332 人の雇人は、別れ / に各の寢床へ逃げ込んで行った。 いっ まだブッ / 、言ひながら、表の戸締をして、鍵を例ものやうに懷太政 ( 呂 中深く捻ぢ込んだお文は、今しがた銀場の下へ入れた鱧の皮の小包 を一寸撫でて見て、それから自分も寢支度にかゝった。 父正三年一月 ) 太政官。それは私たちがまだ生れぬ前にあったものださうな。 「太政官て何のことやいな、一體。」 をせ 「知らんのかいな、阿呆。 : : : 敎へたろか、新田の茶瓶のこっち 「そら知ってるがな、言はんかて。 : : : 其の太政官て何のことや 「太政官ちうたら、太政官やがな。お上の役人のこっちゃ。」 中の村の靑年會の事務所で、二人の若い男がこんなことを言って ゐると、今一人の稍年を取った男が、 「二人ながら知りはらんのか、あかんな。太政官ちふのは、明治十 八年まであったんで、つまり今の内閣のことや。 ・ : 太政大臣がゐ て、それが今の總理大臣や、それから左大臣に右大臣、參議が四五 人、これだけで最高の政治をしてたんやがな。」と、下唇の裏を前 齒で噛み / 、言った。 「あゝ、さよか。 ・ : そいで新田の茶瓶さんが、この村の太政官ち ふことだすな。」と、常吉と呼ばるゝ、材木屋の二男は、さも感心 したといふ風で言った。 「あの太政官も、もうみけ〈んがな、中風で杖つかな、座敷も歩か ちゅうぶ
あなた らなくなるちゃありませんか、貴郞ネ、井上の奧様の御話では靑年 老女は又も面を掩うてサメサメと泣きぬ、 むかし あんな 會の方々も大層な意氣込で、若し篠田さんを逐ひ出すなら、自分等 老女は鼻打ちかみつ、「けども先生、山木さんも昔日から彼樣で も一所に退會するツてネ、井上様の與重さん抓で相談最中なさは無かったので御座いますよ、全く今の奧様が悪いのです、 , ー・私 いつも うですよ、先生、何うして下ださる御思召ですか」 は毎度日曜日に、あの洋琴の前へ御座りなさる梅子さんを見ます わたし なくなり 篠田は僅に口を開きぬ「私の故に數よ敎會に御迷惑ばかり掛けと、お亡なさった前の奥様を思ひ出しますよ、あれはゼームスさ おっか て、實に耻人る次第であります、私を除名すると云ふ動機ーー・其のんて宣敎師さんの寄進なされた洋琴で、梅子さんの阿母さんの雪子 因縁は知りませぬが、又たそれを根掘りするにも及びませぬが、し さんとおっしやった方が、それをお彈きなすったのです、丁度今の かし其表面の理由が、私の信仰が間違って居るから敎會に置くこと梅子さんと同じ御年頃で、日曜日にはキッと御夫婦で敎會〈行らっ まうしいで ならぬと云ふのならば、老女さん、私は殘念ながら苦情を申出る力しゃいましてネ、山木さんも熱心にお働きなすったものですよ、 たしか が無いのです、敎會の言ふ所と私の信仰とは慥に違って居るのです 拍子の惡いことには梅子さんの三歳の時に奧様がお亡になる、 どち からーーーけれど、老女さん敎會の言ふ所と私の信仰と、何らが様それから今の奥様をお貰ひになったのですが、貴郎、梅子さんも今 の御思召に近いかと云ふ段になると、其を裁判するのは只だ禪様ばの奥様には隨分酷い目にお逢ひなさいましたよ、ほんたうに前の奥 えら ごきりゃう かりです、只だ御互に氣を付けたいのは、斯様なる紛擾の時に眞様はナカ / \ 雄い、好い方で御座いました、御容姿もスッキリとし キリスト しゅ 實、訷の子らしく、基督の信者らしく謙遜に柔和に、主の榮光を顯た美くしいお方でーー梅子さんが御容姿と云ひ、御氣質と云ひ、阿 はすことですーー、・私の名が永阪敎會の名簿に在ると無いとは、祚の母さんソックリで在っしゃいますの、阿母さんの方が氣持ち身丈が 臺前に出ることに何の關係もないことです、敎會の皆様を思ふ私の低くて在らしったやうに思ひますがネーー」 すこし むかし 愛情は、毫も變はることが出來ないです、老女さんは何時迄も老女 老女の心は、端なくも二十年の昔日に返へりて、ひたすら懷舊の さんです」 春にあこがれつゝ、 かしら 老女は何時しか頭を垂れて膝には熱き涙の雨の如く降りぬ、 「先生、共頃まで山木様は大蔵省に御勤めで御座いましてネ、何で や、ひさし ひとみ 良久くして老女は面押し拭ひっ、涙に赤らめる眸を上げて篠田をも餘程幅が利いて在らしったらしかったのです、スルと、あれはか やさし さう おかみ 視上げ視下ろせり「どしたら、貴郎のやうな柔和いお心を持っこと うッと・ー・・左様 / 、十四年の暮で御座いましたよ、政府に何か騷が おくまさん が出來ませうーー・共れに就けても理も非もなく山木さんの言ふなり 