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検索対象: 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集
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1. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

2 3 強味で、大關以下を總なめにしたんだからね。 : この場所千秋樂たね。あれをよく找きあげたもんだ。」 ・ : まア千秋樂だが、梅ヶ谷が淺くはあったが二本差したのを、い 作者自身「うちの新聞もさうだし、どこの新聞もあの相撲に就いて ねて相手の腰を浮かし、よろっくのを突ッ放したのは、妻かった書き足らんところがある。たゞ關取が拔き上げて腹櫓で持ち出した ね。 ・ : えらい相撲だったね。・ : ・ : 僕の隣りの正面棧敷で、松方さ とだけ書いてゐるが、僕の正面棧敷は、あの相撲を見るに一ばん好 ん ( 正義公 ) が幸次郞さんや何かと一緒に見て居られたが、仕切り い位置だったから、關取が上手だけ取って、左は手頸までしか入ら なほしが十一回にもなって、 ( 註。そのころは屈指の大相撲か、特別ない、荒岩が右の脇をぎゅうと締めて、窄めてるんだもの。 てのひら まはし の註文でもないかぎり、仕切りなほしは、本場所でも大抵四五回ま こで、關取が掌を荒岩の腋の下に支って、繩を引いた右上手と、 で乂あった。仕切りが既に競技の一部であることを味得して、その腹とで、荒岩の身體を拔き上げたんだね、土俵まで持って行くと 長きを厭はぬ觀客の多かったにか人はらず ) 緊張し切った關取と梅き、ピン / \ 跳ねる荒岩の兩脚も妻かったが、なんしろ二尺からも ヶ谷の身體が、汗で一面に光ってゐるのを見ながら、松方老公、ふ上ってるんでね、立派な勝だったよ。」 うウと唸り聲をして、乃公に若し大權力があったら、この相撲に中祕書「關取は五日目か六日目ぐらゐまで、仕切りに片手だけをおろ 止を命ずるがなア、妻慘見るに堪へない。 : と言って居られた。 して、片一方の手は完全におろさない。 ・ : あすこを見てくれてる : ・しかし、關取が勝った時は、あの謹嚴な人も、おぼえず拍手さでせうね。」 れましたよ。着て居られた玉子色の背廣に汗が滲み出して、白い八 作者自身「見てますとも。 : : : 右だけを土に附けて、左は膝の邊で 字髯が慄へてゐました。さうして好角家でもないのに、あの一番だプフ / \ さしてゐる、相手が立ちさうになると、膝から二三寸下ま けを、評判に釣られて見に來られたんだね。全く息がつまるやうな でおろすが、立たないとまたプラ / \ させる。あれぢや、將棊なら 相撲だった。」 兩馬をおろしたやうなもの、碁だと、相手に井目をおかせるといふ 祕書「しかし、梅關は、負けてもうちの關取と取るのが、一ばん取ところでせうね。悠々と受けて立つんだ。それから、どんな輕い相 りよい、ケレンやイカサマにか、る心配がないから、堂々とやれ手でも一應は相撲にしてやる。四つに組んでちょっと寄られたりし る、と言ってますよ。 七日目、うちの關取と荒岩關との相撲もて、にツこりしながら徐ろに寄り切る餘裕が出て來ましたね。ほん たうの大關相撲はあれでなくちゃいけない。それに、大きい力士は 好かったぢゃありませんか。」 はや ・ : なんしろ、 作者自身「あれは水が入りましたね、なんしろあの怪腕で腰の無類のろいもんだが、關取と梅ヶ谷は、大きくて迅い。 にい乂荒岩が、關取の胸へ頭を附け、左に前褌を引いて食ひ下がっ初日が新進の太刀山で、五日目以後は、國見山、荒岩、大砲、梅ケ てるんだからね、もう二三秒おそかったら引分になったね。行司の 谷と、敵方の強豪をみな立派な相撲でやッ付けたんだから、全勝で ひいき 瀬平が四本柱へ合圖しかけてゐた。あの行司は東贔屓だね : : : 關 , 取も全勝が違ひますね。」 はあの前に明治座へ行って、歸ってからぐうど、 , 書寢してました 常陸山 ( 面はゆ氣に ) 「相撲の話はもう止さうちゃありませんか。」 祕書「關取はそのうち、洋行もしたいし、水戸から代議士の候補に 祕書「左團次が谷風を演るんで、土俵入の型を敎へに行ったんでも立ちたいんですよ。アメリカへ行けば、大統領のルーズヴェルト まはし す。 : : : 荒岩關のあの蹈ん張った兩脚は、根から生えてるやうでしに化粧褌と太刀を贈る約東がしてある : : : 」 みつ

2. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

: 、豆くて一二ヶ月、 よッと不平な顏を見せる ) 井滴水、池田永治、近藤浩一路その他の人々カ矢 長くて二三年ぐらゐづ在瓧したが、作者は特に淸方と、近藤浩一作者自身「梅ヶ谷は、これまでまだ一度も全勝したことはなし、あ すまふ 路とに深い印象をもってゐる。近藤は夏の暑い日、自宅の水道の栓れだけの力士で、非力なせゐか、身體に缺點 : : : 腹の出すぎてゐる のがわるいのか、土付かずのこともなかったですね。」 を開いて急造の瀑布で水を浴びるので有名だったし、一度退瓧して 祕書「今度の場所だって、うちの關取はあの通り、立派な全勝 : ・ また入瓧するまでのその間に、「昔戀しい」といふ情を含めて、作 者が瓧の文藝部長席にをさまってゐる漫畫を、葉書に描いてよこほんとに立派すぎるほどの勝ち振りでしたが、梅ヶ谷は關取に負け したりした。 たほかに、疵があるでせう、それが、東の大關ですからね。一絡に △その年、大相撲五月場所千秋樂の翌々日。午後二時頃。天氣快横綱を張れや、向ふがやつばし上になりまさアね。それから、 時。新聞瓧第一應接室。卓子も椅子も、こ又のはや乂上等。床に じゅうたん 常陸山 ( 祕書の言葉を打ち消すやうに ) 「梅關は年が下でも、先輩 は安物ながら、絨毯を敷いてある。 のみ 常陸山谷右衞門登場。三十一歳。まる形の凛然とした顔。名工の鑿だから。 の香をとゞめた仁王の彫刻のやうな、張り切った雄偉なる體格は、 作者自身「とにかく 、關取は強いね。先年初めて入幕した時、大關 いまさら説明の要なし。頭から足の爪先きまで、典型的に完備し から關脇とみんなやっ付けたのにも驚いたが、今度の場所にも驚い のしめ くにすまふ た、不世出の大力士。熨斗目といふか、なんといふか、胸の邊りたね、あの鶴ケ濱、あれは僕の鄕里の力士だが、よく初日に關取に に模様のある黑羽二重の着物に、黑絽五つ紋の羽織。絽の袴。結ひぶつかるんだ。この場所は、二日目だったかな : : : あれはやッばり いづみがは 立ての大銀杏の髷が、よい油の匂ひを放って、堂々たる大紳士。中泉河ですかね、正式に言へば泉河だらうが、向ふの差しに來た左を 老の背の高い痩形な、モーンニングコートの祕書が附き添うてゐ 引ッ攫んで、眞ッ直ぐに振り飛ばしましたね。これまで、後へ棄て る。 たり、横へ極め飛ばしたりしたことはあったが、向ふへ眞ともに飛 ばしちゃったんだから、驚いた。鶴ケ濱は關取に攫まれたところが 常陸山 ( につこり、作者を迎へて椅子から離れ、眞ッ赤な顏を、 白扇で煽いで、甚だ暑さう ) 「ちょッと、御挨拶に上りました。」痛かったと見えて、腕を撫でながら引っ込んで行ったよ。あれもさ う弱い力士ぢゃないんですがね。」 ( 水戸辯のの高い聲 ) 常陸山「いやア、勝っと強く見えるもんでしてね。」 ( 低い聲で謙遜 作者自身 ( 常陸山に椅子をすゝめて、自分も向ひ合って椅子に着 く ) 「いつもさうだが、この場所もすばらしいことでしたね。」 する ) 記常陸山「いゝえ。 ・ : 」 ( 祕書の吸ふ煙草の烟りの舞ひかゝるのが、 祕書「それや、幕に入って居るほどの人は、何んと言っても、皆そ 年 うるさ、う。この人は作者と同じく、煙草が嫌ひで、愛煙家の梅ケれ 7 ぐー強いところはありますね。」 新谷と、こゝにも好對照を見せてゐる ) 作者自身「しかし、關取は別だよ、三段目から冪下、十兩どこに居 る時まで、強い / 、、と言はれてゐても、いざ人幕したとなると、幕 作者自身「いよ / \ 横綱ださうですね。」 の内の力士はまた別だから、なかノ、ー勝つのに骨が折れるし、また 1 常陸山「どうなりますか。」 ( 扇子を・ハタ / \ 使ひっゞける ) 3 よく負けもするんだ。ところが、關取は人幕しても、やつばり同じ 祕書「ところが、梅ヶ谷も一絡に橫綱を張るらしいんですよ。」 ( ち

3. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

草紙」が出はじめて、それへの關心が深まっていったこととも關係なると、ゾラは、一般に、ヴィゼットリー版を主力とするイギリス 6 有するかもしれないし、さらに、小説家修業のためには、學校は迂遠版にアメリカ版も加わって、もうかなり迎えられていたわけだが、 であり、特定作家による指導の方が、より有效であると判斷したか天外においては、それがどの程度であったのか、少くとも、永井荷 らでもあるだろう。やがて、作品を携えての、鸛外、紅葉、綠雨へ風におけるほどの、やや立入ったものではなかったろうことが、作 の訪となった。『鸛外、紅葉、正直正太夫』によると、鸛外は、 品にあらわれたものからの逆算によって、だいたいの想像ができ こころよく應對はしてくれたが、かれの作品を必ずしも評價せず、 る。作者の内部に根差したものとの緊迫した關係においての小説方 作家たるには非常な天才を要することを戒めた。紅葉は冷遇した。 法の轉換ではなく、外側からの技法上の課題の方に、よりいっそう けつきよく、三番目の綠雨との結びつきから、處女作發表の機もの關心があったように思われる。そういえば、『はっ姿』の有名な 與えられ、綠雨との合著ではあったが、單行本も出せた。 序文の「藝術の美の人を感ぜしむるや、宜しく自然の現象の人の官 かくて、普通いわれるように、諷刺小説の時期がひらけ、小説家能に觸るゝが如くなるべし、普遍ならざる可からず、平等ならざる としての存在もあきらかになる。文壇登場としては順調で、むしろ可らす」にしても、さらに、「我はたゞ讀者の空想をして、讀者の官 幸輻すぎる感がなくもない。そのご、まえには冷遇された紅葉と 能が猶ほ實世間の事に感ずるが如く感ぜしむるを以てわが作の能事 も、ある程度のつながりができた。綠雨との關係での諷刺小説時代足れりとなさんのみ」となると、より以上に、多分に技法上の問題 を、いちおうの主觀的な知的傾向だったとすれば、こんどは、片岡に傾斜しているニ = アンスが濃い。つぎの『女夫星』の序文にいた 良一の指摘した抒情的作風への展開をみせた。 っては、もっとも明瞭に、終始、技法間題に限定されている。『は やがて、天外には、もういちど作風上の轉機が來た。あらためてやり歌』の序文は、荷風の『地獄の花』の跋文とともに、たといそ いうまでもなく、寫實ーーー「寫實小説」への志向である。 れぞれの當該の作品は消え去っても、「自然」への宣言として、な その轉換途上の第一作品が、一八九八年 ( 明治三一 ) の夏から秋へ がく記録されるであろうところの皮肉な一文ではあるが、これま かけて制作されたという『蛇いちご』 ( 一八九九年四月・春陽堂刊 ) であた、世界觀としての「自然宣言」であるよりも、やはり寫實技法へ る。そして、この單行本の序文の一節ーー「長い間私の頭腦を支配の態度の表明としての色合いの方が強い。 して居た主權者たる理想が倒れて仕舞った」、「私の頭腦に革命の亂 しかし、そうはいっても、人生なり人間なりに對する、なにほど が起った」が、このころの心妝を端的に表現したものとして、しば かの新見が提出されていたことは、無視できない事實だし、それだ しば引合いに出される。この作品を露拂いのようにして、そのごのけの深さの意味もあったことは是認しなければならないだろう。 約十年間、もう少し嚴密にいえば、約五年間ぐらいが、文壇でもっ 先走りしすぎた。もう少し手前から『はやり歌』をみてゆこう。 とも光を浴びた時代であり、文學史にとにかく記録されるかれの代 宇都宮近くの高根澤の豪家、圓城寺雪江の夫は、男爵の次男坊で 表作は、およそのところ、このかんに書かれている。 養子である。繪をかき、賞をもらったりしている。夫婦仲は特別に この轉機を齎した關係要因のうちに、これまたいまさら擧げるま惡いというのでもなかったらしいのだが、ふとしたことから、常雄 でもなく、ゾフとの接觸がある。といって、その事情をつまびらか に藝者の愛人があることを知り、彼女をモデルにした裸像のカ作 に考證できるほどの豐富な材料はない。一八九〇年 ( 明治一一三 ) 代にを、夫の留守の眞夜中、嫉妬のあまりに切り裂いてしまう。このこ

4. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

う非近代的なるがゆえの、逆説的な大衆的魅力が存在しているので して、そこに彼の人生をいかに生く可きかの探求を潜めて」いると し、主人公篠田長二は、とりもなおさす、「尚江自身の理想化であある。 尚江は、『火の柱』にひきつづいて、兩性における人間關係、解 、且つ自己鞭撻で」あるとしている ( 河出書房版・現代日本小説大系 7 解 だいたい、誤のない見解であろう。革命家と特異なクリスチャ放されない兩性關係の追求を大事な課題とする『良人の自白』を書 ンとのやや特別な吻合體である尚江のつかんだ日本革命觀は、地上いて、『火の柱』に劣らぬ好評を得た。 しかし、やがて、母くみの死を契機として、これまでの半生を反 に天國を建設しようとするロマンティックなものだった。必ずしも 科學的な設計ではなかった。それだけに、情熱的ではあるが、當省し、瓧會運動の同志たちと袂をわかって、伊香保山中〈引籠って しまう。尚江は、その後も小説を書いた。ちかごろ諸家によって再 然、覿念的だった。篠田長二の人間像も、おのずから觀念的な人間 アイディアルキャラク 像であり、人間臭くない、純粹人間像である。つまり、極美人間評價されつつある『靈か肉か』をはじめ、『乞食』『墓場』『勞働』 『火宅』と書きすすめる。なかでも、『墓場』はいわゆる轉向文學で 像である。梅子もまたこれに准ずる極美的人間である。 『火の柱』は、いってみれば、わかりいい圖式の善玉惡玉小説でああるが、『火の柱』の欟念小説であるのに對して實感小説である。内 る。この兩者の對立に、ほどよい危機と適當な波瀾とがある。善玉的秩序に密度があり、尚江小説中での最高の佳品というべきだろう。 『洗禮』は、一九〇九年 ( 明治四一 l) 一月、尚江も同人のひとりだっ の蓮動が、つねに安全圈にいるほどの、いわば第一次的圖式ではな た雜誌「新天地」二ノ一に發表された。伊香保山居中の經驗にもと く、善玉がいちおう惡玉に敗北してゆき、敗北してゆくがゆえにか づくものであろう。とりたてていうほどのものではないが、尚江の えって屈折した勝利感に結びつくことで善玉であり得ているという ( たとえば、悪玉のたくらみにおとし入れられて篠田は、梅子の切望にもかかわら玄逃短篇小説はめずらしく、この時期における尚江の思想なり宗敎観な り心境なりに接することができて興味ぶかい。雜誌「新天地」は、 走するところなく、「一粒の麥」の聖句で書生を戒めて拘引されてゆく ) 、やや法影 こんにち比較的稀覯にぞくする。品川カ氏の寄贈にかかる日本近代 のある、いわば第二次的圖式によって、有效性を保たせてもいる。 底にあふれている極美への情熱と、圖式的秩序が、おのずから、こ文學館所藏のものから收録した。 尚江は、まぎれもない小説家であるが、本來は瓧會批評家であ の作品をして、めずらしいまでの多數にのぼる人々の心をとらえさ せたのである。大衆的魅力をもうひとっ付け加えるとすれば、このり、瓧會運動家である。半生をそれに身を挺した。そして、その表 作品の底にひそむ思想の古風味、意外なほどの前近代味である。惡現は、しばしば「演説」という方法でおこなわれ、「幸德の筆、木 玉への批判的鬪爭的なものと表裏一體になって善玉内部に温存され下の舌」と並稱された。 廢娼問題、足尾の鑛毒問題は、生涯における大きな主題であり、 ているものだ。前衞性は、大衆的な同化を限定して孤立してゆく一 解面をもつが、反對に、習俗性は、安定感を錯覺させることで、非限實踐の課題だった。徹底した平和主義者であり、また、もっともは つきりした天皇制への批判者だった。『良人の自白』の主人公白井 定の反面をもつ。この反面は、しばしば大衆的魅力となり得るので 作 ある。具體的にそれを分析するゆとりがなくなったが ( たとえば、松田俊三は、何よりもまず、天皇制〈の抗議者として登場する。明治文 9 道雄の『社會主義小説の濫觴』のなかで『火の柱』の非藝術性のひとっとして指摘してい學中、このような人物は、稀有そのものである。尚江とキリスト敎 る「傳統的人間關係を固執している」ということなど ) 、『火の柱』には、こういとの關係は深い。しかしまた、めすらしく特異な關係といえよう。

5. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

一、戦爭に關する言論の取締 も、電気も、船舶も、鐵道も、工業も商賣も始めて以て意の奧義 一、皇室に關する言論の取締 に觸る長ことを得るなり。然るに看よ、權力の私情に基きて、土地 吾人は常に所信に忠實なる人を尊敬す。其の所信が誤謬なると否 を區劃し、人類を差別し、之を以て智者の能事と誇る所の者は、内 とに拘らず、其の忠實なる精紳を奪敬す。故に政府が荷も一片忠實 に階級を立て外に詐術を弄し、人慾の爲めに天道を汚す。是れ吾 人の忍耐し得る所に非ざるなり。世界の智者才人は辯して曰く、物の心を以て其の警察權を執行するならんには、吾人は甘んじて其の には順序あり之を行ふに時機あり、急激突飛は識者の戒むべき所な束縛を受くることならん。之と同時に政府も亦た吾人の言動に對し りと。然れ共順序や時機や、是れ小智を以て彼此すべき所に非ずして飽迄謙遜の態度を守らざるべからず。 いやしく 荷も信ず て、況して野生の信徒が關與すべき間題に非ざるなり。 戦時に於ける非戦論の必要 る所は直に之を行ふこそ野生信徒の適任なれ。共の果して直に行は れ得ると否とはをも問ふ所に非ず。而して吾人を以て之を看れば、 基督は實に此の謙遜と勇氣との活敎訓を永久に遺し給へる者の如 日露戰爭の開展に從て、國民只だ陸海軍の萬歳を謳歌するに是れ し。禪學者の學を弄するは吾人の關する所に非ざるなり。羅馬法忙はしきの時、吾人少數の同志が獨り「非戦論」を唱道すること如 ざはり 何ばかり耳障ならん。然れ共吾人は今や政府が、非戦論者のロ舌に 皇をして法皇の權を主張せしめよ。正統溿學者をして三位一體論 向て嚴重の取締を施さんとするを聽きて、深く皇天に感謝せざるべ を上下せしめよ。然れ共基督敎は羅馬法皇よりも偉大にして、の 意匠は學者のみの窺ひ得る所に非ず。余は基督敎の命脈が、前學 からず。看よ、陸海軍萬歳の聲何ぞ夫れ囂々たるや、譬へば怒濤の こうめん 、又た百雷の落下するが如し。此間に立て、吾人垢面 逆卷くが女く 者以外の人心の奥深く堅固に維持せられんことを祈ること切なり。 ( 明治三十五年三月十五日「六合雑誌し の寒措大が手を振り喉を溿らして絶叫したればとて、又た何人の耳 朶にか逹せん。只だ宿昔の所信已むべからざるものあり、憎惡と嘲 弄とを忍て敢て此の狂愚を演ぜしのみ。何ぞ圖らん、政府の權力を 就會主義者の取締に就て政府に間ふ 以て來り臨むことあらんとは。鳴呼是れ吾人の微聲が、其實意外の 反響を顯しつ長ありし反證に非ずや。否な、沈默する瓧會の一面に は、吾人と心事を同くするもの少なからざる立證に非ずや。「嚴重 聞く、政府は此際社會主義者に對して嚴重なる取締を加ふと。所なる取締」の諭酷の警語は、吾人をして偶よ熱情を興奮せしめぬ。 おは 謂「嚴重なる取締」の内容如何は、是れ一に「手加減」の三字に掩吾人の言行、決して無益ならざりしことを自覺し得たればなり。 吾人の「非戰論」を主張する豈に一朝一タの故ならんや。瓧會民 序はれて、吾人の豫測すること能はざる所なるも、其の「手加減」の 命 實行者が、上官の意思を迎合するを以て職務の第一義となす警察官生の幸輻平安を害するもの、戦爭及び共準備なる軍隊に過ぐるなき を確信すればなり。或は曰く平素之を言ふは可なり、戰爭既に開始 たることは、吾人同志の眞に迷惑とする所なり。 れいり 警視廳が洩らしたる所に依て、今回實施せられんとする瓧會主義せらる、寧ろ緘默するの怜悧なるに如かずと。吾人魯鈍にして言者 宀 / 2 の論理を理解すること能はずと雖も、戦報一たび到來する毎に、 者取締の内容を推測するに、主として左の二事に在るもの長如し。 ~ ・つが・つ

6. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

内務大臣は何が故に泰然として此の不義を貫徹するの勇氣を有せんと信す。看よ、彼等は輕々として直に軍隊を繰り出し來るに非ず しゃ。彼れは是れが爲に極めて周密に用意したりし也。彼は先づ八ゃ。軍隊を崇拜して國家の干城なりと信仰したる國民は、果して何 ごれう 方に向て反對論の防禦線を張りたりき。彼れが政府内部の一致を求事を悟了したるならんか。 看よ、平民を壓迫するに當て、警察官なるものは決して最良の武 めたるは言ふに及ばず。政府の背後に監視する所謂元老連なる者の 器に非ざるなり。警察官が共職務に從ふに當ては元より上官の命に 同意を獲得し、更に意地惡るき前内閣員等の賛成の質言をも提へ置 き、且っ遙に手を伸ばして反對黨の首領大隈重信君の首肯をも得た從はざる可らずと雖も、而かも尚ほ俸給と交換する勞働の自覺を有 りし也。故に彼れは最早何の顧慮を要せずして市民を驚ろかすことす。彼等は辭職の自由を有し、尚ほ多少自治自制の餘裕を有す。而 して其の身分は官吏なりと雖も、其境遇は平民勞働者の同一慘状 を得たるなり。 けんそく あゝ、内務大臣原敬君は、權略家として共の全能を發揮せり。看也。現に彼の妻子眷族は平民貧民の叫喚を揚げ居るに非らずや。故 に巡査は決して平民鎭壓の最良武器に非る也。資本家政治の武器と よ、彼れは今日の所謂政府の實際的意義を好個に體現したりし也。 して軍隊の使用せらる乂は誠に共の處なりと云ふべし。兵士は人格 吾人は今日の政府 ( 勿論日本のみにあらず ) なるものが、國民中の 少數者ち資本家階級の利害機關に過ぎざることを主張するものを有せざる純乎器具に外ならざればなり。 爰に於てか一個の新疑間は又た起り來るなり。日く兵士とは何ぞ 也。世の善良なる盲目の學者は、或は政治學なるものに依り、或は 國法學なるものに依りて、吾人の主張の非論理なることを嗤笑するや ? 兵士は皆な平民の子なり、勞働者の子なり、貧乏人の子な り。彼等はロあれども言ふこと能はず、心あれども思慮すること能 也。諸君の書齋の政治學國法學よりすれば、吾人の主張或は非論理 ならん。去らば質間すべし。元老に聽き前内閣員に聽き反對黨の首はず。而して彼等は辭職の自由無し。今や彼等は資本家階級擁護の 領に聽きて、法律的機關なる東京市會に聽くことを避けたる内務大武器となりて、平民階級の鎭壓に從はざるべからず。彼等は己が階 級に向て共劍を擬する也。己が妻子眷族に向て其銃を擬する也。約 臣の行爲は、諸君の學理に依て如何に説明ぜらるべきものなりや。 言すれば自己の腹を割き、自己の胸を貫く也。 看よ、今日の政府の實際的性質は、盲目學者の空理と全然相違し おどろ 吾人は資本家政治の冒險に驚き、且つ日本政府の幸輻に愕く。日 て、實に全く資本家階級の利害機關に過ぎざる也。故に吾人は原敬 君の擧動を怪訝せざる也。之を指して不義となすは、尚ほ今日の政本の軍隊は未だ其の位地と境遇とに就て決して自覺するに至らざれ 府を以て所謂國民の利害機關と信ずる者の誤解に外ならず。故に又ば也。目を上げて隣國を看よ。露西亞の軍隊は既に此の自覺の光輝 た吾人は斷言することを得るなり、今日の政府は既に政府に非るなを見たり。露西亞の權カ階級は最早軍隊に對して奴隷の安心を信ず ること能はざるに至れり。 嗚呼、電車値上の暴政は、貴重なる多くの間題を柔順なる愚民の 眼前に播き散らしけるかな。 ( 明治三十八年十月十日「新紀元」第一二号 ) 四手段を問はず 吾人は又た今回の事變に依て、我が國民が、資本家政治の平民を 鎭壓する決して其の手段を撰むものに非ざることを學び得たるなら

7. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

ら日本字やら、無暗に樂書きをしてゐたが、大きな字で「若き妻」 「可味き食物」と並べて書くと、直ぐ筆を投じて、 「家庭が人生の總べてちゃあるまいし。 : : : 馬鹿 / 、しい。 うち 意義だ / 、」と、ロの中で云った。 寺田は七時半頃に齋藤の塚出て、低く新體詩を歌ひながら、 山田の表門 ( 來ると、太い花崗石の柱が一一本、暗にも見立って儼然「君もう歸ったのか、僕はまだ歸るまいと思ったから、若し用でも と突ッ立って、門の内の三本の大きな松の樹が、こんもりと小山の出來ると、また奥で八釜しいだらうと思って、暫くでも代りに此處 ゃうに見える。門の戸はまだ開いてゐるのだ。「資本家はまだ歸らに居てやらうと思って來たのだ」と、澤本老人が長い髯を撫でなが ないのだな」と思ひっ乂、門を入って、玄關〈斜めに半丁ほどのら入って來た。老人は自宅の晩飯に一杯を傾けたと見えて、眼の周 、綺麗な玉川砂利を敷いた道を行くと、左の植ゑ込みに沿うて立圍をほんのりと赤くしてゐる。 「齋藤さんでは御馳走があったらうな」と、澤本老人は寺田の横に てた二百燭光ほどの電燈が、蒼白く妻いやうな光を放って、寺田の 影を長く地上に映し出した。電燈の球には小ひさな蟲が集ってゐ坐って、腰に差した烟草入を拔き取って烟管を出したが、烟草盆も びき 火鉢も片付けられてあるので、烟管を收めて膝の上に手を置いた。 る。植ゑ込みの中から大が三頭駈けて來て、尾を振って附き纒ふ。 「大變に御馳走があって、喰ひ過ぎるほど喰って來た。 : : : 僕は子 「プ一フン。センデ。ロ・ハ。迎ひに來て呉れたか。貴様等と一所にゐ るのも、もう少しの間だぞ」と、彼れは大に物を云って、懷手をし供の時には他家で御馳走になるのが嫌ひだったが、十年も食客をし てゐる中に乞食根性が發逹したと見えて、この頃は他家で御馳走に て歩いて行く。桃山御殿の扉を鵬したとか云ふを左に見て、三 階の西洋館の玄關の前を通って、六吋砲彈の置いてある芝生を廻はなるのが好きになったよ。 = = = 澤本さん、僕も元はこんな意氣地の 無い男ではなかったのだが、十年の奴隷生活が僕を卑屈な人間にし って、日本造りの玄關の前を過ぎて、其の橫の勝手口から上って、 臺所〈行くと、女中共が薄暗い洋燈の下に大勢集ってゐる。寺田はて仕舞った。僕は何故小山田なんぞを賴って東京〈出て來たんだら 女中から燐寸を借りて、廊下を探り足で、玄關の傍の自分の室〈來う。僕は親爺が怨めしいよ、親爺が學資を出して呉れるか、學資が 無ければ僕を東京なんぞ ( 出さずに、國で漁夫にでもして呉れた方 て、五分じんの臺洋燈を點けて、机の前に坐った。 彼れは机の上にあり合はぜた假り綴の本を披けて見たが、別に讀が良かったと思ふことが度々あるよ」と、寺田は絞り出すやうな聲 で云ふ。 むでも無く、また懷手をして、左右の壁やら天井を見廻はした末、 「親爺を怨むのは勿體ない。親爺は君の爲めを思って遙々修業に出 欄間にかけてあるヴェレスチャギンの油晝の寫眞版を見てゐる。こ れは西洋雜誌の附録になってゐたのを、彼れが自分に額面に仕立てして呉れたのだ。今度の志願兵の入費だって、百何圓と云ふものを たのである。畫は人が倒れ、馬が倒れた慘憺たる戦場に、白い花が親爺が出して呉れるちゃないか」と、澤本は慰め顏である。 「僕は心の中で親爺を怨んでも、親爺に心配させるやうなことは決 寂しく咲いてゐるところである。 彼れは急に思ひ出したやうに、机の抽斗から原稿紙を出して、あして出來ない、それが僕の意氣地の無いところだ。僕は矛盾の多い のる文學雜誌〈寄稿する文章を書き出したが、一行書いては消し、一一人間だから、 = = = 澤本さん安心して呉れ給〈、僕は親不孝はしない 3 行書いては消し、一一三枚の原稿紙を空しく反古にした後、横文字やから」と、寺田は淋しく笑ふ。 を見て、一種の感倩に胸の張り裂ける思ひをしてゐる。

8. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

にして言った時、室の動搖は。ヒタと止って、朧月に葉櫻の影の映っされてゐた。 4 「あ曳數さんが、 : : : 大事さうに土瓶提げてはる。」 てゐた硝子窓は一一間も上になった。ところみ、雲でも描いたやう かう言って、玄關の扉から顏を出したのは、宿直室に寢てゐた學 に、雨漏りのある白い貼り天井は、三間からも上になって、遙かに 校の女小使であった。四十を越してこんな動めをしてゐても、女は 大空を望むやうであった。 女だけに、薄汚ない寢衣の袖で、羞かしさうに口元を掩うた。 「何んやこら、二階の床が落ちたんやないか。」 ポールド みつ 「お道つあん、どしようぞいな。 : こんなことになって。 其の途端、またメリ / 、と音がして、階下の敎室の黑板を壞した と、重吉は漸く少しの戲談を言ひ得るまでに、落ち付きを見ぜて來 音に、ハッと氣付け藥を服まされた風で、助役はかう言った。漸く はしごだん 階下への下り口を見出した時は、階上が階下になって、長い階子段た。 なか 「 : : : 月が重なりや、お腹が太る、どしようぞいな : : : ぢゃ。」 は高く棒のやうに眼の前に突ッ立ってゐたのである。 燒糞のやうに言って、助役は方々を見廻はしてゐた。 「あゝ此處が玄關の出口や。 ・ : ぢゃ。」と、數之介は節を付 「 : ・・ : さ、棄てとけ、放ッとけ。 二階全體がフワリと下りて、階下の敎室の並んだ机の上へ安全に 据ったのである、といふことを知った重吉と數之介とは、何とも知けて今にも踊り出しさうにしながら、また蒸松茸を一つ摘んで、齒 のない口に入れた。 れぬ妙な顔をして、互ひに眼を。ハチクリさしてゐた。 「重さん、梅鉢屋の坊主、酒置いてゐたかいな。早うせんと、數さ 「えらいこッちゃ、どえらいこッちゃ。」 天滿宮の祚主の息子竹丸と、梅鉢屋の小信とは、玄關先きからこんが松茸皆平げはるで。」 「けんど、こんなりで酒飮んでることも出けんやおまへんか。」と、 の状を覗き込むと、口々にかう叫んで、矢のやうに駈け去った。 につこ 0 「一寸面白かったやないか。」と、助役は元の顔色になって、莞爾重吉はまた落ち込みはしないかと、床板をトンど、踏んでみた。 「それもさうやなア。 : ・重さん一寸いて、太政官呼んで來いよ。 と笑った。 : ・あいつが偖けた普請や、このざま見せたろ。」 「おもろい ( 面白い ) も、よう出けた。 ・ : わたへはもう死ぬと思ひ 「さよか、もう寢てるやろな。 ・ : 」と、重吉は首を傾げ / 、急 ましたで。五月二十日が木村重吉の命日になるんやと思ひました。」 出來の床の上から廊下へ飛び下りて、上草履のま乂しッとりと夜露 と、重吉の聲はまだ慄へてゐる。 に濡れた土を踏んで行った。 「命日のこと考へてるやうな、氣樂なこッちゃ、なかど、死ねん。」 「皆さんの氣樂人やこと。ホ、、、、。」と、學校の小使お道は、 と、助役は倒れもせずにあった自分の椅子に腰をおろした。 今は缺員空位の村長の卓子の靑い掛け布の上の、早唹の菖蒲を生若々しい聲で笑って、寒さうに肩を窄めながら、宿直室へ歸って行 けた頭勝ちの花瓶が一つ轉げたゞけで、其の餘のものはそっい有った。 「お道つあん、後から行くで。 : : : 夜這ひに。」と、助役は叫んだ。 姿のまゝであった。 ・ : お家でお家はん ( 女房の事 ) が、 : : : 鐵漿附け 「待ってまッせ。 「こいつが危なかったなア。」と、助役は自分の直ぐ前の、ニッケ めつき ル鍍金の大きな臺付の空氣一フムプを見詰めた。今一つの燈火は吊一フ お道の若々しい聲は、廊下の曲り角あたりから聞えた。 ムプであったから、柱のポン / 、時計とゝもに、遙かに高く取り残 て。 うち

9. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

かな ぬ面、僅に擡げつ「ーー祕密ーー祕密にーーー名譽に關はる , ーー早 くて人に逢はれるかー 4 幻醫者を、内密にーー」 早や彼は車を運びて、門の方へ進み行く れきろく 「名譽ッ ? 」梅子は突っ立てるまゝ、松島を睨めり、「名譽とは何 此時忽ち轣轆たる車聲、萬籟死せる深夜の寂寞を驚かして、山木 事です、誰の名譽に關はるのです、殺人と掠奪を稼業にする汝等の門前に停まれり、剛一は足をとどめてキッとなれり、 によせい に、何で人間の名譽がありませうか、ーー女性全體の權利と安寧と 小門、外より押されて數名の黑影は庭内に顯はれぬ、先きなるは の爲めに、必ず之を公にして、社會の制裁力を試驗せねばなりませ母のお加女なり、中に擁されたるは姉の梅子なり、他は大洞よりの ん」 附け人にゃあらん、 梅子の視線はお加女の面上に轉ぜり「繼母、貴女は嘸ぞ御不滿足「姉さんですか」剛一は自轉車を投じて走せ寄れり いだ で御座いませう、貴女の女は、世にも恐ろしき流血の重罪を犯しま 梅子はヒシと抱き着きぬ「剛さんーー」 した、けれど繼母、貴女のお望の破操の大惡よりは、輕う御座いま 彼女は弟の温き胸に豌をよせて、呼吸も絶えなんばかり、 しか しつかり すよーー」 剛一は緊と抱きて聲勵ましつ「凛乎なさい かれ 彼女の眼光は電火の如く大洞の顏を射れり「處女の訷聖を減がさ 老婆は只だ涙なり、「ーーお孃さまー・ーー」 まみ ん爲に準備せられた此の建物が、野獸の汚血に塗れたのは、定めて 殘念なことでせう・ーー・ - ・傷けるものの爲めには師を御招きなさい、 ねだい けれど、犯罪者の爲めに、何故早く警官をお呼びなさらぬ」 寢床の上に起き直りたる梅子の枕頭には、校服のま又なる剛一の なぐさめは 大洞は、色を失って戦慄するお加女の耳に近きつ、「少こし氛を 慰顏なる、 そっ 靜めさして今夜の中に密と歸へすが可からうーー世間に洩れては大「ナニ、姉さん、左様氣をいら立てずと、最少し休んで在っしやる 變だ」 方が可いですよ」 あんな 「けれどネ、剛さん、彼様猛惡な心が、此の胸に潜んで居るのかと 思ふと、自分ながら恐ろしくて堪りませんもの、 私は剛さん、 ヒュウ / 、と枝を隝らせる寒風も、今は收まりて、電燈の光寂し奇麗に死ぬことと覺悟して居たんです、彼様亂暴しようとは、夢に しばさんない とっさ き芝山内の眞夜中を山木剛造の玄關には、何處にか行かんとすら も思やしませんよ、如何した突嗟の心の變化か、考へて見ても解ら ん、一子剛一の今ま自轉車に點火せんとしつゝあり、 ないの、矢ッ張り私の心が、怨と怒に滿たされて居たので、其れで かたへ ふるまひ 側には一人、彼の老婆の身を縮めて「剛様、今夜は又た一ときは彼した卑怯な擧動に出たのですね工 今朝からネ、一人で聖書を どうそ あなた 寒う御座んすから何卒、御氣を着け遊ばしてネーー貴郞が行って下讀んだり、お祈したりして居たんですよ、私もう 怖くて / 、神 どんたに おんまへ ださるので、如何程安心で御座いませう 様の御前へ出られないんですものーー」 「婆や、一飛びだ , ーー何せよ、場所が場所だからナ、僕ア心配で堪 梅子は身を顫はして面を掩へり、 まらぬのだ、大洞の旧父だの旧母だのツて、婆や、人間の面してる 剛一も目を閉ちて暫ばし言葉なかりしが、「ーーー姉さん、篠田さ みのうへ 畜生なんだ、姉さんの身上に萬一のことでもあって御覧、何の顏しんも其ことを心配してでしたよ」 は、うへ ふる かほお ばんらい

