一月、「煙草の頌」を「明星」に發表。四五月、「近代文學の鳥瞰景」 ( 飜譯評論、七月 一一十八歳 明治三十年 ( 一八九七 ) 月、「大藏大臣」 ( ゾ一フ ) を「文藝界」に譯まで ) を「明星」に、「高山樗牛」を「中央 「帝國文學」本年度の編輯委員となる。四し、九月、金港堂刊の『小説叢書』に收め公論」に發表、『西詩餘情』を左久良書房 月、「英文學と伊太利文學との關係」を「太る。 刊。九月より眞宗大學講師となる。十月、 陽」に、八月、「文藝に於ける女性」 . を「帝 「綠雨君」を、十二月、「モデル問題」を 明治三十六年 ( 一九 0 一一 I) 三十四歳 國文學」に寄せる。この年「文學界」に 「中央公論」、「明治學院時代」を「趣味」 は、三月、「プローヴァンスの戀歌」、七月、一月、「玉突」を「帝國文學」に、三月、 に寄せる。 「イスラエル文學の詩趣」ほかを書く。 「文藝復興とロオマンチシズム」を「文藝 明治四十一年 ( 一九 0 八 ) 三十九歳 界」に發表。四月、『世捨人』を英學新報 一一十九歳 明治三十一年 ( 一八九八 ) 瓧刊。 一月、東京高等師範學校講師となる。一一 一月、「塵窓餘談」を「文學界」 ( 終刊號 ) 、 月、「必要なる性欲文學」を「中央公論」 明治三十七年 ( 一九〇四 ) 三十五蔵 「明治三十年の文學界」を「讀賣新聞」、六 に書く。三月、『」二萬三千哩』を服部書 月、「從卒」 ( モウ・ハッサン ) を「讀賣新聞」 四月、「時言三則」を「明星」に發表。 店刊。四月、「新興の文學は宗敎の牙城に に發表。七月、東京帝大選科を修了。九 切り込めり」を、六月、「德富蘇峰氏」を 明治三十八年 ( 一九〇五 ) 三十六歳 月、山口高等學校へ赴任。同僚に戸澤正保 「中央公論」に發表。七月、「大久保時代」 ( 姑射 ) 、佐々醒雪らがいた。謠曲をはじめ八月から十一月までの「太陽、に「文藝時を「新潮」 ( 「獨歩特輯號」 ) に寄せ、十一月、 評」をせる。 「藤村君の不自然」を「中央公論」に發表、 『英文學講話』 ( 東亞書院 ) 、『時代私觀』 ( 日 三十一歳 明治三十三年 ( 一九〇〇 ) 明治三十九年 ( 一九〇六 ) 三十七歳 高有倫堂 ) を刊行。十二月、「ミルトンの詩 夏休みに上京、夏目湫石の渡英送別會に出一月、「旗手軍曹」 ( ドオデ工 ) を「帝國文に就て」を「英語靑年」に寄せる。 席。後年親しく往來することになった。 學」に、六月、「机上小觀」を「中央公論」 明治四十一一年 ( 一九〇九 ) 四十歳 に發表。七月、山口高等學校の度校により 明治三十四年 ( 一九〇一 ) 三十二歳 上京。八月、「靜平の文學と活動の文學」 二月二十日、帝大での第一回文藝談話會で 一月、「文藝と人道」を山本蘆里編『靑年を「新小説」、「齋藤綠雨」を「文章世界」「政治と文學」と題して講演。五月、「ぐう 文範』 ( 矢島誠心堂 ) に收める。十月、「現代に書く。九月、古畫商小林文七の通譯としたら先生」を「趣味」に寄せる。八月、「長 の士風及び學風」を「帝國文學」に發表。 て歐米漫遊の途につく。 谷川氏を憶ふ』を坪内・内田共編『二葉亭 四迷』 ( 易風瓧 ) に收め、九月、「森先生」 明治四十年 ( 一九〇七 ) 三十八歳 三十三歳 明治三十五年 ( 一九〇一 l) を「中央公論」に書き、『獵人日記』を昭 一月、歸國。四月、明治學院講師となる。 文堂刊。この月より早稻田大學講師となる
イ 10 明治編Ⅱ」明治書院昭和三五・一一 ) 治四四・三岩波版透谷全集第三卷附録に收録 ) 中村完「北村透谷ー作品の解説」 ( 右同 ) 島崎藤村「北村透谷君の短き一生」 ( 「文章世界」大正一・一〇藤村全集所收 ) 笹淵友一・木俣修「北村透谷ー作品〔詩〕の解説」 ( 右同 ) 島崎藤村「飯倉だより ( 北村透谷二十七回忌に ) 」 ( 「大観」大正一 0 ・七藤村全集所收 ) 吉田精一「浪漫主義の成立と展開」 ( 岩波講座 「日本文學史」第十一卷昭和三六・六 ) 本間久雄「北村透谷君の人と事業を懷ふ」 ( 「早稻田文學」大正一三・六 ) 平岡敏夫「内部生命論」 ( 「現代日本文學講座評論・ 坂本越郎「北村透谷」 ( 弘文堂書房昭和一五・八 ) 隨筆 * 」三省堂昭和三七・一〇 ) 戸川秋骨「北村透谷君と私」 ( 「改造」昭和二・二 ) 舟橋聖一「北村透谷」 ( 中央公論社昭和一七・一 ) 色川大吉「明治二十年代の文化」 ( 岩波講座「日本中野重治「芥川氏のことなど透谷」 ( 「藝術に關 ( 寳文館昭和二四・六 ) 宍道逹「北村透谷」 史近代 4 」昭和三七・一一「明治精神史」所收 ) する走り書的覺え書」改浩瓧昭和四・九 ) 笹淵友一「北村添谷」肅村書店昭和二五・七 ) ( 「浪漫思潮發生的 木村幸雄「雙蝶のわかれ」 ( 「現代日本文學講座本間久雄「透谷と・ハイロン」 ( 