御座いましてネ、今の大隈様だの、島田様だのってエンイ方々が、 放題になさる、牧師さんや執事さん方の御心が、餘り倩ないと思ひ皆ンな揃て御退りになりましてネ、其時山木様も一所に役を御免に むづしいこと ますよーー私見たいな無學文盲には六ヶ敷事は少しも解りませぬけなったのです、今まで何百ッて云ふ貴い月給を頂いて居らっしゃい おいで れど、あの山木さんなど、何年にも敎會へ御出席なされたことのあましたのが、急に一文なしにおなりなすったのですから、ほんとに げいしやかひ ′イとこ るぢや無し、それに貴郞、酒はめしあがる、藝妓買はなさる、昨年御氣の毒の様で御座いましたがネ、奧様が、貴郞、嚴乎して、丈夫 とな たとへ あたりは慥か妾を圍ってあると云ふ噂さへ高かった程です、只だ営 に意見を貫させる爲めには、假令乞食になるとも厭はぬと云ふ御覺 あんなけが 時黄金がおありなさると云ふばかりで、彼様汚れた男に、此の名高悟でせう、面は花の様に御美しう御座いましたが、心の雄々しく在 い敎會を自由にされるとは何と云ふ怨めしいことでせう」 らしったことは兎ても男だって及びませんでしたよ、山木さんの辭 かね をば おくさん かほ おさが さん ォルガン しつかり
どうぞ マザア カギ、り ア、梅子さん、何卒我國に於ける、瓧會主義の母となって下ださつ「何時と云ふ限も御座いませぬから、是れでお別れ致します、只 いのら 幻い、母となって下ださい、是れが篠田長二畢生の御願であります」今の御一言を私の生命に致しましてーーで、御一身上、私が承って どうぞ 梅子は涙堰きも敢へず、 置きまして宜しいことが御座いまするならば、何卒仰しやって下だ 隣房の時計、二ッ鳴りぬ、ア、、 さいませんかーーー」 「最早、一一時」と、梅子は皿垂れぬ、警吏の向ふべき日は、既に 篠田は暫ばし首傾けつ「では、梅子さん、一人御紹介致しますか きた 二時を經過せるなり、曙光差し來るの時は、則ち篠田が暗黒の底にら」と、彼は大和を呼んで兼吉の老母を招きぬ、 やさ 投ぜらるべきの時なり、三年の煩悶を此の一夜に打ち明かして、柔 整を呑むで泣き居たる兼吉の老母は、涙の顔を揚げも得すして打 しく嬉しく勇ましき丈夫の心をも聽くことを得たる今は、又た何を ち伏しぬ、 げいぎころし か思ひ殘さん、いざ、立ち歸りなんか、 店りとも無し、 「梅子さん、此の老女を勞って下ださい、是れは先頃藝妓殺と唄は おっかさん 胸も張り裂けんばかりの新しき苦惱を集中して、梅子は凝乎と篠れた、兼吉と云ふ私の友逹の實母です、ーー老母、私は、或は明日 たぎゃう かたおたより 田を仰ぎ見ぬ、 から他行するも知れないが、少しも心置なく此の令孃に御信頼なさ ふたり 兩個相見て言葉なし、 い、兼吉君は無論無罪になるのであるから、少しも心配なく、共れ しばら かれ ふたり 良久くして、熱涙玉をなして梅子の頬を下りぬ、彼女は唇を噛んに若し兩個が相許るすならば、花ちゃんと結婚したらばと思って居 で俯きぬ、 るのです、元より強ふることは出來ないですが」 突如、温き手は來って梅子の右掌を緊と握れり、彼女は總身の熱 篠田は梅子を顧みつ「只今慈愛館に居りまするカイ : 、它と云ふ婦人 血、一時に沸騰すると覺えて、恐ろしきまでに戦慄せり、額を上ぐ が在るのです、元と藝妓でありまするが、餘程精の強固なのです あなた れば、篠田の兩眼は日の如く輝きて直ぐ前に懸れり、 から、將來貴孃の御事業の御手助となるも知れませぬ、」 いま たんせん さ、や 篠田は一倍の力を加〈つ「梅子さんーー此れは米だ曾て一點 梅子は思はず赧然として愧ちぬ、彼女の良心は私語けり、汝曾て あなた だも見ざる純潔の心です、今ま始めて貴壤の手に捧げます」 共の婦人の爲めに心に嫉妬てふ經驗を嘗めしに非ずやと、 梅子は左手を加へて篠田の右手を抱きつ、一語も無くて身を其上 兼吉の老母は正體なき迄に咽び泣きつ、 に投げぬ、 「其から梅子さん、私一身上の御依賴が御座いますが」と、篠田は まなこ 風も寢ね雪も眠りて夜は只だ森々たり、 悄然として眼を閉ちぬ、 ひとり 既にして梅子は涙の顔を擡げぬ「篠田さんお叱りを受けますかは 「私に一人の伯母があるのです、世を厭うて秩父の山奧に孤獨して しばし くわくしやく 存じませぬが、暫時御身を潜めて下ださることはかなひませぬか、 居ります、今年既に七十を越して、尚ほ钁鑠としては居りますが、 別段御耻辱と申すことでも御座いませんでせうーーー大に眞珠を 一朝私の奇禍を傅へ聞まぜうならばーーー」語斷えて涙滴々、 お技げなさらずともーーー」 梅子は耐へず膝に縋れり、「御安心下ださいまし 何卒御安 篠田は首打ち掉りつ「如何なる場合に身を棄つべきかは、我等が 心下さいましーーー」 もろて 淺慮の判別し得る所ではありませぬ」 篠田は梅子の肩、兩手に抱きて「心弱きものと御笑ひ下ださいま ふうん 「篠田さん、最早決して弱き心は持ちませぬーと梅子も今は心決めすなーー・ア、今こそ此心睛れ渡りて、一點憂愁の浮雲をも認めませ ゅんで ひっせい
