつまり クリスマス る基督降誕祭さへ極めて寂寥なりし程なれば、除夜の集會に人足稀 ち込んで仕舞ひなすったので、今の議員などの中には、大和君の家の ことわり 厄介になった人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺兒なるも道理なりけり、 ひま 時刻には尚ほ間あり、詣で來し人も多くは牧師館に赴きて、廣き を顧るものは無い、然かし大和君は我も殆ど乞食同様の貧しき苦痛 ォルガン を嘗めたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏會堂電燈徒らに寂しき光を放つのみなるに、不思議や妙〈なる洋琴 とざ はりま - レ . 一 しらペ こども 人の子女の爲め今度學校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の調、美しき讃歌の聲、固く鎖せる玻璃窓をかすかに洩れて、暗夜 兼吉君のことは花さん、既に御の寒風に慄へて急ぐ憂き世の人の足をさへ、暫ばし停めしむ、 の開校式を擧げた積りのです、 しんたい うけにん 洋琴の前に座したるは山木梅子、傍に聽き惚れたるは渡湯の老 聞になったでせう、兼吉君の阿父さんが、自分の財産を擧げて保證 おばあ の義務を果たすと云ふ律義な人で無ったならば、老婆さんも今頃は女、 おふくろさま 鹽問屋の後室で、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の良人として居「今度は老女さんのお好きな歌を彈きませう」と、梅子が譜本繰り はなす、 られるのでせう、 私自身を言うて見ても、秩父暴動と云ふこと返へすを、老女はジッと見やりて思はず酸鼻りぬ、 「何うかなさいまして、老女さん」 は、明治の舞臺を飾る小さき花輪になって居るけれ共、其犧牲にな あなたおっか 又た貴孃の亡母さんのこ 老女は袖口に窃と瞼拭ひつ「何ネ、 った無名氏の一人のが、父母より護受けた手と足とをカに、亞 こんな せんのおくさん と思ひ出したのですよ、ーー斯様立派な貴孃の御容子を一目亡奧様 米利加から歐羅巴まで、荒き浮世の波風を凌ぎ廻って、今日コ、に へだて にお見せ申したい樣な氣がしましてネ、 同じ境遇の人逹と隔なく語り合って居るのです、私の近き血縁を云 うつぶ たっ 答へんすべもなくて、只だ鍵盤に俯ける梅子の横顏を、老女は熟 へば只た一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤獨で どう く熟くとながめ「何して、梅子さん、貴壤は斯うまで奥様に似て居 居る、世の中は不人情なものだと斷念して何しても出て來ない、 花さん、屈辱を言へば、貴女一人の生涯ではない、只だ屈辱のらっしやるでせう、さうして居らっしやる御容子ッたら、亡母さん さん 眞味を知るものが、始めて他を屈辱から救ふことが出來るのです」其儘で在らっしやるんですものーー此の洋琴はゼームス様が亡母さ ウロッパ ひと よっ どう ちゝぶ ひとり いたづ そ かたへ ォルガン っ
ったん知ってるか。」 た警部補が三人の巡査を率ゐて警戒にやって來た。 4 傍聽人はこんなことを言って、口々に利一郎の演説を妨害し始め けれどもこの時はもう小學校が手狹になった爲め、村役場は天滿 た。靑六は蒼い顔を更に蒼くして、氣が氣でない風に、度々利一郞宮境内の勤番所へ移って來てゐたから、東方の示威運動も此處まで に眼配せしたけれど、利一郞は血の巡りがわるくて、何んの氣なしは屆かず、西方の鐵砲もほんの噂さだけの空鉞砲で、臨時村會の傍 に、。ヘラ / 、やり續けた。東方四人の議員はと見ると、靜かに差し 聽人は神主の息子の竹丸たゞ一人であった。さうして、寺田の利一 俯伏いてゐた。 郞がまた長々しく。