1 。尸 ←明治三十三年八月東京臺東區柳 橋の柳水館にて讀賣新聞記者時 →明治十三年七歳の時父延美と ←明治二十三年十七歳の時 ぅ礒・をイ . →大正三年一二月右から 次男延秋 ←大正九年十二月 →昭和二年七月妻ゆき 小劍姪春江姪壽美江
イ 32 リ扁 ( 後編は十一年十ニ月 ) 一月より「藤娘」を「キング」に連載 ( + り「七色刑瑚」を「東京日日新聞」に連載一月、『三代地獄』前矛 ( + 一一月一一 + 九日まで ) した。入月、「浴衣の美人を玄文瓧から出した。 一一月まで ) した。四月より「眞空鈴」を「講 談倶樂部」に連載 ( 九月まで ) した。四月十 に對して」を「中央公論」に出した。十二 大正十一年 ( 一九二一 l) 五十八歳 六日から五月七日にかけて關西、四國、九 月、『七色珊瑚』前編 ( 後編は七年一一月 ) を南北 社から出版した。一一十三日より「一一人傘」を一月、一日より「二つの太陽」を「國民新州を旅行した。五月、「弱蟲」を「文藝春 聞」に連載 ( 十一一月下旬まで ) した。 「讀賣新聞」に連載 ( 七年八月十六日まで ) した。 秋」に發表した。 大正七年 ( 一九一八 ) 五十四歳 大正十二年 ( 一九二三 ) 五十九歳 六十三歳 昭和一一年 ( 一九二七 ) 一月より「靈鐘」を「婦人世界」に連載一月より「片假名祭」を「婦人世界」に連五月、『藤娘』、九月、『眞空鈴』前篇 ( 後宿 ( 八年 + 一一月まで ) した。六月、『一一人傘』前編載 ( 九月まで ) した。二月、三日に長女ふみは三年三月 ) をともに大日本雄辯會講談瓧か ( 後編は十一月 ) を南北社から刊行した。八月、 の婚約が成った。四月、『二つの太陽』をら出した。 三十一日より「雛脣」を「國民新聞」に連玄文瓧から出版した。七月、葉山に避暑に 六十四歳 昭和三年 ( 一九二八 ) 載 ( 八年五月まで ) した。 行った。九月、一日、關東大震災に避暑先 で遭遇した。十七日、東京に歸った。十月、六月、「母の再婚」を「婦人倶樂部」 ( 七月に 大正八年 ( 一九一九 ) 五十五歳 九日にふみが高柳賢三と結婚した。「原稿迚載 ) に發表した。この年より昭和十年頃 七月、『紫系圖』前後編を天佑瓧から出し かきの日記」を「婦人世界」に出した。 まで毎夏を輕井澤で過すようになった。こ た。九月、『靈鐘』前編 ( 後編は九年八月 ) を實 の年、逗子町字櫻山の借家に移った。 大正十三年 ( 一九二四 ) 六十歳 業之日本社から出版した。十月、四日より 昭和四年 ( 一九二九 ) 六十五歳 「紅懺悔」を「報知新聞」に連載しはじめ 一月より「狼烟」を「太陽」に連載 ( 十一一月 たが母の病氣のため十一月二日で中止しまで ) し、「片假名祭」を「婦人世界」に連三月、「筑前守義興」を「中央公論」に、 載 ( 六月まで ) した。 た。二十九日に母ソノを失った。十一月、 七月、「ちんば念佛」を「改造」にそれぞ 初旬から中旬にかけて歸鄕した。 れ發表した。九月、二十四日、『明治大正 大正十四年 ( 一九二五 ) 六十一歳 文學全集』第十六卷の解題を書いた。「コ 大正九年 ( 一九二〇 ) 、五十六歳 一月、一日より「毒唇」を「東京夕刊」にプシ」等を收めた同書は翌五年一月、春陽 堂から出た。 一月より「三代地獄」を「婦人世界」に連連載 ( 八月 + 四日まで ) した。三月、「戲曲 載 ( + 年 + 一一月まで ) した。十一月、『雛簪』腰越状」を「中央公論」に發表した。 昭和六年 ( 一九三一 ) 六十七歳 を民友瓧から出版した。 大正十五 六十一一歳 一月より「赤館」を「婦人世界」に連載 昭和元年 ( 一九二六 ) 大正十年 ( 一九一一一 ) 五十七歳 ( 六月で中絶 ) した。十月、舊作を收めた『現