至文堂昭和三二・八 ) 坂本浩「北村淺谷」 詩」三省堂昭和三七・一二 ) 研究」昭和五・一〇「明治文學史」下卷所收 ) 齋藤淸衞「透谷と『春』」 一一雜誌特集 四雜誌・新聞・單行本所收論文 ( 「國語と國文學」昭和七・四 ) 「北村透谷號」 ( 「國民新聞」唐木順三「二葉亭・透谷・啄木」 ( 「現代日本文學 ( 「民衆」大正七・五 ) 山路愛山「明治文學史 ( 凡例 ) 」 ( 「明治文學研究」昭和九・四 ) 「特輯北村透谷」 宇説」春陽堂昭和七・一 0 ) 明治二六・三 ・一「史論集」所收 ) ( 「文學」昭和三一 「北村透谷」 篠田太郎「北村透谷論」 ( 「クオータリー日本文學」 ・二 ) 山路愛山「凡的雎心的傾向に就て」 昭和八・一「近代日本文學研究」所收 ) 「北村透谷の研究」 ( 「明治大正文學研究」昭和三三・ ( 「國民新聞」明治二六・四・一六、一九 ) 木枝增一「北村透谷の片貌」 ・「透谷と藤村」 ( 「國文學」昭和三九・六 ) 平田禿木「蠅羽子を吊ふ」 ( 「國語・國文」昭和八・三 ) ( 「文學界」明治二七・五 ) 三講座論文 木下尚江「頑澤諭吉と北村透谷」 宮崎湖處子「谷庵を懷ふ」 ( 「明治文學研究」昭和九・一一 ) ( 「國民新聞」明治二七・六・五 ) ( 岩波講座「日本文學」 鹽田良平「北村透谷」 ( 「女學雜誌」吉田精一「北村透谷の . 意味ー「我牢獄」の分析 昭和六・六「近代日本文學論」所收 ) 島崎藤村「亡友反古帳」 ( 「季刊明治文學」昭和九・一一 明治一一八・一〇藤村全集所收 ) 土方定一「明治の文學評價」 ( 「日本文學講座」 「近代日本浪漫主義研究」所收 ) 改造瓧昭和九・四 ) 松岡荒村「相國寺の幽林に透谷を懷ふ」 ( 「荒村遺稿」明治三八・七 ) 相馬黒光「透谷とお冬さん」他 寺田透「北村谷」 ( 「文學講座」—筑攣書房 ( 「默移」栗田書店昭和一一・六 ) 昭和二六・九「現代日本作家研究」所收 ) 山路愛山「北村透谷君を懷ふ」 ( 「文章世界」明治四 0 ・五 ) 土方定一「北村透谷と勃興する階級の浪漫主義」 勝本淸一郎「『文學界』と浪漫主義」 ( 「近代日本文學評論史」西東書林昭和一一・ ( 「日本文學講座」 > 河出書房昭和二七・ ID 北村美那子「『春』と透谷」 ( 「早稻田文學」明治四 一・七岩波版透谷全集第三卷附録に一部所收 ) 秋庭太郞「劇文學に於ける透谷と古白」 瀬沼茂樹「北村透谷」 ( 「明治の演劇」中西書房昭和一ニ・ ( 「日本史講座」 5 河出書房昭和一一七・九 ) 相馬御風「北村透谷私欟」 ( 「早稻田文學」明治四 一・九「藜明期の文學」所收 ) 本間久雄「北村透谷」 小田切秀雄「透谷と近代文學の成立」 ( 岩波講座 ( 「明治文學史下卷」東京堂昭和一ニ・一 0 ) 「文學」 4 昭和二九・一「日本近代文學」所收 ) 島村・吉江・相馬他「文藝研究會記」 ( 右同誌右の相馬報告をめぐっての討議 ) 笹淵友一「北村透谷とキリスト敎」 丸山靜「近代の小説の精禪と方法ー二葉亭と ( 「靑山文學」昭和一一一・ 北村美那子「根府津時代と公園生活」 透谷」 ( 「新天地」明治四一・一 9 星野天知「北村透谷君の奇矯」他 ( 「日本文學講座」東大出版會昭和三 0 ・ ll) ( 「默歩七十年」聖文閣昭和一三・一 0 ) 小田切秀雄「日本における自我意識の特質と諸形坂本紅蓮洞「『春』の靑木と余が知れる透谷」 ( 「讀賣新聞」明治四一・一 (l) 唐木順三「北村透谷」 態」 ( 「近代日本思想史講座」 6 筑摩書房昭 ( 「近代日本文學の展開」黄河書院昭和一四・六 ) 和三五・二「日本近代文學の思想と状況」所收 ) 相馬御風「透谷と獨歩」 ( 「創作」明治四三・六 ) ( 「現代文學講座北村美那子「淺谷の晩年と其言行」 ( 「學生文藝」明增田五良「雜誌『文學界』記傅」 笹淵友一「北村逶谷概説」 ヒ村透谷參考文獻 一單行本
人は更に語を進めてギョオテを罵れり。彼の「ウイルヘルム・マイ の談話も亦た自から共の趣を變へざる能はず。遙望すればクリッフ 2 ステル」を以て罪惡に充てる書と呼べり。老詩人は遠客を引いて小 ヱル山は帽を戴かずして高く聳えたり。遠くライダルの彼方を眺む 園に行けり。その逍遙默思の詩境を示せり。その近作の詩を咏出せれば、ウォーヅウォルスの山鄕烟霞の裡にあり。爰に彼等は膝を並 り。斯の如くして洋外の思想家は辭し去れり。 べて坐せり。力アライルは既に皮肉冷嘲の人にあらず、純乎たる眞 是より後拾五年を經て、ヱマルソンは再び歐洲に遊びてウォ—ヅ人、雄大なる靈人としてヱマルソンの眼中に映じ來りしなり。彼等 ウォルスを見舞へり。此時に至りては、彼は既に曩日の無名旅客には與に靈魂の不朽を論ぜり。ヱマルソンの「英國小記」に録して日 あらず。特別の招待を以て、到る所に講話をなしつ又英土及び蘇國 く、彼は時代と時代との關聯を洞觀し、各般の出來事が未來に接 よぎ を過れり。