わたし は、ポロリ一滴の露ぞコボれぬ「きッと、お暇乞の御積なんでせ新體詩を、私は今も尚ほ面白く記憶して居りますがーー」 といき プう」 「今年の春」と梅子は微かに吐息洩らして「淺墓な彼の頃を私はホ あゆみ あなた 篠田はやがて學生の群と別れて、獨り沈思の歩を築山の彼方、紅ンたうに耻づかしく思ひます、世を棄て人を逃れた古人の心に、私 葉麗はしき所に運びぬ、會衆の笑ひ興ずる聲々も、いと遠く隔りは、篠田さん、今ま始めて眞實同情を寄せることが出來るやうにな のど ふじがね りました」 て、梢に來鳴く雀の歌も閑かに、目を擧ぐれば雪の不二峰、近く松 すく かれ 林の上に其頂を見せて、掬はば手にも取り得んばかりなり、心の塵 篠田は仰げる眼を轉じて、斜めに彼女を顧みたり「私は意外なる せいすゐかんじゃく あなた 吹き起す風もあらぬ靜邃閑寂の天地に、父た何事の憂きか殘らん、 變化を見るものですーーー梅子さん、貴孃の信仰は今ま實に恐るべき 時にふさはしき古人の詩歌など思ひ浮ぶるまに / \ 微吟しつ、岸の危機に臨むで居なさいますーー何か非常なる苦悶の針が今ま貴壤の あづまやちかづ 紅葉、空の白雲、映して織れる錦の水の池に沿うて、や東屋に近精紳を刺してるのではありませぬか」 こなた 梅子は答へず、 きぬ、見れば誰やらん、我より先きに人の在り、聞ゆる足音に此方 あなた を振り向きつ、思ひも掛けず、ソは山木の令孃梅子なり、 「貴壤の心は今ま正に生死一一途の分岐點に立って居なさる様です、 どう 如何です、甚だ失禮でありますが、御差支なくば貴壤の苦痛の一端 五の三 なりとも、御洩らし下ださい、年齡上の經驗のみは、私の方が貴壤 かにえんぜん うつむ 赧らむ面に嫣然として、梅子は迎へぬ、 よりも兄ですから、何か智惠の無いとも限りませぬ」俯ける梅子の あなたこのあたり ふたすぢみすぢびん 「梅子さん、貴孃が此邊に在らっしやらうとは思ひ寄らぬことでし頬には二條三條、鬢のほっれの只だ微動するを見る、 あなた しばらく た、」と篠田は池畔の石に腰打ちおろし「どうです、天は碧の幕を 「篠田さん、貴郞の高き御心には」と、梅子は良久して僅に面を上 くれなゐむしろ どんなに 張り廻はし、地は紅の筵を敷き連らね、鳥は歌ひ、雲は舞ふ、美げぬ「私共一家が、何程賤しきものと御見えになるで御座いませ 妙なる自然の傑作を御覽なさい」 私は紳様にお祈するさへ愧かしさに堪へないので御座いま 「けれど、篠田さん、何故人間ばかり此の様に、罪の心に惱むのですよーーー」 ぜう」 「それは何故ですーー」 さやうなんびと いだ かうべ まっげ 「左様、何人か罪の惱を抱かぬ心を有つでせうか」と篠田は飛び行 梅子は又た頭を垂れぬ、長き睫毛に露の白玉貫ける見ゅ、 しるし く小鳥の影を見送りつ又「けれど、惱はやがて慰に進む勝利の標幟「梅子さん、私は未だ貴孃の苦悶の原因を知ることが出來ませぬ ではないでせうか」 が、何れにも致せ、貴壤の精が一種の暗雲に蔽はれて居ると云ふ わたし 「ですけれど、私はドウやら惱みに惱むで到底、救の門の開かれる ことは、唯に貴孃御一身の不幸ばかりではなく、敎會の爲め、特に かなしみ 望がない様に感じますの」梅子は只だ風なくて散る紅の一葉に、 靑年等の爲め、幾何ばかりの悲哀でありませうか」 だん / 、みた 層よ擾れ行く波紋をながめて、 「否、私の苦悶が何で教會の損害になりませう、篠田さん、私の苦 あなたにはか わ こんにち 「ハア、貴壤は劇に非常なる厭世家にお化りでしたネ」 悶の原因と申すは、今日敎會の上に、別けても靑年の人々の上に降 「私は篠田さん、此頃ックヅク人の世が厭になりました」 りか長った大きな不幸悲哀で御座います」 あなた よすてびと 「奇態ですネーーー此春の文學會で貴孃の朗讀なされた遁世者諷刺の 「其れは何ですか」 あか みリ」り はづ