へフ / 喋舌った後に、小學校々舍新築移轉案は、 「何んでもえゝさかいなア、この議案に手を擧げたやつは、其の手四に對する六の多數で、靑六の得意氣な口から、堅い聲で可決を宣 しま え叩き折って了へ。よしか。」 言するに至った。 ひとっき 窓の外からもこんな聲が聞えて、大勢の人が來てゐるらしかっ 一月からも降り續いた梅雨の中に、小學校の表側の白堊は、とこ た。窓硝子が外からメリノ \ 破られて、靑六の橫手へ太い鍬の柄が ろ′「醜婦の顔に白粉が剥げたやうになって、中には竹の下地さへ ヌウッと出た。 露出したところも見えたけれど、何うせもう僅かの生命だからと、 「よし來た。」とばかり、室内の傍聽人は皆腕まくりをした。 左官も人らなかった。先きの長くないことを知った兒童等は、敎室 靑六が慄へ聲で採決をすると、利一郎を始め西方六人の議員は、 の壁や、廊下の羽目に「へのへのもへ」さんなぞを書き散らした。 一人も手を擧げ得なかった。 一夜、小使のお道婆が宿直室で、黴臭い蒲團にくるまって、少し 「本案は否決しました。」 は出か長った蚊の唸りを氣にしながら、うつら / \ と昔しの色夢を たち 蚊の泣くやうな聲で言ふと、亠円六は鼬の逃げるやうにして退席し樂んでゐると、こんなところまで樂書に汚れて來た入口の扉を、ほ とノ \ と敲いて、 「こら、滿場一致で否決しましたと、何んで吐かしやがらんのか ・ : 」と、優し 「お道つあん、お道つあん。 一寸開けてんか。 い。」と、靑六を追って行った傍聽人があった。 い聲で呼ぶものがあった。お道は半ば夢中で、まだ若かった春の 靑六は一つもやられなかったけれど、靑六に續いて退場しようと頃、情人に臥床を訪れられた折のやうな風をして、何かなしに扉の した西方の議員は、皆三つ四つ宛傍聽人に擲られた。利一郞は一番錠前を開けると、轉げ込むやうにして入った來たのは、大きな黒い 多く擲られたさうで、額から血が流れ、野口助役に辨當風呂敷で繃塊のやうな太政官であった。油煙の細く立ち騰るカンテラの灯に透 帶をして貰って歸った。 かして見ると、單衣の上に黒絽紋付の羽織を引ツかけ、眞白な太い けれども、こんなことで小學校新築移轉の大勢を永久に沮むこと紐を胸高に結んでゐるのが、仰々しく見えた。 は出來なかった。眞夏にならぬ中にまた臨時村會が召集されて、同「へえ、憚かりさん。大けに。」と優しく言って太政官は、ツカッ じ議案が出た。今度もまた東方の大字から示威運動の傍聽人が押し 力と宿直室の隣りの御宸影奉安所の前へ進むと、白い幌の前に立っ 寄せるといふ噂が高く、それに對抗する爲め、西方の大字からも、 て、稍暫く祈念を凝らしてゐた。 みなり 鍼砲を擔いだ獵師の一隊を先手にして繰り出すなぞと、怖ろしい大 今更に身形のしどけないのに、年にも似ず顔赭らめて、寢衣の上 評判が立ったので、一里距った警察分署から、士官のやうな風をし へ帶なぞ締めて來たお道は、前をかき合はせ / 、、呆れた顔をし お置 とばり
332 人の雇人は、別れ / に各の寢床へ逃げ込んで行った。 いっ まだブッ / 、言ひながら、表の戸締をして、鍵を例ものやうに懷太政 ( 呂 中深く捻ぢ込んだお文は、今しがた銀場の下へ入れた鱧の皮の小包 を一寸撫でて見て、それから自分も寢支度にかゝった。 父正三年一月 ) 太政官。それは私たちがまだ生れぬ前にあったものださうな。 「太政官て何のことやいな、一體。」 をせ 「知らんのかいな、阿呆。 : : : 敎へたろか、新田の茶瓶のこっち 「そら知ってるがな、言はんかて。 : : : 其の太政官て何のことや 「太政官ちうたら、太政官やがな。お上の役人のこっちゃ。」 中の村の靑年會の事務所で、二人の若い男がこんなことを言って ゐると、今一人の稍年を取った男が、 「二人ながら知りはらんのか、あかんな。太政官ちふのは、明治十 八年まであったんで、つまり今の内閣のことや。 ・ : 太政大臣がゐ て、それが今の總理大臣や、それから左大臣に右大臣、參議が四五 人、これだけで最高の政治をしてたんやがな。」と、下唇の裏を前 齒で噛み / 、言った。 「あゝ、さよか。 ・ : そいで新田の茶瓶さんが、この村の太政官ち ふことだすな。」と、常吉と呼ばるゝ、材木屋の二男は、さも感心 したといふ風で言った。 「あの太政官も、もうみけ〈んがな、中風で杖つかな、座敷も歩か ちゅうぶ