ハレット・ マルチノーと與に湖畔詩人を訪へば、八十歳するの理を究察せりと。吾人はヱマルソンが當時力ア一フィルに向っ に垂んとする鶴齡の詩人依然として舊時の如く、懇ろに千里の客をて如何なる哲學を語りしかを知らず、然れども此記事を以て推すれ 迎へ、淸談時を移せりとぞ。 ば、吾人は如何に後年の「報酬論」「自然論」等の記者が、十九世 ヱマルソンは既に意中の二將星を訪へり。最後に問ふ可きはトマ紀思想界の雙兒とも言はれし長兄に向って、其の靜和なる舌を以 ス・カアライルなり。力アライルはヱマルソンに長ずること八歳、 て、圓滑なる哲理を談ぜしかを察するに餘りあり。 此時クフィゲンブットックの瘠地に幽居して、怪巖を攀ち、深澤に 此の會合は極めて短期なりしと雖も、兩家の交情は斷金も啻なら 下り、己れの力に於て己れの文學を樹て、己れの途に由って己れのず、是より後四十四年力アライルが冷々たる墳墓に入りしまで、大 業を成さんとする思想界の妖星なり、ヱマルソンを英國に引付けし西洋の波濤は彼等を隔てども、共の友誼を妨ぐるものなかりき。英 は、コレリッデにあらず、ウォーヅウォルスにあらず、却って此の國に於る或書肆に、此書の著者は稍や才能ある人なりと見ゅ、然れ 妖星こそ尤も多くの引力を彼の上に持ちしなれ。 ども之を公衆に示さば果して如何と言はれ、後又た「フレザ 1 雜 彼はグラスゴーよりダムイフィに來れり。其處より拾六呷又た客 誌」に登載して、幾多の小記者、小評論家の爲に、酷くも亂撃の下 やと 車を通ぜず、驛亭に就きて村車を蹴ひ、僅にクライゲンブットック に倒れんとしたる「サルタ・レザルタス」を緝綴して大西洋の此方 に逹するを得たり。落莫たる寒村、雲低く巖高し、見上ぐれば磽砺に多數の讀者を作りしは、此の會合によりて百年の友となりしヱマ たる丘上に寂寥として一屋立てり、此裡に棲めるもの誰ぞ、間はずルソンなり。 して知る、後年一世を震駭せし散文詩人ト 1 マス・カアライルが、 彼等は別れたり。之より相見ざる事十五年、星霜は兩家を變ゆる 共の雄大なる心を爰に荒漠たる「自然」に養ひっ又あるを。 こと多く、此の人生の正午期を過ぐる間に、與に赫灼たる功業を奏 客は畏愛を以て來れり。主人も亦た慧眼を以て此の非凡なる遠客し、與に廣大なる領地を拓き、與に榮譽ある勝利者となれり。ヱマ を迎へたり。一見舊の如く、又た前の二者に似る可くもあらず。主ルソンは其の「自然論」を始めとして幾多の論文と講話とにより 人は例の自家製造的の妙語を以て、能く語り能く罵れり、客は沈靜 て、彼の本國に於ける思想界の巨物となれり。彼の名聲は遂に其の なる思想家として、能く聽き、能く注意し、又た能く語れり 親友の邦民をして、懇ろなる聘禮を以て歡迎せしめ、普ねく英土及 始め數刻の間、彼等の談話は時事と著書と世評に充たされたり。 び蘇國の要地に其の得意の講話を開くに至れり。力アライルは此間 然れども相携へて家を出で、山高く岩秀づるところに來れば、彼等に於て、「佛國革命史」を始めとして、幾多の名什を公けにし、英
に現れ來りぬ。此の朝の風光は如何に彼等に美なりしか、如何に彼と叱咤するの剛胸、痛烈なり。鳴呼彼等は此の如く一躍直ちに身を 2 ロュル 等は此の美麗なる宇宙に驚嘆せしか。あ又彼等は實に此の美に醉ひ浩化の懷に投じ、其氣魄飛揚して天を衝かむとするの慨あり。隹、 寺、く ぬ。彼等は全く自己を捨てゝ此の美を攫取せむとて突進せり。嗚呼此の間坦々たる道義屑々たる理法の規矩を用ゆるを得むや。此の如 此の如き時に當りて人誰か乾燥區々たる道義を顧みるの隙あらむくにして、英國民心の基礎定まり、此の如くにして剛健のアングロ ゃ。無味なる腐舊の形骸に戀々たる者あらむや。爰に於てか此新思 サキノン民族の素養はなりぬ、知る可し、偉大の想は天才の自由に 想は、電光の如き剛侠の詩人マーロー、萬想を容れて餘りある大海練成せざる可らざる事を。 じようく の澎湃たるが如きセキスピアー等の奔蕩豪快の筆に由りて此新世界責む可きかな、古來彼の繩墨の徒のなす所や。見よ、佛國革命を、 に迅雷の如く轟きぬ。此破天荒の時代に於ける人才の溢るゝ所、區十萬の膏血空しく涸れて百萬の心靈自山を得ず、王位徒らに鮮血の 區たる小節に關らず、屑々たる理法に制せられず、放逸、飄梁、世漂はす所となる。之れ豈淺見の徒が、滔たる新文化の潮流を止めむ ハ一フよりも剛悪なりとキ 外に超然たる者あり。ふ見よ、大盜パ として反て之を激成せしめしに起因するなからむや。