あなた 「エ」と梅子は頭を擡げつ「貴郎、篠田さんにお逢ひになってーー」 二十三の一 其顏は赧くなれり、 いまし せつかく ハイーーと警むる御者の掛聲勇ましく、今しも一輛の馬車は、揚 「ハア、折角の日曜も姉さんの行っしやらぬ敎會で、長谷川の寢言 きた かすみ、ん さん 揚として霞門より日比谷公園へぞ人り來る、ドッかと反り返へりた など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田様を訪間したのです、 ねんしと る車上の主公は、年齒疾くに六十を越えたれども、威風堂々として 非常に憤慨してでしたよ」 あんよ 尚ほ鞍に據って顧眄するの勇を示す、三十餘年以前は西國の一匹 「私の擧動をでせう」 あたり こ、のヘ たとひ 夫、今は國家の元老として九重雲深き邊にも、信任淺からぬ侯爵何 「左様ちゃないです」と剛一は頭を掉りつ「假令世界を擧げても、 をとめ 處女の貞操と交換することの出來ない眞理が解らぬかッて、憤慨し某の將軍なりとか、 せいしゃ 陪乘したるは淸洒なる當世風の年少紳士、木立の間に逍遙する一 て居られました、何でも彼の翌日と云ふものは、警察の手を以て彼 かしこ ゅびさ のことの新聞へ出ない様に、百方奔走をしたんださうです、日本軍個の人影を認むるや指しつ聲をヒソめ「閣下、彼處を革命が歩る 隊の威信と名譽に關はるからと云ふんでネーー實に怪しからんぢゃいて居りまする」 「ナ = 、革命」侯爵は身を起してを睨みつ「あの筒袖着た壯士 ありませんか、今の瓧會が言ふ所の威信とか名譽とか言ふのは何を の様な男か」 指すのです、僕は此の根本を誤ってる威信論や名譽論を破壞し盡さ だんべい あれ 「ハ、閣下、彼が先刻も談柄に上りましたる、瓧會黨の篠田と申す ぬ間は、到底道義人情の精粹を發揮することは出來ぬと思ふです」 もの 「ア、、剛さん、ーーー世間からは毒婦と恐れられ、禪様からは惡魔男で御座りまする」 いや 私、此の右「フム、松島の一眼を失ったのも、彼の男の爲めか」 と賤しめられて忌な生涯を終らねばならんでせうか 「ハ、尤も松島の負傷に就ては、少こし事情もある様に御座ります 手を切って棄てたい様だワーーー」 るがーーー」 「姉さんーと剛一は膝を進めぬ「篠田さんの心配して居なさったの いうゐ たとへ あなた 「イヤ、例令如何なる事情があらうとも、此の軍國多事の際、有爲 は其處なんです、貴孃の一生の危機は、先夜の危難の際では無く、 こんにら の將校に重傷を負はしむると云ふは容赦ならぬ」と、言ひっゝ將軍 虎口を脱れなすった今日に在ると仰しやるんです、ーー姉さん、貴 いづ は斜に篠田の後影を睨みつ、「何して居る、何れ善からぬ目算致し 孃は今ま始めて凡ての束縛から逃れて、全く自由を得なすったので きょはうへん す、親の權カからも、世間の毀譽褒貶からも、又たの慈愛からさて居るのであらう」 ほんたう 「ハ、多分今晩演説の腹案でも致し居るものと思はれまする」 へも自由になられたのである、今は貴孃が眞正に貴孃の一心を以 つろひ 「ナニ、演説ーー、何處で」 て、永遠の進退を定めなさるべき時機である、ーー愛の子か、詛の 「ハ、頑田の靑年會館と申すで、非戦論の演説會を」 子かーーけれど君の姉さんが此際、撰欅の道を過っ如き、弱く愚な の る人で無いことは確に信ずると篠田さんは言うてでしたよ、ーー姉「怪しからんこと」と將軍の眉は動けり「戰爭のことは上御一人の 御叡斷に待っことで、民間の壯士などが篠申すは不敬極、まる、何 さん篠田さんは貴孃を斯くまで篤く信じて居なさいますよ」 梅子は枕に倒れて、咽び入りぬ、「ーー訷様ーー・何卒ーーお赦し故内務大臣は之を禁じないーー・ナ = ーーだから貴様等は不寸と言ふ 2 のだ、法律などに拘泥して大事が出來るか、俺など皆な國禁を犯し 下ださいましーー」 もた あっ かみごいちにん いちひっ
5 にか 上に對してのみで、他の出來事、印ち主人の病氣、親戚の不倖、家あるでぜう ? 」 ものいひ 駒尾老人は眼をぎよろりとして、 内に起る爭論などには至って無頓着で、自分の膳 ( 付いた香物が刻 「え \ 理由も何もありませんが、たゞ、旦那が持って行けと云ふ まれて無い程にも氣を揉まぬ。これは此の老人の性質か、で無けれ ものですからな : : : 。」 ば、若い時から種々煩さい事に世話を燒いたので、最う其様な事は と云ひ切らぬに、 面倒臭いのか、それとも、自分の負はせられた事務が忙しいので其 「だッて、只だ持って行けと云ふばかしで、それで持って來たんち 處までは手を出しかねるのか、孰れにしても其様な出來事には極め なん て冷淡である。