召プ 9 灰 にか 「お前さん、他のものはい、が、お襁褓を持って行くのだけは度し てお呉んなさい。どんなに困るか知れないから、 : : : 長うとは云は きっ ない、家で稼ぎに出てるから、夕方まで待ってお呉れだったら、屹 寺田は平五郎の家の困難を救うて、心の中に一種の愉快を覺え あした 度お鳥目を拵へて明日の朝役場へ持って行くから : : : 」と、云った た。慈善と云ふことに對して、常に輕侮と嫌惡とを感じて居った彼 が、吏員は小使に目配せして、何んとも云はずに出て行かうとすれも、この頃は自身の前途に種々の恐怖を懷いて居るので、動もす つかま る。お常は堪り兼ねて、堅く小使の袖を捉へ、吏員の顏を睨みながれば妙に迷信が起って、善いことをすれば善い報いが來ると云ふや ら、 うな、佛いぢりの爺さん婆さんの云ひさうなことを考へるやうにな 「畜生、覺えてゐやがれ」と、怒鳴る、其の間にお吉は素早く小使ったのである。彼れはお常とお吉とが右左から感謝するのと、見物 の前へ廻はって、お襁褓を取り還した。 人がワイ / \ と囃し立てるのとで、きまりが惡くなって、急いで人 「こら亂暴なことをすると、警察へ引き渡すぞ」と、吏員は血相を込みを押し分けて歸って來たが、自分の室に人って、机の前に坐っ 變へて後返へりした。 て、今のことを考へると、非常に善い事でもしたやうに思はれて嬉 しい。この頃は毎日碌にものも云はないで、不機嫌な顔ばかりして 「どッちが亂暴だいツ、間拔けめ」と、お吉は女工一流の痛快な口 調で罵る。 ゐる寺田が、何時になく話しかけたり何かするので、隣りの澤本老 「手前等みたいな鬼のやうな奴は、打ちのめしてやらないと腹が癒人は不思議に思った。 ばんめし えない」と、お常はカむ。 この日は主人政成も早く歸ったので、小山田家の晩餐も早く濟ん この騷ぎに表を通る人が一人立ち、二人立ち、近所の人も出て來で、定刻の十時には、主人を始め飯炊き女に至るまで、皆寐床に入 こがらし て、多くの見物人が集った。 った。爪がざわノ \ と吹いて、火事でもありさうな夜である。村 「おカミさん、しツかりツ」 の火の番の拍子木が遠くに聞える。 「娘さん負けるな」 寺田も寐床を布いてもぐり込んで見たが、なか / 、眠られぬ。考 ひやか へまい / 、、 何事も考へまいと、胸に手を置いて靜に眠らうとした 人々はお常とお吉とに同情して、冷し半分に叫んでゐる。何者か つらくれつか が、眠られない。一二三四五六とロの中で數字を數へると眠られる 土塊を攫んで吏員の頭に投げつけたものがある。吏員は驚いて、 「これは亂暴な」と、云ひながら、家の内へ逃げ込んだ。小使は擔と云ふことを思ひ出して、六百幾つまで數へたが、兎ても眠られさ いでゐた差押へ品の荷を下した。 うにない。また初めから一二三四五六と數へかけると、中學時代の 郵便を出しに行って、殖此處を通りか又った寺田は、多くの人兵式體操に番號をつけたことを思ひ出して、數日の後には自身の運 に混ってこの有様を見てゐたが、遂にツカ / 、と家の内へ入って、 命を托すべき兵營の赤煉瓦が髣髴として浮んで來る。彼れはむッく ふところ りと起きて、手さぐりで燐寸を取って、洋燈に火をつけ、寢衣の上 吏員に談判をした上、懷中にしてゐた小形の革の銀貨人れから八十 幾錢を出してやって、差押へを解かせた。 へ羽織を引ツかけて机の前に坐った。 机に頬杖をついてまた暫く考へてゐた彼れは、立ち上って窓の戸 を開けて見た。空には星が燦然と光って、風はあるが思ったほど寒 へや うち わまき