其政は専制、 リストを叱し、モーゼを魔術者なりと罵るマーローが大膽や驚く可其敎は頑執、改革者のは善く國民の耳底に落ちて革新の期既に熟 ひきゐ するも彼等は毫も之を顧みず、朽腐の材を將て此の狂瀾と爭はむと むべ す、宜なる哉彼等の此の奔流の下に碎破せらる又や、あゝ彼等の僻 Base Fortune, now I see. that in thy wheel 見は彼等自身を害せしのみには非ざりき、彼の新改革の洪水や此が There 1S a point. tO which when men asprre, They tumble headlong down 【 that point I touched, 爲に激して、有用の材をも合せて蕩盡するに至りぬ、豈痛嘆に堪へ And seeing there was no place tO mount up higher. ざらむや。 「 h should I grieve at my declining fall?— 彼の英國の偉士カー一フィルをして僞信の時代僞善の世と憤慨せしめ Farewel l, fair queen weep not for Mortimer, し拾八世紀の潮流は、沈み沈みて人心依る所なく、平々坦々眠れる That scorns the wo ュ d. and, as a traveller, が如く人は皆舊形式に安じて蠢々たるの時、毅然として腐屑の準繩 ( 」 0e8 tO discover countr ・ ies レ「 et unknown. を破り大に歐洲の文野に獅子吼をなす者あり。一をアルエ、ド、ポ と叫ぶ彼が意氣や壯なりと云ふ可し。 ルテールと云ひ。他をヨハン、ウォルフガング、ゲーテとす。佛の 天籟筆端に激發して、光焔 沙翁の鬱勃たる想は滾々たる泉の如く、 健兒は其國从に激する深く、痛憤措く能はず、諷罵口を衝て出で、 萬丈の勢、彼の狂公子ハムレットに托して、 烈日の草木を焦すが如しと雖も、尚一道の氣餽優に憂肚の慨を示す 0 God 者あり、共の「宇宙の組織」に於て神の存在を論ずるや摯實、英國 God 一 の就會を論じて其の精粹を認るや剴切、カラ及びシルべンの事を論 How weary stale, flat and unprofitable じて弱者の爲に氣炎を吐くや、至誠なりと云ふ可し。しかも徒らに Seem to me all the uses of this world! 凡俗の攻県の衝に當りて國を逐はるゝ數欽、今も尚惡魔と罵られ、 Fie ou't 一 Ah fie 一・ t デ an unweeded garden, 漬紳者と呼ばるゝ彼が非邇實に憐む可き者あり。彼も人なり焉んぞ That grows tO seed things ranks gross in nature 缺點なからむ、然れども彼の偏狹の徒が唱ふる如く、有害無益の兇 Possess it merely. はうはい
0 0 は、快事の爲に狂するなり。 一の義しからざること生ずるによりて、社會は必らず之に應ずる 0 復讐の快事なるは、飲酒の快事なるが如く然るなり。日常の生活何事かを爲ざるべからず。一の不義は直ちに其反響を社會に及ぼす に於て此事あり。多岐多方なる生涯の中に幾度か此事あるなり。生なり、而して此場合には、瓧會は他の義を以て、其不義を消すの權 活の戦爭は一種の復讐の連鎖なり。人は此快事の爲に狂奔す。人は利あり、責任あり、これ正しき意味の復讐なり。宗敎の精紳より云 此快事の爲に活動す。斯の如くにして今日の開化も昔日の蠻野に異ふ時は、社會といふ法律的の組織はなし、單に紳の下に簇がる兄弟 ならざるなり。然り、ヒューマニチーは衣裝こそ改まれ、千古不變の民を云ふ外はなし、上に一の訷を戴き、下に萬民相愛の綱あり、 なるものなり。 これを以て宗敎的組織の社會に一人の爲せる害は、その瓧會自らが 復讐の精紳は、自らの受けたる害を返へすにあり。而して自らの責任を負ふて禪の前に立たざるべからざるものとなるなり、而し 受けたる害を償ふことを得るは、甚だ稀なる場合なり。己れが受けて、社會自らは其瓧會の一部分なるものゝ爲したる害に對して、復 たる害の爲に、對手に向って之に相當なる害を與ふるにあり。而し讐すべきところあるなきなり。 て斯の如く害を加へたる時に、己れの受けたる害は償はれたる如き 人と人とをつなぐものも愛なり、祺と人とを繋ぐものも愛なり、 心地して、奇様なる滿足を得るなり。斯の如きもの復讐の精紳なり 瓧會が受けたる害を酬ゆるは、瓧會自らも之を爲す能はず、神も亦 あか これ とせば、復讐なる一事は、人間の高尚なる性質を證しするものにあた社會に對して復讐の意味を以て、害を加ふると云ふ事は全然之あ らすして、極めて卑き、動物らしき性質をあらはすものに外ならず。 るまじき事なり。斯の如くにして、宗敎的組織の社會には復讐といふ 歴史はあやしき事實をあかしす、各國共に復讐を重んじたる時代事は遂に其跡を絶たざるべからず。 ( 但し懲罰といふ事は別題なり ) 。 あること是なり、「忠臣藏」のはなしは最早世界にかくれなきもの 然れども宗敎は架空の囈言たらしむべからず、無暗に唯だ救とか となれり。いづれの國にも復讐なるものが何とはなく唯だ重んすべ 天國とか浮かれ迷はしむべからず。