→明治二十七年八月東京にて右端天外 ←明治三十七年頃右から三人目天外島村抱月 →明治三十八年頃小田原にて →明治四十一年五月畠山眼外 ( 左 ) と ←明治四十三年頃右から長女ふみ妻かう天外母ソノ
『新夫人』を春陽堂から出した。八月、「大「小栗風葉君の作物」を「中央公論」に、 四十八歳 明治四十五年 ( 一九一一 l) 件家」を「文藝倶樂部」に發表した。三十「外、紅葉、正直正太夫」を「文章世界」 大正元 日より「にせ紫」を「二六新報」に連載にそれぞれ發表した。十一日より「長者 七月、『伊豆の賴朝』前編 ( 後編 + 一月 ) を東 ( 完結月日不明 ) した。十月、「相續人」を「新星」を「讀賣新聞」に連載 ( 四 + 二年八月八日 まで ) した。十一月、『回想記』を讀賣新聞亞堂書房から出版した。 ト説」に掲げた。 / 1 誉 瓧から出版した。 四十九歳 大正一一年 ( 一九一 lll) 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 四十一歳 明治四十一一年 ( 一九〇九 ) 四十五歳 二月、十七日より「落花帖」を「報知新 一月『にせ紫』前編 ( 後編は九月 ) を春陽堂か ら上梓した。三月、一一十四日、父豐治が死一月、「零餘子」を「新小説」に、「型を破聞」に連載 ( + 二月 + 九日まで ) した。三月、 去した。十月、二十日より「縁不縁」をること」を「文章世界」にそれぞれ書い「借用證」を「新小説」に、四月、「春の た。『長者星』前編 ( 後編は四 + 三年六月 ) を春水」を「文藝倶樂部」にそれそれ書いた。 「報知新聞」に連載 ( 十二月一一十九日まで ) した。 陽堂から上梓した。二月、「白鳥君につい十月、『落花帖』前編 ( 後編は三年一一月 ) を春 四十二歳 明治三十九年 ( 一九〇六 ) て」を「中央公論」に、五月、一日、「感興陽堂から出版した。 三月、十七日より「實 説コプシ」前編を談」、十五日、「自己の爲めの藝術也」をと 大正三年 ( 一九一四 ) 五十蔵 もに「文章世界」に、十月、「芝居の歸り」 「讀賣新聞」に連載 ( + 一月 + 二日まで ) した。 二月より「銀笛」を「婦人世界」に連載 四月、『縁不縁』を春陽堂より出した。六を「無名通信」にそれぞれ發表した。十一 ( 四年十二月まで ) した。八月、二十五日より 月、「夏期學生の讀物」を「中央公論」に月、『草笛』を章光閣から刊行した。 「初舞臺」を「報知新聞」に連載 ( 四年五月一一 載せた。十月、『コプシ』前編 ( 中編は四 + 年 四十六歳 明治四十三年 ( 一九一〇 ) 十七日まで ) した。 五月、後編は四十一年七月 ) を龍光閣から出し た。十一月、二十五日より「糲實コプシ」九月、「面會」を「無名通信」に發表した。 大正四年 ( 一九一五 ) 五十一歳 後編を「讀賣新聞」に連載 ( 四 + 一年一月二 + 明治四十四年 ( 一九一一 ) 四十七歳 十月、『銀笛』前編 ( 後編は + 二月 ) を實業之 日まで ) した。 一月、三日より「闇を行く人」を「東京毎日本社から出版した。 