みッっ くわん 「其はお前、何十人有るだか知れ無えだ。今の奥様から三歳上で煥と射す山門を出て來たが、出て來るや否や、言合はした様に三人 ぶッばじ をんな よ、何でもいカ死んだ時は廿二だッけえ、十六から男狂ひ打初めの婦人は、黒と緋と海老色緞子との = 一色の洋傘を屮と開いた。 て、十六、十七、十八 : 「こかあがみやアと、うらのけえけいッぼえいだ。」と石段を降り だしぬけ と、爺が指を折り始めた時しも、突如に山門内から人の聲が聞え様とした老人は立止って、廻らぬ舌で此う云って莞爾笑った。 うしろ て、飴色の西洋大が一一人の前を駈找けたので、吃驚して背後を見返「え、何ですッて ? 」と老人の手を曳いて居る丸髷は訊ねた。 ると、 「うらのけえけよ。」と老人は同じことを繰返すと、 うなづ 「畜生々々、」と叫びながら、水兵の服を着た餘り肥ってない男の 「は、村の景色ですか、」と丸髷は點頭いて、「然うですねえ、此處 いしたん 兒が、靴音荒く石階を駈下りて、逃廻る大を追蒐けて來た。 から見下ろすと、何時見ても好い景色ですねえ。」 ンケチ うれし 大は桃色絹の大きな下巾を咬へて居るが、男の兒に追はるゝを嬉 「いゝもうせんれのけいきだ。」 さうそこら 想に其邊を一廻りして、また山門の中についと駈込んで行った。 「え、芋 : : : 、芋が何うしたんですッて ? 」と丸髷が解しかねて可 「畜生々々。」と少年も續いて門内に行って了った。 笑いと云ふ様な顏をする。 じれ 二人は呆氣に奪られて其の跡を見送って居たが、軈て爺は腰を伸 「いもでれい、いゝもうせんれ。」と廻らぬ舌で焦躁った想に云ふ。 して、 「いゝもう : : ? 」と丸髷は二人の束髮を顧みて、「い & もうッて、 「やれ / 、、けい事お饒舌爲たツけい。どーれ、仕事に掛るべ何でせう ? 」 え。」と、煙草入を腰に提げ、其處に置いた桑切鋏を取上げて、「血 「こかあがめいと、い又もうせんれ。」と老人は又云った。 すら としうへ 統血統云ふけんど、其様ね惡え血統はア、今日の佛様で斷れだッペ 「爰から眺めると、いゝもう : : : 、」と年長の束髮が考へながら云 なかえ えよ。奧様は彼様ねえ學問爲たゞし、旦那様たア間は好えだし、そった。 ふとり れに、末の孃様だッて、獨身で堅くして居なさるだし : : : 。」 「あ一望ですか、」と年下の束髮は老人の顏を覗いて、「一望千 とッさん これからあべこペ をんなかがみ 「全くだ、爺様の云ふ通りだ。今後は反對に、婦人の鑑になる様里 : : : 、然うでせう、ねえ阿爺さん。」 ちま おぢいさんにツこり な、大した血統に變っ了ふんだ。」 而ると阿爺様は莞爾して、 おらなまけ 「然うだッペい。どーれ、其だら己も怠慢無えで、良え血統でも遺「然うら。」 ねえさん すべえか。」 「然うですと。おほ乂曳、 姉様は芋だなんて、ほ・、又長、。」 爺は桑畑の方へ下りて行った。車夫は大きく伸をして、 と年下の又が笑ふと、他の二人も聲を合はせて笑った、而して老 でいぶ どと しづか 「あーあ、最う何時だらう、大分待たせるなア。」と一人語して、 人を扶けて一同徐に石段を降りた。 こみ、、 はた いくっ 腕車に被った塵をばたノ、と手で拂くと、畑から飛んで來た砂埃が 老人は五十幾歳と云ふ年輩である。背の高いっカぶ第肥った大男 蒲團の上に浮くのである。 で、額は深く禿げ、下唇は少し歪み、右の肩は筋の斷れた様に下っ ちゃみちんいちらくあはせ ところへ、石疊を蹈む下駄の音騒しく、がや / \ と話聲近くなツ てるが、何處か品の有る立派な顔で、茶微塵の一樂の袷に黑羽一一重 いづ もんおりおめし て、杖を支いた老人を眞先にして、孰れ令孃か奧様と云ふ風の束髮の五ッ紋の羽織を着てゐる。三人の女は孰も紋織御召の袷に繻珍の おくれ はんがつば くわん が二人、丸髷が一人、少し後て股引に半合羽の下男が一人、日の煥帶で、顏から扮裝から此湯に珍らしい美人であるが、中にも際立っ そん いでたち こ、ら