で、今回の主人夫婦の中違に就いても、他の者は己や無いでせう、何か其處に理由が有るでせう、其の理由を話して下 なか なげ が受持の用を抛て噂し合ってる間で、駒尾ばかりは一向平氣なものさい、その、持って來た理由を・ まのあたり 「奧様、貴女の様に仰有っちゃ困りますな、」と老人は嚇となツて、 であッた。と云ふのも、今眼前に見る雪江の樣子程に、此の中違を 高い聲を一段高くし、「何も無い事を話せと仰有っても話せません、 大いものに思はぬからでもあらうが。 しばら そんな無理な事を仰有っては困ります。」 「共れでは駒尾様、旦那が如何云ふんです ? 」と雪江は久くしてか 「無理ってな何方で云ふ事てす、譯も知らない私に、そんな物を持 ら、常の聲に律って云ふ。 おッしゃ って來て・ 「如何と申して、別に、如何とも仰有いませんが、只だ、此の事は いとこ 「まア、雪江能、」と理八郎は從妹のロを止めて、「貴女の様に云っ 奧様に伺って決める様に仰有いましたものですから。」 ばかし たツて可けませんや、駒尾様は單、都に來た許ちゃありません 「然うですか、其れ許ですか、他には何とも云ひませんでした か、駒尾様に食って掛った處が : : : 。」 「ちゃ、私は如何すりや可いんです ? ーと云ふや否や、はら / 、と 「左様、別に如何とも仰有らない樣でしたが、」と訝しい顏をする。 うなづ 涙を落して、「私は今、家を出されて居る者ちゃありませんか、そ 「然うでしたか。」と雪江は點頭いた。 はなし 、調戲半分に其様な事を持って來て それから其處に居る理八郞と駒尾との間に、農事に就いての談話れを、貸金が如何だなんて : てうし が二つ三つ交へられた。 おくさんちょッと 「奧様、一寸待って戴きまぜう、」と駒尾老人は例の鏡い語調で、 「駒尾様、」と久くしてから、雪江は其の俯向いて居た面を揚げて、 「その、今の證券と云ふのは何でせうね、常雄の名宛に成ってませ「調戯半分たア何です ? 私は、自分一己の了簡で參ったのちや有 りませんぞ、これでも、旦那の命令を受けて參ったのですぞ : : : 。」 うね ? 」 「まア / 、駒尾様、貴方の云ふ事は能く解ってますから、」と慌て 「は、其れは矢張り、旦那の名に成ってます。」 「然うでせう、其れでは、旦那の決める事で、私の知った事ぢや無て理叭郎は制する。 「評皹と云ふもんです、私は今、其様な : : : 、其様な氣樂な身ぢや ゃいでせう ? 」 無いちゃありませんか、證券が如何の此うのツて、」と雪江はます 「は、まア然うです : ・・ : 。」 「まア、然ですッて ? そんなら、」と雪江は膝を進めて、「そんなます泣きながら、「其れは、皆な掛って私を虐めると云ふもんで なん とこ ら何故、私の所へ持って來たんです ? それには何か、何か理由がす。」 さん はかし おッしゃ わけ どッち からかひ くわッ
2 プ 1 火の柱 かしら 一座しんみりと頭を垂れぬ、 「花さん、何時の間に貴女は其にな弱き心にお化りでした、ーー先 イエス うやま 「御覽なさい、救世主として崇敬はる、耶蘇の御生涯を」と篠田は 夜始めて新聞瓧の二階で御面會致した時、貴女と同じ不幸に陷って うまぶね る女、又陷りかけてる女が何千何萬とも限ないのであるから、其を壁上の扁額を指しつ「馬槽に始まって、十字架に終り給うたではあ ひとりあかしびと りませんか」 救ふ爲めの一個の證人にならねばならぬと申したれば、貴女は身を 粉に碎いても致しますと固く約東なされたでせう」 あつまり はげ 十五 と篠田はお花を奬ましつ「誠に世の中は不幸なる人の集合と云う 多事多難なりける明治三十六年も今日に盡きて、今は其の夜にさ ても差支ない程です、現に今ま爰へ團欒てる五人を御覽なさい、皆 よのなか へなりにけり、寺々には百八煩惱の鐘鳴り響き、各敎會には除夜の な瓧會の府です、渡邊の老女さんは、旦那様が鹿兒島の戦爭で あつまり ちんはた 討死をなされた後は、賃機織って一人の御子息を敎育なされたの集會開かる、 くわはん 永阪敎會には、過般篠田長一一除名の騷擾ありし以來、信徒の心も ーー大和君の家は が、愈、、學校卒業と云ふ時に肺結核で御亡なり、 のぞみ つねあつまり 離れ離れとなりて、日常の例會もはかばかしからず、信徒の希望な 元と越後の豪農です、阿父さんが國會開設の運動に、地所も家も打 あつまり クリスマス る基督降誕祭さへ極めて寂寥なりし程なれば、除夜の集會に人足稀 ち込んで仕舞ひなすったので、今の議員などの中には、大和君の家の ことわり 厄介になった人が幾人あるとも知れないが、今ま一人でも其の遺兒なるも道理なりけり、 ひま 時刻には尚ほ間あり、詣で來し人も多くは牧師館に赴きて、廣き を顧るものは無い、然かし大和君は我も殆ど乞食同様の貧しき苦痛 ォルガン を嘗めたから、同じ境遇の者を救はねばならぬと、此の近所の貧乏會堂電燈徒らに寂しき光を放つのみなるに、不思議や妙〈なる洋琴 とざ はりま - レ . 