宗教はクリード ( 信仰個條 ) に きものとなり居たること、吾人の能く知るところなり。復讐の親族あらざるなり、宗敎は聖餐にあらず、洗禮にもあらず、但しは、法 に決鬪あり、決の兄弟に暗殺あり。暗殺は卑怯なりとして賤めら 則にも、誡命にもあらざるなり、赤心の悔改と赤心の信仰とは、い れ、決鬪は快事として重んぜらる、而して復讐なるものは尤も多く かなる場合に於ても尤も大なる宗敎なり。而して宗敎は、ヒューマ 人に稱せらる。人間何そ斯の如く奇怪なる。 ニチーの深奧に向って寬々たる明燈たるべきものなり。人生實に測 維新の革命は、公けの復讐に最後を告げたり。法律の進歩は各自 るべからざるものあり、人生實に知るべからざるものあり。願くは 勝手の復讐を變じて、瓧界の復讐となせり。吾人は法律家として斯吾等信仰をして皮相の迷信たらしめず、深く人間ととの間に、成 く言ふにあらず、歴史の觀察より斯く言ふなり。斯の如く法律の進立たしめんことを。 歩と復讐の實行とは相背戻せり。吾人は復讐なるものを以て、受け 復讐と戦爭 たる害に對して返へすべき害なりと思へり。而して人間は斯の如き 不條理の事を以て、快事とする性質あることを言ひたり。法律の精 一個人の間には復讐なり。國民と國民の間には戦爭なり。復讐の 祚が復讐にあらざることは之を認めながらも、法律の事實は、復讐時代は漸く過ぎて、而して戦爭も亦た漸く少なからんとす。宗敎の を去る事遠からざるを信ずるは之を以てなり。 希望は一個人の復讐を絶っと共に、國民間の戦爭を斷たんとするに たさ
、然れども彼等に先き立ちてルーノーの如きウォルテールの如き 思想界の人のありしを見さる者あらんや、維新の革命が吉田松陰輩 の手に依りて成されしは事實なり、然れとも之に先き立ちて國學者 の如き一種の儒學派の在るありて之か素を成したるは史を讀むもの の容易に知る處なり、物質的の運動は第一一なり思想は必ず之が先驅 を爲せり、吾人は思想終極の根底より改めて進まんことを希望する なり、抑夫の維新の亂は之を革命と言はゝ革命なりと雖も、一種 の物質的動に過きす、思想終極の根底に觸れたるものにあらす、 アルプスの山、東西に横はって歐洲の野を兩斷し、こ乂に南歐北歐 之か革命は今後にあり、然れとも今後の革命には吉田松陰を要せさ の名出づ、北は腥風吹き荒れて闇夜烏鳴くの趣あり、南は春風靜か るなり戉辰の役を要せさるなり加波山の一揆を要せさるなり、此の に吹きて蝶舞ひ鳥歌ふの景あり、彼の文藝復興期の文學も、南北に 革命は必すや宗敎と美術との想海に起る〈きなり、佛教と儒敎とは 依然思想界の覇王にして基督敎さ〈未た植はらさる今日に於て、何跨りて特殊の花を開き果を結びたりしが、其の開發の起點は何處に そ漫然半は思を想海に寄せ半は心を物質に置きて此の國の改革を遂ありやと問はわれ等は其の歐洲の中央佛伊の間にありと答〈ん も、其の主腦となりて活動の先驅となりしもの、伊太利にある事ま くるを得ん、今は思想の根底より改む〈きの時ならすや、 グリーキ空しく滅ひす、 0 ー空しく死せす、今の歐洲を捕〈物質た疑を容る〈からざるなり。伊太利の地名勝舊跡に富む、人の杖を 的要素を盡く取り去り之を赤裸にせよ、彼等は其 0 精祁に於て生命此の地に曳くも 0 、誰れかそ 0 往昔榮華の名殘を止めたる、「リジ アムの古壁に古を忍はざるものあらむ、ベト一フルカがデオクレシア に於て本素に於て何者をか殘せり、明治今日の世を捕〈其のセ「ン ダリーなるものを剥き去れよ、若しくは此の國民を滅し去れよ、殘 , の古堂に、無限の感に沈みしを見るも、此の地の歴史、心あるも る處何者そ、われは其 0 殘るもの、甚た少きを恐る、殘るも 0 、少のをして奮起せしむるものあるを知る〈し、宜なり、思想再生の氣 きは國民 0 耻なり、希くは空しく死せさらんく這般の問題に心運は此 0 地に起り中世學術 0 中心なりし佛國。 ( リの大學勢衰〈て歐 洲の學權此の國なる。 ( トア、ポロ = ヤ、フィレンツ = に移りしゃ。 を傾けよ、吾人不敏と雖も少しく盡くす處あらん事を願ふ、調ふ彼 の自然の = ッ ~ , = なる空漠 ~ たる處に向はん、此れ實 0 實なれ凡そ一代 0 思想一世 0 事業は一時にしてなる者にあらず、宗敎の改 革が早く十四世紀の頃より其の嫩芽を發したりし如く、此の思想の はなり。 の 一大運動はた遠くより鬱勃として、其の活動ほの見えっゝありしな ( 明治一一十七年二月「文學界」第十四號 ) 時 り、殊に其の活動の根本的思想となれりし文學に於ては早く既に十 利 太 三世紀に於て運動を始めたりしが如し、今われ等は其の曉星とし 以 て、ダンテ、アリギヱリーを擧げんとす、ダンテが其のヴィター ヌオヴァが靑春の頃の作なりとすれば、此れ十三世紀の終末にし 3 3 て、ポッカチオが生れしは千三百十三年、此の間僅かに數十年を出 以太利盛時の文學