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 四十四歳 日新聞」に連載 ( 四月二十三日まで ) した。六 大正六年 ( 一九一七 ) 五十三歳 四月、「校長の二子」を「中央公論」 ( 五月に月、「喜劇無人島」を「新小説」に掲げ 連載 ) に發表した。六月、三十日、東京芝白た。九月、十九日より「伊豆の賴朝」を四月、二十六日より五月六日にかけて「春 金臺町に居を移した。七月、「なまけ兎」「報知新聞」に連載 ( 明治四 + 五年七月 + 九日ま雨日記」を「東京朝日新聞」に掲載した。 で ) した。十一月、『闇を行く人』を春陽堂七月、「都會生活者の採り容れ得べき自然 を「少女世界」に、八月、「作家としての 3 4 生活味」を「中央公論」に掲げた。六日よ から刊行した。 人生の観方」を「文章世界」に、九月、
「明治一一十〈年 = 一月松本」代言人 ( 0 後列左端尚江 後列左端荷 中間五 み妻明 央・月火 公自の 論由平柱 子十 刊昭社明 荷年 和刊治 江頃 年神下 母左 月人年
イ 3 イ 萬國史の敎室でクロムウエルを知り感動し したという。三月二十日、開智學校人學。 た。また戀を知ったという。 明治十年 ( 一八七七 ) 九歳 明治十八年 ( 一八八五 ) 十七歳 小學の一一年、第四讀本の「科學敎育」で、 「先祖傳來何千年の迷夢から始めて醒め春から夏、中學へ通う朝ごとに松本裁判所 た。」 ( ・人間・自由」 ) 八月、松本の自由民へ送られる飯田事件被告の姿を見て、「滿 明治一一年 ( 一八六九 ) 權蓮動始まる。祖母てふ ( 長子 ) につれられ身の血が煮え立って頭を衝いて上ぼるのを 覺えた。」秋、「クロンウエルの木下」と言 九月八日、出生。父木下秀勝。母くみ ( 汲 ) 。 てしばしば演説會を聞きに行く。 われる「際立って老成した上級生」を知っ 長男。木下家は代々松本藩主戸田氏に仕え 明治十一一年 ( 一八七九 ) 十一歳 たと、當時松本中學校生徒だった相馬愛藏 た下級武士であった。「予は墓地の隣りに 七月、米國前大統領グ一フント將軍來日、アが傳えている。 生まれたのである」と『懺悔』にあるが、 メリカの共和政治に關心を持った。 生家は信濃國松本天白丁の足輕町の南端、 明治十九年 ( 一八八六 ) 十八歳 現在の松本市北深志二丁目四番二十六號 明治十三年 ( 一八八〇 ) 十二歳 東京遊學中の學生が組織していた松本親睦 で、攝取院墓地に隣接していた。 六月、中仙道巡幸の明治天皇を迎えるに當會の松本地方部會新設に盡力した。一一月、 明治四年 ( 一八七一 ) 三歳 って、大人の世界の虚僞に童心を傷つけら松本中學校を優等で卒業。三月、上京して イギリス法律學校に人學したが、期待の英 七月、廢藩置縣。八月、父秀勝は藩知事のれ、同時に天皇という不思議な存在を深く 國憲法の講座がなかったため、四月、東京 職を解かれた戸田光則に從い一家を殘して頭にきざみつけられた。 專門學校 ( 早稻田大學の前身 ) に轉校した。 東京に出た。 明治十四年 ( 一八八一 ) 十三歳 明治二十年 ( 一八八七 ) 十九歳 明治八年 ( 一八七五 ) 七歳 この頃、輻澤諭吉の『學問のすすめ』を讀 五月、春日井しづが死んだ。「半ば母の乳んで感動したという。秋、松本中學校入十月一一十一日、父秀勝、五十三歳で死去。 で半ば醫者の藥で生長したと言はれた程虚學。