一 しらペ こども 人の子女の爲め今度學校を開いたので、今夜のクリスマスを以て其の調、美しき讃歌の聲、固く鎖せる玻璃窓をかすかに洩れて、暗夜 兼吉君のことは花さん、既に御の寒風に慄へて急ぐ憂き世の人の足をさへ、暫ばし停めしむ、 の開校式を擧げた積りのです、 しんたい うけにん 洋琴の前に座したるは山木梅子、傍に聽き惚れたるは渡湯の老 聞になったでせう、兼吉君の阿父さんが、自分の財産を擧げて保證 おばあ の義務を果たすと云ふ律義な人で無ったならば、老婆さんも今頃は女、 おふくろさま 鹽問屋の後室で、兼吉君は立派に米さんと云ふ方の良人として居「今度は老女さんのお好きな歌を彈きませう」と、梅子が譜本繰り はなす、 られるのでせう、 私自身を言うて見ても、秩父暴動と云ふこと返へすを、老女はジッと見やりて思はず酸鼻りぬ、 「何うかなさいまして、老女さん」 は、明治の舞臺を飾る小さき花輪になって居るけれ共、其犧牲にな あなたおっか 又た貴孃の亡母さんのこ 老女は袖口に窃と瞼拭ひつ「何ネ、 った無名氏の一人のが、父母より護受けた手と足とをカに、亞 こんな せんのおくさん と思ひ出したのですよ、ーー斯様立派な貴孃の御容子を一目亡奧様 米利加から歐羅巴まで、荒き浮世の波風を凌ぎ廻って、今日コ、に へだて にお見せ申したい樣な氣がしましてネ、 同じ境遇の人逹と隔なく語り合って居るのです、私の近き血縁を云 うつぶ たっ 答へんすべもなくて、只だ鍵盤に俯ける梅子の横顏を、老女は熟 へば只た一人の伯母がある、今でも訪ふ人なき秩父の山中に孤獨で どう く熟くとながめ「何して、梅子さん、貴壤は斯うまで奥様に似て居 居る、世の中は不人情なものだと斷念して何しても出て來ない、 花さん、屈辱を言へば、貴女一人の生涯ではない、只だ屈辱のらっしやるでせう、さうして居らっしやる御容子ッたら、亡母さん さん 眞味を知るものが、始めて他を屈辱から救ふことが出來るのです」其儘で在らっしやるんですものーー此の洋琴はゼームス様が亡母さ ウロッパ ひと よっ どう ちゝぶ ひとり いたづ そ かたへ ォルガン っ
8 まひあ 眺めて、互に奪合ふ程に騷いで居る。併し、雪江のみは一人取澄し お出で。」と背後から聲を掛ける。 「は、戴きますべえ。」 て、其のに顔を突込まずに、の物を手任せに開いて居るが、こ みるし おまけ れとても、何時までも同じ頁を見て、剩に見ぬ振をして一寸 / \ 他 主婦が内へ入ると、薫が雪江に、 いとま 「最うお暇にしませうか ? 」 の顔を視るのは、其の繪に對する評を聽取らうとして氣を配ってゞ あんま 「然うねえ、餘り遲くなると何だから : : : 。」 も居る如くである。 「未だ貴女可いぢゃありませんか、未だ、五時を打ッた許りですも だが、此等の人の口から出る繪の評と云った處で、奇麗だとか、 生きてる様だとか云ふに過ぎない、極々有りたけの辭を殘らず使っ 「だッて、忙しい處をねえ。」と雪江は薰に目配せする。 た處で、此の上に「まア」とか、「本當に」とか、「實に」とか、 まるで 「いゝえ、忙がしい事は有りませんよ。ぢや、最う少し待ってゝ下「宛然」とか冠せるのが關の山なのだ。 あちら 。お民、 さい、今彼方で、儀助と平公に餅を食させてますから : ・ 其の雜誌が竹代の手に渡った時、何か母に言付けられて起ったお ぼんやり お前其様な惘然してないで、何か、御覽になる物でも持ってお來で民が、急々と坐に戻って、同じく顔を寄せて、 な。」 「ね ? そら、似てませう ? 」 いろ / 、 おもや そこでお民は駈けて行って、母家から種々な物を抱へて來た。先「然うねえ : : : 。」と竹代は眼を据ゑてその雜誌を視詰めた。 げんさい ると雪江は首を伸して、 づ目に着いたのは金縁の寫眞ブック、絃齋の小説本、栃木新聞の米 てんしゃうたう ぢよがくかうぎ 「え ? 何が ? 誰に ? 」 だ封を切らぬの、天賞堂の營業一覽、女學講義などであるが、別に 一册の薄い雜誌を上に載せて、 「あら、然うぢや無いんですよ姉様。」と云った竹代は、如何した こなひだ 「これをね、過日東京から送って下さいましたの、」とお民は其れのか眞紅になツた。 