4 7 破滅は又た幸輻を里見の家に臨らせたるなり。凡て是等の錯綜せる ームズトの神、アハメルの神ありし如く、イスフェルのむかしに、 顯著なると顯著ならざると、一 哲理の外に、晃々としてこの大作を輝かすものこそあれ。そを何ぞ 工ホバと惡魔とを對比せし如く、 と日ふに、伏姫の純潔なり。始めより終りまでの純潔なり。その純神と多との區別あり、あらざるとに拘らず、彼の元を二にするの 潔の誠實は通じて非類の八房を成佛せしめしは、奪ふとしと言ふも性は此觀念に離れざるなり。凡そ詩歌あるの國に於て鬼といふ字の 愚ろかなり。 あらざるはなかるべく、禪といふ字のあらざるはなかるべし、コメ ディ或は鬼訷なきの國にも發逹するを得ん、ト一フゼヂイに至りては 0 0 わが伏姫を論ぜんと企てしは、その純潔を觀察するに止め必らず鬼訷なきの國に興るべからず、シュレーゲルも論じて古神學 など んとせしなるに、圖らずも馬琴の哲學に入りて因果論等をほは希臘悲劇の要素なりとは言へり、げにやノホクルス以下の名什 も、彼國に鬼訷なかりせば恐らくは傳ふる程の物にてはあらざりし のめかすに至りぬ。淺學の身にして文學上の大間題に蹈入り たるは深く自ら恥づるところ。讀者もしこの心して讀まざれならむ。 たが フェーリイあり、ヱンゼルあり、サイレンあり、スヒンクスあ ば、或は我が精に違はむことを恐る。 ( 明治二十五年十月八日「白表女學」三二九號 ) り、或は空中に棲めるものとし、或は地上の或奥遠なるところに住 めりとなす、共に他界に對する觀念なり、遠近は世界の廣狹により て差ありしのみ。或は聖美なるもの、或は毒惡なるもの、或は慈仁 なるもの、或は獰猛なるもの、宗敎の變遷、思想の進逹に從ひて其 形を異にするが如しと雖、要するに二岐に分れたる同根の觀念な ギョオテのメヒストフェリスを捕捉して其曲中に人らしむるや、 必らずしも斯の如き他界の靈物實存せりと信ぜしにもあらざるべ し、余が他界に對する麒念を論じて、詩歌の世界に鬼祚を用ふる事 を言ふも、強いて他界の鬼神を惑信するにはあらず。詩歌の世界は 悲劇必らずしも悲を以て旨とせず、厭世必らずしも厭を以て趣と せず、別に一種の拔く可からざる他界に對する自然の観念の存する想像の世界にして、靈あらざるものに靈ありとし、人ならざるもの に人の如くならしめ、實ならざるものを實なるが如くし、見るべか ものあり、この觀念は以て悲劇を人心の情世界に愬へしめ、厭世を らざるものを見るべきものとするは、此世界の常なり、萬有敎あら 高遠なる思想家に迎へしむ、人間ありてよりこの念なきはあら ざる前に此世界には既に萬有敎の趣味あり、形而上の哲學あらざる ず、或は遠く或は近く、大なるものあり、小なるものあり、宗敎こ 前に此世界には既に形而上の覿念あり、想像は必らずしもダニヱル の欟念の上に立ち、詩想この觀念の糧に活く。 この觀念は世界の普通性なり、而してこの觀念あると共に離る可の夢の如くに未來を曉らしむるものにあらざるも、朝に暮に眼前の チュアリズム 無用のものにはあらざ 事に齷齪たる實世界の動物が冷嘲する如く、 からざるものは、この觀念に二元性ある事なり。或は善惡と云ひ、 るなり。漠々茫々たる天地、英國の大詩人をして、 或は陰陽と言ひ、或は光暗と云ふが如き、ベルシャのむかしに、ア 他界に對する觀念 きた
ーネスト・ダウソンーを寄稿。 大正六年 ( 一九一七 ) 四十五歳 三十五歳 ジェームスの『千載一遇』の譯をアルス 明治四十年 ( 一九〇七 ) 五月、「明星」に、談話「英國詩界の近状」譯『英國近代傑作集』『 = 「ソン論文集』より出版。 を發表。十二月、「趣味」に、回想「『文學 ( 國民文庫刊行會 ) 、デフォーの『ロビンソン 大正十一年 ( 一九二一 I) 五十歳 漂流記』 ( 冨山房 ) 。 界』時代」を寄稿。 八月、チャールス一フム原著の註釋『エリヤ 大正七年 ( 一九一八 ) 四十六歳 三十六歳 明治四十一年 ( 一九〇八 ) 隨筆選集』を研究瓧から出版。 一月、「明星」に、評論「如何にして藝術九月、六日より十一日まで「讀賣新聞」に 大正十一一年 ( 一九二三 ) 五十一歳 文壇昔話として「『文學界』の頃」を迚載。 的劇場を維持すべきか」を發表。二月、 「明星」に「近英詩話」を發表。四月、「明 0 , ラ , ドの『靑春』、 ( アディの『歸ら十一一月、『英文學印象記』をア ~ スから出 版。ハアディの『影』を研究瓧から、スイ ぬ春』『近代英詩選』 ( アルス ) 。 星」に、詩話「クリスティナ。ロセッティ」 フトの『ガリバー旅行記』の譯を冨山房か を發表。 大正八年 ( 一九一九 ) 四十七歳 ら出版。 三十七蔵 明治四十一一年 ( 一九〇九 ) 七月、「中央文學」 ( 文豪追想號 ) に、評論 大正十三年 ( 一九二四 ) 五十一一歳 十一月、「英語靑年」に「西の京より」を褓北村透谷」を寄稿。