て、路傍の杉の樹にもたれたり、尾花の中に身を埋めて寢轉んだり 和の村のやうに見えるところにも、憂愁や、不安や、恐怖や、絶望 しながら、自分の身の行末を考へて、漠然たる空想に耽り、無限のや、煩悶や、叫喚や、人の世の黒い影は、村に住む人々の周圍を取 憂愁に悶えて居る。 り卷いてゐるのである。さうしてまた一代の投機心は急潮の勢ひを 小山田政成は地位が進んで富が增すとともに、また一段上の虚榮以ってこの村を襲うて、村人の驚く間も無く、村の中央に大きな競 を望む慾望と、富の存續に對する不安とに責められて、元から餘り 馬場を築きあげた。 肥えてゐなかった身體が、ます / 、痩せるやうである。彼れは毎日 新設の競馬場の第一回の競馬の日には、平五郞の家の前から、齋 銀行へ出る前と、銀行から歸った後との數時間を、京子と雅子とに藤の家の前、小山田の門前にかけて、ゾロ / 、と多くの人が通る。 對して起すつまらぬ疳癪に費してゐる。京子はこの頃の良人の有様人力車が通る、馬車が通る、自働車が通る。目黒の村が開けてか に恐れて、何事にも口を出さぬゃうにと心がけ、雅子は父の様子の ら、こんなに人の通ったことは一度も無いと、村の老人は云ってゐ 日増しに淺間しくなって行くのを卑しむとともに、またそれを悲し る。家の前を通る人を眺めてゐても腹が膨れる譯ではないからと、 んで、多くは自分の室に閉ち籠って、餘り庭へも出ることが無く、 平五郞は鍬を擺いで畑〈行ったが、其の作ってゐる畑は、丁度競馬 すくな かけ 寺田と語ることも尠い。 場の傍にあるので、馬の賭に狂ふ人や、それを見んと集る彌治馬に 藤では炭酸水の製造が八分通りまで失敗に歸して、親讓りの財踏みにじられて、折角芽を出した麥は散々になってゐた。平五郞は 産を殘らず投じた資本が殆んど消えて仕舞ったので、樂天七分に厭茫然として荒された畑の様を見てゐたが、後から後からと競馬場へ あるじ 世三分の變人が、全くの厭世家になったやうである。妻の花子は、 來る人は、畑の主人の其處に立って居るのも構はず、どし / 、麥の 良人の世渡りの下手なのに漸く愛想を盡して、良人と同期卒業の學上を踏んで行く。中には畑の中へ車を曳き込むものもある。平五郞 士の出世したことが新聞に出たり、自分の同窓生が、腕利きの才子も初めの三四人は怒隝りつけて畑から追ひ出したが、兎ても追ひ出 と結婚して、可愛らしい子を生んで、「何々氏の家庭」なぞと題し し切れぬのと、警戒の爲めに來てゐる多くの巡査も、そこまでは手 た寫眞になって、婦人雜誌のロ繪に現はれたりするのを見る度に、 が屆かぬか、畑を踏みにじる人をば制止しないでゐるのを見て、 みき 自分も美貌のまだ衰へない中に、子の無いのを幸ひ離縁を求めて、 「これア、はア駄目だ」と見限りをつけて、平五郎は家へ歸って來 た。 他に善い男を探さうかと思ふこともある。 あばらや けえ とっ 平五郎の茅屋では、妻のお常がまた姙んだ。お常は大きな腹を抱 「父さん、もう歸って來たのか、お吉はあゝして遊んでばかりゐる へて毎日お吉と母子喧嘩をしてゐる。お常とお吉との爭ひが始る し、父さんも働いて呉れないし、己ア一人で何うしたらいんだら と、平五郞は必ずお吉の味方をする。平五郎の家の親子夫婦の喧嘩う。り切れねえ / \ 」と、お常のそろ / 、小言を云ふのを、聞き は、目黒名物の一つと近所の人に云はれるほどで、一日に一度は必流しつゝ、平五郎は鍬を其處へ抛り出して、上り口へどツかと腰を ず起るのである。それに齋藤工場が休みになって、お吉の給金が取おろした。 れないやうになってからは、生活が一層困難になったので、喧嘩の 競馬場の方では、一勝負が濟んだと見えて、ワッと鯨波の聲が上 った。 お度數がまた多くなった。 3 たまに東京から遊びに來た人の目には、生存競爭とかけ離れた平 おやこ