を雪江の前に出した。 「だッて、誰に似てるの ? 」と雪江は初めて其を手に取って、「誰 みなさん 「然々、常雄様から、大變立派な御本を戴きましたよ。皆樣も御覽かに似てるの、此が ・。」とお なツたらうけれど、常雄様の繪は一番に奇麗ですねえ、何と云って 「いゝえ、似て居しませんよ、些とも似て居アしない : あちら も、西洋へ行らしただけに、他の及ばない處が有るでせう : ・ : 、私民もどきまぎして云って、何故だか是も顔色を變へた。 あんなかく なんか見ても然う見えるもの、」と主婦は老人の傍に其雜誌を持っ 「謝しな人逹だよ、彼様に祕して : : : 。」と雪江は笑った眼で竹代 おらいさん て行き、「御爺様も御覽なすッたらうけれど、奇麗ちゃありませんとお民を見たが、二人とも顔を赧くしてるのに氣が着くと、訝し想 さん まるで に眼をって、「竹代様、此の繪が誰に似てるの ? 」 か、宛然生きてる様ですねえ。」 ある これは美術雜誌の臨時增刊で、某洋畫會の春期展覽會の優等品十「いゝえ、然うぢゃありませんよ姉様。」 まへさん もてにや 「だッて、お前様が今 : : : 。」と竹代を視詰めて云ったが、更にお 幾枚の寫眞石版が載せられてあるのだ。中で今この一坐に持囃され きんばい るのは、萩を押分て前に進まんとする美人の圖で、賞は金牌、晝工民に向いて、 - 「お民様、誰に似てるの : : : ? 祕さなくとも可いち いくたび は圓城寺常雄とあるのである。人々は前にも幾度か見たのであるやありませんか、誰か似た人が有って ? 」 「いえ、似て居しないんですよ、本當に似て居しないんですよ。」 が、今爰で手に取れば又新しい興を感じる樣に、只この繪ばかりを きん びと ねえさん それ ことは ちょい た いぶか ひと
それがし ばさるべきや。」 ねぢぶみ に、拙者へも洩したまはらずや。」 せうそこ 賴朝が客間に腰を卸すと、成綱は其の厚く卷きたる捻文を小机に 「盛長にも拙者にも、一節二節御物語遊ばさる又のみ、消息は櫃に 納めたまはれば、」と成綱は、去年一昨年まは我等にも示めされ載 0 ミ膝近く置」た。文 0 外」も唐土より渡りたる龍、紫 ( マ 紅白の唐紙幾卷、細き金蒔繪の香筥なども添〈てある。けれども頼 たが、近頃はそれを許されないと語った。 「さらば、戀させたまふ御方の文ならんも計られす。」と宗時はま朝は、此の小机を一暼したるのみで、手にも把るではなかった。 「昨日の嵐の強かりける事かな、」と宗時〈此様な話を向けて、「御 た笑った。 やしき 邊の邸内には、然こそ倒れ樹なども多くありつらめ。牧の方には、 「實に。」と成綱も笑った。 宗時は全く然うした意味の文もある事と思った。其の乳母の小磯近頃うち臥し勝ちに過したまふと承はる、彼の様の嵐の音を聞きた とやらが、佐殿に相應しき權家の姫君を媒介し、追々は舅たる人のまはゞ、如何に惱ましと思し給〈るにゃあらん。」 宗時は、今こそ政子姫の様子を話出さんものと、心に焦燥りなが 力を借りて、流罪の赦免を請ひたてまつらんと結構する事の、決し て無いことでは無い。政子姫〈通ひたまはんと約された前の日にら、 「母には、近頃健康に復りて候ふ。」と云ったのみで、其後を繼ぎ も、三善の使者が下ったと云ふ。その使者の携へた淌息が無かった なら、約束を更〈たまふ意は無かったか知れぬ。訝かしきは其の消得なかった。 云って云〈ない事はないが、餘り突然に云ひ出しては禮に背く、 だいじ 息にこそあれ、と考へつゝも、 「今一度示したまはれ。」と成綱の日記を我が前に開いて、前の日且っ佐殿には、消息を讀むと云ふ大切な用を控 ( て居らる、、鬼武 が入道將監の邸まで持って行きたれど、其處で披見の暇なければ、 の佐殿の様子を探らんとした。 蛭ヶ島〈歸りてこそと、只だ之を御覽になるばかりで急いでも歸ら てがみ 而ると成綱は、不意に其の日記を閉ちて、 れたのである。話出すとしても、長い書簡の讀み終りたる後に爲よ 「お、殿の歸りてお在せると覺ゅ : : : 。」 うと遠慮した。宗時の言葉が絶えると、朝は果して、 ゆる と坐を起った。 「宗時殿、暫し免したまはれ。」と會釋して、小机の上なる捻文を 宗時も一絡に簀子まで出ると、今しも中門を潜りて、鬼武一人を あし あるじ 開いた。 從〈たる主人の賴朝は、急がぬ歩にて歸って來たのである。 宗時は斯して讀終るのを待つも無禮に當ると思ひ、會釋して庭へ 出た。