10. 日本現代文學全集・講談社版 31 小杉天外 木下尚江 上司小劍集

わきま : ・そ人の手に渡ると云って大層心配して、君も知っとるだらう、この頃 「そら、君のことだから、人倫の道は辨へとるだらうから、 0 れはさうと君、この夏話した君の縁談のことね、君はあんなことをは毎日機嫌が惡い。しかしこればかりは親の威光で無理に押し付け おくさん てもうまく行かんものだから、氣長に當人の了簡を改めさぜるより 云っとったが、僕一人で内々で氣を揉んで、奧様にそれと無くカマ ちゃうさん タに法は無いと云ふことになったんだきうだが、何にしてもあの苦 をかけて見たんだが、何うも肝腎の本奪様ーーお孃様が、養子なん ぞを貰ふのは厭やだ、獨身で暮すと云って、主人と奥様が幾ら勸め勞性の主人のことだから、一通りの心配ちゃないらしい。それにこ ても聽かんと云ふんだ、 ・ : なにあの黒崎の話の外にまだ二三人もの頃はいろ / 、のことが氣にか又ると見えて、あの通り塀の上へ一 口がか、ったのださうだが、どれもこれもお孃様が獨身主義とやら面に忍び返へしを付けて見たり、この春折角電燈に更へた座敷の燈 の一點張りで跳ね付けるんださうで、僕もそれを聽いた時は、こと火を、何處かで電燈は危ないと云ふことを聞いて來たと見えて、ま によるとお孃様が君に心中立てをしてゐるのちや無いかと思ったた急に取り外すと云ふぎだらう。泥棒や火事をあんなに怖がる人 すくな が、よく探って見ると全く獨身主義で、相手にかゝはらず養子は厭も尠い。それに思ひ立っと直ぐやらなけりや氣に入らんので、今日 やだと云ふんださうだ。僕は君が何うにかして此の家の若主人に直も君が行ってから、銀行の電話で、電燈會瓧から工夫が來たかと云 って來るんだ。折角電燈が引いてあるのに、今夜は門の内のあれの って呉れると良いと思ふんだがね」 ラン・フ おやら 寺田は「餘計なことを世話を燒く老爺だ」と思ひながら、澤本の外は點けてはいかんと云ふので、急に洋燈の掃除をする騒ぎだ。馬 鹿 / 、しくて話にもならない」 顏を見た。澤本は低い聲でなほも語りつゞける。 澤本老人の話がそろ / 、不平の方へ向って來た時、表門の方に馬 「昔の娘は十八九にもなると、嫁に行きたがったり、聟を取りたが ったりして、縁談が出ると顏を眞ッ赤にして羞かしがりながら、内車の軋る響きが、秋の夜の寂寞を破って、間も無く馬丁の叫ぶ「お 心では喜んだものだが、今時の娘は羞かしがると云ふやうなことは歸りツ」の聲とともに、馬車は玄關に着いた。寺田は柱の下に附い 尠くなって、何うかすると獨身主義だなんぞと云ひ出すんだね。あてゐる電鈴を押して、主人の歸邸を奥へ報じ、洋燈を手にして澤本 とともに玄關へ迎へに出た。 れは何う云ふものだらう」 ステッキ 政成が悠々と馬車から下りて、洋杖や手提鞄のやうなものを寺田 「ナーニ、今の娘だってお嫁に行きたいさ。昔の娘よりも其の希望 に渡して、馬丁に靴を脱がせてゐる中に、京子も雅子も小間使等も は強いだらうが、今の娘は唯それが爲めに家庭の束縛を受けること を厭ふんだね。 ・ : お嫁に行かなけりや喰へないと云ふ人は別だ皆玄關へ出迎へた。彼れはこれから洋服を和服に着更へ、美味に飽 : これは女ばかりぢゃない、僕なんぞも性慾は強いが、家庭いて淡泊なものばかりを並べた晩餐の食卓に向ふのである。今日は と云ふ桎梏ーーー窮屈な束縛の出來るのは厭やだね。今もっくみ、齋晩飯を先きに濟ませてもよいと云ふ電話がかって來ない日は、い 藤の家で家庭の無意義を感じて來た」と、寺田は獨りで合點をしてくらおそくなっても京子と雅子とは、政成と一所に喰べるやうに、 ゐる。 食事をせずにゐるのである。 「僕には難かしくて解らんが、何しろ大變な世の中になって來たも のだ。 : それで主人はお孃様が獨身主義だなんぞと云ひ出したの で、小山田の血統が絶えて、折角これまで積み上げた財産が赤の他 さん 翌る日は小山田夫婦と雅子とで、歌舞伎座の慈善演劇へ行ったの しばゐ あか