お文と源太郎とは、人込みの中を拔けて、褄を取って行く紅白粉このいかか人形を見た頃の有様を、いろ / 、想像して見たくなっ の濃い女や、萌黄の風呂敷に箱らしい四角なものを包んだのを提げた。其の時分、千日前は墓場であったさうなが、この邊はもうかう せんにちまへ した賑やかさで、多くの人たちが、店に並んだ食物の匂を嗅ぎなが た女やに摩れ違ひながら、千日前の方へ曲った。 「千日前ちふとこは、洋服着た人の滅多に居んとこやてな。さう聞ら歩き廻ってゐたのであらうか。其の食物は皆人の腹に入って、其 いてみると成るほどさうや。」と、源太郎は動もすると突き當らうの人たちも追々に死んで行った。さうして後から後からと新らしい 人が出て來て、食物を拵へたり、並べたり、歩き廻ったりしては、 とする群集に、一人でも多く眼を注ぎつゝ言った。 また追々に死んで行く。それをこのかかか人形は、かうやって何時 「兵隊は別だすかいな。皆洋服着てますがな。」 例もの輕い調子で言って、お文はにこ / \ と法善寺裏の細い路次まで眺めてゐるのであらう。 こんなことを考へながら、ぼんやり立ってゐる中に、源太郞はフ へ曲った。其處も此處も食物を並べた店の多い中を通って、この路 ラ / \ とした氣持になって、 次へ人ると、奧の方からまた食物の匂が湧き出して來るやうであっ 「今夜火事がいて、燒けて碎けて了ふやら知れん。」と、自分の耳 路次の中には寄席もあった。道が漸く人一人行き違 ( るだけの狹にもハッキリと聞えるほどの獨り言をいって、自分ながらハッと氣 がついて、首を縮めながら四邊を見廻した。 きなので、寄席の木戸番の高く客を呼ぶ聲は、涌行人の鼓膜を突き どこ いり 「何言うてなはるのや。 : : : 火事がいく、何處が燒けますのや、 破りさうであった。藝人の名を書いた庵看板の並んでゐるのをチフ しつ まっ ぜんざい : しようもない、確かりしなはらんかいな。」 と見て、お文は其の奥の善哉屋の横に、祀ったやうにして看板に置 お文はにこ / \ 笑って、叔父の袂を引ッ張りつゝ言った。 いてある、大きなかかか人形の前に立った。 ぜんざい おんな 「このお多輻古いもんだすな。何年經っても同し顔してよる : : : 大「さア早う入って、善哉喰べようやないか。何ぐづ / 、してるん ゃ。」と、急に焦々した風をして、源太郎は善哉屋の暖簾を潜らう かたを屮さんの子供の時からおますのやろ。」 とした。 妙に感心した風の顔をして、お文はかかか人形の前を動かなかっ こほ 「かッさん、をッさん : : : そんなとこおま ~ う、此方へおいなは た。笑み滴れさうな白い顔、下げ髮にした黑い頭、靑や赤の着物の こいき 色どり、前こごみになって、客を迎 ( てゐる姿が、お文の初めてこれ。」と、お文はさッさと歩き出して、善哉屋の筋向うにある小粹 な小料理屋の狹苦しい入口から、足の濡れるほど水を撒いた三和土 の人形を見た幾十年の昔と少しも變ってゐないと思はれた。 きりこ くっぬぎいし 子供の折、初めてこのお多輻人形を見てから、今日までに、隨分の上に立った。小ぢんまりした沓脱石も、一面に水に濡れて、切籠 さまざまのことがあった。とお文はまたそんなことを考へて、これ形の燈籠の淡い光がそれに映ってゐた。 「あゝ、御寮人さん、お出でやす。まアお久しおますこと、えらい から後、この人形は何時までかうやって笑ひ顏を續けてゐるであら の お見限りだしたな。さアお上りやす。」 うかと思ってみた。 赤前垂の肥った女は、食物を載せた盆を持って、狹い廊下を通り 「死んだいばんが、子供の時からあったと言うてたさかい、餘ッば すがりに、沓脱石の前に立ってゐるお文の姿を見出して、。ヘ一フ / 、 8 ど古いもんやらうな。」 と、しなくな 9 と言った。 かう言って源太郎も、七十一で一昨年亡った祖母が、子供の時に