政子等を援けた河津祐泰が事、其夜の盛長の妻の叱られた 賴朝は平常に變らぬ穩かなる色で、宗時にも次郞太にも挨拶を事、京師の = 一善の母の媒介、入道將監の館に泊られた事など、雜然 と思ひ浮・ヘて、頼朝の意中を究めんと試みた。池の邊を二度ばかり の返した。 白糸の袖括りしたる萌黄の布衣に、黄なる練貫の衣を召し、左折も行きっ戻り 0 して、再び簀の子に上 0 たが、頼朝はまだ書信に眼 めばかまは を奪はれてゐた。 の平禮を戴き、水色の奴袴を穿きたるが、今までに無く都雅かなる 如何なる祐筆と雖、半日も費らねば綴り得まじき程の、細字の長 佐殿に見えた。 「いまだ御覽じさせ給はぬ由、京師よりの消息、これにて御披見遊い書簡であ 0 た。何事を記せるか知らねど、斯して巨細の出來事を すこやか
活の冷たさに凍えようとした寺田は、漸くお文さんの暖い同情に温合の女に見とれた爲めに、池袋まで乘り越して、學校の時間に遲れ 8 められて、雨の日の夕暮なぞ、西南の方を眺めて、一一百里の雲の彼たことが度々ある。其の數多く戀する中で、雅子に對する戀は稍深 なた 方には、父母が居ると思って泣いてゐる時でも、お文さんの笑顔をく、 花子に對する戀はいよ \ 深い。 見ると、直ぐに涙が乾くやうになった。 しかし寺田はまた感情と理性とを、同時に五分 / 、に働かせる男 「他家士さんは何を泣いてるの、方〈お出で」とお文さんが、寺で、感情が高調に逹するほど、理性の力が強くなって、感情を引き へや いくたび 田を自分の室へ連れて行って、炉燵にあたらせて、燒きたての暖い止める。彼れは幾度か雅子にキッスする機會を得たに關はらず、今 芋を呉れたこともあった。其の懷かしいお文さんは、寺田が小山田日まで手を一つ握らずに、其の肉情を制して來たのは、これが爲め 家へ來てから二年の後、寺田が十六の年に、北海道とかへ行くことである。彼れが毎日數人の女を戀しながら、未だ一人も眞の情人を になって、小山田家を去ったま音信不通になった。後で聞けば、 得ないのは、これが爲めである。彼れの野獸性は、彼れのフヒロン このお文さんと云ふのは、小山田の遠縁の親類に當る人で、家が零ヒーによって弱められ、押へられてゐるのである。 落したので小山田へ手傅ひに來てゐたのであるが、小山田から相當 ある日、齋藤から寺田に對して晩餐の案内があった。 の家へ縁付かせると云ってゐる中に、京子と衝突して、京子が「去 んでお呉れ」と云ったので、負けぬ氣のお文さんは、誰れが仲裁し ても聽かず、印坐に荷物を纒めて出て行ったのである。寺田はお文 寺田は澤本老人に賴んで、午後の四時過ぎから齋藤の家へ行っ さんが小山田を去る時に「他家士さんよく勉強してえらくなっておた。默って玄關から上って行くと、臺所で細君花子が、女中を相手 呉れ。私は何處へ行っても、お前の出世するのを神樣に祈ってゐる に笑ひ興じながら摺り鉢を摺る音がする。次の室から椽側へ出て、 よ」と云って、固く / 、自分の手を握ったことを、十年後の今にな書齋になってゐる六疊の離れへ行くと、齋藤は安樂椅子に凭って、 っても忘れないで、眼を瞑って共の折のことを考へると、細面の色赤い表紙の金文字入りの本を讀んでゐた。 の白い、口元の締った、パッチリとして少し窪んだ印象の深い眼を 「ヤア、工場の職工から自然薯を貰ったので、君の好きなとろゝを した、髮の濃い、富士額の、お文さんの顔が、あり / \ と見える。 拵へて御馳走しようと思ってな : : : 今日はもう別に用はないかね」 其の懷かしいお文さんにそッくりの顔から姿をしたのは、實に齋藤と、彼れは本を閉ぢて卓子の上に置いた。 の妻花子である。お文さんは十年前に二十五六であったから、今は 「えゝ、別に用はありません : : : 何んですか其の本は、 もう四十に近づいて、容貌も變ってゐるであらうが、寺田にはそん 「買ったよ、君があんまり譽めるから、 : クロポトキンの自傅 なことを考へてゐる餘裕がない。十年前に、自分の冷たい生活をおさ」 さみ 文さんが暖めて呉れたやうに、今の自分の寂しい境遇、何とは無し 「面白いでせう、もう大抵讀んで了ひましたか」 にライフを破壞されたやうに思はる又身の上を、花子が慰めて呉れ 「ナ 1 ニ、今日讀み始めたんだ。まだ初めの方を少し讀んだゞけた るやうな氣がするのである。 が、餘り面白くないね」 寺田はよく女に戀する男である。學校に通ってゐる間は、毎日少「初めから半分くらゐまでは、面白くありません、それから先きが くとも七八人の女に戀して、目黒から目白へ通ふ汽車の内で、乘り 面白いのです」 二九 ) テープル