十月、國會開設の詔勅が下った時、人 明治一一十一年 ( 一八八八 ) 二十歳 弱」だった尚江にとっての「予と同年なる民の要求の勝利であると歡喜した。 七月一一十日、東京專門學校邦語法律科を優 唯だ一人の女の友逹」 ( 『懺色 ) だった。七 明治十七年 ( 一八八四 ) 十六歳 等で卒業。十月、松本の新聞「信陽日報」 月、妹伊和子が生まれた。 五月、信仰あっかった祖母てふが死に、死記者となり、縣問題などで活躍、『松本 明治九年 ( 一八七六 ) 八歳 後の世界をなっかしく思った。十二月、自市史』によれば、同紙は「新鏡木下尚江入 りて紙面更新、一段の生氣を放」った。 春から、父が巡査になり、北信地方に勤務由民左派による飯田事件發覺。この頃、 木下尚江年囀
田吉か石出東明 郎か馬明 英ら川は京治 ら縣治 三の巣四 松伊四 子四 人尚四日鴨十 井尚喬十 お江郎刑一 友江保年 前務年 子に四 て逸後列所五 有て月 見列中よ月 四左群 幅斧右央り 江治 年 おて五 いい年 十 ての頃 は 妻江前 操幅右 北 子田か : 英ら の 西子 田石 宅 天後川 香列三 右四 逸中 見正 斧造 →明治四十三年頃岡田虎二 郎 ( 左 ) と
代日本文學全集』第五十三卷が改造瓧から と連載 ) に書いた。五月、十七日、長女ふみ 出た。 が死去した。六月、『くだん草紙』を海ロ 書店から出した。八月、三十一日、藝術院 昭和七年 ( 一九三一 l) 六十八歳 會員になった。九月、一一十八日、宮中にて この年より筆をあまりとらなくなり、主に御陪食仰せつけられた。 讀書、句作、時には碁をうって時を過すよ 昭和二十五年 ( 一九五〇 ) 八十六歳 うになった。病氣がちであった。 五月、「日本文學の變遷」を「新小説」に、 昭和十年 ( 一九三五 ) 七十歳 十二月、「陣笠」を「文藝春秋」にそれぞ 二月、二十七日より鎌倉雪ノ下四一、字沸れ發表した。 谷に家の新築をはじめた。五月末から六月 昭和一一十六年 ( 一九五一 ) 八十七歳 にかけて岐阜大山方面を族行した。七月、 三日に新築の家に移轉した。 九月、岩波文庫版『魔風戀風』が岩波書店 から刊行された。「その頃」という一文を 昭和十五年 ( 一九四〇 ) 七十六歳 附した。十二月、二十六日、心臓に故障を 八月、「お伽魔法」を「文藝春秋」に發表おこしたが奇蹟的に回復した。この日洗禮 した。 を受けた。 昭和十六年 ( 一九四一 ) 七十七歳 昭和二十七年 ( 一九五一 l) 八十八歳 一月、小説仕入帳』を中央公論瓧より刊四月、「馬鹿になる近道」を「新潮」に發 行した。十一月、十五日に鎌倉ペンク一フプ表した。八月、七日、「唐人お吉の作者」 主催の喜壽の祝いが開かれた。 を「東京新聞」に書いた。九月一日、前年 の病氣以來體力がおとろえ、一應小康妝態 譜昭和一一十一一年 ( 一九四七 ) 八十三歳 年 を保っていたが、老衰による委縮腎のため 四月、「くだん草紙」を「苦樂」に發表し死去した。十月末に建長寺に葬られた。遺 こ 0 稿「紅夢樓」が「中央公論」に發表され こ 0 昭和一一十三年 ( 一九四八 ) 八十四歳 3 3 附記本年譜は筑摩書房版『現代日本文學全 4 三月、「竹西兄弟」を「苦樂」 ( 四、 + 、 + 一月 集』第五十六卷所收の小杉幸作製年譜を照し つつ、これを訂正加筆する形で作製した。事 實の確認等については同學竹田日出夫、國 立國會圖書館栗原健太郞氏のお世話になり、 また日本近代文學館藏の天外關係資料を閲覽 させていただいた。 畑 實作製