「ンスフィール 十月、文藝春秋瓧の「文藝講座」に「近英 ドの『密月』の譯をアルスより出版。 四號にわたって連載。 小説」を寄稿。十二月、「英語靑年」に、 大正九年 ( 一九二〇 ) 四十八歳 三十九歳 明治四十四年 ( 一九一一 ) 「本田さんの計に接して」を寄稿。 七月、「英語靑年」に「ウィリアム・メイ五月、「英語文學」に「『イエ 0 オ・プ ' ク』大正十五年 ( 一九二六 ) 五十四歳 の當時」を寄稿。ワイルドの『新生』 ( 上・昭和元 クピ 1 ス・サッカリ」を害稿。 ラムの『エリヤ隨筆小集』 ( 研究社 ) を出 下 ) の譯をアルスより出版。 明治四十五年 ( 一九一二 ) 四十歳 版。 大正元 大正十年 ( 一九二一 ) 四十九蔵 九月、『最近英文學研究』を研究瓧より出 昭和一一年 ( 一九二七 ) 五十五歳 一月、「英語文學」に、「九年代變遷期の英 三月、改造瓧の「文學月報」第三號に、「島 詩人」を寄稿。四月、「英語文學」に「エ 崎藤村君」を寄稿。メレディスの『我意の 啀大正五年 ( 一九一六 ) 四十四歳 ドワアド・フィッジェラルド」「ジョン サ , 力」 = 作『虚榮の市』 ( 上・下 ) ( 國民文デ = ヴィ ' ドソ》」を寄稿。五月、「英語人』 ( 上・下 ) 、「一イフ , ドの『チ ~ 、一ス』 ( 上・下 ) 、ワイルドの『ドリアングレエの 庫刊行會 ) 、キ , プリング作『彼等』 ( 研究社 ) 文學」に、「ウィリアム・アーネスト・ ( 一 3 レエ」を寄稿。六月、「英語文學」に、「ア晝像』 ( 國民文庫刊行會 ) 。 を出版。
There are more things in heaven and earth. 新敎勃興後の基督敎國は一般に新活氣を文學に加へたり、其然る Horatio. 所以のものは基督のみ是を致せしにあらず、惡も與りて力あるな へプンリー・・ Than are dreamt 0 ( in your philosophy. り、言を換へて云へば、聖善なる天力に對する欟念も、邪惡な サタニック・パワー と畏れしめたるもの、豈偶然ならんや。 る魔力も共に人間の観念の區域を擴開したるものにして、一あ 「ハムレット」の幽靈は實に此觀念、この畏怖より、シヱークスピ って他なかるべからず、基督の性は東洋の唯心的思想が逹せしむ せいわん アの懷裡に産れたり。其來るや極めて嚴肅に極めて妻怖なり、恰も る能はざるところに觀念を及さしむると共に、サタンの魔性は東洋 來らざるべからざる時に來るが如く、其去るや極めて靜寂なり、極の惡鬼思想の到らざるところまで觀念を逹せしむ。一禪敎の裡面は めて端整なり、恰も去らざる可からざる時に去るが如し。來るや他 一魔敎なり、多訷敎の裡面は印ち多鬼敎なり、一神敎には中心の權 界より歩み來りたる跡を隱さず、去るや他界に去るの意を蔽はず、 あるが故に中心の善美あり、是と同時に一魔敎にも中心の統御ある 極めて熱熾なる悲劇の眞中に、極めて幽玄なる光景を描き出す、が故に中心の毒惡あり、一のポジチープに對して一のネガチープあ に於て平生幽靈を笑ふものと雖、悚然として人界以外に畏るべきも り、多のポジチープに對して多のネガチープあるは當然の理なり。 のあるを識り、惡の祕し遂ぐべからざるを悟る。彼一篇より幽靈の斯の如くなるが故に、歐洲諸國に行はるゝ詩想は日本に求むべから 作意を除き去らばいかに、恐らくはシヱーキス。ヒーア遂に今日のシず、善美なるものに對する觀念も醜惡なるものに對する念も、中 ヱーキスピーアにあらざりしなるべし。 心を有せず焦點を有せざるが故に、遠大高深なる鬼溿を詩想中に産 長足の進歩をなせる近世の理學は、詩歌の想像を殺したりといふみ出す事を得ざるなり。 ものあれど、 ハイロンの「マンフレッド」、ギョオテの「フォウス 漫然語を爲すものあり、日く、我國にも幽玄高妙なる想詩を構ふ ト」などは實に理學の外に超絶したるものにあらずや、毒鬼を假來るに足るべき古禪學あるにあらずやと。余を以て是を見れば、我國 り、自由自在にネゲイションの毒藥を働かせ、風雷の如き自然力をの古學は或は俗を喜ばすべき奇異譚を編むには好材料たるべき ミステリ 縱にする鬼神を使役して、アルプス山に玄妙なる想像を構へたるも も、到底所謂幽玄を本とする想詩を構ふるに適するものならず。其 の、何ぞ理學の盛ならざりし時代の詩人に異ならむ、その異なると第一の理由は、到底今日を以て往古の古禪學を用ふる事能はざるこ ころを尋ぬれば、古代鬼と近世鬼との別あるのみ。詩の世界はと是なり、印ち古訷の詩歌に人るは少くも古に對する信仰ある時 人間界の實象のみの占領すべきものにあらず、晝を前にし夜を後に代にあらざれば不可なり、「フォウスト」を構へたるギョオテは近 念し、天を上にし地を下にする無邊無量無方の娑婆は、印ち詩の世界世の鬼訷を中古の物語に應用したるなり、古代の鬼を近代の物語 るなり、その中に遍滿するものを日月星辰の見るべきものゝみにあら に箝めて玄妙なる識想を愬へんとするは、到底爲すべからざる事な 0 0 0 0 對ずとするは、自然の憶度なり。