きけいじ ね、何時か新聞に出た首一一つの畸形兒ーー双生兒が胎内で密着し を押し潰すやうなことは出來ませんね」と、寺田は流石に呆れる。 2 て、一つの身體になったんださうだが、 それでも乳汁を飲む時「アンチンシアルさ、世の中は自分一人だと思ってさへ居れば間違 には、二つの頭が爭ったと云ふぢゃないか、まして二人以上の人間 ひはない、他人を當てにするとしくじる。 : : : 僕には家庭生活もっ を集めて、同じ身體のやうに調和が出來るものかね」 まらんが、社會生活はなほ厭ゃなやうな氣がするね。殘るところは 寺田は齋藤をば、理學士にあり勝ちの樂天的の變人だとばかり思墓場あるのみだ。 : と云って死ぬのも厭やだね : : : 」と、齋藤は はんもん ってゐたが、今始めて彼れもまた煩悶の子たるを知った。齋藤はな早やロに云って退ける。寺田は何うしてこんな變てこな人間が出來 ほ語りつゞける。 たのかと驚きながら、これでは炭酸水の工場も繁昌ぜぬ筈だと思っ 「ホームと云ふ字とゼントルマンと云ふ字は、英語の外には無いと たが、しかし、今始めて齋藤の人物の全斑を了解し得たやうな氣が ステッキみちばた 云って、英國人は自慢するが、下らん自慢だね。僕は英國人の僞善する。彼れは根節の洋杖で路傍の雜木を打ちっゝ、齋藤の先きに立 が、ホームたの、ゼントルマンだのと云ふしんこ細工の天神様のやって行く。 うな字を拵へたんだと思ふね。僕は全體西洋人は嫌ひさ、殊に上は 何時しか火藥庫の後を通って、三田村の丘に登ると、下目黒から 邊ばかりを飾る氣障な英國人が嫌ひさ、 日本人も餘り好きぢや桐ヶ谷の方が見えて、太皷橋を渡る人が豆のやうである。莓畑の中 無いがーー西洋人は嘘を吐くことが上手で、お世辭が巧くて、電車を通って、三田用水の側へ出ると、玉川から引いた淸い水が緩く流 ひとむれやぎ にでも乘り合はせると、識らない同士が懇意氣に話し合ふのださうれて、其の向ふには質素な西洋造りの家があって、一群の山羊が、 だが、其處〈行くと日本人はえらいよ、膝を摺り合はせて腰をかけ金網を張った中から眠さうな眼をして比がを見てゐる。 さま て居ても、識らない人間にはロを利かんからね、 : : : 僕なんぞは識「目黑は平和の村だね」と、齋藤は四邊の景色に感心した从であ る。 ってる人に逢っても用が無けりやロを利くのは面倒だから橫を向い て行くよ。それから電車や汽車の中なんぞでは、向ふ側や隣りに腰「平和な村にも時々騒動がありますが、去年の今頃は目黒川に大水 をかけた奴の中に、時々妙に氣に喰はん奴があって、 ナーニ全が出て騒ぎでしたよ。今年も今に雨が降るとまた洪水ですね。近年 く識らない人間だが、 何となく憎らしくて仕様のないことがあまではそんなことは無かったんですが、川上に發電所か何かゞ出來 るよ。 : この間目黑の停車場で可笑しかったよ、僕と一所に汽車て、水源を荒したので、雨が降ると直ぐ大水が出るやうになったん を待ってゐる客の中に、何處の婆アだか一人氣に喰はん婆アがゐて です。人間の小ひさな知識が、自然の大威力に一寸でも指を觸れる ね、僕は其奴の顏をなるたけ見ないやうにしてゐたんだがね、汽車と、直ぐ恐ろしい報いが來るんですね」と、云ひながら寺田は小ひ ドア あと が着いて僕が扉を開けて乘らうとすると、共の婆アが僕の後から同さな石を拾って用水の中に投げた。 じシートへ乘らうとするぢゃないか、僕はたまらんから、中から急 山羊が妙な聲をして啼き出した。 いで扉を閉めて、一フッテをかけて仕舞ったんだ。婆アめ怨めしさう な顏をして僕を見てゐたが、杖をつきながら他のシートへ行った よ」 十一月になった。寺田の目黑を去るのもいよど、近づいて來た。 ひま 「恐ろしいアンチノシアルですな。僕にはそんな弱い、小ひさな蟲彼れは相變らず閑さへあると、不動の森から目黑原の方を散歩し そいっ ステーション ( 二四 ) あたり