→「灰燼」明治四十一年六月春陽堂刊 「お光・壯吉」大正四年六月植竹書院 ↑昭和二十二年四月頃上司小劍 刊 、著小司第
との合著『ほど袋』 ( 天外「醉骨録」「五つ絞」「哲 明治十八年 ( 一八八五 ) 學者」、綠南「花賣翁」を收む ) を春陽堂から出版 した。 徴兵檢査のため歸鄕した。 三十歳 明治二十七年 ( 一八九四 ) 二十三歳 明治二十一年 ( 一八八七 ) この頃『小説紳髓』に刺戟されて小説家に六月、一日より十八日まで「どろ / \ 姫」 慶應元年 ( 一八六五 ) ( 署名・撫浪漁史 ) を「小日本」に發表した。 なることを志し、家族に反對された。その いざこざの結果作品を示すことを要求され十一月、「不具者」を合作單行本『はっ雁』 九月十九日、秋田縣仙北郡六鄕村 ( 現、六鄕 ( 春陽堂發行 ) に收めた。 町 ) 百九十五番地に生まれた。本名爲藏。號習作を書いた。 は天外、他に草秀、くさひでの名を用いた。 三十一歳 明治一一十八年 ( 一八九五 ) 一一十五歳 明治一一十二年 ( 一八八九 ) 父は豐治 ( 天保九年生 ) 、絞油、醤油釀造、呉 一月、一日、「喇叭卒」を、五日より十八日 一一月、再度上京し、國民英學會で英語を、 服物や古着の商店を經營。母はソノ ( 弘化元 年生 ) 、秋田縣雄勝郡湯澤柳町長尾新右衞門進德館で漢學を學んだ。この年、後藤宙外まで「奇病」をそれぞれ「二六新報」に發 表した。「どろど、姫」を「文藝倶樂部」 を知った。 の妹。 に再録した。二月、五日より「村の名物」 二十七歳 明治一一十四年 ( 一八九一 ) 明治六年 ( 一八七三 ) 九歳 を「二六新報」に連載 ( 完結月日不明 ) した。 七月八日、妹キツが生まれた。のち九年十この年の末に齋藤綠雨を知り、本所一一葉町四月、二十日より「改良若殿」を「讀賣新 に一戸を借りて共同生活をした。綠雨から聞」に連載 ( 五月 + 三日まで ) した。六月、七 二月十五日、妹キクが、十三年六月十三日、 日より「王の輿」 ( 署名・谷玉葉 ) を「やまと 天外の號を與えられた。 弟榮藏が生まれた。 新聞」に連載 ( 完結月日不明 ) した。八月、三日 二十八歳 明治二十五年 ( 一八九一 l) 明治七年 ( 一八七四 ) 十歳 「三國物語」 ( 十三、二十一一日、九月十三日と連載 ) 里の漢學者、岩屋須太郞に就いて學ん十一月、二十六日より二十九日まで「改良を「國民之友」に書いた。九月、「時論日 若旦那」を綠雨の紹介により「國會」に發報」の發刊に際してその社員となったが、 表した。十二月、二日より四日まで「當世「時論日報」はまもなく發刊、瓧員を辭し 明治十六年 ( 一八八一一 l) 十九歳 た。この月一日から十三日まで「蝶ちゃ 志士傳」を「國會」に書いた。 ん」を「讀賣新聞」に、十九日から十月一 彬上京。英吉利法律學校とイーストレーキの 一一十九歳 明治二十六年 ( 一八九一一 l) 日まで「先生」を「時論新報」にそれぞれ 國民英學會に學んだが、法律の勉學に身を 四入れず、専ら春水、馬琴などの小説類を讀一月、一一十一日より「狂菩薩」を「國會」掲げた。十二月、「改良奧様」 ( 上 ) を「日 4 に連載 ( 一一月一一 + 一日まで ) した。二月、綠雨本の家庭」に發表した。合作單行本『五調 んだ。 小杉天外年譜 二十一歳