生死は人の疑ふところ、靈魂は人のり。再言すれげ我國の古紳は既に文學上に於て死神なり、いかなる ジニャスの力を以ても復活せしむべからざればなり。其第二の理由 界惑ふところ、この疑惑を以て三千世界に對する憶度に加ふれば、自 からにして他界を麒念せずんばあらず。地獄を説き天堂を談ずるは、我國の古祁は靈躰にあらずして人間なること是なり、出沒自在 は、小乘的宗敎家の癡夢とのみ思ふなかれ、詩想の上に於て地獄との禪通力あるにあらず、宇宙萬有を統治するものにあらす、報罰の 5 7 天堂に對する念ほど緊要なるものはあらざるなり。 全を掌握するものにあらず、其天界に領有するところ多からず、 アーネスト
97 明治文學管見 を以て思想界に、若し勢力の尤も大なるものあらば、其は國民に向吾人は輻澤翁を以て、明治に於て始めて平民間に傳道したる預一一一口名 って極めて平易なる敎理を説く預言者なるべし。再言すれば敢て國なりと認む、彼を以て完全なる預言者なりと言ふにはあらず。 てき 民を率ゐて或處にまで逹せんとする的の預言者は、斯かる時代に希 輻澤翁には吾人、「純然たる時代の驕兒」なる名稱を呈するを憚 ふ可からず。巧に國民の趨向に投じ、詳かに其の傾くところに從らず。彼は舊世界に生れながら、徹頭徹尾、舊世界を抛げたる人な てき ひ、或意味より言はゞ國民の機嫌を取ることを主眼とする的の思想 り。彼は新世界に於て擴大なる領地を有すると雖、その指の一本す 家より多くを得る能はず。爰に於て吾人は小説戲文界に於て、假名らも舊世界の中に置かざりしなり。彼は平隱なる大改革家なり、然 垣魯文翁の姓名を沒する能はず。更に高品なる戲文家としては成島れども彼の改革は寧ろ外部の改革にして、國民の理想を嚮導したる 柳北翁を推さゞるべからず。蓋し魯文翁の如きは徳川時代の戯作者ものにあらず。此時に當って輻澤珉と相對して、一方の思想界を占 の後を襲ぎて、而して此の混沌時代にありて放縱を極めたるものゝ 領したるものを、敬宇先生とす。 み。柳北翁に至っては純乎たる混沌時代の産物にして、天下の道義 敬宇先生は改革家にあらず、適用家なり。靜和なる保守家にし を嘲弄し、世道人心を抛擲して、うろたへたる風流に身をもちくづ て、然も泰西の文物を注入するに力を效せし人なり。彼の中には東 したるものなり。吾人は敢て魯文柳北二翁を詰責するものにあら西の文明が狹き意味に於て相調和しつ長あるなり。彼は儒敎道敎を ず、唯だ斯かる混沌時代にありて、指揮者をもたざる國民の思想に其の末路に救ひたると共に、一方に於ては泰西の化育を適用した 投合すべきものは、悲しくも斯る種類の文學なることを明言するの り。彼は其の需敎的支那思想を以てスマイルスの「自助論」を崇 み。 したり。彼に於ては正直なる採擇あり、熱心なる事業はなし、温和 かっ 眼を一方に轉ずれば、彼三田翁が着々として思想界に於ける領地なる崇敬はあり、執着なる崇拜はなし。彼をして明治の革命の迷兒 とならしめざるものは、此適用、此採擇、此崇敬あればなり。多數 を擴げ行くを見るなり。文人としての彼は孳々として物質的知識の 進逹を助けたり、彼は泰西の文物に心醉したるものにはあらずとすの漢學思想を主意とする學者の中に挺立して、能く革命の氣運に馴 るも、泰西の外觀的文明を確かに傳道すべきものと信じたりしと覺致し、明治の思想の建設に與って大功ありしものは、實に斯る特性 あればなり。改革家として敬宇先生は無論偉大なる人物にあらざる ゅ。敎師としての彼は實用經濟の道を開きて、人材の泉源を造り、 社會各般の機務に應ずべき用意を嚴にせり。故に泰西文明の思想界も、保守家としての敬宇先生は、少くも思想界の一偉人なり。舊世 に於ける密雲は一たび彼の上に簇まりて、而して後八方に散じた界と新世界とは、彼の中にありて、奇有なる調和を保つことを得た り。彼は實に平民に對する預言者の張本人なり。前號にも言ひし如 輻澤翁と敬宇先生とは新舊一一大潮流の尤も視易き標本なり、吾人 、維新の革命は前古未曾有の革命にして、精の自由を公共的に 振分けんとする革命にてあれば、此際に於て尤も多く時代に需めらは極めて疎略なる評論を以て此二偉人を去らんとす。爰に至って吾 るべきは、此目的に適ひたるものなるが故に、其第一着として三人は眼を轉じて、政治界の變遷を麒察せざるべからず。 田翁は皇天の召に應じたるものなり。然れども吾人を以て輻澤翁を 四、政治上の變遷 崇拜するものと誤解すること勿れ、吾人は公平に歴史を研究せんと するものなり、感情は吾人の此場合に於て友とするものにあらず、 族長制度の眞相は蛛網なり。その中心に於て、その制度に適す